君の声で僕を歌って

 放課後になり、響はバンドメンバーと、香里奈たち女子四人と合計八名で、最寄り駅の近くにあるマクドナルドで昼食を済ませ、同じビルの上階にあるカラオケボックスへと向かった。
 北田が既に部屋を予約してくれていたため、八人が入っても余裕があるほどの広さだった。
「私、爽健美茶」
 部屋のど真ん中に陣取った香里奈がそう言うと、北田が颯爽と立ち上がった。
「じゃあ俺持ってくる」
「私、自分で選びたい」
「んじゃ、行こ」
 北田と弓野、そして女子二人がドリンクを取りに部屋を出ていった。

 香里奈とともに残った女子が、リモコン用のタブレットを操作している。
「香里奈、なにか入れる?」
「んー、私は後でいい」
「そう? じゃあ先に入れていい?」
 女子はたったいまその存在に気がついたように、こちらへ顔を向けた。
「あ、河瀬くんたちは?」
「えっ?」
「何か歌う?」
「俺は聞く専門だから」
「じゃあ南波くんは?」
 恭平はスマホ画面に注視している。そして何も答えない。
「あ、恭平も後でいいんじゃないかな」
「ふうん」
 どうでもいいけど、とでもいうような表情でタブレットに視線を戻した。
 こういった状況になれていない響は、どうすればいいのか、話題も何も思いつかない。女子とは、必要最低限のことか、湊のこと以外にまともに会話をしたことがないし、デフォルトで無口な恭平は、会話を振るはずがないだろうから、気まずい思いを一人で耐えるしかなかった。
 泳がせていた視線を何気なく香里奈の方へ向けると、ふと目が合った。
「河──」
 香里奈が何かを言いかけたとき、どやどやとした話し声と共に、ドアが開いて北田たちが戻ってきた。
「まじ? 光が?」
「ウケるんだけど!」
「あ、響たちの分はねーよ。そこまで持てなかった」
 わかってるよと手で示し、響はドリンクを取りに行くために立ち上がる。
 歌うつもりもなく、賑やかしい空間自体が苦手な響は、誰かが歌い始めるまで時間を潰そうと考えて、しばらく部屋から出ていることにした。

 ドリンクバーでコーラを注いだあと、受付前にある待合スペースのテーブル席に向かう。
「市場調査は?」
 恭平はコーヒーなのか、真っ黒の液体を入れたコップを持って向かい側の席に座った。
「まだこれからだよ」
 返答したのに恭平は反応を見せず、スマホをいじり始めた。

 昨日の醜態について、恭平がどう考えているのかを知りたい。ファンになったことを喜んでくれているのか、気持ち悪いと思われているのか。態度は普段通りだけど、いやだからこそ、油断していつまた熱烈トークをしてしまうかも知れず、どう受け止めたのかを知りたかった。
 というのも現在の響の関心事はKyo一色だったので、それ以外の話題が思いつかず、その話題を振りたくて仕方がないのだ。
 でも『ありがとう』と言っていたしな、と思い出す。次に、不快だったら態度にも出るよな、とも頭によぎる。ということは嫌ではなかったのかな?と考え始める。

「響は何を歌うんだ?」
 恭平から話を振られるとは思わず、反応が遅れた。
「……えっ? なに?」
「カラオケに来たんだから歌うんだろ?」
「カラオケ? ……歌うわけないだろ」
「わざわざ来ておいて歌わないのか?」
「……恭平こそ何歌うんだ? なとり?」
「歌うかよ」
「じゃあ何? ワンオク?」
「……歌わない」
「は? なんで?」
 頑なな反応を見て、もしかして自分と同じ理由だろうか?と、思いつく。
「恭平って兄弟いんの?」
 まさかとは思うが、聞いてみることにした。
「いない」
「一人っ子? じゃあ、親とか友達に言われた?」
「言われたって何を?」
 そのとき、テーブル席に残っていた椅子に香里奈が腰を下ろした。いつの間に来ていたのか、全く気がつかなかった。

 香里奈はコップをテーブルに置き、真剣とも言える顔を向けてきた。
「河瀬くん」
「なに?」
 気圧されて視線を逸らす。相手が女子なので緊張するという理由もあるが、香里奈の視線は威圧的なため、怯んでしまう。
「河瀬くんもボカロ曲作ってる?」

 このタイミングなのは意外だったが、質問自体は驚くことではなかった。ギターが上手い理由を湊の存在にあると指摘されるように、なぜか響も湊のようにDTM──デスクトップミュージックをしていると勘違いをされる。機材が揃っているからと言われても、そこは本人のやる気の問題だろうに。

「……作ってない」
「隠してるの?」
 珍しい返答に驚いた響は、思わず香里奈と目を合わせた。
「隠すもなにも本当にやってない」
 香里奈はムッとした顔になる。
「うそつかないで」
「本当だって」
「軽音部の部室でレコーディングしてるでしょ? それ用の機材が置いてあるの知ってるよ」
 響は思わず恭平を見た。興味がなさそうにスマホを見ているものの、スクロールする指は止まっている。

 意気込んだままの香里奈は、言葉を続けた。
「Mistyみたいになりたい。アレグレみたいなバンドを組みたいの」
 予想外の言葉に唖然とした。
「カラオケに誘ったのもそれが理由。まずは歌を聞いてもらおうと思って、北田に河瀨くんを連れてきてもらったの。最近の曲ならなんでも歌えるから、河瀬くんの聞いてみたい曲を選んで」
「いや、だから、曲なんて作ってないし、バンドは既に組んでるし」
「あんなバンドなんてどうでもいいじゃん。北田より私の方が断然上手いよ」
「だったら軽音部に入ればいい」
 香里奈は再びムッとする。
「コピバンじゃなくてオリジナルでやりたいの。それに部活とかじゃなくてYoutubeに投稿とかしたいし」
「歌い手でいいじゃん」
「だから、Mistyみたいになりたいんだって! 歌い手じゃなくて、バンドのボーカルをやりたいの」
 響は困惑した。
 恭平に助けを求めて視線を向けるが、スマホを見ている振りをして、空気のように気配を消している。
 俺じゃなくて恭平に言えよ。こいつこそ本物のボカロPだ。と、理不尽にも苛立った。
 
「返事は歌を聞いてみてからでもいい。自信はあるけど、ジャンルとか好みの声質とかあるだろうし。河瀨くんの作ってるジャンルを歌ってみるから、どれなのか選んで」
 香里奈はコップを持って立ち上がる。
「とりあえず戻ってきて」
 そう言ってスタスタと部屋へ戻っていった。

 そんな香里奈の姿を唖然と目で追っていたところ、愉快げな恭平の声が聞こえた。
「曲は何を選ぶんだ?」
「……助けろよ」恭平を睨みつける。
「どうやって?」
 珍しく笑みを浮かべた恭平は、立ち上がってスマホをズボンのポケットに押し込んだ。
 響も合わせて立ち上がり、コップを手に持つ。
「『俺こそがボカロPだ』とかなんとか言って」
 響は歩き出し、呆れ声の恭平も続いた。
「勘弁しろよ」
 恭平の態度は一貫していつも通りだった。ボカロPをネタに冗談まがいの会話までするほどなのだから、あの熱烈トークを気にしていたのは自分だけだったのかもしれない。響はそう考えて、思い悩むのをやめることにした。

 部屋へと戻った響は、入った途端に香里奈に腕を取られ、無理やり隣に座らされた。北田と弓野に囃し立てられても、香里奈はお構いなしといった様子でそれを受け流し、そんなことよりもと、タブレットを突き出してきた。
 しつこくせがまれ、「どれでも好きなのを歌えばいい」とあしらっても、香里奈は頑なに「河瀬くんが選んで」と行って聞かないため、根負けした響は適当にAdoの新譜を選んだ。

 香里奈は想像以上の歌唱力を見せた。自分で上手いと言うだけはある、Mistyみたいになりたいというのもあながち無理ではないと思えるほどのレベルだった。

「歌も上手いんだな」
 北田が惚れ惚れと言うと、弓野も同様にして頷いた。
「ダンスもプロ並みだし、プロになれんじゃね?」
「香里奈は小学生のときからヒップホップダンスやってるから」
 香里奈の隣に座っている女子の言葉に、北田たちは感心した声を上げた。
「アルグレは?」別の女子が言う。
 香里奈が響をチラリと見たので、好きにすればと言うように微笑むと、アルグレの『魔術師』を歌い始めた。
 北田がイントロで「おれが入れたのに……」と不満そうにつぶやいていたが、歌い始めると一転して安堵の表情に変わった。香里奈の前で醜態を晒さなくて良かったと思ったのだろう。
 それほどの歌いっぷりだった。改めて香里奈のレベルは並ではないと感心した。

 響は恭平の反応が気になって目を向けた。
 興味がないといった風に装ってはいるものの、手元のスマホは指を添えたままで目もくれず、香里奈をじっと観察するように見つめている。
『歌が聴きたい』
 そう言っていた理由が、もしボーカルを探していたからだったのなら、Mistyのように、ボカロPとバンドを組みたいという香里奈の願いは実現できるかもしれない。湊と城田のように。
 身近にいるボカロPが、響の目の前でボーカルに出会いバンドを組むという展開が、兄のそれと重なり、自分は選ばれなかったという苦い過去を思い返して、気分が滅入った。

