駅へ向かって歩きながら、少しずつ落ち着きを取り戻してきた響は、片付けもせずに黙って帰宅したことを悔やみ始めた。あんな去り方をしたままでは、次に顔を合わせたときに気まずいだろうと考え、北田たちに謝ろうと思い立った。だからと言ってさすがに今から戻るほどの勇気はないため、LINEで謝ることに決め、駅についたタイミングでスマホを取り出した。
 画面を見ると、珍しいことに恭平からLINEがきていた。
 [来ないのか?]
 受信した時間は12時45分。──1時間も前だ。ここから電車の時間も入れると40分はかかる。
 [朝行ったら北田たちに拉致された。ギターは置きっぱだから、これから取りに戻る]
 そう送信したものの、迷っていた。学校に戻るとなると、自宅へ向かう駅を通り過ぎることになる。家にもギターはあるし、無理に取りに行く必要はない。
 ただ、もし恭平がいるのなら、ギターを使ってくれたことにお礼を言いたいし、色々と話したいこともある。明日でもできることだとは言え、今日一日で溜めた憂さを、恭平とセッションすることで晴らしたいとも思った。
 帰っているかもしれないが、いるかもしれないという可能性を捨てきれず、響は学校へ向かうことにした。

 部室棟へ近づいていくと、まだ帰宅していなかったようで、ドラムの音が聞こえてきた。

「もしかして、待っててくれた?」
「……帰るところだ」
 恭平はこちらを一瞥して、すぐに逸らした。
「そっか……」
 残念だが仕方がない。一人ででも爆音でギターをかき鳴らせば憂さも晴れるだろうと、気持ちを切り替えようとした。しかし、次の会話で思い留まった。
「海になんて行くんだな」
「え?」
「葉山さんたちと楽しんだか?」
「なんで知ってるわけ?」
 響の疑問には答えず、恭平は気がついたようにハッとしてから立ち上がり、テキパキと帰り支度を始めた。
 絡むような口調と態度から不機嫌であることが読み取れて、自分の憂さではなく、恭平の方を晴らしてやろうという気になり、慌ててギターを肩にかける。
「まっすぐ帰る?」
「……いや」
 二人で部室を出て鍵をかけた。
 恭平は歩みを揃えようとせず、一人でスタスタと歩いていく。
 よっぽど不機嫌らしいと考えて怖気づきかけたものの、恭平の隣に並ぶために小走りで歩みを合わせた。
「どこか行くの?」
「あぼろんに行く」
「まじ? 俺も行く!」
 校門を出て、いつもならここで別れるところだが、今日は共に連れ立って駅の方へと向かう。
「あの、『ゼロ・カウント』聞いた。めちゃくちゃ良かった。それに俺のギター、まじで使ってくれたんだ」
「使うぞって断り入れただろ」
「うん。でも聞くまで信じられなかった。まさか本当に使ってくれるとは思わなかったから、めちゃくちゃ嬉しかった……ありがとう」
 恭平はそれまで早めていた足並みを少し落とした。 
「礼を言うのは俺の方だ。響のギターには華があるし、アイデアが面白い。曲がさらによくなった」
「Kyoにそんなこと言われたら光栄すぎる」
「もうそういうのやめろって、恥ずいだろ」
 どうやら恭平の機嫌は直ってきたようだ。親しくなるにつれて、表情に乏しい恭平の、その微妙な違いがわかるようになっていた。
「うん、でも本当に嬉しかったんだ。何度お礼を言っても言い足りないくらい。だってそうだろ? なとりのドラム叩くことになったって考えてみろよ?」
 恭平は考えてみたのか、しばらく間を空けてから答えた。
「そんなことあり得ない」
「なんだよ、想像してみろよ。ていうか恭平もボカロPで同じアーティスト目線だから、ファン目線にはなれないわけか」
「そういうわけじゃない。俺だって好きなアーティストを前にしたら多少は興奮する」
「そうだろ? 好きなところとか魅力とか語りまくりたくなるだろ? そうだ、『ゼロ・カウント』なんだけどさ」
 それをきっかけに、響はまた熱烈トークを始めた。一晩聞き込んだ新曲の魅力、これまでの5曲との違いや、俯瞰で見たときのバランスなど、Kyoというアーティストの個性を独自に解釈したことまで得意げに語りまくった。
 話に熱中していた響は、周りはおろか恭平のことすら見ておらず、いきなり腕を掴まれて転びそうになる。
 バランスを崩した響を、恭平が抱き止めるように支えてくれて、ハッとして周りを見渡すと、赤信号待ちの人にぶつかりそうになっていたようだった。
「ごめん」
「前見ろ」
 詫びるために振り向いたら、後ろにいる恭平を見上げる格好になり、恭平の背の高さをまじまじと実感した。小柄な響を支えてもびくともしない体格も。
「お前は夢中になるとまじで周りが見えないんだな」
 呆れ声と共に微笑した恭平を見て、急に顔が熱くなり、合わせていた目を慌てて逸らした。
「渡るぞ」
 信号が青になって恭平が歩き出したので、響も後を追う。
 心臓が早鐘を打つようにバクバクと鳴り始め、顔どころか全身が熱くなり、手が汗ばんで震えてきた。

