バスに40分揺られ、最寄りのバス停で降車し、歩いて5分。自宅についた。
あのまま電車を待っていた方が早く帰れたことに、冷静になったあとで気がついたが、ここまで来てしまった今ではもう手遅れだ。
玄関を開けても恭平はグズグズとしていたため、背中を押して、無理やり自宅に上がらせた。
「とりあえず入れよ。ここまで来たんだから」
廊下を進んでリビングへ向かい、ドアを開けたら、驚いたことに、そこにいたのは母ではなく兄だった。
「サプライズ!」
「え? 兄貴? なんで?」
「さあ、なんででしょう? あれ? 友達?」
恭平も目を丸くしている。
「……こんばんは」
「響帰ってきた?」リビング奥のキッチンから母の声。
「ただいま」
「夕飯が冷めるよ」母がキッチンテーブルに料理を並び終えて顔を上げた。「あ、友達?」
「こんばんは」恭平の声は消え入りそうなほど小さい。
「よかったらどうぞ。ここに座って」
母は椅子をひとつ引いて、恭平に座るように促した。
「湊がいきなり帰ってきたものだから、張り切りすぎたの。いくら男二人兄弟だと言ってもさすがに余ると思って困っていたけど、友達が来てくれて助かったわ」
「いえ、でも悪いですから。結構です」
「親御さんのお夕食が待ってるの?」
「いえ、家は父だけで、夜勤のある仕事なので、夕食は自分で……」
「だったら、なおさら食べてって! 食べないなら持って帰ってもらう」
その言葉でようやく応じる気になったようだ。
恭平は食事のマナーが完璧で、どこかのお坊ちゃまかと思うほど品が良い。普段から垣間見えていたことだったから、片親で一人っ子と聞いて驚いた。
自宅へ帰っても一人きりなら寂しいだろう。だから部室に入り浸っているのだろうかと、考えを巡らせた。
恭平を自宅に送ってもらうという話を母にすると、笑顔で承諾してくれたが、父から遅くなると連絡が入っていたそうで、帰宅は何時になるかわからないらしい。
湊が帰ってきたのは久しぶりだったからか、母は大はしゃぎで、響も嬉しかったので会話は弾み、賑やかな食卓となった。
食事を終えて、恭平を連れて自室へ向かおうとしたとき、「俺も」と言って兄もついてきた。
来ないのなら呼ぼうと考えていたため、ついてくるならこのタイミングでと、兄に声をかけた。
「兄貴、恭平もボカロPなんだよ」
「へえ」湊は恭平を見る。
「ニコ動でマイリス500以上だし、2万再生超えてる曲もある」
「えっ……」
気のなさそうだった湊の表情が一転して驚きに満ち、恭平が慌てた様子で割って入る。
「いや、たまたまです」
「たまたまでそんなにいくかよ。聞いてみたい」
湊は自室のドアの前でこちらへ振り向き手招きをした。湊の部屋の方へ来いということだ。
響は頷き、おどおどとしている恭平の腕を掴んで湊の後を追う。そのとき恭平に耳打ちされた。
「誰にも言わないって言ったくせに」
「兄貴は別だろ? 同じボカロPなんだし」
「関係ない。嘘つきめ」
「……ごめん」
恭平の言う通りだ。しかしこれは例外だと思っていたため、謝罪の言葉とは裏腹に悪いとは思っていなかった。
無理やり恭平を連れてきて、申し訳なく思っていたので、湊の部屋へ入れて、思う存分機材を見てもらおうと考えていたものの、機材どころか本人がいたのである。ボカロP同士を引き合わせる滅多にない機会だ。恭平にとってこれ以上に嬉しいことはないだろうと、湊にだけは勝手ながらもKyoのことをバラすつもりだった。
部屋へ入った響は恭平を促して、壁際に置かれたソファに並んで腰を下ろした。湊は部屋のど真ん中に置かれたパソコンデスクに向かって、パソコンを起動させている。
恭平はおそるおそるといった様子で部屋を見渡し、何かに目を留めたのか、響に小声で話しかけてきた。
「ベースがある」
「うん。でも恭平の方が上手いよ。あ、あれ一番最初に買ったギター」壁にかけてあるギターを指し示す。
「ギブソンかよ」
「父さんが昔弾いてて、買うならギブソンだとか言ってさ」
「すご……」
「まあ、でもフェンダーに買い替えたけど」
