文化祭と言えば学校行事の中でも一大イベントだ。特に三年は最後の文化祭ということもあり、数か月も前から各教室は盛り上がっていた。――特進科をのぞいては。

三年の特進科も出店はする。けれども出し物や飾りつけに他クラスほどの時間は掛けない。去年もその前も三年の特進科の出し物はヨーヨー釣りで、やはり今年もヨーヨー釣りだった。看板も飾りも、ヨーヨーを浮かべる桶も、去年の三年から引き継いだものだ。

そうは言うものの、文化祭当日が近づくにつれてクラスメイトもソワソワし始める。けれどやはり普通科よりはあっさりしていて――特進科でよかったと颯真は振り返った。普通科のノリに、颯真は付いて行けないだろうから。

「優太朗……」

休み時間、優太朗が顔を見せた。滅多に来ることがない西棟に、どこか居心地が悪そうだ。喧嘩をしてそれっきり、久し振りの会話。

「塾は?」
「……ない」
「今日、帰れる?」
「……うん」
「駄菓子屋、寄る?」
「……うん」

彼女はいいの、とは聞かなかった。
約束通り、昔馴染みの駄菓子屋に寄り、優太朗はたこ焼き味のスナック菓子を、颯真はコーラ味のゼリーを買って交換し、それを食べながら自転車を押して帰る。小さい頃からの仲直りの儀式。もしかしたら十年後も喧嘩のあとはこうやって仲直りをしているのかもしれない。

「優太朗のクラスは文化祭、喫茶店やるんだっけ」
「そ。喫茶店って言っても火は使えねえから簡単なモンしか出せねえけどな。ジュースとかお菓子とか。颯真のところは……」
「ヨーヨー釣り」
「あれ、めちゃくちゃ面白いよな」
「そう?」

夏祭りになると、優太朗はいつもより元気になった。金魚すくいにスーパーボール、射的に千本引きと、夜店をどんどん攻略していく。対して颯真はやりたいものが分からなくなって、結局何もしないまま頭も体もクタクタになって家に帰った。そのあと寝込んでしまうところまでが夏祭りの思い出だ。選択肢が多くなると選びきれなくなって頭がパンクしてしまう。

「お店、遊びに行くね」
「おう」

文化祭、神崎も参加するのだろうか。
運悪く委員会の当番もなく、こんなときに限って仕事を押し付けてくる人たちもいない。おかげでまだ保健室には行けておらず、家まで送ってくれたお礼どころか神崎とは会ってすらいないままだった。


そして文化祭の前日。
授業は午前中までで、午後は文化祭の準備に当てられる。この日ばかりは特進科も勉強そっちのけで準備に取り掛かっていた。

「まって、この柄かわいくない?」
「ここに絵描こうぜ」
「やめとけよ、どうせ来年の三年も使うんだろ? お前の壊滅的イラストを後世に残すな」

普段のストレスもあってか、あまり乗り気でなかったはずのクラスメイトのテンションが高い。その中で、やはり颯真はぽつんと浮いていた。

準備自体はもうほとんどすることがない。明日の朝に桶に水を張ってヨーヨーを浮かべるだけ。他にも数人のクラスメイトの姿が見えないことをいいことに、そっとクラスを抜け出した。

行き慣れた教室が近づくと、ギャハハとひときわ大きな笑い声が聞こえてきた。

「マジやべぇ、神崎似合いすぎッ」
「これで目つきが悪いの隠したら女子めっちゃ集められるんじゃね?」
「どーやって隠すんだよ、サングラスするとか?」
「ばか、それじゃ極道系カフェになるだろ」

こっそり覗いた教室では衣装合わせの最中らしく、生徒のほとんどが白いシャツに黒のスラックス、黒のギャルソンエプロンを身に着けていた。

賑やかな声の中心にいたのはまさかの神崎。彼もまた当日の衣装を着ていた。袖をまくり、シャツの裾をたるませて着崩しているのに、それすらさまになっている。着慣れたように見えるのは、もしかするとバイト先も似たような制服だからだろうか。身長が高く、手足も長いから余計に映えて見える。

