「そういえば今日は、五月七日か」
不意に、作馬が黒板に記された日付に視線を移す。
「確か二年前の今日だったよな。この学校の女子生徒が屋上から飛び降り自殺したのって」
彰の一言で、その場に流れる空気が変わった。
「そういえばそんな話があったね。私達が入学する前の年だっけ?」
唯香が興味深そうに彰に尋ねる。噂ぐらいは知っているが、詳しい事情まで知らなかった。
「作馬そういう暗い話は止めておこうぜ。久しぶりの学校なんだしさ」
「そうだよ、作馬くん」
瑛介と小夜が作馬を制する。表面上は穏やかな笑みを浮かべているが、口調は早口で落ち着きに欠ける。焦っている証拠だ。
「今日この話題を話してる奴はけっこう多いと思うけど。新入生はもちろん、二年前のことをリアルタイムで知ってる三年生とかさ」
彰は純粋にゴシップとして語っており、唯香も興味深そうに相槌を打っている。それとは対照的に、瑛介と小夜の表情は複雑だ。無表情の俊平の顔色を二人が伺っているように見える。
「去年もけっこう話題になってたけど、美人で優等生の先輩だったらしいよな。何で自殺したのか、理由は謎らしいし」
「ということは、自殺しそうな理由が見当たらないのに自殺したってこと?」
「先輩はそう言ってた。なんだかドラマみたいな話だよな」
彰がそこまで言ったところで、沈黙を貫いていた俊平が静かに口を開く。
「作馬。もういいだろう」
俊平は俯いたまま彰に忠告する。口調こそ穏やかだが、明らかに普段の俊平とは様子が異なる。
「どうしたんだよ、俊平」
普段なら率先して会話を盛り上げる俊平がいつになく大人しい。彰は軽い調子で返すが、その態度が完全に俊平の逆鱗に触れてしまった。
「人が一人死んでるんだよ!」
俊平は勢い良く立ち上がり、感情に任せて激しく机を叩く。突然の大きな音と怒声にクラス中が静まり返り、同級生たちの視線が集中。気まずい沈黙が流れる。
「……悪い、ちょっと出てくる」
「お、おい、俊平」
彰の呼び止めに応じず、俊平は足早に教室を飛び出して行ってしまった。
「作馬。今のはお前が悪いぞ」
見かねた瑛介が口を開く。その表情は何とも苦々しい。
「……さっきの話、そんなに地雷だったのか?」
「地雷だ。だから止めただろうが」
彰の発言をたしなめ、瑛介は静かに語り始める。
「クラス替えで今年から一緒になったお前らは知らないだろうけど、二年前に自殺した橘先輩は、俊平や俺と同じ中学の出身なんだよ」
「そうだったのか……」
自らの失言を察し、彰はバツの悪そうな顔をする。昔からついつい余計なことを言ってしまう時があると自覚していたが、今回は最大級のやらかしだった。不謹慎には違いないが、自分たちが入学する前年に起きた出来事なので、あまり関係はないと楽観的に考えていた。
「俊平や俺だけじゃない。同じ学校の出身で、その話題で良い顔する人間は誰もいない。橘先輩は本当に良い人で、中学のころから先輩を悪く言う人間は誰もいなかった。そんな先輩が二年前この高校で自殺したんだ。先輩を知る俺らからしたら、とてもゴシップじゃ片づけられないんだよ」
瑛介にも苛立ちが見え隠れしているが、彰に悪気が無かったことも理解しており、感情的になることは抑えていり。瑛介は普段こそふざけてばかりの印象だが、同年代と比べると内面的には落ち着いている。
「去年もね、何も知らずに橘さんのことを面白可笑しく語ってる男子と俊平の間で激しい言い争いになったの。私も当時は事情を知らなかったから、かなり驚いたな」
当時の様子を思い浮かべ、小夜が目を細める。橘芽衣の自殺からまだ一年しか経っていなかった去年は、今年以上にその話題が注目されていた。本来人の死は、悼みはしても嬉々として吹聴されてよいものではない。しかし、刺激的な話題に敏感な若者の多い高校という環境だ。話題に飛びつく者も多かった。
それは去年、俊平たちが在籍していたクラスにおいても同じで、普段から悪ノリの目立つとある男子生徒が、知り合いでもない橘芽衣についてその人物像や自殺の理由に関して独自の推理を披露するという場面があった。その時の男子生徒が口にした内容はあまりにも荒唐無稽で、俊平が注意を促しても男子生徒はそれを聞き入れなかったため、意見を同じくする俊平や同じ中学の出身者と、男子生徒とその友人たちの間で激しい口論に発展した。冷静だった瑛介や、小夜を始めとした第三者の生徒が間に入ったことで暴力沙汰にはならなかったが、入学一ヶ月目ということもあり、数週間はクラス内には気まずい雰囲気が流れていた。
