鬼の棟梁と魂欠けの巫女

 奈古女(なこめ)は、刀身を覆っていた白布を剥ぎ、岩の上に無造作に置くと、影雀(かげすずめ)と共に舞った。前へと滑り、後ろ、前、後ろ、それから斜め前。片足を軸に一回転して、神刀を振る。しゃん、と鈴の音が木々の間をこだまして、どこからともなく青白い清めの光が集ってくる。

 光を誘導し、鬼穴(きけつ)に導いてもいいのだが、ここからでは若干の距離がある。鬼穴から湧く俗鬼(ぞっき)らは、今のところ全て真均(まさひと)に斬られて穴の底に沈んでいる。しかし、いつ強大な大鬼(たいき)が出てくるかわからない。ことは、一刻を争う事態なのだ。あの穴を塞げるのは今、奈古女しかいない。ならばとるべき行動はただ一つ。

 奈古女は腹の底に力を込めて覚悟を決めると、神刀で青白い光を薙ぎ、糸を巻くように刀身に纏わりつかせた。それから、見様見真似で東国武者のように刀を構え、半ば転がり落ちながら斜面を駆けた。

「あ、ちょっと奈古女!」

 影雀が慌てて追って来る。奈古女は、産着の中で動かない赤子の隣をすり抜け、真均に並ぶ。

「若殿、引いてください!」

 突如乱入した奈古女の姿に真均は軽く眉を上げたものの、すぐに意図を察したらしい。半身を翻し鬼穴の正面を譲り、振り返り様に、地上に這い出してしまった青い俗鬼の首を刎ねた。

 その血しぶきが袖にかかるのも厭わず、奈古女は川から歪に溢れ出した闇色の中央に切先を突き立てる。

 その途端、鬼穴の底から、生温く黴臭い暴風が吹き上げて顔を打つ。風の唸りが、まるで慟哭のように奈古女の耳に響く。青白い清めの光に穿たれた闇は、次第に萎み始めるのだが、最後のあがきとばかりに、青黒い俗鬼が押し合いへし合い勢いを増して地上へと腕を伸ばした。

 細い出口に同時に身体を滑り込ませるのは無理がある。わらわらと突き上がる腕、足、頭部、部位の不明な青黒い皮膚……。俗鬼の骨が軋み、砕け、骨片が肉を裂く粘性の異音が奈古女の全身の肌を粟立たせた。

 威勢よく飛び出した奈古女だが、無様にも恐怖で身がすくんでしまう。神刀を鬼穴に押しつける力が弱まり、刀身が、むくむくと湧く俗鬼の肉塊に押し上げられる。その柄頭を真均が両手で掴み、鬼穴に押し込んだ。

「押せ、奈古女!」

 耳元で叱咤され、奈古女は反射的に柄を握り直し全体重をかけた。

「うわー」
「いたいー」
「しずむー」

 あらぬ方向に四肢を折り曲げた俗鬼らが、無邪気にすら聞こえる叫びを上げながら漆黒の沼の奥へと沈んでいく。やがて、まるで傷口が塞がるように、黒い亀裂が収縮して水底に消える。たった今まで鬼穴があった場所には、元通りの穏やかな流れが戻り、かき乱された小石が清水に舞うだけだった。

 終わった。

 奈古女は荒い息を吐きながら水面を見つめ、ぼんやりと水鏡に映る真均と視線を重ねてから顔を上げた。神刀を地面に突き立てたまま、危機を乗り越えた二人は顔を見合わせる。真均の額には玉のように汗が浮いており、奈古女自身も、纏った小袖がじっとりと湿っているのを感じた。

 互いの息遣いばかりが大きく響く川辺。呼吸を整え、先に動いたのは真均だった。彼は視線を川原に落とすと膝を突き、先ほどまで鬼穴があった場所の側に横たわっている産着を抱く。赤子の顔の辺りの布を指先で押しのけ、真均は小さく息を呑んで動きを止めた。

 奈古女は屈み、赤子の顔を覗き込む。薄汚れた産着に包まれた赤子の顔面は、青白い。とうに命を終えた者のそれだった。

「間に合わなかったの?」
「いいや、だがそれにしては」

 真均が低く言った時だった。少し離れた木陰から、ぐちゃりと悍ましい咀嚼音が響いた。顔を向けると、青い俗鬼が四つ這いになり、地面に転がる鮮血に染まった産着に顔を突っ込み口元を蠢かせているのが見えた。

「ああ……」

 全身から冷たい汗が噴き出した。奈古女は思わず呻き、瞠目する。その声に気を引かれたのか、俗鬼は産着から顔を上げた。赤黒く染まった顔面。恍惚を浮かべた俗鬼が口の端を持ち上げると、ぬらぬらと血の色に光る牙が剥き出しになる。

 どうやら、もう一人赤子がいたらしい。だが時すでに遅く、すでに俗鬼の餌食になっていた。

「泣いていたのはあちらの赤子か」

 真均が憎々しげに声を絞り出し、刀を手にして鬼の方へと向かう。

 青い俗鬼、いいや、人を食い大鬼になったばかりのそれの皮膚が、黒い粒子を纏いながら脈打ち歪な瘤に覆われた。やがて輪郭が歪み、縮小して、生後間もない赤子の姿となり、砂利の上で弱々しい泣き声を上げ始めた。先ほど奈古女たちの耳を捉えたものと同じ声だった。

「悪趣味な。害のないふりをしても無意味だぞ」

 真均が低く言葉を落とす。眉間に深い皺を刻みながら足を進め、か弱い赤子の胸の上に、刀の切先を向けて狙いをつけた。

 木々の間を駆け抜ける乾いた風が、真均と赤子姿の大鬼の間を通り抜ける。しばしの躊躇の末、柄を握り直し、いよいよ突き立てようとした、その瞬間。

「待って!」

 梢から、羽音を響かせて黒い弾丸が飛び出した。

「待って、その子はだめよ!」

 翼の裏に、白い班がある。影雀(かげすずめ)だ。

 不意の体当たりが真均を襲う。小さな雀とはいえ、ただでさえ躊躇いを帯びていた切先は軌道を逸らし、大鬼のすぐ横の地面を抉った。

 その一瞬の隙を、大鬼が突く。

 突如、首もすわっていないはずの赤子が目を剥きむくりと上体を起こした。そのまま急速に肥大化し、青黒い肌の大鬼姿となるまでに、さほど時間はかからなかった。

 呆気に取られる真均を目がけ、人間よりも一回り大きな体躯をした大鬼が、長い爪の生えた手を伸ばす。

「わ、若殿」

 一拍遅れて状況に追いついた奈古女が、川底に刺さったままの神刀を引き抜き駆け出した。しかし、やや距離がある。到底間に合わないと察し、奈古女は叫ぶ。

「お願い、逃げ」
「うわー大変だ、若殿逃げてー」

 緊迫した空気を切り裂いて、気の抜けるような声が割り込んだ。

 皆の視線が声の出どころへと集まる。見れば、斜面から緑色の塊が転がり落ちて来て、勢いそのまま大鬼(たいき)の腰辺りに激突した。予期せぬ攻撃をしたたかに受け、大鬼が体勢を崩す。その好機を逃す真均(まさひと)ではない。

 振り上げられた刀身が陽光を弾き、鈍く光る。刃は迷いなく閃き、丸太のように逞しい大鬼の首を半ばまで斬り裂いた。断ち斬るには及ばないものの、致命傷であるのは明らかだ。

 鮮血を撒き散らしながら、どう、と横倒しになり、大鬼は血だまりの中で痙攣する。やがて、川面を睨んでいた瞳が淀み、大鬼は動かなくなった。

 今度こそ、終わったのか。大きく息を吐き、奈古女(なこめ)は真均の隣に寄り添い、懐紙(かいし)を手渡した。

「若殿、お怪我はありませんか」
「ああ、大丈夫だ」
「あの子たち、双子でしょうか。産着が似ています。でも、どうして二人とも捨てられて……不吉だと忌まれて捨てられるのは、後に生まれた方だけのはずなのに」
「口減らしだろう。それよりも」

 真均の鋭い目が、砂利の上で硬直している影雀を貫いた。

「いったい何のつもりだ、影雀(かげすずめ)

