「……五月七日か」
藍沢俊平は普段よりも早く目を覚ました。昨日でゴールデンウイークが終わり、今日は数日ぶりの学校だ。念のためスマホのアラームを設定しておいたが、結果的に予定時刻よりも三十分も早く目覚めてしまった。日頃から規則正しい生活は送っているが、今日に限ってはそれ以上に、無意識に日付を意識した結果なのだろうと俊平は冷静に受け止めていた。
「早く起きれたし、一品追加するか」
簡単に朝の支度を済ませると、俊平は朝食とお弁当用に調理を開始した。藍沢家は会社員の父親が単身赴任中で、看護師で夜勤も多い母親はこの時間は眠っていることが多い。その結果高校生の俊平は積極的に料理スキルを身につけ、自分の朝食と母親用の作り置き、昼食用のお弁当を調理するのが毎朝の習慣となっている。家庭環境の影響もそうだが、高校卒業後は進学し、一人暮らしをしようと考えているので、今のうちから積極的に家事スキルを高めようとしている部分もある。
時間に余裕があったので、朝食に一品追加で卵焼きを使うことにした。俊平は溶いた卵を卵焼きに流し込むと、焼きが入って固まってきた卵を丁寧に折り畳んでいき、綺麗な卵の層を作っていく。母親が眠っているのでテレビはつけない。穏やかな朝に、熱せられた油の音だけが響いていく。
料理をしている時間が俊平は普段から好きだったが、今日、五月七日の朝は普段以上にそれがありがたかった。こうして料理に集中している間だけは、五月七日の辛い記憶を忘れていられる。
※※※
「今日で二年か……」
一人の少女がベッドの上で目を覚ました。スマホで時刻を確認すると、五月七日の六時を示している。アラームよりも少しだけ早起きをした。昨夜は寝付けるか不安だったし、実際普段よりも時間がかかったけど、それなりに眠ることは出来た。
上体を起こすと、机の上に置いてある写真立てが目に止まった。そこには今よりもまだ顔立ちが幼い少女と、その隣にもう一人、背の高い大人びた少女が写っている。二人とも満面の笑みを浮かべて寄り添っており、とても仲が良さそうだ。
「芽衣お姉ちゃんの学年に追いついちゃったよ」
実の姉のように慕っていた大切な人。彼女の時間は二年前の今日に止まってしまった。もうあの頃には戻れない。それどころ自分だけが年齢を重ね、とうとう今年は同じ学年になってしまった。八月に誕生日を迎えたら年齢でも並び、来年にはとうとう追い抜いてしまう。少女は十五歳にして、時の流れの残酷さを感じずにはいられなかった。
「私が決着をつけるから」
少女はベッドから立ち上がると、机の引き出しから日記帳を取り出し、それをスクールバックの中へとしまった。
※※※
「まだまだ遊び足りねえええええ」
「実は彼氏とついにね」
「今年引退の先輩たちのためにも、もっと練習頑張らないと」
「青春って何だよ……」
「そうやって思い悩むことじゃないか?」
昼休み。都立緋花高校二年A組の教室は、ゴールデンウイーク明けということもあり、普段よりもたくさんの話題に溢れていた。
連休中に遠出したり。部活動に勤しんだり。あるいは自宅でのんびりと過ごしたり。各々が連休中の出来事を語り合い、昼食時の雑談を盛り上げていた。中には思考の沼にはまっている者もいたが、良き友人が隣にいるのできっと大丈夫だろう。これもまた青春の一ページだ。
「連休中はどうだった。俊平」
窓際最後列に座る矢神瑛介が、一つ前の席に座る藍沢俊平に尋ねた。朝は寝過ごした瑛介が遅刻してきたのでゆっくり話せていなかった。
「変わったことは何も。早めに宿題を片付けて、その後は近場をブラブラしたり、家で映画見たり。普段の休みと大差なかったな」
俊平は苦笑交じりに振り返り、椅子の背もたれに右腕をかけた。
「おいおい。ほとんど俺と同じじゃないか。真似すんなって」
「お前こそ真似するなって。冗談はさておき、予定のない休日の過ごし方なんてそんなもんだよな」
大仰に肩を竦めると、俊平は机に置いていた紙パックのお茶を啜った。今更だが、何か予定を組んで二人で遊んでも良かったかもしれない。
「映画は何を見たんだ?」
「あまり知られてない良作を発掘しようと思って、マイナーなタイトルを色々と試してみたんだが……はずれ感が半端なかったな」
連休中にサブスクで視聴した映画の数々を思い出し、俊平は遠い目をした。
