「……五月七日か」
藍沢俊平は普段よりも早く目を覚ました。昨日でゴールデンウイークが終わり、今日は数日ぶりの学校だ。念のためスマホのアラームを設定しておいたが、結果的に予定時刻よりも三十分も早く目覚めてしまった。日頃から規則正しい生活は送っているが、今日に限ってはそれ以上に、無意識に日付を意識した結果なのだろうと俊平は冷静に受け止めていた。
「早く起きれたし、一品追加するか」
簡単に朝の支度を済ませると、俊平は朝食とお弁当用に調理を開始した。藍沢家は会社員の父親が単身赴任中で、看護師で夜勤も多い母親はこの時間は眠っていることが多い。その結果高校生の俊平は積極的に料理スキルを身につけ、自分の朝食と母親用の作り置き、昼食用のお弁当を調理するのが毎朝の習慣となっている。家庭環境の影響もそうだが、高校卒業後は進学し、一人暮らしをしようと考えているので、今のうちから積極的に家事スキルを高めようとしている部分もある。
時間に余裕があったので、朝食に一品追加で卵焼きを使うことにした。俊平は溶いた卵を卵焼きに流し込むと、焼きが入って固まってきた卵を丁寧に折り畳んでいき、綺麗な卵の層を作っていく。母親が眠っているのでテレビはつけない。穏やかな朝に、熱せられた油の音だけが響いていく。
料理をしている時間が俊平は普段から好きだったが、今日、五月七日の朝は普段以上にそれがありがたかった。こうして料理に集中している間だけは、五月七日の辛い記憶を忘れていられる。
※※※
「今日で二年か……」
一人の少女がベッドの上で目を覚ました。スマホで時刻を確認すると、五月七日の六時を示している。アラームよりも少しだけ早起きをした。昨夜は寝付けるか不安だったし、実際普段よりも時間がかかったけど、それなりに眠ることは出来た。
上体を起こすと、机の上に置いてある写真立てが目に止まった。そこには今よりもまだ顔立ちが幼い少女と、その隣にもう一人、背の高い大人びた少女が写っている。二人とも満面の笑みを浮かべて寄り添っており、とても仲が良さそうだ。
「芽衣お姉ちゃんの学年に追いついちゃったよ」
実の姉のように慕っていた大切な人。彼女の時間は二年前の今日に止まってしまった。もうあの頃には戻れない。それどころ自分だけが年齢を重ね、とうとう今年は同じ学年になってしまった。八月に誕生日を迎えたら年齢でも並び、来年にはとうとう追い抜いてしまう。少女は十五歳にして、時の流れの残酷さを感じずにはいられなかった。
「私が決着をつけるから」
少女はベッドから立ち上がると、机の引き出しから日記帳を取り出し、それをスクールバックの中へとしまった。
※※※
「まだまだ遊び足りねえええええ」
「実は彼氏とついにね」
「今年引退の先輩たちのためにも、もっと練習頑張らないと」
「青春って何だよ……」
「そうやって思い悩むことじゃないか?」
昼休み。都立緋花高校二年A組の教室は、ゴールデンウイーク明けということもあり、普段よりもたくさんの話題に溢れていた。
連休中に遠出したり。部活動に勤しんだり。あるいは自宅でのんびりと過ごしたり。各々が連休中の出来事を語り合い、昼食時の雑談を盛り上げていた。中には思考の沼にはまっている者もいたが、良き友人が隣にいるのできっと大丈夫だろう。これもまた青春の一ページだ。
「連休中はどうだった。俊平」
窓際最後列に座る矢神瑛介が、一つ前の席に座る藍沢俊平に尋ねた。朝は寝過ごした瑛介が遅刻してきたのでゆっくり話せていなかった。
「変わったことは何も。早めに宿題を片付けて、その後は近場をブラブラしたり、家で映画見たり。普段の休みと大差なかったな」
俊平は苦笑交じりに振り返り、椅子の背もたれに右腕をかけた。
「おいおい。ほとんど俺と同じじゃないか。真似すんなって」
「お前こそ真似するなって。冗談はさておき、予定のない休日の過ごし方なんてそんなもんだよな」
大仰に肩を竦めると、俊平は机に置いていた紙パックのお茶を啜った。今更だが、何か予定を組んで二人で遊んでも良かったかもしれない。
「映画は何を見たんだ?」
「あまり知られてない良作を発掘しようと思って、マイナーなタイトルを色々と試してみたんだが……はずれ感が半端なかったな」
連休中にサブスクで視聴した映画の数々を思い出し、俊平は遠い目をした。
サメ映画の派生形だろうか? 全ての足に重火器を装備したイカが襲ってくるアニマルパニック。衝撃のラストという触れ込みの下、主人公も犯人も、死んだはずの被害者も、全ての登場人物が笑顔でダンスを踊るという衝撃の大団円を迎えたサスペンス映画。主人公の顔芸のインパクトの方が強くて、以降のジャンプスケアがまったく物足りなくなってしまった勿体ないホラー映画などなど。
たまに見る分にはこういったマイナー映画も悪くないが、連休中に一気見したのがよろしくなかった。どんな作品でも一度見始めたらからには最後まで見なければ気がすまない俊平の性格も相まって、終盤は完全に胸焼け気味だった。瑛介を巻き込んでおけば、同じ苦しみを共有出来たかもしれない。
「あるあるだな。俺も経験ある」
「だけど、一本当たりもあったんだ」
「当たり?」
「時間を置いて最後に見た一本がなかなか面白くてさ。死んだ女の子のために、主人公が社会的に復讐していくサスペンスで、人によって好き嫌いが分かれそうな内容だけど、俺には結構刺さったな。色々と感情移入するところも多くて」
「復讐モノか。俺は正直苦手だな、そういうの」
瑛介が好むのはハートフルな映画やコメディー要素の強い映画で、シリアスな内容はあまり得意ではない。せめてフィクションの世界ぐらいはハッピーエンドを求めたいというのが瑛介の心情だ。
「俊平ってそういう映画を好むタイプだったか? 比較的俺に近い嗜好の持ち主だと思ってたんだが」
「新しい自分を発見ってやつだよ。普段見ないジャンルを見たら意外と楽しめた。ただそれだけ」
映画をより楽しむためには、食わず嫌いをせずに普段とは違うジャンルに手を伸ばしてみることも時には必要なのかもしれない。それが今回の連休で俊平が得た一つの学びだった。映画談議で思いのほか盛り上がっていると。
「お待たせ、二人とも」
馴染み深い声が聞こえ、俊平と瑛介が出入り口へと視線を移す。
俊平の隣の席の女子生徒、日向小夜を先頭に、友人たちが教室に戻って来たところだった。昼休みに入ると同時に、購買に昼食を買いに行った面々だ。俊平と瑛介は普段から弁当持参なので、買い物が終わるまで教室で待っていた。
「いつもより遅かったな」
隣の席に座った小夜に俊平が尋ねる。購買は校舎内にあるので買い物にそこまで時間はかからない筈なのに、小夜たちが教室を出てからすでに十五分経過していた。昼食に手をつけずに待っていた身としては、理由を聞きたくもなる。
「購買でダイナミックバーガーが出ててね。普通の買い物も一苦労」
「そういえば普段よりも購買の方が騒がしかったような」
ダイナミックバーガーとは不定期に購買で発売されるオリジナルメニューのことだ。ボリューミーかつ、購買らしく学生の懐にも優しい低価格で大人気のメニューとなっている。一度の販売数が極端に少なく、購買にはそれ目当ての生徒が大勢押しかけ混雑するため、通常メニュー目当ての小夜のような生徒も普段より買い物に時間がかかってしまっていた。
「面白い事もあったんだけどね」
「その様子、もしかして?」
「詳細はMVPの作馬くんから」
小夜の紹介に預かり、茶髪の毛先を遊ばせた作馬彰が自慢気に巨大なハンバーガーの包みを掲げた。
「俊平、瑛介。俺はとうとう伝説を手にしたぞ」
作馬の表情には選ばれし者にしか抜けない伝説の剣でも手に入れたかのような達成感に満ちている。それを見た俊平と瑛介は二人同時に「おお!」と感嘆の声を漏らした。
購買のハンバーガー一個に大袈裟かもしれないが、ダイナミックバーガーの入手難易度は非常に高い。普段購買を利用しない俊平と瑛介は見るのはこれが初めてだし、購買派の小夜や、今回見事にダイナミックバーガー作馬でさえも、これまでは一度も入手することが出来なかった。
「よくゲットできたな。何らかの違法行為か?」
ひとしきり褒めちぎった後、瑛介が人の悪そうな笑みを浮かべる。入手難易度の高いダイナミックバーガーをゲットした彰に強運に対する、瑛介なりの褒め言葉だ。
「違法行為前提なの止めろ。俺が買いに行った瞬間にダイナミックバーガーの販売が開始されてさ。混乱に巻き込まれる前に買えてラッキーだったよ。争奪戦になってたら俺は生き残れなかっただろうな」
人聞きが悪いと瑛介の脇腹を軽く小突くと、彰は瑛介の隣の席に座り、机の上でハンバーガーの包みを開き、その全貌を明らかにした。
「……こ、これは」
「噂以上だ。限定品とはいえ、うちの購買部はどうなってるんだ」
大きなバンズの間にタップリのレタスと照り焼きチキン、トマト、卵のディップがサンドされている。幅、厚みともにかなりのもので、ファストフード店のビックサイズのメニューにも引けを取らない。これで120円だというのだから、毎回争奪戦が繰り広げられるのも納得だ。
「私もゲットしちゃった」
彰より少し遅れてやってきた明るい髪色の女子生徒、南方唯香も声を弾ませている。結の手にもダイナミックバーガーの包みが握られていた。
「おっ、唯香もゲットしたのか」
「自力じゃなくて、彰のおかげだけどね」
「唯香も絶対にこういうの好きだからな」
どうやらダイナミックバーガーに遭遇した彰が唯香の分も買っておいてくれたようだ。幼馴染である彰と唯香は息ピッタリだった。
「全員揃ったし、お昼にするか」
唯香も到着したので、俊平がポンと手を打ち鳴らす。椅子や机を動かして食べやすい形を作ると、各々が昼食を机に広げた。
昼食のメニューは、俊平は自作のお弁当とペットボトルのお茶。瑛介は妹が作ってくれたお弁当と炭酸飲料。彰と唯香はある意味で本日の主役であるダイナミックバーガー、飲料は佐久馬が紙パックの緑茶で亜季がペットボトルのオレンジジュース。小夜が購買のコロッケパンと紙パックの野菜ジュースとなっている。
「うん! やや大味だけど、こいつは美味いぞ!」
豪快にダイナミックバーガーにかぶりついた彰が即座に反応を口にする。それだけ脳内にダイレクトに味が飛び込んできた。一見するとインパクト重視のネタ商品のように思えるが、味付けにも作り手のこだわりが感じられ、味良し量良しの超優良メニューであることが判明した。確かにいくらボリュームがあるとはいえ、味の評判も良くなければここまでの人気メニューにはなれないだろう。愛される理由というやつだ。
「うーん! 甘じょっぱい照り焼きソースと卵のマリアージュが最高!」
続けて口にした唯香の反応も上々だ。よっぽど気に入ったのだろう。口に付いた照り焼きソースを気にも留めずに、すぐさま二口目を頬張った。表現もさることながら、その姿こそが美味しさの何よりの証明だ。
「そんなに凄いのか?」
弁当派で普段は購買のメニューにはあまり興味を示さない瑛介だが、流石に目の前でこれだけ美味しそうな顔をされたら、その味が気になるようだ。もちろん一番好きなのは妹が丹精込めて作ってくれたお弁当だが。
「瑛介くんも食べてみる?」