「……俊平が戻ってきたら、謝らないとな」
「私も無神経だった」
彰と唯香は反省を露わにし、沈痛な面持ちで目を伏せた。
「大丈夫。俊平のことだから、戻ってくるころにはケロッとしてるさ」
「そうそう。去年の一件だって、何だかんだで和解してたし」
二人を慰めるように、瑛介と小夜が優しく語り掛ける。気まずい雰囲気のままなら自分たちが間に入るし、例え衝突をしても仲直り出来るような友人関係であると確信している。だからきっと大丈夫だ。
「……言葉には責任を持たないとな」
「おう。肝に命じておけ!」
励ましのつもりで瑛介が彰の背中を叩くが、勢いが強すぎたようで、彰はバランスを崩した。
「痛いじゃないか!」
「悪い。ちょっと加減を間違えた」
猛抗議する彰と平謝りをする瑛介。そのやり取りを見た小夜と唯香が笑いを堪え切れずに吹きだした。笑いは瑛介と彰にも伝染し、張りつめた雰囲気が少しずつ解けていく。
※※※
「熱くなり過ぎたな……」
教室を飛び出した俊平は、宛ても無く校内をさまよい、自己嫌悪に陥っていた。
彰の発言に憤りを覚えたのは事実だが、だからといって感情的になって教室を飛び出すというのは、あまり褒められた行動ではなかった。冷静に彰に事情を話して、波風立てずに話を治めることが出来れば一番良かったのだが、感情を抑えきれず、理性的な行動を取ることが出来なかった。
「戻ったらちゃんと謝ろう」
俊平はそう決心して、両手で自分の頬を軽く叩いた。このまま彰と仲違いしてしまうことは不本意だ。だけど、飛び出してたった数分で戻るのは、それはそれで気まずい。もう少し頭も冷やしたいし、しばらく時間を潰してから教室に戻ることに決めた。
「やあ、俊平じゃないか」
各学年の教室がある棟と、理科室やコンピューター室などがある棟を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、反対側から歩いてきた男子生徒が、俊平に向かって手を振ってきた。
「藤枝さん」
俊平は会釈を返す。反対側からやってきたのは、俊平の中学時代からの先輩、三年生の藤枝燿一だ。俊平が中学二年生の頃に生徒会へ入って以来の付き合いで、高校生になった現在でも交流を続けている。穏やかで面倒見も良いお兄さんで、彼を慕う生徒は多い。成績もトップクラスで教師からの評判も上々。優等生の代表格のような生徒だ。
「一人なんて珍しいね。俊平はいつも友達と一緒にいるイメージだから」
「実は、友達の一人と揉めて教室を飛び出してきました。頭を冷やそうと思って、時間潰しに校内を放浪中です」
「俊平が友達と揉める? 一体何があったんだい?」
深入りしていることは自覚しながらも藤枝は俊平に尋ねる。それだけ今の俊平の状態は珍しかった。中学時代からの可愛い後輩だし、話ぐらいは聞いてあげたい。
「今日は、五月七日ですから」
「なるほど。そういうことか」
その言葉だけで、藤枝は事情をある程度は察していた。藤枝も橘芽衣と同じ中学の出身であり、高校でも同級生だった。彼女が死亡した二年前の出来事、この学校でリアルタイムで経験している。
「あの屋上だったね」
藤枝が渡り廊下の窓から屋上を見上げ、俊平も同じ方向を見やる。二年前、橘芽衣はあそこから身を投げることを選択した。
「……いつまでも引きずってはいられないけど、命日になると思うところがあるよ」
藤枝は神妙な面持ちで目を伏せ、俊平も無言で頷く。同じ悲しみを共有している中学時代からの先輩。複雑な感情を抱えている今だからこそ会えて良かったと、俊平は思った。
「僕はそろそろ行くよ。」
気持ちを切り替えて爽やかな笑みを浮かべた藤枝は元々の進行方向である、三年生の教室の方へと歩き出した。
「しっかり友達と仲直りするんだよ」
「ありがとうございます。藤枝さん」
俊平は藤枝の背中を見送った。藤枝の姿が完全に見えなくなったところでスマホを取り出し、現在の時刻を確認する。
「まだ余裕があるな」
今日は命日だ。あの場所を訪れて故人を偲ぶのも悪くないだろう。俊平は残りの昼休みの使い方を決め、生徒玄関へと向かった。
