鬼の棟梁と魂欠けの巫女

 ――おまえ、本当に鬼なのか。これほど綺麗な目は見たことがない。

 清高(きよたか)の運命を変えたのは、彼のその一言だった。

 親の顔など知らない。己の名すらも存在しない。ただ、この額には角があり、人間とは相容れない存在である。幼き日の清高にとっては、それだけが自明のことだった。

 鬼と対峙をすれば会話の余地もなく、食うか食われるか、逃げるか逃げられるかの攻防が始まった。人の輪に入ろうとすれば、恐れられ農具や刀で排斥された。

 だが、幼い鬼が一人きりで生きるのは不可能だ。生まれつき歩き言語を解す俗鬼(ぞっき)ならばともかくとして、この身は人と同じように赤子の姿で生まれて時と共に成長するらしいのだ。ならば、自我が芽生えるまでの間、世話をしてくれた存在がいたはずなのだが、思い出そうとしても何の記憶も蘇らなかった。

 生きるため、食事をせねばならない。だが、他の鬼を狩るほどの膂力はないし、かといって穀物や野菜を恵んでくれる庇護者もいない。それゆえ、幼い名無しの鬼は、この日も里に忍び込み、ささやかな盗みを働いていた。

 夜陰に紛れれば、ほとんどの場合、試みは成功を収める。しかし此度は運悪く姿を認められてしまい、鬼狩りの武者に山へと追い込まれてしまった。

 全身に傷を作り、心にはさらに大きな痛みを抱え、必死の形相で山中を彷徨った。気力が萎え、気づけば巨木の根本に倒れ込んでいた。

 ざくり、と頭の横で、枯葉を踏む音がする。ああ、ここまでかと命の終わりを察した。

 虚しく短い生涯だったと思った時、意図せず唇から、死後の安寧を願う経の文言が零れ落ちていた。いつどこで誰に教わったものなのか、わからない。だが、それを唱えると心が浄化されて、賤しい盗人である己の全てが清いものに塗り替えられていくような心地がした。

 突如として御仏に縋り始めた鬼の姿を目にし、周りを囲んでいた武者らの間に、戸惑いが流れる。騒めく空気を制したのは、意外なことに少年の声だった。

「おい、待て。刀を下せ。……おまえが、麓の里を騒がせた鬼なのか?」

 瞼を上げるのも億劫だ。無視を決め込もうとしたが、声の主は動かずに、じっと待っている気配がする。仕方なく顔を上げれば木漏れ日の下、身なりのいい童水干(わらわすいかん)姿の少年が、物珍しさを隠そうともせず、こちらを見下ろしていた。どうやら年齢的に同世代らしい。

 名無しの鬼はぼんやりと靄がかかったかのような意識の中、反射的に言葉を返していた。

「俺がその鬼だとしたら、君も石を投げ、刀を振るうのか?」

 少年は意外そうに少し眉を持ち上げて、じっと名無し鬼の瞳を見つめた後、迷いのない動作で手を差し伸べた。

「悪い鬼ならばそうする。だが、御仏に願う心のある者を、話も聞かずに斬るのは人の行いではない」
「だが、俺は鬼だ」
「この俺も、実は鬼の子じゃないかと陰口を叩かれているのだから、おまえと大して変わりない」
「鬼? 角もないのに」

 少年の形のよい額は滑らかで、できものの痕一つもない。鬼の証を持たないというのに、いったい何をぬかすのか。小さく鼻を鳴らした名無しの鬼に、少年は少し物言いたげな表情を向けてから、促すようにして更に手を伸ばした。

「とにかく、俺の館に来い。家僕の鬼ならたくさんいるから、きっと受け入れてもらえる。おまえ、名は?」

 答えたくないわけではないが名などない。少年は、沈黙する名無し鬼の腕を無遠慮に掴んで引いて、至近距離で瞳を覗き込んだ。

「じゃあ清高と呼ぶ。今日から俺の従者になれ。拒否することは許さない。……なあおまえ、本当に鬼なのか。これほど綺麗な目は見たことがないぞ」

 言いたいだけ言い、行くぞと強引に立たされる。不遜に感じるほど堂々とした立ち居振る舞いに眉をひそめてもよかったが、彼の言葉を耳にした途端、無音の世界がもう一度音を取り戻したかのような心地がして、抗うことはできなかった。

 呆然として少年に腕を引かれながら、屈強そうな武者らの間を抜ける。一呼吸おいて、背後から当惑混じりの苛立ちを帯びた男の声が追ってきた。

「お、お待ちください若。この鬼は、盗人なのですよ」

 若、と呼ばれた少年は、松明を掲げた男が横に並ぶとちらりと見上げただけで足を止める様子はない。少年はただ、淡々と答える。

「盗人ならば裁きにかけて、相応の罰を与えろ。それにこいつは純鬼らしい。仲間に引き入れれば、鬼に対する戦力になるかもしれない」
「しかし、殿が何とおっしゃるか」
「父上は、俺の行いになど興味をお示しにならない。これは全て俺の独断だ。おまえたちに非はない。いつも通り、手に余る小僧が無理を言って聞かなかったのだとでも報告し、保身に走れ」

 子どもとは思えないほど辛辣な啖呵を切り、若君はすたすたと進む。怒りに顔を赤くした男は舌打ちと同時に歩調を緩め、背後の武者らと合流したようだ。

 二人の少年から少し距離を空けて武者たちが従い歩く。

「鬼は鬼を庇いたがるものなのだろう」

 誰かが忌々しげに呟いたのが聞こえたが、若君は意に介した様子もなく、前を見据えたまま山道を下った。その横顔は頼もしく、どこか寂しげにも見える。

 若君は、仲間の批判にも応じず、盗人の鬼を救ってくれた。名をくれ、貴人の従者という役割を命じ、生きる意味をもたらしてくれた。

 清高は、微かに強張る少年の頬を見つめ、生涯この若君を支えていこうと誓ったのだった。
「おい、飯だぞ」

 陰鬱な声と同時に納屋の扉が開き、砂埃で靄がかった白い光が差し込んだ。薄暗い空間に囚われているものだから、淡い陽光ですら、眼球を焼きそうなほど眩しく感じる。

 蒸した玄米を包んだ葉と水差しを抱えてやって来たのは、人間の子どもほどの大きさの黄色い俗鬼(ぞっき)。彼は、納屋の梁から吊るした縄で拘束されて地べたに腰を下ろした清高(きよたか)と目を合わせようとはせず、少し離れた地面に食事を置いてそそくさと去って行った。

 清高の両腕は、内手首を合わせるようにして互いに結ばれている。不便ではあるが、握り飯を食うには困らない。清高は貪るようにして僅かな食糧を胃に流し込むと、喉を鳴らして水を飲み、口元を拭って大きく息を吐いた。

 鬼頭(きとう)の館を震撼させた事件の晩から、今日で二十一日目である。清高は、日が昇る度に土に線を引き、経過日数を記録していた。

 館の敷地の片隅にあるこの納屋は、主殿からは程遠い。それゆえ、あの晩以降の状況については明確には把握できていない。だが、見慣れぬ俗鬼ばかりが食事を運んで来ることや、未だ鬼導丸(きどうまる)が大殿を演じていることから推察するに、館内の人員は一掃されたのだろう。館の主が壮健な姿を見せているのだから、惨事を知る者がいなければ、何とでも言い訳が立つ。おそらく、あの晩に居合わせず命拾いした者らには、突如として湧いた鬼穴により館の家僕や郎党が全滅したとでも説明したのだろう。

 鬼導丸の真意は知れないが、わざわざ危険を冒して鬼頭の当主に成り代わるならば、人にとって不都合な策を企んでいるに違いない。鬼から人の暮らしを守る東国武者の棟梁が悪しき大鬼であるなど、あってはならないことだ。

