「響ってアルグレのKawaseの弟なの?」
とうとうこの日が来てしまった。
登校した河瀬響は、教室に入るなりいきなりそう問われ、驚くと同時に肩の荷が下りた気分になった。そしてこれまでに何度となく投げられてきたその質問に、一年半ぶりに答えた。
「そう。kawaseは実の兄貴」
それをきっかけに、数人の男子が響を取り囲んだ。
「すご! まじで?」
「有名人じゃん!」
「サインとかもらえる?」
一斉に言われて気圧された響は、小さな身体をさらに縮こませる。
「いやー……今別々に暮らしてるから」
「ああ、東京か。こんな田舎にいるわけないか」
「てか今度家に行ってもいい?」
「兄貴がいるわけじゃないし……」
「でも見てみたい」
「おーい、始業ベルは鳴ったぞ」
担任の大井田が声をあげながら大股で入ってくると、教室は蜘蛛の子を散らすようにしてそれぞれの席へとついた。
高校に入学して一年と三ヶ月……もったほうだろう。
兄弟であることを誰も知らない場所を求めて、遠方の高校をわざわざ選んだものの、バレずに卒業を迎えることはできなかった。
ホームルームが終わり、一限目の古文が始まった。
教室はしんと静まり返り、チョークが黒板を引っ掻く音だけが響いている。そんな中、どこからか囁くような声が耳に届いた。
「え? 河瀬くんってアルグレの弟なの?」
「まじ?」
「Kawaseと兄弟? 全然似てねー」
耳にタコができたこの言葉も、またうんざりするほど聞くことになるのだろう。
母親似の響は、線が細く小柄な体型と中性的な顔立ちで、髪もサラサラとして茶色がかっている。そのせいか、私服だと女子に間違われることも少なくなく、女の子がギターを弾くアニメが流行った当時、その誰だかのキャラに似ていると揶揄されたことも一度ではない。
対して湊は父親似で背が高く、音楽漬けでスポーツなどろくにしていないのに筋肉がつきやすいのかがっしりとした体型で、顔も男らしいというか、眉が太く鷲鼻で線が太い。昔から似ていない兄弟だと言われていた。
響の兄、河瀬湊は、プロのミュージシャンだ。Earl Gressiveというバンドのギターと作詞作曲を担当している。
響が高校に入学した年に、三つ上の湊は大学に進学し、その年の秋にメジャーデビューが決まった。今年の春に深夜アニメの主題歌に抜擢され、そのアニメ『世界から色が消えた』が大ヒットしたことで、一気に知名度が上がった。
バンドを組む以前からボカロPのKawaseとして既に有名だったので、同じ中学に進学した響が兄弟であることは誰もが知っていた。最初こそ誇らしく、Kawaseの弟だと言われて喜んでいたものの、言われ続けるうちに嫌気が差し、指摘されることが耐え難くなった。
これで響の高校生活は中学のときと同じ道を行くことになる。いや、メジャーデビューし、主題歌が話題になってしまった今では、以前よりも悪化する可能性が高い。
響にとって湊は自慢の兄だ。それは今も変わらない。
ギターを弾く喜びを教えてくれたのも兄だし、プロにまでなったのだから尊敬するのは当然だ。
湊は幼少期からピアノを習っていて、元々演奏することが好きだったのだが、中学に上がりギターを始めた途端にさらに夢中になり、それまでは練習よりも優先させてくれていた、サッカーやゲームの相手をしてくれなくなった。
しかし響は、構ってもらえなくなったと落胆するよりも興味を惹かれ、弾かせてくれないかとせがんだ。
すると、こんなに面白いものなのかと衝撃を受け、兄を追うように、お年玉の貯金をはたいてギターを購入した。演奏する喜びに取り憑かれ、遊んでいるよりもずっと楽しいと夢中になり、兄とともに練習する日々を過ごした。
響はそれだけで満足していたが、湊は違ったようで、演奏するだけでは飽き足らず、ピアノとギターで作曲を始めた。既存の曲を弾くよりも、好きなリフを詰め込んだ曲を自作する方がよっぽど楽しいのだと湊は言った。
凝り始めると止まらなくなったのか、父のパソコンを使い、DTM機材やソフトを買い集め、アレンジもミックスも全て自分の納得のいくものをと、まるごと楽曲制作を始めた。すると、家族友人だけでなく、もっと大勢の人に聞いてもらいたいと思うのは自然の道理だとばかりに、ボカロPとしてニコ動やYoutubeに投稿を始めるようになった。
「ボカロって面白いけど、人の声の方がいいんじゃないの?」
ある日、純粋な疑問として湊に投げかけた。
「ボカロ曲を投稿して、歌い手に歌ってもらうのがいいんだ」
「そうなんだ」
しかし響は知っていた。家族が寝静まったあと、湊がこっそりと自作曲の歌唱を練習していることを。
響は歌には自信があった。小学校でも、入学したばかりの中学でも音楽で合唱の授業になると、必ずソロパートに選ばれるし、クラスメイトからもよく褒められていた。
兄を驚かせるために、毎日下校途中の河原で湊の曲を練習し、披露することにした。
「練習したから聞いて欲しい」
「なんだ?」
「新曲のインスト流してみて」
「なんだよ?」
湊は不思議がりながらも弟の剣幕に押されたのか、スピーカーから、ボカロ部分だけを除いたオケを流してくれた。
響は、練習した成果を湊に聞かせた。
湊の曲はボカロの女性声に合わせているためキーが高く、リズムも独特で、歌うには難しい曲だ。しかし練習の甲斐があってか、自分でも上手く歌えていると思えた。作った本人も嬉しかろうと、そう自己満足に浸りながら歌っていたのだが、1コーラスを歌い終えたとき、湊は突然オケを停止した。
どうしたのだろう? と兄の姿に目をやると驚いた。
喧嘩したことがないとは言わないが、男兄弟としては仲の良いほうだと思う。その兄が見たこともないほどの憤怒の表情をしていたのだ。
「俺の曲を二度と歌うな!」
怒鳴り声をあげると立ち上がり、夕飯の用意ができたとの母の声も無視して家から出ていった。
強烈なショックだった。
仲の良い兄が、まとわりついても「響は俺の一番のファンだな」と受け入れてくれていた兄が、ここまで怒るとは思ってもみなかった。下手だったとしても「おいおい、やめとけよ」と軽い感じでいなされる程度だろうと考えていたのに。
その出来事があったすぐ後、湊は高校で城田仁美に出会い、城田とともにEarl Gressiveというバンドを組んだ。
ボカロPとしてではなくバンドで投稿を始め、YouTubeの再生回数が跳ね上がり、徐々に名が知られるようになっていった。
