22.止まった時間が、動き出す
さすがに停学になったのはマズイと思ったのか、三ツ矢の両親が三ツ矢本人と連れ立って、菓子折を持って僕の家まで謝罪に来た。
機械部品の会社を営んでいるという三ツ矢の家は、父親がワンマン経営の社長で、傲慢な態度は遺伝らしい。恐縮する三ツ矢母とは違って、三ツ矢は頭を下げず「さーせんした」と頷くだけの謝罪? だったし、三ツ矢父は終始たかだか学生の喧嘩ごときで、の態度だった。一体何しに来たのだろうか。
三ツ矢の育ちがサラブレッド(悪い意味で)って分かったぐらいで、僕には何の得もない。お菓子に罪はないから、食べるけど。
「母さん、僕、あんな風にならなくて良かったな。父さんに感謝だね」
「幸成は、も少しワイルドでも良いぐらいよ?」
三ツ矢家を見送り、あまりにもイライラした母のエリコと僕は、父親にケーキを食べに行こうとねだった。ぽっちゃりになるのも、致し方ないわけだ。
†
一週間の停学明け、教室に再び戻ってきた三ツ矢は、白崎さんに絡まなくなった。
代わりに何も知らない他校の、しかも年下の女の子と付き合い始めたらしい。同学年に相手にされない男子たちが後輩女子と付き合うのは、あるあるだ。教室内であけすけに性事情を話されていると知ったら、三ツ矢の彼女はどんな顔をするんだろう。回数とか胸のサイズまで全部バラされているし、なんなら「俺の言うことなんでも聞くから」ってゲスいパーティが開催される勢いだ。今からでも遅くないなら、是非忠告したい。
『先輩』というバフ(シャレた言い方にすると、アドバンテージ)がないとダメって、情けないことだと僕は密かに思っている。浮いた話が全くない僕だけど、それはそれ、だ。
朝のホームルーム前の教室で、いつも通り調子に乗って「いつ家に呼んでヤルか」「おまえも見たい?」と、デカイ声で話す下品な三ツ矢の元へ、トワがすっと近寄っていく。
「いいか三ツ矢。これはボクの心からの助言だが……不同意性交罪は、時限爆弾のようなものだぞ」
「は?」
「時効は十五年。相手が十八に満たなかったら、十八になるまでの年も加算される。つまり君が幸せな家庭を持って何年も経ったころ、いきなり爆発する」
「何言ってんだよ」
「あの時のあのセッ〇スは、同意していませんでした。この男は無理やり私を犯した犯罪者です、って十何年も経ってから家に警察が来る。そしてそれが成り立つのが今の日本だ」
三ツ矢に対して、トワは同情の目を向けた。
「女性のことは、常にこれでもかと大事にした方がいい。愛する妻や子どもができたころを見計らって、檻に入れられたくなければな」
「いや意味わかんねーし。なあ?」
さすがゴリラ、本当に意味が分かっていないらしい。他の男子たちは、さすがに青ざめている。クラスの女子たちも、あまりの下品さに毎日ドン引きしていたから、これ幸いとトワに質問し始めた。田舎ネットワーク、今日のホットワードは『不同意性交罪』に間違いない。
僕は彼らを遠くの席から冷えた目で見る。
三ツ矢のことはどうでもいいけれど、後輩の子は、一刻も早く別れた方がいい。
三ツ矢父は、会社の若い事務員と不倫している。三ツ矢母と、僕の母であるエリコは、挨拶をきっかけに仲良くなり愚痴を聞くようになり。そりゃあ子どもが同級生なら、ママ友になるのも早い。そうしたら、離婚したいという話まで家のリビングでするようになり。
なぜかトワが『三ツ矢父・有責』の時限爆弾を仕込むのに協力していて、時々我が家で作戦会議をしている。
三ツ矢母が会社の金庫や銀行との関係を全て握っているらしい。いなくなったらどれだけ大変か、社長のくせに知らないんだろう。三ツ矢がここで変われなかったら……実はもう人生自体、詰みだ。
「優しいんだね。さすが天使くん」
僕の前の席に戻って来たトワにそう話しかけると、苦笑された。イヤミっぽかったかな。
「迷える子羊を導くのも、天使たるボクの役目。だろう?」
「子羊じゃなくて、いきり散らかしたゴリラだけどね」
「うは! ユキも結構毒舌だな」
「それほどでも~」
やはり、謝罪という名のマウントをわざわざ家でまでやられたことが、尾を引いている。
ちなみに、暴れる三ツ矢を羽交い絞めにして微動だにしなかったと評判の、我らがジェントルゴリラは、あれ以降同級生女子たちからモテまくっている。そんな真のモテ男は、我関せずと、机に突っ伏して寝ているけれど。
「アンジ、また寝てる」
「寝不足みたいだな」
「大丈夫かな?」
心配する僕を見たトワが、いたずらっぽく笑う。
「夜中、誰かの夢の中で遊んでいるのかもな」
「え?」
それってどういう意味? と深く聞こうとしたところで、姫川さんが登校してきた。
ものすごく機嫌の悪い顔をしている。どさ、と乱暴に机の上にリュックを投げ出したことからも、お察しである。
「あーちゃん、どしたの?」
「……ユキくん……」
「あとで、聞こうか?」
途端に姫川さんは、眉尻を下げた。
「ありがと。お昼、いい?」
「うん」
幼馴染のためなら、僕のしょうもないイライラなんて、どうでもいい。
†
ランチタイムに、いつも通り体育館裏のベンチへとやってきた僕は、姫川さんと並んで腰かけた。
トワとアンジは、白崎さんと一緒にどこかで食べると言っていたので、問題ないだろう。
「ごめんね、わざわざ」
「ううん、全然」
膝の上でお弁当箱を開けると、エリコのいつもと変わらないおかずが並んでいる。
「おばさんのお弁当、懐かしい」
「ああ! あーちゃん、僕んちの卵焼き好きだったよね。食べる?」
「いいの? んじゃ交換しよ」
「やった、甘いのも好きなんだよね~」
僕の家のは出汁巻き。姫川家のは甘い。家によって卵焼きの味が違うのもまた、面白い。
「よかった……ユキくん、もう元通りだね」
「え?」
元通り、ってどういうことだろうか。
「中学の……あの時以降、他人に関わろうとしてなかったでしょ」
――図星だ。
姫川さんは、僕のことをずっと見守っていたんだな、と気づいて恥ずかしくなる。
「……あの事件は、ひどかったものね」
あれは中学二年の時。
僕は、クラスメイトの財布を盗んだ犯人に、仕立て上げられそうになったことがある。
結局無罪を証明できたけれど、犯人は一番仲の良かった、親友と思っていたクラスメイトだった。彼は当然この辺では暮らしていけなくなり、どこかへ引っ越していった。僕への謝罪は、一言もないままに。
以来、人と親しくなるのが怖くなって、人間関係からは一歩引いていた。ネトゲフレンドの方が気楽だから。
僕が黙りこくっていると、姫川さんが
「ごめんユキくん。最近楽しそうなのが嬉しくって、思わず」
とごにょごにょ言い訳をし始める。
その尖った口が可愛くて、僕は笑ってしまう。
「はは。……うん。天使くんのおかげだよ。勝手に巻き込んでくるし、ハラハラするし」
何よりも、僕を信じて、自分の中身を全部さらけ出してくれた。
また人を信じてもいい、と思えたのは、紛れもなくトワのお陰だ。
「ふふ。暴走天使だもんね」
「ほんとだよ」
世間話をしながら、話すタイミングを見計らっているのかもしれないと思い至った僕は、姫川さんが話しやすくなるためにはどうしたら良いだろうかと考える。
秘密にするよとか、誰にも言わないよ、と言ったところで胡散臭いだろうしなと首を捻っていたら、話し始めてくれた。
「昨日ね……ママと派手に喧嘩しちゃったんだ」
「え? 喧嘩? 珍しいね」
「うん。進路のことで」
「……そ、か」
高校二年生の十二月は、大学受験や就職が視野に入ってくる時期だ。