ひとりでいるところしか知らなかったから、こうして囲まれている神崎を見るのは新鮮だ。当の本人は、どうしていいか分からないと戸惑った顔をしているけれど。

「髪まとめるとかどう? 私やったげるよ」
「いいじゃん、前髪もすっきりさせちゃえば?」

強引に椅子に座らされた神崎の後ろで、女子がきゃあきゃあ言っている。

「やめろよ、触んな」

神崎は拒絶するが、その声はどうやら彼女たちには届いていないらしく神崎の髪をいじり始める。その度に神崎は「やめろ」と体をよじっていた。

「ちょっと誰かワックス持ってなーい? 前髪あげて顔出した方が絶対かっこよくなるってー」
「ほら、動かない動かない」

べたべたと、馴れ馴れしく神崎に触れる様子は見ていてあまり気持ちのいいものではない。彼女たちにとっては単なるコミュニケーションの一環なのかもしれないけれど。
神崎はどう思っているのだろう。

「……神崎?」

膝の上に置かれた手が震えているように颯真には見えた。心なしか、顔色もいつもより白い。

「ほら、こーやって癖を活かす感じにしてさー」
「やばい、天才じゃん。ずっとこのままでいようよー」

ね、と女子生徒のひとりが神崎に顔を近づける。
怒ってる? いや、違う。これは、この顔は――。

「いい加減にしろって言ってん、」

神崎が怒声と共に、振り払うように右手を上げた。
「きゃあっ」
「神崎ッ!」

悲鳴をかき消すように、颯真は叫んだ。

「神崎! 保健の先生、呼んでる!」
「……おぅ」

はっと我に返った神崎が腕を下ろした。突然聞こえた大きな声に、その場にいた皆の視線が颯真に集まる。

「早く、行かなきゃ……怒られるよ……」

一度に多くの視線を浴び、最後は言葉が掠れた。立ち上がった神崎が、クラスメイトにエプロンを押し付けて立ち上がる。

教室を出て早足で歩く神崎のあとを追った。握り締められた拳が震えている。

「先生が呼んでるって嘘だったんだ……ごめん」
「わかってる」

神崎は勢いよく保健室のドアを開けた。養護教諭はその音と勢いに目を丸くしていたが、事情を訊ねることはしなかった。彼女は「他に生徒来たら内線で呼んで。職員室にいるから」と颯真に言い残し、保健室を出て行く。

「あ……はい……」

なぜいつものように神崎ではなく自分に言うのだろう。いや、それより今は。
神崎は一番奥のベッドに腰を下ろすと、はあっと息を吐いた。はあっ、はあっ。震えを、もう隠しもしない。

「ごめん、触るね」

胸を掻きむしりそうな手を止めさせ、神崎のシャツのボタンをもうひとつ開ける。自分の肩に神崎の顎が乗るように腰を屈めて、震える体を抱き締めた。

「だいじょうぶ、ゆっくりでいいよ」

とん、とん、と一定のリズムで背中を叩く。颯真がパニック状態になったとき、両親や優太朗がそうやって落ち着けてくれるのだ。

初めて触れた神崎の体は見た目以上に細かった。全身で息を吐きながら、神崎が颯真の背中のシャツを掴む。そうしていないと震えが止まらない、というように。カタカタと細かく震えているのが伝わってくる。颯真は背中をあやしながら、おまじないのように繰り返し囁いた。

だいじょうぶ、だいじょうぶ、ゆっくり……。
どれほどそうしていたのか分からないけれど、徐々に体の震えは治まった。すとんと落ちた神崎の腕が腰の後ろに回される。

「わり……もちょっと、このまま……」
「ん……」

呼吸が落ち着いても、神崎の背中をあやし続けた。辛くなったときに感じる体温はとても安心できると知っているから。
しばらくすると神崎が肩に頭を擦りつけてきた。柔らかい髪が首筋に当たってくすぐったい。思わずふふっと笑うと、神崎も小さく笑った。ようやく落ち着いてきたようだ。

