――朝葉時雨の伴侶は、長嶺凜花だけである。
 公然と宣言したあの夜以降、朝葉家は二つの派閥に分裂した。
 引き続き時雨を次期後継者と仰ぐ一派と、時雨ではなく和泉を後継者とするべきだと主張する一派である。
 きっかけは、夜会での時雨の振る舞いに激怒した道景が「時雨を廃嫡する!」と宣言したことによる。しかし、いかに当主といえど時雨の廃嫡は道景の一存で決められるものではなかった。
 それというのも、今の朝葉家を実質仕切っているのは時雨であるからだ。すでに道景は形式上の当主にすぎず、一族の中での発言権は時雨に軍配が上がる。
 何よりも純血である時雨に勝る存在はいない……というのが大半の意見だった。
 一方で、朝葉の名を汚した時雨に後継者たる資格はなく、弟の和泉の方が相応しいという意見も存在した。
 今はまだ圧倒的に時雨を推す意見が多いものの、分家の中には、和泉を推すことで、今後の一族の中における影響力を高めようと目論む家も出てきている。
 朝葉家は今、混乱の最中にあった。

 夜会から七日経ったその日、時雨は朝葉本邸に向かっていた。
 和泉に会うためである。
 あの夜以降、時雨は多忙な合間を縫って来たくもない本邸に三度も顔を出した。
 しかしいずれも空振りに終わった。いっこうに和泉と会えないのだ。
 一方でこの間、道景とは一度も顔を合わせていない。
 廃嫡だなんだと喚いた父は、あの夜以降ほとんど自室に引きこもっているという。時雨としてもあの男に用はないので、むしろ願ったり叶ったりではあった。
 とにかく、時雨が用があるのは和泉だ。
(今日もいないなら、大学まで押しかけてやる)
 苛立ちながらも本邸に到着するなり和泉の部屋に向かった時雨だが、すぐに拍子抜けした。
「兄上? どうしました、そんなに怖い顔をして」
 まるで待っていたと言わんばかりの和泉がいたからだ。ソファに座り何やら読書をしていた和泉は、すっと立ち上がるとにこやかに笑む。
「兄上の方から私を訪ねてくるなんて珍しいですね。今度こそ、一緒にお茶でもどうです?」
「和泉。――もう、やめろ」
「何をでしょうか?」
「その薄ら寒い笑みをやめろ、と言っている」
 時雨の厳しい眼差しにも和泉は顔色ひとつ変えず、むしろ飄々と肩をすくめた。
「急に来たかと思えば、何を言っているのかわかりませんね」
「……そうか」
 軽薄な微笑みに苛立ちが込み上げるのを感じながら、時雨は言った。
「それなら私の質問に答えろ。この間の夜会におまえはどんな意図があって長嶺杏花を連れてきた? 内容次第によってはおまえでも許さない」
「許さない、なんて物騒なことを言いますね。理由はあのときも言ったはずですよ。彼女は凜花さんの姉だから呼んだだけです。深い意味はありません」
「それ以外になんの意図もないとでも言うのか?」
「むしろそれ以外に何があると?」
 笑みを湛えて質問を質問で返す姿に時雨は理解する。
 ――この男には、何を言っても無駄だ。
 子どもの頃から掴みどころがない弟だと思っていた。
 しかし今、改めて思い知る。時雨が何を言ったところで和泉には響かない。
「おまえが何を企んでいるかは知らない。だが、この先もしも凜花に何かをするつもりならおまえが相手でも容赦はしない」
 言うべきことは言った。
「邪魔をしたな」
 そう言って背中を向けようとした、そのとき。
「兄上」
 意外にも和泉がそれを引き止めた。
「そんなに彼女が大切ですか?」
「……何?」
 振り返った時雨に彼は続ける。
「しょせんは只人だ。伴侶だからと言って大事にしなければならない決まりなんてないでしょう。適当に囲っておけばいいだけだ。あんな宣言をするなんて理解に苦しみます。彼女を伴侶に選んだことで、兄上は私に後継者の座を奪われようとしているではないですか」
