「響ってアルグレのKawaseの弟なの?」
とうとうこの日が来てしまった。
登校した河瀬響は、教室に入るなりいきなりそう問われ、驚くと同時に肩の荷が下りた気分になった。そしてこれまでに何度となく投げられてきたその質問に、一年半ぶりに答えた。
「そう。kawaseは実の兄貴」
それをきっかけに、数人の男子が響を取り囲んだ。
「すご! まじで?」
「有名人じゃん!」
「サインとかもらえる?」
一斉に言われて気圧された響は、小さな身体をさらに縮こませる。
「いやー……今別々に暮らしてるから」
「ああ、東京か。こんな田舎にいるわけないか」
「てか今度家に行ってもいい?」
「兄貴がいるわけじゃないし……」
「でも見てみたい」
「おーい、始業ベルは鳴ったぞ」
担任の大井田が声をあげながら大股で入ってくると、教室は蜘蛛の子を散らすようにしてそれぞれの席へとついた。
高校に入学して一年と三ヶ月……もったほうだろう。
兄弟であることを誰も知らない場所を求めて、遠方の高校をわざわざ選んだものの、バレずに卒業を迎えることはできなかった。
ホームルームが終わり、一限目の古文が始まった。
教室はしんと静まり返り、チョークが黒板を引っ掻く音だけが響いている。そんな中、どこからか囁くような声が耳に届いた。
「え? 河瀬くんってアルグレの弟なの?」
「まじ?」
「Kawaseと兄弟? 全然似てねー」
耳にタコができたこの言葉も、またうんざりするほど聞くことになるのだろう。
母親似の響は、線が細く小柄な体型と中性的な顔立ちで、髪もサラサラとして茶色がかっている。そのせいか、私服だと女子に間違われることも少なくなく、女の子がギターを弾くアニメが流行った当時、その誰だかのキャラに似ていると揶揄されたことも一度ではない。
対して湊は父親似で背が高く、音楽漬けでスポーツなどろくにしていないのに筋肉がつきやすいのかがっしりとした体型で、顔も男らしいというか、眉が太く鷲鼻で線が太い。昔から似ていない兄弟だと言われていた。
響の兄、河瀬湊は、プロのミュージシャンだ。Earl Gressiveというバンドのギターと作詞作曲を担当している。
響が高校に入学した年に、三つ上の湊は大学に進学し、その年の秋にメジャーデビューが決まった。今年の春に深夜アニメの主題歌に抜擢され、そのアニメ『世界から色が消えた』が大ヒットしたことで、一気に知名度が上がった。
バンドを組む以前からボカロPのKawaseとして既に有名だったので、同じ中学に進学した響が兄弟であることは誰もが知っていた。最初こそ誇らしく、Kawaseの弟だと言われて喜んでいたものの、言われ続けるうちに嫌気が差し、指摘されることが耐え難くなった。
これで響の高校生活は中学のときと同じ道を行くことになる。いや、メジャーデビューし、主題歌が話題になってしまった今では、以前よりも悪化する可能性が高い。
響にとって湊は自慢の兄だ。それは今も変わらない。
ギターを弾く喜びを教えてくれたのも兄だし、プロにまでなったのだから尊敬するのは当然だ。
湊は幼少期からピアノを習っていて、元々演奏することが好きだったのだが、中学に上がりギターを始めた途端にさらに夢中になり、それまでは練習よりも優先させてくれていた、サッカーやゲームの相手をしてくれなくなった。
しかし響は、構ってもらえなくなったと落胆するよりも興味を惹かれ、弾かせてくれないかとせがんだ。
すると、こんなに面白いものなのかと衝撃を受け、兄を追うように、お年玉の貯金をはたいてギターを購入した。演奏する喜びに取り憑かれ、遊んでいるよりもずっと楽しいと夢中になり、兄とともに練習する日々を過ごした。