「響ってアルグレのKawaseの弟なの?」
「Kawaseが兄ってマジ?」
友人だけでなく、話したことのない生徒にも声をかけられるようになった。
「え、じゃあMistyって響の知り合い?」
「Mistyの横にいるギタリストって響の兄貴?」
Misty──城田はボカロならではと言うか、人間が歌うには難しい曲でも難なく歌いこなし、湊の作る曲にぴったりとハマる声質を持っていた。
しかし響は、なぜ城田は良くて自分がだめなのか理解できなかった。技術的に自分が劣っているとは思えず、声質のせいなのか、性別のためか、それとも湊にしかわからない理由があるのか、考えても答えが出るはずのない悩みに苦しんだ。
さらに湊は家族を──弟を避けるように、部屋に鍵を取り付け、不在でも在室でも常に鍵をかけているようになった。
そういったことが次々と起こり、響の自尊心は少しずつえぐられていった。仲が良かった兄に否定され、避けられ、城田と組んだこと。その事実を受け入れるために、自負を抑えつけるしかなかった。
やがて、自分の歌は下手だと思い込むようになり、歌うことそのものができなくなってしまった。
「じゃあ、今年の学祭はアルグレの『魔術師』で決まりだな」
放課後になり、部室のドアノブに手をかけたときだった。やはりそうきたかとギクリとし、ドアを隙間ほど開けた状態で硬直した。
『魔術師』とは深夜アニメ『世界から色が消えた』の主題歌で、アルグレの最新曲だ。
秋にある学祭で演奏する曲をそろそろ決めなければならない。どうやらその話をしているようだ。弟が兄の曲を、しかも兄のパートを演奏するとなると、比較されるどころではないため、できることなら回避したい案だった。
「まじ? むずくない?」
ボーカルの北田の提案に答えたのは、ベースの弓野だ。小中と一緒の幼馴染だそうで、二人とも茶髪にピアスとチャラけているが、陽気で根は優しい。
「せっかくメンバーに弟がいるんだから、やらない手はない!」
北田たちのクラスにも噂が届いてしまったのか。
「あ! 噂をすれば」
ドア側に向いていた弓野からは丸見えだったようで、立ち聞きはすぐに終了した。
「よお」いかにも今来ましたという素振りで入室する。
「あ、響! 今、学祭の曲考えてて『魔術師』にしようかって」北田が振り向く。
「兄貴なんだって? 教えろよー! ビビったわ」
響がギターケースを机の上に置いたところに、弓野が声をかけてきた。
「わざわざ言う必要なくない?」
「照れんなよ」
弓野がふざけて髪をわしゃわしゃと撫でてきたので振り払う。
「別に照れてない」
「いいなー、俺なら自慢して回るわ」
「俺も」
「響はギターバカだもんな」
「俺たちのような俗物とは違うみたいな?」
「そうそう。てか、だからあんなにギター上手いんだな」
──これも何度となく言われてうんざりしている言葉だ。
湊の方が少し早く始めたものの、練習量では負けていないつもりなのに、ギターを演奏すると「弟だから上手いんだ」と、いつもそう言われてしまう。
兄が有名なギタリストだろうが弟の腕に関係はないし、実力は努力の賜物だというのに。
響は話題を変えつつも、アルグレを回避しようと試みる。
「『魔術師』ってむずくない?」
北田が振り返る。
「俺、カラオケで何度も練習してるし既に完璧」
弓野がスマホを操作して『魔術師』を流す。
「いや、でもテンポ速すぎね?」
「学祭まで三ヶ月あるだろ? 夏休み中にやり込めばできるっしょ」
「そうかな? まあ、ボーカルがそう言うなら」
「せっかく弟がメンバーにいるんだから、期待されるよきっと」
「確かに」
弓野と北田に視線を向けられ、響は返答に詰まってドラムに話を振ることにした。
「南波は?」
「……俺はなんでもいい」
「南波に意見なんてねーよ。叩けりゃ満足するやつだ」北田が割って入る。
アルグレ回避のために、技術的な面をさらに叩くことにする。
「でも、もっと簡単な方がよくない? さすがに無理だと思うけど」
「簡単? また古い曲やんの?」
嫌そうな北田の返答に、弓野も続く。
「去年みたいな知らねー親世代のバンドの曲なんて盛り上がらねーよ。やっぱ最新の曲じゃなきゃ」
まだパンチが弱い。それならば、と反論の手を変える。
「じゃあヒゲダンとか……」
「ああ、ヒゲダン好き」
「無理無理! むず過ぎ!」
北田は乗ってくれたが、弓野には効かなかったようだ。他に何か手は、と考えていると──
「北田いる?」
突然、ドア口から女子が顔を出した。
「あ、香里奈!」北田が跳ねたように立ち上がる。
「ここにKawaseの弟がいるって──」
「ああ、こいつこいつ」
北田が響の横に来て腕を掴み、反対側の手で指し示した。
「まじ?」
「ホント?」
「全然似てない」
香里奈の後ろには何人か女子がいるようだ。
「マジだって!」
北田が女子たちの方へ行くと、弓野も続いた。
葉山香里奈だ。探るような目を向けられて、慌てて逸らす。
「名前は?」
「河瀬響」なぜか北田が答える。
「河瀬だって!」
「じゃあマジなんだ」
女子たちが小声で騒ぎ立てている横をすり抜け、香里奈が部室に入ってきた。
「河瀨くん、名前の漢字は?」
響よりもわずかに背が高いらしい香里奈に、顎をあげ見下ろすようにして問われて、怯んでしまう。
「……音響の『響』って書いて『ひびき』だけど」
「きょう……ひびき……」
香里奈は考え込むように呟いて、なぜか笑みを浮かべた。
何か続きを言いかけようとしたのか、口を開いたとき、香里奈の制服のポケットからスマホの通知音が鳴った。
意識を逸らされた香里奈はスマホを取り出し、
「勇斗が呼んでる。行こ」
女子たちに向かってそう言うと、踵を返して部室を出ていった。
「あ、待って!」慌てたように女子たちがついていく。
「香里奈!」北田も言いながら後を追い、
「あ、じゃあ『魔術師』で決まりな。楽譜探しておくから」と言って弓野も続いた。
賑やかしい声が少しづつ遠のいていく。
反対に軽音部の部室は静まり返った。
「不服そうだな」
愉快そうな声が聞こえて、響は振り返る。
ドラムの南波恭平だ。ドラムスローンに腰を下ろして、スティックをくるくると指で器用に回している。
「不服って、何が?」
「嫌なんだろ? アルグレ演るの」
響はドキリとした。兄弟であることを指摘されたくない、その想いを見透かされているのだろうか?