「ねえ、河瀬くんが最近ハマってるの誰?」
 考えに沈んでいたとき、香里奈に突然聞かれて、反射的に『Kyo』と答えそうになったが、ギリギリのところで誤魔化せた。
「……なとり」
 香里奈は満足げに笑みを浮かべて頷き、『絶対零度』を入れた。
 スマホをいじっていた恭平が、イントロが流れた瞬間に立ち上がり、何も言わずに部屋を出ていった。
 香里奈の歌唱力でも聴くに堪えないというのか、と考えて可笑しくなる。恭平のなとり好きは相当のようだ。
 香里奈は見事に歌いきった。下手に似せた歌い方をしていないところがいい。自分の歌い方というものを研究しているのか、自己流にアレンジしていて聴き応えがあった。
 これなら恭平も楽しめただろうに、と残念に思ったほど。

「あー、さすがにKyoはないか」
 歌い終えてタブレットを操作していた香里奈が声を上げた。
「だれ?」隣の女子がタブレットを覗き込む。
「あ、最近香里奈がハマってる人?」
 弓野の隣にいる女子に聞かれて、香里奈が答えた。
「そう。めちゃくちゃかっこいいの。まだカラオケになるほどじゃないか」
「だれだれ?」弓野だ。
「知らない? 今じわじわきてるボカロP」
 そう言って香里奈が鼻歌を歌う。
 響は会話を聞きながらまさかと思っていたが、その鼻歌で確信した。恭平のことだ。
「え、チャンネル教えて」
 北田が言うと、香里奈はスマホを取り出した。
「いいよ」
 香里奈も好きだったとは驚いた。しかしマイリスも少しずつ増えているし、響自身ものめり込むほどファンになっているのだから、ニコ動をチェックしている人なら知っていてもおかしくない。
「お! サンキュ。どの曲がいいか……」
 北田はスマホを操作して、Kyoの『ツキカゲ』を流し始めた。
 響は反応して思わずニヤける。『ツキカゲ』は今まさに集中して練習している曲で、朝も登校前に弾いてきたばかりだ。聞いていたら弾きたくなり、まるでギターを手にしているかのように指を動かしながらリズムに乗り始めた。
 ふと視線を感じて顔を上げると香里奈と目が合い、取り繕うために、声をかけた。
「Kyoいいよね、俺も今ハマってる」
「そうなの?」
 香里奈はなぜか、訝しむように眉を寄せた。
「『ツキカゲ』もいいけど、一番は『ディスコミュニケーション』かな」
「あ、わかる! いいよね」パッと笑顔になる。
「なに? ディス……」
 北田がスマホと香里奈を交互に見たので、
「ディスコミュニケーション」
 と口にしたら、香里奈と声が重なった。互いに驚き、目を合わせて吹き出した。
 ちょうどそのタイミングで、恭平が戻ってきた。
 いつもの仏頂面が、なぜか不機嫌そうに見える。もう『絶対零度』は終わったぞ、と心の中で声をかけた。

「河瀬くんはなとりも好きだし、好みの系統なんだね」
 香里奈に言われて、恭平に向けていた視線を戻す。
「てことは河瀬くんもそっち系?」
『そっち系って何?』そう響が言おうとしたら、北田のスマホから『ディスコミュニケーション』が流れ始めた。

 Kyoの中で一番好きな曲が流れてきたことで会話から意識が逸れ、曲に聴き入る。しばらく惚れ惚れとしてから、作った本人である恭平の方へと視線を向けた。

 しかし恭平はいなかった。見渡しても、どこにも姿がない。
 自分の曲が流れて恥ずかしくなったのだろうか?と考えて、ハッと気がついた。
 香里奈がKyoの話題を出したときは、恭平はまだ部屋に戻ってきていなかった。もしかしたら響が言いふらしたと勘違いをしたのかもしれない。
 そう誤解されていたら大変だ、と青ざめ、恭平を追いかけて誤解を解こうと、鞄を掴んで立ち上がった。

 帰る旨を伝えて駆け出そうとしたとき、腕を掴まれた。
「帰るの?」
 香里奈が不満そうな顔を向けている。
「あ、あの、用事を思い出して……」
「じゃあLINE交換して。感想聞きたいし」
「あ、えーっと……」
 早く恭平を追いかけて誤解を解きたいのに、と気持ちが焦る。
「北田に聞いといて」
 響は無理やり手を振り払い、無礼を詫びるために頭を下げて、カラオケルームを後にした。

 廊下にはいない。
 店の出入り口を通り、エレベーターにたどり着いても恭平の姿はない。
 ビルの一階まで降りて、あちこと見渡すも、それらしき姿はどこにもなかった。
 教室ではあまり恭平に話しかけない。いつもスマホを片手にイヤホンをしているため、話しかけづらいという理由が一つ。二人の会話は音楽談義が主なので、休み時間に軽くするよりは、部室で楽器を片手に盛り上がったほうが楽しいからという理由もあるからだ。
 しかし今日は違う。一刻も早く誤解を解いておきたい。
 一番親しいと感じている友人に、秘密を言いふらしているなんて勘違いされたままでは落ち着かない。

 そう考えて、朝一番に話しかけるつもりだったのだが、思い悩み過ぎて眠れず、朝寝坊をしてしまった。
 ホームルームの開始ギリギリに登校したら、なんと恭平は欠席だった。なんだよ、と拍子抜けをした。

 今日は夏休み前最後の登校日だ。だからと言って何か変化があるわけでもない響は、終業ベルが鳴り、さあ部室へと、向かおうとしたタイミングで弓野に声をかけられた。
「よお。響!」
「なに? 部活行く?」
「いや、今日はパス」
 今日もだろ? そう思ったが、臆病な響がそんな不満を口にできるはずがない。
「俺らこれからガスト行くんだけど、響も行こうぜ。そのあとまたカラオケ」
 響はムッとした。遊ぶ暇はあるのに部活に出る時間はないのかと。
「行かない」
「香里奈が来るぜ」
 それで釣られるとでも思われているのなら心外だ。むしろ行く気は萎えるというのに。
「行かないって。じゃ、明日また部室で」
 響は反応を待たずに教室を後にした。

 部室に到着し、ドアの庇の上から鍵を取り出して開けて入室する。当然ながら誰もいない。
 他のメンバーはまだしも、恭平の不在は珍しいことだから、なんだか物寂しさがある。
 響は昼食用の弁当箱を机の上に置いて、スマホを取り出した。
 恭平に謝らなければ。夏休みに入る前に誤解を解いておきたい。どうやって切り出そうか──と考え始める。
 ストレートに謝るべきだなと入力しかけて、いや、やっぱり本当に誤解しているのかを確認してから、と迷う。
 考えがまとまらなくなり、先に空腹を満たすことにした。
 食べ終えると今度は頭が回らず、いつもの癖でギターを手に弾き始めてしまう。

 昨夜は朝と同様、Kyoの『ツキカゲ』を練習していた。途中でギターソロが入るところが難しく、よくこんなリフを考えられるなと関心しながら、絶対に弾きこなしてやると意欲を燃やしている曲だった。

 いい曲を書くなと惚れ惚れとしながら練習していて、ふと誤解されたことを思い出し、その発端となったこと──香里奈がKyoにハマっていることを同時に思い出す。
 もしかしたら、二人はバンドを組むことになるかもしれない。
 恭平の曲は歌っていて気持ちのいい曲だから、香里奈はさぞかし嬉しいだろう。もし自分だったら光栄だと感激するし、歌い手としての技量を最大限に発揮できると奮起するだろう。
 普段からも、自分だったらこう歌う、とギターを弾きながら口ずさんでいるものだから、弾いていると自然に歌いたくなってくる。
 湊の曲よりもツボど真ん中であることと、響の声質に合っていて歌いやすいことから、まるで自分のために書かれた曲なのではと思えたりもして、やりがいを感じられるだろうと、妄想が逸れ、もしも自分と恭平とが二人で組んだら、と頭に浮かんできて慌てて振り払う。ボーカル志望でもないし、恭平の前で歌ったことなどないのだから、そんなことあり得るはずがない。
 なにより歌が下手なのに何を言っているのだと自らを叱咤した。
 歌いたいという欲求がまだしつこく残っているのだなと、自分を憐れみ始めたら、途端に気分が落ち込んだ。

 それを打ち消そうと次々にKyoの曲を弾きまくり、演奏に没頭することした。

 夢中になり、陰鬱な気分もどこへやら、演奏に集中していく。音の世界に没入し、弾き終えて一息ついたときもまだ興奮状態だった。ふと気配を感じてドアの方へ振り向くと、驚いたことに恭平が立っていた。

「……やっぱ響は凄いわ」
 恭平の言葉に一瞬きょとんとなる。
 未だ余韻が冷めやらず、陶酔状態だった響は、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「凄いのはKyoだよ」
 恭平が部室に入ってくる。その姿を目で追いながら、いつも恭平にしているように、弾き終えたばかりの曲への思いを語りたくなりウズウズとしてきた。
「Kyoの曲マジで好きなんだ」
 恭平はかすかに肩を震わせ、ドラムへ向かっていた足が止まる。
 今熱中している『ツキカゲ』のリフ部分の凄さも話したかったし、その他にも最近気が付いたことを伝えたくてたまらなくなり、また以前のように本人であることを忘れ、Kyoの魅力を語り始めた。
 恭平は歩みを止めたまま硬直し、目元は前髪で隠れていて見えないが、口はぽかんと言った形に開いている。
 それを見て、なぜ反応しないのだろうか?と思い浮かび、またやってしまった、と途中で気がついた。
「ごめん。何言ってんだ、俺。本人に向かってまた……まじでキモすぎるな。うざいかもしれないけど、こういう話をする相手が恭平しかいないから……」
 言い訳をしようとして、ついて出た言葉を慌てて止めた。
 ファンとして夢中ですと言うだけでなく、友人としても君しかいないというようなことを口走ってしまった。これでは二重に告白しているようなものじゃないか。事実ではあるものの、まるで恋を打ち明けたような恥ずかしさが襲ってきて、顔から火が出そうになる。