サメ映画の派生形だろうか? 全ての足に重火器を装備したイカが襲ってくるアニマルパニック。衝撃のラストという触れ込みの下、主人公も犯人も、死んだはずの被害者も、全ての登場人物が笑顔でダンスを踊るという衝撃の大団円を迎えたサスペンス映画。主人公の顔芸のインパクトの方が強くて、以降のジャンプスケアがまったく物足りなくなってしまった勿体ないホラー映画などなど。
たまに見る分にはこういったマイナー映画も悪くないが、連休中に一気見したのがよろしくなかった。どんな作品でも一度見始めたらからには最後まで見なければ気がすまない俊平の性格も相まって、終盤は完全に胸焼け気味だった。瑛介を巻き込んでおけば、同じ苦しみを共有出来たかもしれない。
「あるあるだな。俺も経験ある」
「だけど、一本当たりもあったんだ」
「当たり?」
「時間を置いて最後に見た一本がなかなか面白くてさ。死んだ女の子のために、主人公が社会的に復讐していくサスペンスで、人によって好き嫌いが分かれそうな内容だけど、俺には結構刺さったな。色々と感情移入するところも多くて」
「復讐モノか。俺は正直苦手だな、そういうの」
瑛介が好むのはハートフルな映画やコメディー要素の強い映画で、シリアスな内容はあまり得意ではない。せめてフィクションの世界ぐらいはハッピーエンドを求めたいというのが瑛介の心情だ。
「俊平ってそういう映画を好むタイプだったか? 比較的俺に近い嗜好の持ち主だと思ってたんだが」
「新しい自分を発見ってやつだよ。普段見ないジャンルを見たら意外と楽しめた。ただそれだけ」
映画をより楽しむためには、食わず嫌いをせずに普段とは違うジャンルに手を伸ばしてみることも時には必要なのかもしれない。それが今回の連休で俊平が得た一つの学びだった。映画談議で思いのほか盛り上がっていると。
「お待たせ、二人とも」
馴染み深い声が聞こえ、俊平と瑛介が出入り口へと視線を移す。
俊平の隣の席の女子生徒、日向小夜を先頭に、友人たちが教室に戻って来たところだった。昼休みに入ると同時に、購買に昼食を買いに行った面々だ。俊平と瑛介は普段から弁当持参なので、買い物が終わるまで教室で待っていた。
「いつもより遅かったな」
隣の席に座った小夜に俊平が尋ねる。購買は校舎内にあるので買い物にそこまで時間はかからない筈なのに、小夜たちが教室を出てからすでに十五分経過していた。昼食に手をつけずに待っていた身としては、理由を聞きたくもなる。
「購買でダイナミックバーガーが出ててね。普通の買い物も一苦労」
「そういえば普段よりも購買の方が騒がしかったような」
ダイナミックバーガーとは不定期に購買で発売されるオリジナルメニューのことだ。ボリューミーかつ、購買らしく学生の懐にも優しい低価格で大人気のメニューとなっている。一度の販売数が極端に少なく、購買にはそれ目当ての生徒が大勢押しかけ混雑するため、通常メニュー目当ての小夜のような生徒も普段より買い物に時間がかかってしまっていた。
「面白い事もあったんだけどね」
「その様子、もしかして?」
「詳細はMVPの作馬くんから」
小夜の紹介に預かり、茶髪の毛先を遊ばせた作馬彰が自慢気に巨大なハンバーガーの包みを掲げた。
「俊平、瑛介。俺はとうとう伝説を手にしたぞ」
作馬の表情には選ばれし者にしか抜けない伝説の剣でも手に入れたかのような達成感に満ちている。それを見た俊平と瑛介は二人同時に「おお!」と感嘆の声を漏らした。
購買のハンバーガー一個に大袈裟かもしれないが、ダイナミックバーガーの入手難易度は非常に高い。普段購買を利用しない俊平と瑛介は見るのはこれが初めてだし、購買派の小夜や、今回見事にダイナミックバーガー作馬でさえも、これまでは一度も入手することが出来なかった。
「よくゲットできたな。何らかの違法行為か?」
ひとしきり褒めちぎった後、瑛介が人の悪そうな笑みを浮かべる。入手難易度の高いダイナミックバーガーをゲットした彰に強運に対する、瑛介なりの褒め言葉だ。
「違法行為前提なの止めろ。俺が買いに行った瞬間にダイナミックバーガーの販売が開始されてさ。混乱に巻き込まれる前に買えてラッキーだったよ。争奪戦になってたら俺は生き残れなかっただろうな」
人聞きが悪いと瑛介の脇腹を軽く小突くと、彰は瑛介の隣の席に座り、机の上でハンバーガーの包みを開き、その全貌を明らかにした。
