「そこ、掃除しなくていいから」

養護教諭に言われ、はあ、と返事をした颯真《そうま》は保健室の一番奥以外をホウキで丁寧にはいた。

身長よりはるかに高い位置からくるぶしのあたりまで垂れ下がるピンク色のカーテン。仕切り替わりのカーテンが引かれているということは、そこに誰かがいるのだ。

なるべく音を立てないように、それでも委員会の仕事はきっちりと。一か所に集めた埃はそれなりの量があり、いい加減な掃除をした他の保健委員のメンバーに文句を言いたくなる。

「掃除、終わりました」
「お疲れ様。きみだけだよ、真面目に掃除してくれるの」

何と返していいかも分からず、颯真はぺこりと頭を下げる。
そのときに、一瞬ベッドの下が見えてしまった。
同じ色のスリッパ……三年か。

保健室を出ると目の前には青々とした芝生のグラウンドが広がっている。芝生を囲むように陸上用のトラックが描かれており、トラックの内側ではサッカー部が練習に勤しんでいた。

ピーッと笛の音が鳴り、トレーニングウエア姿の部員が汗を拭いながらコーチの元へ集まってくる。三十人以上の部員の中からでも、目的の人物はすぐに見つけることができた。たとえそれが百人になろうとも、すぐに見つけられる自信がある。

コーチからの指示を聞き終え、部員が再びコートに散らばってゆく。視線の先の人物が、マネージャーのひとりに持っていたドリンクボトルを手渡した。それを受け取る、何の違和感もない光景。けれどマネージャーの彼女と視線が合ったとたん、はにかむふたりの顔が見えてしまった。

生まれてからずっと近くにいたのに、幼馴染が颯真にそんな顔を見せたことがない。
高校に行ったって何も変わらないと思っていた。一番近くにいるのは自分だと。

「優太朗ならもう学校に行ったわよ? あら、颯ちゃんには何も言ってなかったの、あの子ったら」
「あ、いえ……約束してたわけじゃないし……」

自宅を出て十歩。隣人で幼馴染はもう登校したらしい。朝に弱く、起きられない優太朗を起こすのが颯真の役目だった。布団をはいで、力の限り揺さぶって、着替えさせて。修学旅行当日の朝だって、真っ青になりながら起こしてやったのに。

「ねえ最近、優太朗に彼女ができたみたいなんだけど、どんな子なのか颯ちゃん知らない?」

知ってるよ、おばさん。ひとつ下の学年のマネージャー。髪型はいつもポニーテールで、絵里っていう子。フルネームは知らないけれど。

「……さあ……優太朗、あんまりそんな話しないから……」
「いつの間にか色気づいちゃってねえ?」

颯真は不器用に頬を吊り上げて、はは……と笑った。
そうか、優太朗は好きな子のためなら一番苦手な早起きだってできてしまうんだ。


黒板に書かれた『自習』の文字。普通科なら騒がしくなるのかもしれないが、颯真が籍を置く特進科クラスは通常の授業と同じ静けさだった。シャーペンをノートに走らせる音と、参考書をめくる音だけが聞こえる。セキやくしゃみすら睨まれそうだ。

二年までに三年間分の授業を終えた特進科はすっかり受験モードに入っている。自習は次の模試や塾の宿題をするための貴重な時間で、ふざけて遊んだり私語をする人はひとりもいない。

一瞬だけ意識が飛び、ガクンと頭が落ちた衝撃でシャーペンの芯がパキリと折れた。しまったと慌てて周囲を見渡すも、クラスメイトはそれぞれの課題に夢中で、居眠りをしかけた颯真に気付いている様子はない。

やばい、眠たくて問題が頭に入ってこない。原因は探るまでもなく明らかだった。
そういや、俺、彼女できた。
辞書を忘れたから貸してくれ、みたいな気軽さで言われたあの日から、布団に入っても寝付けない日々が続いている。

サッカーで推薦入試を狙う優太朗の部活が終わるまで待っていても一緒に帰れない日が多くあったり、休み時間に会いに行っても教室にいなかったり、寝癖を気にし始めたり。薄々気が付いてはいたものの、それを本人の口から聞かされるのとではショックの度合いがまるで違った。

やっとチャイムが鳴る。自習はもう一時間残っていたが、集中できずに時間が経つのを待つことに耐えられそうにない。

「次……僕、保健室にいるから」

クラス委員は具合を訊ねることなく「わかった」と答え、颯真は保健室に向かった。顔なじみの養護教諭は「今は急病人もいないからいいよ」と言って、颯真にベッドを貸してくれた。

急病人はいないと言っていたのに、四台あるベッドのうち、一番奥のカーテンが引かれていた。颯真が掃除をしに来たときにも、その場所は閉じられていた。委員会の仕事を含め、何度か保健室に訪れたことはあるが、その場所のカーテンが開いているところを見たことはない。

「ちょっと職員室に行ってくるね。何かあれば内線で呼んでくれる?」
「はい……」

保健室のベッドを使うのは久し振りだ。前回は確か去年の梅雨だった。低気圧のせいで頭が痛いのかな、なんて思っていたらしっかり熱が出ていて、世話になったのだ。

夜遅くまで仕事をしている母親に替わって迎えに来てくれたのは、隣に住む幼馴染。しょっちゅう体調崩すんだからもうちょっと対策しとけよ、なんて言いながら、けれど気遣うような歩調で。家に帰っても寝るまでそばにいてくれた。

「……ばかやろー……」

硬いベッドに寝っ転がり、ズズッと鼻をすすり上げる。

「優太朗のばか……」

いたずらをしたのは優太朗なのにひとりで怒られるのは嫌だからって一緒に謝りに行った。雷が聞こえてすぐに家のインターフォンが鳴り、ソファに並んで爆音でアニメを観た。何度も一緒にお風呂に入ったし、同じベッドで眠った。

何をするのも一緒。高校も、優太朗と同じところを選んだ。このまま大人になっても、ずっと一緒だって思ってた。
ばか。優太朗のばか。さっさと振られちゃえ。

「うるせえ!」

乱暴にカーテンが開かれ、現れた男子生徒が颯真を睨みつける。いつの間にか声に出てしまっていたらしい。

「ごごごごめんなさい! 静かにするから」

長い前髪の隙間から吊るし上げるようにギロッと睨まれ、颯真はベッドの端で縮こまる。

「ごめ……さ……」
「ん?」

その生徒はベッドから立ち上がったかと思いきや、覗き込むようにして顔を近づけてきた。

「お前、弥刀《みと》の」
「優太朗のこと、知って……」
「金魚のフン」
「ち、違いますっ……僕は、幼馴染でっ……」
「幼馴染だから、毎日教室に来るのか?」
「なんでそんなことまで……」
「そりゃ、同じクラスだからな。さすがにお前の顔くらいは知ってる」

男はそう言って、大きなあくびをする。向こうはこちらのことを知っていても、颯真はちっとも知らない。毎日休み時間ごとに会いに行っていても、視界に入っているのは優太朗だけ。優太朗がクラスメイトの話をしていても、颯真は誰のことを言っているのかまったく分かっていないままに相槌をうっているのだ。