「冷蔵庫にペットボトルの水があるから取ってくれるか」
「勝手に取っていいの?」
「俺のだから問題ねえよ」

神崎は水を半分ほど一気に飲んで、ペットボトルを机の上に置いた。神崎が隣をぽんぽんと叩くので、拳ひとつ分くらい開けて腰を下ろす。

「ありがと、助かった」
「僕は別に何も……」
「あんなところで目立ちたくなかっただろ」

大きな声を出せたことに、自分自身が一番驚いていた。 他クラス、知らない人たち、賑やかな声。どれも颯真が苦手とするもの。けれどそれを神崎に言ったことはなかったはずなのに。自分がこんなに辛いときでも、彼は他人のことを思いやれる人間なのだ。

「大丈夫、気にしないで」

会話が途切れ、時計の秒針が動く音だけが聞こえる。
しばらくその音を聞いていたが、意を決して口を開いた。

「違ってたらごめん。その……女の人が苦手、なの?」

その言葉は少し違っているのだろう。けれどそれを馬鹿正直に訊ねられるほど空気が読めない人間じゃない。
他のクラスメイトといたときは、多少ぎこちなさはあったがいつもの神崎だった。様子が気になりだしたのは女子生徒に囲まれてから。「やめろ」と拒絶する声には感情があった。単に嫌だからというのではない、もっと、心の底から――……。

「……ああ」

勘のいい男のことだから、颯真がためらって口にしなかったことを、きっと気付いているだろう。気付いて、認めた。

――神崎は、女の人が怖いの?

「先生たちは知ってるから必要以上に近づいてこねえんだけど、他のやつらにはな……さすがに言えねえし」
「明日、大丈夫? お客さんいっぱい来たら……」
「前もって”くる“って分かってたら平気なんだ。バイトのときも、そこまでしんどくはならないしな。ヤバいときは店長が助けてくれるし。ただ今日のは……普段近寄ってこねえやつらに囲まれてパニクったっていうか……」
「うん」

また小さく震え始めた手に、自分のものを重ねる。その手は振り払われることなく、神崎は颯真の左半身に体を預けてきた。

「ダセエ話、してもいい?」
「うん……」

そうして語られた、神崎自身の話。
降り始めの雨みたいに、ぽつぽつと語られる話を、颯真は彼の体重を受け止めながら聞いた。


「一度クラスに戻るね。ホームルームが終わったら……また、来ていいかな」
「……ん」
「それまで寝てなよ」
「……ん」

いつにない素直さ、どことなく甘い口調で神崎が頷く。きっと限界だったのだろう。子供みたい、とクスリと笑って、手を伸ばした。拒否されることなく、神崎の頭の上にそっと乗る。あの女の子と同じように頭に触れているのに。

「ほら、寝るならちゃんと横になって。……おやすみ」


小学校低学年くらいまでは、きっと普通の家庭だったと思う。だんだん父親が帰らない日が多くなって、母親の様子がおかしくなってった。酒を飲んだり煙草を吸ったり……きっと素面《しらふ》じゃ耐えられなかったんだろう。やっぱり父親は浮気してて、とうとう離婚したよ。

幼心に、母親を助けなきゃって思った。でもやっぱり俺じゃ駄目だったんだ。しばらくして、母親が知らない男を部屋に連れ込むようになった。何してたかくらい、想像つくだろ? ボロいアパートの扉なんて、無いも同然だからな。

一晩中、母親のオンナの声と*そのとき*の音が聞こえてくるんだ。寝れなくなったのは、そこから。

母さんは自分が愛されなくなったことに耐えられなかったんだ。いっとき、たった数時間でも自分を求めてくれるなら、誰でもよかった。

ほとんど毎日、違う男が家に来る。子供がいようといまいと、お構いなしだ。耳を塞いで、布団を被っても声が聞こえてくる。それがずっと続いて、明け方になって声が聞こえなくなってから、俺はやっと眠れる。それでも学校には行かなくちゃいけないから、たった数時間だ。さすがにガキの体にはこたえたな。