動揺が表に出ないように素知らぬ顔で返す。
「嫌っつーか、むずいじゃん」
「まあ、このバンドじゃな」
「北田が歌い切れるとは思えない」
「それにベースもだ。リズム刻むくらいがせいぜいなのに、リフなんて弓野には荷が重い」
響はホッとした。どうやら不服な顔をした理由はバンドのレベルが低いからだと解釈してくれたようだ。
ギターを手にしてアンプのスイッチを入れる。
恭平がドラムを叩き始めたので、足元にあるエフェクターのつまみを操作して、ギターを鳴らした。
「何を演る?」
問われたので、リフで答えた。
「ああ、いいな」
恭平も響の演奏に合わせてリズムを刻み、Official髭男dismの『Pretender』をギターとドラムだけで演奏し始めた。
一人で黙々とギターを弾いている孤独から逃げたくなった響は、自宅から離れているという理由だけでなく、軽音部があるからもあって、この八代高校を選んだ。
入部してバンドを組むことができて、孤独からは解放されたが、素人に毛も生えていないレベルの部員ばかりで、学年で一組でも組めればいい程度の人数しかいないため、選り好みもできず、バンドはお粗末とも言えるクオリティだった。
ボーカルはカラオケでも耳をふさぐほどだし、ベースはただ鳴らしているだけでリズムもあったものじゃない。それでも響ともう一人、抜きん出てレベルの高いドラムがいるおかげで、バンドとしての醍醐味を味わうことはできた。
だから活動が自由過ぎてろくにメンバーが集まらず、ほとんど恭平と二人きりでも、セッションするだけでもと、毎日部室に顔を出している。
「そのアレンジだったらギター一本でもいけるな。さすが河瀬」
「これになると思って」
北田がヒゲダンにハマっていると耳にしていたので、学祭では『Pretender』を演奏することになるだろうと、密かにアレンジを考えつつ練習していた。
「……俺もだ。ミセスも好きだって言っていたから『ライラック』あたりかもしれないとも思ったが、弓野じゃ無理だな」
確かにミセスはベースラインが特徴的だし、ヒゲダンよりも難しい。
恭平がドラムを鳴らし始めた。これは──ONE OK ROCKの『完全感覚Dreamer』だ。
お気に入りの曲だったため、慌てて入った。
恭平は上手い。どのジャンルでもお手の物だ。こうやって適当に弾き始めたときも、いつそんな練習をしていたのかと驚くほど、どんな曲でも演奏してしまう。
一年のときから同じクラスで部活も一緒。最も長い時間を過ごしている相手だと言えるのに、親しい友になるどころか、会話すらろくにしたことがなく、連絡事項を伝え合うか、今のように雑談をする程度の関係だ。
しかしそれは、恭平自体が他人というものに対して興味がないからのようだった。いつも周りをシャットアウトするように、スマホを片手にイヤホンで耳を塞ぎ、話しかけられてもニコリともせず、他人と関わりたくないというオーラを常に放っている。
成績は常に上位で、ドラマーがゆえか逞しい体つきをしているし、癖のある厚めの前髪をかき上げればイケメンなのだから、モテてもおかしくないと思うのだが、背の高さを隠すように身体を丸め、いつも俯いていて陰気な印象を与えているからか、騒がれるどころか避けられている。
しかし部活に関してだけは熱心で、誰よりも最初に来て最後まで帰らない。音楽への情熱は響に負けず劣らずなので、その面では密かに親近感を覚えていた。
それが現在の恭平に対する印象の全てだった。これまでは。今日それに多少の変化があった。
朝から響がKawaseの弟だという話で持ち切りなのに、恭平は一言も口にしていない。
これだけ噂になっているのだから気にはなっているだろうに、どうでもいいことだとしても、そう思ってくれるヤツが身近にいると思うと気が楽になるし、敢えて言わないようにしてくれているのだとしたら、そんなきめ細やかな心遣いができるのかと認識を改めざるを得ない。
どちらにせよ、恭平に対して、これまでとは違った印象を感じたことは間違いなかった。
放課後部室へ行くと響が一番のりだった。
三年生は受験があると言って春から来なくなっていたし、一年は全員が素人レベルなこともあり、自宅で練習しているのか、あまり部室に顔を出さない。
学祭に出演すると言っても、出し物のメインは、演劇部の舞台と全国大会常連の吹奏楽部の演奏で、軽音部は前座的な役割でしかない。期待している人などろくにいないため、出演バンドが響たちだけでも構わないだろうけど、それはそれで目立つから嫌だと思わなくもないし、どうするのだろう?と少しばかりの焦りはあった。
「あれ? 響だけ? 南波は?」
「珍しいー」
北田と弓野が現れた。
「ほら、『魔術師』の楽譜」
北田からA4用紙の束を渡される。
「無理だわこんなの」
弓野がベースをドスンと机の上に置き、中身を取り出しながら続ける。
「昨日家で弾いてみたけど、絶対に無理!」
「じゃあミセスにしよ! アルグレの次に好きだろ? 『ライラック』にしようぜ。響がいればなんとかなるっしょ」
北田の言葉を聞いて、響は『ライラック』のイントロリフを弾いてみせた。アルグレ回避のチャンスは逃せない。
「ほら」北田が大袈裟な手振りで響を指し示す。
「自信ねー。ヒゲダンは?」弓野が声をあげる。
「いいけど、お前弾けんの?」
「ミセスより弾けると思う」
「香里奈たち『ダンスホール』踊るって言ってたし、ミセス繋がりの方がよくない?」北田がスマホを操作しながら答える。
「言ってたな。確か『踊』も」
「昨日見たけどめちゃくちゃかっこよかった」