「そっか……あの、うるさくしてごめんなさい……静かにするから……」
「今、何時」
「えっ……ええと、二時半」
「チャイムが鳴ったら起こせ」

まだ返事もしていないのに一方的にそれだけ言って、カーテンを閉じてしまう。頼まれてしまったものは仕方がない。颯真もベッドに寝転んで、天井を見上げた。

かすかな消毒液のにおい。時折聞こえる体育授業の声。廊下を歩く誰かの足音。ベッドは硬く、布団だって重いのに、妙に心地がいい。

眠っていたようで、チャイムの音に目を開いた。ぼんやりと広がった視界に一瞬どこだか分からず再び目を閉じる。瞼が今度こそぱっちりと開いたのは、自室とも教室とも違うにおいを嗅ぎ取ったからだ。

「やばい、起こさなきゃ」

ベッドから降り、恐る恐る仕切りのカーテンを開く。頼み事をしてきた優太朗のクラスメイトはこちら側に背を向けて眠っていた。ダンゴ虫みたいに、丸くなって。

起こせと言われたものの、本当に起こしてしまっていいのだろうか。体調が悪いのなら寝ていた方がいいんじゃないのか。

「あの……チャイム、鳴りました……」

目を覚ます様子はなく、今度は軽く揺すってみる。頼まれたのだから反故《ほご》にするわけにはいかない。何度か試してみて、それでも起きないというのなら、もう颯真の責任ではないだろう。今度は先程より少し大きめに声を掛けてみると、ようやく体がピクリと動いた。

「じゃあ僕は……」

そいつは気怠そうにしながらも体を起こし、肩をコキコキと鳴らしてからベッド脇の机を引き寄せた。教室で使っているものと同じ机の上には、化学の教科書が置かれてある。

「しんどかったら、寝てた方が……」

なぜかそう、口に出していた。案の定、鋭い視線が颯真に向けられる。思わずヒッと息を飲み、半歩下がってしまった。

「別に、病気じゃねえ」
「ご、ごめんなさい……あの、僕はこれで……」

視線が離れた隙に、逃げるように出入口へ向かう。引き戸に手を掛けたところで「なあ」と声がした。

「起こしてくれて、ありがと」

まさか礼を言われるなんて思わず、目を見開く。振り向いてみるけれど、カーテンは閉じたままだった。


休み時間になると優太朗の教室に行く。小学校の頃からの習慣だ。西棟から優太朗の教室がある東棟まで、渡り廊下を注意されないギリギリの速さで歩くのは楽じゃない。話ができる時間だって五分程度だが、それでもよかった。

陰に隠れて、彼女の姿がないことを確認してから教室に向かう。優太朗のところに行く頻度が減っているのは、自分以外にも彼を訪ねる人物が現れたせいだ。

「優……」

廊下側の窓から小さな声で幼馴染を呼ぶと、優太朗が近づいてくる。その向こうに、数日前に見たばかりの姿があった。本当にクラスメイトだったんだ。颯真の視線に気付くと、向こうも指をちょっと動かす。もしかして、挨拶のつもりなのか。

「ん? どうした、颯真」
「ううん、何でもない。それよりさ……」

その日は二回、優太朗のクラスに行った。次の日は三回、その次の日は一回。体育の授業で着替えをしなければいけなかったり、やっぱり彼女が来ていたりで、会える回数は少なかった。昼食も、これまでだったら二日に一回は食べられていたのに、今週に入ってからはまだ一度も食べられていない。

優太朗に会うついでに何となく探してしまった人物は教室にいないことが多かった。そもそも学校に来ているのかすらあやしい。不良……ヤンキーって、そういうものなのだろうか。

「ごめん、ほんと助かるよ松永。今日早く帰らなきゃでさ」

同じ保健委員のメンバーがわざわざ颯真のクラスまで来る用事と言えば、これしか思い付かない。

「いいよ。塾までに時間あるから」

各階のトイレや手洗い場をまわって石鹸の残量を確認し、保健室の掃除をする。他の委員会に比べれば忙しくはないものの、地味で面倒な作業。頼まれれば断れない性格を見抜かれて押し付けられるのは何度目になるか。
サンキュー、ほんとごめん、今度替わるから。その「今度」は来ない。

石鹸のチェックを終え、保健室に向かう。失礼しますと声を掛けて扉を開いたものの、養護教諭の姿は見えなかった。電気もついているから、ちょっと席を外しているだけなのだろう。
今日も奥のカーテンだけが閉じられていた。

「保健委員です、掃除をしに来ました」
「おー」

ひとり言みたいな小さな声にまさか返事があるとは思わず、びっくりして振り返った。カーテンの隙間から、この前と同じ、指をちょっとだけ曲げた挨拶が見える。

「ごめんなさい……今日も……起こしてしまって……」
「お前が来る前から起きてた」

それを聞いてホッとする。

「掃除、してもいいですか……なるべく静かに済ませるので……」
「ああ」

さすがに放課後だから起きたのだろう。返ってくる声は眠たげではあるが、前回よりははっきりとしていた。保健室でサボっているのだろうか。ヤンキーはサボるものだって思うのは偏見かもしれないけれど。

委員日誌を開いてみると、日付と名前の欄には記入があるのに、石鹸はどこもかしこもスカスカだった。それなら名前も書くな、とつい文句をこぼしたくなる。

「この前来たやつ、掃除しねえで帰ったぞ」
「やっぱり……えっ?」

つい返事をしてしまったが、よかったのだろうか。いや、いいも悪いも、もう返事をした後なのだが。

「他のやつも、キレイだしまあいいかって帰っていきやがる。真面目にやってんの、お前くらいだよ」
「そう、ですか」

颯真だって、別に好きで委員会の仕事をしているわけじゃない。受験生であろうとも、生徒会以外は参加しなくてはいけない校則だから。

三年生の委員は過去どの委員会にも所属していない生徒から強制的に選ばれる。じゃんけんに負けた颯真は、後期の保健委員になってしまった。けれど一度請け負ったからには、きちんと役目を果たさないと気が済まない性格なのだ。どんなに面倒でも、小さな仕事であっても。

「褒めてんだよ。おかげで過ごしやすい」
「よく、来るんですか……?」

部屋の隅から中央に向かってホウキを使う。集めたごみをチリトリで回収し、ごみ箱へ。次はベッドの下。洋服や鞄を入れるカゴを移動させ、ベッドの下にホウキを差し入れる。

「まあ、そんなとこ」

残るは声の主がいるベッド周りだけだが、やめておいた方がいいのだろうか。けれども病気じゃないのなら、やっぱり掃除くらいはしておきたい。きっと他のメンバーは掃除なんてしないだろう。