響はそれだけで満足していたが、湊は違ったようで、演奏するだけでは飽き足らず、ピアノとギターで作曲を始めた。既存の曲を弾くよりも、好きなリフを詰め込んだ曲を自作する方がよっぽど楽しいのだと湊は言った。
凝り始めると止まらなくなったのか、父のパソコンを使い、DTM機材やソフトを買い集め、アレンジもミックスも全て自分の納得のいくものをと、まるごと楽曲制作を始めた。すると、家族友人だけでなく、もっと大勢の人に聞いてもらいたいと思うのは自然の道理だとばかりに、ボカロPとしてニコ動やYoutubeに投稿を始めるようになった。
「ボカロって面白いけど、人の声の方がいいんじゃないの?」
ある日、純粋な疑問として湊に投げかけた。
「ボカロ曲を投稿して、歌い手に歌ってもらうのがいいんだ」
「そうなんだ」
しかし響は知っていた。家族が寝静まったあと、湊がこっそりと自作曲の歌唱を練習していることを。
響は歌には自信があった。小学校でも、入学したばかりの中学でも音楽で合唱の授業になると、必ずソロパートに選ばれるし、クラスメイトからもよく褒められていた。
兄を驚かせるために、毎日下校途中の河原で湊の曲を練習し、披露することにした。
「練習したから聞いて欲しい」
「なんだ?」
「新曲のインスト流してみて」
「なんだよ?」
湊は不思議がりながらも弟の剣幕に押されたのか、スピーカーから、ボカロ部分だけを除いたオケを流してくれた。
響は、練習した成果を湊に聞かせた。
湊の曲はボカロの女性声に合わせているためキーが高く、リズムも独特で、歌うには難しい曲だ。しかし練習の甲斐があってか、自分でも上手く歌えていると思えた。作った本人も嬉しかろうと、そう自己満足に浸りながら歌っていたのだが、1コーラスを歌い終えたとき、湊は突然オケを停止した。
どうしたのだろう? と兄の姿に目をやると驚いた。
喧嘩したことがないとは言わないが、男兄弟としては仲の良いほうだと思う。その兄が見たこともないほどの憤怒の表情をしていたのだ。
「俺の曲を二度と歌うな!」
怒鳴り声をあげると立ち上がり、夕飯の用意ができたとの母の声も無視して家から出ていった。
強烈なショックだった。
仲の良い兄が、まとわりついても「響は俺の一番のファンだな」と受け入れてくれていた兄が、ここまで怒るとは思ってもみなかった。下手だったとしても「おいおい、やめとけよ」と軽い感じでいなされる程度だろうと考えていたのに。
その出来事があったすぐ後、湊は高校で城田仁美に出会い、城田とともにEarl Gressiveというバンドを組んだ。
ボカロPとしてではなくバンドで投稿を始め、YouTubeの再生回数が跳ね上がり、徐々に名が知られるようになっていった。
「響ってアルグレのKawaseの弟なの?」
「Kawaseが兄ってマジ?」
友人だけでなく、話したことのない生徒にも声をかけられるようになった。
「え、じゃあMistyって響の知り合い?」
「Mistyの横にいるギタリストって響の兄貴?」
Misty──城田はボカロならではと言うか、人間が歌うには難しい曲でも難なく歌いこなし、湊の作る曲にぴったりとハマる声質を持っていた。
しかし響は、なぜ城田は良くて自分がだめなのか理解できなかった。技術的に自分が劣っているとは思えず、声質のせいなのか、性別のためか、それとも湊にしかわからない理由があるのか、考えても答えが出るはずのない悩みに苦しんだ。
さらに湊は家族を──弟を避けるように、部屋に鍵を取り付け、不在でも在室でも常に鍵をかけているようになった。
そういったことが次々と起こり、響の自尊心は少しずつえぐられていった。仲が良かった兄に否定され、避けられ、城田と組んだこと。その事実を受け入れるために、自負を抑えつけるしかなかった。
やがて、自分の歌は下手だと思い込むようになり、歌うことそのものができなくなってしまった。