「まじ? 俺は帰って練習してたのに、カラオケ行くっつって香里奈たちんとこ行ってたのかよ!」
「だって、呼ばれたから」
「誘えよ」
北田のスマホから通知音。
「あ、今日もこれからやるって」スマホをスクロールしながら言う。
「まじ? どこで?」
「第二体育館」
「行くべ」弓野は立ち上がり、ベースをケースに戻し始める。
「お前も来んの? 練習は?」
「家でやっとくから。それにミセスにするんならまた楽譜探さなきゃじゃん」
ケースを肩にかけ、弓野は北田の背中を押してドアに向かい、そのまま喋りながら部室を後にした。
と思ったら弓野が再び顔を出して「あ、ということで今日の練習はパスな」そう言って去っていった。
来てすぐに帰るなんて、これではバンド練習どころではない。とは言え北田たちの行動を理解できないこともない。男子高校生たるもの、女子に呼び出されては何よりも優先すべきことなのだろう。
しかし響にとっては別世界の話だ。男子に対してすら消極的なのに、女子になんて話しかけることすら不可能で、恋愛なんて興味の外にある。そんなふうに高校生活を満喫するよりも、ギターに打ち込んでいるこの生活の方が楽しいし充実している。クラスメイトたちと上辺だけの付き合いでも構わないし、疎外感も感じない。
それは恭平の存在があるからだった。
あれだけの技術があるんだから、遊ぶ暇すらないだろうし、親しい友人すらいない恭平に彼女なんているはずがないと、勝手ながらに仲間意識を持っていた。
ギターを取り出してアンプに繋ぎ、なとりの『絶対零度』を弾き始める。
一人だからと油断して鼻歌で歌いながら弾いていたら、ドアの開く音がしたので慌てて演奏を止めた。
「なんで止めるんだ?」
恭平だった。
鼻歌でも歌ってしまっていたせいだったが、そんなことを言えるはずがない。どう返答しようか迷っていると、恭平は部室の隅で埃を被っていたキーボードのところへ向かった。
「なとりか」
スイッチをいれ、いきなり『Overdose』を演奏し始めた。
──めちゃくちゃかっこいい。
歌のメロディ部分と伴奏部分を同時に弾いている。シンプルだが派手さもあり、キーボード一つでここまで魅せられるのかと感心した。
弾き終わり、自然と拍手をしてしまうほどだった。
恭平は振り向こうとして途中で止め、再びキーボードへ向き直り、今度は同じくなとりの『フライデーナイト』を弾き始めた。これまた驚くほど良かった。
ドラムだけでなくキーボードも弾けるとは。それも相当な年数を弾いてこなければ出来ないレベルだ。
ほれぼれと聴き入っていた響は、演奏が終わってすぐに、恭平の側へ歩み寄った。
「何年弾いてるんだ?」
「……13年」
「まじ?」
響は思わず声を上げた。ということは3、4歳から? 湊よりも小さい頃からだ。ピアノにドラム……同じ音楽バカだと思って感じていた仲間意識が揺らいだ。仲間どころか先輩じゃないか。
「なとりは好きか?」
「えっ? 好きだよ」
「……河瀬が一番好きなミュージシャンは?」
誰だろう? 以前ならアルグレと答えていたが、今は口が裂けても言いたくない。
迷っていたら、恭平が先に答えた。
「俺はなとりが好きだ」
意外だった。
普段演奏しているジャンルとはまるで違う。ハード寄りのロックが好きなのだと思っていた。
「じゃあ学祭で……」
「北田に歌って欲しくない」
言い終えないうちに恭平がかぶせてきて、響は吹き出した。
北田に歌って欲しくないなんて、相当好きなんだと思ったら可笑しくなったのだ。
「……誰もが歌っていい曲と、本人以外に誰にも歌って欲しくない曲がある」
「ああ……」
それには同感だ。『歌ってみた』で次々にカバーがアップされ、プロでも他のミュージシャンの曲を歌ったり演奏したりしているが、いくらプロでも本人以外は残念だという曲は少なからずある。
なとりはまさに完成形という声だから、他の誰にも歌って欲しくないというのはわかる。Adoも天才歌手だと思うが、それでも『Overdose』はなとりだけの曲という感じがする。
恭平はまたアルミケースを出してきて、マイクやスタンド、オーディオインターフェイスなどを用意し始めた。
遅れて響もそれを手伝い、そのあと五回ほどレコーディングした。
翌日、そのまた翌日と同じように、恭平のレコーディングの手伝いをしていくうちに、セッションをしていただけの頃よりも会話が増えてきた。
薄々気がついてはいたものの、好きなアーティストやジャンルが丸かぶりだったことを改めて知り、あの曲がいいとか、あのリフは最高だとか、よくあんなメロを思いつくよな、などと盛り上がり、親しく話せるようになっていった。
帰り支度を済ませて帰宅しようとしていたあるとき、恭平が戸締まりをして、鍵を庇の上に置いたタイミングで、思いついて声をかけた。
「あのさ、せっかく同じクラスで同じバンド仲間なんだし……恭平って呼んでもいい?」
「は?」
気恥ずかしい提案だが、今まで出会ってきた誰よりも気が合うように感じられて、初めて自分から親しくなりたいと思った相手だったから、思いきって言ってみることにした。
「俺のこと、河瀬じゃなくて響って呼んでほしいから……」
なにより、兄のアーティスト名である『Kawase』と同じ名前で呼ばれることに抵抗があった。名字なので仕方がないが、呼ばれる機会が増えてきたから、クラスメイトと同様になるべく名前で呼んでほしいという思いがあったのだ。
「わかった」
「ホント? じゃあ、響って呼べよ。恭平って呼ぶから」
「ああ」
胸を撫で下ろした。照れくさい提案をしても、茶化すことも断ることもなく、いつもと同じ態度でいてくれた。恭平は、こんなふうにこちらの気持ちを汲んでくれるところがある。