 恭平はドラムではなくベースケースの側へ歩み寄り、開けて中身を取り出した。
「キモくなんかない。恥ずいけど」
 ベースを取り出してアンプに繋ぐ。その様子を吸い寄せられるように目で追った。
「俺も響のギターがめちゃくちゃ好きだ。適当にジャムるリフはかっこいいし、テクも半端ない。俺には真似できないレベルだと尊敬している。ファンって言えるくらい……」
 そう言ってエフェクターを調整すると、言葉を続ける代わりにとベースを弾き始めた。
 たった今響が弾き終えた『露光』だ。

 鼻の奥がツンとして、視界が歪んできた。
 ──俺に合わせて、らしくないようなことをわざわざ言うなんて。
 そう考えて胸を打たれた。

 響も合わせて弾き始める。
 Kyoの曲を本人と二人で演奏している。その事実にも感動して胸がいっぱいになった。

「ありがとう。嬉しすぎる。まじでキモいこと言ってんのに、一緒に弾いてくれて……」
「それはこっちの台詞だ。響に弾いてもらえると嬉しい。それに、キモいとか言うのやめろ。あそこまで言われて喜ばないクリエイターはいないし、お前がキモいなら俺もかなりキモい」
 珍しくも饒舌に語り、心遣いを見せた恭平に、再び胸が熱くなる。しかしこれ以上言うと、互いに褒めあい続けてさらに気持ちの悪いことになる、と考えて押し留めた。
「うん、わかった。もう一回何か演ろ」
「ああ。じゃあ『ツキカゲ』」
 またKyoの曲を本人と弾けるのか!と思って心が踊る。上手いと言ってもらえたのだから、それを見せてやろうと奮起した。

 弾き始めてテンションが上がっていった二人は、次々とKyoの曲を弾き、全ての曲を演奏してしまった。

 弾き終えた満足感とともに感動の余韻に浸っていたとき、昨夜から悩み続けていたことを思い出す。
「俺がバラしたと思った?」
「何が?」
 恭平は、何のことかわからないという顔を向けてきた。
「俺は何も言ってない。Kyoのことは誰にも言わないよ」
「ああ」思い出したような声をあげる。
「響がバラしたなんて思ってない」
「じゃあ何で帰ったんだよ」
「……用事を思い出して」
 嘘だと思った。しかし、誤解されていないのなら気にすることでもないと忘れることにして、一番気になっていたことを、この流れで聞いてみることにした。
「葉山さんの曲を聞いてどう思った?」
「は?」
「ボーカルやりたいみたいじゃん」
「響とだろ? 俺は言われてない」
「いやいや、俺はボカロPじゃないし。それに『歌が聴きたい』って、あれ葉山さんのことだったんじゃないのか?」
「んなわけねーだろ」
 思い込んでいたため面食らった。ということは特定の相手がいたわけではなく、単に歌を聞きたかっただけだったのだろうか。
「でも歌上手いじゃん」
「普通じゃね?」
「あれが普通? どんな耳してんの? あれは相当なレベルだよ」
「まぁ、北田と比べればな」
「一緒に組めばいいじゃん」
「なんでそうなる? 関係ないだろ」
「だって、曲書いているんならバンド組みたくならない?」
「……まあ、それはそうだが」
 恭平は言い淀む。
「だったらいいじゃん」
「だからって、葉山さんにはボカロPであることを伝えたくないし、組む気もない」
 響はハッと思いつく。恭平はこだわりの強いヤツだった。あのレベルでも納得できないのか、それとも声質に不満でもあるのか。
「まあ、響が組んでやったら解決するんじゃないか?」
「は? だからなんで俺が──」
 にやりとした表情を見て、冗談を言ってこの話を終わらせたいのだと気がついた。
 夏休みに突入した。世間の学生よろしく響も待ちに待っていたことではあるものの、予定はと言えば、部室へ行ってギターを弾くことだけだった。普段と変わりばえしないことではあるが、朝から晩までアンプに繋いで大音量で弾いてもいいというのは、響にとって格別と言えることだった。

 9時前に部室につくと、ドラムにはマイクがセットされ、ベースもオーディオインターフェースに繋がれていた。レコーディングの準備は万端といった様子で、もしかしたら既に何回か済ませているのかもしれない。
「早いな。寝てんの?」
「……あんまり寝てない」
「なに? 新曲でも作ってた?」
 期待して思わず顔がほころんだが、対して恭平の表情は硬い。
「あー、うん」
「どうした? 行き詰まってる?」
「あー、ちょっとこれ聴いて欲しい」
 そう言ってパソコンからドラム音を流し、合わせてベースを弾き始めた。昨日も当たり前のようにベースを弾いていたことを思い出し、楽器全てを自分で弾いてしまう恭平の、こだわりの強さを改めて実感した。

 聞いていて、ドラムに聞き覚えがあることに気づく。最近レコーディングしている曲だった。
 今までにない方向性のベースラインで、こんなアプローチもできるのかと感心し、確かギターもレコーディングしていたはずだと、頭の中で再現してみる。
 すると、Kyoならもう一本ギターを入れるだろうと思い浮かび、コード弾きのギターを思い出しつつも、もう一本入ったらと仮定のギターをイメージし始めた。

 演奏が終わり、閉じていた目を開ける。
「めちゃくちゃ良かったよ!」
「何か思い浮かんだ?」
「えっ?」響はギクリとする。
「……弾いてみてくれ。もう一度同じの弾くから」
「えっ?」
 戸惑う響をよそに、恭平は再びパソコンからドラム音を流してベースを弾き始めた。

 いきなりのことで戸惑った響だが、頭に浮かんでいた音を再現してみたくなり、思いきって弾いてみることにした。最初はおずおずと迷いながらだったが、弾いているうちに演奏に没入していった。

「さすが響……」
 曲が終了し、恭平が感心したような声を漏らした。
「もう一度頼む」
 再びベースを弾き始める。
 響は演奏の余韻を引きずっていて、恭平の言葉がまともに耳に入っていなかった。また演奏が始まったからそれに反応して、再び弾き始めただけだった。

 それから五回ぶっ続けで演奏した。そのとき思い浮かんだフレーズに切り替えたり、乗ったテンションのまま弾いてみたりと、様々なパターンを試した。

「これ、録ってみてもいいか?」
 六回目を待ちながら頭の中でイメージを確認していたとき、恭平に声をかけられてハッとした。
「録るって、俺のギターを?」
 演奏に没入状態だった頭が、少しずつ現実に引き戻されていく。同時に言葉の意味をようやく理解し始めて、徐々に衝撃が襲ってきた。
「もちろん、アップするときはクレジット入れるから……」
 唖然として固まった。
「……ダメか? 俺の考えたのよりも断然いいから、使わせてもらえたらありがたいんだが……」
 信じられず、目をぱちぱちとさせる。
「お世辞はいいよ!」
「そんなんじゃない、本気だ!」
 言葉と同様の真剣な表情に、思わず身体が震えた。大好きなアーティストに認められ、ギターを録らせて欲しいと頼まれるなど、我が身に起きるとは思えないほどのことだ。ギタリスト冥利に尽きる。
 恭平が本気ならば挑戦してみたいと意欲が湧いた。期待してくれるのなら、それに応えたいと。
「俺でいいなら……」
 恭平はふっと息を漏らして口角を上げ、準備を始めた。

 まともにレコーディングをするのは初めてのことだった。
 湊は一緒にギターを弾いたり、教えたりはしてくれたものの、響のギターを録ろうとはしなかった。お遊びでも誘われたことがない。
 湊が上京するときに、自室にあるパソコンも楽器も機材も、何でも好きに使っていいと言ってくれて、それならばと一人で録音してみたことはあった。しかし、何になるわけでもないと、一度試してやめたきりだ。
 しかも今回は、響が考えたフレーズを、響のギターで録ると言ってくれている。

 オーディオインターフェイスに繋がれたシールドを差し出される。
「これ」
 ゴクリと唾を飲み、シールドを受け取る手が震えた。
「本当に俺なんかのギターを?」
 嘘みたいな話で、もう一度確認せずにはいられなかった。
「響だからだ」
 恭平はパソコンを操作しながら「鳴らしてみて」と言ったので、ギターを鳴らして応える。それを何度か繰り返した。
「ヘッドフォンつけろ」
 渡されたのでおずおずと受け取る。

「じゃあ一回目」
 その言葉のあと、ヘッドフォンからカウント音が流れ始めた。ギターのネックを握り、指の位置を定める。オケが流れ始めて、頭の中にあった音を取り出した。

 弾き終えて肩を落とす。緊張のせいか、イメージの1/10もできなかった。リズムも狂ってガタガタだった。
「もう一回やらせて」
 悔しかったので、響のほうから頼んだ。すると恭平は頷き、パソコンに向き直ると言った。
「……行くぞ」
 ヘッドフォンからカウント音が流れ、響は息を吸い込んで気合いを入れ直し、再び弾き始めた。

 弾き終えると今度は恭平が言った。
「もう一回、今のと同じやつ」

 それから十回弾いても終わらず、一回休憩を挟んで飲み物を買いに行き、一休みしたあとまた始めた。
 昼過ぎまで続いて、14時頃になりようやく終了の声がかかった。三十回目を終えたところだった。こんなに集中し続けたのは初めての経験で、最後の方は熱でもあるのかと思うほど、身体が熱くなっていた。