しらうみ北高校は県立の普通高校とはいえ進学校なので、二年生は文系理系クラスの配分がされていて、三年になるとさらにそれが進路別になる。
一組が文系特進、二組が文系普通、三組が理系特進、四組が理系普通、五組が就職・短大だ。
今の僕らは理系のクラスで(三ツ矢は会社を継ぐため工学部に行くと豪語している。無理だと思うけど)、僕は何となく数学の成績が良かったから、こちらに来た。
姫川さんは姫川神社の跡取りとして、神道学部へ行けと言われている。
「ほんとは、どこへ行きたい?」
僕は、あえて前を向いたまま尋ねる。
「美術系」
「やっぱりそうだよね」
「ふふ」
また、笑われた。何かおかしいことを言ったかな、と空を見上げる。冬空は雲の色が灰色がかっていて、寒々しい。
「ユキくんは、絶対否定しないし、口も堅い。だから安心して話せるの」
「……臆病なだけだよ」
(僕は全然、大した存在じゃない。すごいのは僕の周りのみんなだ)
「そんなことないわよ? 三ツ矢にあんなに怒ったの、ユキくんだけ。みんな見直してるよ。すごいって」
(すごくない。全然すごくないんだよ。ひとりじゃ、何にもできないんだから)
「私も、ちゃんと本心をぶつけないとね」
「うん。おばさんなら大丈夫。ちゃんと聞いてくれるよ」
「……ん」
姫川さんの上には、お兄さんがいたらしい。いたらしい、というのは、生まれてすぐに亡くなったから。
だから姫川さんは、神社の跡取りというプレッシャーをずっと両肩に背負って、まっすぐに生きてきた。僕にとっては、そんな姫川さんの方がよっぽどすごいし、尊敬している。
「まだ、時間はあるよ。急がないで、ギリギリまで悩もうよ」
「そだね」
今の僕はこんな、ありきたりのことしか言えない。でもそれじゃダメだと気付いた。みんな、僕にたくさんのことをしてくれたんだから。
――臆病で、ごめん。今からでも間に合うのなら。僕は、僕にできることを……しなくちゃ。
23.既読スルー
二学期の期末テストが終わって冬休みに入ると、僕はいつも通りのダラダラゲーム生活に突入した。
テストの結果は、前回と同じくど真ん中。若干上がって九十三位だけれど、あの辺りは一点違いで団子状態の、誤差でしかない。
母のエリコは、僕への信頼が厚すぎるのか、あきらめているのか、勉強しろとか進路がどうとかを全然言わない。
でもさすがに家のポストに入ったビラを見て「冬期講習どうする? 行く?」と聞かれたので、一応行くと答えた。塾に行っているだけで勉強している気分になって、罪悪感が薄れるのがその理由だ。
今からでも何かをしようと思ったところで、進路のことなんて、今まで何も考えていなかった。ぼんやりと、父みたいに役所勤めかなあと思っていた。そもそも僕は何の取り柄もない怠惰な人間だ。
そんな僕が急に変われるのかって言われたら、変われない。劇的な何かが起こらない限り――でもそれって、間に合うのだろうか? 何かが起こる前に、行動を起こさないといけなかったんじゃないのかな。
僕は……遅すぎたのかもしれない。
†
年明けの、一月三日。
家での行事や、参拝の人混みが落ち着いたのを見計らって、姫川神社へ初詣にやって来たトワと僕、アンジと白崎さんの四人。さあ賽銭箱にお金を入れようと、振りかぶったトワがいきなり倒れた。紅潮した頬と、荒い呼吸――発作だと僕の直感が告げていた。
「天使くんっ!」
白崎さんが、叫んでいる。
ミニスカートの彼女が、砂利の散った石段に両膝を突いたその姿を見て、僕は頭の片隅で「痛そうだな」と思いつつ、目の前の光景を受け入れられないでいた。
「きゅ、きゅ、救急車は119」
ガタガタ震える手で電話を掛けようとした僕は、はたと思いつく。
「アンジ! トワの財布から診察券!」
「お、おう」
遠慮なくトワのカバンをまさぐったアンジは、すぐに財布を見つけた。中に差し込んであった診察券に書いてある、市立病院の代表番号に電話を掛ける。
その間、授与所から走り出て来た巫女姿の姫川さんに、救急へ掛けるよう頼むと、泣きそうになりながら頷いた。
スマホを耳に当てながら、アンジがトワを担ごうとしたのを止め、近くの石畳に横たえるように指示をする。白崎さんは、我に返るとすぐに、トワの耳元で声を掛けながら心臓マッサージを始めた。
騒然とした神社の境内で僕らは必死に動き、救急隊員に搬送されていくトワを見送った。
主治医の先生が病院で待っているからと連携もスムーズで、救急車が到着してすぐに出発できたのは、僕が事前に病院へ連絡を入れていたからだ。
「すごいね、ユキくん」
涙を浮かべた姫川さんが、僕を振り返る。白衣に緋袴がとても似合っているなと現実逃避してしまうのは、僕の悪い癖だ。
「ううん。前に同じことがあったのを、思い出したんだ。すごいのは、白崎さんだよ」
ずっと前。トワの家の縁側で倒れたトワを見つけた時、僕はひとりで、救急に電話を掛けることすらアンジに頼ったぐらいだった。あの時の救急隊員さんが、縁側の上で横にして呼吸を見て……とやっていたのを思い出しただけ。
白崎さんは、トワの病気を知ってから心臓マッサージを勉強したらしい。「役に立ってよかった」と僕の隣で力なく笑っている。
僕にはそんなこと、思いつきもしなかった。
「ユキくん……?」
褒めないでよ、姫川さん。
僕は、何もしていないじゃないか。
――トワに、何もしてあげられていない。
†
その日の夜。
夕食後、自分の部屋の机に向かっていた僕は、スマホの通知に気づいた。
机の上に広げていた塾の課題は、手付かずのまま。
ぼんやりと座っているだけだった僕は、枕の上に放り投げていたスマホへ手を伸ばして拾い上げる。画面を見ると、トワからだった。
ロックを解除して、アプリをタップすると、そこにはトワらしい簡素なメッセージがある。
トワ>>『入院することになった』
ユキ>>『そっか。どのぐらい?』
いつもは、既読になるとすぐに返事が来る。
なのに、来ない。
ユキ>>『分かったら、教えてね』
まだ、来ない。
既読スルーだなんて珍しいな、と首を傾げた矢先、ぽんと返事が来た。
トワ>>『たぶん』
たちまちぞわり、と寒気が全身を駆け抜ける。
トワ>>『もう』
やめて。やめて。
トワ>>『でられない』
今度は僕が――既読スルーした。
24.母という生き物
九月十月十一月十二月、と僕は心の中で月の数を数える。
わずか四か月と少し。
僕がトワと過ごした時間は、とても短い。
けれども今まで、家族以外でこんなにも濃密に接した人間がいただろうか。
僕は、彼を――ちゃんと見送れるのだろうか?
†
「なにしに、きた」
鼻に酸素を送るための透明チューブを付けられたトワは、胸にモニター、腕には点滴、指にはパルスオキシメーターという完全装備状態でベッドに寝ていた。
「お見舞いだけど?」
トワの姿に少なからずショックを受けたことを悟られないように、僕はさらりと言って脇の椅子に腰を下ろす。
メッセージをもらった翌日に思い立って、既読スルーのままバイクでやってきた僕は、迷惑かもしれない。
トワの患者着の隙間からは、あばら骨が見えている。こんなにも痩せていたのかと、今さらながら命がこぼれていっているような友達を、どう見たらいいのか分からない。そんなことは、習っていない。正解が分からない。
「もう、くる、な」
苦しそうにあえぐトワは、言葉と裏腹に優しい顔をしている。
「なんで?」
「ユキ、が。つらい、だけ、だぞ」
――辛いのは、トワじゃないか!