 あぼろんという楽器店は、学校の最寄り駅から五つ先にある。響は電車に乗ってもまだ熱っぽく、動機は激しいままだった。
 そのときの響は、恭平のことを強烈に意識して、頭が混乱状態にあった。恭平はバンド仲間であり親しくなった友人でもあるが、同時に現在最もハマっているアーティストでもある。
 響は夢中になると一直線になるタイプで、周りが見えなくなるほどのめり込む。それが行き過ぎると、執着と言えるくらいにまでなり、どうにかして我が物にできないかと、強烈に求め始めてしまう。
 響はギタリストなので、ハマったアーティストの曲を完璧に弾きこなせるようになることで、その欲望を解消していた。飽きるまで弾いて、また別のアーティストなり曲にハマる。それで満足できていた。
 これまで恋愛なんてしたことがないし、他人を避けてきたこともあり、リアルで会える生身の人間に執着したことも、一度としてなかった。自分とは別の世界のミュージシャンやアーティストに夢中になるだけだった。
 それが今度ハマったボカロPは違った。そのことを、恭平に触れた瞬間に気がついた。
 今までと同様にギターを弾きこなせるように練習し、さらにはレコーディングまでしてもらえて、熱烈トークを聞いてもくれる。それで満たされたどころか、有頂天になるほどだったのに、目の前にいて、手で触れることができると気がついた途端に、新たな欲望が湧き上がった。
 そんな、これまで感じたことのない強烈な感情を自覚して、響はパニック状態になっていた。

 寸前まで熱烈トークをしていたはずの響が、一転して無口になったことが気になったのか、寡黙なはずの恭平が、珍しいことに色々と話しかけてきた。
 新曲のギターに悩んでいたこと、響ならばいいアイデアがあるのではと考えついたこと、実際に弾いてもらったら自分の考えが間違いなかったどころか、想像以上のものが聞けて嬉しかったことなどを、少ない言葉ながらも滔々と語ってくれた。
 それなのに、響は相槌を打つことが精一杯で、まともに受け答えすることができなかった。

 あぼろんへ到着し、恭平は着くなりカウンターへと向かった。修理に出していたエフェクターを取りに来るのが目的だったようだ。
 その姿を眺めながら、響は電車の中でのことを思い返し、せっかく恭平が自分から話をしてくれたのに、なぜボケっと気を散らしていたのだろうと後悔した。
 それを挽回しようと奮い立ち、戻ってきた恭平の腕を取って、店内を回りながらあれこれと話しかけた。友人と楽器店に来たのは初めてのことだったので、想像以上の楽しさに夢中になり、動揺していたことをすっかり忘れて、普段のような気楽さが戻っていた。リラックスしたことで会話が弾み、一時間以上過ごしても飽き足らないほど、楽しい時間を過ごせた。
 しかし来たとき既に夕方近くになっていたため、そこまでの長居はできず、グズグズと後ろ髪を引かれながらも店をあとにした。