「恭平と話す機会なんて、今までいくらでもあったのにもったいないことしてたなあ」
「話すのは苦手だ」
「だよね。俺もだよ。つーか音楽の細かい話題まで話せるやつがいなかったからなんだけど。兄貴が家を出たせいで、かなり鬱憤が溜まってるんだよね。この間キタ兄が出した新譜聴いた? あのアレンジぶっ飛んだよな──」
話し出すと止まらないほど、恭平との会話が楽しくて仕方がなくなっていた。恭平は相変わらず寡黙ではあるものの、意外と気さくだし、冗談も通じる。それにさすが音楽歴13年というか、そんな視点があったのかと驚くようなことを的確に突いたりもして勉強にもなる。
恭平も孤独を好んでいるタイプだからか、引っ込み思案なところを理解してくれるのではという思いもあり、これまで自ら他人と深く関わろうとしていなかった響も、恭平に対してだけは心を開き始めていた。
放課後部室へ行くと響が一番のりだった。
三年生は受験があると言って春から来なくなっていたし、一年は全員が素人レベルなこともあり、自宅で練習しているのか、あまり部室に顔を出さない。
学祭に出演すると言っても、出し物のメインは、演劇部の舞台と全国大会常連の吹奏楽部の演奏で、軽音部は前座的な役割でしかない。期待している人などろくにいないため、出演バンドが響たちだけでも構わないだろうけど、それはそれで目立つから嫌だと思わなくもないし、どうするのだろう?と少しばかりの焦りはあった。
「あれ? 響だけ? 南波は?」
「珍しいー」
北田と弓野が現れた。
「ほら、『魔術師』の楽譜」
北田からA4用紙の束を渡される。
「無理だわこんなの」
弓野がベースをドスンと机の上に置き、中身を取り出しながら続ける。
「昨日家で弾いてみたけど、絶対に無理!」
「じゃあミセスにしよ! アルグレの次に好きだろ? 『ライラック』にしようぜ。響がいればなんとかなるっしょ」
北田の言葉を聞いて、響は『ライラック』のイントロリフを弾いてみせた。アルグレ回避のチャンスは逃せない。
「ほら」北田が大袈裟な手振りで響を指し示す。
「自信ねー。ヒゲダンは?」弓野が声をあげる。
「いいけど、お前弾けんの?」
「ミセスより弾けると思う」
「香里奈たち『ダンスホール』踊るって言ってたし、ミセス繋がりの方がよくない?」北田がスマホを操作しながら答える。
「言ってたな。確か『踊』も」
「昨日見たけどめちゃくちゃかっこよかった」
「まじ? 俺は帰って練習してたのに、カラオケ行くっつって香里奈たちんとこ行ってたのかよ!」
「だって、呼ばれたから」
「誘えよ」
北田のスマホから通知音。
「あ、今日もこれからやるって」スマホをスクロールしながら言う。
「まじ? どこで?」
「第二体育館」
「行くべ」弓野は立ち上がり、ベースをケースに戻し始める。
「お前も来んの? 練習は?」
「家でやっとくから。それにミセスにするんならまた楽譜探さなきゃじゃん」
ケースを肩にかけ、弓野は北田の背中を押してドアに向かい、そのまま喋りながら部室を後にした。
と思ったら弓野が再び顔を出して「あ、ということで今日の練習はパスな」そう言って去っていった。
来てすぐに帰るなんて、これではバンド練習どころではない。とは言え北田たちの行動を理解できないこともない。男子高校生たるもの、女子に呼び出されては何よりも優先すべきことなのだろう。
しかし響にとっては別世界の話だ。男子に対してすら消極的なのに、女子になんて話しかけることすら不可能で、恋愛なんて興味の外にある。そんなふうに高校生活を満喫するよりも、ギターに打ち込んでいるこの生活の方が楽しいし充実している。クラスメイトたちと上辺だけの付き合いでも構わないし、疎外感も感じない。
それは恭平の存在があるからだった。
あれだけの技術があるんだから、遊ぶ暇すらないだろうし、親しい友人すらいない恭平に彼女なんているはずがないと、勝手ながらに仲間意識を持っていた。
ギターを取り出してアンプに繋ぎ、なとりの『絶対零度』を弾き始める。
一人だからと油断して鼻歌で歌いながら弾いていたら、ドアの開く音がしたので慌てて演奏を止めた。
「なんで止めるんだ?」
恭平だった。
鼻歌でも歌ってしまっていたせいだったが、そんなことを言えるはずがない。どう返答しようか迷っていると、恭平は部室の隅で埃を被っていたキーボードのところへ向かった。
「なとりか」
スイッチをいれ、いきなり『Overdose』を演奏し始めた。
──めちゃくちゃかっこいい。
歌のメロディ部分と伴奏部分を同時に弾いている。シンプルだが派手さもあり、キーボード一つでここまで魅せられるのかと感心した。
弾き終わり、自然と拍手をしてしまうほどだった。
恭平は振り向こうとして途中で止め、再びキーボードへ向き直り、今度は同じくなとりの『フライデーナイト』を弾き始めた。これまた驚くほど良かった。
ドラムだけでなくキーボードも弾けるとは。それも相当な年数を弾いてこなければ出来ないレベルだ。
ほれぼれと聴き入っていた響は、演奏が終わってすぐに、恭平の側へ歩み寄った。
「何年弾いてるんだ?」
「……13年」
「まじ?」
響は思わず声を上げた。ということは3、4歳から? 湊よりも小さい頃からだ。ピアノにドラム……同じ音楽バカだと思って感じていた仲間意識が揺らいだ。仲間どころか先輩じゃないか。
「なとりは好きか?」
「えっ? 好きだよ」
「……河瀬が一番好きなミュージシャンは?」
誰だろう? 以前ならアルグレと答えていたが、今は口が裂けても言いたくない。
