それから夏休みが明けるまで、響は部室に行かなかった。
 恭平と香里奈の二人がいるところに、のこのこと行きたくないと考えたからだが、恭平と顔を合わせたくないからでもあった。以前と同様に恭平のほうからも連絡はない。日常的に連絡を取り合うような仲ではないものの、口論までしてその無精さは、やはり見限られたのだと思えなくもない。言い返すことは何もないのだと思い知らされて、改めて落ち込んだ。

 夏休みは終わりを迎え、響は久しぶりに登校した。ホームルーム前の教室は、様々な話題で盛り上がっている様子で、一ヶ月半ぶりにクラスメイトと顔を合わせたせいか、みなどことなくそわそわとしている。
「香里奈の見た?」
「見た! めっちゃかっこいいよね」
「何回も見ちゃった」
「学祭に出るんだよね? こんな身近で会えるのも今のうちかもよ」
「将来自慢できるね」
 そわそわとしている原因は、久しぶりだからと言うよりも、別の理由があるからのようだった。

「よお、響!」
「香里奈のやつ見た?」
 北田と弓野が響の机を囲んだ。
「なに? 見てない」
「マジ? 南波と仲良いのに?」
 南波と聞いて胃がきゅっと締め付けられた。
 噂話の情報から推してもしかしたらと思っていたが、やはり間違いない。香里奈の言葉通り、恭平とバンドを組んで曲の投稿を始めたのだ。
「忙しくて連絡とってなかったんだ。なに?」
「これだよ」
 弓野がスマホ画面を向けてきた。
 ああ。見たくない──でも見たい。
 思わずつぶった目を、ゆっくりと開けた。

「なにこれ?」
「香里奈だよ。オリジナル曲でダンスと歌。めっちゃ良くない?」
「しかもこれ、南波が作ったんだってよ。あいつこんなことできんだな。マジすげー」
 画面には、香里奈が五人のバックダンサーとともに、巧みにヒップホップダンスをしている映像が映っていた。
 Kyoの曲ではない。響の知らない曲だった。香里奈が歌っている。
 河原とビル裏でダンスしている映像は、カットの切り替えは少ないものの、拙いながらもセンスよく編集されていた。
「あ、MVは西川先輩な。趣味でこういうの作ってるんだって。香里奈の人脈も凄いよな」
「周りでできる人を探してくる嗅覚が半端ない」
「な。南波が曲作れるなんて俺らですら知らんかったのに」
 バンドサウンドだがキーボードがメインのダンスミュージックで、Kyoらしさが垣間見えつつも、これまでの楽曲とは違って、香里奈の声にとても合うように作られていた。
「香里奈歌うめー」
「ダンスもプロ並。バックダンサーで匹敵してんの勇斗くらい?」
「この絡み見ると、やっぱ付き合ってんだなって思うよな」
「わかる。一瞬脈ありかと思ったけど、こんなイチャラブ見せつけられたら無理だわ」
「お前なんか最初からお呼びじゃねーよ」
「南波と三人でつるんでたから、勇斗も彼氏じゃないと思うじゃん」
「なんでそうなんの? 曲作ってる南波と何度も顔合わせなきゃいけねーから、二人きりになりたくないだけだろ。手を出す度胸なんてねーだろうけど」
「確かに」北田が笑った。

 担任の大井田が入ってきたので、北田と弓野も「やべ」と言って慌てて自席に戻った。
 恭平は休みなのか、まだ登校していない。

 夏休みの間、香里奈と一緒にいた理由は新しく曲を作るためだったらしい。しかも二人きりではなく勇斗も一緒で、響が顔を合わせたときは、たまたま二人でいただけのようだった。
 しかし香里奈は確かに言っていた。『Kyoと組むことになった』と。『私の歌を気にいってくれて』と、はっきり言っていた──