「確かにKawaseさんの曲はギブソンよりフェンダーだな……あ、キーボード、俺のと同じだ」
今度は壁際に置かれたキーボードを見て嬉しそうな声を出す。
「兄貴のあれは二台目だよ、確か」
湊がデスクチェアをくるりと回転させてこちらを向いた。
「名前は?」
響は立ち上がって湊の側に寄る。
「アルファベットでKyoだよ」
パソコン画面を覗き込み、指で差し示す。
「それじゃない。……あ、これこれ。マイリス増えてる! 600行くじゃん!」
「へえ。……どれがいいかな」
「これ聴いてよ! 新曲『ゼロ・カウント』」
湊は響をチラリと一瞥し、微笑を浮かべたあと再生ボタンを押した。
ギターが響だと気がつくだろうかと、期待半分、不安半分で湊の聞き入る様子を眺めていた。
しかし一コーラスを終えたあたりでハッと気がついて、恭平の方へ振り向いた。不安そうに肩を縮こませた恭平と目が合い、断りもなく湊にバラして、いきなりこんな状況に追い込んだことに罪悪感が芽生えた。意図かあったにせよ、あとでちゃんと説明して謝罪し直そうと思った。
湊はデスクチェアの背もたれに勢いよく背を預け、感心した顔を恭平に向けた。
「驚いた。万再生どころのレベルじゃない。もっと上がるよ。いつ始めたの?」
「去年です」
「まじ? それでこれかよ。すご!」
湊の反応が好感触だったため響は嬉しくなり、意気揚々と二人の間に割って入る。
「しかも生音なんだよ」
「いや、うん。それも驚いた。このベースラインむちゃくちゃかっこいい。恭平くんが弾いてるの?」
「そうだよ」
「ドラムもいいし。この入りなんてゾクゾクするね」
「だよね!」
「バンド向きだな。二人でバンド組んでるんだろ? 演ってみればいいのに」
「ボーカルもベースも演れるレベルじゃない」
「まじか……てか響が歌えばいいじゃん!」
「は? 俺こそ下手くそだよ」
「何言ってる。てか、このギターもしかしてお前?」
「響ですよ」いつの間にやら近寄っていた恭平が先に答える。
「恭平くんかと思ったけど、ここんとこ、響の癖が出てる。それにエフェクターは俺が改造したやつだ」
「あのBOSSはKawaseさんが改造したんですか?」
「そう。何個か試した中でもわりと気に入ってる。響が欲しいって言うからやったんだ」
「『アンチエキゾチックホール』のときに使ってましたよね?」
驚いたのか、湊は一瞬間を空けた。
「……よくわかったね」
湊はパソコンをCubaseの画面に切り替えて、スピーカーから『アンチエキゾチックホール』流し始めた。
「これが改造前のBOSSで弾いたやつ」
「全然違いますね。今の方がいい」
「そう。やっぱ気に入るまで試してみないと。ちなみにこれも」
今度は別の曲を流す。
「『急転直下アサルトボーイ』! レンバージョンがあるんですか?」
「……よく知ってるね。何年も前に削除した曲なのに」
「ミクよりもレンの方がいいんじゃないかって思ってたんですよ。てことはKawaseさんは作ったうえでミクにしたんですね」
響は驚きの目で恭平を見た。親しくなってきても寡黙で、ハイテンションには縁のない恭平が、熱烈トークをかます響並みに興奮している。こんな姿を見たのは初めてだった。
響がKawaseの弟だと噂が広まったときも何も言わなかったし、これまでこんなファンのような素振りは微塵も見せていなかったのに。
「うわ! この『人間以前』、アレンジどころかキーもメロも違う! Kawaseさんもこうやって試行錯誤しているんですね」
しばらくそうやってボカロ時代の曲で盛り上がったあと、今度はニコ動の画面に切り替えて、Kyoの曲を流しながら湊が質問を浴びせ始めた。最初は緊張していた恭平も、湊が気さくに会話を誘導していたからか、次第にリラックスした様子を見せ、和気あいあいとなっていた。
DTMの専門的な話題に移り、会話についていけなくなった響は、日中の海水浴の疲れもあってソファでまどろみ始めた。
「歌録はないんですか?」
「仁美のがある。……あ、Mistyな」
「いえ、そうではなくて……」
二人の会話が遠のいていく。
