相澤学園の学食はまるでカフェのような明るい空間である。
 学生たちはたくさんのメニューから好きなものを選べ授業の合間のひとときを楽しむことができる。入学案内のパンフレットにも載っていて、それが学園の売りでもあるのだが、蒼はあまり利用したことがなかった。
 食堂でひとり食事をするのが嫌だからである。
 食堂はいわゆる陽キャラと言われる生徒たちのための場所のようなもの。
 いるだけで背中がむずむずとする。いつも売店で適当なものを買い、教室の隅か部室へ行って済ませている。
 それが今、その食堂の窓際の目立つ席で全校生徒の注目を浴びながら、カレーライスを食べているのは、目の前に座りスパゲッティを食べる仁に誘われたからである。いや、正確に言うと引っ張ってこられたというべきか。
「蒼、食べないのか? 食欲ない?」
 スパゲッティを絡めたフォークを手に、蒼に首を傾げた。
「いえ、大丈夫です」
 逆にこの状況で平然と食べられる方がどうかしてると蒼は思うが、常に注目されることに慣れている仁はまったくなんとも思っていないようだ。
 ため息をつく蒼に、仁がふっと笑った。
「まだ慣れないの?」
「こんなのいつまでたっても慣れないですよ。そもそも、昼ご飯まで毎日一緒に食べる必要ありますか」
 ぶつぶつ言いながら、スプーンを動かす蒼に、仁がにこやかに笑う。
「いいじゃん、俺らぼっち同士なんだから昼メシくらい一緒に食おうぜ」
 美希たちが蒼の教室に乗り込んでくるという事件があってから、二週間が過ぎた。
 あの後すぐ美希たちには停学の処分が下った。それは仁が教師側に報告をしたからだが、慈愛の理念を掲げいじめ行為を厳しく禁止している学園においては順当な処分だ。彼らが蒼に対してしたことはクラス中が目撃している。
 美希たちは、仁が彼らのしたことを支持すれば黙認されるだろうと踏んでいたようだが、予想に反して仁が激怒したことで、正当な処分が下ったというところだ。
 停学の期間は一週間だから、すでに彼は登校してはいるはずだが、仁や蒼の前には現れない。二度と現れるなと言われたことを守っているのだろう。
『ぼっち同士』というのは、美希たちと決別したことで、彼の取り巻きがいなくなったことを言っているのだ。けれどもともと誰とも一緒にいなかった蒼とはわけが違うと蒼は思う。
「あ、仁先輩。今日もマスクくんとランチですか」
 通りすがりの一年生女子のグループが恥ずかしそうに声をかける。
 仁がにっこりとした。
「そう」
「スパゲッティだ。私も同じものにしようかな」
「おいしいよ。デザートにプリンがつくし」
 お皿の横のカップを手に取り、彼がにこやかに答えると、彼女たちは、きゃーっと声をあげて去っていった。
 ここのところこうやって気軽に仁に声をかける生徒が増えている。以前は取り巻きが怖くて話しかけられなかったが、いつもひとりか蒼と一緒にいることで話しかけやすくなったのだと、蒼のクラスの女子が言っていた。仁もそれを嫌がる風でもなく機嫌良く答えている。
 美希たちの事件がきっかけで起きた意外な変化だった。
「きゃ、今日もふたりでランチなんだ」
「本当仲良し。目の保養〜!」
 後ろの席の女子グループが、こちらをみてひそひそと話をしている。声を落としているつもりなのかもしれないが、テンションが上がって丸聞こえである。
 目の保養という言葉に蒼は頬が熱くなるのを感じた。食事をしているのだから当然今はマスクをはずしていて、素顔を見られているからだ。
 向かいに座る仁が大丈夫というように優しく目を細めた。以前だって食事をする時はマスクを外していたが、誰にも気に留められなかった。けれど彼と食事をするようになってからは、こうやって注目されるようになったのだ。
 平気というわけではないが、不思議と以前のような恐怖心は沸かなかった。
 それはいつも仁が一緒にいてくれるからかもしれない。けれどおそらくそれだけではなく、美希たちの件があってからの自分に対する周囲の反応も関係している。
 美希たちが即座に処分されたこと、彼らが蒼にした酷い出来事を目撃していたクラスメイトたちは、意外なことに蒼に同情的な反応を見せたのである。それどころか仁が、美希たちとの関係を切って蒼と一緒に居続け、蒼の味方だと示していることで、好意的な声もあって……。