何度かブッ倒れて保健室の世話になってたら、保健室でなら寝てもいいってことになって……小学生からなんだ、長えだろ。

普段は一切興味も示さないのに、大人が俺を引き剥がそうとすると、母親は狂ったように俺を求めるんだ。その子まで奪わないで、行かないでってな。父親だけじゃなく俺までいなくなったら、あの人はきっと死んでしまう。そんなことを考えたら、大丈夫だって言うしか……ねえだろ。


頬を伝った滴が湯舟に落ちる。いつも体を丸くして寝る体勢。ぎゅっと寄る眉間の皺。消えない目元の隈。それらの原因は、颯真の想像をはるかに超えていた。「この歳で女が怖いって笑えるよな」と自嘲する神崎に、どうして同意ができただろう。

勝手に出てくる涙が止まらない。胸が痛くて苦しくて、心臓の上を強く押さえた。そうしたらまた、ぼろぼろと落ちた涙が湯を叩いた。


文化祭の一日目は在校生のみ、二日目は一般にも公開される。放送では絶えず音楽が流れ、それをかき消すくらいの賑やかな声であふれていた。

一日目。颯真はクラスの店番が終わるなり、図書室に逃げ込んだ。毎年のことだし、そう人気なんてないと高を括っていたのが間違いだった。シンプルで懐かしい、そして定番の店は予想以上の繁盛で、あと十分、受け持ちの時間が長かったら立っていることすらままならなかっただろう。

文化祭のあいだは救護室になっている保健室は使えない。真っ青な顔で担任のもとに行くと、図書室なら構わないと許可をもらえた。

エアコンの効いていない図書室は空気がこもって蒸し暑かったが、今はどこよりも静かで、やっと息ができた心地がする。さすがに参考書もノートも開く気にはなれなくて、机に突っ伏して残りの時間を過ごした。

そして二日目。朝一番の受け持ちを終えると、颯真はすぐ図書室に逃げ込んだ。逃げる場所があると思うと、少し気持ちが楽になる。昼が近くなった頃、ようやく動いても大丈夫だと思えるようになった。

今からなら優太朗の店番に間に合う。ひとりで店に入るのは勇気がいったが、最後の文化祭なのだからと自分を奮い立たせた。

「注文、ココアでいいっすか?」
「普通、ご注文はお決まりですかって聞くんじゃないの?」
「まあ颯真だし。聞かなくても分かってる。すぐ持ってきてやるよ」

優太朗が慣れないギャルソンエプロンに足を取られながらも用意に向かう。通り過ぎる際、小声で「平気か?」と訊ねられた。少し無理をしていたことに気付いてくれたらしい。生クリームと缶詰のさくらんぼが乗ったアイスココアはすぐに運ばれてきた。

「おい」

黒いエプロン、見慣れた色のスリッパ。聞き慣れた声に顔を上げる。

「神崎……きみもこの時間の担当だったんだ?」
「まあな。さっさと飲んでここ出ろ」

プラスチックのカップに入ったココアはまだ半分以上残っている。

「僕、いちおうお客さんなんだけど……」
「知ってる。それ持って行ってもいいから」

いつもより早い口調は颯真を追い出したがってるように聞こえた。
その理由を知ったのは、直後のこと。

「絵里っ……お前、また来たんか」
「だってさっきは友達と一緒に来たし……先輩と文化祭過ごせるのって最後じゃないですか」
「そうだけど……まあいいや、カルピスソーダでいいんだろ?」
「はいっ」

