25.天使の縁(えにし)
矢坂幸成という人間は没個性で、教室の片隅で静かにしていたら、誰にも気づかれない。
ゲームは好きだけど、上手くはない。食べ物は好きだけど、こだわりはないし、作れない。
バイクは、便利だから乗っているだけで好きってほどではない。成績は知っての通り、ド真ん中。
つまり、特技は別に何もない。
三ツ矢はあんなだけれど、押しが強いしガタイはいい。元野球部エースで運動神経があり、勉強はあまりできない。
ガサツで言葉遣いも悪いけれど、それが好きだという女子は一定数いる。
姫川さんは優等生で、白崎さんはギャル。
トワは天使で、アンジはそれを守る眠りの巨人。
じゃあ僕はというと――ただのユキナリ。
いままでの僕は『ただのユキナリ』であることで、言い訳をしていたんだ。
僕が何を願っても、祈っても、きっと何にもなれないと無意識に全て諦めていた。
気づかせてくれたのが、トワだ。
「普通だなんだと言うけどな。ユキがいなかったら、文化祭は成功しなかったぞ?」
トワの病室。
ややこしい英文を日本語に訳している僕の横で、トワはつらつらと独り言のように思い出話をする。
現在形と現在完了形って一体なにが違うというのだろう。別にどちらでもいいじゃないか。
「いやいや何をおっしゃいますやら、天使さん。文化祭の立役者は、あなた様でしょうに」
「それは違うぞ」
トワが膝の上で読んでいる文庫本は、女用心棒が特殊なモノを宿した皇子を助けて旅をする、という長編ファンタジーだ。
僕も、薦められてシリーズの一巻目を借りて読んでいるところだ。トワの膝にあるのは最終巻で、もう何周目か分からないらしい。
「ああいうイベントごとは、やりたい奴とそうでもない奴が二極化するだろう」
「あー、うん」
違うクラスの『気合入りすぎた女子』の怒鳴り声が、廊下に響き渡っていたのを思い出す。関係ないのに、苦い気持ちになったことも。
「ユキがいてくれたおかげで、そうでもない奴らも淡々とやってくれたんだ」
「そう?」
「ユキはいい意味でフラットだ。どこにも属さず、誰にも迎合せず調整するし、ボクや姫川さん、白崎さんに意見もする」
残れないとか、ひとりは嫌だという人を調整する時。頭ごなしに困るとかダメだとかでトラブルになりかけるケースがあった。
だから僕は、その人が作業予定のパートを確認して配置換えをしたり、ひとりが嫌だと言われたら、家に持って帰ってやれるものを渡したりした。
「そうでしたね」
「だからボクは、ユキにはいろいろな人の声を聞く仕事が向いていると思う。教師や警察官だな」
「役人も向いてるってことだね。完全に、遺伝だあ」
「神職も向いているぞ」
びく、と僕の肩が跳ねる。
「淡々と毎日の奉仕を行い、地域住民の声を聞き、儀式を取りまとめる」
「いやいや何言ってんの」
「背中を押してやろうかと」
にやり、と天使がベッドの上で笑っている。これは例の、悪魔の微笑みだ。
「……まさか、母さんに余計な事聞いた?」
「茶飲み友だちだからな」
「くっそ、エリコぉ! 口軽すぎだろ!」
僕はあやうく、英語のテキストをぐじゃぐじゃにしそうになった。
「可愛いじゃないか。『あーちゃんとけっこんして、かみさまのおせわをする!』だったか」
「うるっさい」
幼稚園児の戯言をいつまでもいじるのも、母親の悪いところだ。
「覚えてるらしいぞ。約束」
「は?」
「姫川さん」
「はあ!?」
病室にあるまじき大声を出してしまったので、たまたま通りかかった看護師さんに「しー!」と怒られてしまった。
慌ててぺこぺこ頭を下げておく。
「……あんな美人で才女が、僕なんかとどうこうなるわけないでしょうに」
「そうか? とても信頼しているだろう」
「信頼とソレとは、違います」
「ん? ということはユキの気持ちは?」
(――やべ)
「うおっほん。いやそんなことより、時限爆弾の話、教えてくださいよ」
「お、うまく話をそらしたな。ユキ」
イヤミ天使、ここに極まれりだ。