そう言って唯香は、瑛介の方に食べ欠けのダイナミックバーガーを差し出す。
「申し出は嬉しいが、間接キスになるぞ?」
意外とピュアハートの持ち主な瑛介が真顔で指摘する。相手への配慮もそうだが、自身の気恥ずかしさもある。
「大丈夫、大丈夫。私の中で瑛介くんは男としてカウントされてないから」
「……そ、それはそれで複雑だな」
瑛介は唯香に対して恋愛感情を持っているわけでは無いが、まるで男としての魅力が無いような言われようのため、その表情はサスペンスドラマのワンシーンのように渋い。心で泣いている。
「じゃあ、俺も一口貰おうかな」
話に便乗して俊平が名乗りを上げる。下心などなく、純粋にダイナミックバーガーの味が気になっただけなのだが。
「……俊平くんだと少し恥ずかしいな、間接キスみたいで」
唯香は頬を赤らめて困惑している。その様子を見て、すかさず瑛介のツッコミが火を吐く。
「ちょっと待てえ! 明らかに俺の時とリアクションが違うだろ!」
「だって俊平くんって瑛介くんと違って爽やか系のイケメンだし、恋愛感情とか抜きにしても、女子なら絶対ドギマギしちゃうよ」
「つまり、俺は爽やか系のイケメンじゃないから緊張しないと」
「うん」
「さいですか」
唯香の即答を受け、瑛介は静かに突っ伏した。このまま机に埋没してしまうかもしれない。
「俺って爽やかイケメンな自覚あったんだけどな」
誰に問うでも無く瑛介は呟いたが。
瑛介の呟きを聞きとった他の四人は、無言で瑛介の方を見つめている。ネタなのか本気なのか判断に困っているような印象だ。
「お前ら! せめてセリフで突っ込め!」
あまりにも統率の取れたリアクションを取る四人に、瑛介がキレ気味にツッコミを炸裂させる。せめて「はっ?」とか一言でも言ってもらえないと生殺しである。
「悪い悪い、瑛介があまりにも的外れなことを言い出すからさ」
「いやいや謝ってないだろ、それは」
隣の俊平に瑛介が素早くツッコミを入れる。俊平も普段はどちらかというとツッコミ役なのだが、それを上回るツッコミ力を持つ瑛介が一緒の時はついついボケに回りたくなってしまう。
「なんか不平等な感じになっちゃってごめんね。申し訳無いから、間をとって男子には食べさせないことにするよ。というわけで小夜ちゃん、一口どうそ」
「私? うん、それじゃ一口頂こうかな」
「はい、あーん」
「美味しい! こんなに美味しいなら私も自分の分買えば良かった」
唯香に食べさせてもらった小夜もその味に感激し、幸せそうに口角を上げている。色々な意味で見ている方もお腹いっぱいだ。
「おい、俊平。お前が爽やかイケメンだったせいで、ダイナミックバーガーを食べそこなったぞ。どう責任を取ってくれるんだ?」
「文句を言うのはこっちの方だ。お前が爽やかイケメンじゃないから、俺の方こそ食べ損ねたじゃないか」
ダイナミックバーガーを試食する機会を失った俊平と瑛介が、不毛な争い、という名のプロレスを開始した。
「まあまあ、俺のバーガーを一口ずつ分けてやるから落ち着けよ、二人とも」
そう言って彰が食べ欠けのダイナミックバーガーを二人に向けて差し出す。仲裁者の登場で二人の睨み合いがピタリと止まり、一転、笑顔の花が咲く。
「ありがとう、佐久馬! 大好きだぜ、お前のこと」
抱きつかんばかりの勢いで瑛介が身を乗り出し、彰へと顔を近づける。
「お前に告白されてもな」
「告白じゃねえよ!」
再びキレ気味のツッコミが炸裂し、同時に周囲から笑いが起きた。
「とにかく食ってみろよ。うまいぞ~」
笑顔の佐久馬から瑛介がレジェンドバーガーを受け取る。
「美味!」
短い言葉だが、満面の笑みがそれ以上に美味しさを物語っていた。すでに味を堪能済みの三人は、そのリアクションに頷いている。
「ほれ、俊平。俺を上回る最高の食レポを頼むぜ」
レジェンドバーガーのバトンがリレーされ、そのまま俊平は口へと運ぶ。
「美味!」
数秒前のデジャブに一瞬場が静まるが、小夜を筆頭にすぐに全員から笑いがこみ上げてきた。
「俊平、リアクションが瑛介と同じじゃん」
「バレた?」
「俺の台詞で遊ぶなよ」
「遊んでない。お前のリアクションをリスペクトしたんだよ」
「いやいや、リスペクトの使い方がおかしいだろ」
そうは言いながらも瑛介は笑いを堪えている。意外とツボだったらしい。
「美味かったのは本心だよ。ありがとう作馬、良いもの食べれた」
「どういたしまして」
ダイナミックバーガーは元の持ち主である彰の手へと移る。味もさることながら、昼食時に一つの話題を提供できた喜びも大きかった。
「お前らが購買に行ってる間に俊平と話してたんだけど、連休はどう過ごしてた?」
昼食を終えたところで、瑛介が俊平以外の三人に話題を振った。今は食後のおやつタイムとなっており、持ち寄ったお菓子をみんなでつまんでいる。
「中学の時の友達とカラオケに行ったりしてたよ。それ以外はほとんど部活だったかな」
始めに答えたのは小夜だ。小夜はバレー部に所属しているため休日も何かと忙しくしている。大会を控えていて、精力的に活動しているので、休日とはいえ学校に足を運ぶ機会が多かった。
「俺は前半は親戚の家に遊びに行ってて。後半はこっちで遊び歩いてたけど。そういえば、俊平には一回会ったよな?」
「駅前でバッタリな。そういえば作馬。あの時お前が勧めてくれたイカの映画、正直微妙だったぞ」
「そうか? 水着のブロンド美女もいっぱい出てくるし最高だろ」
「いや、俺はあまり映画にエロスは求めないタイプだから」
求めるものが違ったらしく意見が分かれる。確かに水着シーンの多い映画だったが、俊平が求めていたのはモンスターパニック特有のハラハラ感だ。
「唯香は休み中どうだった?」
「お兄ちゃんが帰省してきてたから、一緒に遊びに行ったりしてたかな。お兄ちゃんが帰ってからは、友達と映画行ったりお買い物したり」
「何と言うか、連休っぽいな」
瑛介は感心し、俊平も同感と言わんばかりに頷いている。
「はあ、休みがもう少し長かったらな」
瑛介が溜息をつき、他の四人も「分かる」と口を揃える。連休明け特有の倦怠感は、この場にいる全員が共有していた。
「そういえば今日は、五月七日か」
不意に、作馬が黒板に記された日付に視線を移す。
「確か二年前の今日だったよな。この学校の女子生徒が屋上から飛び降り自殺したのって」
彰の一言で、その場に流れる空気が変わった。
「そういえばそんな話があったね。私達が入学する前の年だっけ?」
唯香が興味深そうに彰に尋ねる。噂ぐらいは知っているが、詳しい事情まで知らなかった。
「作馬そういう暗い話は止めておこうぜ。久しぶりの学校なんだしさ」
「そうだよ、作馬くん」
瑛介と小夜が作馬を制する。表面上は穏やかな笑みを浮かべているが、口調は早口で落ち着きに欠ける。焦っている証拠だ。
「今日この話題を話してる奴はけっこう多いと思うけど。新入生はもちろん、二年前のことをリアルタイムで知ってる三年生とかさ」
彰は純粋にゴシップとして語っており、唯香も興味深そうに相槌を打っている。それとは対照的に、瑛介と小夜の表情は複雑だ。無表情の俊平の顔色を二人が伺っているように見える。
「去年もけっこう話題になってたけど、美人で優等生の先輩だったらしいよな。何で自殺したのか、理由は謎らしいし」
「ということは、自殺しそうな理由が見当たらないのに自殺したってこと?」
「先輩はそう言ってた。なんだかドラマみたいな話だよな」
彰がそこまで言ったところで、沈黙を貫いていた俊平が静かに口を開く。
「作馬。もういいだろう」
俊平は俯いたまま彰に忠告する。口調こそ穏やかだが、明らかに普段の俊平とは様子が異なる。
「どうしたんだよ、俊平」
普段なら率先して会話を盛り上げる俊平がいつになく大人しい。彰は軽い調子で返すが、その態度が完全に俊平の逆鱗に触れてしまった。
「人が一人死んでるんだよ!」
俊平は勢い良く立ち上がり、感情に任せて激しく机を叩く。突然の大きな音と怒声にクラス中が静まり返り、同級生たちの視線が集中。気まずい沈黙が流れる。
「……悪い、ちょっと出てくる」
「お、おい、俊平」
彰の呼び止めに応じず、俊平は足早に教室を飛び出して行ってしまった。
「作馬。今のはお前が悪いぞ」
見かねた瑛介が口を開く。その表情は何とも苦々しい。
「……さっきの話、そんなに地雷だったのか?」
「地雷だ。だから止めただろうが」
彰の発言をたしなめ、瑛介は静かに語り始める。
「クラス替えで今年から一緒になったお前らは知らないだろうけど、二年前に自殺した橘先輩は、俊平や俺と同じ中学の出身なんだよ」
「そうだったのか……」
自らの失言を察し、彰はバツの悪そうな顔をする。昔からついつい余計なことを言ってしまう時があると自覚していたが、今回は最大級のやらかしだった。不謹慎には違いないが、自分たちが入学する前年に起きた出来事なので、あまり関係はないと楽観的に考えていた。
「俊平や俺だけじゃない。同じ学校の出身で、その話題で良い顔する人間は誰もいない。橘先輩は本当に良い人で、中学のころから先輩を悪く言う人間は誰もいなかった。そんな先輩が二年前この高校で自殺したんだ。先輩を知る俺らからしたら、とてもゴシップじゃ片づけられないんだよ」
瑛介にも苛立ちが見え隠れしているが、彰に悪気が無かったことも理解しており、感情的になることは抑えていり。瑛介は普段こそふざけてばかりの印象だが、同年代と比べると内面的には落ち着いている。
「去年もね、何も知らずに橘さんのことを面白可笑しく語ってる男子と俊平の間で激しい言い争いになったの。私も当時は事情を知らなかったから、かなり驚いたな」
当時の様子を思い浮かべ、小夜が目を細める。橘芽衣の自殺からまだ一年しか経っていなかった去年は、今年以上にその話題が注目されていた。本来人の死は、悼みはしても嬉々として吹聴されてよいものではない。しかし、刺激的な話題に敏感な若者の多い高校という環境だ。話題に飛びつく者も多かった。
それは去年、俊平たちが在籍していたクラスにおいても同じで、普段から悪ノリの目立つとある男子生徒が、知り合いでもない橘芽衣についてその人物像や自殺の理由に関して独自の推理を披露するという場面があった。その時の男子生徒が口にした内容はあまりにも荒唐無稽で、俊平が注意を促しても男子生徒はそれを聞き入れなかったため、意見を同じくする俊平や同じ中学の出身者と、男子生徒とその友人たちの間で激しい口論に発展した。冷静だった瑛介や、小夜を始めとした第三者の生徒が間に入ったことで暴力沙汰にはならなかったが、入学一ヶ月目ということもあり、数週間はクラス内には気まずい雰囲気が流れていた。
「……俊平が戻ってきたら、謝らないとな」
「私も無神経だった」
彰と唯香は反省を露わにし、沈痛な面持ちで目を伏せた。
「大丈夫。俊平のことだから、戻ってくるころにはケロッとしてるさ」
「そうそう。去年の一件だって、何だかんだで和解してたし」
二人を慰めるように、瑛介と小夜が優しく語り掛ける。気まずい雰囲気のままなら自分たちが間に入るし、例え衝突をしても仲直り出来るような友人関係であると確信している。だからきっと大丈夫だ。
「……言葉には責任を持たないとな」
「おう。肝に命じておけ!」