切り取ったように聞こえてくるふたりの会話。溌剌《はつらつ》とした声。優太朗が初めて作った『彼女』の声。照れくさそうな、けれども愛情を感じさせる優太朗の顔。

「……だから言ったろ」

神崎は、これを見せないように気遣ってくれたのだ。ため息をついた神崎は「ちょっと待ってろ」と言って姿を消す。再び戻ってきたときにはエプロンを外していた。

「行くぞ」
「えっ、当番は?」
「交代の時間」

慌てて立ち上がり、神崎を追う。

「保健室は使えないよ?」
「知ってる」

途中で何度も客引きの生徒に声を掛けられたが、隣の神崎を見たのか強引に迫られることはなかった。

「……なに笑ってんだよ」
「ごめん、いや……教室に行くまでのあいだ、いっぱい引き留められたのが嘘みたいだなって思ったら」
「見た目にビビッてるだけだろ」
「みんな神崎を知らないから……こんなに優しいのにね……」

神崎が歩調を速めた。足の長い神崎に追いつこうとすると、ほとんど走らなくてはいけない。神崎がようやく足を止めたときには肩で息を吐いていた。

「図書室……」

保健室を居場所にしている神崎が、どこで休めばいいかを知らないはずはない。電気もつけないまま、神崎はまっすぐ奥の席に向かう。

「ここ……昨日僕が……」
「よく寝てたからな。声は掛けなかった」

机に突っ伏しているときに一瞬感じた風――もしかして彼だったのかもしれない。
神崎は長机を挟んで、颯真の向かいに腰を下ろした。視線を遮るために設置されている衝立《ついたて》も外してしまう。

「平気か」
「えっ……ああ、うん」

一瞬何のことを訊ねられているのか分からなかった。けれど、どうして神崎が教室から連れ出してくれたのかを思い出して、正直に答えた。平気だ、意外と。

以前だったらどうだろう。優太朗と彼女の仲睦まじい様子を目の当たりにして、ひどく落ち込んでいたかもしれない。唯一の人に恋人ができてからしばらく経つ。時間が傷を瘡蓋《かさぶた》にしたのかもしれないけれど、ひとりじゃなかったから――神崎がいたから、平気だと思えるようになった。

だから、意外に平気。

「神崎は? ここじゃちゃんと寝られないよね」
「さすがに図書室にベッドはねえからな。まあ、大丈夫だろ」

心配すんな、と隈をたくわえた目で笑う。他人を気遣うくせ、自分のことには無頓着。多くの人に囲まれ、眠れる場所もなく、辛いのは神崎の方だろうに。

「バイトは?」
「最後の文化祭くらい楽しんでこいって休まされた」
「そっか……打ち上げは?」
「行くわけねえだろ。俺が行ったってシラけるだけだ」

もちろん颯真も不参加だと前もって言ってある。普通科と違って三年間ほとんどクラスメイトが変わらない特進科は、いまさら無理やり颯真を輪の中に入れようとはしない。

「ウチに来る?」
「……は?」

神崎の頬杖が机の上でずるっと滑った。


「あ、遠慮しないでね。父親は単身赴任でずっと不在だし、母親は仕事で帰ってくるの遅いから」
「お、おぅ……」

上擦る返事、きょろきょろと動いて落ち着かない視線。珍しく神崎が緊張している。普段より小さく見える神崎を二階の自室に案内する。本棚と勉強机、ベッドしかない部屋だけれど、神崎を連れてくると分かっていたならもっと片付けていたのに。

「適当に座ってて。飲み物取ってくる。お茶とジュース、どっちがいい?」
「や、俺は……」
「どっち?」
「じゃあ、お茶……」

グラスに入れたお茶をトレイにのせて戻ると、神崎は部屋の真ん中でぼうっと立っていた。颯真の視線に気付いた神崎は、「誰かの家に行ったことなんてないから、どうしていいか分かんねえな」と片頬を上げて困ったように笑う。そんな神崎に「座ろう?」と袖を引っ張って、ようやく腰を下ろさせた。

「ごめん、いきなり連れて来ちゃって。でも保健室にも行けないし、バイトもないって言うし……」

きっと家には帰りたくないはずだ。それでも、いきなり部屋に呼ぶなんてやりすぎだったかもしれない。落ち着くどころか、逆に疲れさせてしまうかもと思うと、自分の行動の浅はかさに呆れるばかりだった。