「あーもう! だから! サイダー爆弾っ! どうなったんすか!?」
三ツ矢家に仕込んだのを『サイダー爆弾』と呼ぶだなんて、すごいセンスだ。
僕は非常に複雑な顔で、あのとっても美味しい炭酸のペットボトルを見るようになってしまった。
「くっくっく。安心しろ。もうすぐ爆発する」
「まっじか、はっや!」
「ミキさんには、資金も十分あるからな。ボクが協力したのは、証拠集めぐらいさ。弁護士先生に手付金払ったらもう、締めだ」
ミキさんというのは、三ツ矢の母親の名前だ。
トワには、同級生よりママ友の方が多いんじゃないか? というぐらいに不思議なネットワークができつつある。
「うーわあ」
「残念だが、三ツ矢が高校卒業できるかも怪しいだろう」
「え、そんなに?」
「相手の事務員、会社経費の使い込みも発覚だ」
ひゅん! と僕のお腹の底が一瞬にして冷える。
こんな狭い田舎ネットワークでそんなことが発覚した日には、三ツ矢父もその女性も、この辺にはもう住めないだろう。
「慰謝料と会社資産の補填ができるとは思えんが。社会的制裁は十分与えられるはずだ」
「え。天使じゃなくて悪魔なの?」
「ククク……そうかもな」
英語のテキストから顔を上げると、天使の横顔に憂いが見えた。
「もしかして。三ツ矢のお母さんて、三ツ矢のこと……引き取らない?」
「ああ。そりゃそうだろう。何かにつけ、叩いたり蹴ったりしていたらしいからな。それも診断書取得済だ」
――ほんのわずかな同情心、消え失せり。
「終わったね」
「ああ。終わりだ」
僕はたちまち不思議な気持ちになる。
三ツ矢が僕を殴らなかったら、ミキさんは僕の母と出会わなかった。
僕の母と仲良くならなかったら、トワとお茶を飲むなんてことはなかった。
トワと話して、「それって楽に訴えられそう」と言われて、決意をしたのはミキさん本人だけれど、なんだか全てが天使くんの仕業に思えてならないのだ。
「……まじで、天使?」
「ん? まだ修行中だ」
なんだか本当に、祈りたくなった。
矢坂幸成という人間は没個性で、教室の片隅で静かにしていたら、誰にも気づかれない。
ゲームは好きだけど、上手くはない。食べ物は好きだけど、こだわりはないし、作れない。
バイクは、便利だから乗っているだけで好きってほどではない。成績は知っての通り、ド真ん中。
つまり、特技は別に何もない。
三ツ矢はあんなだけれど、押しが強いしガタイはいい。元野球部エースで運動神経があり、勉強はあまりできない。
ガサツで言葉遣いも悪いけれど、それが好きだという女子は一定数いる。
姫川さんは優等生で、白崎さんはギャル。
トワは天使で、アンジはそれを守る眠りの巨人。
じゃあ僕はというと――ただのユキナリ。
いままでの僕は『ただのユキナリ』であることで、言い訳をしていたんだ。
僕が何を願っても、祈っても、きっと何にもなれないと無意識に全て諦めていた。
気づかせてくれたのが、トワだ。
「普通だなんだと言うけどな。ユキがいなかったら、文化祭は成功しなかったぞ?」
トワの病室。
ややこしい英文を日本語に訳している僕の横で、トワはつらつらと独り言のように思い出話をする。
現在形と現在完了形って一体なにが違うというのだろう。別にどちらでもいいじゃないか。
「いやいや何をおっしゃいますやら、天使さん。文化祭の立役者は、あなた様でしょうに」
「それは違うぞ」
トワが膝の上で読んでいる文庫本は、女用心棒が特殊なモノを宿した皇子を助けて旅をする、という長編ファンタジーだ。
僕も、薦められてシリーズの一巻目を借りて読んでいるところだ。トワの膝にあるのは最終巻で、もう何周目か分からないらしい。
「ああいうイベントごとは、やりたい奴とそうでもない奴が二極化するだろう」
「あー、うん」
違うクラスの『気合入りすぎた女子』の怒鳴り声が、廊下に響き渡っていたのを思い出す。関係ないのに、苦い気持ちになったことも。
「ユキがいてくれたおかげで、そうでもない奴らも淡々とやってくれたんだ」