「……こ、これは」
「噂以上だ。限定品とはいえ、うちの購買部はどうなってるんだ」
大きなバンズの間にタップリのレタスと照り焼きチキン、トマト、卵のディップがサンドされている。幅、厚みともにかなりのもので、ファストフード店のビックサイズのメニューにも引けを取らない。これで120円だというのだから、毎回争奪戦が繰り広げられるのも納得だ。
「私もゲットしちゃった」
彰より少し遅れてやってきた明るい髪色の女子生徒、南方唯香も声を弾ませている。結の手にもダイナミックバーガーの包みが握られていた。
「おっ、唯香もゲットしたのか」
「自力じゃなくて、彰のおかげだけどね」
「唯香も絶対にこういうの好きだからな」
どうやらダイナミックバーガーに遭遇した彰が唯香の分も買っておいてくれたようだ。幼馴染である彰と唯香は息ピッタリだった。
「全員揃ったし、お昼にするか」
唯香も到着したので、俊平がポンと手を打ち鳴らす。椅子や机を動かして食べやすい形を作ると、各々が昼食を机に広げた。
昼食のメニューは、俊平は自作のお弁当とペットボトルのお茶。瑛介は妹が作ってくれたお弁当と炭酸飲料。彰と唯香はある意味で本日の主役であるダイナミックバーガー、飲料は佐久馬が紙パックの緑茶で亜季がペットボトルのオレンジジュース。小夜が購買のコロッケパンと紙パックの野菜ジュースとなっている。
「うん! やや大味だけど、こいつは美味いぞ!」
豪快にダイナミックバーガーにかぶりついた彰が即座に反応を口にする。それだけ脳内にダイレクトに味が飛び込んできた。一見するとインパクト重視のネタ商品のように思えるが、味付けにも作り手のこだわりが感じられ、味良し量良しの超優良メニューであることが判明した。確かにいくらボリュームがあるとはいえ、味の評判も良くなければここまでの人気メニューにはなれないだろう。愛される理由というやつだ。
「うーん! 甘じょっぱい照り焼きソースと卵のマリアージュが最高!」
続けて口にした唯香の反応も上々だ。よっぽど気に入ったのだろう。口に付いた照り焼きソースを気にも留めずに、すぐさま二口目を頬張った。表現もさることながら、その姿こそが美味しさの何よりの証明だ。
「そんなに凄いのか?」
弁当派で普段は購買のメニューにはあまり興味を示さない瑛介だが、流石に目の前でこれだけ美味しそうな顔をされたら、その味が気になるようだ。もちろん一番好きなのは妹が丹精込めて作ってくれたお弁当だが。
「瑛介くんも食べてみる?」
そう言って唯香は、瑛介の方に食べ欠けのダイナミックバーガーを差し出す。
「申し出は嬉しいが、間接キスになるぞ?」
意外とピュアハートの持ち主な瑛介が真顔で指摘する。相手への配慮もそうだが、自身の気恥ずかしさもある。
「大丈夫、大丈夫。私の中で瑛介くんは男としてカウントされてないから」
「……そ、それはそれで複雑だな」
瑛介は唯香に対して恋愛感情を持っているわけでは無いが、まるで男としての魅力が無いような言われようのため、その表情はサスペンスドラマのワンシーンのように渋い。心で泣いている。
「じゃあ、俺も一口貰おうかな」
話に便乗して俊平が名乗りを上げる。下心などなく、純粋にダイナミックバーガーの味が気になっただけなのだが。
「……俊平くんだと少し恥ずかしいな、間接キスみたいで」
唯香は頬を赤らめて困惑している。その様子を見て、すかさず瑛介のツッコミが火を吐く。
「ちょっと待てえ! 明らかに俺の時とリアクションが違うだろ!」
「だって俊平くんって瑛介くんと違って爽やか系のイケメンだし、恋愛感情とか抜きにしても、女子なら絶対ドギマギしちゃうよ」
「つまり、俺は爽やか系のイケメンじゃないから緊張しないと」
「うん」
「さいですか」
唯香の即答を受け、瑛介は静かに突っ伏した。このまま机に埋没してしまうかもしれない。
「俺って爽やかイケメンな自覚あったんだけどな」
誰に問うでも無く瑛介は呟いたが。
瑛介の呟きを聞きとった他の四人は、無言で瑛介の方を見つめている。ネタなのか本気なのか判断に困っているような印象だ。
「お前ら! せめてセリフで突っ込め!」
あまりにも統率の取れたリアクションを取る四人に、瑛介がキレ気味にツッコミを炸裂させる。せめて「はっ?」とか一言でも言ってもらえないと生殺しである。