 心底不思議でならないと言った顔に、つい乾いた笑みが漏れる。
(奪われようとしている、か)
 そもそもその認識自体が間違っていることに、和泉は気づいていない。
「……何がおかしいのですか」
「いや、何。随分と強気だと思ってな」 
 和泉の顔から笑みが消える。いつも飄々としている和泉が眉根を寄せる様に、時雨は初めて弟の素顔を見たような気がした。
「どういう意味です」
 時雨は肩をすくめた。弟が警戒すればするほど時雨は冷静になる。
「最近、分家の連中がうるさくしているのは把握している。だが、あいにく私は、おまえに後継者の座を脅かされたと感じたことは一度もないんだ」
 和泉の頬に朱が走る。その変化に時雨は悟った。
 ――和泉は、当主の座を欲しているのだ。
 予想ではあるがほとんど確信に近かった。
「おまえが真に朝葉の人々のことを考えるなら、後継者の座なんていくらでも譲った。でも、おまえには無理だ」
「……なぜ、私には無理だと言えるんです。私が、純血ではないからですか」
「違う。みどりを――貴力を持たない人を同じ人とも思ってないからだ。そんな男にこの家は任せられないさ」
 和泉は「ふん」と馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「貴人と只人は違います。比べるまでもない」
「そうか。ならやはり、おまえに譲ることはできないな」
 話は平行線に終わる。言葉にせずともこれ以上は時間の無駄なのは、きっと互いに理解していた。只人に対する価値観という観点において、時雨と和泉はどうあっても相容れない。
 それが虚しくて、腹立たしかった。

 それからすぐ自動車に乗り込んだ時雨は、凜花とみどりの待つ屋敷への帰路につく。
「……本当に疲れる」
 その道中、ハンドルを握りながらたまらずため息が漏れる。
 次期当主の座についてあれこれと騒ぎ立てる家の連中も、実質権力など何もないのに廃嫡だと騒ぎ立てる父も、狐のような狡猾さをもつ弟も。
 全てが心の底から面倒に感じてたまらなかった。
 先ほど和泉に言った言葉に嘘はない。
 時雨は別に、次期公爵の座に執着があるわけではないのだ。
 和泉が信用のおける男であったなら自分は喜んで立場を譲っただろう。
(でも、和泉はだめだ)
 弟は、みどりを家族と認めていない。それどころか妹すら認めず、父の愛人であったみどりの母を今なお蔑んでいる。それに何よりも和泉は凜花を傷つけた。
 杏花を呼んだことに深い意味はない、と和泉は言った。
 でも、まず間違いなく弟は嘘をついている。
 おそらく和泉は、凜花が下女として扱われていたことも、杏花に虐げられていたことも把握している。その上で、時雨に直接手を出せない和泉は杏花を呼び凜花を追い詰めることで、間接的に兄への嫌がらせをしたかったのではないか。
(厄介なことにならないといいが……)
 すでに和泉には十分釘をさした。
 この上何かをするほど愚かな弟ではないと信じたかった。

 その日の夜。
「んっ……」
「すまない、痛かったか?」
「大丈夫、です」
 凜花の血を飲んだ時雨は、噛み跡を完璧に治してから凜花を解放する。首筋に触れていた手のひらを離すと、どこかぽおっとした様子の凜花と目が合った。どうやら凜花は、治癒の際に生じる熱を心地よく感じるらしい。
 その証拠に、吸血直後の彼女は決まってとろんとした顔をしている。
 潤んだ瞳にうっすらと赤く染まる頬、そして、ときおり漏らす掠れた声。
 どこか扇状的な光景に心が揺れないと言ったら嘘になる。
 しかし、時雨がそれを表情に出すことは決してしない。
 それよりも、無防備な彼女に対する庇護欲の方が優った。