叫びたいけれど、今度はかろうじて我慢できた。
感情的になった自分を操作する方法を、この四か月で学んだはずだから。
でも、友達を見送るのなんて、学びたくない。
「……迷惑?」
トワはそれには答えずに、目をつぶった。
ここでも既読スルーか、と思わず苦笑が漏れる。僕もした手前、強くは言えない。
「欲しいものがあったら、いつでもメールして。また来るよ」
さすがに発作の翌日は辛そうで、早めに帰ることにする。
立ち上がって病室を出ようとした僕を、トワのか細い声が追いかけてきた。
「くる、な」
カーテンの中へ再び身体を差し入れて、僕は叫ぶ。
「なんっでだよっ!」
ああやっぱり感情的になった自分は、厄介だ。我慢できるようになったと思ったのに。
せめて、あと少しでも我慢できるように、僕は体の脇で両手をぎりぎりと握りしめる。
「これでっ! ハイサヨナラなんてっ! 言えるかよっ!」
「……」
「そんなんで! 天使になんか! なれるもんかっ!」
自分勝手で最低なことを言って、僕は勢いに任せて病室を出る。と、廊下に立っていた女性の肩に、ぶつかってしまった。
「あっ、すみませっ……」
「いえ」
大きめの眼鏡に、ぱっちりとした二重の目と小柄で華奢な体に、見覚えがある。
「あれ?」
「こんにちは。透羽のお友達ね? 母です」
「あ、はい……」
品の良いワンピース姿で、手に脱いだコートとカバンを持っている。
「少し、お話してもいいかしら」
下がる眉尻をぼうっと見てから、僕は頷いた。
「……はい」
エレベーターホール手前の談話室。年明けすぐの平日の昼間は、患者も見舞客も見当たらない。
誰もいないスペースの端にあったテーブルに、向かい合わせに座る。窓からは朝の日の光が差し込んでいるものの、暖房が行き渡り切っていないせいか、底冷えがする。
「えっとあの、はじめまして。僕、天……トワくんのクラスメイトの、矢坂幸成です」
「はじめまして、ユキくん」
「! はい」
「透羽から話は聞いているし、写真でも見ていたから一方的に知っていて。天乃奈々絵といいます。あの子の友達になってくれて、ありがとう」
「いえ、僕の方こそ」
優し気で理性的で、病気の息子を放置していた母親、にはとても見えない。
「薄情な母親と思ったでしょう」
「うっ」
「……透羽は、小さなころから我慢ばかり。最期くらい、好きにさせてあげたかったの。ここなら自然もあるし、カルテは毎日診ていたわ。少しでも変化があったら駆けつけようと思って」
そこでナナエさんは、ふっと笑った。
「まさか、文化祭委員をして、修学旅行に行くだなんて」
「え」
「家から出ず、たったひとりで、本ばかり読んで勉強して……そんな人生でいいのかしらって。でも、写真がたくさん送られてきたのよ」
ナナエさんの目には、きらきらと涙が浮かんでいる。
「お友達と何かを作って、食べて。はしゃいで、笑って。そんな透羽が見られたのは、あなたのお陰。ありがとう、ユキくん」
「いいえ! 僕は、何も」
「そんなことないわ。『ユキは素直で優しい』って透羽はいつも言っていた」
僕にとってそれは、何の個性もない普通の人間、という風に聞こえる。
「あの頭でっかちでひねくれた子が、信頼に値するって言っていたの。ふふ、ほんとね。考えていることが全部わかっちゃうぐらい素直で、おばさん心配になっちゃう」
「げ」
「素直で優しい。……そうね、誰でもそうだろうって思っちゃうかもしれない」
ふう、とナナエさんは大きく息を吐いた。
「私は医者としてたくさんの人を診てきて、たくさんの人とお別れをしてきた。家族や同僚、友人、患者……関わる人間はとても多い。けれども」
それから、僕の顔をじっと見る。
「素直で優しい、という評価を下せる人間は本当に少ないわ。つまりはそれって、才能なのよ」
「え?」
「素直で優しいのは、子どもだけの特権。大人までその気質を保てるのは、希少な人間だけ。誇って欲しいわ、ユキくん」
戸惑う僕に、ナナエさんは思いっきり眉尻を下げた。
「初対面のおばさんが何言ってんのって感じよね。ごめんなさい」
「いえ、なんていうか、新しい観点で言われたなって」
「あら。優しいだけじゃなくて、賢いのね」
いたずらっぽく笑う顔が、トワにそっくりだ。
「いやいや、僕、成績ほんと良くないっていうか真ん中っていうか」
「得意と苦手が両極端。でしょ」
「うげ」
また見透かされた。
「それって全部得意になれば、最強ってことなのよね」
「あー?」
思いっきり、首を傾げる。
「ゲーム好きなんでしょう? スキルとパラメータの割り振りをちょっと調整するだけよ」
「げ、なぜそれを」
「クレカの明細はチェックしておりますので」
――やばい、トワに結構な数のゲームソフトを買っていただいた件を忘れていた。調子に乗ってすみませんと頭を下げるべきか。
「ふふふ! いいのいいの。ありがとう、ユキくん。また顔を見に来てあげて」
「いやでも、さっき来るなって言われちゃって、それで……」
「あら。言ったでしょ? ひねくれ者なのよ、あの子」
よいしょ、と椅子から立ち上がりながら、ナナエさんは困ったように笑う。
「母さんは来るな、て言われたから。来たのよ」
「!」
母親ってすごいなあと、僕は心から思う。
だから僕はこの日から、トワが来るなと言う度に、病院に行くことにした。そして逆に来い、と言われても、行く。
困ったような顔をするけれど、トワは絶対に嫌がらない。
ベッドの横で僕は、学校の宿題や塾の課題をこなしながら、解けない問題をトワに教えてもらう。
それが僕の冬休みの、日常になった。
25.天使の縁(えにし)
矢坂幸成という人間は没個性で、教室の片隅で静かにしていたら、誰にも気づかれない。
ゲームは好きだけど、上手くはない。食べ物は好きだけど、こだわりはないし、作れない。
バイクは、便利だから乗っているだけで好きってほどではない。成績は知っての通り、ド真ん中。
つまり、特技は別に何もない。
三ツ矢はあんなだけれど、押しが強いしガタイはいい。元野球部エースで運動神経があり、勉強はあまりできない。
ガサツで言葉遣いも悪いけれど、それが好きだという女子は一定数いる。
姫川さんは優等生で、白崎さんはギャル。
トワは天使で、アンジはそれを守る眠りの巨人。
じゃあ僕はというと――ただのユキナリ。
いままでの僕は『ただのユキナリ』であることで、言い訳をしていたんだ。
僕が何を願っても、祈っても、きっと何にもなれないと無意識に全て諦めていた。
気づかせてくれたのが、トワだ。
「普通だなんだと言うけどな。ユキがいなかったら、文化祭は成功しなかったぞ?」
トワの病室。
ややこしい英文を日本語に訳している僕の横で、トワはつらつらと独り言のように思い出話をする。
現在形と現在完了形って一体なにが違うというのだろう。別にどちらでもいいじゃないか。
「いやいや何をおっしゃいますやら、天使さん。文化祭の立役者は、あなた様でしょうに」
「それは違うぞ」
トワが膝の上で読んでいる文庫本は、女用心棒が特殊なモノを宿した皇子を助けて旅をする、という長編ファンタジーだ。
