影雀(かげすずめ)、見つけたー」

 影雀が止まった枝の真下から、無邪気な声が立ち上がり夜の静寂を揺らした。間延びしたあの声は、緑の俗鬼(ぞっき)あくびに違いない。

 夜陰に紛れ、常緑樹の枝に姿を隠していたのだが、いったいどうやって影雀のことを見つけたのだろう。ひとまず無視を決め込んだ影雀だが、空気の読めないあくびは、よいしょよいしょと難儀しつつ、影雀のいる枝まで登って来た。

「ねえ、若殿と仲直りしないのー?」
「うるさいわね。あの男の言う、納得のいく説明とやらが思いつかないのよ」
「ふーん?」

 あくびは枝に跨り足をぶらぶらとさせながら言った。

「じゃあおいらが一緒に考えてあげるよ」
「結構よ。それよりあんた、何でこんなところにいるの。怠惰の俗鬼でしょ。睡眠不足になるわよ。ただでさえ猫みたいに寝るんだから」
「若殿が、影雀を探して来いって言うからー。無事連れて帰ったらね、丸三日間お休みをくれて、ずっとごろごろしてていいよって言うのー」
「つまり厄介払いされたってことね」
「厄介。おいら、厄介なのー?」
「何でもない。こっちの話よ」

 影雀はこれ見よがしに溜め息をつき、翼を広げて一つ上の枝に飛び移った。

「あ、待ってよー」
「ついて来ないでったら。ほっといても朝になったらちゃんと帰るわよ。あんたに連れ戻されたってことにちてあげる。そちたら三日の休みももらえるんだから、それでいいでしょ」
「うーん。やっぱりだめー」
「何でよ!」

 つき纏ってくる俗鬼に辟易し、思わず声が高くなる。あくびは堪えた様子もなく枝を渡る。

「影雀、悩んでるみたいなんだもんー。考え過ぎるとね、鬼穴(きけつ)が湧いちゃうんだー。そうでなくとも、鬼が撒き散らす負の感情は、人のやつよりも大きいんだから」
「うるさいわね。そっくりそのまま、若殿にも言ってやりなさい」
「若殿。角が出たり入ったりする鬼なんて不思議だよー。若殿、本当に鬼なのかなー」
「ちらないわよ。()(つの)、だっけ? 父親が角を隠す鬼なんでしょ」
「三つ角はいっぱい鬼を食べた強い大鬼だったからー。でも若殿は、鬼も人も食べてないよー」
「じゃあ、あたちみたいに中途半端な鬼なんじゃないの」

 あくびは目をぱちくりとさせた。

「影雀は中途半端さんなんだね。どうして中途半端さんになったのー」
「あんたには関係ないでしょ」
「うん。関係ないー。だから影雀、お話していいんだよー。おいら関係ないから、影雀の秘密を聞いても何も起こらないー」

 確かにそうかもしれない。幼児のような喋り方をする俗鬼が不意に本質を突いたようなことを言ったものだから、影雀は妙に感心した。

 これまで奈古女にも話さず、己の胸にのみ秘めてきた過去。封じたはずの苦い記憶は、日中、青い俗鬼に食われた捨て子を見てから蘇り、胸が疼いて治まらない。言葉として吐き出すだけでも、少しは気持ちが軽くなるだろうか。

 影雀は、いつの間にか隣に並んでいたあくびの横顔を窺って、邪気がないことを見て取ると一つずつ噛み締めるようにして、過去を語り始めた。






 ――お外に出たら一緒に遊ぼうね。それでね、幸せに暮らして、おばあちゃんになってもずっと仲良しでいるの。

 言葉を知らない胎児だった。しかし、声など出さなくとも、心は通じ合っていた。影雀にとって奈古女(なこめ)は、己の片割れであり、むしろ自分の一部であったのだ。

 母の胎内に宿った時、二人は一つの魂だった。それが二つに分離して、双子の女児となった。生まれ落ちる前からずっと、それだけが自明のことだった。

 奈古女は少し大人しい子で、影雀が語りかけてもはにかむような気配を出すだけで、多くの意思を伝えようとはしなかった。胎内で暴れるのはいつも影雀であり、奈古女は常に小さく丸まって、ただ影雀に寄り添っていた。

 魂が二つに分かれば、人の持つ性質や能力の種が、どちらかに偏ってしまうこともあるのだろう。影雀は奈古女の分まで活動的で、だからこそ、影雀は奈古女に姉の座を譲ることになる。

 ——ちょっと、早く行きなさいったら。

 なかなか産道に下りようとしない奈古女。彼女を残して影雀が先に生まれ落ちたなら、奈古女は母の胎から出てこないのではないか。心配になった影雀は奈古女を押し出すようにして、先に外界の光を見せてやった。だから奈古女は姉となり、影雀は妹となった。

 影雀は知らなかった。忌み嫌われる双子のうち、先に生まれた者は愛されて、後に生まれた者は最初からいなかったこととされ、母に抱かれることなく川に流される運命であることを。