 真均(まさひと)奈古女(なこめ)は逃げ切っただろうか。偽の大殿と、大鬼三紅(みくれ)の手から館を取り戻す手立てはあるのだろうか。清高は、土に刻まれた二十一の線を睨むように眺めながら、焦燥を押し殺す。

 曙を数えるのも、出された食事を米粒一つ残さず食べるのも、いつか反旗を翻す日が来ると願っているからだ。雌伏して時を待つ。ただそれが、清高にできる唯一の……。

「清高様、どうしたのー。大丈夫ー?」

 不意に、膝元から間延びした声がして、清高は思わず肩を震わせて視線を落とす。見れば、見慣れた緑色の俗鬼が心配そうにこちらを見上げていた。確か、奈古女につけていた家僕だ。

 突然の俗鬼の登場に、鼓動が一回二回飛んだ気がする。清高は止まっていた呼吸を整えてから、唾を飲み込んで言った。

「おまえ、確か」
「あくびだよー」
「あくび?」
「奈古女様が名前くれたのー」

 あまりにも安直な命名に、常であれば頬が緩むところだろうが、今はそれどころではない。

「そうではなく、おまえ、生きていたのか」
「うん。あの日ね、おいら(くりや)でお昼寝してたんだけど、騒がしいなぁと思って起きたら館中が大変なことになってて、とりあえず逃げたのー。でもね、俗鬼のおいらには行く場所がなくて、人間に石を投げられて怖かったからとりあえず戻ってきたー」
鬼穴(きけつ)に帰らないのか」
「あそこ嫌いー。どろどろぐるぐるした重たい感情ばっかりなんだもん。地上の方がよく眠れるー」

 鬼や人を食うことを望まない、人間に近い感性を持つ俗鬼は一定数存在する。あくびもそうした鬼の一体なのだろう。ならば、もしかすると、状況を打開する切り札になるかもしれない。

「あくび、若殿のことは好きか」
「若殿? うーん、嫌いじゃないよー。あんまり話したことないけど」
「では、奈古女様のことは」
「奈古女様、好きだよー。おいらに名前くれたしー」
「そうか、ならば頼みがある。奈古女様を探して、館の状況を伝えてくれ。清めの波動が生まれる場所に、彼女はいるはずだ。出立する前に、大殿の墓から(もとどり)を持って行け。あの赤い色合いの髪は印になる。髻を切られて一月もしないうちに、髪の長い大殿の姿が見えたら皆おかしいと思うだろう。この館に我が物顔で居座る大殿の正体が鬼であると証明する一助になるはずだ」
「ええーお墓を荒らしちゃだめなんだよ。それに、髻は大事なんだよー。切られるなんて、すっごい恥ずかしいことなんだよー」
「致し方ない。大殿もご理解くださるはずだ」

 通常、罪人でもないのに髻を切られることはない。だからこそこれは、大きな証拠になる。

 対外的には大殿は存命だ。そのため、貴人らしく法華堂(ほっけどう)に弔うどころか火葬すら叶わなかったが、清高の嘆願と三紅の気まぐれにより、棟梁の遺体は食い尽くされることなく、館の裏手にひっそりと埋められている。

「あくび、頼む。このままでは、人食い鬼食いの粗暴な鬼たちが、東国を蹂躙することになる。そうなれば、ゆっくり昼寝もできなくなるぞ」
「えー、それは困るー。うーんわかったよ。お墓掘りに行くねー」
「そしてそのまま奈古女様のところへ向かい、東一(とういち)様に伝えてくれ。清高は命尽きるまで、あなた様に仕えると」
「わかったよー。清高様、元気でねー」

 少し気づかわしげな目で清高を見上げてから、俗鬼は板壁の小さな裂け目に身体をねじ込ませて外へ出た。

 あくびの姿が消え、再び静寂が訪れると、純鬼の清高は瞼を閉じて神仏に祈った。どうかこの混乱を制すのが、悪鬼ではなく人でありますようにと。
「助力はできないだと?」

 低く抑えられてはいるものの、部屋中を震撼させるほどの怒気を孕んだ真均(まさひと)の声が、巫女装束を纏った巫頭(かんなぎがしら)を打つ。

「正気か。東国武者の棟梁館が、鬼に占拠されているのだぞ。東に鬼が満ちれば奴らが次に侵略するのはこの西国だ。それにもかかわらず、見て見ぬふりをすると言うのか」

 片膝に手を突き前傾しつつ、真均が凄む。隣に座す奈古女(なこめ)は、彼が放つ激しい怒りに怯えを抱くことはなく、むしろ同調している己に気づいた。

「巫頭様。私からもお願いします。私、実際に東国に赴き、理解しました。夜毎、遠くから届く清めの波動だけでは、鬼穴を塞ぎ尽くすことはできません。埒が明かないんです。大きな穴が一晩に二つ出るのなら、東国には二人の巫女が必要です。三つなら三人。四つなら四人です」

 落ちこぼれ巫女であった奈古女が精一杯の勇気を絞り出して進言する姿に、巫頭は微かに目を細めてから首を横に振った。

「最初から、鬼頭に遣る巫女は一人だけと取り決めたはず。そこの奈古女を差し出したのだから、巫の宮はこれ以上、東国に巫女は遣れませぬ」
「あの時とは状況が違う」
「鬼頭の若殿よ。西国巫女の人数が、必要十分だとでもお思いか」

 真均は口を閉ざし、見る者をすくみ上がらせるほどの眼光で巫頭を睨んだ。対する老齢の女はほんの一欠片も動じた様子なく、淡々と続ける。

「ただでさえ巫女の素質を持つ者が足りないのです。大局的にお考えいただきたい。軽々しく巫女を東へ遣り、百年前のように鬼に食われてしまったら、西国から送られる清めの波動はいっそう不十分な量になり、本末転倒ではありませぬか」

 巫頭は、反論できない二人の顔へ交互に視線を向けて諭す。

「鬼頭の館が鬼に占拠されだというあなたのお話、私とて、事態は憂慮しています。しかし百年前の教訓を生かさぬ愚は犯せない。ご理解いただきたい、鬼頭の若殿。そして奈古女よ」

 真均が唇を噛み締めた。やがて、これ以上説得の余地はないと思ったのだろう。彼は黙って腰を上げ、挨拶もなしに大股で遣戸(やりど)を引いて廊下に出る。

「若殿、待って!」

 奈古女は慌てて後を追う。敷居を跨ぐ直前、じっと注がれる眼差しを感じて振り返れば、巫頭と目が合った。彼女の老いた顔には深い皺が刻まれて、長年の責務による疲労が透けて見えるようだった。

 巫の宮を出てから、ほんの一ヶ月ほど。それでもいざ離れてみれば、これまで恐れすら抱き、認められたいと切望してきた巫頭が、記憶よりもずっと弱々しい印象を纏って見えるのだから不思議だ。

 奈古女は口元を引き結び、目礼して部屋を辞す。巫頭の正義は、国全体にとっては正しいことなのだろう。鬼頭の事情とは相容れないだけのこと。

 道は分たれた。もう二度と、彼女の前にやって来ることはないのかもしれない。
 鬼頭(きとう)の館を出てから一月あまり。(おおやけ)には、館を襲った鬼は棟梁が指揮する東国武者により討伐され、東国は平穏を取り戻したと伝わっている。だが、奈古女(なこめ)たちは、それが真実ではないことを知っていた。影雀(かげすずめ)が夜陰に紛れ、偵察に行ったからだ。