 曲を作る難しさを知り、レコーディングの大変さを身に沁みて味わった。湊はこんなことを一人でやっていたのかと驚き、それどころか、恭平は全ての楽器を生音でレコーディングしているのだからと、尊敬の針が振り切れた。
 自分で考えたフレーズがオケに乗り、曲になっていくというのは既存の曲を演奏する以上の興奮がある。アイデアは次々と出てくるし、試行錯誤していくことがとてつもなく楽しく、想像以上の体験だった。

「これ使ってもいいか?」
「本気? まとまった演奏できなかったけど」
「大丈夫。編集するから。いいところを繋ぎ合わせる。使わせてもらえるとありがたい」
「……こんなんでいいなら」
 照れながらもそう答えると、恭平は見たことがないくらいに嬉しそうな笑顔を見せた。
 その表情を見て、本気なのだと改めて身体が震えた。
 わりと自分でもいいリフが弾けたとは満足していたけど、内心は単なる試し録りか、遊び半分かと考えていたから、まさか本当に使う気があるのだとは思っていなかった。

 恭平はパソコンをスリープモードにして立ち上がり、響の方へ振り向いた。
「飯食お」
「そういや飯抜きでやってたな。思い出したらめちゃくちゃ腹減ってきた」
「お礼に奢る。何が食いたい?」
「えっ?」
 金欠だったはずでは?と頭をよぎったので、顔にもそれが出たのだろう。恭平はニヤリと口角を上げた。
「親父がボーナスもらったから」
「おお! お小遣い奮発してもらった?」
「欲しい機材あったけど、とりあえず今のでも十分だし」
 恭平は鍵をかけて戸締まりを確認し、歩き出したのでついていく。
「じゃ、焼き肉」
「そんなの無理」
「えー! じゃあステーキ?」
「ステーキガストならいい」
「ガストかよ」
「十分だろ?」

 真剣に努力したあとの飯はなんでも美味い。それが奢りならなおのこと。達成感もあって、晴れやかな気分でガストへ向かった。
 帰宅して風呂を済ませ、寝るまで一通りギターをかき鳴らしたあと、スマホに新着通知があったので見てみたら、Kyoのチャンネルで新曲が投稿されていた。
 その『ゼロ・カウント』は録音したばかりの曲で、既に作っていたのかボカロも入っているし、シンプルなものだが映像も完成していた。
 作業の速さに驚きつつも、それよりも何よりも、ギターを使ってくれてることに飛び上がった。
 ガストで「クレジット入れるから、名前は何がいい?」と問われ、まだ半信半疑だったこともあり「そんなもんなくていいよ」と、何度聞かれてもあしらっていたため、クレジット表記はないものの、間違いなく響のギターだった。
 Kyoの新曲に俺のギターが……と感激して思わず目が潤んだ。
 その現実を確かめるように何度も再生して、曲に聞き惚れては打ち震えた。

 翌日浮足立って部室へ行くと、珍しく北田と弓野が先に来ていた。
「はよ」
「おー、響! 海行こうぜ、海!」
 はあ?という顔で北田を見るも、そんな反応などお構いなしに、両端から二人がかりで腕をホールドされる。
「水着なんかねーよ」
「海の家で借りれっから」
「カラオケに来なかったから香里奈がキレてたぞ」
「そんなの知るかよ」
 断ろうにも臆病な響は強く言うことができず、小さな声で抵抗することしかできない。
「今日は絶対に連れてこいって言われてんだ」
 そう言って両腕をホールドされたまま、無理やり部室から連れ出された。

 海水浴場は電車で八つほど先の駅にある。
 車内は、駅を通過するごとに乗客が増えてきて、停車駅近くになったころには、浮き輪やテントを持った人たちで溢れんばかりになった。
 到着した駅から海水浴場へは徒歩で15分程度。響たちのような若者グループはほとんどが歩きで、家族連れはタクシーを拾っていたようだ。
 地元では最も大きい海水浴場だからか、海開きをしたばかりの今日は、平日ながらも賑わいを見せている。
 北田と弓野は、行く先が決まっているかのように、迷いなく砂浜を進んでいく。ベージュのテントが張ってある場所へ向かっているようだ。
 たどり着き、そこにいた男子二人に声をかけた。
「遅れて悪い」
「いいけど、もう一つはお前らだけで立てろ」
 背の高い方の男子が、北田の足元に転がっているテントを顎でしゃくる。
 同じクラスになったことがないため、喋ったことも当然ないが、人気グループの中でも一際目立っている男子ので、名前だけは知っている。
 金林(かなばやし)勇斗だ。香里奈と付き合っているのではと噂されている筆頭株。女子からの人気ナンバーワン。
 香里奈と同様、学年のボス的なグループの一員なので、地味な軽音部と一緒に海水浴だなんて、まさかと思って驚いた。

「勇斗!」
 香里奈が四人の女子を引き連れてこちらへ向かって歩いてきた。
 苦手な相手ではあるものの、人気があるだけあって実際めちゃくちゃ可愛い。キャミソールのミニワンピースという私服姿も眩しいほどで、さすがの響も目を奪われた。
 
 北田たちと三人でテントを張っている間、勇斗や香里奈たちは海の家の更衣室で水着に着替えてきたらしく、ボディボードや浮き輪、フロートなどを手に、目の前を通り過ぎていった。
「俺らも着替えようぜ」
 北田の言葉に、弓野と共に響もついていく。
「ここでレンタルできる」
 弓野に教えてもらって、海の家のレンタル窓口で適当に水着を選んだ。

 海水浴や砂遊びにビーチボールなど、これでもかと遊びまくったあと、海の家でラーメンに焼きそばと、海ならではの昼食をとる。まるでリア充の夏休みである。
 しかし響は輪に入ろうとせず、キャッキャとはしゃいでる様子を眺めているばかりだった。
 大勢で遊ぶというのも苦手だし、そもそもギターばかりの日々を送っていたせいで、こういった状況に慣れていない。つまらなくはないが、積極的に遊びたいとも思わず、なぜ強く断れなかったのだろうと、自分の押しの弱さが嫌になった。

 午後になり、満たされた腹を休めるために寝転んだり、デザートにかき氷を食べたり、また海水浴を始めたりと、それぞれ好きなことをし始めたので、響はテントの下に居場所を定め、北田と女子が寝転ぶ横でスマホを眺め始めた。イヤホンをして音楽でも聞きたいところだが、さすがにそこまでする勇気はない。
「あれ? あいつどこいった?」
 おそらく弓野のことだろう。北田が跳ね起きた。
「由美といたの見たけど」隣にいた女子が眠そうな声で答える。
「まじかよ……じゃあ、ひなちゃんも俺とどっか消える?」
「えー、どうしよっかな……」そう言いながらも、ひなちゃんはそこまで嫌そうでもない。
 響は立ち上がり、むしろ自分が消えたほうが早いだろうと、海のほうへ向かうことにした。

 波打ち際に来て海を眺めながら、ふと夢想にふけった。
 ギターを始めてからは、湊とともにギター漬けの日々を過ごしていたから、海水浴は小学生のとき以来だった。
 たまには海も悪くはないな、と思いながらも、いつもなら今ごろ部室でかき鳴らしているのに、とギターを弾きたくてウズウズしてくる。

「おい河瀬、LINEを返せ」
 声をかけられて振り向くと、腰に手を当てて睨みつけている香里奈の姿が飛び込んだ。
「あ、えっと……」
 香里奈は近づいてきて、響の隣に腰を下ろした。
「座りなよ」
 じっくりと話そうとでもいう誘いだ。またボカロPがどうのと詰め寄られると思うと、正直逃げ出したかったのだが、この状況でどこへ逃げられるというのか、言い訳も何も思いつかず、素直に従わざるを得なかった。
「なんだよ」
「河瀬くんってKyoなの?」
「は?」
「響って、音読みで『きょう』でしょ?」
「それはそうだけど……」
「だからKyoは河瀬くんなんじゃないかって」
「違うよ」
 Kyoは恭平の『きょう』だよ。そう言い返したいところだができるはずもなく、目を逸らすことしかできない。
「……私の歌どうだった?」
 珍しくもおずおずとした声だったため、逸らしていた視線を香里奈に戻す。
「え、良かったよ」
「良かったって、どれくらい?」
「うーん……普通に……いや、かなり良かった。自己流にアレンジしてるところが、かなり研究して練習してるんだろうなって思って、すごく良かった」
「ふふ」
 嬉しそうに笑うと本当に可愛らしい。
「じゃあボーカルにしてくれる?」
「だから北田が」
「じゃなくてオリジナル曲を演るバンドの」
「オリジナルなんて作ってない」
「でもDTMしてるんでしょ?」
「だから、してないって」
「なんで嘘つくの?」今度は怒った顔になる。
「てか、なんでそう思い込んでるんだよ? 違うって何度も言ってるじゃん」
「部室でKyoの曲弾いてるでしょ。レコーディングしてるみたいだし」
「弾いてるのはファンだからで、レコーディングなんてしてない」
「本当に?」
 あまりのしつこさに苛ついてきた。これ以上どう言い返せば納得してもらえるのか、反論の種も尽きるというものだ。
 他人に対して強く出れない響でも、さすがにうんざりして声を荒げようとした。
「香里奈、まだ粘ってんの?」
 ちょうどそのタイミングで勇斗がやってきて、響とは逆側の香里奈の隣に腰を下ろした。
「うるさいな。夢なんだもん。ボーカルやりたいの」
「Kawaseの弟だからってボカロPとは限らねーだろ? 何度も言ってんじゃん。……だろ?」
 香里奈ごしに顔を向けられたので頷いた。助け舟とはこのことだ。ほとんど初対面とも言える勇斗に対して、好感度が爆上がりした。
「その通り」
「本人がやってねーっつってんだから諦めろよ」
 なだめるように勇斗は香里奈の肩を抱く。しかし香里奈は不満そうに口を尖らせたままだ。
「でもMistyみたいになりたい」
「Mistyよりちゃんみな目指せよ。せっかくダンス上手いんだから」