僕も、薦められてシリーズの一巻目を借りて読んでいるところだ。トワの膝にあるのは最終巻で、もう何周目か分からないらしい。
「ああいうイベントごとは、やりたい奴とそうでもない奴が二極化するだろう」
「あー、うん」
違うクラスの『気合入りすぎた女子』の怒鳴り声が、廊下に響き渡っていたのを思い出す。関係ないのに、苦い気持ちになったことも。
「ユキがいてくれたおかげで、そうでもない奴らも淡々とやってくれたんだ」
「そう?」
「ユキはいい意味でフラットだ。どこにも属さず、誰にも迎合せず調整するし、ボクや姫川さん、白崎さんに意見もする」
残れないとか、ひとりは嫌だという人を調整する時。頭ごなしに困るとかダメだとかでトラブルになりかけるケースがあった。
だから僕は、その人が作業予定のパートを確認して配置換えをしたり、ひとりが嫌だと言われたら、家に持って帰ってやれるものを渡したりした。
「そうでしたね」
「だからボクは、ユキにはいろいろな人の声を聞く仕事が向いていると思う。教師や警察官だな」
「役人も向いてるってことだね。完全に、遺伝だあ」
「神職も向いているぞ」
びく、と僕の肩が跳ねる。
「淡々と毎日の奉仕を行い、地域住民の声を聞き、儀式を取りまとめる」
「いやいや何言ってんの」
「背中を押してやろうかと」
にやり、と天使がベッドの上で笑っている。これは例の、悪魔の微笑みだ。
「……まさか、母さんに余計な事聞いた?」
「茶飲み友だちだからな」
「くっそ、エリコぉ! 口軽すぎだろ!」
僕はあやうく、英語のテキストをぐじゃぐじゃにしそうになった。
「可愛いじゃないか。『あーちゃんとけっこんして、かみさまのおせわをする!』だったか」
「うるっさい」
幼稚園児の戯言をいつまでもいじるのも、母親の悪いところだ。
「覚えてるらしいぞ。約束」
「は?」
「姫川さん」
「はあ!?」
病室にあるまじき大声を出してしまったので、たまたま通りかかった看護師さんに「しー!」と怒られてしまった。
慌ててぺこぺこ頭を下げておく。
「……あんな美人で才女が、僕なんかとどうこうなるわけないでしょうに」
「そうか? とても信頼しているだろう」
「信頼とソレとは、違います」
「ん? ということはユキの気持ちは?」
(――やべ)
「うおっほん。いやそんなことより、時限爆弾の話、教えてくださいよ」
「お、うまく話をそらしたな。ユキ」
イヤミ天使、ここに極まれりだ。
「あーもう! だから! サイダー爆弾っ! どうなったんすか!?」
三ツ矢家に仕込んだのを『サイダー爆弾』と呼ぶだなんて、すごいセンスだ。
僕は非常に複雑な顔で、あのとっても美味しい炭酸のペットボトルを見るようになってしまった。
「くっくっく。安心しろ。もうすぐ爆発する」
「まっじか、はっや!」
「ミキさんには、資金も十分あるからな。ボクが協力したのは、証拠集めぐらいさ。弁護士先生に手付金払ったらもう、締めだ」
ミキさんというのは、三ツ矢の母親の名前だ。
トワには、同級生よりママ友の方が多いんじゃないか? というぐらいに不思議なネットワークができつつある。
「うーわあ」
「残念だが、三ツ矢が高校卒業できるかも怪しいだろう」
「え、そんなに?」
「相手の事務員、会社経費の使い込みも発覚だ」
ひゅん! と僕のお腹の底が一瞬にして冷える。
こんな狭い田舎ネットワークでそんなことが発覚した日には、三ツ矢父もその女性も、この辺にはもう住めないだろう。
「慰謝料と会社資産の補填ができるとは思えんが。社会的制裁は十分与えられるはずだ」
「え。天使じゃなくて悪魔なの?」
「ククク……そうかもな」
英語のテキストから顔を上げると、天使の横顔に憂いが見えた。
「もしかして。三ツ矢のお母さんて、三ツ矢のこと……引き取らない?」
「ああ。そりゃそうだろう。何かにつけ、叩いたり蹴ったりしていたらしいからな。それも診断書取得済だ」
――ほんのわずかな同情心、消え失せり。
「終わったね」
「ああ。終わりだ」
僕はたちまち不思議な気持ちになる。
三ツ矢が僕を殴らなかったら、ミキさんは僕の母と出会わなかった。
僕の母と仲良くならなかったら、トワとお茶を飲むなんてことはなかった。
トワと話して、「それって楽に訴えられそう」と言われて、決意をしたのはミキさん本人だけれど、なんだか全てが天使くんの仕業に思えてならないのだ。
「……まじで、天使?」
「ん? まだ修行中だ」
なんだか本当に、祈りたくなった。
26.約束の件
三学期が始まったある日。体育館裏のベンチで、僕らはお昼ご飯を食べていた。
座り切れないアンジは、体育館に入るための石段に直で座っている。
姫川さんと白崎さんは、ベンチに座った膝の上にジャージの上着を敷いてから、お弁当を広げて食べている。
「白崎さん、決めたんだね」
「うん。先生に色々相談してる。学費がやばいけど、看護奨学金っていうのがあるらしくって」
「すごいなあ」
照れた顔で笑う白崎さんは、三学期のはじめに行われた進路相談で、担任の橋本先生に看護系学校や大学の資料を取り寄せてもらったのだと教えてくれた。
二月の寒空の下で、決意をしたギャルは、頼もしくて眩しい。
心臓マッサージを学び、母親の入院を優しく介助してくれる人たちを見て、自分も看護師になりたいと思ったのだそうだ。
「いやあ、すごいなあ」
「何回言うのよ」
真ん中の白崎さんを挟んだ向こうで、姫川さんが眉尻を下げている。
そんな姫川さんの進路相談は『保留』中だ。
「あーちゃんは、再試合?」
「ちょっとユキくん、何よその言い方」
「あはは、ごめごめ」
姫川母とは、まだ進路のことでやりあっているらしい。それを僕は『泥仕合』と言ったりして、こうしてからかっている。
「もー。そういうユキくんだって、まだ決めてないんでしょ?」
「んー」
決めたけれど。僕だけでは決められない。
どうしたものかな。なんて言えば良いかな。
こんな時、トワが側に居てくれたら……でもこれからは、自分で踏み出さないと。
もやもや考えていたら、唐突にアンジが
「……白崎」
と後ろから呼んだ。
「ん? ん!?」
白崎さんが、びっくりして振り向く。
「なななななに!? 巨人がしゃべった! 起きてる!?」
「話がある。来い」
「は?」
普通なら、告白? などと胸がときめくシチュエーションかもしれないが、相手はあのアンジだ。それだけは絶対ない、むしろ恐怖、という視線で白崎さんが僕を見上げる。
目線だけで助けを求められても、と思いつつ
「えーと、なんだろう、アンジ?」
と僕が代わりに尋ねると、思いっきり溜息を吐かれた。
「はあ。やっぱ向いてねえ」
「え?」
「たぶん、話があるのはユキナリだ」
「んん!?!?」
僕も、思いっきり動揺した。
「だから白崎。俺らは席を外そう」
「あーね……」
納得したようなしないような顔で、白崎さんはいそいそと弁当をしまうと、アンジと一緒に素直に去っていく。
その間、姫川さんはずっとポカンとしていた。
「えーっと、ユキくん? なにあれ?」
「えーっと、あー」
(なんで? アンジまで知ってんの? まさか、天使の仕業か!? あんにゃろう、やっぱ悪魔だ!)