 吸血行為はどうしたって痛みを伴う。だからこそ、血を吸うたびに時雨の中で凜花を大切にしたいと望む気持ちは日々大きくなっていく。
「何か、ありましたか?」
 ソファに隣り合って座る凜花は、頬の赤らみはそのままに問うてくる。
「……どうしてそう思った?」
 図星を突かれて反応に遅れる。すると、凜花は躊躇いがちに答えた。
「少し、気落ちされているように見えたので」
 これには驚いた。番の血を接種した今の自分の顔色は間違いなくいいはずだ。それなのにこんな質問をされるなんて。
(……参ったな)
 後継者問題や和泉について何ひとつ話していないのに、凜花は異変に気づいてくれた。それがどうにも嬉しくて、くすぐったい。
「今日、和泉に会ってきた」
「和泉様に?」
「ああ。先日の夜会に長嶺杏花を招いた意図を問い詰めに行ったのだが、答えは夜会の時と同じだった。釘は刺しておいたし、この上何かするほど愚かな男ではないと思いたいが、あなたも引き続き注意をしてほしい。お守りは、肌身離さず身につけておいてくれ」
「わかりました」
 凜花は服の上からぎゅっと何かを掴む。聞けば、今もお守りを首から下げているのだという。それに安堵しつつも、時雨はふっと肩の力を抜く。
 普段は弱音を吐く方ではないのに、凜花の前では不思議と気持ちが緩む。
 だからつい、本音が溢れた。
「弟を警戒するのは、あまり気分のいいものではないな」
 時雨は、みどりと和泉のどちらかなら間違いなくみどりの方が可愛い。
 だからといって、和泉を疎んだり憎んでいるわけではなかった。だが、残念ながら和泉の方は違ったようだ。
 その証拠に、最後に見た彼は怒りと苛立ちをあらわに時雨を睨んでいた。
「……家族でいがみ合うのは、父と私だけで十分だというのに」
 うんざりとした気分で自嘲した、そのとき。
 そっと、柔らかな凜花の手が時雨の両手に触れた。凜花は、ためらいがちに時雨の手を包み込む。
「以前、時雨様は『私が、あなたの家族になる』と言ってくださいました。私も、同じ気持ちです」
「……え?」
「私が、そばにおります」
 控えめながらも力強いその言葉、眼差し。
「番として、婚約者として、時雨様のおそばにいさせてください」
 時雨は、心の中の燻りが一瞬にして晴れていくのを感じた。
 ――本当になんて人だろう。
 同時に改めて感心する。十八年間、凜花は辛い境遇にいた。それなのに彼女はこうして人に寄り添う優しさを持っている。 
(敵わないな)
 凜花は自分自身を卑下するきらいがある。でも、時雨からすれば彼女の方がよほど強い人だ。貴力の有無ではない。彼女自身の心の強さだ。
「凜花。……もしも私が当主の座を退いて、貴族ですらなくなって……この屋敷から出ていかなければならなくなったとしたら、あなたはどうする?」
 朝葉家次期当主でも貴族でもない。時雨が人外の力を持った、血を求めるだけの存在になったとしたら、彼女はいったいどうするのだろう。
 ふと、そんな興味が湧いた。
「どこへなりともついて参ります」
 対する凜花の答えは迷いがなかった。
「そのような時雨様は想像がつきませんが、時雨様の立場がなんであれ、私は一生あなたの番です。何十年経ってもおそばにいます」
 ためらいなく答えるその姿に、時雨はすぐに反応できなかった。
(――ああ、もう)
 たまらないな、と思った。心の内側から湧き上がる感情のままに時雨は凜花を抱き寄せ、胸の中へと閉じ込める。
「きゃっ……!」
 突然の抱擁に凜花が体を固くするのがわかったけれど、すぐには離せない。
 離したくないと、そう思った。
「あの、時雨様?」
「……もう少しだけ、このままで」
 耳元でそっと囁くと、凜花は体を固くしながらもこくんと頷いた。その耳は明らかに赤い。それすらも可愛らしいな、と思う。