「なに? なに?」
 北田たちも集まり始めた。
「香里奈がちゃんみな? いいじゃん!」女子が声をあげる。
「学祭でやったら? 『美人』」
「男女混成なのに?」
 ノリノリな弓野の言葉に、香里奈が呆れた顔で答えたため、言葉を探しているのか焦った様子を見せた。
「そういやBE:FIRSTもやるんだっけ? 凄いよな」
「勇斗と香里奈だけレベルが違うよね」
「そうそう。俺らで言う、響と南波みたいな」
 北田が自虐的に笑ったのを見て、勇斗が聞いた。
「南波って誰?」
「三組の暗いやつだよ。ドラムだっけ?」
 女子の一人が答えると、隣りにいた別の女子も続く。
「そう。北田たち何であんなのと組んでんの?」
「ドラムは上手いんだけど」北田が答える。
「ドラム『は』って。つまり他はダメってこと?」
「ダメっつーか、華がないよな」
 北田は弓野に顔を向ける。
「まあ、アルグレやヒゲダンっつーよりは米津かラッドみたいな……」
「米津いいじゃん!」女子が割って入る。
「いや、曲とかじゃなくて見た目の話」
「ほとんど喋らんし、陰気っつーか不気味?」
「友達とかいないよな。いつも一人で何が楽しいんだろ」
「ドラム?」
「ドラムだけが友達みたいな?」
 北田たちにつられて女子たちも笑い声をあげた。

 それまで黙って聞いていた響も、いい加減に耐え難くなってきた。
 恭平は無口だけど、親しくなると気さくで話しやすいし、細やかな気遣いをする優しさもある。背は高いし、隠れイケメンで、ドラムだけでなくギターもベースもキーボードも何でも弾きこなして、超かっこいい曲を作るボカロPだ。そんな恭平に対して何を言ってやがる!
 と、ふつふつと怒りが湧いて、言い返してやりたくてたまらなくなってきた。

「北田と弓野で、河瀨くんに曲作ってもらったらデビューも夢じゃないよ」
 北田に気があるのか、迷い事を言った女子の言葉に、まんざらでもない様子の北田が答える。
「まじ? できっかな?」
「ドラマーは替えたほうがいいでしょ。そんな暗いやつ」
「確かに。アルグレやミセス目指すなら南波は無理だよな」
 北田が弓野に振る。
「じゃあ、ドラマー替えちゃいますか?」
「いいですね」
 ニヤニヤと話す北田と弓野の横で、女子たちも「いいじゃん」と囃し立てているのを見て、我慢の限界が来た。
 ただの軽口だとわかっていても、恭平の陰口は耐えられなかった。
「恭平じゃなくてお前らが抜けろよ!」
 怒鳴り声をあげたことで、場がしんと静まり返る。 
 しかし、怒りで頭がいっぱいの響は気にするどころか、この場にいるのも不快だとばかりに立ち上がり、テントの方へと向かった。

 言い返しても気が晴れず、北田たちの陰口を思い返して、考え得る限りの罵倒を頭の中で吐き出し、無理やり連れて来られたことも同時に思い出した響は、ますます苛ついた。
「もしかして、Kyoってドラムの人?」
「えっ!」
 帰るために手荷物をまとめていたとき、香里奈の声を聞いて飛び上がるほど驚いた。
「なんだって?」
「Kyoって南波恭平くん?」
「何言ってんの?」
「そうなんだ」
「違うよ!」
 それだけ言って、海の家のほうへ逃げるように駆け出した。
 怒りで沸騰していた頭が、香里奈の言葉で一気に冷めた。
 走ったせいか、熱して冷めた急激な変化のせいか、心臓がバクバクと大きな音を立てている。

 テントを片付けなければ、と頭をよぎったものの、香里奈にも、北田たちにも顔を合わせたくなかった響は、海の家で着替えを済ませて、そのまま一人で帰宅した。
 駅へ向かって歩きながら、少しずつ落ち着きを取り戻してきた響は、片付けもせずに黙って帰宅したことを悔やみ始めた。あんな去り方をしたままでは、次に顔を合わせたときに気まずいだろうと考え、北田たちに謝ろうと思い立った。だからと言ってさすがに今から戻るほどの勇気はないため、LINEで謝ることに決め、駅についたタイミングでスマホを取り出した。
 画面を見ると、珍しいことに恭平からLINEがきていた。
 [来ないのか?]
 受信した時間は12時45分。──1時間も前だ。ここから電車の時間も入れると40分はかかる。
 [朝行ったら北田たちに拉致された。ギターは置きっぱだから、これから取りに戻る]
 そう送信したものの、迷っていた。学校に戻るとなると、自宅へ向かう駅を通り過ぎることになる。家にもギターはあるし、無理に取りに行く必要はない。
 ただ、もし恭平がいるのなら、ギターを使ってくれたことにお礼を言いたいし、色々と話したいこともある。明日でもできることだとは言え、今日一日で溜めた憂さを、恭平とセッションすることで晴らしたいとも思った。
 帰っているかもしれないが、いるかもしれないという可能性を捨てきれず、響は学校へ向かうことにした。

 部室棟へ近づいていくと、まだ帰宅していなかったようで、ドラムの音が聞こえてきた。

「もしかして、待っててくれた?」
「……帰るところだ」
 恭平はこちらを一瞥して、すぐに逸らした。
「そっか……」
 残念だが仕方がない。一人ででも爆音でギターをかき鳴らせば憂さも晴れるだろうと、気持ちを切り替えようとした。しかし、次の会話で思い留まった。
「海になんて行くんだな」
「え?」
「葉山さんたちと楽しんだか?」
「なんで知ってるわけ?」
 響の疑問には答えず、恭平は気がついたようにハッとしてから立ち上がり、テキパキと帰り支度を始めた。
 絡むような口調と態度から不機嫌であることが読み取れて、自分の憂さではなく、恭平の方を晴らしてやろうという気になり、慌ててギターを肩にかける。
「まっすぐ帰る?」
「……いや」
 二人で部室を出て鍵をかけた。
 恭平は歩みを揃えようとせず、一人でスタスタと歩いていく。
 よっぽど不機嫌らしいと考えて怖気づきかけたものの、恭平の隣に並ぶために小走りで歩みを合わせた。
「どこか行くの?」
「あぼろんに行く」
「まじ? 俺も行く!」
 校門を出て、いつもならここで別れるところだが、今日は共に連れ立って駅の方へと向かう。
「あの、『ゼロ・カウント』聞いた。めちゃくちゃ良かった。それに俺のギター、まじで使ってくれたんだ」
「使うぞって断り入れただろ」
「うん。でも聞くまで信じられなかった。まさか本当に使ってくれるとは思わなかったから、めちゃくちゃ嬉しかった……ありがとう」
 恭平はそれまで早めていた足並みを少し落とした。 
「礼を言うのは俺の方だ。響のギターには華があるし、アイデアが面白い。曲がさらによくなった」
「Kyoにそんなこと言われたら光栄すぎる」
「もうそういうのやめろって、恥ずいだろ」
 どうやら恭平の機嫌は直ってきたようだ。親しくなるにつれて、表情に乏しい恭平の、その微妙な違いがわかるようになっていた。
「うん、でも本当に嬉しかったんだ。何度お礼を言っても言い足りないくらい。だってそうだろ? なとりのドラム叩くことになったって考えてみろよ?」
 恭平は考えてみたのか、しばらく間を空けてから答えた。
「そんなことあり得ない」
「なんだよ、想像してみろよ。ていうか恭平もボカロPで同じアーティスト目線だから、ファン目線にはなれないわけか」
「そういうわけじゃない。俺だって好きなアーティストを前にしたら多少は興奮する」
「そうだろ? 好きなところとか魅力とか語りまくりたくなるだろ? そうだ、『ゼロ・カウント』なんだけどさ」
 それをきっかけに、響はまた熱烈トークを始めた。一晩聞き込んだ新曲の魅力、これまでの5曲との違いや、俯瞰で見たときのバランスなど、Kyoというアーティストの個性を独自に解釈したことまで得意げに語りまくった。
 話に熱中していた響は、周りはおろか恭平のことすら見ておらず、いきなり腕を掴まれて転びそうになる。
 バランスを崩した響を、恭平が抱き止めるように支えてくれて、ハッとして周りを見渡すと、赤信号待ちの人にぶつかりそうになっていたようだった。
「ごめん」
「前見ろ」
 詫びるために振り向いたら、後ろにいる恭平を見上げる格好になり、恭平の背の高さをまじまじと実感した。小柄な響を支えてもびくともしない体格も。
「お前は夢中になるとまじで周りが見えないんだな」
 呆れ声と共に微笑した恭平を見て、急に顔が熱くなり、合わせていた目を慌てて逸らした。
「渡るぞ」
 信号が青になって恭平が歩き出したので、響も後を追う。
 心臓が早鐘を打つようにバクバクと鳴り始め、顔どころか全身が熱くなり、手が汗ばんで震えてきた。