 影雀は答えず、じっと人間たちを見上げている。その顔には嘴の突起しかないため、感情は読めない。

「影雀、どうしたの」

 奈古女が意図して柔らかい声で問うが、影雀は居心地悪そうに羽根を微かに膨らませるだけだ。痺れを切らし、真均が声を荒げる。

「なぜ鬼を庇った」
「だ、だってあの子は」
「だっても何もない! まさか、おまえ自身が鬼ゆえに、同族を守ろうとしたのではないか!」

 言ってから真均は、まるで自分自身が言葉に刺されたかのように顔をしかめ、荒々しい動作で刀の露を払う。それから、いくらか抑えた声音で吐き捨てた。

「……消えろ。納得のいく説明ができるようになるまで、俺の前に姿を現すな」
「若殿、そんな」

 取りなそうとする奈古女に鋭い一瞥が降ってくる。思わず口を閉ざした奈古女。影雀は軽く身震いして膨らんだ羽根を戻してから、言葉を残さずに地を蹴って飛び立った。

「影雀」

 小さな影は、森の中へと飛び込んだ。やがて羽音や葉擦れの余韻が秋風に溶け去ってから、真均は少し肩を脱力させ、足元で目を白黒させている緑色の塊に視線を落とす。

「助かったぞ、あくび。だが、なぜここにいる」

 そう、脱力を促すような雄叫びと共に斜面を転がり落ちて来たのは、鬼頭の館の家僕である緑色の俗鬼、あくびだったのだ。あくびは何度か瞬きをした後で、軽く首を傾けて答えた。

「えっと、どうしてだっけ……うーん、あ、そうだ。清高(きよたか)様がね、清めの波動が生まれたところに奈古女様がいるから、そこで合流しなさいって言ったのー」
「清高が? 無事なのか」
「うん、狭いところで縄に繋がれているけど元気だよー。それでね、若殿に伝言。清高様は『命尽きるまで、あなた様に仕えます』って言ってたよー」

 真均は息を呑み、軽く拳を握ってから頷いた。

「そうか、伝言ご苦労だ。それで、館の様子は」
「えっとねー」

 あくびは首を揺らしながら、言葉を選ぶ。

「今ね、大殿は大殿じゃないんだよー」
「やはりそうなのか。父上の姿をしているのは大鬼だな」
「うん、そうー。でも皆気づいてないみたい。でもほんとなのー。これ、大殿の髪の毛だよー」

 あくびは、旅の間に半分ぼろ切れのようになった衣の懐から、赤い(もとどり)を取り出して真均に手渡した。

「髻? なぜ」

 真均の顔色が変わる。無理もない。父が髻を切られるなどという屈辱を受けたと知れば、到底平常心ではいられない。あくびは、真均の声が帯びた不穏な調子に気づかないのか、無邪気な口調で続ける。

「大殿はね、鬼導丸(きどうまる)なんだよー。だから髪の毛ふさふさなの。本物の大殿は髪の毛をおいらに切られたまんま、お墓の下にいるんだよー」

 鬼頭の大殿の髪色は特徴的だ。この場に赤髪の髻があるということはつまり、我が物顔で館を治めている大殿の頭髪が短くなっていないのであれば、それは彼が偽物であるという証にもなる。あくびの行動は、この状況下において理に適っていた。

「……鬼導丸とは誰だ?」

 動揺を静めるため、大きく息を吐いてから発せられた真均の問いに、あくびは手を引っ込めてから答える。

「ずっと前に討伐された()(つの)って鬼の息子なの。純鬼(じゅんき)の生まれだけど、いっぱい人や鬼を食べて、強い大鬼になったんだー」
「三つ角」

 自らの父親と言われる鬼の名を呟き、真均は眉間の皺を濃くしながら言う。

「鬼頭の館の者は、父の姿をした鬼導丸に従っているのだな。因縁の、三つ角の息子に」
「そうなのー。皆、大殿が鬼導丸だって気づかないのー。でも大殿が大殿じゃないなら、今は若殿こそが、鬼頭の館の主なんだよー」

 あくびの言葉に虚を衝かれたかのような顔をして、真均はゆるゆると首を横に振った。

「しかし、俺は鬼頭の血筋ではない」
「うーん、でも大殿は若殿を若殿にしたんだよー」
「俺の額に角がなかったからだろう」
「難しいことはわかんないけど、若殿のことが嫌いだったら、若殿にはしないんだよー。だからその髪の毛を持って、鬼頭の館に戻って欲しいのー」

 真均は、血に汚れた手のひらを開き、握り締めていた父の髻を見つめた。彼の心の中は今、葛藤に満たされているのだろう。

 自分も鬼の印を持つ。ならば、鬼狩りの武者らを束ねる棟梁として、不適格なのかもしれない。郎党らに己の角を目撃された後で、堂々と鬼頭の館の敷居を踏むのは躊躇われる。一方で、あくびの主張はもっともだ。このまま何もせず、東国を鬼の手に委ねるなど言語道断である。ならば、鬼頭の後継者である真均こそが旗印となり、悪しき鬼どもから人の地を奪還するべきなのだ。

 しかし真均は煮え切らない。

「……少し考えさせてくれ」

 低く言い、(きびす)を返す。川の水で刀身をすすぎ、手や頬に付着した返り血を洗い流すと、振り返りもせずに細い道を人里の方へと下り始める。

「あ、待ってください、若殿。どちらへ」
「じきに夜がくる。野宿をして鬼の餌食になりたくはないからな、ここへ来るまでの間に無人の(いおり)があっただろう。今宵の宿にする」

 奈古女はあくびと顔を見合わせてから、並んで真均の背を追った。

 真均の言葉通り、気づけば日は傾いて、木々の間から赤みを帯びた光が斜めに差し込み川面を照らしていた。
「俺の名が元は真人(まさひと)であったということは、以前話したな」

 日が暮れて、薄暗い(いおり)の中。冴え冴えと照る満月が格子越しに投げかける光が、奥に無造作に立てかけられた斧や背負い籠を仄かに浮かび上がらせている。

 決して広くはないものの、鬼が潜んでいるかもしれない山中で夜を明かす危険を考えれば、扉のある場所で横になれるだけありがたい。

「あの名をもらった時、俺の中に生まれたのは強い憤りであり、寄る()をなくした赤子のように途方に暮れる思いでもあった」

 近くの沢で旅の埃を流し人心地ついた頃、真均(まさひと)はぽつぽつと語り始めた。彼の心の柔らかな部分に触れる話題に、奈古女(なこめ)は戸惑いながらも姿勢を正し、ただ静かに耳を傾ける。

「強固な鎧を纏っていたこの心が、音を立てて崩れていくような気がしたものだ。そうして額が疼き、違和感を覚えて庭の池に顔を映すと……これがあった」

 真均の指先が、彼の額に生まれた親指ほどの大きさの角を弾く。

「あの日までは、自分に角が生えるなどとは考えたこともなかった。もちろん、生まれる前から、鬼頭の嫡男は鬼の子なのではないかと陰で囁かれてはいたのは知っている。()(つの)の息子だから角を自在に出し入れできるのだろうとも言われていた。だが、一度たりとも角など出たことがないのだから、ただの鬱陶しい噂だと思うだけだった。しかし」

 真均は額から手を下ろし、蜘蛛の巣が張る部屋の角辺りを、見るともなしに眺めた。

「あの日、俺は自分が鬼であることを知った。そしてその事実を、母からも突きつけられた」
三紅(みくれ)様から?」

 思わず声を上げてしまう。真均は頷いた。

「ああ。何かに囚われたかのように池を見つめる息子を見つけ、妙に思ったのだろう。母上は俺の方へと歩いて来た。反射的に顔を上げて目が合った途端、恐れと悲嘆にじわじわと凍りついていく母上の表情の動きが、今も脳裏に焼きついて離れない。そして、母上は言った。『ああ、鬼の血が伝わってしまったのね』と」
「そんな」
「母上は最初から知っていたのだ。息子の父親が三つ角であると」

 そうでなければ、鬼の血が伝わってしまったなどという言葉は飛び出さない。奈古女は言葉を失い、膝の上で拳を握った。このように大きな秘密を抱え、孤独に耐えて鬼頭の若殿としての責務を全うすべく己を律してきた真均。その苦悩はいかほどだろうか。

 しばらく黙り込んだ後、真均はふと視線を戻し、奈古女に向けて自嘲の笑みを浮かべる。

「まあ、そんなつまらない過去に囚われる小さな男なのだ、俺は」
「そんなことは」
「昼は、曖昧な態度を取ってすまなかった。だが、心配するな。無様な弱音を吐いたが、一晩もすれば元に戻る。なすべきことは心得ている。俺が三つ角の子であるのなら、鬼導丸(きどうまる)とやらは異母兄弟ということになる。身内の悪行には、責任を持ち制裁を下す」