「あの、好きなように過ごしてくれていいよ。ベッド使ってもいいし。ゲームも漫画もないんだけど、でもっ」
「落ち着けよ。……ありがとな。色々考えてくれたんだろ」
「僕は別に……ええと、何かあったら声掛けてね」

颯真は勉強机に向かった。テキストとノートを開く。無理に会話をしたり構ったりしない方がいいんじゃないだろうか。もし逆の立場だったら、やっぱり構われない方が落ち着くから。

集中すると、周りの音が消える。エアコンの音も、外を走る車の音も。無音の中で、ただひたすら目の前の問題を解いていくのは嫌いじゃなかった。

シャーペンの芯が出なくなったところでようやく元の世界に戻り、颯真はぐるりと自室を見回して――ぎょっとした。そうだ、神崎がいたんだった。
神崎はベッドを背もたれに、座ったままの姿勢で眠っていた。大丈夫だなんて見栄をはっていたけれど、やはり体は睡眠を欲していたのだろう。眠ってくれたことに、少し安心した。

「神崎」
「……悪イ、ねてた」
「いいよ。寝るならベッド使って」
「や、ここで……」
「ベッド上がって。ほら横になるっ」

いくら神崎が細いとはいえ、もともと体格差もあるうえに力のない颯真ではさすがに体を抱えることはできない。それでも脇の下に両腕を入れて持ち上げようとすると、ようやく神崎が観念した。

「わ、わかったから……お前、意外に強引なところ、あるよな」
「そうかな……うん、そうかも。自分でも驚いてる。ほら、目をつぶって」

瞼の上に手をそっと置く。自分より低い神崎の体温と、長い睫毛が手のひらに触れる。目元を隠す長い前髪を反対の手でそっとよけつつ、そのまま頭の形に沿わせるように手を滑らせ――ハッとした。
慌てて引っ込めようとした手は神崎に捕えられてしまう。

「止めんなよ」
「でも……嫌じゃない?」
「嫌じゃねえよ……もちょっと、そのまま……」

そっと、そうっと。髪の感触を味わうように手を滑らせる。細い髪の束を持ち上げると、さらさらと落ちてゆく。頭に触れているうちに、神崎から規則的な寝息が聞こえてきた。

保健室で見たときのような眉間の皺はなく、あらわになった額のせいか普段より幼く見える。ああそうか、いつもと違って見えるのは、上を向いて眠っているせいか。眉の下がった無防備な寝顔に声を出さずに笑い、颯真は神崎の頭に顔を近づけた。自分のものとも優太朗のものとも違うにおい――……。

「……ッ!」

颯真は勢いよく顔を上げた。自分は今、何をしようとした? 心臓がバクバクと鳴ってうるさい。神崎が起きてしまう。
勉強机に戻り、痛いほどに動いている心臓の上を押さえた。全速力で走ったときとも違う動悸……。

神崎が目を覚ましたのは、午後九時を回った頃だった。さすがに集中力も切れてきた頃合いで、神崎の門限が気になりだしてきた時間だったのでちょうどよかった。

「おはよ」

颯真が言うと、神崎はばつの悪そうな顔をする。

「……本気で寝てた」
「僕が好きにしていいって言ったんだから。そうだ、門限って大丈夫なの?」
「門限なんてねえよ。バイトのときはもっと遅くなるし。それに酔ってるからいつ帰ってきたのかなんて分かってねえだろうし」
「じゃあご飯は? いつもどうしてるの?」
「バイトがあるときは、まかないで食べさせてもらってる」
「それ以外はコンビニ、とか?」

今まで聞いた神崎の話から推察するに、あまり料理をする母親のようには思えない。

「……そんなもん」

神崎は左の目をちょっとだけ細くして答えた。

「おせっかいな店長がたまに弁当を持たせてくれるし、何とかなってる。母さんが働けねえから一円でも多く家に入れたいんだ」
「きみが体を壊したら元も子もないよ」

それでも神崎は大丈夫だと笑う。颯真は「ちょっと待ってて」と立ち上がった。
十五分も経たないうち、颯真はどんぶりをふたつ持って部屋に戻った。量の多い方を神崎に押し付ける。