 あぼろんという楽器店は、学校の最寄り駅から五つ先にある。響は電車に乗ってもまだ熱っぽく、動機は激しいままだった。
 そのときの響は、恭平のことを強烈に意識して、頭が混乱状態にあった。恭平はバンド仲間であり親しくなった友人でもあるが、同時に現在最もハマっているアーティストでもある。
 響は夢中になると一直線になるタイプで、周りが見えなくなるほどのめり込む。それが行き過ぎると、執着と言えるくらいにまでなり、どうにかして我が物にできないかと、強烈に求め始めてしまう。
 響はギタリストなので、ハマったアーティストの曲を完璧に弾きこなせるようになることで、その欲望を解消していた。飽きるまで弾いて、また別のアーティストなり曲にハマる。それで満足できていた。
 これまで恋愛なんてしたことがないし、他人を避けてきたこともあり、リアルで会える生身の人間に執着したことも、一度としてなかった。自分とは別の世界のミュージシャンやアーティストに夢中になるだけだった。
 それが今度ハマったボカロPは違った。そのことを、恭平に触れた瞬間に気がついた。
 今までと同様にギターを弾きこなせるように練習し、さらにはレコーディングまでしてもらえて、熱烈トークを聞いてもくれる。それで満たされたどころか、有頂天になるほどだったのに、目の前にいて、手で触れることができると気がついた途端に、新たな欲望が湧き上がった。
 そんな、これまで感じたことのない強烈な感情を自覚して、響はパニック状態になっていた。

 寸前まで熱烈トークをしていたはずの響が、一転して無口になったことが気になったのか、寡黙なはずの恭平が、珍しいことに色々と話しかけてきた。
 新曲のギターに悩んでいたこと、響ならばいいアイデアがあるのではと考えついたこと、実際に弾いてもらったら自分の考えが間違いなかったどころか、想像以上のものが聞けて嬉しかったことなどを、少ない言葉ながらも滔々と語ってくれた。
 それなのに、響は相槌を打つことが精一杯で、まともに受け答えすることができなかった。

 あぼろんへ到着し、恭平は着くなりカウンターへと向かった。修理に出していたエフェクターを取りに来るのが目的だったようだ。
 その姿を眺めながら、響は電車の中でのことを思い返し、せっかく恭平が自分から話をしてくれたのに、なぜボケっと気を散らしていたのだろうと後悔した。
 それを挽回しようと奮い立ち、戻ってきた恭平の腕を取って、店内を回りながらあれこれと話しかけた。友人と楽器店に来たのは初めてのことだったので、想像以上の楽しさに夢中になり、動揺していたことをすっかり忘れて、普段のような気楽さが戻っていた。リラックスしたことで会話が弾み、一時間以上過ごしても飽き足らないほど、楽しい時間を過ごせた。
 しかし来たとき既に夕方近くになっていたため、そこまでの長居はできず、グズグズと後ろ髪を引かれながらも店をあとにした。
 あぼろんから駅に向かう帰り道、来たときとは打って変わって人の数が倍ほどに増えていた。
「イベントでもあるのか?」
 聞かれて人の波に目をやると、カップルや家族連れが多くいて、浴衣を着ている人も見えた。
「夏祭りかな?」
「どこで?」
「それは知らんけど」
「……混みそうだな」

 恭平の言葉通り帰路の車内は混雑していた。帰宅ラッシュからズレているはずのこの時間帯にしては、驚くほどの多さだ。
 これ以上混み合うと降りるときに困るだろうと考えた二人は、空席はあったが座らず、人の少ない車両の連結付近に居場所を定めた。
「響どこで降りんの?」
「宮台」
「わりと学校に近いんだ」
 宮台は学校の最寄り駅から三つ目の駅だ。
「そっからバスで40分だから、距離で言うとかなりある」
 湊と兄弟であることを知られていない場所を求めて、自宅から通学の便の悪い高校をわざわざ選んだというのに、バレてしまった今ではただ面倒なだけだ。
「恭平は?」
「俺は学校まで歩いて10分」
「まじ? いいな! あ、だからいつも主のように部室にいるんだ?」
「主って」

 二つ目の駅ではそこまで増えなかったが、三つ目でわっと人が増えた。連結部分にいると降りられなくなるかもしれないと考え直し、ドアの方へ向かおうとするも、みな同じ考えだからか、向かうほどに人口密度が上がる。駅につき、また大勢が乗り込んできて、満員電車と言えるレベルにまでなってきた。

 痴漢だと騒がれるのも嫌なので、二人は向かい合うようにして立った。混雑してきたせいで今にも触れそうなほどに距離が近い。恭平とは10センチ以上の身長差があるため、響の視界には恭平の肩がある。目の前にいる恭平のことをKyoだと意識しないように心がけて、ただのクラスメイトでバンド仲間なんだと、何度も胸のうちで繰り返した。

「響って彼女いんの?」
「えっ? なに?」
 男子高校生としては健全な話題と言えるが、恋愛に興味がないはずだと決めつけていた恭平の口から出たことで、一瞬聞き間違いかと耳を疑った。
「誰か付き合ってる人とか……」
「いるわけないじゃん」
「葉山さんのこと……」
 声が小さすぎて聞こえない。
「なに?」
「いや、好きな人とか」
「今はKyoだよ」
「ばっ……」慌てたように顔を逸らす。
 好きな人と問われれば、現在ハマっているアーティストだと考える以外に繋げられない響は、話の流れから恋愛という意味で問われていたことに、答えたあとで気がついた。
「今ハマってるのはって意味で……他はなとりも好きだし、ワンオク、ミセスにヒゲダンも、それからバンプも……そういや恭平ってバンプの藤原に似てる」
「は? ……髪型だろ」呆れた声だ。
「意識してんの?」
「してねーよ」
「この目元が……」
 その好きなボカロPが目の前にいるのだと、考えないように蓋をしていたつもりの意識が、再び蘇ってきた。
 見上げるような角度で向かい合っているため、いつもは前髪で隠れている目元もよく見えて、やはりイケメンだなと惚れ惚れする。
 隠れているのもミステリアスな雰囲気が出ていてかっこいいけど、この目がいいんだからもったいないと思い、耳元がキラリと光ったことで、ピアスをしていることに気がついて、似合うなあ、おしゃれだなあとうっとりする。
「じろじろ見るな」
 不機嫌そうなその声で、見惚れていたボカロPが反応したことに驚いた。そうだ、相手は友人で、現在一緒に電車を乗っているんだと思い出し、もたげたバカな考えを振り払う。
 恥ずかしくなり、俯いた瞬間に驚くことが起きた。いきなり尻を掴まれたのである。まさか痴漢かと頭をよぎってゾッとした。オーバーサイズTシャツにバギーパンツという、男女どちらともとれる服装をした小柄な響は、女性だと勘違いされてもおかしくない。横目で後ろを確認してみたら、手の主は父親と同じ年くらいの禿げたおっさんだった。
 睨みつけてやると、おっさんは薄気味悪い笑みを浮かべた。女だと勘違いしたわけではなく、男だと知ったうえでの行為だったようで、それに気がついて全身が粟立った。
 逃げるように前に出たら恭平に密着してしまい、驚いたようでビクッと身体を震わせた。
『後ろにいる禿げに痴漢されてるんだ』と目で訴える。
 恭平は密着されたことで不快だったのか顔をしかめていたが、理由に気がついたようでハッとした顔になった。直後に腕を掴まれて、無理やりに引っ張られ、人波をかき分けてドアの方へと連れて行かれる。

 ドアを背にして立たされ、すぐ目の前で守るようにして立ってくれた。密集度が半端じゃないため、ほぼ恭平に密着していると言っていいほどの距離だが、押し潰さないようにドアに手をかけて踏ん張ってくれている。
 背中への圧力がひどいのか、恭平はつらそうに顔を歪めた。
「ごめん。てか恭平の駅の降り口ってこっち?」
 恭平は学校のある駅だから、と考えて、逆側であることに気づく。
「ごめん! あんなの平気だから、もう少し向こうに行こう」
「ここでいい」
「俺は次だからこのまま降りれるけど、恭平あっちまで行ける?」
 恭平を動かそうと手をかけるがびくともしない。というよりもほとんど密着している状態なので、まともに力が入らない。
「恭平!」
「ちょっと黙れ」
 苛々とした声に驚いて顔を見上げる。汗だらだらで、歯を食いしばるようにしている。
「つらそうじゃん。元のところに戻ろう?」
 しかし反応がない。
 聞こえていないのかもしれないと考え、背伸びをして、恭平の耳元で言った。
「恭平の降りる駅は反対なんだろ?」
「……いい加減黙れ」
 そのとき電車が減速し始めて、軽くだがガクンと揺れた。  
 背伸びをしていた響はバランスを崩してしまい、恭平の方へ倒れかかってしまう。
 それをとっさに支えようとしてくれたのか、恭平が腕で抱きとめてくれた。
 そのまま頭を抱えるように抱き寄せられ、背の低い響は恭平の肩甲骨あたりに顔がうずまり、息ができなくなるほどに密着した。
 恭平の体温が顔に伝わり、心臓の鼓動が身体を伝ってくる。それが伝染したかのように、響の鼓動も早くなっていく。
 吐いた息が耳元にかかり、長い前髪がこめかみあたりにわさわさと触れて、恭平との距離の近さを生々しいほどに感じた。

 ──これではまるで、抱きしめられているみたいじゃないか。
 そう頭に浮かび、身体が熱くなった。

「恭平……」
「呼ぶな」
 その声とともに手の力が強くなり、さらに押し付けられる。
 ただ支えてくれているだけだと考えても、抱きしめられているとしか思えずパニックになった。

 電車が完全に停車してドアが開いたとき、膨張した圧力が噴出するように外へ押し出され、その勢いに負けて転びそうになったのを、恭平が手を掴んで支えてくれた。
 降車する人の波が押し寄せてきて、掴まれていた手をパッと放される。

 あの人の多さでは密着するのは仕方がない。それに転びそうになったのを支えてくれただけだ。
 そう考えても恭平の体温や耳元での息遣い、抱き寄せられるようにして身体に押し付けられた、その感触が未だに生々しく残っていて動悸が収まらない。
 ドアが閉まり、電車が出発したあとも、しばらくそのまま呆然としていた。