「悪い悪い、瑛介があまりにも的外れなことを言い出すからさ」
「いやいや謝ってないだろ、それは」
隣の俊平に瑛介が素早くツッコミを入れる。俊平も普段はどちらかというとツッコミ役なのだが、それを上回るツッコミ力を持つ瑛介が一緒の時はついついボケに回りたくなってしまう。
「なんか不平等な感じになっちゃってごめんね。申し訳無いから、間をとって男子には食べさせないことにするよ。というわけで小夜ちゃん、一口どうそ」
「私? うん、それじゃ一口頂こうかな」
「はい、あーん」
「美味しい! こんなに美味しいなら私も自分の分買えば良かった」
唯香に食べさせてもらった小夜もその味に感激し、幸せそうに口角を上げている。色々な意味で見ている方もお腹いっぱいだ。
「おい、俊平。お前が爽やかイケメンだったせいで、ダイナミックバーガーを食べそこなったぞ。どう責任を取ってくれるんだ?」
「文句を言うのはこっちの方だ。お前が爽やかイケメンじゃないから、俺の方こそ食べ損ねたじゃないか」
ダイナミックバーガーを試食する機会を失った俊平と瑛介が、不毛な争い、という名のプロレスを開始した。
「まあまあ、俺のバーガーを一口ずつ分けてやるから落ち着けよ、二人とも」
そう言って彰が食べ欠けのダイナミックバーガーを二人に向けて差し出す。仲裁者の登場で二人の睨み合いがピタリと止まり、一転、笑顔の花が咲く。
「ありがとう、佐久馬! 大好きだぜ、お前のこと」
抱きつかんばかりの勢いで瑛介が身を乗り出し、彰へと顔を近づける。
「お前に告白されてもな」
「告白じゃねえよ!」
再びキレ気味のツッコミが炸裂し、同時に周囲から笑いが起きた。
「とにかく食ってみろよ。うまいぞ~」
笑顔の佐久馬から瑛介がレジェンドバーガーを受け取る。
「美味!」
短い言葉だが、満面の笑みがそれ以上に美味しさを物語っていた。すでに味を堪能済みの三人は、そのリアクションに頷いている。
「ほれ、俊平。俺を上回る最高の食レポを頼むぜ」
レジェンドバーガーのバトンがリレーされ、そのまま俊平は口へと運ぶ。
「美味!」
数秒前のデジャブに一瞬場が静まるが、小夜を筆頭にすぐに全員から笑いがこみ上げてきた。
「俊平、リアクションが瑛介と同じじゃん」
「バレた?」
「俺の台詞で遊ぶなよ」
「遊んでない。お前のリアクションをリスペクトしたんだよ」
「いやいや、リスペクトの使い方がおかしいだろ」
そうは言いながらも瑛介は笑いを堪えている。意外とツボだったらしい。
「美味かったのは本心だよ。ありがとう作馬、良いもの食べれた」
「どういたしまして」
ダイナミックバーガーは元の持ち主である彰の手へと移る。味もさることながら、昼食時に一つの話題を提供できた喜びも大きかった。
「お前らが購買に行ってる間に俊平と話してたんだけど、連休はどう過ごしてた?」
昼食を終えたところで、瑛介が俊平以外の三人に話題を振った。今は食後のおやつタイムとなっており、持ち寄ったお菓子をみんなでつまんでいる。
「中学の時の友達とカラオケに行ったりしてたよ。それ以外はほとんど部活だったかな」
始めに答えたのは小夜だ。小夜はバレー部に所属しているため休日も何かと忙しくしている。大会を控えていて、精力的に活動しているので、休日とはいえ学校に足を運ぶ機会が多かった。
「俺は前半は親戚の家に遊びに行ってて。後半はこっちで遊び歩いてたけど。そういえば、俊平には一回会ったよな?」
「駅前でバッタリな。そういえば作馬。あの時お前が勧めてくれたイカの映画、正直微妙だったぞ」
「そうか? 水着のブロンド美女もいっぱい出てくるし最高だろ」
「いや、俺はあまり映画にエロスは求めないタイプだから」
求めるものが違ったらしく意見が分かれる。確かに水着シーンの多い映画だったが、俊平が求めていたのはモンスターパニック特有のハラハラ感だ。
「唯香は休み中どうだった?」
「お兄ちゃんが帰省してきてたから、一緒に遊びに行ったりしてたかな。お兄ちゃんが帰ってからは、友達と映画行ったりお買い物したり」
「何と言うか、連休っぽいな」
瑛介は感心し、俊平も同感と言わんばかりに頷いている。
「はあ、休みがもう少し長かったらな」
瑛介が溜息をつき、他の四人も「分かる」と口を揃える。連休明け特有の倦怠感は、この場にいる全員が共有していた。
