24.母という生き物
九月十月十一月十二月、と僕は心の中で月の数を数える。
わずか四か月と少し。
僕がトワと過ごした時間は、とても短い。
けれども今まで、家族以外でこんなにも濃密に接した人間がいただろうか。
僕は、彼を――ちゃんと見送れるのだろうか?
†
「なにしに、きた」
鼻に酸素を送るための透明チューブを付けられたトワは、胸にモニター、腕には点滴、指にはパルスオキシメーターという完全装備状態でベッドに寝ていた。
「お見舞いだけど?」
トワの姿に少なからずショックを受けたことを悟られないように、僕はさらりと言って脇の椅子に腰を下ろす。
メッセージをもらった翌日に思い立って、既読スルーのままバイクでやってきた僕は、迷惑かもしれない。
トワの患者着の隙間からは、あばら骨が見えている。こんなにも痩せていたのかと、今さらながら命がこぼれていっているような友達を、どう見たらいいのか分からない。そんなことは、習っていない。正解が分からない。
「もう、くる、な」
苦しそうにあえぐトワは、言葉と裏腹に優しい顔をしている。
「なんで?」
「ユキ、が。つらい、だけ、だぞ」
――辛いのは、トワじゃないか!
叫びたいけれど、今度はかろうじて我慢できた。
感情的になった自分を操作する方法を、この四か月で学んだはずだから。
でも、友達を見送るのなんて、学びたくない。
「……迷惑?」
トワはそれには答えずに、目をつぶった。
ここでも既読スルーか、と思わず苦笑が漏れる。僕もした手前、強くは言えない。
「欲しいものがあったら、いつでもメールして。また来るよ」
さすがに発作の翌日は辛そうで、早めに帰ることにする。
立ち上がって病室を出ようとした僕を、トワのか細い声が追いかけてきた。
「くる、な」
カーテンの中へ再び身体を差し入れて、僕は叫ぶ。
「なんっでだよっ!」
ああやっぱり感情的になった自分は、厄介だ。我慢できるようになったと思ったのに。
せめて、あと少しでも我慢できるように、僕は体の脇で両手をぎりぎりと握りしめる。
「これでっ! ハイサヨナラなんてっ! 言えるかよっ!」
「……」
「そんなんで! 天使になんか! なれるもんかっ!」
自分勝手で最低なことを言って、僕は勢いに任せて病室を出る。と、廊下に立っていた女性の肩に、ぶつかってしまった。
「あっ、すみませっ……」
「いえ」
大きめの眼鏡に、ぱっちりとした二重の目と小柄で華奢な体に、見覚えがある。
「あれ?」
「こんにちは。透羽のお友達ね? 母です」
「あ、はい……」
品の良いワンピース姿で、手に脱いだコートとカバンを持っている。
「少し、お話してもいいかしら」
下がる眉尻をぼうっと見てから、僕は頷いた。
「……はい」
エレベーターホール手前の談話室。年明けすぐの平日の昼間は、患者も見舞客も見当たらない。
誰もいないスペースの端にあったテーブルに、向かい合わせに座る。窓からは朝の日の光が差し込んでいるものの、暖房が行き渡り切っていないせいか、底冷えがする。
「えっとあの、はじめまして。僕、天……トワくんのクラスメイトの、矢坂幸成です」
「はじめまして、ユキくん」
「! はい」
「透羽から話は聞いているし、写真でも見ていたから一方的に知っていて。天乃奈々絵といいます。あの子の友達になってくれて、ありがとう」
「いえ、僕の方こそ」
優し気で理性的で、病気の息子を放置していた母親、にはとても見えない。
「薄情な母親と思ったでしょう」
「うっ」
「……透羽は、小さなころから我慢ばかり。最期くらい、好きにさせてあげたかったの。ここなら自然もあるし、カルテは毎日診ていたわ。少しでも変化があったら駆けつけようと思って」
そこでナナエさんは、ふっと笑った。
「まさか、文化祭委員をして、修学旅行に行くだなんて」
「え」
「家から出ず、たったひとりで、本ばかり読んで勉強して……そんな人生でいいのかしらって。でも、写真がたくさん送られてきたのよ」