 胎内ではあれほど明瞭だった思考も、赤子として生まれ落ちた瞬間を境に、靄がかかったかのように曖昧になり、何もわからず本能のまま泣き続けるだけの存在へと変化していった。ただ、悲しく、恐ろしく、全てが不快だった。五感は時間の経過と共にさらに退化する。辛うじてわかったのは、産着に小さな鈴を添えられて、氷のように冷たい川に流されたこと。そして。

「清い鈴の音に導かれ、どうか鬼穴(きけつ)に落ちず、浄土へと招かれますように」

 そんな身勝手な願いを贖罪にして、庇護者は去った。影雀は右手で強く鈴を握り締め、心をどす黒く塗りつぶした憎悪と共に、暗い水の底へと沈んでいった。

 やがて、短すぎる命を終えた影雀の意識が覚醒したのは、浄土でも来世でもなかった。

 そこには、一筋の光もない闇が広がっていた。辺りは怒りや疑い、怠惰や後悔や、数えきれないほどの重苦しい感情の(おり)に支配されている。時と共に、それらは煮詰まりいくつかの塊へと凝固して、俗鬼となり鬼穴から地上へと這い出した。

 青い俗鬼の一部となった影雀には、自我はない。俗鬼となれば、その身体を動かすのは別の人格であるからだ。影雀はいわば傍観者のように、ぼやける意識のなかで俗鬼の行動を眺めていた。そう、あの日までは。

「おい、お、鬼が出たぞ」

 人間が石を投げる。この俗鬼は、人を食おうとはしない温厚な鬼だった。しかし、人間が鬼の凶暴性を瞬時に見極めるのは困難だ。俗鬼は袋叩きに遭い、そうして呆気なく死んだ。

 一つに纏まっていた、影雀を含む負の感情たちが、まるで鱗が落ちるようにぼとぼとと地に染み込んで、再び鬼穴に還っていく。影雀もそうなるはずだった。しかし、それを引き留めたのは、かつて片割れであった少女の名だった。

「奈古女、奈古女? どこへ行ったの」

 自分の代わりに生き延びた姉が、奈古女と名づけられたことは、どうした理屈か知っていた。呼ばれたのは、ただ同じ名を持つだけの赤の他人かもしれない。だが、影雀の精神を地上に留めるには十分だった。

 少し探せば、目的の姿はすぐに見つかった。

 三歳ほどのまだ幼い女児が、茅葺き屋根の下で膝を突き、何かを両手で柔らかく包んでいる。

「奈古女、ああ、こんなところに。鬼が出たばかりなのだから、一人でお外に出たらいけませんと言ったでしょう。母さん心配したのよ。いったいどうしたの」

 奈古女は顔を上げ、少しぼんやりとした眼差しで母を見上げ、手に包んでいたものをおずおずと差し出した。それは、こと切れた雀の雛だった。

「この子、ひとりみたい。助けてあげないと」

 母親は、眉尻を下げてああと呻き、小さく首を振った。

「もう死んでしまっている。きっと巣から落とされたのね」

 見上げれば、茅葺き屋根の間から親雀の尾が覗いている。自らの不注意だったのか、兄弟から蹴落とされたのか。とにかくこの雛は一家を追い出され、短い命を終えたのだ。

 幼い奈古女は状況を理解し切れていないながらも、雀の雛を大切そうに撫でた。

「どうして落とされちゃったの。家族なのに」
「奈古女……」
「雀さん、寂しかったね。大丈夫、奈古女が一緒にいるよ」

 母親は息を詰まらせ唾を嚥下して、涙を堪えながら奈古女の手のひらごと雀を包み込んだ。そして、呟いた。

「ごめんなさい、すずめ……」

 ——寿子女(すずめ)

 それが、決して呼びかけられることのなかった己の名であったのだと気づいた影雀は、急速に自我が蘇るのを感じた。

 憎い。この母親は我が子を見殺しにした。

 妬ましい。姉は、自分の代わりに命を終え鬼にまでなった妹がいたことをまだ知らず、愛されながら育っている。

 あの雀の一家のように、あぶれた者を排除して、残された者たちだけでのうのうと暮らし、罪悪感を覚えることもなく……。いいや、違う。違うとわかっているのだけれど。

「すずめ、すずめ」
「母さん、どこか痛い? 雀さん、可哀想?」

 何も知らない奈古女が、母の頭を撫でる。普段から彼女自身も、そうして宥められているのだろう。影雀も、その輪に入れるはずだった。だが、叶わなかった。

 母は涙を拭うと奈古女の頬を撫でた。

「ううん、何でもない。さあ、その子を埋めてあげようね」
「うん」

 雀は村の端に埋められた。小さな土饅頭の上に何の変哲もない石を置いただけの、ささやかな墓だ。しかし影雀にはそれが、家族から弔われることのなかった己の墓標であるかのように思え、言い知れぬ充足感が、どろどろとした憎悪を浄化していくのを感じた。

 しゃん、と鈴の音が響いた気がした。川に沈む時、強く握り締めていた、小さな鈴。影雀は清涼な幻の音に身を委ねた。

 しばらくして気づいた時、影雀は死んだ雀の影に憑依していた。

 そうして己の運命を受け入れた影雀は、母の胎内で交わした約束を果たすため、奈古女の前に姿を現した。かつて誓ったように、姉が生涯を終えるまで、共に過ごすことを願ったのだ。