目が覚めると朝だった。既に10時を回っている。慌てて飛び起き、階下へ下りて母に聞くと、兄は友人との約束で出かけたばかりだと言う。恭平は、昨夜父に自宅まで無事に送り届けてもらえたらしい。湊の部屋で眠っていたのに全く気がつかなかった。

 朝食兼昼食を済ませて学校へと向かう。部室に着くと、驚いたことに珍しく北田と弓野が練習をしていた。
「あれ? 弓野何弾いてんの?」
「『ダンスホール』」
「学祭の曲を練習しろよ」
「だからやってんじゃん」
「ミセスは無理って言ってなかったっけ?」
「香里奈たちがダンスするから、そのバックで弾こうかって話になって」
「聞いてねーよ」
「あれ? まじ?」
 横にいた北田が驚いた顔を向ける。
「香里奈が南波に言っとくって」
「それいつの話?」
 響が聞いたタイミングで、部室のドアが開いて香里奈と恭平が入ってきた。珍しい組み合わせだ。と言うよりも初めてではないだろうか。

「北田、弓野、今日もダンス練見に来る?」
 入るなりかけてきた香里奈の声に、北田がすぐさま反応した。
「あ、行く行く! 行こうぜ」
 北田が相棒の弓野に誘いの顔を向ける。
「俺は……練習しないと」
「由美が来て欲しいって言ってたよ」
「まじ?」
 嬉しそうな顔になり、そわそわとし始めた。
「ベースの練習なら家でもできるでしょ? ダンスは体育館じゃなきゃできない」
 香里奈の言葉に決心したのか、弓野はベースを片付け始める。
「じゃ、またね」
 香里奈は北田たちを引き連れて颯爽と去っていった。

「おいおい、あんなんで学祭間に合うのか?」
 ようやく練習を始めたと思ったのに。響は呆れた顔を浮かべざるを得ない。
 そんな響を尻目に、キーボードの前の椅子に座ってい埃を拭いていた恭平は、その手を止めていきなり弾き始めた。
 『急転直下アサルトボーイ』のようだ。
「恭平、おまえ、そんなのも弾けんの? もうどこにも残ってないだろ?」
「昨日Kawaseさんからデータもらった」
「まじ?」
 削除した曲のデータを他人に渡すなんて、プライドの高い湊がそこまでするということは、よっぽど恭平を気に入ったらしい。
「俺はやっぱりレンバージョンが好みだ」
「ああ、昨日も言ってたな。俺もそう思う」
「だろ? Kawaseさんはミクをよく使ってるけど」
「恭平はレンだもんな」
 聞いているうちに苦い過去を思い出して、響は気分が沈んできた。
 湊に歌って聞かせるために練習していた曲とは、まさにこの『急転直下アサルトボーイ』だったのだ。そのときはボカロのどれがいいかというよりも、自分の声こそが一番だとの自信に満ちていた。それを否定されたときのショックがまざまざと思い出されて、聞いているのが辛くなってきた。

「これ、歌詞どんなだったっけ?」
 演奏しながら問う恭平の言葉に、ハッとして意識をそちらに向ける。
「なに?」
「Cパートのここ」
「ああ『ひどく憂鬱なシチュエーション 華に焦がれ 太陽に焦がれ 君の説に絶対同調』だよ」
「そうだっけ? 『君に焦がれ 太陽に焦がれ 彼方の説に絶対同調』じゃなかったっけ?」
「何言ってんだ。リズム狂うだろ」
「狂わないって。そうだよ俺のが合ってる」
 恭平は鼻歌でCパートを歌う。
「違うって! 『君の説に絶対同調』じゃないと入りがおかしくなる」
 あんだけ練習したのに間違っているはずがない、と声を荒げたら、恭平のほうも負けないとばかりに不満そうな声を上げた。
「昨日聴き込んだんだぞ?」
「たかが一日だろ? 俺なんて何日も聴き込んでる」
「でも」そう言って恭平ははっきりと歌った。「ほら、合ってる」
「違うって言ってんだろ? 『君の』の前に一拍入るんだよ」
 伝わらず苛々としてきた響は、鼻歌ではなくはっきりと明瞭に歌って聞かせた。
 ドヤ顔で恭平の方を見ると、キーボードを弾く手を止めて身体を硬直させている。
 驚いた様子を見て、ようやく自分の間違いを自覚したかと得意になった響だが、微動だにせず、震えてさえいる恭平を見て心配になった。
「おい、どうした?」
 声をかけても反応しない。
「恭平?」
 側に近づいて恭平の肩を引き、こちらに振り向かせる。
 響は驚いた。恭平の目は潤み、唇を震わせていた。
「どうした?」
 体調でも悪くなったのかと、目線を合わせるようにかがみ込む。
 するといきなり両肩を掴まれた。
「お前の声で俺を歌ってくれないか?」

 ──は?