励ましのつもりで瑛介が彰の背中を叩くが、勢いが強すぎたようで、彰はバランスを崩した。
「痛いじゃないか!」
「悪い。ちょっと加減を間違えた」
猛抗議する彰と平謝りをする瑛介。そのやり取りを見た小夜と唯香が笑いを堪え切れずに吹きだした。笑いは瑛介と彰にも伝染し、張りつめた雰囲気が少しずつ解けていく。
※※※
「熱くなり過ぎたな……」
教室を飛び出した俊平は、宛ても無く校内をさまよい、自己嫌悪に陥っていた。
彰の発言に憤りを覚えたのは事実だが、だからといって感情的になって教室を飛び出すというのは、あまり褒められた行動ではなかった。冷静に彰に事情を話して、波風立てずに話を治めることが出来れば一番良かったのだが、感情を抑えきれず、理性的な行動を取ることが出来なかった。
「戻ったらちゃんと謝ろう」
俊平はそう決心して、両手で自分の頬を軽く叩いた。このまま彰と仲違いしてしまうことは不本意だ。だけど、飛び出してたった数分で戻るのは、それはそれで気まずい。もう少し頭も冷やしたいし、しばらく時間を潰してから教室に戻ることに決めた。
「やあ、俊平じゃないか」
各学年の教室がある棟と、理科室やコンピューター室などがある棟を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、反対側から歩いてきた男子生徒が、俊平に向かって手を振ってきた。
「藤枝さん」
俊平は会釈を返す。反対側からやってきたのは、俊平の中学時代からの先輩、三年生の藤枝燿一だ。俊平が中学二年生の頃に生徒会へ入って以来の付き合いで、高校生になった現在でも交流を続けている。穏やかで面倒見も良いお兄さんで、彼を慕う生徒は多い。成績もトップクラスで教師からの評判も上々。優等生の代表格のような生徒だ。
「一人なんて珍しいね。俊平はいつも友達と一緒にいるイメージだから」
「実は、友達の一人と揉めて教室を飛び出してきました。頭を冷やそうと思って、時間潰しに校内を放浪中です」
「俊平が友達と揉める? 一体何があったんだい?」
深入りしていることは自覚しながらも藤枝は俊平に尋ねる。それだけ今の俊平の状態は珍しかった。中学時代からの可愛い後輩だし、話ぐらいは聞いてあげたい。
「今日は、五月七日ですから」
「なるほど。そういうことか」
その言葉だけで、藤枝は事情をある程度は察していた。藤枝も橘芽衣と同じ中学の出身であり、高校でも同級生だった。彼女が死亡した二年前の出来事、この学校でリアルタイムで経験している。
「あの屋上だったね」
藤枝が渡り廊下の窓から屋上を見上げ、俊平も同じ方向を見やる。二年前、橘芽衣はあそこから身を投げることを選択した。
「……いつまでも引きずってはいられないけど、命日になると思うところがあるよ」
藤枝は神妙な面持ちで目を伏せ、俊平も無言で頷く。同じ悲しみを共有している中学時代からの先輩。複雑な感情を抱えている今だからこそ会えて良かったと、俊平は思った。
「僕はそろそろ行くよ。」
気持ちを切り替えて爽やかな笑みを浮かべた藤枝は元々の進行方向である、三年生の教室の方へと歩き出した。
「しっかり友達と仲直りするんだよ」
「ありがとうございます。藤枝さん」
俊平は藤枝の背中を見送った。藤枝の姿が完全に見えなくなったところでスマホを取り出し、現在の時刻を確認する。
「まだ余裕があるな」
今日は命日だ。あの場所を訪れて故人を偲ぶのも悪くないだろう。俊平は残りの昼休みの使い方を決め、生徒玄関へと向かった。
俊平は生徒玄関から一度外に出て、校舎の裏手へとやって来た。
昼休みに校庭でスポーツをしたり、中庭やテラスで昼食を摂る生徒は多いが、この辺りには生徒の気配がまるで無い。ベンチも設置してあり、二年前まではこの周辺で食事をしたり、キャッチボールをする生徒もいたというが、橘芽衣の転落死を境に、この場所を利用する生徒はほとんどいなくなってしまった。死亡者の出た場所だ。そこを避けるのは心理としては当然だろう。二年が経った今でも暗黙の了解のようなものがあり、詳しい事情を知らない在校生や新入生でも、この場所を使う者はほとんどいない。
「半年振りか」
俊平の手には、販売機で買ってきた紙パックのヨーグルト飲料が握られている。お供え物くらいはあってもいいかなと考えて急遽用意したものだ。流石に学校の敷地内に置いたまま帰るわけにはいかないので、最後は自分で飲み切ってしまうつもりだ。
そのまま進むと校舎を囲むフェンスが見えてきた。その少し手前が橘芽衣が発見された場所だが。
「えっ!」
俊平の目に、思いもよらぬ光景が飛び込んできた。橘芽衣が発見された場所に、一人の小柄な少女が目を閉じて横たわっていたのだ。制服を見る限り、同じ高校の生徒であることは間違いない。
「おいおい。どういう状況だよ」
二年前に女子生徒が死亡した現場を訪れたら、当時の再現のように生身の人間が横たわっていた。驚かないほうがどうかしている。
「大丈夫か?」
俊平は少女に駆け寄り声をかける。内心で大いに混乱中だが、優先するべきは目の前の少女の安否だ。一見すると目立った外傷は無いようだが、場所が場所だけに不安を感じずにはいられない。
「そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。私は健康そのものです。虫歯一つありません」
少女は横たわったまま目を開け、抑揚の無い声でそう告げた。ちょうど少女の顔を覗きこむ形で声をかけていたため、二人の目と目がしっかりと合う。俊平は少女の顔から、直ぐには目を逸らすことが出来なかった。少女はとても美しい容姿をしていた。セミロングの美しい黒髪と陶器のように色白な肌。全てを見透かすかのような深い瞳。見るものの視線を強烈に惹き付ける存在感を持っている。
「そんなに見つめられると、流石に戸惑います」
「ごめん。動揺してて」
俊平は飛び退くように少女から顔を離した。体感的には、身惚れていたのはほんの数秒のつもりだったが、ひょっとしたらそれ以上の時間が経っていたのかもしれない。少女をと窓らせるには十分な時間だ。
少女はその場で上体を起こし、そのまま膝を折って座り込む。地面はアスファルトなので固そうだが、少女は気に留めている様子は無い。
「それで、あなたは誰なんですか?」
少女から質問が飛び出す。歓迎するでも警戒するでもなく、淡々と事実確認をしていた。
「それはこっちの台詞だって言いたいとこだけど、君が先客みたいだし、この場合は俺から名乗るのが筋なのかな」
少女は無言で頷く。名乗る順番は確定のようだ。
「二年の藍沢俊平だ」
「つまらないです。趣味とか女性の好みとか、もっと個人的なプロフィールも交えてください」
「自己紹介でつまらないと言われたのは初めてだよ」
思わぬ注文を突き付けられて俊平は困惑する。初対面の挨拶なんて、普通は名前や所属程度の簡単なものではないのだろうか? 面接やお見合いじゃあるまいし、そこまでの情報量を求められるというのは完全に想定外だ。
「なら聞きたいことを教えてくれ。俺はそれに可能な限り答えるから」
「ではお言葉に甘えて、現在お付き合いしている女性はいますか?」
「それが初対面の人間への質問か? 別に隠すことでもないから言うけど、今現在、付き合ってる子はいないよ」
「そうですか」
自分から質問をしてきたというのに、少女の反応は淡泊だ。質問を聞いた瞬間はナンパされているのかとも疑ったが、この反応を見る限りそれは己惚れだったようだ。
「食べ物の好き嫌いは?」
「一転して今度はベタな質問だな。それくらいの方が答えるほうとしては気楽だけどさ。好きな食べ物は魚料理全般、特に鮭。飲み物ならお茶が好きかな。苦手な食べ物は少ないけど、乳製品はあまり得意じゃない。俺の好き嫌いはこんなところからな」
「なるほど」
少女の反応は先程とあまり変わらない。そもそも質問の答えに興味を持っているのかさえも怪しいレベルだ。
「俺への質問もいいけど、そろそろそっちも名乗ってくれないか? 君は俺の名前も、恋人の有無も、食べ物の好き嫌いの情報も得たわけだけど、俺からしたら君はまだ謎の女子生徒Xのままだ」
俊平は少女の隣に腰を下ろした。相手の名前すら分からない状況というのは正直やりづらい。最低限の自己紹介は終えたのだし、そろそろターンが回ってきてもいいだろう。昼休みだって無限ではない。
「私の名前は御影繭加。先月入学した一年生です」
御影繭加の顔に俊平は見覚えがなかったが、彼女が一年生だというのならそれも納得だ。
俊平の顔は広い。そんな彼に見覚えの無い生徒ということは転校生か、もしくは入学間もない新入生ということになる。今回は後者だったようだ。
「何も質問してこないんですか?」
少しの沈黙の後、繭加が小首を傾げた。
「初対面の相手にいきなり質問なんて思いつかないよ。強いて言うなら、君を何と呼べばいい?」
自己紹介を終えたとはいえ、呼び方をどうするかはまた別問題だ。名字だったり名前だったり、あだ名だったりと、呼び方にも色々ある。
「好きな呼び方で構いませんよ。御影でも繭加でも、御影様でも繭ちゃんでも」
「後半の選択肢は置いておくとして、それじゃあ御影と呼ばせてもらうぞ。初対面で名前呼びは流石に図々しいしと思うし、あだ名をつける程の付き合いでもないしな」
「シンプルですね。承知しました」
本人も同意したところで、ひとまず繭加の呼び名が決定した。
「俺のことも、好きに呼んでくれて構わない」
周囲の俊平に対する呼び名は様々だ。名前や名字、あだ名に至るまでバリエーションは豊富だ。その経験上、余程おかしなネーミングでない限りは、その呼び名を受け入れるつもりだったのだが。
「では、お兄ちゃんとお呼びしても?」
「……斜め上を行くのがきちゃったよ」
オリジナリティのあるあだ名ぐらいまでは覚悟していたが、流石にお兄ちゃんと呼ばれる可能性までは考慮していなかった。ちなみに俊平は一人っ子のため、そう呼ばれる機会は日常ではまず無い。
「冗談だとは思うけど、流石にお兄ちゃんはないだろ?」
「だったら、お兄様にしておきます」
「言い方の問題じゃないって」
「では、兄上?」
「古風にすれば良いってもんでもないって。確かに俺の方が年上だけど、親戚でもない初対面の人間をいきなり兄呼びはおかしいだろう」
「軽いジョークです。何を真に受けているんですか?」
「気づいてたよ! 最初から!」
「距離を縮めるための軽快なトークです」
「自分で軽快なトークと言った時点で台無しだよ。むしろ警戒するって」
怒涛のツッコミラッシュに俊平は息を切らす。まだ五月上旬だが、去年一年分に相当する量のツッコミを入れたような気分だ。
「藍沢先輩と呼ばせていただきますね」
「だったら最初からそうしてくれ。リアクションするのも結構疲れる」
俊平は溜息交じりに肩を竦めた。口では文句を言いながらも、毎回律儀にリアクションをする俊平も大概である。何はともあれお互いの呼び方は決定した。
「御影。大事なことを聞くぞ
「何でしょうか?」
俊平はこの場所を訪れた時から抱いていた疑問を口にした。
「俺が来た時、お前は地面に寝そべってたよな。どうしてそんなことをしていた?」
「ここが、橘芽衣の最期の場所だからです」
「知っていてあんなことを?