藍沢俊平は普段よりも早く目を覚ました。昨日でゴールデンウイークが終わり、今日は数日ぶりの学校だ。念のためスマホのアラームを設定しておいたが、結果的に予定時刻よりも三十分も早く目覚めてしまった。日頃から規則正しい生活は送っているが、今日に限ってはそれ以上に、無意識に日付を意識した結果なのだろうと俊平は冷静に受け止めていた。
「早く起きれたし、一品追加するか」
簡単に朝の支度を済ませると、俊平は朝食とお弁当用に調理を開始した。藍沢家は会社員の父親が単身赴任中で、看護師で夜勤も多い母親はこの時間は眠っていることが多い。その結果高校生の俊平は積極的に料理スキルを身につけ、自分の朝食と母親用の作り置き、昼食用のお弁当を調理するのが毎朝の習慣となっている。家庭環境の影響もそうだが、高校卒業後は進学し、一人暮らしをしようと考えているので、今のうちから積極的に家事スキルを高めようとしている部分もある。
時間に余裕があったので、朝食に一品追加で卵焼きを使うことにした。俊平は溶いた卵を卵焼きに流し込むと、焼きが入って固まってきた卵を丁寧に折り畳んでいき、綺麗な卵の層を作っていく。母親が眠っているのでテレビはつけない。穏やかな朝に、熱せられた油の音だけが響いていく。
料理をしている時間が俊平は普段から好きだったが、今日、五月七日の朝は普段以上にそれがありがたかった。こうして料理に集中している間だけは、五月七日の辛い記憶を忘れていられる。
※※※
「今日で二年か……」
一人の少女がベッドの上で目を覚ました。スマホで時刻を確認すると、五月七日の六時を示している。アラームよりも少しだけ早起きをした。昨夜は寝付けるか不安だったし、実際普段よりも時間がかかったけど、それなりに眠ることは出来た。
上体を起こすと、机の上に置いてある写真立てが目に止まった。そこには今よりもまだ顔立ちが幼い少女と、その隣にもう一人、背の高い大人びた少女が写っている。二人とも満面の笑みを浮かべて寄り添っており、とても仲が良さそうだ。
「芽衣お姉ちゃんの学年に追いついちゃったよ」
実の姉のように慕っていた大切な人。彼女の時間は二年前の今日に止まってしまった。もうあの頃には戻れない。それどころ自分だけが年齢を重ね、とうとう今年は同じ学年になってしまった。八月に誕生日を迎えたら年齢でも並び、来年にはとうとう追い抜いてしまう。少女は十五歳にして、時の流れの残酷さを感じずにはいられなかった。
「私が決着をつけるから」
少女はベッドから立ち上がると、机の引き出しから日記帳を取り出し、それをスクールバックの中へとしまった。
※※※
「まだまだ遊び足りねえええええ」
「実は彼氏とついにね」
「今年引退の先輩たちのためにも、もっと練習頑張らないと」
「青春って何だよ……」
「そうやって思い悩むことじゃないか?」
昼休み。都立緋花高校二年A組の教室は、ゴールデンウイーク明けということもあり、普段よりもたくさんの話題に溢れていた。
連休中に遠出したり。部活動に勤しんだり。あるいは自宅でのんびりと過ごしたり。各々が連休中の出来事を語り合い、昼食時の雑談を盛り上げていた。中には思考の沼にはまっている者もいたが、良き友人が隣にいるのできっと大丈夫だろう。これもまた青春の一ページだ。
「連休中はどうだった。俊平」
窓際最後列に座る矢神瑛介が、一つ前の席に座る藍沢俊平に尋ねた。朝は寝過ごした瑛介が遅刻してきたのでゆっくり話せていなかった。
「変わったことは何も。早めに宿題を片付けて、その後は近場をブラブラしたり、家で映画見たり。普段の休みと大差なかったな」
俊平は苦笑交じりに振り返り、椅子の背もたれに右腕をかけた。
「おいおい。ほとんど俺と同じじゃないか。真似すんなって」
「お前こそ真似するなって。冗談はさておき、予定のない休日の過ごし方なんてそんなもんだよな」
大仰に肩を竦めると、俊平は机に置いていた紙パックのお茶を啜った。今更だが、何か予定を組んで二人で遊んでも良かったかもしれない。
「映画は何を見たんだ?」
「あまり知られてない良作を発掘しようと思って、マイナーなタイトルを色々と試してみたんだが……はずれ感が半端なかったな」
連休中にサブスクで視聴した映画の数々を思い出し、俊平は遠い目をした。