「あの……ベッド周りの掃除、させてもらってもいいですか……」

委員会の仕事だからと勇気を振り絞る。すぐにカーテンが開き、怒鳴られるのだと身構えた。

「ん」
「え?」
「するんだろ、掃除」
「あ……はいっ……」

開かれたカーテン。ベッドの向こう、窓に沿って置かれた机。開きっぱなしの教科書。プリント。わざわざカゴとスリッパを持ち上げてくれているのだ、早くしないと。

急いでごみを集めると、埃や砂がやはり他の場所より多かった。それだけ誰も掃除をしていなかった証拠で、それだけこの場所が使用中であったということ。

「掃除、終わりました……ありがとう、ございます」
「礼を言うのはこっちだろ」

呆れた声に視線を上げる。幼馴染のクラスメイトは、ベッドを椅子替わりにして机に向かっていた。プリントの一番上に書かれた名前――「神崎 碧」読み方は「みどり」だろうか。

「……あお」

心の中を読んでいたように、ぽつりと聞こえた声。

「かんざき、あお。字面《じづら》でよく女に間違われる」
「きれいな名前……」
「似合わねえだろ」
「えっと……?」
「だって俺、こんなだし」

顔を隠す長い前髪と、半分ほどしか開いていない一重瞼の目。髪の毛は茶色に近く、肌はほとんど陽に灼けていない。細い顎も薄い頬も、同じ歳とは思えないほど整っていて、へたをすればまだ中学生に見られてしまう自分とは正反対。それでも。

「確かに女の子には見えないですけど……」

思ったまま答えると、神崎という名の男子生徒はプリントから目を離して颯真を見つめ、ククッと笑いだした。

「な、なに、何か変なこと、言いましたか……」
「そういうことじゃねえよ。お前、天然って言われるだろ」
「……ないです」

嘘つけ、と神崎はまた喉の奥で笑った。笑うと雰囲気が柔らかくなる。もしかしたら怖い人ではないのかもしれない。思い返してみると怒鳴られたのは一度きり、それも颯真がうるさくて邪魔をしたせいだ。見た目で勝手に怖い人だと決めつけていた……?

「あ、あの、邪魔をして、すみませんでした」
「それ」
「えっ」
「タメだろ、敬語いらねえ」
「でも……あ、うん……」
「別に殴りかかったりしねえから安心しろよ」

怯えているのだと勘違いをさせてしまったらしい。正解なようで、颯真のそれは微妙に違う。

「違うんです、ごめんなさいっ……あの、僕、あまり誰かと会話をするの、得意じゃないん……なくて……誰とでも、こうで、だから気にしないで……」
「弥刀とは話せてるよな?」
「それはまあ……ほとんど生まれた頃から、一緒にいるし」

親以外で、唯一まともに話せる相手だ。優太朗とだって、ずっとしゃべっているわけではない。賑やかに話す優太朗に相槌をうっている方が断然多い。

「でもお前、今普通にしゃべってるじゃん」
「ふつうに……?」
「ちゃんと会話、成立してるぜ?」
「……ほんとで……ほんとだね」

不快にさせなくてよかったと、颯真はふわりと笑った。誰かと会話をするとき、どう伝えればいいかと考えているあいだに苛つかせてしまうのだ。

「まだプリント終わってないよね……僕が邪魔したから……現国、大西先生でしょ、話せば猶予、もらえると思う……」
「よく知ってんな。ああ、弥刀に聞いたのか。でも期日までに提出しないと単位もらえねえからな、俺」
「そうなの? ええと……大変なんだね」
「……分かってねえな」
「僕もう行かなきゃ。ごめんね、邪魔して」
「別に、お前*の*は気にならねえ」
「*の*?」
「何でもねえ、気にすんな」
「あ、そうだ、僕……名前、松永 颯真って」
「知ってる。保健のセンセが松永って呼んでるだろ」
「そうだった……」

時計を見ると、四時半を指している。塾のテキストやノートは持ってきていないから、一度家に帰らないといけない。それに塾が終わるのは十時だから、胃に何かを入れていないと体も頭ももたないのだ。

「じゃあ、僕はこれで」

プリントに取り掛かった神崎は、前みたいに指をちょっと曲げて「じゃあな」と言った。


自室に優太朗がいる当たり前の光景。颯真が優太朗の部屋に行くこともある。家が隣だから親同士も仲が良く、幼い頃からしょっちゅう隣の家に預けられた。ひとりで留守番ができるようになってからも優太朗が来てくれるから寂しいだなんて思ったことがない。

たまには一緒にゲームをすることもあるが、基本的にはそれぞれ好きなことをして時間を過ごす。現に颯真は塾の宿題をしているし、優太朗はベッドに寝転んで出たばかりのの週刊漫画を読んでいる。

「そう言えば、優太朗のクラスに神崎って子、いる?」
「神崎? いるぜ。今日来てたかは分かんねえけど」
「毎日来てないの?」

どうだったかなあ、と優太朗は漫画から目を離さずに言う。

「来ても途中からふらっとどっか行くからな。しゃべることもねえし。なんで? なんかあった?」
「べつに……」

神崎はサボり癖があるのだろうか。でもそんな人物がわざわざ保健室で課題なんてするだろうか。それに養護教諭がそう何回も授業をサボらせてくれるはずはない。見た目は優しいが、怒ると怖いともっぱらの噂だ。

「そろそろ部屋に戻る」

ベッドに漫画を残して優太朗が立ち上がった。週刊漫画は優太朗の兄が買い、優太朗、颯真の順で回ってきて、最後の颯真が処分することになっている。

「優太朗、明日の朝は? 迎えに行く?」
「あー……朝練」
「そっか」
「昼もミーティングがあったりするから……」

嘘をつくとき、優太朗は唇の先を指で摘まむ癖がある。彼女と一緒にいる、ということだろう。

「分かった。練習頑張ってね」
「お前もさ、俺んとこばっか来るの大変だろ。たまには友達と過ごせよ」

大変だなんて一度たりとも言ったことがない。優太朗に会いたいから行っているのに。
彼女に何か言われたのかもしれない。幼馴染のあの人、ちょっと先輩にべったりしすぎじゃないですか、とか。それとも優太朗が颯真より彼女の顔をたくさん見たいのかもしれない。

優太朗がいれば他の友達なんていらなかった。必要最低限の会話ができればそれでいい。現に今まで小学校も中学校もそうやって過ごしてきて、何も困ったことなんてなかった。ずっと隣にいた優太朗がそれを知らないはずがないのに。

翌日の昼休み、優太朗はやっぱり教室におらず、しょんぼりしながら廊下を歩いていた。いまさら自分の教室に戻って弁当を広げるのは気まずすぎる。

食堂のある一階まで下りてきたものの、入口まで来て足が止まってしまう。食堂で購入したものを食べるならともかく、そこで弁当を広げるのはどうなのかと思ってしまったからだ。

「あっ、ごめんなさーい」

数人で食堂に入ろうとしていた生徒に弾かれ、退散する。やっぱりやめよう。どうせきっと落ち着かない。
どこで食べようか。早く食べる場所を決めないと。けれども昼休憩時には解放されている大ホールも中庭にも生徒がいっぱいいる。決められないまま、時間だけが過ぎてゆく感覚。選択肢が多いことは昔から苦手だ。何を選んでいいのか分からない。タイムリミットもある。焦りだけが風船のように膨らんでゆく。