 誰に何を言われようと、幼き日の真均は自分が人間であると信じていた。その願いが打ち砕かれ、支えを失い崩れ落ちた真均の心に巣食った絶望が、慟哭を宿した黒い瞳を通して奈古女の胸を刺す。

 彼はこれまで、ほとんど一人で苦しみに耐えていた。弱音を吐くことを嫌悪し、怯えてすらいた。そして今、そんな自身の弱さを奈古女にさらけ出してくれている。

 この人の心を、守りたい。

 強い感情が身体の奥底から湧き上がり、気づけば奈古女は膝立ちになって腕を伸ばしていた。ふわり、と真均の頭部を包み込む。腕の中で、たじろぐ身じろぎを感じた。

「おまえ、何を」
「大丈夫。何も怖くなんてありません。私の前では心を隠さないでください。弱音を吐いたっていいんです。泣いたって気にしません」
「泣きなどするものか」
「虚勢を張らないでください」
「虚勢だと?」

 途端に怒気を帯びた低い声を腕の力を強めて封じ、奈古女は言葉を絞り出す。

「痛みを堪える若殿を見ると、私が辛いんです」
「痛みなど、俺は……」

 真均の言葉尻が、外で鳴く虫の声に溶けて消えた。

 束の間、沈黙の帳が下りる。やがて、真均は手を伸ばし、奈古女の腕を掴んでやんわりと引き離すと、正面から視線を合わせた。

「なるほど、確かに俺は人並みに傷つく弱さを持っているらしい。だが奈古女。おまえはなぜ、そうも親身になる」

 いったいなぜなのだろうか。奈古女は、真均の黒い瞳に漂う微かな戸惑いを見つめ、過去を回想しながら唇を動かした。

「多分、あなたが私に生きる意味をくれたからです」

 大袈裟な言葉に、真均は怪訝そうに目を細める。奈古女は視線を逸らさずに続けた。

「私は落ちこぼれの巫女でした。ずっと自分に失望していて、いつかは誰かの役に立ってみたいと願っていました。それなのに、何の努力をするでもなく、仲間の巫女の陰に隠れて息を潜めて過ごしてきた弱い人間なんです。でも、若殿に出会い東国に行って。最初に見た鬼穴の側で、若殿が私を頼りにしてくれた時、初めて自分の存在意義を感じることができました。だから私は、若殿の役に立ちたいんです。生まれて初めて、私を頼ってくれたあなたを支えたい」

 それはある意味では正しく、ある意味では不十分な説明であるように感じられた。だが、奈古女には、己を衝き動かした感情の全貌がまだ見えない。

「俺は正真正銘の鬼だぞ。鬼に義理立てしてどうする」
「清高様やあくびのように、人と寄り添い合える鬼もいます。実際、私の唯一の友達、影雀は鬼です」

 ああ、と真均は頷いて、掴んだままだった奈古女の腕を放す。手のひらから伝わっていた熱が去り、奈古女の胸を冷やして疼かせた。その寂寞はしかし、次に続く真均の言葉で意識の外へと吹き飛んだ。

「白状する。実は、東国に連れて行く巫女は最初、別の女だった」
「はい?」

 何の脈絡もない「白状」に、奈古女は目を丸くする。真均は意に介した風もなく、淡々と続けた。

「だが、(かんなぎ)の宮に滞在した晩、敷地の端で雀姿の異形の鬼と親しげに舞うおまえを見て、どうしようもなく心引かれたのだ。だから俺は、おまえを求めた。きっと最初から、おまえならば俺の鬼である部分にも寄り添ってくれると期待していたのだろう」

 そういえば、と奈古女は回想する。東国へ向かう前の晩、神楽に失敗し、その日の清めを台無しにしてしまった後のこと。奈古女は確かに影雀の元を訪れて、弱音を吐き、共に舞ったのだ。

 その際、藪を揺らした何者かの気配があったことを思い出す。奈古女は、あっと声を漏らした。

「まさか、あれは若殿だったんですか」

 真均はただ奈古女を見つめるばかり。返る言葉はないが、それが回答なのだろう。

 奈古女の東国行きに、そのような事情があったとは。てっきり、巫の宮から厄介払いするため、巫頭(かんなぎがしら)が指名したのだと思っていた。だが、そうではなかった。奈古女は最初から選ばれ、必要とされていたのだ。

「……初めてお会いした時の様子からは、そうは見えませんでしたけど」

 朝霧けぶる早朝、巫頭の部屋で初対面した折、突然の東国行きに動揺する奈古女に苛立ち、真均は畳を打って声を荒げた。その瞬間、奈古女の中で鬼頭の若殿は、粗暴で恐ろしい男だと印象づけられてしまった。

 思わず、といったように零れた奈古女の言葉を耳にして、真均はきまり悪そうに顔をしかめる。

「悪かったな、気が短くて」

 少し口を尖らせたような表情がいつになく子どもじみて見え、奈古女は頬を緩めた。すかさず見とがめた真均が、いっそう不機嫌顔になるので愛嬌がある。

「何だ」
「いいえ、何も」

 どうやら、普段とは立場が逆転したようだ。真均の眉間に刻まれた不本意そうな皺に、本物の怒りは見えない。対する彼は、奈古女の顔からどのような感情を読み取っただろうか。

 至近距離で互いの瞳の色を確かめ合う。次第に頬に熱が籠り、どこかしっとりとした暖かな空気が庵の中に満ちたような錯覚を覚えた。

 そのまま、瞳同士が引き寄せられるように二人の距離が近づいた。気づけば柔らかく唇が重なっていて、甘美な痺れが全身を突き抜ける。鼓動が跳ね、慄き微かに離れた隙間から、意図せず小さく吐息が漏れた。その僅かな距離すら許さぬというように、真均の手のひらが奈古女の後頭部を押さえ、いっそう深く繋がって……つまり今、奈古女はいったい何をしているのだろう。

 ふと我に返り、咄嗟に腕を突っ張って、密着しかけていた身体を押しのけた。

「そ、そそそそういえば!」

 艶めいた空気を破り裏返った声を上げた奈古女を、真均が熱の冷めきらない瞳のまま怪訝そうに眺める。奈古女は混乱する頭で、床に手を突いて膝を後ろに滑らせながら、ずりずりと距離を置こうとした。

「か、影雀! 影雀はどこに行ったのかしら。そろそろ反省しているかもしれないから、私、ちょっと探しに」
「それは後でいい」

 逃げ腰な腕を掴まれて早々に動けなくなった奈古女は、情けなくも小さく声を上げ、燃えるように熱い顔を俯かせて息を潜めた。

「嫌か」

 頭頂に、熱を帯びた声が降って来る。

「望まぬというなら無理強いはしない。だが、そうでないならば」

 真均の手のひらが、頬に触れる。意外にも優しい所作で促され顔を上げれば、真摯な色をした瞳に貫かれる。

「そうでないなら、拒まないでくれ」

 ――鬼であるこの身を、拒絶しないで欲しい。

 言葉の真意を正確に汲み取った奈古女は大きく息を吸い込んで、火照り潤んだ目で視線を受け止めた。ああ、そうか。彼の心を守りたいと願うのはきっと……。

「若殿、その言い方は、ずるいです」

 奈古女はわざと少し棘のある口調で言って、愛おしい人の温もりを求めて自ら手を伸ばした。
影雀(かげすずめ)、見つけたー」

 影雀が止まった枝の真下から、無邪気な声が立ち上がり夜の静寂を揺らした。間延びしたあの声は、緑の俗鬼(ぞっき)あくびに違いない。

 夜陰に紛れ、常緑樹の枝に姿を隠していたのだが、いったいどうやって影雀のことを見つけたのだろう。ひとまず無視を決め込んだ影雀だが、空気の読めないあくびは、よいしょよいしょと難儀しつつ、影雀のいる枝まで登って来た。

「ねえ、若殿と仲直りしないのー?」
「うるさいわね。あの男の言う、納得のいく説明とやらが思いつかないのよ」
「ふーん?」

 あくびは枝に跨り足をぶらぶらとさせながら言った。

「じゃあおいらが一緒に考えてあげるよ」
「結構よ。それよりあんた、何でこんなところにいるの。怠惰の俗鬼でしょ。睡眠不足になるわよ。ただでさえ猫みたいに寝るんだから」
「若殿が、影雀を探して来いって言うからー。無事連れて帰ったらね、丸三日間お休みをくれて、ずっとごろごろしてていいよって言うのー」
「つまり厄介払いされたってことね」
「厄介。おいら、厄介なのー?」
「何でもない。こっちの話よ」