 乗客が改札口に吸い込まれたあとの、しんと静まり返ったホームを見て、響はハッとなる。
 呆然自失としている場合ではない。
 恭平の姿を探す。ベンチに腰を下ろしていた姿を見つけて、側へ駆け寄った。
「ごめん。俺のせいで」
「別に。すぐに次がくる」
 目も合わせない。怒っているのだろうかと不安に駆られる。
「次も混んでるかも……」
 恭平が電車を逃してしまったことが、自分のせいだと申し訳なくなり、どうにかできないものかと考える。
「こっからまたバスに乗らなきゃいけないけど、家に来ない? 父さんに送ってもらえばいい」
 恭平は驚いたように顔をあげて、合わせた視線をすぐに逸らした。
「……そんなのいいよ。何本か見送れば空いたやつが来るだろ」
「でも、何時間も待つかも」
「そんなに待たねーよ」
 恭平の言う通りだと思った。しかし、言い出したからには引くに引けない。
「このあと予定あんの?」
「ないけど」
「じゃあいいじゃん! 夕飯も食べていけばいい」
「なおさら行けるかよ」
「俺のせいだし」
「響のせいじゃない」
 冷静になってきた響は、すっかり友人モードに切り替わっていて、素直に承諾しない恭平に対して、引けないどころか頑なになってきた。どうにかして連れ帰ってやると意欲を燃やし、考えた挙句に思いつく。
「兄貴の機材とか興味ない?」
 そう誘いをかけてみたら、恭平の険しかった表情がふと緩んだ。
「好きに使っていいって言われてるから、部屋に入れるよ」
 試しに腕を取ってみると、抵抗は見せず素直に立ち上がり、大人しくバス停へと連れ立ってくれた。
 バスに40分揺られ、最寄りのバス停で降車し、歩いて5分。自宅についた。
 あのまま電車を待っていた方が早く帰れたことに、冷静になったあとで気がついたが、ここまで来てしまった今ではもう手遅れだ。
 玄関を開けても恭平はグズグズとしていたため、背中を押して、無理やり自宅に上がらせた。
「とりあえず入れよ。ここまで来たんだから」

 廊下を進んでリビングへ向かい、ドアを開けたら、驚いたことに、そこにいたのは母ではなく兄だった。
「サプライズ!」
「え? 兄貴? なんで?」
「さあ、なんででしょう? あれ? 友達?」
 恭平も目を丸くしている。
「……こんばんは」
「響帰ってきた?」リビング奥のキッチンから母の声。
「ただいま」
「夕飯が冷めるよ」母がキッチンテーブルに料理を並び終えて顔を上げた。「あ、友達?」
「こんばんは」恭平の声は消え入りそうなほど小さい。
「よかったらどうぞ。ここに座って」
 母は椅子をひとつ引いて、恭平に座るように促した。
「湊がいきなり帰ってきたものだから、張り切りすぎたの。いくら男二人兄弟だと言ってもさすがに余ると思って困っていたけど、友達が来てくれて助かったわ」
「いえ、でも悪いですから。結構です」
「親御さんのお夕食が待ってるの?」
「いえ、家は父だけで、夜勤のある仕事なので、夕食は自分で……」
「だったら、なおさら食べてって! 食べないなら持って帰ってもらう」
 その言葉でようやく応じる気になったようだ。

 恭平は食事のマナーが完璧で、どこかのお坊ちゃまかと思うほど品が良い。普段から垣間見えていたことだったから、片親で一人っ子と聞いて驚いた。
 自宅へ帰っても一人きりなら寂しいだろう。だから部室に入り浸っているのだろうかと、考えを巡らせた。
 恭平を自宅に送ってもらうという話を母にすると、笑顔で承諾してくれたが、父から遅くなると連絡が入っていたそうで、帰宅は何時になるかわからないらしい。

 湊が帰ってきたのは久しぶりだったからか、母は大はしゃぎで、響も嬉しかったので会話は弾み、賑やかな食卓となった。
 食事を終えて、恭平を連れて自室へ向かおうとしたとき、「俺も」と言って兄もついてきた。
 来ないのなら呼ぼうと考えていたため、ついてくるならこのタイミングでと、兄に声をかけた。
「兄貴、恭平もボカロPなんだよ」
「へえ」湊は恭平を見る。
「ニコ動でマイリス500以上だし、2万再生超えてる曲もある」
「えっ……」
 気のなさそうだった湊の表情が一転して驚きに満ち、恭平が慌てた様子で割って入る。
「いや、たまたまです」
「たまたまでそんなにいくかよ。聞いてみたい」
 湊は自室のドアの前でこちらへ振り向き手招きをした。湊の部屋の方へ来いということだ。
 響は頷き、おどおどとしている恭平の腕を掴んで湊の後を追う。そのとき恭平に耳打ちされた。
「誰にも言わないって言ったくせに」
「兄貴は別だろ? 同じボカロPなんだし」
「関係ない。嘘つきめ」
「……ごめん」
 恭平の言う通りだ。しかしこれは例外だと思っていたため、謝罪の言葉とは裏腹に悪いとは思っていなかった。
 無理やり恭平を連れてきて、申し訳なく思っていたので、湊の部屋へ入れて、思う存分機材を見てもらおうと考えていたものの、機材どころか本人がいたのである。ボカロP同士を引き合わせる滅多にない機会だ。恭平にとってこれ以上に嬉しいことはないだろうと、湊にだけは勝手ながらもKyoのことをバラすつもりだった。

 部屋へ入った響は恭平を促して、壁際に置かれたソファに並んで腰を下ろした。湊は部屋のど真ん中に置かれたパソコンデスクに向かって、パソコンを起動させている。
 恭平はおそるおそるといった様子で部屋を見渡し、何かに目を留めたのか、響に小声で話しかけてきた。
「ベースがある」
「うん。でも恭平の方が上手いよ。あ、あれ一番最初に買ったギター」壁にかけてあるギターを指し示す。
「ギブソンかよ」
「父さんが昔弾いてて、買うならギブソンだとか言ってさ」
「すご……」
「まあ、でもフェンダーに買い替えたけど」
「確かにKawaseさんの曲はギブソンよりフェンダーだな……あ、キーボード、俺のと同じだ」
 今度は壁際に置かれたキーボードを見て嬉しそうな声を出す。
「兄貴のあれは二台目だよ、確か」
 湊がデスクチェアをくるりと回転させてこちらを向いた。
「名前は?」
 響は立ち上がって湊の側に寄る。
「アルファベットでKyoだよ」
 パソコン画面を覗き込み、指で差し示す。
「それじゃない。……あ、これこれ。マイリス増えてる! 600行くじゃん!」
「へえ。……どれがいいかな」
「これ聴いてよ! 新曲『ゼロ・カウント』」
 湊は響をチラリと一瞥し、微笑を浮かべたあと再生ボタンを押した。

 ギターが響だと気がつくだろうかと、期待半分、不安半分で湊の聞き入る様子を眺めていた。
 しかし一コーラスを終えたあたりでハッと気がついて、恭平の方へ振り向いた。不安そうに肩を縮こませた恭平と目が合い、断りもなく湊にバラして、いきなりこんな状況に追い込んだことに罪悪感が芽生えた。意図かあったにせよ、あとでちゃんと説明して謝罪し直そうと思った。

 湊はデスクチェアの背もたれに勢いよく背を預け、感心した顔を恭平に向けた。
「驚いた。万再生どころのレベルじゃない。もっと上がるよ。いつ始めたの?」
「去年です」
「まじ? それでこれかよ。すご!」
 湊の反応が好感触だったため響は嬉しくなり、意気揚々と二人の間に割って入る。
「しかも生音なんだよ」
「いや、うん。それも驚いた。このベースラインむちゃくちゃかっこいい。恭平くんが弾いてるの?」
「そうだよ」
「ドラムもいいし。この入りなんてゾクゾクするね」
「だよね!」
「バンド向きだな。二人でバンド組んでるんだろ? 演ってみればいいのに」
「ボーカルもベースも演れるレベルじゃない」
「まじか……てか響が歌えばいいじゃん!」
「は? 俺こそ下手くそだよ」
「何言ってる。てか、このギターもしかしてお前?」
「響ですよ」いつの間にやら近寄っていた恭平が先に答える。
「恭平くんかと思ったけど、ここんとこ、響の癖が出てる。それにエフェクターは俺が改造したやつだ」
「あのBOSSはKawaseさんが改造したんですか?」
「そう。何個か試した中でもわりと気に入ってる。響が欲しいって言うからやったんだ」
「『アンチエキゾチックホール』のときに使ってましたよね?」
 驚いたのか、湊は一瞬間を空けた。
「……よくわかったね」
 湊はパソコンをCubaseの画面に切り替えて、スピーカーから『アンチエキゾチックホール』流し始めた。
「これが改造前のBOSSで弾いたやつ」
「全然違いますね。今の方がいい」
「そう。やっぱ気に入るまで試してみないと。ちなみにこれも」
 今度は別の曲を流す。
「『急転直下アサルトボーイ』! レンバージョンがあるんですか?」
「……よく知ってるね。何年も前に削除した曲なのに」
「ミクよりもレンの方がいいんじゃないかって思ってたんですよ。てことはKawaseさんは作ったうえでミクにしたんですね」
 響は驚きの目で恭平を見た。親しくなってきても寡黙で、ハイテンションには縁のない恭平が、熱烈トークをかます響並みに興奮している。こんな姿を見たのは初めてだった。
 響がKawaseの弟だと噂が広まったときも何も言わなかったし、これまでこんなファンのような素振りは微塵も見せていなかったのに。
「うわ! この『人間以前』、アレンジどころかキーもメロも違う! Kawaseさんもこうやって試行錯誤しているんですね」