俊平は鋭い眼光で繭加を見据える。作馬との一件を経て少しだけ冷静になれているが、それでも内に感じる不快感を隠しきれない。事情を知ったうえで橘芽衣が亡くなった場所で横たわるなんて真似をしていたのなら、不謹慎を通り越して悪趣味だ。繭加の返答如何によっては、俊平の彼女に対する認識は大きく変わることになる。
「常識的に考えれば、不謹慎極まりない行為ですよね。だけど私はそれが許される数少ない人間だと自負しています」
「どういう意味だ?」
繭加の表情は真剣そのものだ。己を正当化したり、まして茶化してるようには見えない。
「私は橘芽衣の従姉妹です」
「何だって……」
繭加から告げられた衝撃的な事実に、俊平は思わず息をのんだ。
「びっくりしましたか?」
驚きを隠せず瞬きの回数が増えている俊平の顔を観察するように、繭加がジッと見つめてくる。黒目がちな瞳に搦め取られそうで、俊平はたまらず目を逸らした。
「……かなり驚いた。正直、まだ動揺してる」
「これで、私の行為は許していただけますか?」
「確かに身内だというのなら、よっぽどのことでもないと不謹慎とまでは言えないな。それにしても地面に寝そべったりして、一体何をしていたんだ?」
許容することと理解することはまた別問題だ。従姉の命日にその死亡現場を訪れたところまでは理解できるが、あの行為の意味するところは何なのか? 俊平の中に疑問は残る。
「芽衣姉さんを知りたいからです」
「知るとは?」
「芽衣姉さんの最期の場所を、最期に見た景色を、自分の体で感じてみたかったんです。ある種の疑似体験と言ったところでしょうか」
繭加は太陽光に目を細めながら屋上へと視線を挙げる。橘芽衣が身を投げた屋上が、この場所からどう見えるのかを確かめるように。
「分かるなんて安易に言ってはいけないと思うけど……俺にもその気持ちは少し分かる木がする」
俊平は繭加に対する警戒心を解きつつあった。死者の言葉を聞くことは誰にも出来ない。墓石に問い掛けても答えは返ってこないし、生前の時間に戻る術も現代には存在しない。だったらせめて、大切な人が最期の瞬間を迎えた場所の雰囲気を感じ取りたい。そういった感情は俊平にも理解出来た。
「この場所はどうだった?」
何とも曖昧な質問であることは自覚しながらも、俊平は繭加に問い掛ける。身内として橘芽衣をよく知る繭加は、彼女の最期の場所をどう感じとったのだろう。
「ここの地面は固いです」
「そうだな……」
俯き、アスファルトの地面を右手でなぞった繭加を見て、俊平は静かに頷いた。橘芽衣は四階建ての校舎の屋上から身を投げ、アスファルトの地面に叩きつけられた。今でこそ当時の痕跡は残されていないが、二年前この場所には、彼女の体から溢れだした鮮血が赤い絨毯のように広がっていた。例え死に場所が柔らかいベッドの上だったとしても、死という現実が残酷であることに変わりはない。それでもアスファルトの地面は、最期の場所としてはあまりにも固く、冷たすぎる。
「藍沢先輩は芽衣姉さんと親しかったんですか? これまでの口振りから察するに、少なくても無関係ではないですよね。この場所を訪れる生徒も珍しいですし」
「俺は橘先輩と同じ中学の出身だ。学年は違ったけど、俺も先輩と同じで生徒会だったから、顔を合わせる機会は多かったよ」
「芽衣姉さんも喜んでいると思います。命日の今日は、授業以外のほとんどの時間をこの場所で過ごしていましたが、私以外にこの場所を訪れたのは藍沢先輩だけでした」
「……ただの思いつきだよ。来年も来るかは分からない」
「でも、お供えまで持ってきてくれてるじゃないですか」
俊平の手に握られているヨーグルト飲料の存在を、繭加は見逃さなかった。
「それこそ思いつきだよ。お供えした後に自分で飲もうかと思ってな」
直前の作馬や藤枝とのやり取りには触れず、曖昧に話を流す。わざわざ説明するほどのことではないだろう。
「芽衣姉さんの死は、悲しかったですか?」
あまりにもストレートな質問が繭加から発せられ、俊平は思わず面くらってしまう。
「……悲しくて、最初は現実味がなかった。俺だけじゃない。彼女を知る人はみんなそうだったと思う
「芽衣姉さんは、人気者だったんですね」
「大丈夫か? 御影」
言葉とは裏腹に繭加の表情は優れない。生前の橘芽衣の姿を思い出し、感情が刺激されていてもおかしくはない。
「藍沢先輩。芽衣姉さんが何故自ら命を絶ったのか、その理由を御存じですか?」
「……噂では、自殺するような理由は見当たらなかったって聞いてるけど」
一度言い淀み、俊平の声は小さくなる。橘芽衣について語る以上、この話題に行きつくことは必然だが、覚悟していても気の重さは誤魔化せない。
「それはあくまでも表面上の話です。芽衣姉さんは確かに悩んでいました。それを知る人間は少ないですが」
「御影は何か知っているのか?」
橘芽衣は確かに悩んでいた。その言葉に俊平は強く引き寄せられた。親族である繭加なら、信憑性の高い情報を持っている可能性がある。
「芽衣姉さんとはよく連絡を取り合ってはいましたが、いつも明るく振る舞っていたので、悩み事を相談されたことはありません。ですが、芽衣姉さんの葬儀の後、姉さんの部屋で、ある物を見つけたんです」
「何を見つけたんだ?」
「芽衣姉さんのつけていた日記帳です」
「日記帳か。人に見せるような物ではないし、本音が書き連ねてあってもおかしくはないな」
日記帳というのはある意味で究極のプライベートスペースだ。余程のことでもない限り、他人の目に触れる機会などない。だからこそ内容に遠慮はいらないし、普段の自身のキャラクターや建前を気にする必要も無い。自分を映し出す鏡と言い換えることも出来るだろう。
「内容を知りたいですか?」
繭加は立ち上がり、俊平を見下ろす形で正面に立つ。俊平からは逆光のため繭加の表情をはっきりと捉えることは出来なかったが、口角が僅かに上がっていることだけは分かった。真意は不明だが、繭加は間違いなく笑みを浮かべている。
「この流れで知りたくないと言う奴はいないだろ」
繭加の表情に多少の疑念を抱きながらも、俊平は表情を変えずにそう言ってのけた。
「残念ですが時間切れです。今日はここまでにしましょう」
「はい?」
呆気に取られた俊平は、思わず頓狂な声を上げる。
「もうすぐ昼休みが終わります。私のクラスは次の時間は移動教室なので、そろそろ行かないと遅刻してしまいます」
「待ってくれ。ここまできてそれはないだろう」
この場を立ち去ろうと背を向けた繭加を俊平は慌てて呼び止める。意味深な流れのオチがこれでは、気になって夜も眠れない。
「安心してください。また近いうちに会えますから。私、藍沢先輩のことが気に入りました」
これまでのイメージを翻すかのような、屈託のない笑みで繭加は言う。これまで表情の変化に乏しかった分、ギャップが眩しい。
「……分かったよ。先輩が後輩を授業に遅刻させるわけにはいかないしな」
もしも繭加が笑顔を見せなかったら、もう少し食い下がっていたかもしれない。目の前の笑顔の女の子を困らせたくない。咄嗟にそう思ってしまうくらいには、繭加の笑顔は魅力的だった。
「それでは私はこれで。藍沢先輩こそ遅刻したら駄目ですよ」
「分かってるよ。大丈夫、これでも優等生代表だ」
一礼をして去っていく繭加に手を振り、俊平はその背中を見送った。
繭加が校舎の角を曲がって姿が完全に見えなくなると、俊平はスマホで時間を確認した。昼休みが終わるまで、まだ少しだけ時間がある。
「まだ大丈夫だな」
俊平はこの場所にやってきた本来の目的を果たすことにした。橘芽衣が発見された場所に、持参してきたヨーグルト飲料を置くと、その場で合掌して静かに目を閉じる。繭加と出会い予定よりも遅れてしまったが、本来の目的は橘芽衣の命日に彼女を悼むことだ。
「……俺もそろそろ戻ろう」
数秒間の祈りの後、俊平は静かに合掌を解き、目を開けた。供えたヨーグルト飲料を手に取り付属のストローを穴に通す。口に運ぶ直前に一瞬だけ考え込むように硬直すると、そのまま勢い良く中身を流し込んだ。
ヨーグルトの酸味に顔を顰めながらも全て飲み干し、空になった紙パックを握り潰す。近くにゴミ箱は無いので、教室に戻る途中でゴミ箱に捨ててこないといけない。
「また来ます」
記憶の中の橘芽衣にそう告げると、俊平は校舎裏を後にした。
「おはよう!」
翌朝。俊平は登校するなり、教室全体に向けて明るい挨拶を飛ばした。「おはよう藍沢くん!」と元気よく返す女子生徒。「よう」と簡素に挨拶を返す男子生徒のグループ。一瞥し、軽く会釈することを返事とするカップル。返事やリアクションは人それぞれだが、俊平の挨拶を無視する者はいなかった。体育祭や文化祭でリーダーシップを発揮する俊平はクラスメイトからの信頼が厚い。
「おはよう俊平」
「おう。今日は早いな作馬」
俊平が着席すると、すぐに彰が駆け寄ってきた。俊平の後ろ、まだ登校してきていな瑛介の席に腰を下ろす。
「昨日は悪かった」
「その話なら昨日解決しただろ。気にするなよ」
気を落とす彰の肩に俊平は優しく触れた。昨日の放課後に俊平と彰は、お互いに昼休みの出来事を謝り合った。その際二人は、まるで事前に打ち合わせでもしていたかのように、ほぼ同時に謝罪の言葉を発した。あまりに見事なタイミングだったため、その場にいた瑛介や小夜、唯香から堪らず笑いが漏れ、俊平と彰もそれにつられて相好を崩した。そのおかげで和やかムードへと変わり、無事に仲直りすることが出来た。
「そうだな。悪い」
「また謝ってるし。悪いはしばらく禁止な」
二人の間にはすでに気まずい空気は存在せず、普段のような気心知れた友人関係へと戻れていた。
「今日の数学って確か小テストだよな? 気が重いよ」
雑談を挟み、話題は今日の授業の内容にシフトした。彰の成績は総合的に見ればそこまで悪くはないのだが、その能力はどちらかといえば文系寄りで、中でも数学は苦手分野だ。来たる小テストを前に、大袈裟に頭を抱える。
「中間や期末に比べたらマシだろ」
ショルダーバックから教科書類やノートを取り出しながら、俊平は苦笑した。ちなみに俊平はオールマイティで、平均して高い成績を収めている。
――ん? 何かあるぞ。
俊平がペンケースをしまうために机に手を入れると、指先が何かに触れた。
「手紙?」
机に入っていたのは一通の手紙だった。色合いは桜色、丁寧に『藍沢先輩へ』と宛名が書かれている。
「おっ、ラブレターか?」
「見た目はな。果たして中身はどうだか」
テンションの上がっている彰とは対照的に、俊平のリアクションは淡泊だ。封に使われているハートマークのシールを剥がし、中から便箋を取り出す。
「何が書かれてるんだか」
便箋を広げ、俊平がその内容に目を通すと。
藍沢俊平様。
あなた様に伝えたい思いがあります。
放課後。四階西の角部屋でお待ちしております。
便箋には横書きで三行、端的にそう書かれていた。
「この場所で告白ってことか? 相変わらずモテモテだな」
「俺には果たし状に見えるが」
彰はニヤニヤして小突いてきたが、目を細める俊平の表情はさながら捜査資料にでも目を通しているかのようだ。
「また近いうちに会えますから。か」
差出人が想像通りの人物だと確信した俊平は、遠い目をして溜息をついた。
「待ち合わせ場所に行くのか?」
「行かないよ。たぶん悪戯だろう」
言葉とは裏腹に、俊平は差出人の呼びだしに応じることに決めていた。
※※※
放課後。俊平は校舎四階の西側を訪れていた。
元々は生徒会室や教材室、一部の部活動の部室として使われていたエリアなのだが、三年前の増改築により場所が移ったことで使用頻度は減少。現在は空き教室となっている部屋も多い。