響はソファに横になり、そのまま眠ってしまった。
あのまま電車を待っていた方が早く帰れたことに、冷静になったあとで気がついたが、ここまで来てしまった今ではもう手遅れだ。
玄関を開けても恭平はグズグズとしていたため、背中を押して、無理やり自宅に上がらせた。
「とりあえず入れよ。ここまで来たんだから」
廊下を進んでリビングへ向かい、ドアを開けたら、驚いたことに、そこにいたのは母ではなく兄だった。
「サプライズ!」
「え? 兄貴? なんで?」
「さあ、なんででしょう? あれ? 友達?」
恭平も目を丸くしている。
「……こんばんは」
「響帰ってきた?」リビング奥のキッチンから母の声。
「ただいま」
「夕飯が冷めるよ」母がキッチンテーブルに料理を並び終えて顔を上げた。「あ、友達?」
「こんばんは」恭平の声は消え入りそうなほど小さい。
「よかったらどうぞ。ここに座って」
母は椅子をひとつ引いて、恭平に座るように促した。
「湊がいきなり帰ってきたものだから、張り切りすぎたの。いくら男二人兄弟だと言ってもさすがに余ると思って困っていたけど、友達が来てくれて助かったわ」
「いえ、でも悪いですから。結構です」
「親御さんのお夕食が待ってるの?」
「いえ、家は父だけで、夜勤のある仕事なので、夕食は自分で……」
「だったら、なおさら食べてって! 食べないなら持って帰ってもらう」
その言葉でようやく応じる気になったようだ。
恭平は食事のマナーが完璧で、どこかのお坊ちゃまかと思うほど品が良い。普段から垣間見えていたことだったから、片親で一人っ子と聞いて驚いた。
自宅へ帰っても一人きりなら寂しいだろう。だから部室に入り浸っているのだろうかと、考えを巡らせた。
恭平を自宅に送ってもらうという話を母にすると、笑顔で承諾してくれたが、父から遅くなると連絡が入っていたそうで、帰宅は何時になるかわからないらしい。
湊が帰ってきたのは久しぶりだったからか、母は大はしゃぎで、響も嬉しかったので会話は弾み、賑やかな食卓となった。
食事を終えて、恭平を連れて自室へ向かおうとしたとき、「俺も」と言って兄もついてきた。
来ないのなら呼ぼうと考えていたため、ついてくるならこのタイミングでと、兄に声をかけた。
「兄貴、恭平もボカロPなんだよ」
「へえ」湊は恭平を見る。
「ニコ動でマイリス500以上だし、2万再生超えてる曲もある」
「えっ……」
気のなさそうだった湊の表情が一転して驚きに満ち、恭平が慌てた様子で割って入る。
「いや、たまたまです」
「たまたまでそんなにいくかよ。聞いてみたい」
湊は自室のドアの前でこちらへ振り向き手招きをした。湊の部屋の方へ来いということだ。
響は頷き、おどおどとしている恭平の腕を掴んで湊の後を追う。そのとき恭平に耳打ちされた。
「誰にも言わないって言ったくせに」
「兄貴は別だろ? 同じボカロPなんだし」
「関係ない。嘘つきめ」
「……ごめん」
恭平の言う通りだ。しかしこれは例外だと思っていたため、謝罪の言葉とは裏腹に悪いとは思っていなかった。
無理やり恭平を連れてきて、申し訳なく思っていたので、湊の部屋へ入れて、思う存分機材を見てもらおうと考えていたものの、機材どころか本人がいたのである。ボカロP同士を引き合わせる滅多にない機会だ。恭平にとってこれ以上に嬉しいことはないだろうと、湊にだけは勝手ながらもKyoのことをバラすつもりだった。
部屋へ入った響は恭平を促して、壁際に置かれたソファに並んで腰を下ろした。湊は部屋のど真ん中に置かれたパソコンデスクに向かって、パソコンを起動させている。
恭平はおそるおそるといった様子で部屋を見渡し、何かに目を留めたのか、響に小声で話しかけてきた。
「ベースがある」
「うん。でも恭平の方が上手いよ。あ、あれ一番最初に買ったギター」壁にかけてあるギターを指し示す。
「ギブソンかよ」
「父さんが昔弾いてて、買うならギブソンだとか言ってさ」
「すご……」
「まあ、でもフェンダーに買い替えたけど」
「確かにKawaseさんの曲はギブソンよりフェンダーだな……あ、キーボード、俺のと同じだ」