迷っていたら、恭平が先に答えた。
「俺はなとりが好きだ」
意外だった。
普段演奏しているジャンルとはまるで違う。ハード寄りのロックが好きなのだと思っていた。
「じゃあ学祭で……」
「北田に歌って欲しくない」
言い終えないうちに恭平がかぶせてきて、響は吹き出した。
北田に歌って欲しくないなんて、相当好きなんだと思ったら可笑しくなったのだ。
「……誰もが歌っていい曲と、本人以外に誰にも歌って欲しくない曲がある」
「ああ……」
それには同感だ。『歌ってみた』で次々にカバーがアップされ、プロでも他のミュージシャンの曲を歌ったり演奏したりしているが、いくらプロでも本人以外は残念だという曲は少なからずある。
なとりはまさに完成形という声だから、他の誰にも歌って欲しくないというのはわかる。Adoも天才歌手だと思うが、それでも『Overdose』はなとりだけの曲という感じがする。
恭平はまたアルミケースを出してきて、マイクやスタンド、オーディオインターフェイスなどを用意し始めた。
遅れて響もそれを手伝い、そのあと五回ほどレコーディングした。
翌日、そのまた翌日と同じように、恭平のレコーディングの手伝いをしていくうちに、セッションをしていただけの頃よりも会話が増えてきた。
薄々気がついてはいたものの、好きなアーティストやジャンルが丸かぶりだったことを改めて知り、あの曲がいいとか、あのリフは最高だとか、よくあんなメロを思いつくよな、などと盛り上がり、親しく話せるようになっていった。
帰り支度を済ませて帰宅しようとしていたあるとき、恭平が戸締まりをして、鍵を庇の上に置いたタイミングで、思いついて声をかけた。
「あのさ、せっかく同じクラスで同じバンド仲間なんだし……恭平って呼んでもいい?」
「は?」
気恥ずかしい提案だが、今まで出会ってきた誰よりも気が合うように感じられて、初めて自分から親しくなりたいと思った相手だったから、思いきって言ってみることにした。
「俺のこと、河瀬じゃなくて響って呼んでほしいから……」
なにより、兄のアーティスト名である『Kawase』と同じ名前で呼ばれることに抵抗があった。名字なので仕方がないが、呼ばれる機会が増えてきたから、クラスメイトと同様になるべく名前で呼んでほしいという思いがあったのだ。
「わかった」
「ホント? じゃあ、響って呼べよ。恭平って呼ぶから」
「ああ」
胸を撫で下ろした。照れくさい提案をしても、茶化すことも断ることもなく、いつもと同じ態度でいてくれた。恭平は、こんなふうにこちらの気持ちを汲んでくれるところがある。
「恭平と話す機会なんて、今までいくらでもあったのにもったいないことしてたなあ」
「話すのは苦手だ」
「だよね。俺もだよ。つーか音楽の細かい話題まで話せるやつがいなかったからなんだけど。兄貴が家を出たせいで、かなり鬱憤が溜まってるんだよね。この間キタ兄が出した新譜聴いた? あのアレンジぶっ飛んだよな──」
話し出すと止まらないほど、恭平との会話は楽しい。相変わらず寡黙ではあるものの、意外と気さくだし、冗談も通じる。それにさすが音楽歴13年というか、そんな視点があったのかと驚くようなことを的確に突いたりもして勉強にもなる。
恭平も孤独を好んでいるタイプだからか、引っ込み思案なところを理解してくれるのではという思いもあり、これまで自ら他人と深く関わろうとしていなかった響も、恭平に対してだけは心を開き始めていた。
学祭の曲は結局、Earl Gressiveの『魔術師』とOfficial髭男dismの『Pretender』そしてVaundyの『ホムンクルス』に決定した。三曲でいいのかと聞くと、北田は「俺は何曲でもいいけど」と言ったが、弓野が「それ以上できねーよ」と言うのでその三曲になった。
決定したものの、ちょうどテストの時期が来て、部活動も停止になったため、夏休み前は個々に練習し、夏休みに入ったら本格的に合わせ始めることになった。
その日はテストの最終日で、午前で下校となる日だった。
響はテストが終わった開放感から、数日まともに弾いていなかったギターをアンプに繋いで思い切り弾きたくなり、持ってきてはいなかったが、部室に古いのが転がっていたはずだと思いついて、生徒が続々と帰宅していく中、部室へと向かった。
卒業生が新入部員の練習用にと、何本か置いていったものがある。それを探そうとしていたら、真新しいギターケースが目に留まった。
誰かの持ち物だろうか?と考える。
しかしテスト前二週間は、大会が近いなどの切羽詰まった理由がない限り部活動は禁止で、鍵も教務室に保管されている。今日は顧問から直接借り受けてきたし、停止前に鍵をかけたのも響だ。そのとき、こんなものはなかったはずだった。
もしかしたら、先生が卒業生からの寄贈品かなにかを置いていったのかもしれない。
そう考えて、響はギターケースを開けた。
エピフォンのエレアコ──エレクトロニック・アコースティック・ギターだ。
手にとって鳴らしてみる。いい音だ。
椅子に座って、チューニングをする。エピフォンなら、と考えて、なとりの『Overdose』を弾き始めた。
イントロを弾き始めたら自然と声が出て、いつしか歌も口ずさんでいた。
なとりを弾くならアコギに限る。
響はアコギを持っていない。湊が自宅にいた頃はたまに借りて弾かせてもらっていたが、引っ越してしまってからは手にしておらず、久しぶりのことだった。
そのとき、いきなりドアの開く音がした。
響は飛び上がるようにして演奏を止め、椅子から立ち上がった。
まさか歌声を聞かれていないよな?
