夏休みに突入した。世間の学生よろしく響も待ちに待っていたことではあるものの、予定はと言えば、部室へ行ってギターを弾くことだけだった。普段と変わりばえしないことではあるが、朝から晩までアンプに繋いで大音量で弾いてもいいというのは、響にとって格別と言えることだった。

 9時前に部室につくと、ドラムにはマイクがセットされ、ベースもオーディオインターフェースに繋がれていた。レコーディングの準備は万端といった様子で、もしかしたら既に何回か済ませているのかもしれない。
「早いな。寝てんの?」
「……あんまり寝てない」
「なに? 新曲でも作ってた?」
 期待して思わず顔がほころんだが、対して恭平の表情は硬い。
「あー、うん」
「どうした? 行き詰まってる?」
「あー、ちょっとこれ聴いて欲しい」
 そう言ってパソコンからドラム音を流し、合わせてベースを弾き始めた。昨日も当たり前のようにベースを弾いていたことを思い出し、楽器全てを自分で弾いてしまう恭平の、こだわりの強さを改めて実感した。

 聞いていて、ドラムに聞き覚えがあることに気づく。最近レコーディングしている曲だった。
 今までにない方向性のベースラインで、こんなアプローチもできるのかと感心し、確かギターもレコーディングしていたはずだと、頭の中で再現してみる。
 すると、Kyoならもう一本ギターを入れるだろうと思い浮かび、コード弾きのギターを思い出しつつも、もう一本入ったらと仮定のギターをイメージし始めた。

 演奏が終わり、閉じていた目を開ける。
「めちゃくちゃ良かったよ!」
「何か思い浮かんだ?」
「えっ?」響はギクリとする。
「……弾いてみてくれ。もう一度同じの弾くから」
「えっ?」
 戸惑う響をよそに、恭平は再びパソコンからドラム音を流してベースを弾き始めた。

 いきなりのことで戸惑った響だが、頭に浮かんでいた音を再現してみたくなり、思いきって弾いてみることにした。最初はおずおずと迷いながらだったが、弾いているうちに演奏に没入していった。

「さすが響……」
 曲が終了し、恭平が感心したような声を漏らした。
「もう一度頼む」
 再びベースを弾き始める。
 響は演奏の余韻を引きずっていて、恭平の言葉がまともに耳に入っていなかった。また演奏が始まったからそれに反応して、再び弾き始めただけだった。

 それから五回ぶっ続けで演奏した。そのとき思い浮かんだフレーズに切り替えたり、乗ったテンションのまま弾いてみたりと、様々なパターンを試した。

「これ、録ってみてもいいか?」
 六回目を待ちながら頭の中でイメージを確認していたとき、恭平に声をかけられてハッとした。
「録るって、俺のギターを?」
 演奏に没入状態だった頭が、少しずつ現実に引き戻されていく。同時に言葉の意味をようやく理解し始めて、徐々に衝撃が襲ってきた。
「もちろん、アップするときはクレジット入れるから……」
 唖然として固まった。
「……ダメか? 俺の考えたのよりも断然いいから、使わせてもらえたらありがたいんだが……」
 信じられず、目をぱちぱちとさせる。
「お世辞はいいよ!」
「そんなんじゃない、本気だ!」
 言葉と同様の真剣な表情に、思わず身体が震えた。大好きなアーティストに認められ、ギターを録らせて欲しいと頼まれるなど、我が身に起きるとは思えないほどのことだ。ギタリスト冥利に尽きる。
 恭平が本気ならば挑戦してみたいと意欲が湧いた。期待してくれるのなら、それに応えたいと。
「俺でいいなら……」
 恭平はふっと息を漏らして口角を上げ、準備を始めた。