ナナエさんの目には、きらきらと涙が浮かんでいる。
「お友達と何かを作って、食べて。はしゃいで、笑って。そんな透羽が見られたのは、あなたのお陰。ありがとう、ユキくん」
「いいえ! 僕は、何も」
「そんなことないわ。『ユキは素直で優しい』って透羽はいつも言っていた」
僕にとってそれは、何の個性もない普通の人間、という風に聞こえる。
「あの頭でっかちでひねくれた子が、信頼に値するって言っていたの。ふふ、ほんとね。考えていることが全部わかっちゃうぐらい素直で、おばさん心配になっちゃう」
「げ」
「素直で優しい。……そうね、誰でもそうだろうって思っちゃうかもしれない」
ふう、とナナエさんは大きく息を吐いた。
「私は医者としてたくさんの人を診てきて、たくさんの人とお別れをしてきた。家族や同僚、友人、患者……関わる人間はとても多い。けれども」
それから、僕の顔をじっと見る。
「素直で優しい、という評価を下せる人間は本当に少ないわ。つまりはそれって、才能なのよ」
「え?」
「素直で優しいのは、子どもだけの特権。大人までその気質を保てるのは、希少な人間だけ。誇って欲しいわ、ユキくん」
戸惑う僕に、ナナエさんは思いっきり眉尻を下げた。
「初対面のおばさんが何言ってんのって感じよね。ごめんなさい」
「いえ、なんていうか、新しい観点で言われたなって」
「あら。優しいだけじゃなくて、賢いのね」
いたずらっぽく笑う顔が、トワにそっくりだ。
「いやいや、僕、成績ほんと良くないっていうか真ん中っていうか」
「得意と苦手が両極端。でしょ」
「うげ」
また見透かされた。
「それって全部得意になれば、最強ってことなのよね」
「あー?」
思いっきり、首を傾げる。
「ゲーム好きなんでしょう? スキルとパラメータの割り振りをちょっと調整するだけよ」
「げ、なぜそれを」
「クレカの明細はチェックしておりますので」
――やばい、トワに結構な数のゲームソフトを買っていただいた件を忘れていた。調子に乗ってすみませんと頭を下げるべきか。
「ふふふ! いいのいいの。ありがとう、ユキくん。また顔を見に来てあげて」
「いやでも、さっき来るなって言われちゃって、それで……」
「あら。言ったでしょ? ひねくれ者なのよ、あの子」
よいしょ、と椅子から立ち上がりながら、ナナエさんは困ったように笑う。
「母さんは来るな、て言われたから。来たのよ」
「!」
母親ってすごいなあと、僕は心から思う。
だから僕はこの日から、トワが来るなと言う度に、病院に行くことにした。そして逆に来い、と言われても、行く。
困ったような顔をするけれど、トワは絶対に嫌がらない。
ベッドの横で僕は、学校の宿題や塾の課題をこなしながら、解けない問題をトワに教えてもらう。
それが僕の冬休みの、日常になった。
九月十月十一月十二月、と僕は心の中で月の数を数える。
わずか四か月と少し。
僕がトワと過ごした時間は、とても短い。
けれども今まで、家族以外でこんなにも濃密に接した人間がいただろうか。
僕は、彼を――ちゃんと見送れるのだろうか?
†
「なにしに、きた」
鼻に酸素を送るための透明チューブを付けられたトワは、胸にモニター、腕には点滴、指にはパルスオキシメーターという完全装備状態でベッドに寝ていた。
「お見舞いだけど?」
トワの姿に少なからずショックを受けたことを悟られないように、僕はさらりと言って脇の椅子に腰を下ろす。
メッセージをもらった翌日に思い立って、既読スルーのままバイクでやってきた僕は、迷惑かもしれない。
トワの患者着の隙間からは、あばら骨が見えている。こんなにも痩せていたのかと、今さらながら命がこぼれていっているような友達を、どう見たらいいのか分からない。そんなことは、習っていない。正解が分からない。
「もう、くる、な」
苦しそうにあえぐトワは、言葉と裏腹に優しい顔をしている。
「なんで?」
「ユキ、が。つらい、だけ、だぞ」
――辛いのは、トワじゃないか!