 影雀曰く、あの晩、三紅(みくれ)の額に角を見た郎党家僕は皆処分され、今や何も知らない武者たちが館を守り、意図せず鬼の勢力に(くみ)しているらしい。

「父上は、母上の姿をした鬼を許したのか?」

 真均(まさひと)の疑問はもっともだ。影雀はちゅんちゅんと旋回しながら毒を吐く。

「そんなわけないでしょ。多分、大殿はもういないのよ」
「どういうこと?」
「奈古女、あんたもお馬鹿なの? 大殿の姿はあるのに事件の発端となった鬼を側に置いているってことは」
「つまり」

 真均は感情を押し殺した声音で唸るように言った。

「父上は鬼に食われた。そして、棟梁のふりをしているのは敵の大鬼(たいこ)だ。鬼頭の館は鬼の巣窟となり果てたということだな」

 ならば敵は強大だ。だからこそ、(かんなぎ)の宮の助力を頼りにしていたのだが、巫頭(かんなぎがしら)には呆気なく拒絶されてしまった。

 巫の宮の敷地から出ると、商店露店が立ち並ぶ参道に出る。東国で密かに勢力を増す鬼のことなど知る由もない明るい客引きの声と呑気な物見遊山客の喧騒を尻目に、真均は歩調を緩めることなく進み、やがて東の山際にある街道の入り口へと向かった。

 東国と西国を分かつ、小さな山だ。涼やかに乾いた秋風が、汗ばんだ肌を撫でる。枯れ葉と木々の実りの匂いがぐっと強くなる辺りまで人里から離れると、真均は街道沿いの木の根にどかりと腰を下ろし、苛立ちが治まり切らない様子で汗を拭った。

「あの、若殿」

 呼びかければ、鋭い眼差しが、立ったままの奈古女を見上げる。出会ったばかりの頃は、その眼光に怯えたものだが、今や動じることはない。彼の近寄り難い態度は、己の心を強く保ち鬼の角に吞み込まれないようにしようという、自己防衛から身についたものである。真均は決して、理不尽に他者の心身を打ち据えるような人間ではない。

 奈古女は真均の視線を真っ直ぐ受け止めて言った。

「こうなったからにはもう、巫女の清めには頼れません。鬼に洗脳されていない郎党を集め、武力をもって館を奪還するしかないのでは」

 巫の宮の協力が見込めないならば、清めの波動で鬼を鬼穴(きけつ)に封じ尽くすという正攻法は困難だ。しかし。

「郎党にとっては、俺こそが鬼の子だ。対して敵の親玉は鬼頭の当主の姿を取っている。騒ぎが大きくなっていないことから察するに、奴は上手く父上を演じている。()(つの)と同じように、角を隠すこともできるのだろうな。今さら俺が郎党に助力を求めても、捕まって敵の前に引き出されて終わりだ」
「じゃあどうすれば」
「隠密に行動するしかないだろう」

 真均は、積もった枯れ葉の辺りに視線を固定したまま、思案げに顎を撫でた。

「知性の低い低級鬼に顕著なことだが、鬼は本能的に、上級の存在に従うものだ。上級鬼の機嫌を損ねれば、食われかねないからだ。ならばそれを逆手に取ればいい。上級鬼がいなくなれば奴らは統制を失うどころか、館を占拠する意義すら失うはずだ」
「つまり、敵の首魁を?」
「父上を食った鬼と、母上の姿をした鬼。大将二人を討てば全てが終わる」
三紅(みくれ)様も」

 顔色一つ変えない真均に対し、奈古女の方がむしろ、顔を青くした。

「でも、三紅様は若殿の」
「あれはもう母ではない! ……和香(わか)の姿をした大鬼を俺が刺した時、おまえも同じことを言っただろう」

 許婚を殺めてしまったと嘆いた真均に対し、海辺の丘で奈古女は確かにそう言った。それは間違いないのだが。

 和香が食われる瞬間は、しかと見た。それゆえ、彼女はすでに人ではなく、大鬼が化けた存在なのだとすんなりと腹落ちしたものだ。

 しかし三紅は。あの空恐ろしい女が、最初から鬼であったのだとすれば納得できそうなものだが、なぜか心に蟠るものがあるのも確かだ。その理由はわからない。ただ、真均が三紅に刃を向ける様を脳裏に思い浮かべれば、胸がざわざわと騒ぐのだ。

 だが、言語化できないものに捉われていても詮なきこと。奈古女は頭を振って雑念を一掃すると、真均の隣に腰掛けた。

「そもそも、大将を討つなんて、私たちにできるんでしょうか」
「一つ、策がある。上手くいく保証はないが……」

 その時だ。

 ——うあ、うああああん。

 不意に、街道沿い、下方に向かう斜面の方から、弱々しい赤子の泣き声が上がり、梢を揺らした。

 奈古女と真均は顔を合わせ、どちらからともなく立ち上がり声の方へと足早に向かう。枯色が(まば)らな下草越しに見下ろすと、やや下った場所に沢があり、水際には産着に包まれた赤子がぽつりと放置され、泣いていた。

「大変!」
「いや、待て」

 反射的に茂みに足を踏み出しかけた奈古女の腕を、真均が掴んで引き止める。

「奈古女、見ろ」

 険しい顔をしながら顎先で示された辺りを見れば、褪せた緑と枯色の下草の間で異質な青黒い塊が蠢いている。目を凝らし、それが青い俗鬼の姿だと理解した奈古女は、声を潜めながら真均の袖を引いた。

「急がないと。あの子が食べられてしまいます」
「だが、距離がある。むやみに近づけば先を越されて終わりだ」

 真均は袖を捲り(えびら)から矢を抜くと弓を引き絞り、青鬼の額に狙いをつけた。鬼は、茂みから飛び出す頃合いを測るように、首を巡らせ辺りの様子を窺っている。やがて、己を狙う弓の気配を感じたのか、青黒い顔が斜面を見上げる。そして。

 ひゅん、と(やじり)が風を切る。瞬く間に青鬼の額に矢が刺さる。生気を失った瞳を呆然と奈古女たちに向けたまま、鬼は背中から草の間に沈んでいった。

「すごい……」

 知らずのうちに詰めていた息を吐き、奈古女が呟いた時だ。赤子の泣き声が先ほどとは比べものにならないほど高くなった。産着の傍ら、昼の日差しに煌めく清流の中から、どろりとした墨汁のような闇が這い上がる。奈古女は喉の奥で引きつったような悲鳴を上げた。

「鬼穴」
「俺が時間を稼ぐ。おまえは神楽を舞い、あれを塞げ」

 言うなり、真均は抜刀して器用に斜面を滑り下りた。奈古女は咄嗟に動けず神刀を抱いたまま鬼穴を凝視していたが、影雀に頭頂を蹴られて我に返る。

「何ぼんやりちてんのよ。さあ、足を動かして」

 言い終わる頃にはすでに、影雀は近くの岩場に止まり、器用に足を捌いて踊り始めている。小さな翼持ち上がり、右翼の内側に浮かぶ唯一の模様である白い鈴のような斑点が、奈古女を誘うように見え隠れした。
 奈古女(なこめ)は、刀身を覆っていた白布を剥ぎ、岩の上に無造作に置くと、影雀(かげすずめ)と共に舞った。前へと滑り、後ろ、前、後ろ、それから斜め前。片足を軸に一回転して、神刀を振る。しゃん、と鈴の音が木々の間をこだまして、どこからともなく青白い清めの光が集ってくる。

 光を誘導し、鬼穴(きけつ)に導いてもいいのだが、ここからでは若干の距離がある。鬼穴から湧く俗鬼(ぞっき)らは、今のところ全て真均(まさひと)に斬られて穴の底に沈んでいる。しかし、いつ強大な大鬼(たいき)が出てくるかわからない。ことは、一刻を争う事態なのだ。あの穴を塞げるのは今、奈古女しかいない。ならばとるべき行動はただ一つ。

