「あーだるい」
窓辺に置かれた古いベンチ。何代も前の学生が使っていた資料が床に山積みにされている中に、腕で顔を覆った仁が横たわっている。
それを横目に見ながら、蒼は部屋の中央の大きな机で、少し居心地の悪い気持ちでカメラの調整をしていた。
今この部屋にいるのは、仁と蒼はふたりだけ。だから仁の方はすっかり裏モードである。制服のネクタイをくつろげて『だるい』と繰り返している。
とは言ってもここは寮の部屋ではない。
古くてめったに人が来ない旧校舎にある写真部の部室だ。
他の部の部室は三年前に建てられた新しい特別棟にあるのに、写真部だけが旧校舎のまま放置されているのにはわけがある。
写真部は、部員のほとんどが幽霊部員という学園の中でも異質な存在なのだ。以前は活発に活動していたのだが年々部員が減り一時期は、廃部寸前までいった。今は部活はしたくないが推薦入学を受けるために部活に入っているという実績がほしいという生徒のために存在している。だから蒼が入学するまでの数年間は部としての活動実績はなく部室をわざわざ移す必要がなかったのだ。
春に入部した際に活動をしたいと蒼が顧問に言うと、驚きつつ鍵を渡してくれた。以来、蒼は放課後時々ここへ来て自分で撮った写真の整理をしたりカメラの手入れをしたりしている。
普段は蒼以外の人間が来ないこの部屋に、今、仁がいるのはさっきホームルームを終えて、旧校舎までの道のりを歩いている際に捕まってしまったからだ。
寮と旧校舎は反対方向。どこへ行くのかと尋ねられて誤魔化すことができなくて、正直に事情を話した。するとついてきたというわけだ。取り巻きを連れていなかったのが不幸中の幸いだ。
窓辺でぐったりとしている仁を、蒼は気まずい気持ちでチラリと見る。仁が疲れているのは、朝、蒼のために体育教師とやり合ったことが原因なのだ。
あの後、今日一日、蒼の方はとくになにもなかったが、仁の方はどうやらそうではなかったらしい。
体育の時間に、件の教師からなにかと理由をつけてグラウンド多く走らされ、筋トレもやらされるという嫌がらせを受けた。校則に載っていないからと、蒼のマスクの件を突っぱねた腹いせか、授業の一環だと繰り返し言われたらしい。そう言われてしまえば従わないわけにはいかない。だから彼は疲れているというわけだ。
「昨日ほとんど寝てねーのに、あのゴリラ」
呟いて、彼は目を閉じている。
蒼はカメラの手入れをしていた手を止めた。それもこれも自分を助けてくれたからだと思うと、さすがに申し訳ない気持ちになる。
「俺のせいですみませんでした」
声をかけると、仁が腕を外してこちらを見る。その視線に、蒼は"そうだお前のせいだ"と言われるだろうと身構えた。その通りなのだから、なにを言われても仕方がないと覚悟するけれど。
「……べつにお前のためだけじゃねえよ。俺、あいつ嫌いなんだ。教師だからっていっつも好き放題しやがって」
意外にも柔らかな言葉が返ってきて驚いて瞬きを繰り返す。
仁が首を傾げた。
「なに?」
「いや……意外だったから」
「意外ってなにが?」
「えーっと、脅しの材料がなくなるから仕方なく助けてくれたのかと……」
尋ねられて蒼は思っていることをそのまま口に出してしまう。
すると仁は一瞬静止して、次の瞬間噴き出した。
「お前、どれだけ俺を最低なやつだと思ってるんだよ……!」
笑いながらそう言って、くっくと肩を揺らしている。
その笑顔に蒼の胸がドキンと跳ねた。彼の笑顔を見るのははじめてではない。人前では常ににこやかだけれど、今はその笑顔とは違っているように思えた。
「だ、だって……! でも……す、すみません」
慌てて蒼は言い訳をする。やっかいな教師と対立してまで助けてくれたのに、あまりにも失礼な言い方だったかもしれない。
とはいえ、彼はべつに気を悪くしたわけではないようで相変わらずただ愉快そうに笑っている。
「俺、お前に結構優しくしてやってるつもりなんだけど。まぁいいや、ちょっと寝る。帰る時起こせ。ほったらかしにして帰るなよ」
そう言って仁は、口もとに笑みを浮かべたまま目を閉じる。それを蒼は不思議な気持ちで見つめていた。
彼の表の顔は王子さま、裏の顔は悪魔だと思っていたけれど、少し思い違いをしているように感じたからだ。
