鬼頭(きとう)の館を出てから一月あまり。(おおやけ)には、館を襲った鬼は棟梁が指揮する東国武者により討伐され、東国は平穏を取り戻したと伝わっている。だが、奈古女(なこめ)たちは、それが真実ではないことを知っていた。影雀(かげすずめ)が夜陰に紛れ、偵察に行ったからだ。

 影雀曰く、あの晩、三紅(みくれ)の額に角を見た郎党家僕は皆処分され、今や何も知らない武者たちが館を守り、意図せず鬼の勢力に(くみ)しているらしい。

「父上は、母上の姿をした鬼を許したのか?」

 真均(まさひと)の疑問はもっともだ。影雀はちゅんちゅんと旋回しながら毒を吐く。

「そんなわけないでしょ。多分、大殿はもういないのよ」
「どういうこと?」
「奈古女、あんたもお馬鹿なの? 大殿の姿はあるのに事件の発端となった鬼を側に置いているってことは」
「つまり」

 真均は感情を押し殺した声音で唸るように言った。

「父上は鬼に食われた。そして、棟梁のふりをしているのは敵の大鬼(たいこ)だ。鬼頭の館は鬼の巣窟となり果てたということだな」

 ならば敵は強大だ。だからこそ、(かんなぎ)の宮の助力を頼りにしていたのだが、巫頭(かんなぎがしら)には呆気なく拒絶されてしまった。

 巫の宮の敷地から出ると、商店露店が立ち並ぶ参道に出る。東国で密かに勢力を増す鬼のことなど知る由もない明るい客引きの声と呑気な物見遊山客の喧騒を尻目に、真均は歩調を緩めることなく進み、やがて東の山際にある街道の入り口へと向かった。

 東国と西国を分かつ、小さな山だ。涼やかに乾いた秋風が、汗ばんだ肌を撫でる。枯れ葉と木々の実りの匂いがぐっと強くなる辺りまで人里から離れると、真均は街道沿いの木の根にどかりと腰を下ろし、苛立ちが治まり切らない様子で汗を拭った。

「あの、若殿」

 呼びかければ、鋭い眼差しが、立ったままの奈古女を見上げる。出会ったばかりの頃は、その眼光に怯えたものだが、今や動じることはない。彼の近寄り難い態度は、己の心を強く保ち鬼の角に吞み込まれないようにしようという、自己防衛から身についたものである。真均は決して、理不尽に他者の心身を打ち据えるような人間ではない。

 奈古女は真均の視線を真っ直ぐ受け止めて言った。

「こうなったからにはもう、巫女の清めには頼れません。鬼に洗脳されていない郎党を集め、武力をもって館を奪還するしかないのでは」

 巫の宮の協力が見込めないならば、清めの波動で鬼を鬼穴(きけつ)に封じ尽くすという正攻法は困難だ。しかし。

「郎党にとっては、俺こそが鬼の子だ。対して敵の親玉は鬼頭の当主の姿を取っている。騒ぎが大きくなっていないことから察するに、奴は上手く父上を演じている。()(つの)と同じように、角を隠すこともできるのだろうな。今さら俺が郎党に助力を求めても、捕まって敵の前に引き出されて終わりだ」
「じゃあどうすれば」
「隠密に行動するしかないだろう」

 真均は、積もった枯れ葉の辺りに視線を固定したまま、思案げに顎を撫でた。

「知性の低い低級鬼に顕著なことだが、鬼は本能的に、上級の存在に従うものだ。上級鬼の機嫌を損ねれば、食われかねないからだ。ならばそれを逆手に取ればいい。上級鬼がいなくなれば奴らは統制を失うどころか、館を占拠する意義すら失うはずだ」
「つまり、敵の首魁を?」
「父上を食った鬼と、母上の姿をした鬼。大将二人を討てば全てが終わる」
三紅(みくれ)様も」

 顔色一つ変えない真均に対し、奈古女の方がむしろ、顔を青くした。

「でも、三紅様は若殿の」
「あれはもう母ではない! ……和香(わか)の姿をした大鬼を俺が刺した時、おまえも同じことを言っただろう」

 許婚を殺めてしまったと嘆いた真均に対し、海辺の丘で奈古女は確かにそう言った。それは間違いないのだが。

 和香が食われる瞬間は、しかと見た。それゆえ、彼女はすでに人ではなく、大鬼が化けた存在なのだとすんなりと腹落ちしたものだ。

 しかし三紅は。あの空恐ろしい女が、最初から鬼であったのだとすれば納得できそうなものだが、なぜか心に蟠るものがあるのも確かだ。その理由はわからない。ただ、真均が三紅に刃を向ける様を脳裏に思い浮かべれば、胸がざわざわと騒ぐのだ。

 だが、言語化できないものに捉われていても詮なきこと。奈古女は頭を振って雑念を一掃すると、真均の隣に腰掛けた。

「そもそも、大将を討つなんて、私たちにできるんでしょうか」
「一つ、策がある。上手くいく保証はないが……」

 その時だ。

 ——うあ、うああああん。

 不意に、街道沿い、下方に向かう斜面の方から、弱々しい赤子の泣き声が上がり、梢を揺らした。

 奈古女と真均は顔を合わせ、どちらからともなく立ち上がり声の方へと足早に向かう。枯色が(まば)らな下草越しに見下ろすと、やや下った場所に沢があり、水際には産着に包まれた赤子がぽつりと放置され、泣いていた。

「大変!」
「いや、待て」

 反射的に茂みに足を踏み出しかけた奈古女の腕を、真均が掴んで引き止める。

「奈古女、見ろ」

 険しい顔をしながら顎先で示された辺りを見れば、褪せた緑と枯色の下草の間で異質な青黒い塊が蠢いている。目を凝らし、それが青い俗鬼の姿だと理解した奈古女は、声を潜めながら真均の袖を引いた。

「急がないと。あの子が食べられてしまいます」
「だが、距離がある。むやみに近づけば先を越されて終わりだ」

 真均は袖を捲り(えびら)から矢を抜くと弓を引き絞り、青鬼の額に狙いをつけた。鬼は、茂みから飛び出す頃合いを測るように、首を巡らせ辺りの様子を窺っている。やがて、己を狙う弓の気配を感じたのか、青黒い顔が斜面を見上げる。そして。

 ひゅん、と(やじり)が風を切る。瞬く間に青鬼の額に矢が刺さる。生気を失った瞳を呆然と奈古女たちに向けたまま、鬼は背中から草の間に沈んでいった。

「すごい……」

 知らずのうちに詰めていた息を吐き、奈古女が呟いた時だ。赤子の泣き声が先ほどとは比べものにならないほど高くなった。産着の傍ら、昼の日差しに煌めく清流の中から、どろりとした墨汁のような闇が這い上がる。奈古女は喉の奥で引きつったような悲鳴を上げた。

「鬼穴」
「俺が時間を稼ぐ。おまえは神楽を舞い、あれを塞げ」

 言うなり、真均は抜刀して器用に斜面を滑り下りた。奈古女は咄嗟に動けず神刀を抱いたまま鬼穴を凝視していたが、影雀に頭頂を蹴られて我に返る。

「何ぼんやりちてんのよ。さあ、足を動かして」

 言い終わる頃にはすでに、影雀は近くの岩場に止まり、器用に足を捌いて踊り始めている。小さな翼持ち上がり、右翼の内側に浮かぶ唯一の模様である白い鈴のような斑点が、奈古女を誘うように見え隠れした。