「ね、あの噂って本当なのかな?」
 女子のひとりが好奇心を抑えられないというように、友達に囁く。
『あの噂』とは蒼の過去や仁との関係についての話だろう。蒼はスプーンを止めて気まずい気持ちになる。そんな蒼をジッと見て仁が彼女たちの方を振り返る。そして明るく声をかけた。
「それ、逆」
 突然彼に声をかけられて、女子は固まっている。隣の子がまずいといった表情になった。あの日、仁は蒼のことに関して二度と口にするなと皆に釘を刺した。それなのにこそこそと話しているのを聞かれてしまったのだから。
 けれど仁は彼女をとがめることはせずににっこりと微笑んだ。
「あの噂って、蒼が俺を好きって話でしょ? あの話は間違い」
「間違い……逆ですか?」
「そう。蒼が俺を好きなんじゃなくて、俺の方が蒼に片想いしてるんだよ」
 にこやかにとんでもないことを口にする仁に、水を飲んでいた蒼はごふっとむせてしまう。顔が真っ赤になるのを感じながら声をあげる。
「せっ先輩!」
 女子たちがきゃーっと声をあげた。
「仁先輩の片想い!」
 仁が胸に手を当てて目を閉じた。
「こっそり気持ちを温めてたのにさぁ、好きすぎてバレてたみたい。変な風に暴露されて悲しかったよ」
 大袈裟に芝居がかってそう言うと、彼女はたちはますます盛り上がった。
「仁先輩、可哀想〜」
「私たちは応援しています」
「ねー、マスクくん、仁先輩の気持ちに答えてあげて」
 女子たちの言葉に、なんと答えていいかまったくわからずにまたごほごほとむせていると、仁がふふっと笑った。
「ね、真っ赤になって可愛いでしょう?」
「はい!」
 得意の王子さまスマイルだ。
「もうバレちゃったから、今猛アピールしているところなんだ。だけどなかなか手強くて……。だから皆もできるだけ温かく見守ってくれると嬉しいな。あと蒼のことはマスクくんじゃなくて阿佐美って呼んであげてくれる?」
 仁が、蒼にいつのまにか付けられた不名誉なあだ名をさりげなく訂正すると、彼女たちは素直に頷いた。
「はい!」
「阿佐美くん」
「ありがとう」
 彼女たちが元気に答えるのを確認して仁はスパゲッティに戻った。
 こんな具合で、蒼が仁を好きなのではなく、仁が蒼を好きなのだと皆に言ってまわるものだから、蒼の過去についてはうやむやになっていて、誰からも軽蔑の目を向けられることはないのだ。
 それどころか、仁の振る舞いが噂に拍車をかけて、まるでふたりはもう付き合っているかのような応援ムードなのである。
 蒼が素顔を見られることにそれほど抵抗がなくなったのは、この空気のおかげでもあるだろう。
 おそらくこれは仁の作戦なのだ。
 どう口止めしても人の口に戸は立てられない。蒼のことをヒソヒソと言われることは避けられないと考えたのだろう。ならば、こちらから話題を提供して微妙にすり替えてしまおうというわけだ。
 この彼の作戦は今のところ大成功。
 皆、仁どころか蒼に対しても好意的に接してくれるようになった。結局、噂なんて、おもしろければなんでもいいのかもしれない。
 とはいえ、こんなにたくさんの生徒が見ている前で、大きな声で言わなくてもいいだろうと思い、蒼はスプーンを持ったまま頬を膨らませた。
「大きな声で、変なこと言わないでくださいよ」
「変なことって?」
 スパゲッティを食べ終えてた仁が、頬杖をついて首を傾げる。
 蒼は周りを見回して声を落とした。
「片想いとか……。先輩が俺の噂を気遣ってくれているのはありがたいですけど、そこまで言う必要ありますか?」
「なにがダメなんだよ。べつに本当のことを言ってるだけだろ? 俺は蒼に振り向いてもらうために頑張ってるところなんだから。味方は多い方がいいし」
「なっ……!」
 本当のことという言葉に、ますます蒼は赤くなる。彼に告白されたのは事実だが、こうやって改めて口にされると鼓動が速くなるのを止めることができないでいる。
「それに牽制もしとかないと」
 仁が目を細めて意味深な言葉を口にした。
「牽制?」
 意味がわからず蒼は眉を寄せる。仁に人差し指をちょいちょいとされて、耳を寄せた。