 影雀はこれ見よがしに溜め息をつき、翼を広げて一つ上の枝に飛び移った。

「あ、待ってよー」
「ついて来ないでったら。ほっといても朝になったらちゃんと帰るわよ。あんたに連れ戻されたってことにちてあげる。そちたら三日の休みももらえるんだから、それでいいでしょ」
「うーん。やっぱりだめー」
「何でよ!」

 つき纏ってくる俗鬼に辟易し、思わず声が高くなる。あくびは堪えた様子もなく枝を渡る。

「影雀、悩んでるみたいなんだもんー。考え過ぎるとね、鬼穴(きけつ)が湧いちゃうんだー。そうでなくとも、鬼が撒き散らす負の感情は、人のやつよりも大きいんだから」
「うるさいわね。そっくりそのまま、若殿にも言ってやりなさい」
「若殿。角が出たり入ったりする鬼なんて不思議だよー。若殿、本当に鬼なのかなー」
「ちらないわよ。()(つの)、だっけ? 父親が角を隠す鬼なんでしょ」
「三つ角はいっぱい鬼を食べた強い大鬼だったからー。でも若殿は、鬼も人も食べてないよー」
「じゃあ、あたちみたいに中途半端な鬼なんじゃないの」

 あくびは目をぱちくりとさせた。

「影雀は中途半端さんなんだね。どうして中途半端さんになったのー」
「あんたには関係ないでしょ」
「うん。関係ないー。だから影雀、お話していいんだよー。おいら関係ないから、影雀の秘密を聞いても何も起こらないー」

 確かにそうかもしれない。幼児のような喋り方をする俗鬼が不意に本質を突いたようなことを言ったものだから、影雀は妙に感心した。

 これまで奈古女にも話さず、己の胸にのみ秘めてきた過去。封じたはずの苦い記憶は、日中、青い俗鬼に食われた捨て子を見てから蘇り、胸が疼いて治まらない。言葉として吐き出すだけでも、少しは気持ちが軽くなるだろうか。

 影雀は、いつの間にか隣に並んでいたあくびの横顔を窺って、邪気がないことを見て取ると一つずつ噛み締めるようにして、過去を語り始めた。






 ――お外に出たら一緒に遊ぼうね。それでね、幸せに暮らして、おばあちゃんになってもずっと仲良しでいるの。

 言葉を知らない胎児だった。しかし、声など出さなくとも、心は通じ合っていた。影雀にとって奈古女(なこめ)は、己の片割れであり、むしろ自分の一部であったのだ。

 母の胎内に宿った時、二人は一つの魂だった。それが二つに分離して、双子の女児となった。生まれ落ちる前からずっと、それだけが自明のことだった。

 奈古女は少し大人しい子で、影雀が語りかけてもはにかむような気配を出すだけで、多くの意思を伝えようとはしなかった。胎内で暴れるのはいつも影雀であり、奈古女は常に小さく丸まって、ただ影雀に寄り添っていた。

 魂が二つに分かれば、人の持つ性質や能力の種が、どちらかに偏ってしまうこともあるのだろう。影雀は奈古女の分まで活動的で、だからこそ、影雀は奈古女に姉の座を譲ることになる。

 ——ちょっと、早く行きなさいったら。

 なかなか産道に下りようとしない奈古女。彼女を残して影雀が先に生まれ落ちたなら、奈古女は母の胎から出てこないのではないか。心配になった影雀は奈古女を押し出すようにして、先に外界の光を見せてやった。だから奈古女は姉となり、影雀は妹となった。

 影雀は知らなかった。忌み嫌われる双子のうち、先に生まれた者は愛されて、後に生まれた者は最初からいなかったこととされ、母に抱かれることなく川に流される運命であることを。

 胎内ではあれほど明瞭だった思考も、赤子として生まれ落ちた瞬間を境に、靄がかかったかのように曖昧になり、何もわからず本能のまま泣き続けるだけの存在へと変化していった。ただ、悲しく、恐ろしく、全てが不快だった。五感は時間の経過と共にさらに退化する。辛うじてわかったのは、産着に小さな鈴を添えられて、氷のように冷たい川に流されたこと。そして。

「清い鈴の音に導かれ、どうか鬼穴(きけつ)に落ちず、浄土へと招かれますように」

 そんな身勝手な願いを贖罪にして、庇護者は去った。影雀は右手で強く鈴を握り締め、心をどす黒く塗りつぶした憎悪と共に、暗い水の底へと沈んでいった。

 やがて、短すぎる命を終えた影雀の意識が覚醒したのは、浄土でも来世でもなかった。

 そこには、一筋の光もない闇が広がっていた。辺りは怒りや疑い、怠惰や後悔や、数えきれないほどの重苦しい感情の(おり)に支配されている。時と共に、それらは煮詰まりいくつかの塊へと凝固して、俗鬼となり鬼穴から地上へと這い出した。

 青い俗鬼の一部となった影雀には、自我はない。俗鬼となれば、その身体を動かすのは別の人格であるからだ。影雀はいわば傍観者のように、ぼやける意識のなかで俗鬼の行動を眺めていた。そう、あの日までは。

「おい、お、鬼が出たぞ」

 人間が石を投げる。この俗鬼は、人を食おうとはしない温厚な鬼だった。しかし、人間が鬼の凶暴性を瞬時に見極めるのは困難だ。俗鬼は袋叩きに遭い、そうして呆気なく死んだ。

 一つに纏まっていた、影雀を含む負の感情たちが、まるで鱗が落ちるようにぼとぼとと地に染み込んで、再び鬼穴に還っていく。影雀もそうなるはずだった。しかし、それを引き留めたのは、かつて片割れであった少女の名だった。

「奈古女、奈古女? どこへ行ったの」

 自分の代わりに生き延びた姉が、奈古女と名づけられたことは、どうした理屈か知っていた。呼ばれたのは、ただ同じ名を持つだけの赤の他人かもしれない。だが、影雀の精神を地上に留めるには十分だった。

 少し探せば、目的の姿はすぐに見つかった。

 三歳ほどのまだ幼い女児が、茅葺き屋根の下で膝を突き、何かを両手で柔らかく包んでいる。

「奈古女、ああ、こんなところに。鬼が出たばかりなのだから、一人でお外に出たらいけませんと言ったでしょう。母さん心配したのよ。いったいどうしたの」

 奈古女は顔を上げ、少しぼんやりとした眼差しで母を見上げ、手に包んでいたものをおずおずと差し出した。それは、こと切れた雀の雛だった。

「この子、ひとりみたい。助けてあげないと」

 母親は、眉尻を下げてああと呻き、小さく首を振った。

「もう死んでしまっている。きっと巣から落とされたのね」

 見上げれば、茅葺き屋根の間から親雀の尾が覗いている。自らの不注意だったのか、兄弟から蹴落とされたのか。とにかくこの雛は一家を追い出され、短い命を終えたのだ。

 幼い奈古女は状況を理解し切れていないながらも、雀の雛を大切そうに撫でた。

「どうして落とされちゃったの。家族なのに」
「奈古女……」
「雀さん、寂しかったね。大丈夫、奈古女が一緒にいるよ」

 母親は息を詰まらせ唾を嚥下して、涙を堪えながら奈古女の手のひらごと雀を包み込んだ。そして、呟いた。

「ごめんなさい、すずめ……」

 ——寿子女(すずめ)

 それが、決して呼びかけられることのなかった己の名であったのだと気づいた影雀は、急速に自我が蘇るのを感じた。

 憎い。この母親は我が子を見殺しにした。

 妬ましい。姉は、自分の代わりに命を終え鬼にまでなった妹がいたことをまだ知らず、愛されながら育っている。

 あの雀の一家のように、あぶれた者を排除して、残された者たちだけでのうのうと暮らし、罪悪感を覚えることもなく……。いいや、違う。違うとわかっているのだけれど。

「すずめ、すずめ」
「母さん、どこか痛い? 雀さん、可哀想?」

 何も知らない奈古女が、母の頭を撫でる。普段から彼女自身も、そうして宥められているのだろう。影雀も、その輪に入れるはずだった。だが、叶わなかった。

 母は涙を拭うと奈古女の頬を撫でた。

「ううん、何でもない。さあ、その子を埋めてあげようね」
「うん」

 雀は村の端に埋められた。小さな土饅頭の上に何の変哲もない石を置いただけの、ささやかな墓だ。しかし影雀にはそれが、家族から弔われることのなかった己の墓標であるかのように思え、言い知れぬ充足感が、どろどろとした憎悪を浄化していくのを感じた。

