「うわー大変だ、若殿逃げてー」

 緊迫した空気を切り裂いて、気の抜けるような声が割り込んだ。

 皆の視線が声の出どころへと集まる。見れば、斜面から緑色の塊が転がり落ちて来て、勢いそのまま大鬼(たいき)の腰辺りに激突した。予期せぬ攻撃をしたたかに受け、大鬼が体勢を崩す。その好機を逃す真均(まさひと)ではない。

 振り上げられた刀身が陽光を弾き、鈍く光る。刃は迷いなく閃き、丸太のように逞しい大鬼の首を半ばまで斬り裂いた。断ち斬るには及ばないものの、致命傷であるのは明らかだ。

 鮮血を撒き散らしながら、どう、と横倒しになり、大鬼は血だまりの中で痙攣する。やがて、川面を睨んでいた瞳が淀み、大鬼は動かなくなった。

 今度こそ、終わったのか。大きく息を吐き、奈古女(なこめ)は真均の隣に寄り添い、懐紙(かいし)を手渡した。

「若殿、お怪我はありませんか」
「ああ、大丈夫だ」
「あの子たち、双子でしょうか。産着が似ています。でも、どうして二人とも捨てられて……不吉だと忌まれて捨てられるのは、後に生まれた方だけのはずなのに」
「口減らしだろう。それよりも」

 真均の鋭い目が、砂利の上で硬直している影雀を貫いた。

「いったい何のつもりだ、影雀(かげすずめ)

 影雀は答えず、じっと人間たちを見上げている。その顔には嘴の突起しかないため、感情は読めない。

「影雀、どうしたの」

 奈古女が意図して柔らかい声で問うが、影雀は居心地悪そうに羽根を微かに膨らませるだけだ。痺れを切らし、真均が声を荒げる。

「なぜ鬼を庇った」
「だ、だってあの子は」
「だっても何もない! まさか、おまえ自身が鬼ゆえに、同族を守ろうとしたのではないか!」

 言ってから真均は、まるで自分自身が言葉に刺されたかのように顔をしかめ、荒々しい動作で刀の露を払う。それから、いくらか抑えた声音で吐き捨てた。

「……消えろ。納得のいく説明ができるようになるまで、俺の前に姿を現すな」
「若殿、そんな」

 取りなそうとする奈古女に鋭い一瞥が降ってくる。思わず口を閉ざした奈古女。影雀は軽く身震いして膨らんだ羽根を戻してから、言葉を残さずに地を蹴って飛び立った。

「影雀」

 小さな影は、森の中へと飛び込んだ。やがて羽音や葉擦れの余韻が秋風に溶け去ってから、真均は少し肩を脱力させ、足元で目を白黒させている緑色の塊に視線を落とす。

「助かったぞ、あくび。だが、なぜここにいる」

 そう、脱力を促すような雄叫びと共に斜面を転がり落ちて来たのは、鬼頭の館の家僕である緑色の俗鬼、あくびだったのだ。あくびは何度か瞬きをした後で、軽く首を傾けて答えた。

「えっと、どうしてだっけ……うーん、あ、そうだ。清高(きよたか)様がね、清めの波動が生まれたところに奈古女様がいるから、そこで合流しなさいって言ったのー」
「清高が? 無事なのか」
「うん、狭いところで縄に繋がれているけど元気だよー。それでね、若殿に伝言。清高様は『命尽きるまで、あなた様に仕えます』って言ってたよー」

 真均は息を呑み、軽く拳を握ってから頷いた。

「そうか、伝言ご苦労だ。それで、館の様子は」
「えっとねー」

 あくびは首を揺らしながら、言葉を選ぶ。

「今ね、大殿は大殿じゃないんだよー」
「やはりそうなのか。父上の姿をしているのは大鬼だな」
「うん、そうー。でも皆気づいてないみたい。でもほんとなのー。これ、大殿の髪の毛だよー」

 あくびは、旅の間に半分ぼろ切れのようになった衣の懐から、赤い(もとどり)を取り出して真均に手渡した。

「髻? なぜ」

 真均の顔色が変わる。無理もない。父が髻を切られるなどという屈辱を受けたと知れば、到底平常心ではいられない。あくびは、真均の声が帯びた不穏な調子に気づかないのか、無邪気な口調で続ける。

「大殿はね、鬼導丸(きどうまる)なんだよー。だから髪の毛ふさふさなの。本物の大殿は髪の毛をおいらに切られたまんま、お墓の下にいるんだよー」

 鬼頭の大殿の髪色は特徴的だ。この場に赤髪の髻があるということはつまり、我が物顔で館を治めている大殿の頭髪が短くなっていないのであれば、それは彼が偽物であるという証にもなる。あくびの行動は、この状況下において理に適っていた。

「……鬼導丸とは誰だ?」

 動揺を静めるため、大きく息を吐いてから発せられた真均の問いに、あくびは手を引っ込めてから答える。

「ずっと前に討伐された()(つの)って鬼の息子なの。純鬼(じゅんき)の生まれだけど、いっぱい人や鬼を食べて、強い大鬼になったんだー」
「三つ角」

 自らの父親と言われる鬼の名を呟き、真均は眉間の皺を濃くしながら言う。

「鬼頭の館の者は、父の姿をした鬼導丸に従っているのだな。因縁の、三つ角の息子に」
「そうなのー。皆、大殿が鬼導丸だって気づかないのー。でも大殿が大殿じゃないなら、今は若殿こそが、鬼頭の館の主なんだよー」

 あくびの言葉に虚を衝かれたかのような顔をして、真均はゆるゆると首を横に振った。

「しかし、俺は鬼頭の血筋ではない」
「うーん、でも大殿は若殿を若殿にしたんだよー」
「俺の額に角がなかったからだろう」
「難しいことはわかんないけど、若殿のことが嫌いだったら、若殿にはしないんだよー。だからその髪の毛を持って、鬼頭の館に戻って欲しいのー」

 真均は、血に汚れた手のひらを開き、握り締めていた父の髻を見つめた。彼の心の中は今、葛藤に満たされているのだろう。

 自分も鬼の印を持つ。ならば、鬼狩りの武者らを束ねる棟梁として、不適格なのかもしれない。郎党らに己の角を目撃された後で、堂々と鬼頭の館の敷居を踏むのは躊躇われる。一方で、あくびの主張はもっともだ。このまま何もせず、東国を鬼の手に委ねるなど言語道断である。ならば、鬼頭の後継者である真均こそが旗印となり、悪しき鬼どもから人の地を奪還するべきなのだ。

 しかし真均は煮え切らない。

「……少し考えさせてくれ」

 低く言い、(きびす)を返す。川の水で刀身をすすぎ、手や頬に付着した返り血を洗い流すと、振り返りもせずに細い道を人里の方へと下り始める。

「あ、待ってください、若殿。どちらへ」
「じきに夜がくる。野宿をして鬼の餌食になりたくはないからな、ここへ来るまでの間に無人の(いおり)があっただろう。今宵の宿にする」

 奈古女はあくびと顔を見合わせてから、並んで真均の背を追った。

 真均の言葉通り、気づけば日は傾いて、木々の間から赤みを帯びた光が斜めに差し込み川面を照らしていた。