「ユキくん? おーい。ユキくんてば!」
姫川さんの顔が、近づいてくる。
黒くて大きな瞳と、白い肌と、いつもサラサラな黒髪。小さなころから、綺麗だなと思っていた。あの時は無邪気に――
「約束したよね」
「約束?」
(あああああああああうっかり言ってる僕ううううううう)
「……っちが、ちがうっ、いやちがわない、えっと」
アンジの乱暴なパスが僕にクリティカルヒットしたから、次のアタックが読めなくなってグダグダなバトルに――いやもう本当に動揺しすぎて、何をどう言えばいいか分からない。
僕は、三回深呼吸をしてから、ようやく口を開く。
ここが僕の、人生の分岐点だ。そして僕は、道を選択した。
「僕が神様のお世話をする。だからあーちゃんは、好きなところに行っていいんだよ……あーちゃんが良ければ、だけど」
僕のセリフを聞いた姫川さんの動きが、ぴたっと止まる。
僕には勇気がなくて、顔を上げられない。彼女の目を、見られない。彼女の膝にある手の先、形の良い桜色の爪を見てしまう。
「ユキくん」
だから彼女は、いつも僕を優しく呼んでくれるんだ。
顔を上げると、潤んだ大きな黒い瞳と目が合った。
「それだと、半分だけだね?」
いたずらっぽく姫川さんが笑うので、僕は精一杯キリッとした顔で応えた。
「今までの僕は、本当に情けなかった。あとの半分は、これからの僕を見て、考えてくれたら嬉しい。……すごく勝手だけど」
「ふふ。はい、はい」
姫川さんは呆れたような声だけれど、顔はとても嬉しそうだったから、安堵した僕はまた卵焼きを交換しようと誘う。
いつの間にか心を閉じて、色々なことから逃げていた僕のことを、姫川さんはちゃんと見てくれていた。
トワに背中を押されるまで目を逸らし続けていた、今までの臆病な僕には、心の中でバイバイをする。
姫川さんが、ニコニコとエリコの卵焼きを頬張っていて、とても幸せな気分になった。
「ん~! やっぱりおばさんの卵焼き、おいしい~」
「そう? 僕は甘いのも好きだよ」
「んじゃ、ママにレシピ聞いておかなくちゃ」
「作ってくれるの!?」
姫川さんが、今までに見たことがないものすごい可愛い顔で
「ユキくんの胃袋、掴んでおかなくちゃだもん」
と言ってくれて、僕は思わず「可愛いなあ」とぽろり。
「えっ、私が?」
「うん」
「気が強いとか怖いとかじゃなく?」
「うん。あーちゃんはいつも一生懸命で、可愛いよ」
「そんなこと言うの、ユキくんだけだよ」
「……僕だけでいいじゃん」
「……うん」
ウブな僕らは肩を寄せあって、残りのお弁当を食べる。それから、休み時間が終わるまでの少しの間、手を繋ぎながら思い出話をした。
――二月の寒空の下でも、暖かく感じた。
なんとなくふたりして照れながら教室に戻ると、白崎さんが青い顔をして
「巨人は巨人じゃない。ロボットだった!」
と訴えてきたので理由を聞いたら、僕らがいなくなると全く喋らなくなって、教室に戻るや机に突っ伏して寝始めたのだそうだ。
「うわぁ」
「ホラーね」
「もう二度と、奴とふたりきりにしないでっ! ね! お願いよおおおお!! うあーーーーーん!!」
ギャルの悲鳴が教室にこだまして、アンジのモテ期は――無事終わりを迎えた。
†
家に帰った僕は、これでも人生の一大決心だとばかりに、夕食後のダイニングテーブルで両親を目の前にして
「神道学部に行こうと思う」
と告げた。
ところがエリコはあっさりと
「あらそう。初志貫徹だなんて、幸成のくせにやるじゃない」
だって。
「え。あの。もし本当にそうなったら、矢坂家はなくなっ」
「守らなきゃならない家なんてないわよ。ねえ、お父さん」
「うん。僕ただの役人だし、兄さんも弟もいるしね。姫川幸成。戦国武将みたいだ! かっこいい!」
全身から力が抜けた。へなへな・へろへろだ。
「それより、あやめちゃんは本当にいいのかしら? だって幸成よ?」
さすがエリコだ。核心を突きすぎる。
「そうだよね、幸成だもんねえ。あやめちゃん美人さんだし賢いし、もったいなすぎるよ」
普段ぽやぽやしている父親からすらも、即死級の大ダメージ。僕のHPゲージは一瞬にして真っ赤だ。
「わかんない……がんばる……」
吐血のグラフィックがあったなら、是非今の僕に適用していただきたい。エンドロールにはきっと、天使の羽根が舞っているに違いない。
27.命の期限
高校二年生の三学期は、あっという間に過ぎていく。
短い二月が過ぎ、三月はじめに二年生最後の期末テストを終えたら、もう春休みだ。
「やれば、できるじゃないか、ユキ」
「まーねー」
修了式を終えた僕は、通知表を持ってトワの病室を訪れている。病室で苦手だった英語をとことん教えてもらっている僕は、なんと学年四十位まで上がった。
どんどん弱ってきているトワは、ついに寝たきり状態になり、酸素チューブが酸素カップになった。
喋りづらそうで、僕は彼の口元に耳を寄せるようにして会話する。
トワの母親であるナナエさんも頻繁に来ていて、いつも挨拶をするけれど、顔色が悪い。無理やり笑っているのが分かるけれど、僕はそれには気づかないフリをしている。素直って言われたからには、バレていると思うけれど。
トワの父親と兄は一度も来ていないが、トワも会ったら余計に疲れるからいいのだ、と力なく笑う。
「ひめ、かわ、さんとは」
「ん?」
「どう、なった」
人の恋愛なんて気にするんだな、と僕が苦笑すると、トワはふ、ふ、と息を吐く。
「修行、だから」
「あっは! そうか、そうだよね。あれも天使だ!」
ふ、ふ、とトワが笑う度、透明のプラスチックカップに白い靄がかかる。命の息吹が可視化されているみたいで、僕はそれを見るのが苦手だ。
「うん。うまくいっていると思う。背中を押してくれて、ありがとう」
「いや。ふたりの、きもちは、わかってた」
「そう?」
「はあ。ただ、すこし、てだすけ」
「うん。トワが背中を押してくれなかったら、僕は動いてなかったよ。君は間違いなく、キューピッドだ」
ふ、ふ、とトワが笑って、それから――
「ね、る」
目を閉じて、スースーと寝息を立て始めた。
こうして少し話すだけでとても疲れるようで、面会時間は日に日に短くなっていっている。腕時計を見ると、今日は十五分間。
「……おやすみ」
どんどん近づいてきているトワの命の期限を感じて、僕は身震いがした。
けれども、目をそらしてはダメだ。僕にできるのは、最後まで側にいること。それだけだから。
†
その翌日、僕は姫川さんと白崎さんと一緒に、再びバスでトワの見舞いに来ていた。春休みに入って以降、なぜかアンジとは連絡がつかない。まだ二日目なので寝ているのかなと様子を見ているけれど、折を見て家を訪ねようと思っている。
「どんな色が好きか分からないから、青にしてみたよ」
途中の花屋で見かけた青いアネモネがとても綺麗で、それを中心に花束を作ってもらった。
ベッドの上で首だけを動かしたトワが、僕の手にある花束を見て、ふっと表情をゆるませる。
「かたい、ちかい」
「え?」
トワの言葉が聞き取れなくて、僕はまた口元に耳を寄せる。
すると背後の姫川さんが、「花言葉ね?」と微笑んだ。トワが、小さく顎だけを動かして、頷く。
「固い誓い。まさに、天使くんみたいね」
姫川さんが僕の手から花束を受け取って、枕元に置いてある空の花瓶を持ちあげ、差して見せる。
「ぼ、く?」
「ええ。『願いを叶える助けをする』って、最初に言っていたでしょう」
――ボクのことは、遠慮なく『天使』と呼んでくれ! その名の通り神の御使い。君たちの願いを叶える助けをするぞ!
あの日トワは、いきなり教壇に立ったかと思うと、そう宣言した。
ほんの半年前のことなのに、ずいぶん昔のことみたいだ。
「言われてみればそうじゃん! はじめは、すごいヤバイやつだって思ってたけど。あたしの願い、叶えてくれたね!」
白崎さんが、いたずらっぽい顔でコロコロ笑っている。
「しら、さきさん?」
「あたしさ~。これと言ってやりたいことなかったんだ。服は好きだけど、実家から出る気なかったし~? 東京行くんならまだしも、田舎でファッションっていってもさあ~」
確かに、張り合いはないかもしれない。
まず、オシャレをする場があまりない。したところで、それほど理解はしてもらえないだろう。
シングルマザーである白崎さんのお母さんは、無事退院してまたスーパーのパートを再開できたらしい。白崎さんはそれを支えながら、ここから通える看護学校に入学するため、勉強を頑張っている。
「だからさ~、目標見つけられて、今はスッキリしてる。天使くんのおかげ。ありがと!」
僕は、はりきって病棟を走り回るギャル看護師を想像する――うん、ものすごく人気が出そうだ。入院患者殺到、大繁盛。いや、それは良くないな。
「でも、お願いもあるんだ……お医者さんになってよ、天使くん」
「ん?」
突然のお願いに戸惑うトワが、パチパチと何度も瞬きをしている。僕は、トワの脇から離れて白崎さんに場所を譲った。
白崎さんは僕と目を合わせて強く頷くと、トワの枕もとで床に両膝を突いて、耳元に口を寄せ、何事かを呟く。
「……なんだから。ね?」
「っ」
ぼん! とトワの顔が真っ赤に染まったのを見た僕は、慌てて心電図に目を走らせた。ピッピッピッ、と面白いぐらいに鼓動が早くなっている。
「うっひっひ~。めちゃくちゃドキドキしてんじゃん~! さては、まんざらでもないな?」
白崎さんが、明るい笑顔でパッと立ち上がった。
今度は、姫川さんが両膝を突いてトワの耳に口を寄せるのを見守りつつ、僕は僕の背中に隠れて涙を拭けるように、白崎さんの姿をトワから隠す。
「天使くんのおかげで、ユキくんが元に戻ったよ。ありがとうね」
「ちょ、あーちゃん!?」
「誰も信じない、だなんて悲しいもの。でも私も、どうしたらいいか分からなかったの。ユキくんを救って、ていうのが私の願い。叶えてくれてありがとう。感謝してもしきれないよ」
心電図が、元通りまたゆっくりピッ、ピッ、と鳴る。
「ユキ、が、優しい、からだ」
力強い声が、僕まで聞こえてくる。
天使の心は、まだその力を保っていると示されているようで、僕の目頭は熱くなった。
「ちょーもう、はずいからやめようよ」
止める僕を無視して、トワは一言一言を噛みしめるように、放つ。
「とても、よい、やつだ」
姫川さんが、人差し指で目の下を流れ落ちようとしていた涙をすくってから、しっかりと頷いた。
「うん。知ってる」
「だ、から、ボク、も、はあ。とも、だちに……」
言い終えることなく、トワは静かに目を閉じた。すー、すー、と規則的な呼吸音で、眠りにつく。
僕は腕時計に目を走らせる。今日は、八分。昨日の半分近くまで短くなっている。
僕は、嗚咽が漏れないように奥歯をぎりりと噛みしめ、寝ているトワの上から声を掛けた。
「うん。友達になれて、良かった! また来るね!」
刻一刻と迫る、トワとの別れの時を、僕はまだ――受け入れられない。
28.眠る巨人は決意する 前
ユキ>>『アンジ?』
ユキ>>『また寝てるの?』
ユキ>>『心配だよ』
ユキ>>『なにか、あった?』
スマホの画面の中。未読で積みあがっていく僕の一方的なメッセージは、何度見ても変わらない。
アンジからは、まったく返事がないどころか、既読さえ付かない。
いよいよ不安になった僕は、アンジの家に直接行こうと自分の部屋を出たところで、はたと立ち止まる。
「アンジの、家? どこだっけ……」
思い出そうとしても、分からない。
そもそも知っていたのだろうか?