「食べて。いまさらだけど、アレルギーはなかった?」
「あ……ああ」

押し付けたのは肉野菜炒めを焼肉のタレで味付けしてご飯の上にのせたもの。炭水化物と野菜とタンパク質をいっぺんに摂ることができる、颯真の得意料理だ。優太朗もたまに食べに来る。

遠慮がちに食べながら、神崎は「うまいな」と言った。アルバイト先や食堂のご飯の方がきっとおいしいに決まってる。それでも神崎は颯真が作ったご飯を食べて、「うまい」と言ってくれた。

「バイトがない日はここに来ない?」
「そこまで迷惑は掛けられねえよ」

空っぽになったどんぶりを神崎がそっと置く。

「迷惑なんかじゃないよ。僕は勉強してるだけだし、神崎は体を休めることができる。互いにデメリットはないんじゃない?」
「俺といるところを見られたらお前の評価が下がるぞ。それに弥刀にも俺に近づくなって言われただろ。それで喧嘩になったんじゃねえのか」
「神崎は何も悪いことしてない……! 優は神崎のことを知らないから……っ、それに僕の評価だって神崎が思うほど高くないよ。そんなことで突き放さないでよ」
「……ごちそうさま、マジでうまかった」
「神崎っ!」
「本当に迷惑じゃなかったら……また、来てもいいか?」
「ッ、もちろん!」

家の前まで見送ろうと玄関を出たら、ちょうど母親が帰って来たところだった。母親は見知らぬ顔に驚いて、けれどすぐにふわりと笑った。

「いらっしゃい、颯真のお友達ね」
「……お邪魔、しました」

明らかに緊張した顔と声。慌てて神崎の背中を玄関の向こうに押し出す。

「そこまで送ってくから!」

自転車を押す神崎の後ろをぽてぽてと付いていく。曲がり角に差し掛かったとき、「ごめん」「悪い」きまり悪そうな声が重なった。

「え?」
「態度、悪かったよな。また来るって言ったのに……お前の母さんに謝っといて」
「僕の方こそごめん。うまくフォローできなくて」
「お前が謝ることじゃねえよ」

神崎は颯真の頭をくしゃりと掻きまわした。

「母さんのことだったら心配しないで。あの人、僕よりずっとコミュニケーション能力も理解力も高いから。だから、また来て……」

ねだるように見上げると、神崎は苦笑しながら小さく頷いて颯真の頭から手を離す。

「おやすみ、気を付けて」
「お前もな。勉強しすぎんなよ。おやすみ」
 姿が見えなくなるまで、その背中を見つめていた。


それから神崎は週に一、二度ほど放課後を颯真の部屋で過ごすようになった。颯真の塾がない日にバイトの休みが重なるように調整しているらしく、「家に行かないとお前がうるさいから」。

保健室の延長みたいな感じで、互いに好きなように時間を過ごす。颯真は勉強をしていたり、神崎は眠ったり優太朗の置いて行った週刊漫画を読んだり。今まで優太朗の定位置であった場所に、神崎がいる。慣れなかったのは最初だけで、今では違和感のない光景になっていた。

あれから何度か、神崎と母親は対面した。言う通り、あらかじめ心構えをしていれば女性でも対応できるようで、短い会話なら交わせるようになっていた。

神崎が帰ったあと、彼の家の環境について母に話をした。本当はあまり人に話すべきことではないのかもしれないけれど、大人の味方がいるのといないのとではきっと違うから。それに見た目で誤解をさせたくなかったからでもある。

母親は目を伏せて「そう」と短く答えただけだった。けれど次に神崎が来たときから夕飯の材料やおかずがひとり分増え、神崎のために用意してくれたのは明らかだった。

「これ……メシ代にしてください」

いつか母親と遭遇したとき、神崎は封筒を手渡そうとしたが、「子供がそんな気を遣うもんじゃない」と母は受け取ることをしなかった。
秋があっという間に過ぎ、冬のにおいがするようになっていた。