動揺していることが悟られないように、平静を装う。
「なんだ恭平か」
恭平はスタスタと部室に入ってきて、見渡すように視線をあちこちに向けている。
「響一人?」
「えっ? うん、見りゃわかるっしょ」
「今、歌ってた?」
「えっ? 何が?」ドキリとする。
「歌声が……」
恭平がおかしいな?というように首をひねったのを見て、身体中からドッと汗が噴き出る。
「これ、流しながら弾いてたから」
震える手でスマホを素早く操作して、『Overdose』を流した。
恭平はスマホと響の顔を探るように交互に見たあと、響が手にしていたエレアコのところで目を留めた。
「それ、俺の」
跳ねるように立ち上がり、慌ててエレアコを持って恭平に歩み寄る。
「あ、ごめん! 卒業生からの寄贈品だと思って」
受け取った恭平は、未だに納得がいかないというような顔をしていたが、椅子に座ってエレアコを鳴らすといつもの表情に戻った。どうやら誤魔化せたようだ。
「さすがチューニング完璧」
「あ、えっと、なんで恭平が……その、エレアコなんて」
「ああ、今日はこれを録る。家だと響くから」
エレキギターと違って、エレアコは母体がアコギだから音が大きい。なるほど、と納得したが、している場合ではない。
「ギターも弾けんの?」
恭平はちらりと一瞥しただけで何も答えず、エレアコを弾き始めた。
おいおい、と冷や汗が出る。響ほどのレベルではないものの、軽音部の誰よりも上手い。
リフから入ってコードに移る。アコギ独特の旋律とメロディが心地よく、聴いているだけで映像が浮かんできそうな曲だった。
月夜の下、静かな海の波の音……誰か大切な人と一緒にいて、幸せなはずなのに幸せ過ぎて不安で、一秒でも離れたくないというような──
演奏技術に感心すると同時に、いい曲だと惚れ惚れとして、自分でも弾いてみたくなってきた。
弾き終えて、拍手の代わりに言葉をかけた。
「驚いた。ギターまで弾けるとは。しかもめちゃくちゃ上手いし」
「響に聴かせるレベルじゃないが」
照れくさいのか、恭平は視線を合わせずにエレアコをいじっている。
「何言ってんの。めちゃくちゃよかった。今の誰の曲?」
「……俺の曲」
聞こえないほどの声量で呟いて、立ち上がってアコギを机の上に置いた。
なんだって? 今なんて言った?
口をパクパクさせるだけで、言葉として出てこない。
驚いて固まっている響の横を、平然と通り過ぎた恭平は、いつもとは違うアルミケースを持ち出して、セッティングを始めた。
響は理解が追いつかず、呆然として、恭平の行動を目で追うしかできない。
そんな響を尻目に、恭平はエレアコをアンプに繋いで鳴らし、横の机に置いたパソコンを操作し始めた。
「今のは、恭平の曲ってこと?」
混乱した響の声は、ギターの音でかき消された。
「歌だけはできないからボカロだけど」
そう言って、再び同じ曲を弾き始めた。
響は驚き、圧倒され、感動して打ち震えた。
曲を作っている? 恭平が? こんなかっこいい曲を?
凄すぎる。兄貴と同じ……いや、それ以上だ。こだわりなのか、性分なのか、一人でバンドのほとんどを演奏してしまうなんて。
などと驚いていたが、恭平の曲は好みのど真ん中だったこともあり、演奏を聞くのに夢中になってきて、驚くどころではなくなった。
しばらく酔いしれるように聞いていて、ピンとくる。
「これ、もしかしてこの間録ってたドラムの曲?」
恭平はすぐには答えず、最後まで弾き終えたあと、おもむろに口を開いた。
「そう。最近はなるべく生音を使ってるから」
「え……最近はって、他にも何曲かあるの?」
「まあ」
恭平は視線を合わせない。表情は不機嫌そうなほどで、ぶすっと口元を結び、これ以上話したくないとばかりに再びレコーディングを開始した。
他にも曲かあるなら是非とも聞いてみたい。ドラムとギターだけでもツボだなのだから、完成した楽曲はどれほどのものかと、演奏に聞き入りながら、ウズウズとした気持ちが高まっていた。
一段落したのか、恭平がギターの手を止め、椅子の背もたれに身体を落ち着けたのを見計らい、今がタイミングだと捉えて近づいた。
「ニコ動とかYouTubeに投稿してる?」
恭平はわずかに肩を震わせ、視線を壁に向けたまま静止した。
じりじりと期待して、恭平の口元が言葉になるのを見守る。
「──してる」
思わず歓喜の笑みがこぼれる。ここまで凝ったことをしておいて、自己満足で終わるはずがないだろうと思っていた。
「まじ? アカウント教えて!」
「なんでだよ」
恭平は視線を下げ、再びエレアコをいじり始める。
「なんでって、聞きたいからに決まってるだろ?」
「……大したことない」
「大したことあるよ! めちゃくちゃかっこいいじゃん! 教えろよ! てか、なんで隠してたんだよ?」
「……響だって隠していただろ?」
「何が? ……えっ?」
アルグレのKawaseと兄弟だったということを言っているのだろうか?と思い当たる。
「いやそれは、だって……俺のことじゃないし」
「お前のことだろ?」
「そんなことより、全世界に向けて投稿してるんだから、クラスメイトに教えるくらいいいだろ?」
「……リアルの知り合いに知られたくない」
「なんでだよ」
そう答えたものの、恭平のその気持ちは理解できるものだった。
自分で曲も作っていないやつに、面と向かってわかったように批評されたくはない。ネット越しならスルーできても、リアル相手だと逃げることはできないし面倒だ。
響も湊のことで散々言われた覚えがあったため、気持ちはわかる。しかし──
「頼む! 誰にも言わないから。お願い! 聞いてみたい。さっきの曲もめちゃくちゃツボだったんだ。他のも聞いてみたい。頼む!」
精一杯真剣に頼み込むと、恭平は逸らしていた視線をこちらに戻した。
探るような目を向け、数秒ほど見つめ合う。
やがて恭平は観念したように息を吐いた。
「Kyo」
「えっ?」きょう?