 ──言っていたけど、バンドを組むとまでは言ってない。『アルグレみたいに』と言うのも『高校で投稿始めたらデビューも遠くないかも』と、ただ可能性を言っていただけで、自分たちがどうこうという物言いではなかった。

 響はそれに思い至り、頭が混乱した。
 勘違いだったのか、それともこれは取っ掛かりで、これから二人でバンドを組むことになるのだろうか。

「どうした河瀬?」
 大井田の声でハッとする。
 思わず立ち上がってしまっていたようだ。
「顔色が悪いな。体調でも悪いのか?」
「……はい。朝からちょっと……」
「保健室に行くか?」
「はい」
 響はふらふらと教室を出ていった。

 確かに体調が悪い。歩いていたら目がチカチカとしてきた。ふと窓の外を見ると、青空が眩しすぎて見ていられず、思わず目を逸らした。貧血なのか、頭が異様に重く感じられる。
 階段の手前で立ち止まり、大井田に言われたように保健室へ向かおうとしたが、なぜか足は部室のほうへ向かった。
 これではサボりだ。しかし、保健室のベッドで横になったら思い悩んでしまいそうだった。ギターを弾いて考えを振り払ったほうが、よっぽど療養になると思えた。

 部室のドアノブに手をかけたとき、かすかに物音がした。
 恭平は欠席のはずだ。教室には来ていないのだからと考えて、部室には来ているかもしれないとハッとする。
 ドアノブからゆっくりと手を離し、足音がしないように身体の向きを変えた。
 今にも去ろうとして足を踏み出した瞬間に、ドアの開く音が耳に飛び込んだ。
「響!」
 思わず身体が強張り、足がすくむ。
「待てって」
 だらだらと汗が出る。冷静に冷静にと、心の中で何度も繰り返してから、ゆっくりと恭平の方へ振り向いた。
「ダンスのMV見たよ。あんなのも作れるんだね」
「……葉山さんとは、バンドを組むわけじゃない。頼まれたけどはっきり断った。それでもしつこく頼まれたから、仕方なく別に曲を作ったんだ」
 恭平は珍しく神妙な表情で、言葉を探している様子を見せた。
「本当は響以外に歌ってほしくはないんだ」
「それはKawaseの弟だから……」
「響のことを、Kawaseさんの弟だと意識したことは一度もない。それに、俺は作曲するために色んなボカロPを聞いて研究しているから、特別にKawaseさんのファンというわけではない」
「でもボカロはレンなんだから、女性ボーカルのほうが……」
「響の声を想定したらレンが近かっただけで、俺は響に歌ってもらいたいんだ」
「俺に?」
「響以外にいない」
「うそ……だって葉山さんが……」
「俺とバンドを組んでくれないか? 部活でやってる今のコピーバンドとは別に、俺の曲で」
「恭平とバンド? 俺が?」
「それが俺の唯一の望みだ」
「俺がボーカル?」
 声が震えてしまう。
「そう。響が承諾してくれるなら」
「ギタリストだよ?」
「それでも、ボーカルはお前以外にいない」
 目頭がじわっと熱くなる。
「下手くそなのに?」
「外からだが聞いた。お前の歌は期待以上だった。声に惚れていたから、技量は構わないと思っていたけど、Kawaseさんが言っていた通り、歌の技術も並じゃなかった」
 鼻の奥がツンとして、視界に映っている恭平の姿がぼやけ始めた。
「葉山さんだってプロになれるくらいのレベルだよ」
「お前の声がいい。その声で歌って欲しい」

 聞きたかった言葉を、恭平が言ってくれた。歌って欲しいと、お前以外にいないんだと言ってくれた。
 あのとき、湊に言われたかった言葉を、恭平が言ってくれた。

 耐えられないくらいに嗚咽がのぼってきた。立っていることができず、ふらふらと足がもつれたら、恭平が支えてくれた。流れる涙を見られまいとして俯くと、恭平が優しく背中を撫でてくれた。