「そう?」
「ユキはいい意味でフラットだ。どこにも属さず、誰にも迎合せず調整するし、ボクや姫川さん、白崎さんに意見もする」
残れないとか、ひとりは嫌だという人を調整する時。頭ごなしに困るとかダメだとかでトラブルになりかけるケースがあった。
だから僕は、その人が作業予定のパートを確認して配置換えをしたり、ひとりが嫌だと言われたら、家に持って帰ってやれるものを渡したりした。
「そうでしたね」
「だからボクは、ユキにはいろいろな人の声を聞く仕事が向いていると思う。教師や警察官だな」
「役人も向いてるってことだね。完全に、遺伝だあ」
「神職も向いているぞ」
びく、と僕の肩が跳ねる。
「淡々と毎日の奉仕を行い、地域住民の声を聞き、儀式を取りまとめる」
「いやいや何言ってんの」
「背中を押してやろうかと」
にやり、と天使がベッドの上で笑っている。これは例の、悪魔の微笑みだ。
「……まさか、母さんに余計な事聞いた?」
「茶飲み友だちだからな」
「くっそ、エリコぉ! 口軽すぎだろ!」
僕はあやうく、英語のテキストをぐじゃぐじゃにしそうになった。
「可愛いじゃないか。『あーちゃんとけっこんして、かみさまのおせわをする!』だったか」
「うるっさい」
幼稚園児の戯言をいつまでもいじるのも、母親の悪いところだ。
「覚えてるらしいぞ。約束」
「は?」
「姫川さん」
「はあ!?」
病室にあるまじき大声を出してしまったので、たまたま通りかかった看護師さんに「しー!」と怒られてしまった。
慌ててぺこぺこ頭を下げておく。
「……あんな美人で才女が、僕なんかとどうこうなるわけないでしょうに」
「そうか? とても信頼しているだろう」
「信頼とソレとは、違います」
「ん? ということはユキの気持ちは?」
(――やべ)
「うおっほん。いやそんなことより、時限爆弾の話、教えてくださいよ」
「お、うまく話をそらしたな。ユキ」
イヤミ天使、ここに極まれりだ。
「あーもう! だから! サイダー爆弾っ! どうなったんすか!?」
三ツ矢家に仕込んだのを『サイダー爆弾』と呼ぶだなんて、すごいセンスだ。
僕は非常に複雑な顔で、あのとっても美味しい炭酸のペットボトルを見るようになってしまった。
「くっくっく。安心しろ。もうすぐ爆発する」
「まっじか、はっや!」
「ミキさんには、資金も十分あるからな。ボクが協力したのは、証拠集めぐらいさ。弁護士先生に手付金払ったらもう、締めだ」
ミキさんというのは、三ツ矢の母親の名前だ。
トワには、同級生よりママ友の方が多いんじゃないか? というぐらいに不思議なネットワークができつつある。
「うーわあ」
「残念だが、三ツ矢が高校卒業できるかも怪しいだろう」
「え、そんなに?」
「相手の事務員、会社経費の使い込みも発覚だ」
ひゅん! と僕のお腹の底が一瞬にして冷える。
こんな狭い田舎ネットワークでそんなことが発覚した日には、三ツ矢父もその女性も、この辺にはもう住めないだろう。
「慰謝料と会社資産の補填ができるとは思えんが。社会的制裁は十分与えられるはずだ」
「え。天使じゃなくて悪魔なの?」
「ククク……そうかもな」
英語のテキストから顔を上げると、天使の横顔に憂いが見えた。
「もしかして。三ツ矢のお母さんて、三ツ矢のこと……引き取らない?」
「ああ。そりゃそうだろう。何かにつけ、叩いたり蹴ったりしていたらしいからな。それも診断書取得済だ」
――ほんのわずかな同情心、消え失せり。
「終わったね」
「ああ。終わりだ」
僕はたちまち不思議な気持ちになる。
三ツ矢が僕を殴らなかったら、ミキさんは僕の母と出会わなかった。
僕の母と仲良くならなかったら、トワとお茶を飲むなんてことはなかった。
トワと話して、「それって楽に訴えられそう」と言われて、決意をしたのはミキさん本人だけれど、なんだか全てが天使くんの仕業に思えてならないのだ。
「……まじで、天使?」
「ん? まだ修行中だ」
なんだか本当に、祈りたくなった。