ポケットから取り出した便箋で、もう一度指定された場所を確認し、西の角の空き教室へ向かって歩みを進める。移動教室などで四階を訪れることはあるが、空き教室はまったく使わないので、この一画を訪れる機会はほとんどない。
「鍵はかかってないみたいだな」
道中いくつかの部室を通ってきたが、この部屋のプレートには教室名がなく、ただの空き教室のようだ。施錠されている可能性もあったが、扉に指をかけた感覚では抵抗は感じられなかった。
「藍沢だ。入ってもいいか?」
一言、教室内にいるであろう人物に断りを入れる。聞き覚えのある女子生徒の声が、俊平の入出を許可した。
「お邪魔します」
「お待ちしておりました。藍沢先輩」
パイプ椅子に腰掛け、長机の上で手を組む繭加の姿がそこにはあった。さながら映画の終盤で悪役が主人公を迎えるシーンのような構図だが、繭加が小柄なのでいまいち迫力に欠ける。
「やはりお前だったか。御影」
大した驚くこともなく、俊平は淡々と扉を閉めた。
「あまり驚かないんですね?」
「思い通りにならなくて残念だったな」
心にも無い同情を口にし、俊平は意地の悪い笑みを浮かべる。ラブレター? の差出人の正体を察していた俊平が、今更驚くはずもない。
「まあいいでしょう。それよりも今回、藍沢先輩をお呼びしたのには理由があります」
「昨日の話の続きだろ?」
昨日の今日で接触があったことは予想外だったが、話の続きが気になっていた俊平にはむしろ好都合だった。昨夜はあまり眠れていない。
「はい。放課後なら時間はタップリありますしね」
肯定する繭加の表情は笑顔だが、昨日去り際に見せた屈託のない笑顔ではなく、どこか作り物染みた無機質な笑みだ。
「とりあえずお掛けください」
繭加に勧められ、俊平は向かい合う形で反対側のパイプ椅子に腰掛けた。
「しかし、何でラブレターもどきなんて出して俺を呼び寄せた? 手紙を教室の机に入れたくらいだ。直接声をかけてきてもよかっただろうに」
「だって、その方が面白いじゃないですか」
通常ならジョークだと受け取るべき状況だが、どうやら繭加は真剣なようだ。その瞳には良くも悪くも迷いが無い。
「それで、面白かったか?」
「いいえ。扉を開けた瞬間の藍沢先輩が驚愕に震えるのを期待していたのに、結果はこの有様です……」
「いやいや。お前の想像の中の俺はどれだけビビりなんだよ」
俊平は棒読みで話をまとめる。昨日から繭加の発言には独特な雰囲気を感じていたが、どうやらあれはあの場限りのことではないようだ。
「ところでこの教室は何だ? 空き教室には普段、鍵がかかっているだろう」
気になることはとことん指摘してしまおうと考えた俊平は、呼び出されたこの場所について尋ねることにした。
「ここは私が立ちあげた文芸探求部の部室です。部長も私ですよ」
「他に部員は?」
「実質、私一人だけです。それ以外は部を立ち上げるために名前を貸してもらった幽霊部員が数名」
「相変わらず緩いな。うちの学校」
緋花高校は新規の部活動の立ち上げに寛容(というよりも、審査が緩すぎる)ため、よっぽどおかしな内容でない限り、入学間もない新入生でも簡単に申請を通せる。繭加は新しい部を立ち上げ、部室として空き教室の使用許可と鍵を得たようだ。
「この部の活動内容は、他の文芸部とは違うのか?」
緋花高校には文芸に関連した部が複数存在するが、純文学や古典など、どういった方向性なのか分かりやすい名前が多い。探求というのはある意味で曖昧だ。
「一つの作品を部員同士で深く読み込み、執筆時の作者の真理や奥底に隠されたメッセージ性を探求していこうというのが活動内容となっています」
「けっこう真面目な内容だな」
「表向きですが」
「おい、表向きと言ったか?」
真面目な活動内容に俊平は感心していたのだが、繭加が最後に付け加えた一言で一気に雲行きが怪しくなる。
「あくまでも、部活動という体裁を整えるために考えた内容ですね
「それで、表向きじゃない真の活動内容は何なんだ?」
「言ったら多分引きますよ?」
「じゃあ聞かないでおく。知らぬが仏だ」
「言わせてくださいよ!」
繭加は駄々っ子のように両腕を上下させる。
「どっちなんだよ……」
リアクションに困った俊平は、頬杖をついて溜息をもらした。
「お願いですから言わせてください」
「どうしようかな」
悪戯っぽい笑みを浮かべて冗談混じりに俊平が言うと、繭加は眉を顰めて頬を膨らまし、無言の反論を取った。幼い子供をあやしているような気分になり、俊平は微笑みを浮かべていた。
「その笑顔、逆に心に刺さります」
「悪い悪い。お詫びに話を聞いてやるから」
流石にこれ以上からかうのは可愛そうだ。俊平が両手を合わせて謝罪すると、自分のターンが回ってきたことで繭加の表情が綻ぶ。わざとらしく咳払いをすると、意味深に間を取った。
「真の活動内容は、私の趣味でもある心の観察です」
「心の観察?」
よく人間観察が趣味だという人がいるが、そういった類の話だろうか?
「その中でも私が特に惹かれるもの、それは人の持つ心の闇です」
「つまり御影は、人の心の闇を覗き見るのが好きってことか?」
繭加は笑顔で頷いた。その表情は、自分の趣味嗜好を嬉々として人に語る時のそれだ。
「悪趣味だな」
「藍沢先輩は正直な人ですね。本音だとしても、普通は即答しませんよ?」
「この状況で建前はいらないだろ」
「引きました?」
「安心しろ。途中で帰るような真似はしないから。とりあえず話を続けてくれ」
悪趣味だと感じたのは事実だが、それだけで繭加に対する態度を変える程、俊平は単純ではない。表面上だけではなく、詳しい話を聞かない限りは判断を下せない。
「先程も申した通り人の心の闇、私はダークサイドと呼んでいますが、それを垣間見ることが私は好きです。趣味と言ってもいいかもしれません」
「ダークサイド、暗黒面ね。ネーミングに意味は?」
「特にありません。強いて言うなら、心の闇と言うよりもかっこいいです」
「……そ、そうか」
一瞬、中二病というワードが頭をよぎったが、話の流れを切るだけなので言葉には出さなかった。
「垣間見るとは言うが、具体的にはどういう活動をしてるんだ?」
趣味が悪いことに変わりはないが、もし活動内容に実害が伴わないのなら多少は認識が変わってくる。
「基本はターゲットに目星を付けての調査活動ですね。多かれ少なかれ、人は本当の自分を隠すために仮面を被っているものです。探りを入れなければ、とてもダークサイドなんて覗きようがありません」
「調査って、そこまでするのか」
「現物を見てもらった方が早いかもしれませんね」
繭加は立ち上がり、窓際の机に置かれていた白いリュックから、一冊の黒いファイルを取りだし、俊平へと差し出した。
ファイルの表紙には「ダークサイド」と記されている。
「私が入学以来まとめている、この学校の生徒のダークサイドをまとめたファイルです。内容をご確認ください」
「ダークサイドのファイルね。まるで機密文書だ」
怪訝な表情を浮かべながら俊平は表紙を捲り、一ページ目を開いた。
「写真?」
俊平の目に最初に飛び込んできたのは、隠し撮りと思われる一枚の写真だ。
黒いロングヘアーを結い上げた少女が笑顔で写っている。素朴な顔立ちながらもその笑顔はとてもチャーミングで、学生らしい爽やかな魅力を放っていた。
「名前は白木真菜。私と同じ一年生です。詳細はそこに」
繭加に促され、数ページに渡り記載されている白木真菜の情報に目を通す。
文字は手書きとは思えない程に整然としており、書かれている字こそ美しいが、整い過ぎていてどこか無機質な印象を受ける。
写真の下には、白木真菜のプロフィールが数行記されている。生年月日に出身中学、身長や、流石に遠慮して俊平は数字を見なかったが、体重まで記載されていた。
「よくもまあ、ここまで」
外見からある程度の目測は出来るかもしれないが、数値化までしているのだから相当だ。
「ダークサイドを知るには、相手のことをよく知る必要がありますから」
「身長や体重はどうやって?」
「目測である程度身長や体重を当てることが出来る。私の特技の一つです」
「本当に?」
「体系や体格を見るに、藍沢先輩の身長は175センチ。体重は61キロといったところではないですか?」
「……身体測定の時、もしかして近くにいたか?」
「その驚愕した顔。これで不足分のリアクションは取り戻せましたね」
身長はピッタリ。体重は一キロ少なかったが、その程度は日常の中で変動する誤差の範囲だ。繭加の目測は機械のように正確だった。もちろん、学年も性別も違うので、繭加が俊平の身体データをたまたま覗き見たということもあり得ない。
「さあさあ。続きをどうぞ」
白木真菜の簡単なプロフィールから人物像、学校での印象、友人関係の順に、俊平はファイルを読み進めていく。白木真菜は成績面が優秀で、ほとんどの教科で学年平均よりも高い成績を収めている。委員会は図書委員会。部活動は吹奏楽部にそれぞれ所属。いずれも真面目に取り組んでおり、顧問や上級生からの評判も上々。友人も多く、中学からの同級生である吉岡舞衣子とは特に親しくしている。入学一ヶ月時点で無遅刻無欠席。問題行動も無い模範的生徒である――と、ファイルには記載されている。
「内容を見る限り、ダークサイドとは縁の無さそうな真面目な生徒のようだが」
ダークサイドどころか、善良で非の打ち所がない生徒だ。俊平ではない他の誰かがこのファイルを読んだとしても、まったく同じ印象を抱くに違いない。
「本題は次のページからです。捲ってみてください」
気乗りしないまま俊平はページに手を掛ける。繭加の口振りからすると、次ページに白木真菜のダークサイドが記されているということにはなる。それを確かめてみたいという好奇心と、白木真菜への好印象が覆されてしまうことへの不安が混在している。
「……何だよこれ」
白木真菜は、友人である吉岡舞衣子に対し、重大な秘密を持っている。そんな書き出しから、ダークサイドの解説が始まった。
白木真菜には、男女の関係にある男子生徒が存在する。相手は他校の生徒で名前は市村一弥。白木真菜の友人である吉岡舞衣子の元恋人である。
白木真菜は、市村一弥が友人の恋人だと知った上で積極的にアプローチをかけ、結果的に二人の破局の原因を作る。水面下で動いていたようで、吉岡舞衣子はその事実に気づいていない。白木真菜は市村一弥との交際を隠しながら、素知らぬ顔で現在も吉岡舞衣子との友人関係を続けているようだ。
「友人の恋人を奪ったのか。しかも相手はそのことに気付いていないとは」
俊平は唖然として、ファイルを読み進める手を止めてしまった。禁忌にでても触れてしまったような気分だ。
「どうですか。白木真菜のダークサイドは。一ページ目に記載されている普段の彼女とは、まるで印象が違いますよね」
反応を楽しむかのように、繭加は微笑みを浮かべながら俊平の顔を覗き込んだ。
「これが事実なら驚きだが、御影の創作という可能性もあるよな?」
「疑り深いですね」
笑顔の繭加に動揺は見られない。自信から来る余裕とも取れるし、俊平とのやり取りを純粋に楽しんでいるようにも見える。
「悪く思うなよ。内容が内容だし、白木真菜に関する情報が仮に事実だとしても、このファイルだけでは判断がつかない。俺とお前が無条件でお互いを信じあえる仲だというなら話は別だが、お互い昨日出会ったばかりだしな」
俊平は良くも悪くも客観的な立場を保っている。白木真菜に肩入れするわけでも、繭加の意見を素直に受け入れるわけでもない。
「決定的な証拠があると言ったらどうしますか?」
「そんなものがあるのか?」
繭加は制服のポケットから小型の銀色の機器を取り出し、わざとらしく掲げてみせた。