とうとうこの日が来てしまった。
登校した河瀬響は、教室に入るなりいきなりそう問われ、驚くと同時に肩の荷が下りた気分になった。そしてこれまでに何度となく投げられてきたその質問に、一年半ぶりに答えた。
「そう。kawaseは実の兄貴」
それをきっかけに、数人の男子が響を取り囲んだ。
「すご! まじで?」
「有名人じゃん!」
「サインとかもらえる?」
一斉に言われて気圧された響は、小さな身体をさらに縮こませる。
「いやー……今別々に暮らしてるから」
「ああ、東京か。こんな田舎にいるわけないか」
「てか今度家に行ってもいい?」
「兄貴がいるわけじゃないし……」
「でも見てみたい」
「おーい、始業ベルは鳴ったぞ」
担任の大井田が声をあげながら大股で入ってくると、教室は蜘蛛の子を散らすようにしてそれぞれの席へとついた。
高校に入学して一年と三ヶ月……もったほうだろう。
兄弟であることを誰も知らない場所を求めて、遠方の高校をわざわざ選んだものの、バレずに卒業を迎えることはできなかった。
ホームルームが終わり、一限目の古文が始まった。
教室はしんと静まり返り、チョークが黒板を引っ掻く音だけが響いている。そんな中、どこからか囁くような声が耳に届いた。
「え? 河瀬くんってアルグレの弟なの?」
「まじ?」
「Kawaseと兄弟? 全然似てねー」
耳にタコができたこの言葉も、またうんざりするほど聞くことになるのだろう。
母親似の響は、線が細く小柄な体型と中性的な顔立ちで、髪もサラサラとして茶色がかっている。そのせいか、私服だと女子に間違われることも少なくなく、女の子がギターを弾くアニメが流行った当時、その誰だかのキャラに似ていると揶揄されたことも一度ではない。
対して湊は父親似で背が高く、音楽漬けでスポーツなどろくにしていないのに筋肉がつきやすいのかがっしりとした体型で、顔も男らしいというか、眉が太く鷲鼻で線が太い。昔から似ていない兄弟だと言われていた。
響の兄、河瀬湊は、プロのミュージシャンだ。Earl Gressiveというバンドのギターと作詞作曲を担当している。
響が高校に入学した年に、三つ上の湊は大学に進学し、その年の秋にメジャーデビューが決まった。今年の春に深夜アニメの主題歌に抜擢され、そのアニメ『世界から色が消えた』が大ヒットしたことで、一気に知名度が上がった。
バンドを組む以前からボカロPのKawaseとして既に有名だったので、同じ中学に進学した響が兄弟であることは誰もが知っていた。最初こそ誇らしく、Kawaseの弟だと言われて喜んでいたものの、言われ続けるうちに嫌気が差し、指摘されることが耐え難くなった。
これで響の高校生活は中学のときと同じ道を行くことになる。いや、メジャーデビューし、主題歌が話題になってしまった今では、以前よりも悪化する可能性が高い。
響にとって湊は自慢の兄だ。それは今も変わらない。
ギターを弾く喜びを教えてくれたのも兄だし、プロにまでなったのだから尊敬するのは当然だ。
湊は幼少期からピアノを習っていて、元々演奏することが好きだったのだが、中学に上がりギターを始めた途端にさらに夢中になり、それまでは練習よりも優先させてくれていた、サッカーやゲームの相手をしてくれなくなった。
しかし響は、構ってもらえなくなったと落胆するよりも興味を惹かれ、弾かせてくれないかとせがんだ。
すると、こんなに面白いものなのかと衝撃を受け、兄を追うように、お年玉の貯金をはたいてギターを購入した。演奏する喜びに取り憑かれ、遊んでいるよりもずっと楽しいと夢中になり、兄とともに練習する日々を過ごした。
響はそれだけで満足していたが、湊は違ったようで、演奏するだけでは飽き足らず、ピアノとギターで作曲を始めた。既存の曲を弾くよりも、好きなリフを詰め込んだ曲を自作する方がよっぽど楽しいのだと湊は言った。