なぜ知っていると思い込んでいたのか?
「え? ちょっと待って」
昨日、姫川さんと白崎さんと三人で、トワのお見舞いへ行った時のことを思い返す。
ふたりとも――トワまでも、アンジがいないことについては、何も言っていなかった。
今までなら、「アンジは?」と誰かは聞きそうなのにも関わらずだ。
「え? え? いやまさか、そんな」
冗談みたいなことを、僕は考え始めている。
「きっとたまたまだ。うん。あ、お見舞いに行こう、そうしよう」
ぶつぶつと独り言を吐きながら、僕は家の中の階段を降りていく。
僕のバイクには車検義務はないものの、白崎さんのお兄さんのところでメンテしてもらっていて、今日はバスで動かなければならない。
「お見舞い、行ってくるね」
リビングで三時のおやつを食べていた母親に声を掛けてから、僕は玄関を出る。
春を迎えた庭先で、プランターの中のパンジーが風に揺れていた。
胸騒ぎが止まらない。
そんなバカなことがあるだろうか。
(――アンジはそもそも、存在していたのか? だなんて。考えるだけでバカバカしい!)
駅のターミナルから、市立病院行のバスに乗る。
最後尾の長椅子に腰かけてから、僕は必死に、アンジとどうやって友達になったかを思い出そうとしていた。
二年になって文系と理系に分かれたクラスでは、姫川さん以外見覚えのある顔はほぼいなかったはずだ。
中学以来ずっと人間不信だったこの僕が、なにもなしに、アンジと呼び捨てにするほど親しくなることがあるだろうか。
いや、ない。
(キレイな反語だあ)
僕はバスの最後尾で、頭を抱える。
(そうだよな、ありえないよな)
今まで疑問にすら思わなかった。
当たり前に側にいたから。
でも今思えば、それが逆に不自然すぎる。姫川さんも、普通なら「ユキくんに友達!?」と驚くはずだ。実際、トワと仲良くなった当初も心配して声を掛けてくれたぐらいだった。
考えれば考えるほど、ドツボにはまっていく。
(いやいや、忘れているだけだってば)
ふん、となぜか気合を入れてから、僕はバスを降りた。
†
春休みだからと自由に動ける、平日の夕方。
入院棟は閑散としていて、看護師さんたちはみんなでどこか別の場所を巡回しているのかと思うぐらいに、姿が見えない。
僕は顔見知りが多くなったし、勝手知ったる身だし、と迷うことなくトワの病室へと向かう。
トワの母であるナナエさんがすぐに泊まれるようにと、個室へ移っていたので、遠慮なくノックをしてから扉をガラガラと開ける。
夕日の差す窓際はカーテンが開けっぱなしで、日の光が静かに来客用ソファのあたりを焼いていた。
「天使くん?」
――人の気配が、全くしない。
「っ」
僕は慌てて個室の中へと踏み込み、目隠し代わりのカーテンの中へ体を入れた。
真っ先に視界に飛び込むのが、大きめのベッドだ。
脇には、テレビや冷蔵庫などがあるキャビネット。部屋の片隅には、おまけみたいな小さなクロゼットと、その隣に洗面台。
トワが、ベッドの上で静かに寝ている。
その枕元に――アンジが立っていた。修学旅行で、みんなでリンクコーデした時の格好をしている。
「アン、ジ」
「ふむ……まだ覚えているのか」
(え、なに?)
「深く関わりすぎた」
無表情でこちらを見ているその顔は、まるで他人みたいだ。
「なに、言ってるの?」
「……そうか、しかも邪な心が少ないからだな。なるほど」
ひとりで納得したようなアンジが、僕に向かって一言、
「すまない」
と放った。
一方的な謝罪は、僕に混乱しかもたらさない。
「いや謝られてもさっぱり意味わかんないよ! ちゃんと説明しろよ!」
思わず大声を上げてしまった、と慌ててトワの様子を見ると、まぶたがピクピクと動いた後で、ゆっくりと目が開いていく。
天井を見てから、目線だけ動かして室内を確認したトワが、僕の姿を捉えた。
「ユキ……?」
「ごめん! 騒がしくして!」
「だいじょうぶだ。アンジは……天使だから」
「え?」
戸惑う僕にふっと笑った後で、トワは電動ベッドのボタンを押す。
ウイイイインと作動音がすると頭の部分が持ち上がって、僕と目が合った。
上体を起こしたトワが、口にはめていた酸素を送るためのプラスチックカップを外してから、僕をまっすぐに見つめたまま言った。
「ボクに役目を引き継ぐため、側にいてくれたんだよ」
「なに、言ってる?」
混乱するしかない僕の目の前で、アンジの眉尻が下がった。
「そうか……わかっていたのか」
「うん。死期の近い人間に、翼は隠せないみたいだよ」
「なるほど」
「ちょっと! 待ってよ!」
アンジが天使で、トワに役目を引き継ぐ?
何を言っているのか、さっぱり分からない。
「ユキ。初対面の後、ボクがいきなり変わった、と思っただろう」
「っ……うん」
はあ、はあ、と大きな息継ぎをしながら、トワがゆっくりと話すのを、僕は色んな言いたいことを我慢して聞くことにする。
「自暴自棄だったボクに、死んだ後の役割を与えてくれたんだ」
トワのセリフに合わせるように、トワの枕元に立っていたアンジが動いて、僕の方に歩いてくる。
天使だって?