「ボイスレコーダーか」
中学時代、生徒会の会議で議事録をつけるために使っていたので、それが何なのか俊平にはすぐに分かった。中学生が会議で使うことは珍しいが、当時の生徒会を担当していた教師が一つの経験にと会議内容を録音し、後でその内容をみんなで精査するという勉強を行ったことがある。
「再生しますね」
了解も聞かず、繭加は再生のスイッチを押す。俊平はまだ心の準備が出来ていなかったが、音声が再生されたことで、意識はその内容に強制的に引き寄せられる。
『白木さん。このことを絶対に他言しないことをお約束します。ですから、私に真実を話してくれませんか?』
最初に聞こえてきたのは繭加の声だった。
『これだけ証拠を揃えられたら、隠しても仕方がないね。そうだよ、私は舞衣子の恋人だと知った上で、市村くんに関係を迫ったわ』
相手の女子生徒、白木真菜は興奮気味で、声が上ずり話も早口だ。
『それだけ、市村さんを愛してしまったということですか?』
『それは違う。顔は悪くないけど、市村くんのことは正直そこまで好きじゃないの。ただ、麻衣子の彼氏を奪いたくなっただけよ』
『どうしてそこまで? 舞衣子さんはあなたの大切なお友達でしょう?』
『許せないのよ。あの子が私より幸せそうにしてるのが!』
白木真菜の言葉には、ボイスレコーダー越しでも伝わる、激情と呪いが込められていた。
『分りません。あなたの方が成績優秀だし人望も厚い。対して舞衣子さんは、問題児でこそありませんが、静かであまり目立つようなタイプではありません。もちろん価値観は人それぞれですから一概には言えませんが、客観的には、あなたの方が充実した高校生活を送っているように見えますよ』
『あの子、市村くんの話をする時は本当に幸せそうなのよ。それにムカついたから、幸せをぶち壊してやろうと思って。あの子には不幸の方がお似合いよ。私の親友はそういう人間でないといけない』
冷徹なまでに白木真菜は言い切る。その言葉や雰囲気に、俊平がファイルの一ページ目で抱いた好印象は微塵も残っていない。
『結果はどうだったんですか?』
『御影さんも人が悪いわね。どうせ知ってるくせに。まあいい、教えてあげる。舞衣子ったら、市村くんに振られたことがかなりショックだったみたいで、その日のうちに私に泣きついてきたわ。私がその原因だとも知らずにね。あの時は笑いを堪えるのに苦労したよ。あくまでも私は、失恋した親友を慰める心優しき女の子を演じてないといけなかったわけだから……ははは』
ボイスレコーダーは、白木真菜の微かな笑い声を拾っていた。感情の抑制が効かなくなってきているのだろう。彼女は笑いを堪えるのに必死だ。
『これからどうするおつもりですか?』
『何も変わらない。これからも舞衣子の親友の立場でいるつもりだし、市村くんとは頃合を見計らって、何事も無かったかのようにお別れするわ』
『市村さんから吉岡さんに、あなたの存在が漏れることはなかったんですか?』
繭加のこの一言に、俊平は同感だと頷く。モラルは一度横に置いておくとして、第三者の恋人に手を出すならともかく、相手は親友の恋人だ。普通に考えればリスクが高すぎる。
『条件が重なったからこそ行動に移したの。幸い舞衣子は友達の私の存在を市村くんに知らせていなかった。二人だけの世界にはノイズだったのかもね。市村くんが私を知らないことを利用して、絶対に知り合いに見つからないような場所で、秘密のアプローチをかけ続けたの』
『そこまでするとは恐れ入ります』
『馬鹿にしてるの? あなたの行動も大概だと思うけど』
『失礼しました。価値観というのは人それぞれですし、あなたの行為をとやかく言うつもりはありません。いずれにせよあなたのダークサイド、しかと拝見いたしました』
『ダークサイド? 何の話よ』
『いえいえ、こちらの話です――』
そこでボイスレコーダーの音声はプツリと切れた。繭加がここで録音を止めたようだ。
「これが、白木真菜の真実です」
繭加は役目を終えたボイスレコーダーをポケットにしまう。
「聞いた感想はいかがですか?」
繭加はインタビュアーの真似事をして、エアで俊平にマイクを向けた。
「言葉にならないよ」
「言葉にならない。という言葉になってますよ」
「確かに。それならまだ余裕かもな」
口ではそう言いながらも、俊平は謎の疲労感に襲われ、深く椅子に掛け直した。白木真菜が面識の無い一年生だったからこの程度の驚きで済んでいるが、もしこれが近しい人物だったとしたら、いったいどれだけの衝撃を受けたか分からない。
「ドラマみたいなお話ですよね」
「ドラマの中だけにしておいてほしいよ。こういう話は」
繭加はそれこそ、最近見たドラマを友人と語るかのようなテンションだが、ノリについていけない俊平は苦笑するに留めた。
「ファイルの内容は疑ってましたけど、ボイスレコーダーの内容は素直に受け入れるんですね」
「ファイルだけならともかく、偽物の音声まで用意するのは大変だろ。白木真菜の声が本物かどうかなんて、本人の声を聞けば分かることだしな」
音声の信憑性に関しては俊平も認めていた。裁判じゃあるまいし、不当な方法で手に入れた証拠だなどと指摘するつもりも無い。だが、本物なら本物で問題がある。
「御影どうして録音したんだ? 不憫な吉岡舞衣子を思っての正義感か? それとも、録音した内容で白木真菜を脅迫でもするつもりか?」
俊平は鋭い目つきで繭加に問い掛ける。前者の理由での行動ならまだ理解を示せるが、仮に後者だとするならばそれは、モラルからかけ離れた行為に他ならない。
「どちらも違います」
「どういうことだ?」
「行ったでしょう。私はあくまでダークサイドを見るのが好きなだけです。それ以外の目的などありません。調査内容をまとめたファイルと音声を、個人的なコレクションとして保管する。只それだけです」
「本当にそれだけなのか?」
「それだけです。ちなみに今回の白木真菜の件も、彼女と私だけの秘密ということになっています。こちら側は人様のプライバシーに踏み込んでいる。それに対して相手は、ダークサイドをこちら側に知られている。お互いにやましい部分があるからこそ、秘密を共有し合う関係が成立しているんです。お互いに、少なくとも表向きは平穏に学生生活を送っていきたいですからね」
繭加は椅子から立ち上がると窓際まで移動し、ガラスの反射で俊平の表情を伺う。
「お前にメリットはあるのか?」
「カメラを趣味とする人が写真を撮ったり、映画が好きな人が映画館へ足を運ぶのと大差はありません。私にとってはそれが趣味なんですから」
ガラスに映る俊平の唇に、繭加はそっと右手の人差指を当てる。その仕草はまるで、言葉を遮る恋人のようだ。俊平の位置からは見えづらいので、繭加はだた窓を指でなぞっただけにしか見えていない。
「言うのは二回目だけどさ。やっぱり悪趣味だ」
「自覚していますよ」
振り返った繭加が浮かべるのは冷笑だった。その矛先は、正論を言い放つ俊平に対してなのか、自覚しながらもその行為を反省しようとしない自分自身に対してなのか。あるいはその両方へ向けたものなのか。
「コレクションを見せびらかしたいだけなら、俺は帰るぜ」
「ここまでは前置きのようなもの。大事なのはここからです。昨日は時間の都合でお話し出来ませんでしたが、芽衣姉さんの残した日記帳の内容についてもお話ししますよ」
その言葉は、俊平をこの場に繋ぎとめるには十分な楔であった。
「聞かせてもらおうか」
一度は席を立った俊平が再び着席した。橘芽衣の残した日記帳の内容を確認しないまま帰るわけにはいかない。
「芽衣姉さんにはお付き合い。もしくはかなり親しい関係にある男性がいたようです。その男性が、姉さんが身を投げた理由に大きく関わっているのではと私は考えています」
「何者だ?」
「残念ながら日記上では存在が示唆されながらも、個人の特定に至る情報はありませんでした。その頃から芽衣姉さんの日記は不定期かつ、支離滅裂な内容も目立つようになっていました……姉さんが飛び降りた時期にも近いですし、色々と思い悩んでいたのでしょうね。それこそが、私が芽衣姉さんの死に異性の存在が関わっていると考えている理由でもあります」
「日記を見せてもらうことは?」
「藍沢先輩とはいえ、直接見せるのは流石に。要約して伝えてはいますが、筆圧の乱れた芽衣姉さんの日記はショッキングでもありますし」
「そうだな……それは橘先輩も望むところではないだろう」
この件については俊平は素直に引き下がった。仮に許されたとしても、俊平の側も直視する勇気が持てなかったかもしれない。
「その異性とやらの正体さえ分かればな」
「実は独自の調査で疑わしき人物が一人、この学校の男子生徒の中に見つかりました」
「うちの生徒なのか?」
「はい。その男子生徒は三年生の藤枝燿一。芽衣姉さんとは当時の同級生で、中学も同じだったようです」
「……藤枝さんが?」
昔からよく知る身近な名前の登場に、俊平は動揺を隠せなかった。まったく見ず知らずの名前なら、もっと冷静でいられたはずなのに。
「お知り合いですか?」
「良く知ってる先輩だ。中学時代は一緒に生徒会をやってた」
「私の調べでは、藤枝燿一には女性関係の悪評が多いです。いわゆる遊び人という奴ですね」
「信じられないな、藤枝さんに限って――」
言いきろうとする俊平を、繭加が人差し指を立てて制した。
「断言出来るんですか? 藍沢先輩は、藤枝燿一の全てを知っているんですか?」
繭加の言葉に俊平の心は揺らいだ。藤枝燿一が俊平にとっては親しみやすい良き先輩であることは事実だが、それはあくまでも俊平の主観でしかない。学年が違い、一昨年に関しては、それぞれ中学三年と高校一年だったため、在籍する学校さえも違っていた。共有していた時間など一部に過ぎない。
「よく思い出してください。藤枝に対して何か違和感を覚えたことはありませんか?」
繭加はこれまでに収集、検証した、藤枝燿一に関する情報に自信を持っている様子だ。彼女の真意は俊平に藤枝に関する疑念を思い起こさせ、自身の持つ人物像に齟齬があると自覚させることにある。
「一つ気になっていたことがある」
「よろしければ、お聞かせください」
親しい人物への疑念を口にすることを、繭加は可憐な笑顔で俊平に求めた。その笑顔は天使のようにも、狡賢い小悪魔のようにも見える。
「藤枝さんは優しくてユーモアがあって、人望も厚い人だった。それは間違いないが……」
そこで俊平は言葉に詰まる。この一言を自らが発することは、藤枝に疑いを持つことに等しい。
「……去年、俺が高校に入学してからのことだ。中学時代は男女を問わずに慕われていた藤枝さんの周囲からの評判が、高校では少し違っているような印象を受けた。男子からは相変わらず慕われていたが、一部の女子は藤枝さんに良い感情を抱いてはいなかった。藤枝さんはモテるから、ただの当てつけだと思っていたけど……もしかしたら、御影の言うようなことがあったのかも……しれない」
疑問形で終わらせることが、せめてもの抵抗だった。口には出さなかったが、昨年たまたま学校外で、女子生徒が藤枝に詰め寄っている場面を遠目に目撃したこともあった。仲の良い先輩というフィルターがかかり、当時は詰め寄る女子生徒側に非があるのではと漠然と考えていたが、客観的に考えればその場面だけを見て、どちら側に非があるのかなど判断することは出来ない。
「私の入手した情報とも合致します。藤枝が複数の女子生徒との間にトラブルを抱えていたことは間違いないでしょう」
「今になって思えば確かに引っ掛かりは覚えるが、当時の俺を含め、親しい人間は誰も藤枝さんを怪しまなかったぞ?」