 奈古女は腹の底に力を込めて覚悟を決めると、神刀で青白い光を薙ぎ、糸を巻くように刀身に纏わりつかせた。それから、見様見真似で東国武者のように刀を構え、半ば転がり落ちながら斜面を駆けた。

「あ、ちょっと奈古女!」

 影雀が慌てて追って来る。奈古女は、産着の中で動かない赤子の隣をすり抜け、真均に並ぶ。

「若殿、引いてください!」

 突如乱入した奈古女の姿に真均は軽く眉を上げたものの、すぐに意図を察したらしい。半身を翻し鬼穴の正面を譲り、振り返り様に、地上に這い出してしまった青い俗鬼の首を刎ねた。

 その血しぶきが袖にかかるのも厭わず、奈古女は川から歪に溢れ出した闇色の中央に切先を突き立てる。

 その途端、鬼穴の底から、生温く黴臭い暴風が吹き上げて顔を打つ。風の唸りが、まるで慟哭のように奈古女の耳に響く。青白い清めの光に穿たれた闇は、次第に萎み始めるのだが、最後のあがきとばかりに、青黒い俗鬼が押し合いへし合い勢いを増して地上へと腕を伸ばした。

 細い出口に同時に身体を滑り込ませるのは無理がある。わらわらと突き上がる腕、足、頭部、部位の不明な青黒い皮膚……。俗鬼の骨が軋み、砕け、骨片が肉を裂く粘性の異音が奈古女の全身の肌を粟立たせた。

 威勢よく飛び出した奈古女だが、無様にも恐怖で身がすくんでしまう。神刀を鬼穴に押しつける力が弱まり、刀身が、むくむくと湧く俗鬼の肉塊に押し上げられる。その柄頭を真均が両手で掴み、鬼穴に押し込んだ。

「押せ、奈古女!」

 耳元で叱咤され、奈古女は反射的に柄を握り直し全体重をかけた。

「うわー」
「いたいー」
「しずむー」

 あらぬ方向に四肢を折り曲げた俗鬼らが、無邪気にすら聞こえる叫びを上げながら漆黒の沼の奥へと沈んでいく。やがて、まるで傷口が塞がるように、黒い亀裂が収縮して水底に消える。たった今まで鬼穴があった場所には、元通りの穏やかな流れが戻り、かき乱された小石が清水に舞うだけだった。

 終わった。

 奈古女は荒い息を吐きながら水面を見つめ、ぼんやりと水鏡に映る真均と視線を重ねてから顔を上げた。神刀を地面に突き立てたまま、危機を乗り越えた二人は顔を見合わせる。真均の額には玉のように汗が浮いており、奈古女自身も、纏った小袖がじっとりと湿っているのを感じた。

 互いの息遣いばかりが大きく響く川辺。呼吸を整え、先に動いたのは真均だった。彼は視線を川原に落とすと膝を突き、先ほどまで鬼穴があった場所の側に横たわっている産着を抱く。赤子の顔の辺りの布を指先で押しのけ、真均は小さく息を呑んで動きを止めた。

 奈古女は屈み、赤子の顔を覗き込む。薄汚れた産着に包まれた赤子の顔面は、青白い。とうに命を終えた者のそれだった。

「間に合わなかったの?」
「いいや、だがそれにしては」

 真均が低く言った時だった。少し離れた木陰から、ぐちゃりと悍ましい咀嚼音が響いた。顔を向けると、青い俗鬼が四つ這いになり、地面に転がる鮮血に染まった産着に顔を突っ込み口元を蠢かせているのが見えた。

「ああ……」

 全身から冷たい汗が噴き出した。奈古女は思わず呻き、瞠目する。その声に気を引かれたのか、俗鬼は産着から顔を上げた。赤黒く染まった顔面。恍惚を浮かべた俗鬼が口の端を持ち上げると、ぬらぬらと血の色に光る牙が剥き出しになる。

 どうやら、もう一人赤子がいたらしい。だが時すでに遅く、すでに俗鬼の餌食になっていた。

「泣いていたのはあちらの赤子か」

 真均が憎々しげに声を絞り出し、刀を手にして鬼の方へと向かう。

 青い俗鬼、いいや、人を食い大鬼になったばかりのそれの皮膚が、黒い粒子を纏いながら脈打ち歪な瘤に覆われた。やがて輪郭が歪み、縮小して、生後間もない赤子の姿となり、砂利の上で弱々しい泣き声を上げ始めた。先ほど奈古女たちの耳を捉えたものと同じ声だった。

「悪趣味な。害のないふりをしても無意味だぞ」

 真均が低く言葉を落とす。眉間に深い皺を刻みながら足を進め、か弱い赤子の胸の上に、刀の切先を向けて狙いをつけた。

 木々の間を駆け抜ける乾いた風が、真均と赤子姿の大鬼の間を通り抜ける。しばしの躊躇の末、柄を握り直し、いよいよ突き立てようとした、その瞬間。

「待って!」

 梢から、羽音を響かせて黒い弾丸が飛び出した。

「待って、その子はだめよ!」

 翼の裏に、白い班がある。影雀(かげすずめ)だ。

 不意の体当たりが真均を襲う。小さな雀とはいえ、ただでさえ躊躇いを帯びていた切先は軌道を逸らし、大鬼のすぐ横の地面を抉った。

 その一瞬の隙を、大鬼が突く。

 突如、首もすわっていないはずの赤子が目を剥きむくりと上体を起こした。そのまま急速に肥大化し、青黒い肌の大鬼姿となるまでに、さほど時間はかからなかった。

 呆気に取られる真均を目がけ、人間よりも一回り大きな体躯をした大鬼が、長い爪の生えた手を伸ばす。

「わ、若殿」

 一拍遅れて状況に追いついた奈古女が、川底に刺さったままの神刀を引き抜き駆け出した。しかし、やや距離がある。到底間に合わないと察し、奈古女は叫ぶ。

「お願い、逃げ」
「うわー大変だ、若殿逃げてー」

 緊迫した空気を切り裂いて、気の抜けるような声が割り込んだ。

 皆の視線が声の出どころへと集まる。見れば、斜面から緑色の塊が転がり落ちて来て、勢いそのまま大鬼(たいき)の腰辺りに激突した。予期せぬ攻撃をしたたかに受け、大鬼が体勢を崩す。その好機を逃す真均(まさひと)ではない。

 振り上げられた刀身が陽光を弾き、鈍く光る。刃は迷いなく閃き、丸太のように逞しい大鬼の首を半ばまで斬り裂いた。断ち斬るには及ばないものの、致命傷であるのは明らかだ。

 鮮血を撒き散らしながら、どう、と横倒しになり、大鬼は血だまりの中で痙攣する。やがて、川面を睨んでいた瞳が淀み、大鬼は動かなくなった。

 今度こそ、終わったのか。大きく息を吐き、奈古女(なこめ)は真均の隣に寄り添い、懐紙(かいし)を手渡した。

「若殿、お怪我はありませんか」
「ああ、大丈夫だ」
「あの子たち、双子でしょうか。産着が似ています。でも、どうして二人とも捨てられて……不吉だと忌まれて捨てられるのは、後に生まれた方だけのはずなのに」
「口減らしだろう。それよりも」

 真均の鋭い目が、砂利の上で硬直している影雀を貫いた。

「いったい何のつもりだ、影雀(かげすずめ)