「はぁっ……」

息が苦しくなって、シャツの襟口に指を掛けたときだった。

「松永?」

自分を呼ぶ、声がした。

「どうしたんだ、廊下の真ん中に突っ立って。……弁当?」
「神崎……なんでもないよ、ちょっと、ぼーっとしてただけ……」

冷たい汗がこめかみを伝った。手も細かく震えていて、なんとか止めようとする。
来い、と神崎が腕を掴んで引っ張った。

「えっ、来いってどこへ、ちょっと」
「いいから」

周りの生徒の視線を集めながら連れて来られたのは、馴染み深い保健室。

「いらっしゃい、神崎……と、松永?」
「ん。はいコレ」

神崎はポケットから紙を取り出して養護教諭に手渡した。

「ハイ、確かに受け取りました。松永は? 具合が悪いのか?」
「いえ、僕は……」

颯真だって、なぜ保健室に連れて来られたのか分からない。腕はいまだ離されないまま、神崎は勝手知ったる様子で最奥のベッドに向かう。

「神崎、カーテン閉まってるよ。誰かいるんじゃ」
「いねえよ」

ジャッと音を立てて神崎がカーテンを開ける。言った通り、確かに誰もいなかった。どうして使用中みたいに仕切りのカーテンが引かれていたのだろう。
神崎はベッドの下からカゴを引っ張り出し、通学鞄を放り込んだ。

「そこで弁当食えばいいだろ」

ベッドに横になりながら顎で指したのは、神崎がプリントをしていた机。先日はベッドを椅子替わりにしていたが、椅子もちゃんとある。え、と思ったときには小さな寝息が聞こえてきた。

本当にここで? 聞き直そうにもすっかり眠った様子の神崎を起こすのはしのびない。音を立てないようにそっとカーテンの向こう側に出る。

「ええと、神崎がここで弁当を食べていいって言ってた……言ってくれたんですけど……」
「いいよ、食べな」

養護教諭はあっさりと頷いた。

「……ありがとうございます」

神崎が寝ているベッドまで戻り、弁当の包みをそっと開く。
冷気を出すエアコンの音と、養護教諭が何かを書く音しか聞こえない。保健室の周りでは静かにしましょう、というポスターが外壁に掲示されているため、騒ぐ生徒がいないせいだ。学校で一番静かな場所かもしれない。ぐちゃぐちゃだった頭がようやく元に戻ってくる。

弁当を食べ終えてもすぐに立ち上がる気にはなれず、そのまま机の上に上半身を投げ出した。窓にもカーテンが引かれているため、外庭から颯真の姿を見られることはない。すごく、居心地のいい空間。

予鈴が鳴り、颯真はビクッと体を揺らした。チャイムが鳴ったが、神崎が起きる気配はない。長い前髪が重力に従って落ちていて、神崎の顔があらわになった。印象的な目元――その下の、深い隈。肌の色が白いから余計に目立って見える。

「神崎、予鈴」

鳴ったよ、と声を掛ける途中に「松永」と養護教諭が颯真を呼んだ。弁当の包みを持って、教員用のデスクがあるスペースへ向かうと、椅子に座るように促される。入口付近の長椅子ではなく、教員用のしっかりとした椅子だ。
彼女は颯真の顔を真剣な目で見つめ、それから柔らかく笑った。

「うん、顔色よくなったね。真っ青で来るから何事かと思ったよ」
「そう……だったんですね……気が付かなかった」

だから神崎は保健室に連れて来てくれたのだろう。

「勉強も大切だけど、ちゃんと休みなさい。辛かったら保健室に来てもいいから」
「あのっ……神崎は……神崎、起こさなくていいんですか?」
「いいよ、そのままにしてやって」
「でも授業が……」
「ああ、あの子は……あの子の教室はふたつあるんだよ。3-Dと、保健室《ここ》」
「ふたつ……?」
「私の口から言えるのはそれだけ。あとは本人から言わせるんだね。でも神崎が誰かと親しくしてるの、初めて見たなあ」
「親しく……」

あれが親しく見えたのだろうか。引きずって来られたようにしか見えなかったはずだけれど。

「誤解を受けそうな見た目してるけどさ、いい子なんだよ。まあ仲良くしてやって。松永もさ、疲れたなーって思ったら保健室においで。保健室は怪我を治療するだけの場所じゃないんだ」
「はあ」

理解しきれないまま、ぺこりと頭を下げて保健室を出た。とたんに午後の熱気と喧騒に包まれる。盛夏は過ぎ、朝夕はいくらか涼しくなったとはいえ、昼間はまだまだ暑い。すぐに出たばかりの保健室に戻りたくなった。


「保健室登校……」

家に帰るなり、颯真は養護教諭の言った「神崎には教室がふたつある」の言葉をヒントに、自身のスマホにキーワードを打ち込んだ。
多くの検索結果のうち、当てはまりそうだと思ったのが「保健室登校」という言葉。

常時保健室にいる場合や、特定の授業だけ出られるが主として保健室を教室にしている状態を指し、不登校になる前の居場所としての役割を果たしているらしい。
午前中には教室で神崎を見ることが多かったから、特定の授業だけ出られない、というのは当てはまらないだろう。それでも何かしらの理由があり、神崎は保健室にいるのだ。


「ワリ、今日も……」
「うん、わかった」

優太朗に昼食を断られても、昨日よりは平気だった。弁当を持ったままスリッパからスニーカーに履き替え、外庭にある大きな桜の木の前で足を止める。保健室の窓から見えた木だ。緑や黄色、オレンジに色づいた葉に彩られ、春とは違った表情を見せていた。三年近く通っていても、ちゃんと見たのは初めてかもしれない。大きな木はちょうどいい日陰を作っていたが、保健室のそばにあるせいか生徒の姿はほとんど見らず、周囲も静かだ。木の下に座り、弁当の包みを開ける。

「そこでメシ食うのか?」

頭上から声が聞こえた。

「神崎……ごめん、駄目だったら他に行く……」
「駄目なんて言ってねえよ。暑いだろ、入ってこいよ」
「でも」
「早く来い。食う時間なくなるぜ」

神崎が窓から腕を出し、ぽとりと何かを落とした。手の中に落ちてきたのはプラスチックのプレートに「保健室」と書かれてある鍵。それを使えということなのか。
急いでスリッパに履き替え、鍵を使って保健室のドアを開く。室内は電気がついておらず、薄暗い。

「鍵、閉めとけ」

奥から神崎の声が聞こえる。

「いいの? でも他の生徒が……」
「センセ今日いねえんだ。知らないで保健室に入って来られても困るからな」
「あ、そっか……」

他に誰も来ないと分かっているからか、仕切りのカーテンは開いていた。以前のように、窓際の机に弁当を置く。神崎はすでにベッドに寝転んでいた。

「お昼、食べないの?」
「ん? ああ、食うより寝たいからな」
「お腹すかない?」
「慣れた。まあ、たまには学食も使うけど」
「へえ……あ、今日先生いないんだったら掃除しに来ない方がいいかな。当番なんだけど」
「今度は誰に押し付けられた?」
「今日は本当の当番だし……」

