俺の地元には大きな河川が流れている。流れは緩やかで、休日には釣り人が訪れ、放課後には小学生が川遊びにやってくる。
 夕闇が迫る今の時間帯だと、ジョギングする人影が散見されるものの閑散としている。仮に河川敷で馬鹿騒ぎする集団がいたとしても、誰も気に留めないだろう。河川を(またが)る高架下なら尚のことだ。
 俺はそこで中学時代のクラスメート赤城に追い詰められていた。
 赤城がバッグをドサッと降ろし、シャドーボクシングを始める。

「いつもの始めようぜぃ?」

 ひひひ、と赤城の口元が陰の中で不気味に歪む。裏表のない笑い顔。
 赤城には俺を陥れようという魂胆がない。純粋に俺のことが――好きなのだ。
 中学時代、俺は内気な性格が仇となり、クラス内でいじめられていた。そんな時に助けてくれたのが赤城だった。助けた理由は『愛の無い暴力は嫌い』とのことだった。
 赤城と話していると楽しかった。どうでもいい話にも笑って応えてくれた。だから、クラス内で孤立しても平気だった。赤城さえいれば、他に何も要らないと思うほどに。
 俺たちは自然と()かれ合い、行動を共にすることが増えた。いつしか俺は赤城の背中を追いかけ、甘えるようになっていた。赤城はそんな俺のワガママにもちゃんと応えてくれた。
 赤城の優しさが嬉しかった。俺をいじめる者がいれば報復し、陰口を叩く者がいれば容赦しない。楽しい時には笑い、悲しい時には泣く。目に見える喜怒哀楽全てを信じられたのだ。
 俺も赤城に返したい――そう思っていた矢先のことだった。

「行っくぜぃ!」

 俺が防御の体勢をとるよりも先に、赤城は俺の顔面に拳を叩き込んだ。
 脳が揺れる。意識が一瞬飛んだ。気付いた時には地面に倒れ、高架橋を見上げていた。
 恍惚(こうこつ)とした赤城の顔が映り込む。

「いいなぁ! いいよぉ! 鬼越はサイコーだぁ! やっぱり俺、鬼越(おにごえ)のことが好きだぁ! 大好きだぁ!」

 赤城が俺の身体に(またが)り、今度は首を絞めてきた。

「ああ、ゾクゾクする!! 鬼越はエロいなぁ、エロいよぉ! なぁ、もっと鬼越の顔を見せてくれよぉ!!」
「ぐる……じぃ……!」

 手の力が緩んだ。俺が()き込む姿を見て、赤城は跳ね上がるように俺の上から退いた。

「ごごご、ごめんッ!! やり過ぎちまったッ!! 鬼越に会えたのが嬉しくて、つい……!! ほんっとにごめんッ!!」

 起き上がる気力も湧いてこなかった。中学時代から何も変わらない。むしろ、二年という期間を空けたことで赤城の愛情もとい暴力性が肥大化している。

(逃げられなかった……)

 俺と過ごす時間が増えてゆくと、赤城は次第に暴力を振るうようになった。はじめは肩を叩く程度だった。それが次第にエスカレートし、腹を殴り、顔を殴り、終いには首を絞めるようになった。
 俺が苦しんでいると、赤城は恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべる。俺を支配している感覚に酔っているかのようだった。
 やめてほしい、と言っても赤城はやめなかった。『ごめん』と言って反省しても、次の日にはまた手を上げる。約束を断っても家まで押しかけ、屋外に逃げ出そうとも必ず追ってきた。
 痛いのは嫌いだ。執拗に追いかけられるのも、逃げ場を封じられるのも、嫌い。息ができないほど苦しくなる。(おり)の中での追いかけっこほど不毛なものはない。
 赤城に救われたことは確かだ。だが、同じくらい赤城に苦しめられたのもまた事実なのだ。
 身体を起こし、高架橋に寄りかかる。ぼうっとしていると、目の前に赤城がしゃがみ込んだ。両手で包み込むように、優しく俺の顔を持ち上げる。
 
「鬼越、明日からも会えるよな? また、中学の頃みたいに一緒に帰って、遊んで、それで……ずっと、一緒に居られるよなぁ?」

 俺は何も言えなかった。二年前と同じだ。あの時も俺は赤城に別れを切り出せず、黙って逃げ出した。赤城という(おり)から逃げ出すために、中学卒業と同時に連絡先を変え、地元から離れた高校へと進学したのだ。
 そして、過去の自分を全て捨てた。中学時代までの孤立した『鬼越』はもういない。今ここにいるのは誰からも好かれる『クラス委員』であって、赤城に依存していた『鬼越』ではないのだ。
 俺にはもう赤城は必要ない――そう思っていたのに。

「あ……あ……」

 視界がぼやける。痛みのせいか、悲しみのせいかわからない。目から溢れた(しずく)(ほお)を伝ってゆく。
 こんな時、恐田(おそれだ)ならどうするだろうか。空気を読めない恐田なら、やられたことをやり返すくらいはしそうなものだ。あるいは、早々に赤城の前から逃げ去るかもしれない。恐田にはそれを可能とするだけの度胸と翼がある。俺とは違う。
 赤城で満たされてゆくのが怖くて、俺は赤城を捨てた。だが、新しく手に入れたはずの『クラス委員』は綺麗な嘘で着飾っただけの張りぼてで、本当の『鬼越』は空っぽのまま。
 ただ、現状を嘆くばかり。