 影雀は答えず、じっと人間たちを見上げている。その顔には嘴の突起しかないため、感情は読めない。

「影雀、どうしたの」

 奈古女が意図して柔らかい声で問うが、影雀は居心地悪そうに羽根を微かに膨らませるだけだ。痺れを切らし、真均が声を荒げる。

「なぜ鬼を庇った」
「だ、だってあの子は」
「だっても何もない! まさか、おまえ自身が鬼ゆえに、同族を守ろうとしたのではないか!」

 言ってから真均は、まるで自分自身が言葉に刺されたかのように顔をしかめ、荒々しい動作で刀の露を払う。それから、いくらか抑えた声音で吐き捨てた。

「……消えろ。納得のいく説明ができるようになるまで、俺の前に姿を現すな」
「若殿、そんな」

 取りなそうとする奈古女に鋭い一瞥が降ってくる。思わず口を閉ざした奈古女。影雀は軽く身震いして膨らんだ羽根を戻してから、言葉を残さずに地を蹴って飛び立った。

「影雀」

 小さな影は、森の中へと飛び込んだ。やがて羽音や葉擦れの余韻が秋風に溶け去ってから、真均は少し肩を脱力させ、足元で目を白黒させている緑色の塊に視線を落とす。

「助かったぞ、あくび。だが、なぜここにいる」

 そう、脱力を促すような雄叫びと共に斜面を転がり落ちて来たのは、鬼頭の館の家僕である緑色の俗鬼、あくびだったのだ。あくびは何度か瞬きをした後で、軽く首を傾けて答えた。

「えっと、どうしてだっけ……うーん、あ、そうだ。清高(きよたか)様がね、清めの波動が生まれたところに奈古女様がいるから、そこで合流しなさいって言ったのー」
「清高が? 無事なのか」
「うん、狭いところで縄に繋がれているけど元気だよー。それでね、若殿に伝言。清高様は『命尽きるまで、あなた様に仕えます』って言ってたよー」

 真均は息を呑み、軽く拳を握ってから頷いた。

「そうか、伝言ご苦労だ。それで、館の様子は」
「えっとねー」

 あくびは首を揺らしながら、言葉を選ぶ。

「今ね、大殿は大殿じゃないんだよー」
「やはりそうなのか。父上の姿をしているのは大鬼だな」
「うん、そうー。でも皆気づいてないみたい。でもほんとなのー。これ、大殿の髪の毛だよー」

 あくびは、旅の間に半分ぼろ切れのようになった衣の懐から、赤い(もとどり)を取り出して真均に手渡した。

「髻? なぜ」

 真均の顔色が変わる。無理もない。父が髻を切られるなどという屈辱を受けたと知れば、到底平常心ではいられない。あくびは、真均の声が帯びた不穏な調子に気づかないのか、無邪気な口調で続ける。

「大殿はね、鬼導丸(きどうまる)なんだよー。だから髪の毛ふさふさなの。本物の大殿は髪の毛をおいらに切られたまんま、お墓の下にいるんだよー」

 鬼頭の大殿の髪色は特徴的だ。この場に赤髪の髻があるということはつまり、我が物顔で館を治めている大殿の頭髪が短くなっていないのであれば、それは彼が偽物であるという証にもなる。あくびの行動は、この状況下において理に適っていた。

「……鬼導丸とは誰だ?」

 動揺を静めるため、大きく息を吐いてから発せられた真均の問いに、あくびは手を引っ込めてから答える。

「ずっと前に討伐された()(つの)って鬼の息子なの。純鬼(じゅんき)の生まれだけど、いっぱい人や鬼を食べて、強い大鬼になったんだー」
「三つ角」

 自らの父親と言われる鬼の名を呟き、真均は眉間の皺を濃くしながら言う。

「鬼頭の館の者は、父の姿をした鬼導丸に従っているのだな。因縁の、三つ角の息子に」
「そうなのー。皆、大殿が鬼導丸だって気づかないのー。でも大殿が大殿じゃないなら、今は若殿こそが、鬼頭の館の主なんだよー」

 あくびの言葉に虚を衝かれたかのような顔をして、真均はゆるゆると首を横に振った。

「しかし、俺は鬼頭の血筋ではない」
「うーん、でも大殿は若殿を若殿にしたんだよー」
「俺の額に角がなかったからだろう」
「難しいことはわかんないけど、若殿のことが嫌いだったら、若殿にはしないんだよー。だからその髪の毛を持って、鬼頭の館に戻って欲しいのー」

 真均は、血に汚れた手のひらを開き、握り締めていた父の髻を見つめた。彼の心の中は今、葛藤に満たされているのだろう。

 自分も鬼の印を持つ。ならば、鬼狩りの武者らを束ねる棟梁として、不適格なのかもしれない。郎党らに己の角を目撃された後で、堂々と鬼頭の館の敷居を踏むのは躊躇われる。一方で、あくびの主張はもっともだ。このまま何もせず、東国を鬼の手に委ねるなど言語道断である。ならば、鬼頭の後継者である真均こそが旗印となり、悪しき鬼どもから人の地を奪還するべきなのだ。

 しかし真均は煮え切らない。

「……少し考えさせてくれ」

 低く言い、(きびす)を返す。川の水で刀身をすすぎ、手や頬に付着した返り血を洗い流すと、振り返りもせずに細い道を人里の方へと下り始める。

「あ、待ってください、若殿。どちらへ」
「じきに夜がくる。野宿をして鬼の餌食になりたくはないからな、ここへ来るまでの間に無人の(いおり)があっただろう。今宵の宿にする」

 奈古女はあくびと顔を見合わせてから、並んで真均の背を追った。

 真均の言葉通り、気づけば日は傾いて、木々の間から赤みを帯びた光が斜めに差し込み川面を照らしていた。
「俺の名が元は真人(まさひと)であったということは、以前話したな」

 日が暮れて、薄暗い(いおり)の中。冴え冴えと照る満月が格子越しに投げかける光が、奥に無造作に立てかけられた斧や背負い籠を仄かに浮かび上がらせている。

 決して広くはないものの、鬼が潜んでいるかもしれない山中で夜を明かす危険を考えれば、扉のある場所で横になれるだけありがたい。

「あの名をもらった時、俺の中に生まれたのは強い憤りであり、寄る()をなくした赤子のように途方に暮れる思いでもあった」

 近くの沢で旅の埃を流し人心地ついた頃、真均(まさひと)はぽつぽつと語り始めた。彼の心の柔らかな部分に触れる話題に、奈古女(なこめ)は戸惑いながらも姿勢を正し、ただ静かに耳を傾ける。

「強固な鎧を纏っていたこの心が、音を立てて崩れていくような気がしたものだ。そうして額が疼き、違和感を覚えて庭の池に顔を映すと……これがあった」

 真均の指先が、彼の額に生まれた親指ほどの大きさの角を弾く。

「あの日までは、自分に角が生えるなどとは考えたこともなかった。もちろん、生まれる前から、鬼頭の嫡男は鬼の子なのではないかと陰で囁かれてはいたのは知っている。()(つの)の息子だから角を自在に出し入れできるのだろうとも言われていた。だが、一度たりとも角など出たことがないのだから、ただの鬱陶しい噂だと思うだけだった。しかし」

 真均は額から手を下ろし、蜘蛛の巣が張る部屋の角辺りを、見るともなしに眺めた。

「あの日、俺は自分が鬼であることを知った。そしてその事実を、母からも突きつけられた」
三紅(みくれ)様から?」

 思わず声を上げてしまう。真均は頷いた。

「ああ。何かに囚われたかのように池を見つめる息子を見つけ、妙に思ったのだろう。母上は俺の方へと歩いて来た。反射的に顔を上げて目が合った途端、恐れと悲嘆にじわじわと凍りついていく母上の表情の動きが、今も脳裏に焼きついて離れない。そして、母上は言った。『ああ、鬼の血が伝わってしまったのね』と」
「そんな」
「母上は最初から知っていたのだ。息子の父親が三つ角であると」