『私は一生あなたの番です。何十年経ってもおそばにいます』
 当たり前のように言ったその言葉は、間違いなく時雨の胸を貫いた。
 心を、震わせた。
『一生』『何十年』
 凜花と出会う以前の時雨は、三十歳より先のことなんて考えられなかった。
 しかし、今は違う。これから先何年経っても、凜花の艶やかな黒髪が自分のように真っ白になってもそばにいたいと、いてほしいと心から願う。
 年老いた自分の隣に凜花がいる。
 そう想像するだけで時雨はたまらなく幸せな気持ちになれた。
 きっと凜花は、老いてもなお可愛らしい。
「時雨様?」
 急に黙り込む時雨に、おずおずと顔を上げた凜花はきょとんと目を瞬かせる。
 形のよい額に唇を寄せたい気持ちをなんとか堪え、時雨は微笑んだ。
「私の番が、あなたでよかった」
 素直な気持ちを唇に乗せる。直後、凜花の頬に朱が走る。
 紅潮した頬や潤んだ瞳は、彼女が照れているのをこれ以上なく伝えてくる。
「……私もです」
 囁くように凜花は言った。
「時雨様の番になることができてよかったと……心から思っています」
 ちらりと上目遣いで告げる凜花を前に、熱い何かが込み上げてくる。
 この胸の高鳴りに名前をつけるとしたら、きっとそれは――。
「ありがとう、凜花」
 愛、なのだろう。
(――そうか)
 今さらながらに自覚する。
 番としてだけではない。
 時雨は、一人の女性として凜花を愛している。

 ――時雨様が好き。
 夜会から帰宅した夜、凜花は時雨の胸に抱かれながらはっきりと自覚した。 
 言うまでもなく、これは凜花にとっての初恋だ。
 とはいえ、恋心を伝えることはしていないし、この先時雨とどうにかなりたいとも望んでいない。
 だって、今のままで凜花は十分すぎるほど幸せなのだ。
 日中はみどりと共に家事を行い、数日に一度時雨に血を捧げる。
 誰に蔑まれることも、殴られることもない。
 大好きな人のそばで穏やかに過ごせる。すでに体に馴染んだ平穏なこの日常が凜花は大切で愛おしくてたまらなかった。
 その一方で、時雨は少しだけ変わった。
 これまでも十分大切にされていると感じていたが、夜会の日をきっかけにいっそう凜花に対して甘くなったような気がするのだ。
 今もそう。
 朝葉家本邸を訪ねてから二週間ほど経った今日は、時雨の数少ない休日だった。
 日頃から軍務に当主にと多忙にしているだけに、たまの休みの日くらいはゆっくりしてほしい。
 そう思っていたのだが、時雨は体を休ませるどころか、凜花を買い物に誘った。
 人生二度目の甘味処でお茶と甘いものを食べた後は、最近できたばかりの百貨店に連れて行ってくれた。
 そこで凜花は目がまわるような体験をした。
 時雨ときたら、女性ものの衣類や宝飾品を次々と購入していったのだ。
 彼の気持ちは本当に嬉しいし、ありがたい。
 とはいえ、何事にも限度というものがある。
 まもなく日が暮れようとしている時刻。
 昼過ぎに屋敷を出て早数刻、買い物を終えて時雨と共に百貨店を出た凜花は、色々な意味で心臓が痛かった。
 結局、時雨は車でも持ち帰れないほどの品を購入した。
 それらは後日、屋敷に届けてもらうことになっている。そのため今のふたりは身軽だが、反面、今日だけで飛んでいった金額を想像するとさすがに目眩がする。
「――本当に髪飾りはいらなかったのか? どれもあなたによく似合いそうだったが……」
 不満げな時雨に凜花は慌てて首を横に振る。
「私には、以前いただいた桔梗の髪飾りがありますから」
「それならいいが……あなたは本当に綺麗な濡羽色の髪をしているから、つい色々と飾りたくなってしまう」
 不意打ちの褒め言葉に、凜花は一瞬にして頬が熱くなるのを感じる。
「今日だけで十分すぎるほど買っていただきましたから……」