不貞腐れて言うと、神崎は噛み殺すようにククッと笑った。

「いいんじゃねえ? あ、でも四時半くらいに起こしてくれたら助かる。鍵は机に置いとくから、窓から取って来いよ」
「そんな……不用心な」
「取られて困るモンなんて持ってねえよ」

言うだけ言って、神崎は寝てしまった。まだ了解もしていないのに、強引なやつ。でも、まあいいか。どうせ委員会の仕事で来る予定だったのだ。

昼食後の満腹感と軽い疲労感にぼうっとしていると、あっという間に予鈴が鳴った。ぐっすり眠っている神崎を起こさないように席を立ち、急いで外庭に出て、先生や生徒に見られていないかドキドキしながら机の上に保健室の鍵を置く。本当にいいのかとは思ったものの、神崎がそうしろと言ったのだから仕方ない。

そこからダッシュで自分の教室に戻ったところで本鈴が鳴った。ギリギリセーフ。

「松永が体育以外で息切らせてんの、初めて見た」

 クラスメイトが驚いた顔をした。


「はい、英和辞書」
「さんきゅ。忘れててどうしようかと思った」

本日最後の休み時間。そんなの彼女に貸してもらえばいいじゃん、とは言えなかった。堂々と会いに行く口実ができたと喜んだほどだ。
廊下側の窓から教室内を覗くと、机のフックに鞄の掛かっていない席がひとつだけあった。皆が神崎がいないことを気にしている様子はない。当たり前の光景になっているのだろう。

「久々に駄菓子屋寄って帰らねえ?」
「部活は?」
「休み」

でも彼女は……訊ねかけたところで、隣からひょっこり顔を出してきたのは優太朗の友達だ。

「彼女に振られたからってさっそく乗り換えか?」
「えっ」
「振られてねえわ! ちょっと喧嘩しただけだっつーの」

なんだ、そっか。心では残念がっていても、さすがにそれを口に出すほど性格は曲がっていない。

「ごめん、今日は委員会だから先に帰ってて。そのまま塾に行くから……帰りは遅いんだ」
「そっか。気ィ付けてな」
「うん、ありがと。……優太朗も早く彼女と仲直りしなよ?」
「わかってるって」

じゃあ、と自分の教室に向かう背後で、「幼馴染にも振られてやんの」と優太朗をからかう声が聞こえてきた。
久し振りに一緒に帰れるチャンスだったのに。けれどもあまり残念に思っていない自分に驚く。

保健室の鍵はちゃんと机の上にあった。颯真が置いたまま、きっと位置は変わっていない。やっぱりドキドキしながら鍵を取って、急いで保健室に向かう。電気もつけられていないままだったが、室内には傾きかけた陽の光が差し込んでいるせいで不自由はなかった。

以前見たときと同じ、神崎は体をぎゅっと丸くして眠っていた。それが癖なのかもしれないけれど……深い眉間の皺といい、とても苦しそうに見えてしまう。
起こしてくれと言われていた時間まで、三十分はある。鞄から宿題を取り出して、集中しすぎないようにスマホのアラームをセットする。夕日になりかけている優しいオレンジ色は勉強をするのにちょうどよかった。

案の定アラームの音が先に鳴る。慌ててスマホに手を伸ばしたら勢いあまって床に落ち、ガシャンとアラーム以上の大きな音が鳴った。

「っごめん!」
「……おかげで目が覚めた」

神崎が重そうに瞼を開け、ゆっくりと体を起こす。同時に別の場所からも目覚まし時計みたいな音が聞こえてくる。颯真のアラームは止めた……止まったはずなのに。

「俺のやつ」
「アラームをセットしてるんなら僕を呼び出さなくても……」
「怒んなって。本当に来るか分かんねえだろ」
「来るよ……約束したし。それに僕の返事も聞かずに寝たの、そっちじゃん……」

神崎はたぶん今までで一番目を見開いて、「そうだったな」と笑った。いつもの喉の奥で笑うやつじゃなくて、目を細くして、ふわっと笑う感じの。

「どうした?」
「……ううん、課題やるんだよね。すぐ片付ける」

なぜか火照ってしまった顔を見られたくなくて、机の上の宿題を片付ける。保健室登校という存在を知って、神崎が寝起きに取り組んでいた課題が単位取得のためのものだと分かったのだ。普通の宿題なら優太朗がしょっちゅう「颯真サマ教えて~」と泣きついてくるものを見ているから知っていたはずなのに。

「俺が移動するからいい」
「えっ、でも」

課題を持って立ち上がり、神崎は養護教諭がいつも使っている職員用のデスクに向かった。

「それとも、もう帰る?」
「……ううん、今日は塾の用意も持ってきてるから」

そうか、とだけ返事をして、神崎は黙々と課題をし始めた。颯真も中途半端だった宿題に取り掛かる。
用事は済んだのだから、帰ったってよかった。けれどもそうしなかったのは、何となく心地いいこの空気が気に入ってしまったから。

「すっげぇ集中力」

久し振りに声を聞いたような気がして、颯真は慌てて顔を上げた。隣に神崎が立っていて、颯真を見下ろしている。びっくりしてのけ反ると、神崎が眉間に皺を寄せながら「なんもしねえって」と苦笑した。それがどこか傷ついたような顔に見えて、チクリと胸が痛んだ。

「違うんだ、ごめん。驚いたのは神崎がいたからで……あ、そういう意味じゃなくって、急に現れたから驚いたっていう意味で」
「落ち着けよ、分かったって。そろそろ鍵、閉める時間なんだ」
「五時半……もうそんな時間か。ごめん、もしかして僕に付き合ってくれたんじゃ」
「課題してるの見てただろ。いつもこの時間だから待ってたわけじゃねえ」

急いで荷物を片付ける。神崎が席を立ったことにも、電気がつけられていたことにも気が付かなかった。
保健室の鍵を返すために神崎が職員室に入る。緊張する様子はなく、堂々としたものだ。颯真なんて扉を開けるだけで五分は掛かってしまう。

校門の脇の駐輪場に急いで向かうと、神崎も付いてきた。互いに自転車通学だったようだ。颯真の家は自転車で十五分ほど。神崎の家もそのくらいの距離だろうか。

「じゃあ」
「ん」

早く行かないと塾に遅れてしまうのに。

「神崎……っ、明日も学校、来る?」

自転車にまたがった神崎が振り返った。

「当たり前だろ。授業あるし」
「そ……だよね、ごめん……」
「明日も来いよ」

えっ。颯真が顔を上げたときには、神崎はもう自転車を漕ぎだしていた。白い背中がみるみる遠くなる。
学校に来い、という意味ではないはずだ。
また神崎は返事を聞かずに行ってしまった。
それが嫌ではなくて……。