叫びたいけれど、今度はかろうじて我慢できた。
感情的になった自分を操作する方法を、この四か月で学んだはずだから。
でも、友達を見送るのなんて、学びたくない。
「……迷惑?」
トワはそれには答えずに、目をつぶった。
ここでも既読スルーか、と思わず苦笑が漏れる。僕もした手前、強くは言えない。
「欲しいものがあったら、いつでもメールして。また来るよ」
さすがに発作の翌日は辛そうで、早めに帰ることにする。
立ち上がって病室を出ようとした僕を、トワのか細い声が追いかけてきた。
「くる、な」
カーテンの中へ再び身体を差し入れて、僕は叫ぶ。
「なんっでだよっ!」
ああやっぱり感情的になった自分は、厄介だ。我慢できるようになったと思ったのに。
せめて、あと少しでも我慢できるように、僕は体の脇で両手をぎりぎりと握りしめる。
「これでっ! ハイサヨナラなんてっ! 言えるかよっ!」
「……」
「そんなんで! 天使になんか! なれるもんかっ!」
自分勝手で最低なことを言って、僕は勢いに任せて病室を出る。と、廊下に立っていた女性の肩に、ぶつかってしまった。
「あっ、すみませっ……」
「いえ」
大きめの眼鏡に、ぱっちりとした二重の目と小柄で華奢な体に、見覚えがある。
「あれ?」
「こんにちは。透羽のお友達ね? 母です」
「あ、はい……」
品の良いワンピース姿で、手に脱いだコートとカバンを持っている。
「少し、お話してもいいかしら」
下がる眉尻をぼうっと見てから、僕は頷いた。
「……はい」
エレベーターホール手前の談話室。年明けすぐの平日の昼間は、患者も見舞客も見当たらない。
誰もいないスペースの端にあったテーブルに、向かい合わせに座る。窓からは朝の日の光が差し込んでいるものの、暖房が行き渡り切っていないせいか、底冷えがする。
「えっとあの、はじめまして。僕、天……トワくんのクラスメイトの、矢坂幸成です」
「はじめまして、ユキくん」
「! はい」
「透羽から話は聞いているし、写真でも見ていたから一方的に知っていて。天乃奈々絵といいます。あの子の友達になってくれて、ありがとう」
「いえ、僕の方こそ」
優し気で理性的で、病気の息子を放置していた母親、にはとても見えない。
「薄情な母親と思ったでしょう」
「うっ」
「……透羽は、小さなころから我慢ばかり。最期くらい、好きにさせてあげたかったの。ここなら自然もあるし、カルテは毎日診ていたわ。少しでも変化があったら駆けつけようと思って」
そこでナナエさんは、ふっと笑った。
「まさか、文化祭委員をして、修学旅行に行くだなんて」
「え」
「家から出ず、たったひとりで、本ばかり読んで勉強して……そんな人生でいいのかしらって。でも、写真がたくさん送られてきたのよ」
ナナエさんの目には、きらきらと涙が浮かんでいる。
「お友達と何かを作って、食べて。はしゃいで、笑って。そんな透羽が見られたのは、あなたのお陰。ありがとう、ユキくん」
「いいえ! 僕は、何も」
「そんなことないわ。『ユキは素直で優しい』って透羽はいつも言っていた」
僕にとってそれは、何の個性もない普通の人間、という風に聞こえる。
「あの頭でっかちでひねくれた子が、信頼に値するって言っていたの。ふふ、ほんとね。考えていることが全部わかっちゃうぐらい素直で、おばさん心配になっちゃう」
「げ」
「素直で優しい。……そうね、誰でもそうだろうって思っちゃうかもしれない」
ふう、とナナエさんは大きく息を吐いた。
「私は医者としてたくさんの人を診てきて、たくさんの人とお別れをしてきた。家族や同僚、友人、患者……関わる人間はとても多い。けれども」
それから、僕の顔をじっと見る。
「素直で優しい、という評価を下せる人間は本当に少ないわ。つまりはそれって、才能なのよ」
「え?」
「素直で優しいのは、子どもだけの特権。大人までその気質を保てるのは、希少な人間だけ。誇って欲しいわ、ユキくん」
戸惑う僕に、ナナエさんは思いっきり眉尻を下げた。
「初対面のおばさんが何言ってんのって感じよね。ごめんなさい」
「いえ、なんていうか、新しい観点で言われたなって」
「あら。優しいだけじゃなくて、賢いのね」
いたずらっぽく笑う顔が、トワにそっくりだ。
「いやいや、僕、成績ほんと良くないっていうか真ん中っていうか」
「得意と苦手が両極端。でしょ」
「うげ」
また見透かされた。
「それって全部得意になれば、最強ってことなのよね」
「あー?」
思いっきり、首を傾げる。
「ゲーム好きなんでしょう? スキルとパラメータの割り振りをちょっと調整するだけよ」
「げ、なぜそれを」
「クレカの明細はチェックしておりますので」
――やばい、トワに結構な数のゲームソフトを買っていただいた件を忘れていた。調子に乗ってすみませんと頭を下げるべきか。
「ふふふ! いいのいいの。ありがとう、ユキくん。また顔を見に来てあげて」
「いやでも、さっき来るなって言われちゃって、それで……」
「あら。言ったでしょ? ひねくれ者なのよ、あの子」
よいしょ、と椅子から立ち上がりながら、ナナエさんは困ったように笑う。
「母さんは来るな、て言われたから。来たのよ」
「!」
母親ってすごいなあと、僕は心から思う。
だから僕はこの日から、トワが来るなと言う度に、病院に行くことにした。そして逆に来い、と言われても、行く。
困ったような顔をするけれど、トワは絶対に嫌がらない。
ベッドの横で僕は、学校の宿題や塾の課題をこなしながら、解けない問題をトワに教えてもらう。
それが僕の冬休みの、日常になった。