 しゃん、と鈴の音が響いた気がした。川に沈む時、強く握り締めていた、小さな鈴。影雀は清涼な幻の音に身を委ねた。

 しばらくして気づいた時、影雀は死んだ雀の影に憑依していた。

 そうして己の運命を受け入れた影雀は、母の胎内で交わした約束を果たすため、奈古女の前に姿を現した。かつて誓ったように、姉が生涯を終えるまで、共に過ごすことを願ったのだ。
「ふーん、青い俗鬼(ぞっき)から零れ落ちた精神の塊? そんなことあるんだねー。じゃあ本当は、奈古女(なこめ)様のことが嫌いなのー?」

 語り終えた途端、ふわふわとした言動ながら核心を突かれ、影雀(かげすずめ)は束の間言葉に詰まる。

 憎くない。憎いと思ってしまえば、奈古女の側で生きるという、ささやかな存在理由すら失ってしまうのだから、姉を妬んではならないのだ。

「話聞いてた? あたちは母さんにもちゃんと愛されていたのよ。そりゃあ、奈古女を羨まちいと思う気持ちはあるけど、憎くなんてない」
「そうなのー? おいらなら、ちょっと嫌だなー。だって、奈古女様は人間で、鬼を食べなくても強くなれるし、友達もできて、石を投げられることもないし、それで」
「あんた、何なのよ」

 悪意なく傷を抉るようなあくびの言葉に苛立ち、影雀は声を高くした。

「やっぱり話すんじゃなかった。早くどっか行きなさいよ!」
「うわわ! 嫌な気分になっちゃった? ごめんね影雀ー。おいら、やっぱり難しいことわかんない」

 心底悲しそうに眉尻を下げるあくびを見て、途端に自分が悪者になったかのような心地がした。影雀はいくらか語気を緩める。

「……別に、悪気がないことくらいわかってるわよ。でも、お願い、ひとりにちて」
「うん、わかったよー。ふわああああ。そろそろ寝ようかなー」

 相当眠たかったのだろう。言うなりあくびは樹皮に爪を引っかけ器用に地上へ下りて、夜の闇に消えて行った。

 あくびの気配が去ると、影雀は大きく息を吐く。そして、宙に向けて澄ました声で呼びかけた。

「で、さっきからそこにいるあんた。盗み聞きなんて悪趣味ね」
「ほう、気づいておったか」

 闇に沈む夜の森が、ゆらりと揺れた。薄雲がかかったかのように景色がたなびいて、やがて収斂し、二本角の大鬼(たいき)の姿へと変化する。

 大鬼は、案外理知的な顔で影雀の隣に腰かけると、馴れ馴れしい笑みを浮かべた。

「数奇な運命よのう。そして、死んだ鬼から零れ落ちた精神が地上に留まるとは。異形の鬼には、未知の能力が秘められているかもしれぬな」
「誰よあんた。でかいんだから同じ枝に乗らないでくれる? 折れたらどうすんのよ」
「折れたら飛べばよいではないか。雀なのだから」

 大鬼は姿勢を改めるつもりないらしい。身体を影雀の方へと少し寄せたと同時に、枝が悲鳴を上げるように軋んだが気に留めた様子はない。

「のう、おぬし、本当は憎いだろう。姉のことが」
「あんたに何がわかるの」
「わかるさ。同じ鬼だから。我は俗鬼から大鬼になった。人間かぶれの純鬼とは違う。おまえの気持ちがわかるのは、人間でも純鬼でもない。負の感情から生まれ落ちた我らの方だ」
「だからお友達になろうって、そういうこと?」
「我らに友という概念など存在せぬよ」

 大鬼は低く笑い、影雀に口を寄せる。ずらりと並んだ鋭い歯が近づくが、不思議と恐怖は覚えなかった。大鬼は、囁いた。

「鬼の世界を作りたくはないか」

 影雀は顔を上げ、大鬼の巨大な顔を見た。

「鬼の世界」
「そう。負の感情から生まれ、負の感情のままに生きざるを得ない鬼たちが、人から迫害されることなく、鬼の本能のまま生きられる場所。呑気で幸福そうな人間らを妬むこともなく、彼らと隔絶された土地で暮らす。我らの理想郷だ」
「……どうやって、鬼の世界を作るの」

 用心深い口調で問えば、興味を引けたことに気をよくした大鬼は口の端を持ち上げた。

「東に、鬼を狩る武者がいる。その棟梁館を、我らの長が占拠した。東国は元々、鬼の土地だったのだ。それを、人間らが侵略し、開墾しただけのこと。我らのものを奪い返して何が悪い」
鬼頭(きとう)の館ね」
「知っていたか」

 影雀は、微かに金色を帯びる大鬼の瞳をじっと見つめ、それから首を横に振った。

「いいえ、話に聞いたことはあるけど、詳しくはちらないわ。で、あんた、あたちに何をちて欲ちいの?」

 夜風が吹き、木々が騒めいた。流された雲が満月を隠し、山は漆黒の(とばり)に包まれた。
 季節の進みと共に日の出が遅くなったとはいえ、山の朝は早い。東の空が白み始めるや否や、鳥が明るく鳴き交わし始め、奈古女(なこめ)は自然と眠りの底から呼び戻された。もっとも、傍らに横たわる怠惰の俗鬼(ぞっき)は小鳥の囀りなどお構いなしで、健やかな寝息を立てながら未だ夢の世界を探検しているようだ。

 あまりにも幸せそうな寝顔だ。鬼頭(きとう)の館から東西の国境まで、単身旅をして奈古女たちを探し出してくれたのだから、たいそう疲弊していることだろう。ただでさえ、眠ることが好きな俗鬼なのだ。もうしばらく休ませてあげたい。奈古女は、自身が被っていた衣をあくびに掛けてやる。

「でもあくび、いつからいたんだろう」

 奈古女が眠りに落ちる前には姿が見えなかった。明け方に帰って来たのかもしれない。

「ゆっくりしてね」

 微笑みつつ呟いてから、奈古女は(いおり)の内部を見回した。室内は冷え込んでいる。真均(まさひと)はとうに外へと出たらしく、床板には温もりの名残もなかった。

 奈古女は、朝の冷気に軽く身震いする。冷えを意識すれば、自ずと真均の肌の温かさが蘇り、全身の毛穴から火が出るような心地がして頬を軽く張った。

「……顔を洗おう」

 音を立てないように扉を開き、朝日の下へと足を進める。鳥たちで賑わう梢の間から、白く清々しい陽光が降り注ぎ、奈古女は手を庇にして目を細め、空を見上げた。

 東国では、鬼が鬼頭の館を占拠している。本当の困難はこれからだ。しかし、どれほどの苦行の後も、朝は変わらず訪れる。世界は美しく、規則的で、奈古女の心を決して消えない光で満たしてくれるかのようだった。

 ゆっくりと沢へと足を向けた時、奈古女の耳は、鳴き交わす小鳥の騒めきの中に、ちゅん、と聞き慣れた声が混じるのを捉えた。小走りで声の側へ向かえば低木の枝に影雀(かげすずめ)が止まっている。

「影雀! よかった、帰って来たのね」

 胸に手を当てて安堵の息を吐き、影雀に問いかける。

「昨日のことだけど、いったいどうしたの。大鬼(たいき)を守ろうとしたのには、何か事情があったのよね。ちゃんと話して。大丈夫、私が一緒に説明するから」

 影雀は少し考えるような間を空けてから、冷たい口調で言った。

「どうしたのって、あんたこそ。若殿と何かあったの?」
「え!」
「見えるもの全てがきらきらちてる……って感じの、浮ついた顔ちてるわよ」

 図星を指され、奈古女の顔面がみるみる紅潮する。これでは肯定しているのと変わりない。奈古女は慌てて話を逸らす。

「そ、そんなの影雀には関係ないでしょう。それよりもなんだか苛立っている?」
「別に。ただ、昨日の昼の子が哀れに思えてちかたないだけよ」

 つん、とそっぽを向いた影雀。鬼と戦った川原で真均に怒鳴られたことを気に病んでいるのだろうか。奈古女は一歩歩み寄り、影雀の視線の先に移動した。

「確かに可哀想な子だった。でも、あのままにしておいたら他の鬼を食べてどんどん大きな鬼になってしまったかもしれない。それに、あれは赤子の姿をしていても本性は大鬼だもの。あの赤子自身はきっともう成仏して」
「奈古女、もうあたちはいらないわね」
「え?」