「アルファベットだ」
早速スマホを取り出してニコ動のアプリを──
「今ここで検索するな」
すぐさま聞きたかったのに怒鳴られたので、「じゃ、また来週!」と言って、ここではない場所へ向かうために部室を後にした。
一刻も早く恭平の曲を聴いてみたい。ドラムとギターだけでもツボだったし、他の曲も好みに違いない、と期待で胸がいっぱいだった。
ここまで来たら見咎められないだろうと考えて、昇降口を出たところでイヤホンを耳にいれた。ニコ動のアプリを開き、『Kyo』と入力をして検索をかける。ざっと見ただけでも10人ほどの同名アカウントが表示された。
ひとつひとつ聴いて確認して、それらしきアカウントに目星をつける。それらしきというのは、恭平の演奏から察したわけだが──間違いないだろうと聞き始めた。
期待以上だった。ギターもめちゃくちゃ上手い。いいところでリフが入る。ベースとドラムとの掛け合いがかっこいい。打ち込みのものもあるが、新しい曲の中には生音のものもある。いつの間にレコーディングをしていたのだろう。
こんなかっこいい曲を作れるなんて思わなかった。音楽バカで、自分と同類だと思っていたことが恥ずかしい。恭平の音楽に対する姿勢はレベルが違う。
ギターには負けない自信はあるけれど、誇れるところはそこだけだ。ギター以外に何もできない。比べる必要はないとは言え、圧倒された分、その差を感じて少し凹んだ。
恭平の曲を聞きながら家路につき、自宅へ帰ってからも夢中で聞き続けた。
翌日からは三連休だということもあり、朝日が上るまでむさぼり聞いて、朝方眠って昼頃起きて、食事を摂るとまた聞いた。
響は一度ハマると夢中になるタイプで、始終そればかりを繰り返し聞いて、ギターで弾きこなせるようになるまで落ち着くことができない。
Kyoは5曲投稿していたので、最初に惹かれた曲から順に耳コピをして、口ずさみながら練習を始めた。
最近は夢中になるアーティストに出会っていなかったこともあり、新たな魅力に夢中になるのは久しぶりのことだった。
いつしか羨みや凹みはすっかり吹き飛び、Kyoは友人の恭平だということも忘れて、一人のアーティストとして惚れ込み、夢中になっていった。
明けた火曜日は午前終わりで、部活動は自由だった。放課後になり部室へ行くと、北田と弓野は、昼飯を買ってこなかったからと言って下校し、いつものように恭平と二人きりになった。
「食わないの?」
響は弁当を食べ始めたが、恭平は部室に来てすぐにドラムスローンに座ったまま、食べようとする素振りを見せない。
「コンプレッサー買っちまって金がない」
「え? 昼抜き?」
「別に腹減らないし」
男子高校生が昼を抜くなど、絶食と同じではないかと心配になる。
「食いかけだけど食う?」
響は半分になった弁当箱を差し出す。
「いらねーよ!」
「嫌い? 食いかけが嫌だった?」
弁当はオムライスと唐揚げだ。
「嫌いでもないし食いかけは構わないが、要らん」
「なんで?」
「もらえるかよ!」
ムキになっているところが、『食べたい』と同意な気もする。そう考えて、響はドラムのすぐ隣の机の上に弁当箱を置いた。
「まあ、食べなよ。俺はもういい。それよりさ」
ギターを手に取って別の椅子に座り、アンプのスイッチを入れて、Kyoの『ディスコミュニケーション』を弾き始めた。今にも弾きたくてウズウズしていたのだ。いの一番に気に入り、最初に弾きこなせるようになった曲だった。
三連休の間ヘッドフォン越しだったから、アンプに繋いで思いきり弾きたかった。念願が叶ったことで演奏に入り込み、徐々に陶酔状態になってきた。
新しくハマったボカロ曲を練習し、ここまで弾きこなせるようになったんだと、恭平に聞いてもらって、その魅力を滔々と語る。親しくなって以来何度も繰り返してきたことだ。
弾き終えた響は満足し、ドヤ顔で恭平を見た。
「いいだろ? 三連休の間ドハマリして、ずっと聞きまくってたんだ」
「……まじで? ……つーかやっぱ、上手いな」
感心したような声を聞いて顔がほころぶ。
演奏を聞いてもらったのだからと、今度は曲の魅力と、Kyoの良さを説明し始めた。
このモードに入った響は、相手がドン引きしてようが、どんな表情をしてようがお構いなしになってしまう。他人と親しくなれず、引っ込み思案な性格は、これを自覚しているせいでもある。親しくなるとこういった真似をしてしまって、自分でも止めることができないため、引かれるのが怖い。しかし、恭平はそんなウザ語りに付き合ってくれるばかりか、むしろ嬉しそうな顔をして相手をしてくれるから、恭平の前だけは遠慮なく見せられる一面だった。
今回も、恭平だからとお構いなしに喋りまくっていたのだが、その夢中になっているKyoが、目の前にいる恭平なんだということは抜け落ちたままだった。
「──というわけだよ。とにかく凄いんだ、Kyoは! めちゃくちゃかっこいいんだ!」
「ああ、ありがとう……」
普段なら笑顔で乗ってきてくれるはずの恭平が、珍しくドン引きした様子で苦笑いしているのを見て、響はようやく気がついた。
そうだ、Kyoは恭平だ。本人だった!
みるみる顔が熱くなり、取り繕おうと焦り、弁当箱を指で差す。
「あっ、だから、というわけで、弁当やるよ」
そう言って、ギターを置いたまま、慌てて部室から駆け出した。
走っているせいなのか、精神的な冷や汗なのか、全身がびっしょりになりながらバスに乗り込んだ。もう部室には戻れない。どんな顔をして戻ればいいというのか、と困惑し、自宅へ帰ることにした。
褒めちぎったのだから不愉快にはならなかったとしても、さすがにあれはない。ドン引きした恭平の表情が頭から離れない。
しかも食べかけの弁当を置いてくるとは、処理に困ったことだろうと、重ね重ね申し訳なくなり、響は頭を抱えた。