 これに時雨は目を見開き、なぜか申し訳なさそうな顔をした。
「すまない」
「えっ⁉︎」
 なぜ急に謝罪を? 焦る凜花を見た時雨は眉を下げる。
「金にものを言わせるような真似は下品だとわかっていたのだが、どれもあなたに似合うと思ったら、つい。気を悪くしたか?」
「めっそうもありません! 下品だなんて、そんなこと……!」
 凜花は慌てて誤解を訂正する。
「時雨様のお気持ちは嬉しいですし、あのように素敵なものをたくさん、本当に感謝しております」
 ただ、と凜花は申し訳なく思いながらも続けた。
「私は、時雨様に何もお返しできないのに……本当によろしかったのですか?」
「またそれか」
 時雨は苦笑し、顔を綻ばせる。
「何度も言っているように、お返しも何も必要ない。あなたが私の番でいてくれること以上に価値のあるものはないんだ」
「っ……!」
 心臓を、貫かれたような気がした。
 喜びで心が満たされる。
「ふっ、顔が真っ赤だ」
「か、からかわないでくださいませ!」
 顔を逸らしながら、凜花は痛いほどに心臓が高鳴るのを自覚していた。
 ――このままでいい。
 今の日々に何の不満もないし、いつまでも穏やかな日々が続けばいいと思っている。その気持ちに嘘はないはずなのに……。
(好き……)
 こんなにも優しくされたら、嬉しい言葉を言われたら、想いが溢れそうになってしまう。伝えたくなってしまう。
「時雨様、私――」
 衝動のまま口を開きかけた、そのとき。
「朝葉!」
 道の往来の中、空気を震わせるような大声が轟いた。
 直後、時雨は凜花を庇うように一歩前に出る。凜花は、時雨の背中越しに前方からひとりの軍人がこちらに向かってに駆けてくるのを見た。
「……宮田?」
「お知り合いですか?」
「私の副官だ」
 時雨が困惑したように答えるのと、宮田と呼ばれた軍人がふたりの前で足を止めたのはほぼ同時だった。
「ああ、ようやく見つけた……! 休暇なのにすまないが、至急俺と一緒にきてくれ!」
「いったい何事だ」
 肩で息をする宮田に時雨は眉根を寄せて問う。
 これに口を開きかけた宮田だが、凜花に気づくと途端にハッとした顔をする。
「長嶺杏花……?」
 宮田が呟くと、すぐさま時雨が「違う」と訂正する。
「彼女は長嶺凜花さん。私の婚約者で、最も信頼する人のひとりだ」
「長嶺杏花は、双子の姉です」
 凜花が自分は妹の方だと告げると、宮田は「そうか」と考え込む顔をする。
「それなら、あなたにも知る権利がある」
 しかしそれはほんの一瞬で、彼はすぐさま表情を引き締め時雨の方を見た。
「先ほど、長嶺伯爵の屋敷で大規模な火災が起きていると連絡が入った」
 時が、止まったような気がした。

「私はこのまま長嶺邸に向かう。宮田は彼女を屋敷に送り届けてから合流してくれ」
 自体を把握した後の時雨の判断は早かった。報告を受けた時雨はすぐさま宮田に命じると、青ざめる凜花を安心させるように微笑んだ。
「火事は私が必ずなんとかする。あなたは、みどりと共に私の帰りを待っていてほしい」
「時雨様……」
 どうにか声を絞り出して、凜花は懇願する。
「どうか……どうか、両親と姉を……」
「大丈夫だ。私を信じて」
 そして、時雨はその場を離れた。
 その後、凜花は宮田に付き添われて屋敷に帰宅する。
「朝葉は貴力で水を操ることができる。火事なんてあっという間に消火してすぐに帰ってきますよ。俺も、微力ながら全力を尽くします」
 凜花を励まそうとしているのか、宮田は大袈裟なくらいの笑顔を見せる。
「それでは、失礼します」
「宮田様!」
 凜花は出て行こうとする宮田を咄嗟に引き留めた。
「ご無事で……」
 凜花の震える声に宮田は「もちろん!」と白い歯を見せて笑い、足早に出ていった。その姿が玄関から見えなくなると、ふっと体の力が抜ける。