「嫌だ……痛いのは……もう、嫌だ……!!」
「ごめんって。今度こそ優しくする。絶対に、だ。鬼越、愛してる」

 赤城と鼻の先が触れ合う。怖い。逃げ出したい。だが、俺は逃げ出せない。そのための手段がない。逃げてもどうせ捕まる。そうなれば、また(おり)の中だ。
 俺は恐田に嘘を吐いた。色恋沙汰による揉め事を避けたいだなんて、ただの言い訳でしかない。
 本当は、愛されるのが怖かっただけ。好きだと言われる度に赤城のことを思い返し、逃げ出したくなっただけなのだ。
 目をキツく(つむ)る。頭の中は真っ白で、しかし(まぶた)の裏には一人の男の顔が過った。
 自分勝手だ。自分から遠ざけたのに、自分から気持ちを偽ったのに、今ここにいてほしいと思ってしまう。
 こんな時こそ隣にいてほしい、と願ってしまう。

「恐田ァッ……!! 助けてッ……!!」

 次の瞬間、頭から熱いものがかかった。出汁(だし)の風味が鼻孔(びこう)をくすぐり、すぐにそれがおでんの汁だと気付いた。

「あっっっつ!!」

 赤城は飛び跳ね、出汁が染み込んだ上着を脱ぎ捨てた。髪の毛を()きむし、出汁の出所を(にら)みつける。
 熱さも忘れて、俺は突如現れたその人物に目が釘付けとなった。

「恐田ッ……!!」

 俺たちの目の前で、恐田はおでんの容器を逆さにして立っていた。手に()げたビニール袋に具材が入っている。
 
(俺ごとかけるなよ……!!)
 
 赤城がシャツまで脱ぎ捨て、恐田へと詰め寄る。

「何なんだぁ、いきなり? 熱いじゃねぇかよぉ?」
「ごめん。だけど、鬼越が助けてって言ったから」
「ああん? 俺がまるでイジメてるみてぇじゃかねぇかよぉ! 俺たちは付き合ってんだぁ! これは愛情表現なんだよぉ!!」
「俺だって鬼越が好きだ。愛してる。ずっと一緒に居たいし、辛い目に遭ってたら助けたい」

 何を見せられているのだろうか。顔が熱いのはおでんの出汁のせいではなさそうだ。
 赤城が恐田に向かってファイティングポーズを取る。

「おうおう、そうかぁ!! お前のせいで鬼越は俺に会えなかったんだなぁ!? それなら話が早いぜぃ! 俺がお前をぶっ倒して、鬼越を連れ戻してやるよぉ!!」
「揉め事は嫌いだ」

 恐田は具材の入ったビニール袋を赤城へと投げつけた。赤城が袋を受け取った隙に、俺の腕を引いて立ち上がらせる。

「鬼越ッ!! 行こうッ!!」

 恐田は俺に向かって微笑んだ。不気味とすら思える不器用な笑み。だが、俺はその顔を見て――安心した。
 恐田が大通りで立ち寄ったのはコンビニ。二択を当てた。ならば、自分の気持ちに正直になろう。
 俺は恐田の手首をしっかりと掴み、その場から逃げ出した。
 背後から赤城の怒声が聞こえる。

「鬼越ぇッ!! 待てよぉッ!! 悪いとこがあったら直すからぁ!! もう酷いことしないからぁ!! 見捨てないでくれよぉ!! 鬼越ぇ!!」

 酷いことしていた自覚があったのか。踏ん切りがついた。俺は首だけを振り返らせ、高架下の赤城へ向かって叫ぶ。

「赤城ッ!! ごめん、好きなヤツができたんだッ!! ごめんッ!! 別れようッ!!」

 赤城は顔を真っ赤にして俺たちを追いかけてきた。河川敷に沿って逃げ続けるが、次第に距離が詰まってくる。俺の足が遅いせいだろう。

「鬼越、こっちだッ!!」

 恐田が右手の河川に目を向けた。対岸までの間に足場がいくつかある。足場を跳び越えてゆけば、赤城から逃げきれるだろう。だが――

「無理だッ!! 跳び越えられないッ!!」

 以前、恐田を尾行していた時、公園の水場で向かいの縁までの跳躍に失敗し、びしょ濡れになったことがあった。
 今回の距離はその時よりも長い。跳び越えるのに失敗すれば、大きなタイムロスになる。
 俺が躊躇している間に、しかし恐田は足場へ向かって跳躍した。軽やかな身のこなしで足場へと難なく着地する。そして、振り返り様に人差し指をくいっと曲げる。
 
「鬼越ェッ!! 来いッ!!」

 いつか俺が恐田を檻の外に連れ出したように、恐田も俺を檻の外へと連れ出そうとしている。
 迷いは吹っ切れた。俺は河川へ向かって助走をつけ、恐田へ向かって大きく跳躍した。
 滞空している一瞬がスローモーションのように感じられた。長い時間、向こう岸の足場で両腕を広げる恐田を見下ろしていたように思う。
 足場に片足が掛かる。しかし、ぐらりとバランスを崩し、視界がぐるりと反転した。背中から川へと倒れてゆく――
 次の瞬間、恐田に手首を掴まれ、俺は意識ごと向こう岸へと身体を引き上げられた。
 
「鬼越ぇ、待っ……ごぼッ!!」

 バシャン、と水の跳ねる音が鳴った。肩越しに振り返ると、赤城が川に沈んでいた。と言っても、腰ほどの深さなので命の危険はないだろう。
 恐田と目を合わせ、俺は対岸へと進んでいった。