この十日間が最悪だったことは間違いない。
仁とルームメイトになったことで蒼は完全に注目の的。仁が一緒にいないところでも常に誰かに見られている。蒼が望む静かな生活とはほど遠い。
けれど考えてみれば、彼自身からは初日以来、とくにひどいことを言われたりされたりはしていない。
初日にマスクを奪われた際も、彼ははじめは真摯に謝っていた。蒼が嫌がるそぶりを見せたからか、あれ以来、蒼がひとりでいることやマスクをつけている理由についてあれこれ聞かれることもない。
注目されることによって、他の生徒から蒼が暗いとか仁のルームメイトとして相応しくないと揶揄されることもけれど、それについてもさりげなく庇ってくれている。今朝も、鞄の中身をぶちまけた蒼を馬鹿にした美希のことを黙らせてくれた。
さっきまでは、頃合いをみて部屋から出ていってほしいと彼に言うつもりだった。蒼にとって部活の時間は、校舎の中でひとりになれる癒やしとも言える時間だ。誰にも邪魔されたくはない。
でも今は、どうしてかはわからないけれどそんな気分にはなれなかった。
——まぁ、いいか。寝てるだけだし。
そう結論を出した時、喉の渇きを感じて、蒼は一旦カメラを置く。鞄からペットボトルを取り出してキャップを開けマスクを外して水を飲んだ。
再びマスクを着けようとして手を止めしばらく考える。普段この部屋にいる時は、マスクを外して作業する。ひとりだからだ。
今は仁がいるけれど……。
蒼は再び仁を見る。窓から差し込む日の光の中、気持ちよさそうに眠る彼は少し暑いのか、だらしなくシャツのボタンを外している。茶色い髪も乱れていた。
今朝教室で女子たちが言っていた言葉が頭に浮かんだ。
『噂では仁先輩と遊んだって子はいっぱいいるけど、寝てるところって誰も見たことがないんだって』
ただの成り行きではあるけれど彼は蒼の前で素顔を晒している。今は無防備に寝顔まで見せているのだ。
蒼は、すうっと息を吸ってゆっくりと吐いた。人前でマスクを外した時に感じる動悸と息苦しさはもうなかった。
彼の眠りを妨げないようにマスクを静かに机に置いて、音を立てないようにカメラを手に取った。
窓辺に置かれた古いベンチ。何代も前の学生が使っていた資料が床に山積みにされている中に、腕で顔を覆った仁が横たわっている。
それを横目に見ながら、蒼は部屋の中央の大きな机で、少し居心地の悪い気持ちでカメラの調整をしていた。
今この部屋にいるのは、仁と蒼はふたりだけ。だから仁の方はすっかり裏モードである。制服のネクタイをくつろげて『だるい』と繰り返している。
とは言ってもここは寮の部屋ではない。
古くてめったに人が来ない旧校舎にある写真部の部室だ。
他の部の部室は三年前に建てられた新しい特別棟にあるのに、写真部だけが旧校舎のまま放置されているのにはわけがある。
写真部は、部員のほとんどが幽霊部員という学園の中でも異質な存在なのだ。以前は活発に活動していたのだが年々部員が減り一時期は、廃部寸前までいった。今は部活はしたくないが推薦入学を受けるために部活に入っているという実績がほしいという生徒のために存在している。だから蒼が入学するまでの数年間は部としての活動実績はなく部室をわざわざ移す必要がなかったのだ。
春に入部した際に活動をしたいと蒼が顧問に言うと、驚きつつ鍵を渡してくれた。以来、蒼は放課後時々ここへ来て自分で撮った写真の整理をしたりカメラの手入れをしたりしている。
普段は蒼以外の人間が来ないこの部屋に、今、仁がいるのはさっきホームルームを終えて、旧校舎までの道のりを歩いている際に捕まってしまったからだ。
寮と旧校舎は反対方向。どこへ行くのかと尋ねられて誤魔化すことができなくて、正直に事情を話した。するとついてきたというわけだ。取り巻きを連れていなかったのが不幸中の幸いだ。
窓辺でぐったりとしている仁を、蒼は気まずい気持ちでチラリと見る。仁が疲れているのは、朝、蒼のために体育教師とやり合ったことが原因なのだ。
あの後、今日一日、蒼の方はとくになにもなかったが、仁の方はどうやらそうではなかったらしい。
体育の時間に、件の教師からなにかと理由をつけてグラウンド多く走らされ、筋トレもやらされるという嫌がらせを受けた。校則に載っていないからと、蒼のマスクの件を突っぱねた腹いせか、授業の一環だと繰り返し言われたらしい。そう言われてしまえば従わないわけにはいかない。だから彼は疲れているというわけだ。