得体の知れない怖い顔の存在は、悪魔にしか見えない。
そんな僕の心が見えたのか、アンジは困ったように片眉を上げてから――ばさり、と大きな翼をはためかせた。
「っ!」
「次はボクが……」
「ふっざけんな! 今まで! そのために! 利用していたのか!?」
この際天使なんか、どうでも良かった。
「天使になるためにっ、僕を……」
僕の胸の中を焼くように覆っているのは、『また裏切られた』という怒りと悲しみだ。
「信じてたのに……!」
僕の両眼からは、ボタボタと壊れた蛇口のように涙が溢れ出す。
(ああやっぱり、誰も彼も、僕の心なんてどうでも良いんだ。利用するだけ利用して、去って行く)
ところが絶望する僕に向かって、アンジが困ったような顔で告げた。
「ユキナリ。それだとそいつは、天使になれない」
「え……」
突如としていつも通りのアンジに戻った天使の目が、僕の心を射抜いている。
「お前には分かっているはずだ。利己的に自身の願いを叶える者が、善人を正しく導けるはずがないだろう。なれたとしても、道に迷う。トワは、そういう奴だったか?」
そうだ。僕の思い出の中のトワは、いつだってまっすぐで――
「違う! 誰かのために、動く奴だ!」
叫ぶように言った僕に、アンジは深く頷いた。
「そうだ」
僕とアンジのやり取りを見守っていたトワが、微笑んでいる。
満足そうに。
もう、思い残すことはない、みたいな穏やかな顔で。
「天使、くん?」
「……っく」
「天使くんっ!!」
トワが、苦悶の顔で胸の辺りを押さえる。
やがて、トワに付けられているモニターが、けたたましくアラートを鳴らし始めた――
29.眠る巨人は決意する 後
トワに付けられている心電図モニターが、けたたましくアラートを鳴らしている。
僕は絶望感でいっぱいになりながらベッドへ駆け寄り、ナースコールを探すため、トワに覆い被さるようにしてベッドの上をまさぐる。
手を動かしながら、行き先のない焦燥を、言葉で吐き出す。
「アンジ、どうしよう! 助けたい! 助けたいよ!」
泣き叫びながら狼狽える僕に、アンジは何も言わない。
「たすけてよおーーーー!」
涙も鼻水もシーツに落ちて、真っ白で清潔なトワの居場所を濡らしていく。こうやって汚してでも、僕の命を分けてあげられたらいいとさえ思った。だが僕には何の力もない。無力だ。いつだって、誰かに頼ることしかできない。
「あああああ……やだ、やだよお、いやだああああ、何でもするからああああ」
スーパーでお菓子を買って貰えない子供みたいに、僕はわがままな自我を撒き散らす。
自分の髪を掴んで頭を振り、地団駄を踏み、シーツを掴んで揺さぶって。
ダメなものはダメだと分かっている。
けれども、欲しいという欲望を吐き出す先がない。だから、ぶつける。
キーン……――。
「!?」
突然、痛いぐらいの耳鳴りが僕を襲った。
ぎゅっと耳を手で押さえてから放し、部屋の中を見回す僕は、なぜか時が止まったことを認識できた。
アラーム音が消え、窓から差し込んでいた夕日の温度もなくなり、何よりトワが、苦しんでいない。穏やかな顔をしてただそこに、在る。
「……そうだよな……俺も、助けたい」
困ったような低い囁きは、聞き取れるか取れないかぐらいの小さなものだったけれど、僕にも確かに聞こえた。
「アンジ……?」
躊躇いなく振り返る僕の目線の先で、アンジがぽりぽりと後ろ頭をかいている。
「これまで何人もの人間を見送ってきたが、皆死ぬことを諦めとして受け入れていてな」
そんな姿は、クラスメイトとして過ごしたアンジでしかない。天使などではない。ただのアンジだ。
だから僕は、気安く声を掛けることができた。
「そうなんだ?」
「ああ。善人を導くという役目は、穏やかで何の変わりもなく、ただの決まった作業になっていた。最期の言葉も聞き流すくらいのな。淡々と正しい方向へ道案内をするだけの……」
「……僕、アンジのことロボットみたいって何回も思ってたよ」
はあ、と大きな溜息を吐くアンジの、感情が目に見えるようになってきた。やれやれとか、恥ずかしいとかいう彼の気持ちが、表情から透けてみえる。
「それでは良くない。誰もを満足した状態で導いてやらなければならないのに、俺にはもう長いことできなくなっていた。そのせいで存在自体が保てなくなり、消滅するかもしれないという時に出会ったのが、トワだ」
「存在が、保てない?」
「存在には、使命と意義が必要だからな」
「なるほど……だから引き継ぎだね?」
僕は、シャツの袖で乱暴に頬をこする。
涙が滲んで濡れたけれど、構わない。
しっかりと最後まで見届けなくては。
「その通りだ。俺はトワに『自身が心から望んだことを叶えてこそ、この存在になれる』と言った。すると彼は、誰かの役に立ちたいのだと」
「役に……立ちたい……」
「出来損ないと父親に蔑まれてさえ、医者を志すような心根の人間が何をするかと思えば」
そこでアンジが、心底おかしそうに、クックックと笑った。
「友達が欲しかったんだよ。友達になるために、人の役に立とうだなんて。ほんと不器用なやつだよな。クックック」
拭ったはずの僕の涙が、再び溢れ始めた。
「不器用すぎるよ」
きっと僕は『友達になろう』と言われたところで、なれなかっただろう。トワは、僕がまた人を信じられるように、ずっと僕の側で頑張ってくれていたのだと気づいた。
――そうして僕らは、友達になった。唯一無二と言ってもいいぐらいに、大切な、親友に。
「あああ……やだよ……やだなあ……せっかく友達になれたのに……」
「俺も、嫌だと思ってしまってな」
アンジの眉毛が、八の字に歪んでいる。
「私情を持ってしまっては、もう役目にも戻れん」
「え? アンジ?」
「なあユキナリ」
「なに?」
「たくさんのメッセージをありがとう。なんだか俺もまるで」
「友達だよ! 当たり前じゃんか! いつもさりげなくフォローしてくれて! 翼作ったり、悪いヤツ追いかけたり! 誰がなんと言おうと、僕らは!」
アンジが目を見開いた後で、はっはっは! と声を上げて笑う。僕が初めて見たアンジの笑顔は、豪快で楽しそうだった。
「ああそうか。これが満足というやつか」
「アンジ?」
「ユキナリ。友人として、頼みがある」
「なに!?」
先程までの柔らかな表情とは打って変わって、にわかに真剣になったアンジが、僕に詰め寄った。
「本気で、トワを助けたいか」
「助けたい」
「なら、今まで積んで来たお前の善行。くれるか?」
「ぜんこう?」
「善人となるべく貯めてきた徳とでも言おうか。なくなれば、死んだ後地獄行きに」
「あげる!」
アンジが言い切る前に迷いなく即答した僕を見て、アンジはさらに僕に迫る。
「悪人とみなされるのは、辛いぞ」
「あのね。僕これから、姫川神社の権禰宜になる予定なんだよ。修行、頑張る!」
「……なるほど、それならばそれほど影響は多くないか。ちょっと不運なことが続くぐらいで……」
「ちょっと不運が続く!?」
「はっは。まあ、くじに当たらないとか、うっかり電車を乗り過ごすとか」
「地味に嫌すぎるけど、トワの命に比べたら全然だね!」
アンジは、これ以上ないぐらいニヤリとした。まるで悪魔の微笑みだ。
「決まりだな。俺の手を取れ」
僕は、差し出された大きな手のひらを、躊躇いなく掴む。ひんやりしていて、力強い。
「矢坂幸成の善行そして、わたしの今までの善行及び残りの役目を、天乃透羽の寿命に替えよう」
「アンジッ」
「気にするな。今までは『善人を導く役目』。これからは、『悪人の魂を狩る役目』に変わるだけだ」
「それって天使から死神になるってことじゃん……!」
「そうとも言う」
イタズラっぽく笑うアンジは、みるみる真っ黒なローブにその身を包んでいき、背中には大きな黒い鎌を背負う。白い羽に覆われた綺麗な翼は、黒い蝙蝠のような翼に変わっていった。
完全に、死神だ。むしろこちらの方が似合っているというのは、言わないでおこう。
「さて、憂鬱すぎる役目だが……ユキナリ」
「なに?」
「おまえが死ぬ時までには、なんとか天使に戻ってやる」
「え、それって……アンジが、迎えに来てくれるってこと!?」
僕がずいっと迫ると、アンジは皮肉を言う時のような顔をした。やっぱり死神、似合っている。
「おまえなら、これから善行を重ねて、善人として迎えに行けるようになるはずだ」
ゼロになったものを、また一から積み上げるのはきっと大変なことだ。だからこそアンジは、こうして僕の未来を導こうとしてくれているんだろう。
(すごい圧かけてくるよね。でも僕は、やるよ。やってみせる)
「うん! 頑張るからね。絶対アンジが迎えに来てよ!」
「約束だ」
「約束!」
「じゃあそれまで、さよならだ」
「アンジ!」
目の前でどんどん消えていくもう一人の友達に、僕は涙をこらえて、精一杯の笑顔で手を振った。
「っ、バイバイ!」
30.天使くん、バイバイ!