「気づかれないからこそのダークサイドですよ。普段からあからさまに心の闇を垂れ流していたらただのヤバイ奴です。周囲から浮いていますよ」
「それは確かに」
面識はないとはいえ、たった今、普段の白木真菜と彼女のダークサイドとのギャップに驚かされたばかりだ。人間は状況に応じてペルソナを使い分ける。
「藤枝の女癖の悪さは私の調査で確定しています。二年前、藤枝と親しい関係にあった芽衣姉さんが心に傷を負い、精神的に追い詰められた可能性も十分考えられます。芽衣姉さんは、純粋な人でしたから」
「気持ちを裏切られての悲観か……」
「気になる点が?」
「いや。何でもない」
俊平の言動に多少の引っ掛かりを覚えながらも、繭加は詮索はせずに話を続けた。
「藤枝が芽衣姉さんの死に関わっている線は私の中では濃厚ですが、残念ながら決定的な証拠はありません。私はまだ入学して間もないですし、調査をするにも限界があります。そこで一つ、藍沢先輩に提案があるのですが?」
「内容によるが」
「私の調査に協力してください。芽衣姉さんの死の真相を、一緒に明らかにしましょう」
繭加は俊平に合意の握手を求めたが、俊平はそれには応じず、代わりにある疑問を投げかける。
「どうして俺なんだ?」
俊平は二年生であり顔も広いため、繭加の求める協力者の条件には確かに当てはまるかもしれない。しかし俊平はどちらかといえば繭加のやり方に懐疑的であり、藤枝燿一とも親しい間柄にある。それだけで協力者の条件としては大きなマイナスだ。にも関わらず協力を求める繭加の真意を、俊平は計りかねていた。
「藍沢先輩は芽衣姉さんの命日に、姉さんの最期の場所を訪れてくれました。理由はそれだけで十分です」
「俺を信じてくれるのは嬉しいが、それは感情論じゃないのか?」
「感情論で十分です。私にとって重要なのは、藍沢先輩と一緒に芽衣姉さんの事件を調査することです」
「もしも俺が、藤枝さんに肩入れするようなことになってもか?」
「恨んだりはしません。その時はその時です」
冗談めかしているようでも、俊平を試している様子もない。この瞬間の繭加はただただ純粋だった。
「分かった。協力する」
繭加の言葉に心を動かされたのは事実だが、何よりも自分自身の目で真実を確かめたいという気持ちが強かった。もし本当に、藤枝に繭加の言うような一面があるのなら放ってはおけないし、全てが繭加の思い過ごしであるのなら、藤枝に対する誤解を解かねばならない。
「共同戦線成立ですね」
「一時的だがな」
「それで十分です」
繭加は再び握手を求め、今度は俊平もそれに応じた。
「しかし協力とはいうが、俺はいったい何をすればいいんだ?」
「大丈夫です。藍沢先輩は自分なりのやり方で、情報を集めてください」
「いやいや。答えになってないって」
「大丈夫です。私は藍沢先輩の情報収集能力の高さを信頼しています」
「いや、俺らまだ会って二日目だから。無条件に能力を信頼される程の付き合いじゃないから」
必死に訴えかける俊平だが願いは届かず、問答無用で会話が続けられる。
「藍沢先輩、明日も部室に来られますか?」
「それは別に構わないが」
「放課後に作戦会議をしましょう。闇雲に動くよりは効率がいいはずです」
「確かに。何事も指針は必要か」
「それでは具体的なお話はまた明日にして、今日の活動はお開きにしましょう」
「賛成だ。色々なことが起こり過ぎて、俺も一度頭を整理したい」
「私は用事があるのでもうしばらく学校に残りますが、藍沢先輩はこの後は?」
「真っ直ぐ家に帰るよ。サブスクで見たい映画があるんだ」
「セクシーな内容ですか?」
「そうだと答えたらどうするんだ?」
「赤面して可愛らしい悲鳴を上げます」
「はーい。お疲れ」
相手にせずに横を通り抜ける。俊平もだんだんと繭加のあしらい方に慣れてきた。
「ちなみに、海外のサスペンス映画だ」
念のためにジャンルを告げて、俊平は文芸探求部の部室を後にした。
※※※
「俊平。今帰りかい?」
「藤枝さん」
下駄箱で靴を履き替えている俊平に、渦中の人物が声を掛けてきた。普段なら元気良く返事をする俊平だが、流石に今は気まずさを感じていた。
「どうかした? 何だか顔色が悪いけど」
「逆光のせいですよ。俺はすこぶる元気です」
明るい口調でおどけて、平常運転の藍沢俊平を装う。藤枝も自分の気のせいだと思ったのか、それ以上は追及してこなかった。
「この時間まで残っているのは珍しいね」
「ちょっと友達と話し込んじゃって」
まさか、「二年前の橘芽衣の自殺にあなたが関わっているかもしれないと、彼女の従妹から聞かされていました」などと言うわけにはいかない。口ごもらず、意外にもスラスラと嘘が口をついた。
「藤枝さんこそ珍しいですね。この時間まで残ってるの」
藤枝は受験生ということもあり、三年生になってからは受験勉強に専念している。塾通いで放課後はすぐ学校を出てしまうため、日が落ちかけている時間帯に校舎で会うのは珍しい。
「ちょっと進路のことで先生とお話があってね。今のままの成績を維持できれば、国立も十分狙えそうだ」
「凄いじゃないですか」
「勉強には力を入れてきたからね。頑張った甲斐があったよ」
胸の前で拳を握る藤枝は心底嬉しそうだ。誰かに言いたくてたまらなかったに違いない。
「藤枝さん一つ聞いて良いですか?」
俊平はその場の思いつきで、ある話題を切り出す。それは純粋な好奇心であると同時に核心をつく言葉でもあった。
「藤枝さんには、人には言えない秘密はありますか?」
「藪から棒だね。何かあったのかい?」
質問に対する藤枝の反応を確かめたかったのだが、目立った動揺は見られない。唐突な質問に疑問を抱くのは自然な反応だ。これだけでは揺さぶりとして不十分かもしれない。
「大した意味は無いんですけど、ゴールデンウイーク中に秘密をテーマにした映画を見たのが印象に残ってて。藤枝さんみたいな立派な人にも何か秘密ってあるのかなって」
「秘密か。突然そんなことを言われてもな」
「何でもいいんですよ? 例えば実は昔誰かと付き合ってましたとか」
「……この場で話せるような、面白い話題は無いかな」
これまで嫌な顔を一つせずに会話に合わせてくれていた藤枝が、この問いかけに対してだけは一瞬言葉に詰まった。その瞬間を俊平は見逃さない。
「そうですよね。突然すみません。変なことを聞いちゃって」
俊平は苦笑交じりに頭を下げた。内心動揺してはいたが、それを表に出すことはない。
藤枝に対す俊平の認識の中に、疑念の二文字が浮かび上がっていた。少なくとも、藤枝が何か秘密を持っていることは確信した。
「それじゃあ藤枝さん、俺はこの辺で」
これ以上平静を装っていられる自信はなかったので、俊平は手早く靴を履き替えた。
「ああ、お疲れ様」
藤枝は笑顔で手を振って俊平を見送る。俊平は軽く会釈をして、生徒玄関の扉に手を掛けた。
「待って。俊平」
「何ですか?」
扉を押し開ける寸前で呼び止められて、俊平は動きを止めた。
「君にも何か秘密はあるのかい?」
「ありますよ。人間ですから」
決して表情は見せまいと一度も振り返らず、俊平は校舎を後にした。
「瑛介。藤枝さんってどういう人だと思う?」
「急にどうしたんだ?」
翌朝。教室にやってきた瑛介が席に着くなり、俊平はそんな質問を投げかける。
俊平の意図はもちろん、藤枝のダークサイドを探るための情報収集にあるのだが、事情など知る由も無い瑛介は唐突な質問に困惑し、ショルダーバックの中身も出さぬまま、その場で目を細めている。
「昨日久々に話してさ。当たり前なんだけど、中学の頃よりも大人びてて、見え方がまた変わったなと思って」
俊平の言葉に一応は納得したらしく、瑛介は顎に手を当て考え込む仕草を見せた。
「俺は最近会えてないから印象はあまり変わってないけど、藤枝先輩といえば運動神経抜群で成績も優秀で、イケメンで女子人気も高い超絶リア充。それでいてユーモアもあって、人柄が良いから男子にも慕われてる完璧人間って感じかな。俺にもそのスペックを少し分けてもらいたいよ」
表現はともかくとして、瑛介の語る藤枝燿一像は、他の生徒が抱いているそれとほとんど変わらないはずだ。藤枝のことを知る生徒なら皆、多かれ少なかれ同じような印象を持っている。
「悪い噂とかは?」
「少なくとも俺は聞いたことないけど。てか、藤枝先輩のことなら俺よりもお前の方がよく知っているだろ」
「まあ、それはそうなんだけど」
もっともな意見に俊平は苦笑する。瑛介も藤枝と顔見知りではあるが、あくまで同じ中学出身の先輩後輩程度の関係性でしかない。一方で俊平は中学時代から生徒会で一緒になる機会が多かったので、他の生徒に比べて交流が深い。
「何が気になってるのか知らないけど、噂を聞きたいなら小夜か唯香にでも聞いてみたらどうだ? 女子には独自の情報網があるからな」
「そういうものか?」
「そういうものだ。はむかったら最後。俺らは残りの高校生活を社会的に死んだ状態で送ることになるぞ」
瑛介が話を誇張させ面白おかしく語る。その姿は怪談や都市伝説を語り聞かせて反応を楽しむ様にどこか似ていた。
「それなら問題ない。俺は別に探られて困る腹とか無いから。お前と違ってな」
「いや、俺もねえよ!」
「お前の意見を取り入れて、二人にも話を聞いてみるよ」
瑛介の肩を軽く叩くと、俊平は自分の席から立ち上がり、小夜と唯香が談笑している廊下側の唯香の席へと向かった。
「ごめん。ちょっと邪魔していいか?」
一声かけて、空いていた近くの席に腰を下ろす。
「二人に聞きたいことがあって」
「どうしたの改まって」
「らしくないよ、俊平くん」
堅苦しい間柄でもないのだろうにと思い、二人は苦笑顔で頷き合っている。
「実は藤枝燿一さんについて聞きたいんだけどさ」
「藤枝さんって三年の?」
小夜の言葉に俊平は頷く。
「聞きたいことって具体的には? 私達、藤枝先輩と親しいわけじゃないし、むしろ俊平の方が詳しいんじゃない?」
直前に瑛介に言われた言葉を思い返す。やはり、藤枝に最も近い位置にいるのは俊平だというのが周囲の共通認識のようだ。だが、今回俊平が知りたいのは、自身の知らない藤枝の一面にあり、藤枝に対して親しい先輩というフィルターがかかっている俊平の審美眼は、今回に限っては役には立たない。今必要なのは第三者からの客観的な意見だ。
「変な噂を小耳に挟んでな。まさか藤枝さん本人に聞くわけにもいかないし、個人的に調べてるんだ」
流石にいきなり女性関係の噂を口にすることは憚られたため、噂という曖昧な表現で尋ねる。もし引っ掛かりを覚えるのなら、二人に何かしらのリアクションがあるはずだ。
「知ってたんだ。俊平」
小夜の声のトーンが僅かに下がり、唯香も困惑気味に目をパチクリさせている。変化は明白だった。やはり藤枝燿一には何かがある。二人の反応を見て、俊平はそう確信した。
「信じたくないけどさ。藤枝さんって、女性関係で悪い噂があるんだろ?」
ここぞとばかりに俊平は核心をつく。言葉とは裏腹に心は波紋一つ立てずに落ち着いている。疑惑が徐々に確信へと変わっていく。不思議な高揚感が体を支配している。
「……俊平なら悪いようにはしないと思うから言うけど、実は私達の友達に、藤枝先輩と付き合ってた子がいたの」
小夜からもたらされた情報は俊平の想像以上のものだった。女子の中での藤枝に対する評判を聞ければ上々と思っていたのだが、まさか当事者の存在まで明らかになるとは思っていなかった。
「……C組の桜木志保って子なんだけどね」
唯香が気まずそうに女子生徒の名前を口にする。その様子から、穏やかな内容ではなさそうだ。
「その桜木って子と、藤枝さんの間に何があったんだ?」
一呼吸置いて、小夜は重い口を開いた。