昼休憩のチャイムが鳴ると同時に、颯真は弁当を持って席を立つ。びゅんと教室を飛び出して向かうのは東棟ではなく、西と東の校舎を繋ぐ渡り廊下の一階部分。
スニーカーを履いて外庭に出て、桜の木のそばで足を止める。保健室の窓が十センチほど開いていて、颯真が着くなり神崎が顔を出した。

「よぉ」
「うん」

保健室に神崎以外の生徒がいなければ、入ってこいよと神崎が指で合図をする。その合図がない日には保健室の窓の下で弁当を食べた。空の下で食べるのは気持ちがよく、いい気分転換になった。

放課後になると保健室に向かう。神崎が起きるまでに宿題をして、神崎が起きたらその続きに取り掛かる。もう一方的な約束などではない。保健室に向かうのは、颯真の意思だった。
昼休憩から放課後まで、神崎は眠っている。

「昼間にこれだけ寝てたら、夜寝られないんじゃないの?」

起きたての神崎が苦虫を噛み潰したような顔をして、彼の内部に踏み込みすぎたことを悟った。少しだけ仲良くなれた気がしたから、境界線を誤った。

「……ごめん」

優太朗以外に親しくできる友達がいなかったから、関わり方を間違ったのだ。
ため息が聞こえ、ビクッと体を硬くする。

「……夜、寝られねえからここで寝てる」

神崎はそれだけ言うと、自分の課題に取り掛かった。颯真も課題をこなしながら、視線を上げて神崎の顔を盗み見る。癖になってるみたいな眉間の皺と、細く吊り上がった目。目元の深い隈。もしかして目つきの悪さは不眠症のせいなのかもしれない。
その原因は、訊ねてはいけない気がした。


塾から帰ってすぐ、スマホのメッセージが届いた。返事をするなりインターフォンが鳴って、玄関に両手鍋を持った優太朗が立っていた。

「今日、カレー」
「おばさんのカレー、好きだ」

颯真の母は夜遅くまで働いており、父親は単身赴任。おまけにひとりっ子ゆえに孤食がちになってしまう颯真を心配し、隣家はたびたび差し入れと優太朗を派遣してくれる。今日は母親同士で前もって話をしてあったのか、ご飯だけは炊けていたから不思議に思っていたところだった。

「いただきます」

こうやって向かいあって食事をするのはずいぶん久し振りみたいに感じた。昼間はそれぞれ……優太朗は彼女と、颯真は外庭や保健室で過ごし、夜も部活や塾があったりで。

「彼女と……仲直りしたの?」
「いつの話してんだよ」
「だって気になるよ……初めてできた彼女でしょ」
「俺のこと馬鹿にしてんだろ」
「馬鹿にするもなにも、事実じゃん」

優太朗は五分も経たないうちにカレーを平らげ、二杯目をよそいに立つ。ずっと隣にいて、見てきたから知ってる。優太朗は見た目も性格も悪くないのに、これまで恋人はいなかった。実はこっそりモテていたのだが、サッカー一筋なのと恋愛方面に超絶鈍いせいで、恋人ができなかったのだ。その優太朗が初めて作った彼女。どんなきっかけがあって付き合うようになったのかは聞いていないし、優太朗も話すつもりはないらしい。

優太朗は勝手知ったる颯真の家の冷蔵庫を開けて卵を取り出し、カレーの上に割り入れる。

「……まぁそれなりにうまくやってるよ」

向かいに座る幼馴染の頬が少し赤くなった気がした。とたんに味が分からなくなる。話を振ったのは自分だというのに。

「お前さ、最近神崎とツルんでるんだって?」
「ツルむ? ……保健委員だから顔はよく合わせるけど」

放課後、保健室で勉強をしていることを、優太朗は知らない。伝えていない。隠すつもりではないけれど、何となく言えなかったのだ。

「なんで?」
「あんまりアイツと仲良くすんなよ」

言葉だけ聞くと嫉妬のようで、しかし言葉は咎めるものだった。なんで、と再び問う声が無意識に低くなる。

「いい噂、聞かねえから」
「どんな噂」
「……他校の派手なやつらと夜遊びしてたり、しょっちゅうオンナとっかえひっかえしてたり、バイク乗り回してたりって……授業もほとんど出てねえし。先生たちも手を焼いてるらしい」
「ははっ」

颯真は声だけで笑った。そんな漫画みたいな話、信じているのか。けれどこれが神崎という人物を知る前だったら、優太朗の言葉を鵜呑みにしていたかもしれない。そう思うとゾッとした。

「……そんなやつじゃないよ」

事実か、確かめたわけではない。けれども颯真の知る神崎は、そんなことをするようなやつじゃなかった。 目つきは怖いけれど、それはきっと寝不足のためで、その寝不足だって深刻な原因があるはずで。そうじゃなければ学校が保健室登校を認めるわけがない。毎日学校に来て授業を受けて、どうしようもなくなったら保健室に行って。

神崎はいつも苦しそうに眠っている。背中をうんと丸めて、何かから逃げているような、自分を守っているような、そんな体勢で。なぜそうやって眠っているのか……さすがに理由までは聞けない。

「特進科だから神崎のことは知らないだろうけどさ」
「なんだよ、その言い方……!」
「落ち着けって、颯真」

優太朗が眉を寄せる。

「同じ中学だったやつらも神崎と関わらない方がいいって言ってた。母親もマトモじゃないらしい」
「神崎がマトモじゃない言い方するなよ!」
「マトモじゃねえだろ!」

ダン、と机を叩いて優太朗が立ち上がる。

「愛想は悪イ、目つきも悪イ、授業には出ねえ、何考えてんのか分かんねえ!」
「目つきの悪さで人格を決めつけるの_!?_」
「じゃあ颯真は知ってんのかよ! いい大学《トコ》受験すんだろ、あいつと関わってる暇なんてねえだろ!」
「僕の勉強と神崎のことは関係ない! 同じクラスの優より僕の方がよっぽど神崎のことを知ってる!」
「心配してんだぞ!」
「余計な心配だって言ってる!」

しばらく睨み合ったあと、勝手にしろと吐き捨てて、食事中にも関わらず優太朗は足音も荒く出て行った。乱暴に玄関の扉が閉められ、颯真もテーブルにスプーンを叩きつける。

最後に喧嘩をしたのがいつなのか、覚えていない。引っ込みじあんの颯真と根っから明るい優太朗とではそもそも喧嘩をする回数が少なかった。
滅多に感情を爆発させることなんてないせいか、顔だけでなく全身が熱い。はあ、はあ、と肩で息を吐いていると、カレー皿の隣に涙が一粒落ちた。さらにまだ落ちそうになる涙を腕でぐいっと拭う。

自分の言ったことは間違っていた? ――いや、ぜったい間違ってなんかない。声を荒げたことには謝罪できても、神崎を悪く言ったことに関しては謝ってはいけない。
でも本当は優太朗が正しかったとしたら――ふとそんなことが頭を過《よぎ》ったが、自分の目で見て、会話をして知った神崎の方がよっぽど信じられる。