今度は壁際に置かれたキーボードを見て嬉しそうな声を出す。
「兄貴のあれは二台目だよ、確か」
湊がデスクチェアをくるりと回転させてこちらを向いた。
「名前は?」
響は立ち上がって湊の側に寄る。
「アルファベットでKyoだよ」
パソコン画面を覗き込み、指で差し示す。
「それじゃない。……あ、これこれ。マイリス増えてる! 600行くじゃん!」
「へえ。……どれがいいかな」
「これ聴いてよ! 新曲『ゼロ・カウント』」
湊は響をチラリと一瞥し、微笑を浮かべたあと再生ボタンを押した。
ギターが響だと気がつくだろうかと、期待半分、不安半分で湊の聞き入る様子を眺めていた。
しかし一コーラスを終えたあたりでハッと気がついて、恭平の方へ振り向いた。不安そうに肩を縮こませた恭平と目が合い、断りもなく湊にバラして、いきなりこんな状況に追い込んだことに罪悪感が芽生えた。意図かあったにせよ、あとでちゃんと説明して謝罪し直そうと思った。
湊はデスクチェアの背もたれに勢いよく背を預け、感心した顔を恭平に向けた。
「驚いた。万再生どころのレベルじゃない。もっと上がるよ。いつ始めたの?」
「去年です」
「まじ? それでこれかよ。すご!」
湊の反応が好感触だったため響は嬉しくなり、意気揚々と二人の間に割って入る。
「しかも生音なんだよ」
「いや、うん。それも驚いた。このベースラインむちゃくちゃかっこいい。恭平くんが弾いてるの?」
「そうだよ」
「ドラムもいいし。この入りなんてゾクゾクするね」
「だよね!」
「バンド向きだな。二人でバンド組んでるんだろ? 演ってみればいいのに」
「ボーカルもベースも演れるレベルじゃない」
「まじか……てか響が歌えばいいじゃん!」
「は? 俺こそ下手くそだよ」
「何言ってる。てか、このギターもしかしてお前?」
「響ですよ」いつの間にやら近寄っていた恭平が先に答える。
「恭平くんかと思ったけど、ここんとこ、響の癖が出てる。それにエフェクターは俺が改造したやつだ」
「あのBOSSはKawaseさんが改造したんですか?」
「そう。何個か試した中でもわりと気に入ってる。響が欲しいって言うからやったんだ」
「『アンチエキゾチックホール』のときに使ってましたよね?」
驚いたのか、湊は一瞬間を空けた。
「……よくわかったね」
湊はパソコンをCubaseの画面に切り替えて、スピーカーから『アンチエキゾチックホール』流し始めた。
「これが改造前のBOSSで弾いたやつ」
「全然違いますね。今の方がいい」
「そう。やっぱ気に入るまで試してみないと。ちなみにこれも」
今度は別の曲を流す。
「『急転直下アサルトボーイ』! レンバージョンがあるんですか?」
「……よく知ってるね。何年も前に削除した曲なのに」
「ミクよりもレンの方がいいんじゃないかって思ってたんですよ。てことはKawaseさんは作ったうえでミクにしたんですね」
響は驚きの目で恭平を見た。親しくなってきても寡黙で、ハイテンションには縁のない恭平が、熱烈トークをかます響並みに興奮している。こんな姿を見たのは初めてだった。
響がKawaseの弟だと噂が広まったときも何も言わなかったし、これまでこんなファンのような素振りは微塵も見せていなかったのに。
「うわ! この『人間以前』、アレンジどころかキーもメロも違う! Kawaseさんもこうやって試行錯誤しているんですね」
しばらくそうやってボカロ時代の曲で盛り上がったあと、今度はニコ動の画面に切り替えて、Kyoの曲を流しながら湊が質問を浴びせ始めた。最初は緊張していた恭平も、湊が気さくに会話を誘導していたからか、次第にリラックスした様子を見せ、和気あいあいとなっていた。
DTMの専門的な話題に移り、会話についていけなくなった響は、日中の海水浴の疲れもあってソファでまどろみ始めた。
「歌録はないんですか?」
「仁美のがある。……あ、Mistyな」
「いえ、そうではなくて……」
二人の会話が遠のいていく。
響はソファに横になり、そのまま眠ってしまった。