「蒼の素顔が皆に知られてから、蒼のファンってやつも増えはじめてるらしい。お前、可愛いから」
「な! なにを馬鹿なことを言ってるんですか」
 目を丸くして蒼は声をあげる。大きな声になってしまったのに気がついて慌てて再び声を落とした。
「そんなことあるわけないじゃないですか……!」
「本当だって。昨日クラスの女子から聞いたもん。だから皆に、お前は俺のだって牽制しておこうと思って」
「そ、そんなのからかわれてるだけですよ!」
「この学校に俺をからかうやつなんていねーよ」
 そんなやり取りをしていると、テーブルのそばを女子グループがくすくすと笑いながら通り過ぎる。
「やーん、仲良し」
「ねーかわいい」
 仁が彼女たちに向かってひらひらと手を振った。
 ……今は、もうなにも言うまいと心に決めて、蒼はカレーを食べることに集中する。
 仁はくっくと笑って水を飲み、窓の外に視線を移して気持ちよさそうに目を細めた。
 午後に日差しに少し茶色い髪が透けている。どこかリラックスしている様子の彼の姿に蒼の鼓動がとくとくとくとスピードを上げていく。
 カレーを食べ終えて紙ナプキンで口を拭きながら蒼がそんな仁を見つめていると、気がついた仁と目が合う。
 すると彼は眉を上げて小さな声でなにかを言う。唇の動きだけではなにを言っているかわからずに、蒼が首を傾げると楽しげに眉を上げた。
「写真に撮るか?」
 蒼の内心を読んだかのようなその言葉に、蒼は持っていた紙ナプキンをぐしゃぐしゃと丸めた。
「とっ……りません! ごちそうさまでした! 俺、六限は移動教室なんでもう行きます」
 盆を持って立ち上がると、仁はテーブルに肘をつき顔を下に向けて、くっくと肩を揺らし手を振った。
 完全に蒼の反応を面白がっている。
 ここは寮でもなく部室でもないのに、最近の彼はこんな感じだ。
 これも、あの美希たちの事件以降、変わったことだった。彼女たちと決別し蒼と過ごすことが多くなった仁は、過剰に王子さまを演じることをやめたようだ。周囲からの声掛けににこやかに答えているのは変わりないが、以前よりも自然体のように思える。
 ぷりぷりしながら食堂の入口付近まできた蒼は、盆を返却口に置く。
「あ、蒼くんだー」
「本当だ、可愛い〜。私、結構好きなんだよね」
「えー私はやっぱり仁先輩だなー」
 後ろからそんな声が聞こえてきて、気まずい気持ちでポケットからマスクを出してつけた。
 どうやら、さっき仁が言っていたことは、でたらめではなかったようだ。
 そこへたまたま通りかかったと思しきクラスメイトから声をかけられる。
「あ、阿佐美、午後の教室移動、第一化学室から第二に変更だって」
「……ありがとう」
 足を止めて答えると、クラスメイトは手を上げて去っていった。
 蒼に知らせるために来たというよりはたまたま目についたからおしえてくれたのだろう。それでも以前なら、無視されていたはずだ。
 食堂を出て渡り廊下を教室棟へ向かって歩く。ふと風を感じて、蒼はマスクを外してみる。深呼吸をすると、吹き抜ける風はもう冬の匂いがした。
 ……自分の世界が変わりはじめているのを感じた。
 自らが作った殻の中に閉じこもり、一生出たくないと思っていたけれど、その殻が少しずつ剥がれていっている。けれどそれを自分は嫌だとは感じていない。ごく自然に自分でも気づかないうちに、外の世界で過ごすことに慣れているのだ。そしてそれは、仁が手を引いてくれているからだ。
 ——彼と一緒なら、外の世界も怖くない。
 彼を好きだという気持ちが自分の中に存在するのは知っていた。けれどそんな言葉では表せないほど彼を必要としている自分がいて、そのことが怖かった。
 彼の気持ちを疑うわけではないけれど、どうしても自分にその価値があるようには思えない。自分は、たまたまルームメイトになっただけの特別なものなどなにもない臆病者だ。
 今だって彼からの気持ちを受け入れるべきではないと思いつつ、はっきりと断ることもできていない。
 もし彼に、もういらないと言われてしまったら、自分はどうなってしまうのだろう?
 この気持ちの行く先は……?
 それがわからなくて、怖かった。