半端に残ったカレーを平らげ、優太朗の残した分まで涙と共に飲み込んだ。


「なんかあったのか」

放課後の保健室。プリントから視線を上げないまま、神崎が訊ねる。颯真はベッドに腰掛け、単語帳を捲りながら「べつに」と答えた。

「へえ?」

そんなふうには見えない、とばかりの返事。いつも通りにしていたはずなのに、どうしてバレたんだろう。

「幼馴染と喧嘩でもしたか?」
「……なんで」
「今日、一回も教室に来なかっただろ」
「僕だって忙しい日くらいあるし」
「毎日来てんのに? 今日たまたま?」

あーもう。シャーペンの芯がパキッと折れる。神崎は面白がっているようだけれど、こっちはぜんぜん愉快じゃない。夕食を食べすぎたせいで胃は重いし、あまり眠れなかった。

「お前でも喧嘩なんてするんだな」
「そりゃあ……するよ。……たまに、だけど」

その喧嘩は優太朗としかしたことがない。喧嘩をするような友達もいないし、ひとりっ子だから兄弟喧嘩もない。

「さっさと仲直りしろよ」
「むり」
「無理って、ガキかよ」
「だって……」

神崎のことで喧嘩したなんて、本人の前でなんて言えるものか。一晩たって冷静になった頭で考えても、自分が間違ってるなんて思えなかった。

ちょっと近寄りがたい雰囲気があるだけで、神崎は他のクラスメイトと変わらない。しかも、ささいなことでパニックになりかけた颯真に気付き、助けてくれた。優太朗はそれを知らない。*自分と違って*同じクラスに半年もいるのに、何も知らないのだ。

また感情がたかぶり、視界がうるんだ。「だって」のあとに続く言葉が聞こえないことを不審がった神崎が顔を上げ、唇を噛んで俯く颯真を見てぎょっとする。
がたん、と音が聞こえたかと思えば、頭の上に手が置かれていた。

「え?」

涙を瞼に留めたまま、ぽかんと神崎を見上げる。

「大丈夫、すぐに仲直りできる」

珍しく眉と目尻を下げ、神崎が困ったように微笑んでいた。その顔を見たら、とうとう涙が落ちてしまった。なぐさめてくれる目の前の彼は、幼馴染が言うような悪いやつなんかじゃない。

「あーもう、仕方ねえな」

面倒くさそうな口調で、けれども自分の体に颯真の頭を押し付ける手は優しくて。なんでこんな優しい人が、よく知りもしないのに悪口を言われなくちゃいけないんだろう。悔しくて涙が止まらない。

「ごめん、課題の邪魔しちゃって」
「提出期限が先のやつだから平気」

保健室の鍵を返す時間になり、ようやく涙が乾いた。
人前でぼろぼろ泣いたのは、物心ついてから初めてかもしれない。照れくさくて、おまけに神崎の体に顔を埋めるように泣いてしまったのだから、余計にどんな顔をしていいのか分からなかった。

うつむきながら駐輪場に向かう。誰にも会わなければいいなと思っていたのに、駐輪所にいたのは今もっとも会いたくない人物だった。

「優……」

部活の終わる時間ではない。今日は部活が休みで、居残りデートでもしていたのだろうか、隣には彼女がいる。優太朗は颯真の顔を見て目を見開き、近くにいた神崎をきつく睨んだ。

「神崎、颯真に何したんだ」
「何もしてねえよ」
「何もしてなかったら……っ、こんな顔になるかよ!」
「違うんだ優! 神崎は本当に何もしてない……!」

慌てて優太朗と神崎のあいだに割って入る。けれども小柄な颯真の身長では優太朗の視線から神崎を守ることはできなかった。唸るように優太朗が言う。

「颯真に近づくな」
「神崎、行こう」

制服を引っ張り、ようやく神崎を優太朗から離すことに成功する。神崎はそのまま自分の自転車を取ると、颯真の方を見ないまま自転車にまたがった。

「……神崎」
呼び掛ければ、いつも「また明日」と振り返ってくれるのに。
神崎はきっと気付いてしまった。

「お前、もう委員会以外で保健室に来るの、やめろ」
「なんで……やだよ、あいつの言うことなんて聞く必要ない……っ」
「俺のことで弥刀と喧嘩すんなよ。大切なやつなんだろ」
「神崎ッ!」

声を張っても、神崎は止まってくれなかった。背中がみるみる小さくなる。

「神崎!」

翌日の昼間、いつものように外庭に出ると、保健室の窓が閉まっていた。鍵も掛けられており、開けてくれる様子はない。今までずっと、窓を開けて待ってくれていたのに。
それは明らかな拒絶。

避けられていると分かってから、保健室には行っていない。もちろん放課後も。優太朗とも喧嘩をしたまま、あの日から一言も会話をしていない。
優太朗がいないときにこっそり教室を覗いてみたら、神崎は教室の真ん中で自分の腕を枕にして顔を伏せていた。眠っているのだろうか。
休み時間の賑やかな教室の中で、神崎の周りだけが別の空間にあるような静けさだった。


十月に入り、特別試験期間に突入した。出来はまあまあといったところ。いつも試験直前に「テストに出そうなところを教えてくれ」と優太朗が泣きついてくるのに、今回はそれがなかった。異変に気付いた母親が「何かあった?」と訊ねてくれたが、いつものように「何もないよ」と小さく笑って返す。

試験が終わると文化祭の準備が始まった。最後の文化祭ということもあり、どのクラスもすごい熱の入りようだ。
この――賑やかな、皆が一丸となる――雰囲気が颯真は昔から苦手だった。秋は学校行事が多すぎる。小学校の頃から、いやその前から、遠足や運動会などが嫌で仕方がなかった。輪の中に入れないし、それを気遣われるのも苦痛。自分が皆の足を引っ張ってしまうかと思うと、吐き気すらもよおした。

文化祭が近づくにつれ、気分はどんどん重くなる。あれっきり神崎と会えていないのと、優太朗との喧嘩がさらに拍車をかけていた。

移動教室の帰り、たまたま廊下で優太朗とすれ違った。一瞬だけ目が合ったものの、互いに挨拶すらしようとしないまま通り過ぎる。隣にいた優太朗の友達が「いいのかよ」と小突いていたが、「ほっとけ」と冷たく言う声が颯真まで聞こえた。

「……永……松永」

呼ばれ、颯真はハッとして顔を上げた。数学担当で担任の野宮が心配そうな様子で颯真の顔を覗き込んでいる。

「っ、すいません!」

いつの間に授業が始まっていたのだろう。いや、教科書もノートも開いている。意識が飛んでたのだ。いつから? 思い出せない。

「顔色が悪いな。保健室に行くか?」
「いえ、平気で……」

黒板の上に掛けられた時計は一時四十五分を指していた。今ならもう神崎は眠っている時間だろう。起きないとは思うけれど、同じ空間にいることも気まずい。

「……やっぱり行きます」

それでも立ち上がったのは、クラスメイトの視線を感じたからだった。気のせいかもしれないけれど。
特進科の三年。文化祭にうつつを抜かすこともなく、模試や受験勉強が最優先。体調を崩してなんかいられない。ましてや流行り病などに罹ったら。きっと逆の立場だったら颯真も内心で迷惑だなと思ってしまう。だから。

「ひとりで行けるか?」
「はい……すみません」

弁当もほとんど食べられなかったせいか、体に力が入らない。教室を出た颯真は壁に手をついて体を支えながらヨタヨタ歩いた。いつもなら数分と掛からず着く保健室がやけに遠い。

「うそだろ……」

やっとの思いで着いた保健室は電気がついていなかった。鍵も掛かっており、こういう場合は職員室に行かなければいけないのだが、階段を使って二階に上る元気は残っていない。野宮先生から保健室に連絡を入れてもらえばよかった。

ドン!