 突然発せられた拒絶の言葉に、脳内が真っ白になる。情けなく口を半開きにした奈古女に向けて、影雀は容赦なく吐き捨てる。

「あんた、いつからか、若殿みたいなことを言うようになったわ。せいぜい二人で楽ちく暮らちなさいよ」
「待って、どうしてそんなことを言うの。ずっと一緒にいようって約束したじゃない」
「見たくないの!」

 影雀が声を張った。あまりの鋭い語気に驚いた小鳥が、慌ただしい羽音を響かせて空へと飛び去った。

「ずるい。ずるいわ。奈古女は生きて、恋をちて、そちて幸福になることができるのに。あたちはなぜ、何もわからないまま命を終えなければならなかったの」
「か、影雀?」
「奈古女なんて」

 影雀は黒く真っさらな、表情のない顔で奈古女を睨んだ。

「奈古女なんて大嫌いよ。本当は始めから羨まちくて妬まちくて、とっても憎かったの」

 絶句する奈古女の前で、影雀の全身から灰色の粒子が陽炎の如く立ち昇り、姿が揺らいだ。この現象は、東国に来てから何度も目にしてきた。鬼が変化する前触れだ。

 だが、姿形を変えることができるのは他者を食った大鬼だけのはず。影雀は鬼も人も食べたことはない。……そう、奈古女が知る限りは。

「影雀、まさか」
「奈古女!」

 呆然と落とされた声に被さるようにして、真均が呼んだ。沢の辺りから獣道を駆け上って来たらしい真均は、一目見て影雀の状況を理解したらしい。すらりと抜刀し、剣呑に光る刃を影雀に向けた。

「やめてください!」

 袖に縋りついた奈古女を振り払い、真均は声を荒げる。

「邪魔をするな! 油断すると足元を掬われる。相手は鬼。……いいや、大鬼だ」
「違う、違うんです。あれは影雀で」
「とんだ茶番ね」

 氷柱(つらら)のような声が、低木の辺りから飛んで来た。見れば、影雀の纏っていた暗色の靄は消え、いつも通りの丸々とした雀姿に戻っている。ただ一つ常と異なるのは、その声音がひどく冷え、悪意を剥き出しにしながら叩きつけられること。

「ええ、そう。あたちは大鬼なの。どうぞ、斬ったらいいじゃない。ま、そんなことをちたら、奈古女が許さないだろうけど。それにあたちは空を飛べる。刀よりも弓の方がいいんじゃない」

 起床後、身支度を整えていない真均は、あいにく弓を持っていない。音が出そうなほど歯を食いしばり、真均は刀を下ろす。

「おまえはいったい何がしたい。大鬼になり奈古女を裏切るなら、わざわざ本性を明かす必要はないだろう」
「お別れを言いに来たの。長いつき合いだもの。さすがに挨拶くらいは必要でしょ」

 真均の眉根が、納得いかないというようにひそめられたが、奈古女には些事に拘泥する余裕がない。

「お別れって、どこへ行くの」
「鬼の世界」
「それって、鬼穴?」
「まさか、あんな陰気なところ嫌よ。地上に、鬼の世界が戻ってくるの。鬼導丸(きどうまる)の手によって」
「鬼導丸って……」

 引きつり途切れた奈古女の言葉を引き継ぎ、真均が呻く。

()(つの)の子。鬼頭の館を占拠した鬼」

 まさか影雀は、つい昨日まで敵であった鬼導丸に(くみ)しようというのか。鬼頭の館に赴き鬼の勢力に加担するためにあえて大鬼となったのだとすれば、それも道理は通るが、しかし。

「嘘よ、影雀。だって昨日までは、鬼に食われた子を哀れんで」
「甘いのよ。反吐が出るわ、奈古女」

 影雀は、顔を斜めに逸らし、奈古女の視線を避けた。

「強くなければ、自分の望みは叶えられない。そちて、鬼が手っ取り早く上級鬼になるためには、負の感情をたっぷりため込んだ人間や鬼を食べればいいの。同じ鬼ならわかるでしょ、若殿」

 水を向けられて、真均の眉がぴくりと動く。彼は反駁するでもなくただ口を閉ざし、真意を探るように影雀の一挙手一投足を窺っている。やがて、影雀は奈古女に一瞥を寄越してから翼を広げた。

「じゃ、お別れね。西国で、せいぜい呑気に暮らちなさいな。あたちは鬼導丸のところで楽ちくに過ごすわ」
「待って、影雀。待って!」

 奈古女の叫びは影雀の姿を追って、蒼天に吸い込まれる。小さな鳥影が雲の向こうへ去ってもなお、声を上げ続けた。見かねた真均が奈古女の肩を強く掴んで揺らす。

「やめろ。喉を傷める」
「でも、呼び戻さないと。影雀は、あの子はいい子です。人間と一緒にあれるはずの子なんです。だから何か理由があるはずなの」

 真均は怜悧な瞳で奈古女の慟哭を受け止め、微かに目を細めた。

「影雀はもしかすると……いいや、俺たちは今できることをするのみだ」
「できる、こと?」

 真均は奈古女の肩を放し、納刀して(きびす)を返す。慌てて背中を追った奈古女を肩越しに振り返り、彼は短く言った。

「鬼頭の館へ戻る。影雀とはそこで再会できるだろう」
 作り物のように澄んだ空だ。まるで、望みを果たし尽くし、虚構の中を生きているかのようなこの心にそっくりである。

 三紅(みくれ)は縁側に座し、武家の質素な庭と檻のように巡らされた築地(ついじ)塀、そして上空一面に広がる青をぼんやりと眺めている。

 鬼頭を憎んでいた。だが、当主たる夫が食われ、鬼頭の館が静かな占拠を受けるに至り、もはやこれ以上の渇望は生まれなかった。それどころか、胸は大穴が空いたかのように空虚であり、ともすれば永遠に眠っていられるとさえ思えるほど、気力が湧かないのだ。

真均(まさひと)は、息災かしら」

 我が子の幸福への関心だけが、辛うじて三紅の精神を現実に繋ぎ留めている。

 真均は、鬼だ。東国が鬼の土地に戻るのならば、真均もこちらへ帰り、誰に後ろ指を指されることもなく暮らすべきだ。しかし彼はそれを望まないだろう。説得を試みようという気にもならないほど全てが億劫で、三紅はこうして毎日を無為に過ごしている。

「おい、三紅。遠駆けに行くが、おまえもどうだ」

 不意に声をかけられて、緩慢な動作で顔を上げる。いつの間にやって来たのか、棟梁の姿をした鬼導丸(きどうまる)が、すぐ隣に立ち三紅を見下ろしていた。

「まあ。遠駆け」
「いつものやつだ」
「食事ね」

 三紅が呟けば、辺りに人目がないのをいいことに、大殿らしからぬぞんざいな口調で鬼導丸は言う。

「ああ。まさか棟梁姿で、家僕や郎党を食うわけにはいかんからな。有能そうな鬼は連れ帰り、役立たずならば食って俺の糧にする」
「人のように強飯(こわいい)を食べるのではいけないの?」
「別に、それでも生きちゃいけるけどな。実のところ、食う方はついでで、本当の目的は同志集めだ」

 鬼導丸は粗暴な所作で片膝を立てて腰を下ろし、興味も薄く半ば伏せられた三紅の瞳を覗き込んだ。

「下級鬼なら俺が一睨みすれば言うことを聞くが、中級以上の奴になると、無駄に自我が強いから納得させることが必要だ。とはいえ、東国を鬼の手に取り戻すことは、多くの同族にとっての悲願。口が達者な奴に説得させりゃ、簡単に仲間に引き込める」
「そう」
「順調だぞ。近頃は、信頼のおける大鬼を各地に遣わせて、より多くの鬼を勧誘している。今日も、我らの大志に共感した新入りが」

 その時だ。

「……た……のか!」

 機嫌よく続く鬼導丸の言葉をかき乱すように、(うまや)の方角から怒鳴り声が上った。鬼導丸は目を眇めて騒ぎの中心辺りに視線を向け、軽く嘆息する。

「噂をすれば新入りが騒ぎでも起こしたか? 無理に鬼や人を食わせてるからな。腹がはち切れそうになって暴れ出す奴がいる」
「そう、哀れね」
「本当に思ってんのか?」

 気のない返事に張り合いを失くしたのか、鬼導丸は呆れ顔で肩をすくめた。

「まあ、何でもいいが。……ああ、面倒だな。早いところ遠駆けに出ちまえばよかった」

 ぼやきながらうなじの赤髪を掻き、大殿姿の鬼導丸は袴の裾を蹴り上げるようにして、様子見のため厩へと向かった。

 三紅はぼんやりと、鬼導丸の蘇芳色の直垂(ひたたれ)を見送る。姿形は、かつての夫と何も変わらない。立ち居振る舞いも、似せようとすれば造作ないのだということは、郎党を前にした際の言動からよく理解している。鬼導丸の中に、確かに夫がいる。しかし自我も自由もない。