個室の扉が、ガラガラ! と派手な音を立てながら開いた。
「天乃さん!?」
大声を出しながら駆け込んでくる看護師の声で、僕はハッと我に返った。
ピコーンピコーンとけたたましく鳴るアラームを止める前に、看護師がトワの体を確かめ、
「はあ。プローブが外れていただけですね。良かった」
とすぐに僕を振り返って笑顔を見せる。
「え?」
「これでよし、と。寝返り打って取れちゃったかな。びっくりしたでしょう?」
「え、ええ。ナースコールがどこか、分からなくて……」
「ああ! あら? それも落ちちゃってましたね。ここに括りつけよっか」
看護師さんが、鮮やかな手つきでベッドのヘッド部分の金具にコードをぐるぐる巻くと、「んじゃまた何かあったらこれ、押してね」と笑顔で退室していった。
「え? 発作じゃ、ない?」
僕はそろりと、モニター画面を振り返る。何事もなかったかのようにピッ、ピッ、と穏やかな波形が画面を通り過ぎていく。
「……ユキ」
トワが、しっかりと目を開けて僕を見つめている。頬は紅潮し、血の気が戻っているように見えた。
「……なんということを……ありがとう、ありがとう」
その両頬には、透明な泉が溢れたかのような、綺麗な水の道筋ができている。
「ううん。僕は、願っただけ。叶えたのは……あれ?」
僕の頭の中を黒い靄が覆う。
近くで鳥が羽ばたいた時の風が、記憶の一部を巻き取って行くと同時に靄も晴れていく――変な感覚に、思わず頭をブルブル振る。
僕はパチパチと瞬きをしてから、トワの顔をまじまじと見た。
いつもと変わらない、大きな潤んだ瞳と、柔らかそうな髪の毛に、華奢な首。確かにトワなのに、なんだか違和感があるのはなぜだろうか。
いや気のせいに違いない、ともう一度頭を振ってから、僕は明るく声を掛ける。
「ねえトワ、いつ退院できるの?」
「! あーと……そうだな……医者に聞いておく」
「分かったら、すぐメールしてよね」
「ああ」
トワが目の前で静かに微笑んでいる。どこか寂し気だったのが、なぜだったのかは未だに分からない――
†
「ほう、ついにか」
「ついに! っくー!」
僕が握りしめているのは、『大吉』と書かれたおみくじだ。
毎年引き続けて、五十回目。つまり、五十年かけてようやく、引くことができた。
「姫川神社の宮司が、大凶を引き続けるという伝説は、今年でついに終わったか」
「終わったね! 外出許可の後押しをありがとう、天乃先生。っはー、これでもう、思い残すことはないなあ」
「おい、もう先生じゃないし、まだ早いぞ」
「ふふ。お互い定年して、だもんね。年取ったもんだよねえ」
「まったくだ」
市立病院の個室のベッドの上で、僕はボスンと枕に頭を投げ落とすようにして横になる。
自宅とは違う天井もすっかり見慣れたし、やせ細った腕に差し込まれた点滴を煩わしいと思う感覚すら、なくなった。
「……ねえトワ。何か僕に隠してること、あるんでしょ」
「うっ」
「医者のくせに、隠し事が下手だよね~。五十年も見て見ぬ振りし続けた僕、偉くない? そろそろ教えてくれてもいいよね」
「……まいったな」
トワはすっかり白くなった髪をくしゃりとかくと、僕に優しい笑顔を向ける。
わざわざひとりで僕の病室を訪れた彼に、せめてもの呼び水だ。こういうところが不器用なのは、昔から全然変わらないなと僕の頬はゆるむ。
「ユキ。『天使』のことを、話させて欲しい」
「え?」
「ユキともう一人の親友が、僕の命を救ってくれた。これは決して、僕の妄想でも作り話でもないぞ」
トワがいたずらっぽい顔をしてから、カバンから真っ白な鳥の羽根のようなものを一本取り出して、僕の目の前に掲げるようにして見せる。キラキラとした光を放っているようなそれに、僕の目はたちまち奪われた。
「それって、どういう……」
†
シャ! と無遠慮にカーテンを開けて顔をのぞかせたのは、薄茶色の髪の毛の青年医師だ。
「あ、また来てたの? 親父」
さわやかな笑顔で気軽に声を掛ける彼に、トワがじっとりとした目線を返す。
「お前に、大事な親友を任せておれんからな」
「うわ~。俺、これでもここの、未来の外科部長候補様だよ?」
「ふん。なってから言え」
拗ねる老人なんて可愛くないはずなのに、トワはなぜか可愛いと思える。人徳だなあ、と僕は眉尻を下げた。
「はは。僕は信頼しておりますよ、天乃先生」
「光栄です、ユキさん。奥様みえてますよ。あと、母さんもね。じゃ、また後で回診来ますね~」
ひらひらと手を振ってから立ち去った天乃先生の言葉で、トワが苦い顔をした。
「げ」
「あ。トワ、またリンさんに無断で来たの? 怒られるよ?」
「いやだってだな」
もごもご口を動かすトワを眺めていたら、やがて鬼の形相の女性が姿を現し、腕を組みながら放った。
「ほんと勝手なんだから」
「げげげ。リンカ」
「どうせ来るんだから。一緒に来たらいいでしょうに!」
「いやーそのーほらー」
数多の難しい手術をこなした、敏腕の天乃透羽医師とは思えない、歯切れの悪さだ。
医大卒業後、市立病院勤務を経て経験と人脈を元手に、トワは天乃医院を設立し、地域医療へ多大なる貢献をした。
儚い見た目と潤んだ瞳で、数々の看護師や患者のハートを奪った彼は、高校の同級生で看護師の女性と結婚をしたことで、数多の涙を流させたことでも有名である。
「ちょっとユッキー、何か言ってやってよ!」
高校の廊下で、ギャルは苦手だとぼやいていたトワを思い出して、僕はおかしくなった。
「あはは、ごめんごめん。男同士の話もあるんだって」
「何話したの!?」
「冥土の土産話だよ~」
「っんもう! そういわれたら何も言えないじゃない!」
白崎さんの隣で、呆れた顔をするのが僕の妻――
「リンちゃん。これがこの人のずるいところ。あきらめましょう」
「あーちゃん! くやしー!」
姫川さんだ。
彼女は美大卒業後、デザイン事務所へ就職して、本の装丁を作る仕事に従事。有名な小説や童話の表紙が彼女のデザインと思うと、鼻が高い。
退職後は、市内の高校の臨時美術教師として、進路相談にも応じている。ちなみに僕たちの娘は、姫川さんの若い頃と瓜二つ。負けん気が強くて、ファッションデザイナーを目指して上京したものの挫折して、都内で会社員をやっている。デザインができないなら、編集だ! と社畜な勢いで働き、営業の男性と社内結婚して、孫もふたりできた。姫川神社は権宮司として奉仕していた姫川さんの従甥に譲ることにして、僕は幸せなことに、普通の『じいじ』を満喫している。
「ごめんごめん」
すると、微笑む僕の目の前に、キラキラと輝く白い羽根がひとつ、ゆっくりと降って来た。
先ほどトワが見せてくれたものと全く同じものだと気づいた僕は、それから目が離せない。
「あ……」
思わず呟いた僕を、みんなが覗きこむ。
輝く白い羽根は、みんなには見えていないみたいだ。
「ユキ?」
「どしたの?」
「ユキくん?」
落ちてきた羽根を手のひらで受け取ると同時に、僕はあの日の約束を鮮明に思い出した。
「ああ……! そうか……」
(約束、守ってくれたんだ。迎えに来てくれたんだね)
「嬉しい。僕は、幸せ者だ」
安心した僕は、ゆっくりと目を閉じる。
「ユキ!」
「ユッキー!?」
「ユキくんっ!!」
(ねえ。毎日祈り続けられたのは、君のお陰だよ)
『いいや。ユキナリの努力だろう。お陰で、元の役目に戻れたぞ。さあ、行こうか』
相変わらず怖い顔の天使が、空で微笑んで、手を差し伸べている。
「ありがと」
僕はそのひんやりとした力強い手を、迷わず掴む。
と、前にもこの手に触れたことを思い出した。
(ああ、そっか。同じようなことがあったね。すっかり忘れていたな)
『うむ。たくさん思い出話をしよう』
(うん。アンジのロボットダンス、面白かったなあ)
『……それを言うなって』
(あはは!)
大きな白い翼に包まれながら、僕は笑顔で光り輝く道へ一歩踏み出す。
少しだけ立ち止まって、後ろを振り返って、大きく手を振った。
「バイバイ!」
白い羽根が舞い散る青空を、僕は迷わずまっすぐに、歩いていく――