力まかせにドアに拳を叩きつけた。
知らなければ、諦めて職員室に向かっていただろう。
ドン!
けれど颯真は、保健室の中に人がいることを知っている。
ドン!
気まずいとか、何を話せばいいんだろうって、考えている余裕はもうなかった。目がくらんで、立っているだけでやっとなのだ。

足音がこちらに向かって近づいてきている。扉が開き、背の高い制服姿の生徒が現れた。不機嫌をあらわにした神崎は、颯真の様子を見るなり目を見開いた。

「おまっ……おいっ」
「ご、め……かんざき、起こしちゃって……」

顔を見て、声を聞いたとたんに力が抜けた。膝からガクッと崩れた体は神崎の右腕に受け止められる。

「ごめ……」
「いいから黙ってろ」

力の抜けた重い体を、神崎は意外にも軽々と持ち上げる。奥からみっつ目、神崎のスペースからひとつ隔てたベッドに下ろされ、周りを囲むカーテンが引かれた。額に当てられた手が温かい。

「熱は……ねえな。吐きそうか?」

もう声を出すこともできず、半端に口を開けたまま首を横に振る。そうか、と離れていく手が寂しかった。久し振りにちゃんと神崎の顔を見た。心なしか、目の下の隈がまた濃くなっているように感じる。

「なんかあったら呼べ。声が出なかったら音出せ」

いいな、と念を押す真剣な表情。心配してくれているのだ。やっと話せる機会なのに……謝らなきゃいけないのに……意識を保っていられない。
かすかに、近くにいてやるから、と聞こえた気がした。


カタリ、と聞こえた小さな音に目を開けた。白い天井、周りを囲むピンク色のカーテン。そうだ、保健室――。枕元に置かれていた自分のスマホをつけてみると、最終のホームルームが終わった直後だった。

「お、起きたね。気分はどう?」

養護教諭がカーテンの隙間から姿を現す。

「あ……はい、平気、です……」
「そんな青白い顔で言ったって説得力ないよ。まあちょっとはマシになったかな? うん、熱はないみたいだし、貧血だろうね。ご飯、食べられてなかった?」
「あんまり……その……」
「親御さんに連絡するね。迎えに来てもらおう」
「いえ、あの、仕事中なんで……ひとりで帰れます」
「途中で倒れたらどうするの」
「大丈夫です、もう……」
「俺が送ってく」

カーテンの向こうから聞こえた声。

「神崎……お前が付いていてくれるなら安心だけどさ。時間、平気なの?」
「バイト、休み」

姿は未だ見えない。養護教諭がカーテンの向こうに姿を消す。神崎と話をしていたようだけれど、その内容は颯真のところまでは聞こえなかった。
再び現れた養護教諭が颯真に何かを握らせる。エネルギーチャージと書かれた、ゼリータイプの栄養補助食品だ。

「それ飲みながら神崎を待ってるといいよ。課題が終わる頃には多少動けるはずだから」
「あ……ありがとうございます……あの、先生、いなかったんじゃ……」
「ちょっと所用で外出してただけ。そしたらさ、神崎から電話があって、早く帰って来いって言うもんだから、全速力でチャリ飛ばしちゃった」
「すみません……僕のせい、で……」
「いいのいいの、何度も行ってるところだし。それに、年相応に慌てた声が出せるんだって安心したわ」
「え?」

何でもないよ、と養護教諭は笑った。
少し横になっていたらまた眠っていたらしい。「おい」と声を掛けられて目を開けると、颯真の鞄を持った神崎がベッドのそばに立っていた。

「ごめん……寝てた」
「いつもと逆だな」

フッと神崎が笑う。そうだね、と笑ったものの、距離を感じさせる笑みに胸がツキンと痛んだ。鞄は颯真が寝ているあいだに担任が持って来てくれたらしい。

「自分で持つよ」
「いい」

神崎はふたり分の鞄を持ってさっさと行ってしまう。苦笑する養護教諭に向かって颯真は頭を下げ、保健室を出た。

「最寄り駅、どこ」

横を歩いているのにこちらの顔を見ないまま神崎が訊ねる。

「電車……?」
「近かったらこのまま歩いて帰るけど、遠かったら電車」
「自転車で帰れるのに」
「途中で倒れたらチャリとお前、両方担ぐはめになるんだぞ」
「そう、だけど……神崎も明日の登校、困るんじゃない?」
「俺のことは気にすんな。で、どこ」

答えたのはふたつ先の駅名。駅までは歩けるな、と問われ、頷いた。
歩調がいつもより遅いと感じたのは颯真の体調に合わせてくれているからだろう。それに何気ないふうを装って、こちらの様子を気にしてくれているのが分かった。

下校のピークは過ぎていたが、駅には制服姿の学生が多かった。頑として鞄は持たせてもらえず、ふたり分の鞄を持つ神崎と自分は彼らの目にどう映ったのだろう。

電車内に空席はなかったが、壁にもたれやすい場所を確保した神崎はそこに颯真を立たせ、守るように神崎が吊り革を持つ。発車した際によろけると、神崎はすかさず手を伸ばし颯真の体を支えた。

「あ……りがと……」

見上げると、すぐに目を逸らされる。こんなに近くにいても避けられるのだと、悲しくなった。
電車を降り、颯真は神崎より半歩先を歩く。駅から家まで徒歩五分の道のりを、颯真はいつもよりゆっくり歩いた。この機会を逃してしまえば、また話す機会を失ってしまう。学校から駅までの歩調がさらに遅くなっても、神崎が文句
を言うことはなかった。

「……バイト、してたんだ?」
「まあな」
「どんな?」
「知り合いのカフェ」

神崎がカフェ。似合うような、似合わないような。以前までの関係なら、行ってみたいなと気軽に言えたのだろうか。
ほんの少ししか話せていないのに、もう家の前に着いてしまった。

「じゃあ、さっさと寝ろよ」
「あのっ……ちょっとだけ待ってて」

すぐに帰ろうとする神崎を待たせ、急いでアイスを持って玄関に戻った。よかった、まだ帰ってなかった。

「っ、ごめ、ありが、とっ……これ、食べながら帰って」
「ばか、息切れてんだろ、また倒れるぞ」
「でも……」

うつむいた視線の先に手が現れる。

「え?」
その手はそっと、颯真からアイスを取った。指先がわずかに触れる。

「さんきゅ」

どこか照れたように言って、神崎は来たばかりの道を戻って行った。