 三紅は己の胸にそっと手を触れた。かつて食った鬼たちが、三紅の中で解放を求めて蠢いているような心地がした。
「おかしいな。静かすぎる」

 真均(まさひと)が、(くりや)の扉を薄く開き様子を窺いながら囁くように言った。

「炊事の時間ではないとはいえ、家僕の一人もいないのは妙だ」

 奈古女(なこめ)は、斜め後ろに立つ俗鬼(ぞっき)のあくびと視線を交わしてから、真均の隣に寄り添い、同じ隙間から外を見る。

 約一月半ぶりに見る鬼頭の館の庭には、惨事の名残など跡形もない。血潮で赤い花を咲かせていた砂は清められ、戦いの衝撃で崩れた石積みも修復されている。

 館の搦手(からめて)方面、有事に備えた抜け道から館に忍び込んだ奈古女たちは、人目につくのを恐れ、無人の厨に身を潜めている。息を整えてから状況を把握し、行動を起こそうというのだ。

「本当に人がいませんね。これなら、密かに大将を討つことができるかもしれません」
「だが、油断は禁物だ」

 真均は、奈古女の腰に吊るされた袋に軽く触れた。中には、大殿の(もとどり)が入っている。本来、真均が持つべきものだろうが、剣戟の合間に断ち切られてしまい紛失してしまってはいけない。そのため、奈古女が預かり身に着けているのだ。

 誰の目にも留まらず、敵を討てればそれでいい。だが、そう上手くはいくまい。姿を認められてしまった時には、人間の郎党らだけでも味方につけたい。そのための切り札である髻。あえて人の集まる日中に潜入をしたのも、大殿の髻が示す真実を多くの者に暴露するためだった。

「行くぞ」

 真均は願いをかけるように袋を握り締め、手のひらを開いてから扉を開けた。

 身をかがめ、建物の陰に沿って進む。慣れない隠密行動に、奈古女の耳には自身の鼓動ばかりが大きく響く。万が一にも鈴の音を出さないように布できつく封じられた神刀が、いつになく重たい。

 奈古女たちは言葉なく、目で会話をしながら、まるで盗人のように腰を屈めて駆けた。可能な限り迅速に行動できるよう、事前に策を練っておいたのだから、言葉は不要である。

 この館で最初になすべきことは、清高の救出だ。彼が捕らえられている納屋は敷地の外れにあるため、敵が暮らす主殿に近づく必要はない。

 やがて、敷地内を区切る網代(あじろ)塀の側を進み(うまや)の近くを通りかかった時、奈古女の耳は、懐かしい声を捉えた。

「だから、あたちは飛べるんだから、ずっとこんなところにいる必要はないって言ってんのよ!」

 奈古女は息を呑み、思わず足を止める。数歩先を行っていた真均とあくびが遅れて立ち止まった。塀の向こう側から、ちゅんちゅんと騒ぎ立てる声がする。

「わからずやね。世の中は適所適材なの。偵察なら、空からやれば手っ取り早いじゃない」
「だからといって、勝手に敷地外に出ることは許されぬ。何事も、大殿の許可を得てから行動に移せ」
「はあ、大殿ねえ……」

 含みのある口調で言ったのは、十中八九影雀(かげすずめ)だろう。常と変わらぬ調子に場違いにも安堵する一方で、胸が抉られるように痛んだ。

 仲互いの末、突然奈古女の前を去った影雀。彼女は今、奈古女と敵対する立場に身を置いている。物心ついた時からずっと側にいた。出会った最初の日のことは、もう思い出せない。だが、影雀が側にいるといつも、まるで欠けてしまった大切なものが補われるかのように活力が湧き、空虚な心が満たされた。それなのに。

「影雀」
「……ねー、奈古女様」

 つん、と袖を引かれ、我に返る。目を落とせば、あくびが心配げに眉尻を下げ、奈古女を見上げていた。

「大丈夫。何か事情があったんだよー。だって影雀、奈古女様のことが大好きだって言ってたもんー」
「そんな話、いつしたの?」
「えっとね、影雀が飛んで行っちゃう前の夜……。あ、これ、本当は内緒のお話だったんだー。奈古女様。今の話、聞いてないよねー」
「う、うん、聞いてないよ」

 あくびと影雀が密かに親交を深めていたとは初耳だ。しかしそれならば、あくびから詳しく話を聞けば、影雀の真意を知ることができるのではないか。

「あのね、あくび。影雀は」
「奈古女、今はそれどころではない」

 真均が、潜めながらも苛立ちを帯びた声音で言った。

「塀の向こうには鬼がいる。奴らが騒ぎに気を取られている今が好機。このまま清高を探す」
「そ、そうですよね。すみません」

 奈古女は神刀を胸に引き寄せるようにして抱き締め、深呼吸をしてから真均の目を見て頷く。彼は軽く目を細めて応じてから再び足を進めた。

 網代塀が途切れる通路を息の音すら漏らさないように注意深く通り過ぎ、目的の納屋までたどり着く。ほんの僅かな時間しか経っていないはずだが、奈古女には小半刻にも感じられた。

 納屋には鍵がかかっているが、一部壁板が腐食している箇所がある。あくびは以前、そこから中へと入り、清高と対面したのだという。もちろん、成人した人間が身体をねじ込むには細すぎる隙間だ。そもそも、いつかは館への侵入が露呈するのだから、行儀よく開錠する必要もない。真均は刀の柄で錠の基盤ごと板扉を打ち壊し、強引に戸を開けた。

「清高、無事か……」

 急いて発せられた真均の声が緊張に強張り、やがて凍りついた。遅れて中を覗き込んだ奈古女も、鋭く息を呑む。

 突然の闖入者が巻き起こした砂埃が陽光に透け、古びた納屋の内部を白っぽく照らし出す。その中央。梁に括りつけられた縄に拘束されて、白い肌の男が横たわっていた。異様なのは、その周囲。彼を中心に砂が赤黒く変色している。やや間を空けてから漂ってきた金臭さが鼻を突かなくとも、一目でわかる。あれは血痕だ。

 真均が納屋に踏み込む。滞留していた空気がかき乱されて、腹の底がざわつくような、不快な臭気が立ち上がった。

「清高、怪我を」

 真均が、清高の頭の側に膝を突く。小刻みに荒い呼吸を繰り返す清高の肩を掴み、軽く揺らす。そして。

「清高」

 伏した男が顔を上げた。口元を中心にして、乾いた赤黒い血が付着している。細い目は虚ろで、眉は薄く、頬はこけ……いいや、彼は清高ではない。少なくとも、容貌は別人だ。

「ああ」

 血だまりの中で、男は呻く。真均が反射的に膝で後ずさり鯉口を切る。男は薄い眉尻を悲しげに下げて口を開いた。

「若……東一(とういち)様」

 鬼頭の若殿を普段から名で呼ぶ者は、数少ない。ならばこれはいったい誰か。

 この納屋には、純鬼清高が捕らわれていた。眼前の男の身体の下には大量の血痕。そして口元に赤。真均は眉間を険しくしたまま、絞り出すように言った。

「清高、食ったのか」
「まさか」

 思わず、奈古女の口から声が漏れる。大鬼(たいき)の姿を前にし、あくびが本能的に身震いして、奈古女の腿にしがみついた。

「清高、なぜだ」

 清高は口の端を軽く歪め、辛うじてそれとわかる笑みを浮かべた。そして。

 不意に、痛々しい感情を張りつけた皮膚が墨を垂らしたかのように黒く染まる。暗黒の渦に顔が呑み込まれ、やがて別の男の容貌になる。続いて肉が盛り上がり黄色い俗鬼に転じる。しばらくそうして変化を繰り返してから、見慣れた大きな目と濃い眉が戻ってきた。

「東一様、私は」
「なぜ食ったと訊いている」

 低く詰問する声に、清高は震える腕で上体を支えて起こし、赤黒い砂の上に尻を下ろした。

「このような姿では東一様のお側にあれません。私を斬ってください」
「質問に答えろ」

 清高は、やや衰弱して焦点が揺れがちな瞳で主を見上げてから、居たたまれない様子で視線を逸らす。

「生きるため。己のために食ったのです」
「鬼導丸に対抗するため進んで大鬼になったか」

 答えは返らない。いつの間にか柄から離れて自身の膝に乗せていた真均の右手が、青筋が浮くほど強く握り締められた。

「全ては俺のためだ。そうだな、清高」
「私は」
「清高は俺にとっての弱点だ。もしおまえが鬼に食われたら、俺はおまえの姿に化けた鬼に騙されて自滅するかもしれない。だからおまえは敵に食われず抵抗を続けられるよう、鬼導丸(きどうまる)の鬼格に近づくため、大鬼になった。少なくとも、下級鬼は清高を恐れ、おまえを傷つけようとしなくなる」