不意に、作馬が黒板に記された日付に視線を移す。
「確か二年前の今日だったよな。この学校の女子生徒が屋上から飛び降り自殺したのって」
彰の一言で、その場に流れる空気が変わった。
「そういえばそんな話があったね。私達が入学する前の年だっけ?」
唯香が興味深そうに彰に尋ねる。噂ぐらいは知っているが、詳しい事情まで知らなかった。
「作馬そういう暗い話は止めておこうぜ。久しぶりの学校なんだしさ」
「そうだよ、作馬くん」
瑛介と小夜が作馬を制する。表面上は穏やかな笑みを浮かべているが、口調は早口で落ち着きに欠ける。焦っている証拠だ。
「今日この話題を話してる奴はけっこう多いと思うけど。新入生はもちろん、二年前のことをリアルタイムで知ってる三年生とかさ」
彰は純粋にゴシップとして語っており、唯香も興味深そうに相槌を打っている。それとは対照的に、瑛介と小夜の表情は複雑だ。無表情の俊平の顔色を二人が伺っているように見える。
「去年もけっこう話題になってたけど、美人で優等生の先輩だったらしいよな。何で自殺したのか、理由は謎らしいし」
「ということは、自殺しそうな理由が見当たらないのに自殺したってこと?」
「先輩はそう言ってた。なんだかドラマみたいな話だよな」
彰がそこまで言ったところで、沈黙を貫いていた俊平が静かに口を開く。
「作馬。もういいだろう」
俊平は俯いたまま彰に忠告する。口調こそ穏やかだが、明らかに普段の俊平とは様子が異なる。
「どうしたんだよ、俊平」
普段なら率先して会話を盛り上げる俊平がいつになく大人しい。彰は軽い調子で返すが、その態度が完全に俊平の逆鱗に触れてしまった。
「人が一人死んでるんだよ!」
俊平は勢い良く立ち上がり、感情に任せて激しく机を叩く。突然の大きな音と怒声にクラス中が静まり返り、同級生たちの視線が集中。気まずい沈黙が流れる。
「……悪い、ちょっと出てくる」
「お、おい、俊平」
彰の呼び止めに応じず、俊平は足早に教室を飛び出して行ってしまった。
「作馬。今のはお前が悪いぞ」
見かねた瑛介が口を開く。その表情は何とも苦々しい。
「……さっきの話、そんなに地雷だったのか?」
「地雷だ。だから止めただろうが」
彰の発言をたしなめ、瑛介は静かに語り始める。
「クラス替えで今年から一緒になったお前らは知らないだろうけど、二年前に自殺した橘先輩は、俊平や俺と同じ中学の出身なんだよ」
「そうだったのか……」
自らの失言を察し、彰はバツの悪そうな顔をする。昔からついつい余計なことを言ってしまう時があると自覚していたが、今回は最大級のやらかしだった。不謹慎には違いないが、自分たちが入学する前年に起きた出来事なので、あまり関係はないと楽観的に考えていた。
「俊平や俺だけじゃない。同じ学校の出身で、その話題で良い顔する人間は誰もいない。橘先輩は本当に良い人で、中学のころから先輩を悪く言う人間は誰もいなかった。そんな先輩が二年前この高校で自殺したんだ。先輩を知る俺らからしたら、とてもゴシップじゃ片づけられないんだよ」
瑛介にも苛立ちが見え隠れしているが、彰に悪気が無かったことも理解しており、感情的になることは抑えていり。瑛介は普段こそふざけてばかりの印象だが、同年代と比べると内面的には落ち着いている。
「去年もね、何も知らずに橘さんのことを面白可笑しく語ってる男子と俊平の間で激しい言い争いになったの。私も当時は事情を知らなかったから、かなり驚いたな」
当時の様子を思い浮かべ、小夜が目を細める。橘芽衣の自殺からまだ一年しか経っていなかった去年は、今年以上にその話題が注目されていた。本来人の死は、悼みはしても嬉々として吹聴されてよいものではない。しかし、刺激的な話題に敏感な若者の多い高校という環境だ。話題に飛びつく者も多かった。
それは去年、俊平たちが在籍していたクラスにおいても同じで、普段から悪ノリの目立つとある男子生徒が、知り合いでもない橘芽衣についてその人物像や自殺の理由に関して独自の推理を披露するという場面があった。その時の男子生徒が口にした内容はあまりにも荒唐無稽で、俊平が注意を促しても男子生徒はそれを聞き入れなかったため、意見を同じくする俊平や同じ中学の出身者と、男子生徒とその友人たちの間で激しい口論に発展した。冷静だった瑛介や、小夜を始めとした第三者の生徒が間に入ったことで暴力沙汰にはならなかったが、入学一ヶ月目ということもあり、数週間はクラス内には気まずい雰囲気が流れていた。