サメ映画の派生形だろうか? 全ての足に重火器を装備したイカが襲ってくるアニマルパニック。衝撃のラストという触れ込みの下、主人公も犯人も、死んだはずの被害者も、全ての登場人物が笑顔でダンスを踊るという衝撃の大団円を迎えたサスペンス映画。主人公の顔芸のインパクトの方が強くて、以降のジャンプスケアがまったく物足りなくなってしまった勿体ないホラー映画などなど。
たまに見る分にはこういったマイナー映画も悪くないが、連休中に一気見したのがよろしくなかった。どんな作品でも一度見始めたらからには最後まで見なければ気がすまない俊平の性格も相まって、終盤は完全に胸焼け気味だった。瑛介を巻き込んでおけば、同じ苦しみを共有出来たかもしれない。
「あるあるだな。俺も経験ある」
「だけど、一本当たりもあったんだ」
「当たり?」
「時間を置いて最後に見た一本がなかなか面白くてさ。死んだ女の子のために、主人公が社会的に復讐していくサスペンスで、人によって好き嫌いが分かれそうな内容だけど、俺には結構刺さったな。色々と感情移入するところも多くて」
「復讐モノか。俺は正直苦手だな、そういうの」
瑛介が好むのはハートフルな映画やコメディー要素の強い映画で、シリアスな内容はあまり得意ではない。せめてフィクションの世界ぐらいはハッピーエンドを求めたいというのが瑛介の心情だ。
「俊平ってそういう映画を好むタイプだったか? 比較的俺に近い嗜好の持ち主だと思ってたんだが」
「新しい自分を発見ってやつだよ。普段見ないジャンルを見たら意外と楽しめた。ただそれだけ」
映画をより楽しむためには、食わず嫌いをせずに普段とは違うジャンルに手を伸ばしてみることも時には必要なのかもしれない。それが今回の連休で俊平が得た一つの学びだった。映画談議で思いのほか盛り上がっていると。
「お待たせ、二人とも」
馴染み深い声が聞こえ、俊平と瑛介が出入り口へと視線を移す。
俊平の隣の席の女子生徒、日向小夜を先頭に、友人たちが教室に戻って来たところだった。昼休みに入ると同時に、購買に昼食を買いに行った面々だ。俊平と瑛介は普段から弁当持参なので、買い物が終わるまで教室で待っていた。
「いつもより遅かったな」
隣の席に座った小夜に俊平が尋ねる。購買は校舎内にあるので買い物にそこまで時間はかからない筈なのに、小夜たちが教室を出てからすでに十五分経過していた。昼食に手をつけずに待っていた身としては、理由を聞きたくもなる。
「購買でダイナミックバーガーが出ててね。普通の買い物も一苦労」
「そういえば普段よりも購買の方が騒がしかったような」
ダイナミックバーガーとは不定期に購買で発売されるオリジナルメニューのことだ。ボリューミーかつ、購買らしく学生の懐にも優しい低価格で大人気のメニューとなっている。一度の販売数が極端に少なく、購買にはそれ目当ての生徒が大勢押しかけ混雑するため、通常メニュー目当ての小夜のような生徒も普段より買い物に時間がかかってしまっていた。
「面白い事もあったんだけどね」
「その様子、もしかして?」
「詳細はMVPの作馬くんから」
小夜の紹介に預かり、茶髪の毛先を遊ばせた作馬彰が自慢気に巨大なハンバーガーの包みを掲げた。
「俊平、瑛介。俺はとうとう伝説を手にしたぞ」
作馬の表情には選ばれし者にしか抜けない伝説の剣でも手に入れたかのような達成感に満ちている。それを見た俊平と瑛介は二人同時に「おお!」と感嘆の声を漏らした。
購買のハンバーガー一個に大袈裟かもしれないが、ダイナミックバーガーの入手難易度は非常に高い。普段購買を利用しない俊平と瑛介は見るのはこれが初めてだし、購買派の小夜や、今回見事にダイナミックバーガー作馬でさえも、これまでは一度も入手することが出来なかった。
「よくゲットできたな。何らかの違法行為か?」
ひとしきり褒めちぎった後、瑛介が人の悪そうな笑みを浮かべる。入手難易度の高いダイナミックバーガーをゲットした彰に強運に対する、瑛介なりの褒め言葉だ。
「違法行為前提なの止めろ。俺が買いに行った瞬間にダイナミックバーガーの販売が開始されてさ。混乱に巻き込まれる前に買えてラッキーだったよ。争奪戦になってたら俺は生き残れなかっただろうな」
人聞きが悪いと瑛介の脇腹を軽く小突くと、彰は瑛介の隣の席に座り、机の上でハンバーガーの包みを開き、その全貌を明らかにした。