 清高は妙なものでも見るかのような目で真均を見つめる。やがて、薄く唇を開いた。

「どのような事情があったとしても、私は人食いの鬼。人の館で、人を束ねる主君に仕えることなどできません。私を終わらせてくれるあなたがお越しくださるのをお待ちしておりました。どうか私を処分してください。そして、この身を誰にも食わせぬよう、焼き尽くしてください」
「ふざけるな」

 真均は地鳴りのような声で一蹴し、抜刀する。砂埃の幕越しに差し込む陽光を受け、刀身が禍々しく光を弾く。

「若殿!」

 奈古女がほとんど悲鳴に近い声を上げる。真一文字に銀が一閃する。ざくり、と物を裂く音がして、清高の頭頂すぐ側で、梁と繋がっていた荒縄が断ち切れた。

 真均は、呆気に取られる清高の手を乱雑に取り、手首同士を拘束する縄を切先で裂く。それから激情の籠った声音で言った。

「死ぬのなら、東国のために戦い抜いて果てよ。俺には今、一人でも多くの手下が必要だ。命尽きるまで、俺に仕えるのではなかったか」

 清高が息を呑む音が響いた。主従はただ、見つめ合う。ほんの僅かな時間であったが、心の通じ合った二人には、それだけで十分だった。やがて清高は、唇を震わせて俯いた。

「二言はありません。この清高、若殿がお許しくださる限り、たとえこの身が朽ちようと永劫にお側でお仕えします」

 清高の顔の下、乾き切った赤黒い砂の上に、ぽとりと新たな水分が滴下して斑を描く。真均は幼少の頃より共にあった従者の肩を掴み、これまでの辛苦を労ってから、腰を上げた。

「時間が惜しい。鬼導丸のところへ向かうぞ」

 清高は面を上げる。綻びた直垂の袖で口元の赤と目元の水分を拭うと、いつの間にか雲のかかり始めた空から降る淡い陽光に浮かび上がる庭へと、意思の強い目を向けた。
 鬼導丸(きどうまる)は、影雀(かげすずめ)が起こした騒ぎの状況を確認するため、(うまや)を訪れているらしい。やや距離があるため、低く交わされる会話は途切れ途切れになり内容はわからない。奈古女たちは網代(あじろ)塀の側の茂みに身を潜め、蘇芳(すおう)色の直垂(ひたたれ)を纏った大殿姿の大鬼(たいき)を窺った。本物と何ら変わらないを目にし、このような時だというのに、奈古女の胸には一つの確信が生まれた。やはり真均(まさひと)の容貌は大殿に似ている。

「父上」
東一(とういち)様、あれは偽物です」
「でも、そっくり」

 思わず話の腰を折るような声が漏れる。真均と清高が勢いよく奈古女を振り返った。奈古女は慌てて両手を顔の前で振り、取り繕う。

「あ、いいえ違うんです。もちろんあれは、鬼導丸なんだと思います。でもやっぱり若殿と似ています」

 細く高い鼻梁、切れ長の目、険しい表情と身に纏う苛烈な空気。髪色こそ異なるが、二人に血縁がないなどとは思えない。

「やっぱり、若殿は()(つの)ではなく大殿の子なのでは」
「ならば俺に角が生じるのはなぜだ」
「それは」

 奈古女は、今は滑らかな真均の額を見上げ、言葉に詰まる。大殿に角はなかった。尼姿になる前の三紅(みくれ)も同様だったと聞く。ならば真均は、血縁以外の事情で、生まれては消える角を得たのだろうか。

「どちらにしても」

 真均の瞳に、激しい炎が宿った。

「あの姿をした者を父と慕い育ったことは確かだ。館が落ち東国に危険の火種が燻っているのは鬼頭(きとう)の咎。身内の不手際は身内で終息させる。父母の姿をした大鬼(たいき)は、俺が斬る」
「でも、鬼導丸は上級鬼。取り巻きの大鬼だっているはずです。どうやって隙を突きましょう」
「心配ない。人として武で敵わぬならば、鬼として食う」
「え?」

 食う。人の顔をした真均が平然と述べたのはつまり。

「だ、だめ! そんなことをしたら若殿が大鬼になる。人から討伐される立場になってしまいます」
「それでいい。鬼導丸や母上姿の大鬼を道ずれに鬼穴(きけつ)にでも沈み、奴らに死が訪れるまで永遠に地の底に縛りつけてやる」
「そんな」
「聞け、奈古女」

 真均は奈古女の肩を掴んだ。決意を帯びた手のひらが、肩骨を軽く軋ませる。

「万が一俺が悪しき大鬼になり人に害なす存在に変化したのなら、迷わず鬼穴に蹴落とし、おまえの舞で穴を塞いでくれ」
「そんな……できません」
「それがおまえの存在価値だ。ずっと、人の役に立ちたいと願ってきたのだろう。ならば今こそその時だ」
「こんな形は望んでいません」
「万が一の時は、と言った。おまえにその役が回ってこないよう、努力する。だが、戦いになれば館に再び鬼穴が湧く可能性が高いのは確かだ。あらかじめ神刀に清めを纏わせ、準備だけはしておいてくれ。何があってもおまえが俺の尊厳を守ってくれると信じれば、心置きなく戦える。心配は無用だ。そう簡単にはやられない。……奈古女」

 真均の眉間の皺がふと緩み、淡い笑みが浮かぶ。

「大切なのは、鬼か人間かということではなく、その人が何をなすかだ。そう言ってくれたのは、おまえだろう。だからこそ、俺は人として、鬼頭や東国のために尽くしたいと思う。どうか、角を持つこの身に宿るのが人間の心であることを証明させて欲しい」

 魂の叫びに全身を打たれ、奈古女の喉は張りついたようになる。細く息を吸い込むだけで精一杯だ。しばらくして、辛うじて絞り出したのは、まるで子どものような声だった。

「ずるいです」

 奈古女は唇を噛み、呼吸を整えてから、目元を険しくしてもう一度口を開いた。

「若殿はずるい。いつもそうです。そんな言い方をされたら私は拒めません。だって、ただでさえ私は……」

 あなたの全てを愛おしく思っているのだから。

 胸に満ちて今にも溢れ出しそうな甘ったるい言葉は場違いも甚だしく、唇から零れ落ちることはない。だがきっと、真均はそれを受け取った。

「言っただろう、背中を預ける巫女として奈古女を求めたのは俺だ。影雀という鬼に偏見を持たずに語り合う姿を見て、おまえならば、孤独と憤怒の闇に沈みそうな俺の心を人の世に繋ぎ止めてくれると思ったのだ。実際、おまえには助けられた。今回の働きも期待している。さあ、つべこべ言うな。おまえはおまえのなすべきことをすると誓え」

 奈古女に向けていた視線を切って、真均は草越しに厩を見た。そのまま顔を動かすことなく、短く指示を飛ばす。

「あくび、大鬼に占拠されたこの館に最も詳しいのはおまえだ。奈古女を安全な場所に連れて行き、神楽を舞う間守れ。清高は俺と来い。人の敵を狩る」

 あくびと清高、それぞれが頷き、次なる行動を開始する。

 ただ一人動けない奈古女の肩を、清高が柔らかく押して促した。身体が離れる直前、彼は大きな目に慈愛の色を乗せて囁いた。

「東国にいらしてから今日までのこと、本当にありがとうございます。東一様に代わり、御礼申し上げます」
「清高様」
「奈古女様、急いでー。おいらと行こうー」

 あくびがいつになく真剣な面持ちで奈古女の袖を引く。奈古女はもう一度だけ視線を上げた。どこか達観したような清高の柔らかな表情、こちらを一瞥すらしてくれない真均の怜悧な横顔。奈古女は腹の底に力を込めて、あくびの手を取った。

「そうね、行こう、あくび。どこか神楽を舞うのにいい場所を教えて」
「うん、任せてー」

 駆け出したあくびに腕を引かれながら、奈古女は身を屈め、茂みと築地の間を小走りに進む。振り返ることはしなかった。それぞれがなすべきことをする。今は前だけを向いて突き進むべき時だ。