 まともにレコーディングをするのは初めてのことだった。
 湊は一緒にギターを弾いたり、教えたりはしてくれたものの、響のギターを録ろうとはしなかった。お遊びでも誘われたことがない。
 湊が上京するときに、自室にあるパソコンも楽器も機材も、何でも好きに使っていいと言ってくれて、それならばと一人で録音してみたことはあった。しかし、何になるわけでもないと、一度試してやめたきりだ。
 しかも今回は、響が考えたフレーズを、響のギターで録ると言ってくれている。

 オーディオインターフェイスに繋がれたシールドを差し出される。
「これ」
 ゴクリと唾を飲み、シールドを受け取る手が震えた。
「本当に俺なんかのギターを?」
 嘘みたいな話で、もう一度確認せずにはいられなかった。
「響だからだ」
 恭平はパソコンを操作しながら「鳴らしてみて」と言ったので、ギターを鳴らして応える。それを何度か繰り返した。
「ヘッドフォンつけろ」
 渡されたのでおずおずと受け取る。

「じゃあ一回目」
 その言葉のあと、ヘッドフォンからカウント音が流れ始めた。ギターのネックを握り、指の位置を定める。オケが流れ始めて、頭の中にあった音を取り出した。

 弾き終えて肩を落とす。緊張のせいか、イメージの1/10もできなかった。リズムも狂ってガタガタだった。
「もう一回やらせて」
 悔しかったので、響のほうから頼んだ。すると恭平は頷き、パソコンに向き直ると言った。
「……行くぞ」
 ヘッドフォンからカウント音が流れ、響は息を吸い込んで気合いを入れ直し、再び弾き始めた。

 弾き終えると今度は恭平が言った。
「もう一回、今のと同じやつ」

 それから十回弾いても終わらず、一回休憩を挟んで飲み物を買いに行き、一休みしたあとまた始めた。
 昼過ぎまで続いて、14時頃になりようやく終了の声がかかった。三十回目を終えたところだった。こんなに集中し続けたのは初めての経験で、最後の方は熱でもあるのかと思うほど、身体が熱くなっていた。

 曲を作る難しさを知り、レコーディングの大変さを身に沁みて味わった。湊はこんなことを一人でやっていたのかと驚き、それどころか、恭平は全ての楽器を生音でレコーディングしているのだからと、尊敬の針が振り切れた。
 自分で考えたフレーズがオケに乗り、曲になっていくというのは既存の曲を演奏する以上の興奮がある。アイデアは次々と出てくるし、試行錯誤していくことがとてつもなく楽しく、想像以上の体験だった。

「これ使ってもいいか?」
「本気? まとまった演奏できなかったけど」
「大丈夫。編集するから。いいところを繋ぎ合わせる。使わせてもらえるとありがたい」
「……こんなんでいいなら」
 照れながらもそう答えると、恭平は見たことがないくらいに嬉しそうな笑顔を見せた。
 その表情を見て、本気なのだと改めて身体が震えた。
 わりと自分でもいいリフが弾けたとは満足していたけど、内心は単なる試し録りか、遊び半分かと考えていたから、まさか本当に使う気があるのだとは思っていなかった。

 恭平はパソコンをスリープモードにして立ち上がり、響の方へ振り向いた。
「飯食お」
「そういや飯抜きでやってたな。思い出したらめちゃくちゃ腹減ってきた」
「お礼に奢る。何が食いたい?」
「えっ?」
 金欠だったはずでは?と頭をよぎったので、顔にもそれが出たのだろう。恭平はニヤリと口角を上げた。
「親父がボーナスもらったから」
「おお! お小遣い奮発してもらった?」
「欲しい機材あったけど、とりあえず今のでも十分だし」
 恭平は鍵をかけて戸締まりを確認し、歩き出したのでついていく。
「じゃ、焼き肉」
「そんなの無理」
「えー! じゃあステーキ?」
「ステーキガストならいい」
「ガストかよ」
「十分だろ?」

 真剣に努力したあとの飯はなんでも美味い。それが奢りならなおのこと。達成感もあって、晴れやかな気分でガストへ向かった。