 しばらくそうやってボカロ時代の曲で盛り上がったあと、今度はニコ動の画面に切り替えて、Kyoの曲を流しながら湊が質問を浴びせ始めた。最初は緊張していた恭平も、湊が気さくに会話を誘導していたからか、次第にリラックスした様子を見せ、和気あいあいとなっていた。
 DTMの専門的な話題に移り、会話についていけなくなった響は、日中の海水浴の疲れもあってソファでまどろみ始めた。

「歌録はないんですか?」
「仁美のがある。……あ、Mistyな」
「いえ、そうではなくて……」
 二人の会話が遠のいていく。

 響はソファに横になり、そのまま眠ってしまった。
 目が覚めると朝だった。既に10時を回っている。慌てて飛び起き、階下へ下りて母に聞くと、兄は友人との約束で出かけたばかりだと言う。恭平は、昨夜父に自宅まで無事に送り届けてもらえたらしい。湊の部屋で眠っていたのに全く気がつかなかった。

 朝食兼昼食を済ませて学校へと向かう。部室に着くと、驚いたことに珍しく北田と弓野が練習をしていた。
「あれ? 弓野何弾いてんの?」
「『ダンスホール』」
「学祭の曲を練習しろよ」
「だからやってんじゃん」
「ミセスは無理って言ってなかったっけ?」
「香里奈たちがダンスするから、そのバックで弾こうかって話になって」
「聞いてねーよ」
「あれ? まじ?」
 横にいた北田が驚いた顔を向ける。
「香里奈が南波に言っとくって」
「それいつの話?」
 響が聞いたタイミングで、部室のドアが開いて香里奈と恭平が入ってきた。珍しい組み合わせだ。と言うよりも初めてではないだろうか。恭平はスタイルもいいし隠れイケメンなので、校内一と評判の香里奈と並んでいると絵になっている。響はなぜかそれが面白くなかった。

「北田、弓野、今日もダンス練見に来る?」
 入るなりかけてきた香里奈の声に、北田がすぐさま反応した。
「あ、行く行く! 行こうぜ」
 北田が相棒の弓野に誘いの顔を向ける。
「俺は……練習しないと」
「由美が来て欲しいって言ってたよ」
「まじ?」
 嬉しそうな顔になり、そわそわとし始めた。
「ベースの練習なら家でもできるでしょ? ダンスは体育館じゃなきゃできない」
 香里奈の言葉に決心したのか、弓野はベースを片付け始める。
「じゃ、またね」
 香里奈は北田たちを引き連れて颯爽と去っていった。

「おいおい、あんなんで学祭間に合うのか?」
 ようやく練習を始めたと思ったのに。響は呆れた顔を浮かべざるを得ない。
 そんな響を尻目に、キーボードの前の椅子に座ってい埃を拭いていた恭平は、その手を止めていきなり弾き始めた。
 『急転直下アサルトボーイ』のようだ。
「恭平、おまえ、そんなのも弾けんの? もうどこにも残ってないだろ?」
「昨日Kawaseさんからデータもらった」
「まじ?」
 削除した曲のデータを他人に渡すなんて、プライドの高い湊がそこまでするということは、よっぽど恭平を気に入ったらしい。
「俺はやっぱりレンバージョンが好みだ」
「ああ、昨日も言ってたな。俺もそう思う」
「だろ? Kawaseさんはミクをよく使ってるけど」
「恭平はレンだもんな」
 聞いているうちに苦い過去を思い出して、響は気分が沈んできた。
 湊に歌って聞かせるために練習していた曲とは、まさにこの『急転直下アサルトボーイ』だったのだ。そのときはボカロのどれがいいかというよりも、自分の声こそが一番だとの自信に満ちていた。それを否定されたときのショックがまざまざと思い出されて、聞いているのが辛くなってきた。

「これ、歌詞どんなだったっけ?」
 演奏しながら問う恭平の言葉に、ハッとして意識をそちらに向ける。
「なに?」
「Cパートのここ」
「ああ『ひどく憂鬱なシチュエーション 華に焦がれ 太陽に焦がれ 君の説に絶対同調』だよ」
「そうだっけ? 『君に焦がれ 太陽に焦がれ 彼方の説に絶対同調』じゃなかったっけ?」
「何言ってんだ。リズム狂うだろ」
「狂わないって。そうだよ俺のが合ってる」
 恭平は鼻歌でCパートを歌う。
「違うって! 『君の説に絶対同調』じゃないと入りがおかしくなる」
 あんだけ練習したのに間違っているはずがない、と声を荒げたら、恭平のほうも負けないとばかりに不満そうな声を上げた。
「昨日聴き込んだんだぞ?」
「たかが一日だろ? 俺なんて何日も聴き込んでる」
「でも」そう言って恭平ははっきりと歌った。「ほら、合ってる」
「違うって言ってんだろ? 『君の』の前に一拍入るんだよ」
 伝わらず苛々としてきた響は、鼻歌ではなくはっきりと明瞭に歌って聞かせた。
 ドヤ顔で恭平の方を見ると、キーボードを弾く手を止めて身体を硬直させている。
 驚いた様子を見て、ようやく自分の間違いを自覚したかと得意になった響だが、微動だにせず、震えてさえいる恭平を見て心配になった。
「おい、どうした?」
 声をかけても反応しない。
「恭平?」
 側に近づいて恭平の肩を引き、こちらに振り向かせる。
 響は驚いた。恭平の目は潤み、唇を震わせていた。
「どうした?」
 体調でも悪くなったのかと、目線を合わせるようにかがみ込む。
 するといきなり両肩を掴まれた。
「お前の声で俺を歌ってくれないか?」

 ──は?

 二人とも見合ったまま、時が止まったようになった。

「あ……」
 恭平が狼狽えたように言葉を探す。
「俺の曲を……」
「何言ってんの? 俺はギタリストだ」
「わかってる。でも歌って欲しい」
「いや、歌は下手だから……」
「そんなわけない!」
 いきなり怒鳴られて面食らう。
「お前は天才だ! 他の楽器とは違って、歌は上手いだけじゃだ。天性の声が必要なんだ」
「耳がおかしいんじゃないか? 普通の声だよ。それに声が良くても下手なら意味ないだろ」
「いや、お前は技術もある。ギターも上手いが、歌はそれ以上のはずだ」
「いやいや、下手だって」
「それは誤解だ」
「誤解ってなにが?」
「Kawaseさんに言われたんだろ?」
 響は青ざめた。
 湊から聞いて、あの黒歴史を知っているのだろうかと動揺した。
「歌ったら否定されたんじゃないのか?」
「なんで知ってるんだ?」
「やっぱり……頑なに歌わないから何か理由があるんじゃないかと思ったんだ」
「兄貴から聞いたのか?」
「聞いてない。Kawaseさんは、なぜ響が歌わないのか知らないようだった。『上手いんだからボーカルやればいいのに』としか言ってない」
 恭平のその言葉にショックを受けた。湊の言葉で散々思い悩み、性格が歪むほど苦悩したのに、いまさら正反対のことを言うなんて、バカにしてるか舐めてるのかと、怒りで目の前が暗くなった。
「俺は歌わない」
「なんでだよ!」
「あんな少しで上手いか下手かわかるかよ?」
「わかる。というか下手でも構わない」
「は? 何言ってんの? じゃあ北田でいいじゃん」
「北田でいいわけないだろ? お前の声が好きなんだから!」
 恭平は珍しくも興奮している。
「初めて響の声を聞いたとき鳥肌が立った。響の声がたまらなく好きなんだ。誰よりも、どんな声よりも」
「俺の声が?」
 響の問いに恭平は真剣な表情で大きく頷く。
「今喋ってる声も?」
「ああ」
「まじで? こんな声が?」
「ああ。もうここまで言ったから言うけど、聞くたびにゾクゾクする」
「ゾクゾクって……」
 恥ずかしそうに顔を赤らめている恭平を見て、響も伝染して頬が染まる。
「作った曲を響に歌ってもらえたらってずっと願ってた」
「俺に?」
「お前以外に歌って欲しくない」
 響の動揺は頂点に達した。
 好きなアーティストに褒められ、歌って欲しいと言われ、ゾクゾクするほど声が好きだとまで言われては、舞い上がるどころではない。愛の告白でもされた気分になり、顔から火が出そうだった。
 しかし、勝手な思い込みで勝手なことを言う恭平に対して、同時に怒りも湧いた。
 ──俺の気持ちも知らないで!
 知るはずもないのに理不尽にもそう考えて、元々頑なだった気持ちがさらに強化した。

「何をどう言われても歌わない!」
「さっき歌ったじゃないか」
「あんなの歌ったうちに入らないだろ?」
「……入る」
「ろくに聞いてもいないくせに」
「じゃあ歌ってみてくれないか?」
「嫌だ」
「どうやったら歌ってくれるんだ? 録音するわけじゃない。俺の前で少し歌ってみてくれるだけでいい」
「バカだな! それが一番嫌だよ!」
 恭平は意表を突かれたように、目と口を丸く開けて固まった。
 ──それくらい気がつけよ。
 天性の声だとしても、歌の上手さには無関係だ。聞いたら失望する。それをわかってて歌えるはずがない。思い込みで期待されてはなおのこと、恭平に一番聞いてもらいたくない。

 絶対に歌ってやるものかと心に決めて、勢いのまま吐き捨てた。
「そんなにボーカルが必要なら、葉山さんとか別の人にしろよ」
「……わかった」
 呆然としていた恭平は、肩を落とした様子で部室から出ていった。