「……俊平が戻ってきたら、謝らないとな」
「私も無神経だった」
彰と唯香は反省を露わにし、沈痛な面持ちで目を伏せた。
「大丈夫。俊平のことだから、戻ってくるころにはケロッとしてるさ」
「そうそう。去年の一件だって、何だかんだで和解してたし」
二人を慰めるように、瑛介と小夜が優しく語り掛ける。気まずい雰囲気のままなら自分たちが間に入るし、例え衝突をしても仲直り出来るような友人関係であると確信している。だからきっと大丈夫だ。
「……言葉には責任を持たないとな」
「おう。肝に命じておけ!」
励ましのつもりで瑛介が彰の背中を叩くが、勢いが強すぎたようで、彰はバランスを崩した。
「痛いじゃないか!」
「悪い。ちょっと加減を間違えた」
猛抗議する彰と平謝りをする瑛介。そのやり取りを見た小夜と唯香が笑いを堪え切れずに吹きだした。笑いは瑛介と彰にも伝染し、張りつめた雰囲気が少しずつ解けていく。
※※※
「熱くなり過ぎたな……」
教室を飛び出した俊平は、宛ても無く校内をさまよい、自己嫌悪に陥っていた。
彰の発言に憤りを覚えたのは事実だが、だからといって感情的になって教室を飛び出すというのは、あまり褒められた行動ではなかった。冷静に彰に事情を話して、波風立てずに話を治めることが出来れば一番良かったのだが、感情を抑えきれず、理性的な行動を取ることが出来なかった。
「戻ったらちゃんと謝ろう」
俊平はそう決心して、両手で自分の頬を軽く叩いた。このまま彰と仲違いしてしまうことは不本意だ。だけど、飛び出してたった数分で戻るのは、それはそれで気まずい。もう少し頭も冷やしたいし、しばらく時間を潰してから教室に戻ることに決めた。
「やあ、俊平じゃないか」
各学年の教室がある棟と、理科室やコンピューター室などがある棟を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、反対側から歩いてきた男子生徒が、俊平に向かって手を振ってきた。
「藤枝さん」
俊平は会釈を返す。反対側からやってきたのは、俊平の中学時代からの先輩、三年生の藤枝燿一だ。俊平が中学二年生の頃に生徒会へ入って以来の付き合いで、高校生になった現在でも交流を続けている。穏やかで面倒見も良いお兄さんで、彼を慕う生徒は多い。成績もトップクラスで教師からの評判も上々。優等生の代表格のような生徒だ。
「一人なんて珍しいね。俊平はいつも友達と一緒にいるイメージだから」
「実は、友達の一人と揉めて教室を飛び出してきました。頭を冷やそうと思って、時間潰しに校内を放浪中です」
「俊平が友達と揉める? 一体何があったんだい?」
深入りしていることは自覚しながらも藤枝は俊平に尋ねる。それだけ今の俊平の状態は珍しかった。中学時代からの可愛い後輩だし、話ぐらいは聞いてあげたい。
「今日は、五月七日ですから」
「なるほど。そういうことか」
その言葉だけで、藤枝は事情をある程度は察していた。藤枝も橘芽衣と同じ中学の出身であり、高校でも同級生だった。彼女が死亡した二年前の出来事、この学校でリアルタイムで経験している。
「あの屋上だったね」
藤枝が渡り廊下の窓から屋上を見上げ、俊平も同じ方向を見やる。二年前、橘芽衣はあそこから身を投げることを選択した。
「……いつまでも引きずってはいられないけど、命日になると思うところがあるよ」
藤枝は神妙な面持ちで目を伏せ、俊平も無言で頷く。同じ悲しみを共有している中学時代からの先輩。複雑な感情を抱えている今だからこそ会えて良かったと、俊平は思った。
「僕はそろそろ行くよ。」
気持ちを切り替えて爽やかな笑みを浮かべた藤枝は元々の進行方向である、三年生の教室の方へと歩き出した。
「しっかり友達と仲直りするんだよ」
「ありがとうございます。藤枝さん」
俊平は藤枝の背中を見送った。藤枝の姿が完全に見えなくなったところでスマホを取り出し、現在の時刻を確認する。
「まだ余裕があるな」
今日は命日だ。あの場所を訪れて故人を偲ぶのも悪くないだろう。俊平は残りの昼休みの使い方を決め、生徒玄関へと向かった。