「……藤枝先輩、志保以外の子とも付き合ってたの」
「二股ってことか?」
「そんな生易しいものじゃないよ。一体何人の女の子と関係を持っていたのか分らないくらい」
「気持ちの移り変わりも早くて、捨てられた子も多い。志保もその一人だし……」
言葉の節々に小夜は怒りを、唯香は不快感をそれぞれ表していた。友人が被害に遭っているの。感情的になるのも当然だった。
「そんなに悪名高いのか、藤枝さんは」
冷静に現実を受け止められるようになってきたとはいえ、流石の俊平もここまでの悪評には驚きを隠せなかった。
「身近に被害に遭ったことのある子たちの間での評判は最悪だけど、悪評を知る子自体は少数派だと思う。内容が内容だし、被害に遭った子たちも口が重いから」
「そんなことになってたのか」
繭加の情報の裏付けが取れた瞬間だった。もちろん話を聞いただけでは根拠としては不十分かもしれないが、二人が俊平に嘘をつく理由など何も無い。少なくとも、一部の女子生徒の間で藤枝の印象が最悪であることは確実だろう。
「どうして今まで俺に言わなかった?」
話振りから察するに、藤枝の悪評が立ったのは昨日今日のことではない。なぜ小夜や唯香が一度も自分にそのことを話さなかったのか、俊平には疑問だった。
「だって俊平って、藤枝先輩と親しいんでしょう? そんな人の悪評なんて、俊平に言えないよ」
「仲の良い先輩の悪口なんて言われて、俊平くんが気分良いわけがないし」
「気遣ってくれてありがとう。情報提供に感謝するよ」
そう言い残して俊平はその場を立ち去ろうとする。普段なら雑談でも交えていくところではあるが、今の俊平にそこまでの余裕は無かった。
「ねえ、俊平」
去り際の俊平を小夜が呼び止めた。
「志保ちゃんのことは、そっとしておいてあげてね」
小夜が危惧すること。それは更なる情報を求めて、俊平が桜木志保の心の傷を掘り返すような真似をしてしまうことだった。もちろん俊平がそんな行動を取る人間だとは思っていないが、それでも傷心の友人を思えばこそ、念は押しておきたかった。
「そんなことはしないよ。人の気持ちは分かる人間のつもりだ」
俊平ははっきりとそう告げて、自分の席へと戻っていった。
「ありがとう。俊平」
背を向けた俊平の表情に、笑顔が無いことには二人は気づいていない。
――ごめん。二人とも。
友達に嘘をついた。俊平は桜木志保にも事情を聴くことが必要だと心に決めていた。小夜たちの気持ちを裏切るのは心苦しいが、それでも真実を知りたいという気持ちの方が今は圧倒的に勝っている。己の感情を優先し、友人にも平気な顔をして嘘をつく。自分は決して善人ではないと、俊平は改めて自覚した。
※※※
「それでは、藤枝耀一のダークサイドを探るための作戦会議を始めましょう」
放課後。俊平が再び文芸探求部の部室を訪れると、繭加はすでに会議の準備を整えていた。
長机の上にはこれまでに繭加が収集してきた、藤枝の疑惑に関する情報を記したノートや写真が並べられている。さながら捜査会議の様相だ。
「ここに並べたのは、私がこれまで収集してきた藤枝に関する情報です。作戦会議をする上での参考にしてください」
「よくもまあ、こんなにたくさん」
机に並べられた情報量はかなりのものだった。流石に本業の探偵や興信所などには及ばないものの、これを女子高校生一人でやったのだから恐れ入る。
「芽衣姉さんのためなら、私は苦労を惜しみませんよ」
確かに人のダークサイドを覗き見ることは繭加の趣味には違いない。だが、今回の対象者である藤枝燿一は、橘芽衣の死に大きく関係しているのだ。趣味だけでは片づけられない。真実を求める探究心。大切な人の死の原因を作った相手への復讐心。その両方が繭加の原動力となっている。
「実は俺も、藤枝さんについて少し調べてみた」
「早速情報を集めてきてくれるなんて、熱心ですね」
繭加はやや驚いた様子で目を見開いている。俊平とは協力関係にあるが、親しい藤枝を疑うことにはどうしたって葛藤が付きまとう。心の整理にもっと時間がかかるかと思っていたが、俊平は翌日にはこうして情報を提供してくれている。
「藤枝さんと男女の関係にあった女子生徒を見つけた」
「本当ですか!」
「なるほど、そういう反応か」
これだけの情報を集めておきながら、繭加が桜木志保の存在を知らないというのは意外だった。となると、昨日のやりとりにいくつかの疑問が生じてくる。
「御影。俺を焚きつけるために昨日は話を盛ったな?」
この情報量からして、繭加が藤枝に狙いを絞っていたことは事実だろう。だが少なくとも、悪評を裏付けられる程の情報はまだ得られていないのだろうと俊平は推察した。
昨日の会話の中で、俊平が藤枝の知人であることは早々に繭加に知れた。それを受けた繭加は藤枝が黒であると強調し、俊平の心に微かに存在していた藤枝に対する疑念を刺激したのだ。一度着火した疑念の火は、記憶の導火線を辿って過去の印象的だった出来事を思い起こさせる。思考は疑念の火をより激しく延焼させた。駄目押しで繭加が情報を肯定して油を注いだ。これでもう、俊平の中の疑念の火は当面鎮火することはない。
結果、疑念を抱いた俊平は能動的に働き、独自のルートで、繭加も掴めなかった新たな情報を入手してきた。繭加の目論見は大成功だったといえるだろう。
「藍沢先輩は鋭いですね。少々手詰まり感があったので、先輩の顔の広さに頼らせていただきました。知人が絡んでいるのなら、強い確信があるように見せかけなければと思いまして」
「……その場で見抜けないとは、俺も間抜けだな」
悪びれる様子もなく、繭加は屈託のない笑みで白状する。そんな姿を前にしても、俊平に怒りは湧いてこなかった。昨日の話が完全に繭加の想像であり、藤枝が潔白であったなら俊平も怒り心頭だっただろうが、結果的に藤枝の悪評は恐らく事実であり、盛られた繭加の話を裏付けることになった。もちろん利用されたようで良い気持ちはしないが、今はそれよりも藤枝に対する失望感の方が圧倒的に強い。
「手詰まり感というのは?」
「藤枝の悪評は事実である確信しながらも、被害者を特定できずに困っていたところだったんです。内容が内容ですし、かなり踏み込んだ調査が必要ですが、入学間もない一年生が上級生を探るのは難しい……人脈を広げようにも、友達もいませんし」
「そ、そうか。なんかすまん」
余計な事を言ってしまったような気がして俊平は苦い顔をした。ともあれ俊平が入手してきた情報は繭加にとっても有益になりそうだ。
「それで、その女子生徒というのは?」
「教える前に条件がある」
俊平が右手の人差し指を立てると、繭加と首を傾げた。
「その女子生徒に話を聞く時は、節度を弁え相手の気持ちを思いやること。相手が嫌がったら無理に聞きだそうとせずに切り上げること。この二つを約束してくれ」
小夜たちが危惧していた通り、桜木志保から藤枝に関する情報を得るということは彼女の傷を掘り返す行為に他ならない。情報を得ることを前提としている時点で、すでに小夜たちとの約束は破ってしまっているが、必要以上に桜木志保を傷つけないように配慮することが、俊平のせめてもの心遣いであった。
「分りました。私の目的はあくまでも、藤枝の本性を炙り出すことですから」
繭加は入手したダークサイドを脅しには使わないなど、己にしっかりルールを課している。口約束とはいえ、約束した以上はそれを守ってくれるはずだ。
「名前は桜木志保。俺と同じ二年生だ。過去に藤枝さんと交際していたが、どうやら何股もかけられていたらしい。詳しい事情は友達にも話していないみたいで、真相は本人のみぞ知るところだ」
情報元が小夜と唯香だということは語る必要は無いだろうと判断し、名前は出さなかった。それを知ったところで繭加が何かをするとも思えなかったが、可能な限り小夜と唯香は今回の一件からは遠ざけておきたかった。約束を破り、第三者に桜木志保の名前を漏らしてしまっているという罪悪感もある。
「桜木志保さんですか、上手くお話を聞ければ、藤枝の正体を暴く突破口になるかもしれませんね」
繭加は顎に手を当て考え込んでいる。どうやって桜木志保から情報を聞き出すのか、早速そのシュミレーションを始めているようだ。
「一般論として、見ず知らずの相手に恋愛関係の嫌な記憶を快く話してはくれないだろうな」
「一年生の私では厳しいかもしれませんね。入学間もない一年生に、そんな話を打ち明けてくれるとは思えません」
「確かに。関係値は不足しているな」
「藍沢先輩が聞き出すことが出来ないんですか? 先輩は交友関係が広くて、コミュニケーション能力も高いでしょう」
「お褒めに預かり光栄だが、それは厳しいだろうな。同じ学年とはいえ直接の知り合いではないし、内容的に異性には特に言いにくいだろう」
口にした理由はもちろんだが、本音を言えば情報源である小夜たちの手前、自ら直接桜木志保に事情を尋ねることは気が引けた。俊平の関与がすぐに小夜や唯香に伝わってしまう。
「ここまで来て諦めるわけにはいきません。無理は承知で桜木さんからお話しを聞くしか――」
「もう俺との約束を忘れたのか?」
感情的になりつつある繭加を俊平が諌める。今の急いた繭加では、確実に桜木志保に害を与える結果となる。
「だけど芽衣姉さんのためにも」
「落ち着け。俺に考えがある」
仮にも情報を持ってきた張本人だ。俊平も作戦ぐらいは考えてきている。
「無関係の人間だと話を聞くのが難しいのなら、無関係でなくなればいい」
「藍沢先輩、寝言は寝てからにしてください」
「おい御影。真顔で言うな真顔で」
すかさず物申すと、俊平は咳払いをして仕切り直し、プレゼンテーションを開始した。
「話を聞く側。つまりこちら側も、藤枝さんの被害者だという体で桜木に話を聞いてみるのはどうだ? 共通点を作ることで、無関係の人間から被害者同士に関係性を変えるんだ」
もちろんこの方法は確実ではないが、被害者同士ということになれば、相手から見たこちら側の印象が大きく変わる可能性がある。共感によって藤枝の情報を引き出すことが出来るかもしれない。
「確かにその方法ならば初対面でもやり取りが成立するかもしれません。藤枝は多くの女性と関係を持っていたようですし、その中の一人だと語れば怪しまれることはないでしょう」
繭加の中では俊平の作戦は好評価だ。これまで入手した情報を駆使すれば、藤枝の被害者の一人に成り済ますことも十分に可能だ。
「ですが不安もあります。例えば桜木さんに話を切り出すにしても、やはりいきなり藤枝の話題を出すのは不自然ではないですか?」
「そこはこれから詰めて行こう。どういう風に話を切り出せば自然か、どうすれば桜木志保からより多くの情報を得ることが出来るか。演技プランを考えるんだ」
「今日の藍沢先輩は頼もしいですね」
「いつも、の間違いだろ?」
出会ってまだ三日。リップサービスなのは分かっているが、褒められて悪い気はしない。
「それで、演技力に自信は?」
被害者同士という設定でいく以上は、繭加かが演技をして桜木志保に近づかなければいけない。相手に心を開かせる必要があるため、それ相応の演技力が求められる。
「……」
俊平の期待も虚しく繭加は沈黙を答えとした。
「それじゃあ脚本力の方は?」
演技も重要だが、話の辻褄が合わなければそれ以前の問題だ。演技力に自信が無いのなら、尚更事前に脚本を作って練習しておく必要がある。
「……」
デジャブを感じさせる沈黙が流れ、俊平の瞬きの回数が増加する。気まずいのは繭加も同様で、不自然な作り笑いを浮かべて沈黙をやり過ごそうとしている。
「前途多難だな」
俊平は項垂れて、大きく溜息をついた。俊平の仕事はどうやら思ったよりも多くなりそうだ。