「昨日ほとんど寝てねーのに、あのゴリラ」
呟いて、彼は目を閉じている。
蒼はカメラの手入れをしていた手を止めた。それもこれも自分を助けてくれたからだと思うと、さすがに申し訳ない気持ちになる。
「俺のせいですみませんでした」
声をかけると、仁が腕を外してこちらを見る。その視線に、蒼は"そうだお前のせいだ"と言われるだろうと身構えた。その通りなのだから、なにを言われても仕方がないと覚悟するけれど。
「……べつにお前のためだけじゃねえよ。俺、あいつ嫌いなんだ。教師だからっていっつも好き放題しやがって」
意外にも柔らかな言葉が返ってきて驚いて瞬きを繰り返す。
仁が首を傾げた。
「なに?」
「いや……意外だったから」
「意外ってなにが?」
「えーっと、脅しの材料がなくなるから仕方なく助けてくれたのかと……」
尋ねられて蒼は思っていることをそのまま口に出してしまう。
すると仁は一瞬静止して、次の瞬間噴き出した。
「お前、どれだけ俺を最低なやつだと思ってるんだよ……!」
笑いながらそう言って、くっくと肩を揺らしている。
その笑顔に蒼の胸がドキンと跳ねた。彼の笑顔を見るのははじめてではない。人前では常ににこやかだけれど、今はその笑顔とは違っているように思えた。
「だ、だって……! でも……す、すみません」
慌てて蒼は言い訳をする。やっかいな教師と対立してまで助けてくれたのに、あまりにも失礼な言い方だったかもしれない。
とはいえ、彼はべつに気を悪くしたわけではないようで相変わらずただ愉快そうに笑っている。
「俺、お前に結構優しくしてやってるつもりなんだけど。まぁいいや、ちょっと寝る。帰る時起こせ。ほったらかしにして帰るなよ」
そう言って仁は、口もとに笑みを浮かべたまま目を閉じる。それを蒼は不思議な気持ちで見つめていた。
彼の表の顔は王子さま、裏の顔は悪魔だと思っていたけれど、少し思い違いをしているように感じたからだ。
この十日間が最悪だったことは間違いない。
仁とルームメイトになったことで蒼は完全に注目の的。仁が一緒にいないところでも常に誰かに見られている。蒼が望む静かな生活とはほど遠い。
けれど考えてみれば、彼自身からは初日以来、とくにひどいことを言われたりされたりはしていない。
初日にマスクを奪われた際も、彼ははじめは真摯に謝っていた。蒼が嫌がるそぶりを見せたからか、あれ以来、蒼がひとりでいることやマスクをつけている理由についてあれこれ聞かれることもない。
注目されることによって、他の生徒から蒼が暗いとか仁のルームメイトとして相応しくないと揶揄されることもけれど、それについてもさりげなく庇ってくれている。今朝も、鞄の中身をぶちまけた蒼を馬鹿にした美希のことを黙らせてくれた。
さっきまでは、頃合いをみて部屋から出ていってほしいと彼に言うつもりだった。蒼にとって部活の時間は、校舎の中でひとりになれる癒やしとも言える時間だ。誰にも邪魔されたくはない。
でも今は、どうしてかはわからないけれどそんな気分にはなれなかった。
——まぁ、いいか。寝てるだけだし。
そう結論を出した時、喉の渇きを感じて、蒼は一旦カメラを置く。鞄からペットボトルを取り出してキャップを開けマスクを外して水を飲んだ。
再びマスクを着けようとして手を止めしばらく考える。普段この部屋にいる時は、マスクを外して作業する。ひとりだからだ。
今は仁がいるけれど……。
蒼は再び仁を見る。窓から差し込む日の光の中、気持ちよさそうに眠る彼は少し暑いのか、だらしなくシャツのボタンを外している。茶色い髪も乱れていた。
今朝教室で女子たちが言っていた言葉が頭に浮かんだ。
『噂では仁先輩と遊んだって子はいっぱいいるけど、寝てるところって誰も見たことがないんだって』
ただの成り行きではあるけれど彼は蒼の前で素顔を晒している。今は無防備に寝顔まで見せているのだ。
蒼は、すうっと息を吸ってゆっくりと吐いた。人前でマスクを外した時に感じる動悸と息苦しさはもうなかった。
彼の眠りを妨げないようにマスクを静かに机に置いて、音を立てないようにカメラを手に取った。