 二人とも見合ったまま、時が止まったようになった。

「あ……」
 恭平が狼狽えたように言葉を探す。
「俺の曲を……」
「何言ってんの? 俺はギタリストだ」
「わかってる。でも歌って欲しい」
「いや、歌は下手だから……」
「そんなわけない!」
 いきなり怒鳴られて面食らう。
「お前は天才だ! 他の楽器とは違って、歌は上手いだけじゃだ。天性の声が必要なんだ」
「耳がおかしいんじゃないか? 普通の声だよ。それに声が良くても下手なら意味ないだろ」
「いや、お前は技術もある。ギターも上手いが、歌はそれ以上のはずだ」
「いやいや、下手だって」
「それは誤解だ」
「誤解ってなにが?」
「Kawaseさんに言われたんだろ?」
 響は青ざめた。
 湊から聞いて、あの黒歴史を知っているのだろうかと動揺した。
「歌ったら否定されたんじゃないのか?」
「なんで知ってるんだ?」
「やっぱり……頑なに歌わないから何か理由があるんじゃないかと思ったんだ」
「兄貴から聞いたのか?」
「聞いてない。Kawaseさんは、なぜ響が歌わないのか知らないようだった。『上手いんだからボーカルやればいいのに』としか言ってない」
 恭平のその言葉にショックを受けた。湊の言葉で散々思い悩み、性格が歪むほど苦悩したのに、いまさら正反対のことを言うなんて、バカにしてるか舐めてるのかと、怒りで目の前が暗くなった。
「俺は歌わない」
「なんでだよ!」
「あんな少しで上手いか下手かわかるかよ?」
「わかる。というか下手でも構わない」
「は? 何言ってんの? じゃあ北田でいいじゃん」
「北田でいいわけないだろ? お前の声が好きなんだから!」
 恭平は珍しくも興奮している。
「初めて響の声を聞いたとき鳥肌が立った。響の声がたまらなく好きなんだ。誰よりも、どんな声よりも」
「俺の声が?」
 響の問いに恭平は真剣な表情で大きく頷く。
「今喋ってる声も?」
「ああ」
「まじで? こんな声が?」
「ああ。もうここまで言ったから言うけど、聞くたびにゾクゾクする」
「ゾクゾクって……」
 恥ずかしそうに顔を赤らめている恭平を見て、響も伝染して頬が染まる。
「作った曲を響に歌ってもらえたらってずっと願ってた」
「俺に?」
「お前以外に歌って欲しくない」
 響の動揺は頂点に達した。
 好きなアーティストに褒められ、歌って欲しいと言われ、ゾクゾクするほど声が好きだとまで言われては、舞い上がるどころではない。愛の告白でもされた気分になり、顔から火が出そうだった。
 しかし、勝手な思い込みで勝手なことを言う恭平に対して、同時に怒りも湧いた。
 ──俺の気持ちも知らないで!
 知るはずもないのに理不尽にもそう考えて、元々頑なだった気持ちがさらに強化した。

「何をどう言われても歌わない!」
「さっき歌ったじゃないか」
「あんなの歌ったうちに入らないだろ?」
「……入る」
「ろくに聞いてもいないくせに」
「じゃあ歌ってみてくれないか?」
「嫌だ」
「どうやったら歌ってくれるんだ? 録音するわけじゃない。俺の前で少し歌ってみてくれるだけでいい」
「バカだな! それが一番嫌だよ!」
 恭平は意表を突かれたように、目と口を丸く開けて固まった。
 ──それくらい気がつけよ。
 天性の声だとしても、歌の上手さには無関係だ。聞いたら失望する。それをわかってて歌えるはずがない。思い込みで期待されてはなおのこと、恭平に一番聞いてもらいたくない。

 絶対に歌ってやるものかと心に決めて、勢いのまま吐き捨てた。
「そんなにボーカルが必要なら、葉山さんとか別の人にしろよ」
「……わかった」
 呆然としていた恭平は、肩を落とした様子で部室から出ていった。