 そうでなければ、鬼の血が伝わってしまったなどという言葉は飛び出さない。奈古女は言葉を失い、膝の上で拳を握った。このように大きな秘密を抱え、孤独に耐えて鬼頭の若殿としての責務を全うすべく己を律してきた真均。その苦悩はいかほどだろうか。

 しばらく黙り込んだ後、真均はふと視線を戻し、奈古女に向けて自嘲の笑みを浮かべる。

「まあ、そんなつまらない過去に囚われる小さな男なのだ、俺は」
「そんなことは」
「昼は、曖昧な態度を取ってすまなかった。だが、心配するな。無様な弱音を吐いたが、一晩もすれば元に戻る。なすべきことは心得ている。俺が三つ角の子であるのなら、鬼導丸(きどうまる)とやらは異母兄弟ということになる。身内の悪行には、責任を持ち制裁を下す」

 誰に何を言われようと、幼き日の真均は自分が人間であると信じていた。その願いが打ち砕かれ、支えを失い崩れ落ちた真均の心に巣食った絶望が、慟哭を宿した黒い瞳を通して奈古女の胸を刺す。

 彼はこれまで、ほとんど一人で苦しみに耐えていた。弱音を吐くことを嫌悪し、怯えてすらいた。そして今、そんな自身の弱さを奈古女にさらけ出してくれている。

 この人の心を、守りたい。

 強い感情が身体の奥底から湧き上がり、気づけば奈古女は膝立ちになって腕を伸ばしていた。ふわり、と真均の頭部を包み込む。腕の中で、たじろぐ身じろぎを感じた。

「おまえ、何を」
「大丈夫。何も怖くなんてありません。私の前では心を隠さないでください。弱音を吐いたっていいんです。泣いたって気にしません」
「泣きなどするものか」
「虚勢を張らないでください」
「虚勢だと?」

 途端に怒気を帯びた低い声を腕の力を強めて封じ、奈古女は言葉を絞り出す。

「痛みを堪える若殿を見ると、私が辛いんです」
「痛みなど、俺は……」

 真均の言葉尻が、外で鳴く虫の声に溶けて消えた。

 束の間、沈黙の帳が下りる。やがて、真均は手を伸ばし、奈古女の腕を掴んでやんわりと引き離すと、正面から視線を合わせた。

「なるほど、確かに俺は人並みに傷つく弱さを持っているらしい。だが奈古女。おまえはなぜ、そうも親身になる」

 いったいなぜなのだろうか。奈古女は、真均の黒い瞳に漂う微かな戸惑いを見つめ、過去を回想しながら唇を動かした。

「多分、あなたが私に生きる意味をくれたからです」

 大袈裟な言葉に、真均は怪訝そうに目を細める。奈古女は視線を逸らさずに続けた。

「私は落ちこぼれの巫女でした。ずっと自分に失望していて、いつかは誰かの役に立ってみたいと願っていました。それなのに、何の努力をするでもなく、仲間の巫女の陰に隠れて息を潜めて過ごしてきた弱い人間なんです。でも、若殿に出会い東国に行って。最初に見た鬼穴の側で、若殿が私を頼りにしてくれた時、初めて自分の存在意義を感じることができました。だから私は、若殿の役に立ちたいんです。生まれて初めて、私を頼ってくれたあなたを支えたい」

 それはある意味では正しく、ある意味では不十分な説明であるように感じられた。だが、奈古女には、己を衝き動かした感情の全貌がまだ見えない。

「俺は正真正銘の鬼だぞ。鬼に義理立てしてどうする」
「清高様やあくびのように、人と寄り添い合える鬼もいます。実際、私の唯一の友達、影雀は鬼です」

 ああ、と真均は頷いて、掴んだままだった奈古女の腕を放す。手のひらから伝わっていた熱が去り、奈古女の胸を冷やして疼かせた。その寂寞はしかし、次に続く真均の言葉で意識の外へと吹き飛んだ。

「白状する。実は、東国に連れて行く巫女は最初、別の女だった」
「はい?」

 何の脈絡もない「白状」に、奈古女は目を丸くする。真均は意に介した風もなく、淡々と続けた。

「だが、(かんなぎ)の宮に滞在した晩、敷地の端で雀姿の異形の鬼と親しげに舞うおまえを見て、どうしようもなく心引かれたのだ。だから俺は、おまえを求めた。きっと最初から、おまえならば俺の鬼である部分にも寄り添ってくれると期待していたのだろう」

 そういえば、と奈古女は回想する。東国へ向かう前の晩、神楽に失敗し、その日の清めを台無しにしてしまった後のこと。奈古女は確かに影雀の元を訪れて、弱音を吐き、共に舞ったのだ。

 その際、藪を揺らした何者かの気配があったことを思い出す。奈古女は、あっと声を漏らした。

「まさか、あれは若殿だったんですか」

 真均はただ奈古女を見つめるばかり。返る言葉はないが、それが回答なのだろう。

 奈古女の東国行きに、そのような事情があったとは。てっきり、巫の宮から厄介払いするため、巫頭(かんなぎがしら)が指名したのだと思っていた。だが、そうではなかった。奈古女は最初から選ばれ、必要とされていたのだ。

「……初めてお会いした時の様子からは、そうは見えませんでしたけど」

 朝霧けぶる早朝、巫頭の部屋で初対面した折、突然の東国行きに動揺する奈古女に苛立ち、真均は畳を打って声を荒げた。その瞬間、奈古女の中で鬼頭の若殿は、粗暴で恐ろしい男だと印象づけられてしまった。

 思わず、といったように零れた奈古女の言葉を耳にして、真均はきまり悪そうに顔をしかめる。

「悪かったな、気が短くて」

 少し口を尖らせたような表情がいつになく子どもじみて見え、奈古女は頬を緩めた。すかさず見とがめた真均が、いっそう不機嫌顔になるので愛嬌がある。

「何だ」
「いいえ、何も」

 どうやら、普段とは立場が逆転したようだ。真均の眉間に刻まれた不本意そうな皺に、本物の怒りは見えない。対する彼は、奈古女の顔からどのような感情を読み取っただろうか。

 至近距離で互いの瞳の色を確かめ合う。次第に頬に熱が籠り、どこかしっとりとした暖かな空気が庵の中に満ちたような錯覚を覚えた。

 そのまま、瞳同士が引き寄せられるように二人の距離が近づいた。気づけば柔らかく唇が重なっていて、甘美な痺れが全身を突き抜ける。鼓動が跳ね、慄き微かに離れた隙間から、意図せず小さく吐息が漏れた。その僅かな距離すら許さぬというように、真均の手のひらが奈古女の後頭部を押さえ、いっそう深く繋がって……つまり今、奈古女はいったい何をしているのだろう。

 ふと我に返り、咄嗟に腕を突っ張って、密着しかけていた身体を押しのけた。

「そ、そそそそういえば!」

 艶めいた空気を破り裏返った声を上げた奈古女を、真均が熱の冷めきらない瞳のまま怪訝そうに眺める。奈古女は混乱する頭で、床に手を突いて膝を後ろに滑らせながら、ずりずりと距離を置こうとした。