「……こ、これは」
「噂以上だ。限定品とはいえ、うちの購買部はどうなってるんだ」
大きなバンズの間にタップリのレタスと照り焼きチキン、トマト、卵のディップがサンドされている。幅、厚みともにかなりのもので、ファストフード店のビックサイズのメニューにも引けを取らない。これで120円だというのだから、毎回争奪戦が繰り広げられるのも納得だ。
「私もゲットしちゃった」
彰より少し遅れてやってきた明るい髪色の女子生徒、南方唯香も声を弾ませている。結の手にもダイナミックバーガーの包みが握られていた。
「おっ、唯香もゲットしたのか」
「自力じゃなくて、彰のおかげだけどね」
「唯香も絶対にこういうの好きだからな」
どうやらダイナミックバーガーに遭遇した彰が唯香の分も買っておいてくれたようだ。幼馴染である彰と唯香は息ピッタリだった。
「全員揃ったし、お昼にするか」
唯香も到着したので、俊平がポンと手を打ち鳴らす。椅子や机を動かして食べやすい形を作ると、各々が昼食を机に広げた。
昼食のメニューは、俊平は自作のお弁当とペットボトルのお茶。瑛介は妹が作ってくれたお弁当と炭酸飲料。彰と唯香はある意味で本日の主役であるダイナミックバーガー、飲料は佐久馬が紙パックの緑茶で亜季がペットボトルのオレンジジュース。小夜が購買のコロッケパンと紙パックの野菜ジュースとなっている。
「うん! やや大味だけど、こいつは美味いぞ!」
豪快にダイナミックバーガーにかぶりついた彰が即座に反応を口にする。それだけ脳内にダイレクトに味が飛び込んできた。一見するとインパクト重視のネタ商品のように思えるが、味付けにも作り手のこだわりが感じられ、味良し量良しの超優良メニューであることが判明した。確かにいくらボリュームがあるとはいえ、味の評判も良くなければここまでの人気メニューにはなれないだろう。愛される理由というやつだ。
「うーん! 甘じょっぱい照り焼きソースと卵のマリアージュが最高!」
続けて口にした唯香の反応も上々だ。よっぽど気に入ったのだろう。口に付いた照り焼きソースを気にも留めずに、すぐさま二口目を頬張った。表現もさることながら、その姿こそが美味しさの何よりの証明だ。
「そんなに凄いのか?」
弁当派で普段は購買のメニューにはあまり興味を示さない瑛介だが、流石に目の前でこれだけ美味しそうな顔をされたら、その味が気になるようだ。もちろん一番好きなのは妹が丹精込めて作ってくれたお弁当だが。
「瑛介くんも食べてみる?」
そう言って唯香は、瑛介の方に食べ欠けのダイナミックバーガーを差し出す。
「申し出は嬉しいが、間接キスになるぞ?」
意外とピュアハートの持ち主な瑛介が真顔で指摘する。相手への配慮もそうだが、自身の気恥ずかしさもある。
「大丈夫、大丈夫。私の中で瑛介くんは男としてカウントされてないから」
「……そ、それはそれで複雑だな」
瑛介は唯香に対して恋愛感情を持っているわけでは無いが、まるで男としての魅力が無いような言われようのため、その表情はサスペンスドラマのワンシーンのように渋い。心で泣いている。
「じゃあ、俺も一口貰おうかな」
話に便乗して俊平が名乗りを上げる。下心などなく、純粋にダイナミックバーガーの味が気になっただけなのだが。
「……俊平くんだと少し恥ずかしいな、間接キスみたいで」
唯香は頬を赤らめて困惑している。その様子を見て、すかさず瑛介のツッコミが火を吐く。
「ちょっと待てえ! 明らかに俺の時とリアクションが違うだろ!」
「だって俊平くんって瑛介くんと違って爽やか系のイケメンだし、恋愛感情とか抜きにしても、女子なら絶対ドギマギしちゃうよ」
「つまり、俺は爽やか系のイケメンじゃないから緊張しないと」
「うん」
「さいですか」
唯香の即答を受け、瑛介は静かに突っ伏した。このまま机に埋没してしまうかもしれない。
「俺って爽やかイケメンな自覚あったんだけどな」
誰に問うでも無く瑛介は呟いたが。
瑛介の呟きを聞きとった他の四人は、無言で瑛介の方を見つめている。ネタなのか本気なのか判断に困っているような印象だ。
「お前ら! せめてセリフで突っ込め!」
あまりにも統率の取れたリアクションを取る四人に、瑛介がキレ気味にツッコミを炸裂させる。せめて「はっ?」とか一言でも言ってもらえないと生殺しである。