凝り始めると止まらなくなったのか、父のパソコンを使い、DTM機材やソフトを買い集め、アレンジもミックスも全て自分の納得のいくものをと、まるごと楽曲制作を始めた。すると、家族友人だけでなく、もっと大勢の人に聞いてもらいたいと思うのは自然の道理だとばかりに、ボカロPとしてニコ動やYoutubeに投稿を始めるようになった。
「ボカロって面白いけど、人の声の方がいいんじゃないの?」
ある日、純粋な疑問として湊に投げかけた。
「ボカロ曲を投稿して、歌い手に歌ってもらうのがいいんだ」
「そうなんだ」
しかし響は知っていた。家族が寝静まったあと、湊がこっそりと自作曲の歌唱を練習していることを。
響は歌には自信があった。小学校でも、入学したばかりの中学でも音楽で合唱の授業になると、必ずソロパートに選ばれるし、クラスメイトからもよく褒められていた。
兄を驚かせるために、毎日下校途中の河原で湊の曲を練習し、披露することにした。
「練習したから聞いて欲しい」
「なんだ?」
「新曲のインスト流してみて」
「なんだよ?」
湊は不思議がりながらも弟の剣幕に押されたのか、スピーカーから、ボカロ部分だけを除いたオケを流してくれた。
響は、練習した成果を湊に聞かせた。
湊の曲はボカロの女性声に合わせているためキーが高く、リズムも独特で、歌うには難しい曲だ。しかし練習の甲斐があってか、自分でも上手く歌えていると思えた。作った本人も嬉しかろうと、そう自己満足に浸りながら歌っていたのだが、1コーラスを歌い終えたとき、湊は突然オケを停止した。
どうしたのだろう? と兄の姿に目をやると驚いた。
喧嘩したことがないとは言わないが、男兄弟としては仲の良いほうだと思う。その兄が見たこともないほどの憤怒の表情をしていたのだ。
「俺の曲を二度と歌うな!」
怒鳴り声をあげると立ち上がり、夕飯の用意ができたとの母の声も無視して家から出ていった。
強烈なショックだった。
仲の良い兄が、まとわりついても「響は俺の一番のファンだな」と受け入れてくれていた兄が、ここまで怒るとは思ってもみなかった。下手だったとしても「おいおい、やめとけよ」と軽い感じでいなされる程度だろうと考えていたのに。
その出来事があったすぐ後、湊は高校で城田仁美に出会い、城田とともにEarl Gressiveというバンドを組んだ。
ボカロPとしてではなくバンドで投稿を始め、YouTubeの再生回数が跳ね上がり、徐々に名が知られるようになっていった。
「響ってアルグレのKawaseの弟なの?」
「Kawaseが兄ってマジ?」
友人だけでなく、話したことのない生徒にも声をかけられるようになった。
「え、じゃあMistyって響の知り合い?」
「Mistyの横にいるギタリストって響の兄貴?」
Misty──城田はボカロならではと言うか、人間が歌うには難しい曲でも難なく歌いこなし、湊の作る曲にぴったりとハマる声質を持っていた。
しかし響は、なぜ城田は良くて自分がだめなのか理解できなかった。技術的に自分が劣っているとは思えず、声質のせいなのか、性別のためか、それとも湊にしかわからない理由があるのか、考えても答えが出るはずのない悩みに苦しんだ。
さらに湊は家族を──弟を避けるように、部屋に鍵を取り付け、不在でも在室でも常に鍵をかけているようになった。
そういったことが次々と起こり、響の自尊心は少しずつえぐられていった。仲が良かった兄に否定され、避けられ、城田と組んだこと。その事実を受け入れるために、自負を抑えつけるしかなかった。
やがて、自分の歌は下手だと思い込むようになり、歌うことそのものができなくなってしまった。