「か、影雀! 影雀はどこに行ったのかしら。そろそろ反省しているかもしれないから、私、ちょっと探しに」
「それは後でいい」

 逃げ腰な腕を掴まれて早々に動けなくなった奈古女は、情けなくも小さく声を上げ、燃えるように熱い顔を俯かせて息を潜めた。

「嫌か」

 頭頂に、熱を帯びた声が降って来る。

「望まぬというなら無理強いはしない。だが、そうでないならば」

 真均の手のひらが、頬に触れる。意外にも優しい所作で促され顔を上げれば、真摯な色をした瞳に貫かれる。

「そうでないなら、拒まないでくれ」

 ――鬼であるこの身を、拒絶しないで欲しい。

 言葉の真意を正確に汲み取った奈古女は大きく息を吸い込んで、火照り潤んだ目で視線を受け止めた。ああ、そうか。彼の心を守りたいと願うのはきっと……。

「若殿、その言い方は、ずるいです」

 奈古女はわざと少し棘のある口調で言って、愛おしい人の温もりを求めて自ら手を伸ばした。
影雀(かげすずめ)、見つけたー」

 影雀が止まった枝の真下から、無邪気な声が立ち上がり夜の静寂を揺らした。間延びしたあの声は、緑の俗鬼(ぞっき)あくびに違いない。

 夜陰に紛れ、常緑樹の枝に姿を隠していたのだが、いったいどうやって影雀のことを見つけたのだろう。ひとまず無視を決め込んだ影雀だが、空気の読めないあくびは、よいしょよいしょと難儀しつつ、影雀のいる枝まで登って来た。

「ねえ、若殿と仲直りしないのー?」
「うるさいわね。あの男の言う、納得のいく説明とやらが思いつかないのよ」
「ふーん?」

 あくびは枝に跨り足をぶらぶらとさせながら言った。

「じゃあおいらが一緒に考えてあげるよ」
「結構よ。それよりあんた、何でこんなところにいるの。怠惰の俗鬼でしょ。睡眠不足になるわよ。ただでさえ猫みたいに寝るんだから」
「若殿が、影雀を探して来いって言うからー。無事連れて帰ったらね、丸三日間お休みをくれて、ずっとごろごろしてていいよって言うのー」
「つまり厄介払いされたってことね」
「厄介。おいら、厄介なのー?」
「何でもない。こっちの話よ」

 影雀はこれ見よがしに溜め息をつき、翼を広げて一つ上の枝に飛び移った。

「あ、待ってよー」
「ついて来ないでったら。ほっといても朝になったらちゃんと帰るわよ。あんたに連れ戻されたってことにちてあげる。そちたら三日の休みももらえるんだから、それでいいでしょ」
「うーん。やっぱりだめー」
「何でよ!」

 つき纏ってくる俗鬼に辟易し、思わず声が高くなる。あくびは堪えた様子もなく枝を渡る。

「影雀、悩んでるみたいなんだもんー。考え過ぎるとね、鬼穴(きけつ)が湧いちゃうんだー。そうでなくとも、鬼が撒き散らす負の感情は、人のやつよりも大きいんだから」
「うるさいわね。そっくりそのまま、若殿にも言ってやりなさい」
「若殿。角が出たり入ったりする鬼なんて不思議だよー。若殿、本当に鬼なのかなー」
「ちらないわよ。()(つの)、だっけ? 父親が角を隠す鬼なんでしょ」
「三つ角はいっぱい鬼を食べた強い大鬼だったからー。でも若殿は、鬼も人も食べてないよー」
「じゃあ、あたちみたいに中途半端な鬼なんじゃないの」

 あくびは目をぱちくりとさせた。

「影雀は中途半端さんなんだね。どうして中途半端さんになったのー」
「あんたには関係ないでしょ」
「うん。関係ないー。だから影雀、お話していいんだよー。おいら関係ないから、影雀の秘密を聞いても何も起こらないー」

 確かにそうかもしれない。幼児のような喋り方をする俗鬼が不意に本質を突いたようなことを言ったものだから、影雀は妙に感心した。

 これまで奈古女にも話さず、己の胸にのみ秘めてきた過去。封じたはずの苦い記憶は、日中、青い俗鬼に食われた捨て子を見てから蘇り、胸が疼いて治まらない。言葉として吐き出すだけでも、少しは気持ちが軽くなるだろうか。

 影雀は、いつの間にか隣に並んでいたあくびの横顔を窺って、邪気がないことを見て取ると一つずつ噛み締めるようにして、過去を語り始めた。






 ――お外に出たら一緒に遊ぼうね。それでね、幸せに暮らして、おばあちゃんになってもずっと仲良しでいるの。

 言葉を知らない胎児だった。しかし、声など出さなくとも、心は通じ合っていた。影雀にとって奈古女(なこめ)は、己の片割れであり、むしろ自分の一部であったのだ。

 母の胎内に宿った時、二人は一つの魂だった。それが二つに分離して、双子の女児となった。生まれ落ちる前からずっと、それだけが自明のことだった。

 奈古女は少し大人しい子で、影雀が語りかけてもはにかむような気配を出すだけで、多くの意思を伝えようとはしなかった。胎内で暴れるのはいつも影雀であり、奈古女は常に小さく丸まって、ただ影雀に寄り添っていた。

 魂が二つに分かれば、人の持つ性質や能力の種が、どちらかに偏ってしまうこともあるのだろう。影雀は奈古女の分まで活動的で、だからこそ、影雀は奈古女に姉の座を譲ることになる。

 ——ちょっと、早く行きなさいったら。

 なかなか産道に下りようとしない奈古女。彼女を残して影雀が先に生まれ落ちたなら、奈古女は母の胎から出てこないのではないか。心配になった影雀は奈古女を押し出すようにして、先に外界の光を見せてやった。だから奈古女は姉となり、影雀は妹となった。

 影雀は知らなかった。忌み嫌われる双子のうち、先に生まれた者は愛されて、後に生まれた者は最初からいなかったこととされ、母に抱かれることなく川に流される運命であることを。

 胎内ではあれほど明瞭だった思考も、赤子として生まれ落ちた瞬間を境に、靄がかかったかのように曖昧になり、何もわからず本能のまま泣き続けるだけの存在へと変化していった。ただ、悲しく、恐ろしく、全てが不快だった。五感は時間の経過と共にさらに退化する。辛うじてわかったのは、産着に小さな鈴を添えられて、氷のように冷たい川に流されたこと。そして。

「清い鈴の音に導かれ、どうか鬼穴(きけつ)に落ちず、浄土へと招かれますように」

 そんな身勝手な願いを贖罪にして、庇護者は去った。影雀は右手で強く鈴を握り締め、心をどす黒く塗りつぶした憎悪と共に、暗い水の底へと沈んでいった。

 やがて、短すぎる命を終えた影雀の意識が覚醒したのは、浄土でも来世でもなかった。

 そこには、一筋の光もない闇が広がっていた。辺りは怒りや疑い、怠惰や後悔や、数えきれないほどの重苦しい感情の(おり)に支配されている。時と共に、それらは煮詰まりいくつかの塊へと凝固して、俗鬼となり鬼穴から地上へと這い出した。

 青い俗鬼の一部となった影雀には、自我はない。俗鬼となれば、その身体を動かすのは別の人格であるからだ。影雀はいわば傍観者のように、ぼやける意識のなかで俗鬼の行動を眺めていた。そう、あの日までは。

「おい、お、鬼が出たぞ」

 人間が石を投げる。この俗鬼は、人を食おうとはしない温厚な鬼だった。しかし、人間が鬼の凶暴性を瞬時に見極めるのは困難だ。俗鬼は袋叩きに遭い、そうして呆気なく死んだ。

 一つに纏まっていた、影雀を含む負の感情たちが、まるで鱗が落ちるようにぼとぼとと地に染み込んで、再び鬼穴に還っていく。影雀もそうなるはずだった。しかし、それを引き留めたのは、かつて片割れであった少女の名だった。

「奈古女、奈古女? どこへ行ったの」

 自分の代わりに生き延びた姉が、奈古女と名づけられたことは、どうした理屈か知っていた。呼ばれたのは、ただ同じ名を持つだけの赤の他人かもしれない。だが、影雀の精神を地上に留めるには十分だった。