「悪い悪い、瑛介があまりにも的外れなことを言い出すからさ」
「いやいや謝ってないだろ、それは」
隣の俊平に瑛介が素早くツッコミを入れる。俊平も普段はどちらかというとツッコミ役なのだが、それを上回るツッコミ力を持つ瑛介が一緒の時はついついボケに回りたくなってしまう。
「なんか不平等な感じになっちゃってごめんね。申し訳無いから、間をとって男子には食べさせないことにするよ。というわけで小夜ちゃん、一口どうそ」
「私? うん、それじゃ一口頂こうかな」
「はい、あーん」
「美味しい! こんなに美味しいなら私も自分の分買えば良かった」
唯香に食べさせてもらった小夜もその味に感激し、幸せそうに口角を上げている。色々な意味で見ている方もお腹いっぱいだ。
「おい、俊平。お前が爽やかイケメンだったせいで、ダイナミックバーガーを食べそこなったぞ。どう責任を取ってくれるんだ?」
「文句を言うのはこっちの方だ。お前が爽やかイケメンじゃないから、俺の方こそ食べ損ねたじゃないか」
ダイナミックバーガーを試食する機会を失った俊平と瑛介が、不毛な争い、という名のプロレスを開始した。
「まあまあ、俺のバーガーを一口ずつ分けてやるから落ち着けよ、二人とも」
そう言って彰が食べ欠けのダイナミックバーガーを二人に向けて差し出す。仲裁者の登場で二人の睨み合いがピタリと止まり、一転、笑顔の花が咲く。
「ありがとう、佐久馬! 大好きだぜ、お前のこと」
抱きつかんばかりの勢いで瑛介が身を乗り出し、彰へと顔を近づける。
「お前に告白されてもな」
「告白じゃねえよ!」
再びキレ気味のツッコミが炸裂し、同時に周囲から笑いが起きた。
「とにかく食ってみろよ。うまいぞ~」
笑顔の佐久馬から瑛介がレジェンドバーガーを受け取る。
「美味!」
短い言葉だが、満面の笑みがそれ以上に美味しさを物語っていた。すでに味を堪能済みの三人は、そのリアクションに頷いている。
「ほれ、俊平。俺を上回る最高の食レポを頼むぜ」
レジェンドバーガーのバトンがリレーされ、そのまま俊平は口へと運ぶ。
「美味!」
数秒前のデジャブに一瞬場が静まるが、小夜を筆頭にすぐに全員から笑いがこみ上げてきた。
「俊平、リアクションが瑛介と同じじゃん」
「バレた?」
「俺の台詞で遊ぶなよ」
「遊んでない。お前のリアクションをリスペクトしたんだよ」
「いやいや、リスペクトの使い方がおかしいだろ」
そうは言いながらも瑛介は笑いを堪えている。意外とツボだったらしい。
「美味かったのは本心だよ。ありがとう作馬、良いもの食べれた」
「どういたしまして」
ダイナミックバーガーは元の持ち主である彰の手へと移る。味もさることながら、昼食時に一つの話題を提供できた喜びも大きかった。
「お前らが購買に行ってる間に俊平と話してたんだけど、連休はどう過ごしてた?」
昼食を終えたところで、瑛介が俊平以外の三人に話題を振った。今は食後のおやつタイムとなっており、持ち寄ったお菓子をみんなでつまんでいる。
「中学の時の友達とカラオケに行ったりしてたよ。それ以外はほとんど部活だったかな」
始めに答えたのは小夜だ。小夜はバレー部に所属しているため休日も何かと忙しくしている。大会を控えていて、精力的に活動しているので、休日とはいえ学校に足を運ぶ機会が多かった。
「俺は前半は親戚の家に遊びに行ってて。後半はこっちで遊び歩いてたけど。そういえば、俊平には一回会ったよな?」
「駅前でバッタリな。そういえば作馬。あの時お前が勧めてくれたイカの映画、正直微妙だったぞ」
「そうか? 水着のブロンド美女もいっぱい出てくるし最高だろ」
「いや、俺はあまり映画にエロスは求めないタイプだから」
求めるものが違ったらしく意見が分かれる。確かに水着シーンの多い映画だったが、俊平が求めていたのはモンスターパニック特有のハラハラ感だ。
「唯香は休み中どうだった?」
「お兄ちゃんが帰省してきてたから、一緒に遊びに行ったりしてたかな。お兄ちゃんが帰ってからは、友達と映画行ったりお買い物したり」
「何と言うか、連休っぽいな」
瑛介は感心し、俊平も同感と言わんばかりに頷いている。
「はあ、休みがもう少し長かったらな」
瑛介が溜息をつき、他の四人も「分かる」と口を揃える。連休明け特有の倦怠感は、この場にいる全員が共有していた。