 少し探せば、目的の姿はすぐに見つかった。

 三歳ほどのまだ幼い女児が、茅葺き屋根の下で膝を突き、何かを両手で柔らかく包んでいる。

「奈古女、ああ、こんなところに。鬼が出たばかりなのだから、一人でお外に出たらいけませんと言ったでしょう。母さん心配したのよ。いったいどうしたの」

 奈古女は顔を上げ、少しぼんやりとした眼差しで母を見上げ、手に包んでいたものをおずおずと差し出した。それは、こと切れた雀の雛だった。

「この子、ひとりみたい。助けてあげないと」

 母親は、眉尻を下げてああと呻き、小さく首を振った。

「もう死んでしまっている。きっと巣から落とされたのね」

 見上げれば、茅葺き屋根の間から親雀の尾が覗いている。自らの不注意だったのか、兄弟から蹴落とされたのか。とにかくこの雛は一家を追い出され、短い命を終えたのだ。

 幼い奈古女は状況を理解し切れていないながらも、雀の雛を大切そうに撫でた。

「どうして落とされちゃったの。家族なのに」
「奈古女……」
「雀さん、寂しかったね。大丈夫、奈古女が一緒にいるよ」

 母親は息を詰まらせ唾を嚥下して、涙を堪えながら奈古女の手のひらごと雀を包み込んだ。そして、呟いた。

「ごめんなさい、すずめ……」

 ——寿子女(すずめ)

 それが、決して呼びかけられることのなかった己の名であったのだと気づいた影雀は、急速に自我が蘇るのを感じた。

 憎い。この母親は我が子を見殺しにした。

 妬ましい。姉は、自分の代わりに命を終え鬼にまでなった妹がいたことをまだ知らず、愛されながら育っている。

 あの雀の一家のように、あぶれた者を排除して、残された者たちだけでのうのうと暮らし、罪悪感を覚えることもなく……。いいや、違う。違うとわかっているのだけれど。

「すずめ、すずめ」
「母さん、どこか痛い? 雀さん、可哀想?」

 何も知らない奈古女が、母の頭を撫でる。普段から彼女自身も、そうして宥められているのだろう。影雀も、その輪に入れるはずだった。だが、叶わなかった。

 母は涙を拭うと奈古女の頬を撫でた。

「ううん、何でもない。さあ、その子を埋めてあげようね」
「うん」

 雀は村の端に埋められた。小さな土饅頭の上に何の変哲もない石を置いただけの、ささやかな墓だ。しかし影雀にはそれが、家族から弔われることのなかった己の墓標であるかのように思え、言い知れぬ充足感が、どろどろとした憎悪を浄化していくのを感じた。

 しゃん、と鈴の音が響いた気がした。川に沈む時、強く握り締めていた、小さな鈴。影雀は清涼な幻の音に身を委ねた。

 しばらくして気づいた時、影雀は死んだ雀の影に憑依していた。

 そうして己の運命を受け入れた影雀は、母の胎内で交わした約束を果たすため、奈古女の前に姿を現した。かつて誓ったように、姉が生涯を終えるまで、共に過ごすことを願ったのだ。
「ふーん、青い俗鬼(ぞっき)から零れ落ちた精神の塊? そんなことあるんだねー。じゃあ本当は、奈古女(なこめ)様のことが嫌いなのー?」

 語り終えた途端、ふわふわとした言動ながら核心を突かれ、影雀(かげすずめ)は束の間言葉に詰まる。

 憎くない。憎いと思ってしまえば、奈古女の側で生きるという、ささやかな存在理由すら失ってしまうのだから、姉を妬んではならないのだ。

「話聞いてた? あたちは母さんにもちゃんと愛されていたのよ。そりゃあ、奈古女を羨まちいと思う気持ちはあるけど、憎くなんてない」
「そうなのー? おいらなら、ちょっと嫌だなー。だって、奈古女様は人間で、鬼を食べなくても強くなれるし、友達もできて、石を投げられることもないし、それで」
「あんた、何なのよ」

 悪意なく傷を抉るようなあくびの言葉に苛立ち、影雀は声を高くした。

「やっぱり話すんじゃなかった。早くどっか行きなさいよ!」
「うわわ! 嫌な気分になっちゃった? ごめんね影雀ー。おいら、やっぱり難しいことわかんない」

 心底悲しそうに眉尻を下げるあくびを見て、途端に自分が悪者になったかのような心地がした。影雀はいくらか語気を緩める。

「……別に、悪気がないことくらいわかってるわよ。でも、お願い、ひとりにちて」
「うん、わかったよー。ふわああああ。そろそろ寝ようかなー」

 相当眠たかったのだろう。言うなりあくびは樹皮に爪を引っかけ器用に地上へ下りて、夜の闇に消えて行った。

 あくびの気配が去ると、影雀は大きく息を吐く。そして、宙に向けて澄ました声で呼びかけた。

「で、さっきからそこにいるあんた。盗み聞きなんて悪趣味ね」
「ほう、気づいておったか」

 闇に沈む夜の森が、ゆらりと揺れた。薄雲がかかったかのように景色がたなびいて、やがて収斂し、二本角の大鬼(たいき)の姿へと変化する。

 大鬼は、案外理知的な顔で影雀の隣に腰かけると、馴れ馴れしい笑みを浮かべた。

「数奇な運命よのう。そして、死んだ鬼から零れ落ちた精神が地上に留まるとは。異形の鬼には、未知の能力が秘められているかもしれぬな」
「誰よあんた。でかいんだから同じ枝に乗らないでくれる? 折れたらどうすんのよ」
「折れたら飛べばよいではないか。雀なのだから」

 大鬼は姿勢を改めるつもりないらしい。身体を影雀の方へと少し寄せたと同時に、枝が悲鳴を上げるように軋んだが気に留めた様子はない。

「のう、おぬし、本当は憎いだろう。姉のことが」
「あんたに何がわかるの」
「わかるさ。同じ鬼だから。我は俗鬼から大鬼になった。人間かぶれの純鬼とは違う。おまえの気持ちがわかるのは、人間でも純鬼でもない。負の感情から生まれ落ちた我らの方だ」
「だからお友達になろうって、そういうこと?」
「我らに友という概念など存在せぬよ」

 大鬼は低く笑い、影雀に口を寄せる。ずらりと並んだ鋭い歯が近づくが、不思議と恐怖は覚えなかった。大鬼は、囁いた。

「鬼の世界を作りたくはないか」

 影雀は顔を上げ、大鬼の巨大な顔を見た。

「鬼の世界」
「そう。負の感情から生まれ、負の感情のままに生きざるを得ない鬼たちが、人から迫害されることなく、鬼の本能のまま生きられる場所。呑気で幸福そうな人間らを妬むこともなく、彼らと隔絶された土地で暮らす。我らの理想郷だ」
「……どうやって、鬼の世界を作るの」

 用心深い口調で問えば、興味を引けたことに気をよくした大鬼は口の端を持ち上げた。

「東に、鬼を狩る武者がいる。その棟梁館を、我らの長が占拠した。東国は元々、鬼の土地だったのだ。それを、人間らが侵略し、開墾しただけのこと。我らのものを奪い返して何が悪い」
鬼頭(きとう)の館ね」
「知っていたか」

 影雀は、微かに金色を帯びる大鬼の瞳をじっと見つめ、それから首を横に振った。

「いいえ、話に聞いたことはあるけど、詳しくはちらないわ。で、あんた、あたちに何をちて欲ちいの?」

 夜風が吹き、木々が騒めいた。流された雲が満月を隠し、山は漆黒の(とばり)に包まれた。