 座り込む寸前でなんとか踏ん張るけれど、それでも全身に力が入らない。
(火事……)
 一般的な火事なら所轄の消防団が消火にあたるはず。しかし、今回は時雨が隊長を務める貴力精鋭部隊が出動した。
『主な仕事は大規模な救助活動や災害対策で、貴力を使わなければ解決できないようなことに対処している』
 以前、甘味処で時雨はそう話していた。つまり、今現在の実家では大規模な火災が起きているということだ。
(お父様、お母様、杏花……)
 三人は、無事だろうか。
 十八年間過ごした実家の光景が脳裏によぎる。
 長嶺家で過ごした日々は凜花にとって辛い記憶でしかない。
 それでも「死んでほしい」と思ったことは一度もない。
 何よりも、時雨が火災現場にいるという事実が凜花を落ち着かなくさせた。
 宮田も、時雨本人も「大丈夫」と話していた。日々任務にあたる彼らがそう言うなら心配はいらないのだろうと理解はしている。
 それでもなお、不安な気持ちは消せない。
「――気を確かに」
 共に宮田を見送ったみどりがそっと凜花の両手を包み込む。凜花はそれに初めて自分の体が震えていることをに気づいた。
「宮田様もおっしゃっていたでしょう。時雨様が向かわれたのであれば何も心配ありません。だいたい、そんな暗い顔でお勤めを果たされた時雨様を出迎えるつもりですか?」
 はっぱをかけるように、みどりは両手にぎゅっと力をこめた。
 それが彼女なりの励ましなのは、すぐにわかった。
「……そうね。しっかりしないといけないわね」
 おそらく今回の出動で時雨はかなりの貴力を使うだろう。
 純血の時雨は、他の貴人に比べて体内に膨大な貴力を宿しているという。
 しかし、それを使えば使うだけ疲弊するのだと彼は言っていた。
 ならば凜花は番として、無事に戻った彼にいくらでも血を捧げる。
 貧血になろうと、寝込むことになろうとかまわない。
(時雨様は、私が番でよかったと言ってくださった)
 それなら、凜花は番として、自分にしかできない役割を果たす。そのためにもまずは時雨のを信じて帰りを待つ。
 しかし、それからの時間を凜花はとてつもなく長く感じた。
 自室の窓から見える空は、すでに夕暮れに染まっている。もうしばらくすれば、空は夜へと変わるだろう。
 ――どうか一刻でも早く時雨が無事に戻りますように。
 ――三人が無事でありますように。
 心の中で強く願った、そのとき。
 不意に部屋の外から何やら大きな物音が聞こえた。
(時雨様?)
 彼が、帰ってきたのかもしれない。
 部屋を出た凜花は急いで階段を駆け降りる。しかし、すぐに違和感を覚えた。屋敷の玄関扉が大きく開かれている。しかし、誰もいない。
「時雨様? みどり……?」
 警戒しながらも凜花は開け放たれた玄関扉を出る。
 そして、ありえないものを見た。

 宮田の知らせを受けた時雨はすぐさま現場に車を走らせた。そうして見えてきた長嶺邸からは、あたり一面を覆うほどの黒煙が上がっていた。
(こんなにも火の勢いが強いなんて……!)
 これまで数々の火災現場や災害現場に出動してきたからこそわかる。
 敷地内の建物がひとつふたつ燃えた程度では、これほどまでの煙は上がらない。
 自動車で近寄れるぎりぎりのところで車を降りた時雨は、長嶺邸の惨状に息を呑んだ。
 広大な敷地内のいたるところから火の手が上がっている。
 見ると、先に到着していた隊員たちが、天から雪のように降り注ぐ火の粉を払いながら屋敷の人々の救助にあたっていた。
「隊長!」
 うちのひとりが時雨に気付き声を張り上げた。
「ご苦労だった。あとは私に任せろ」
 時雨は頷き、右手を天高くかざす。
 これだけの火事を鎮火させるには大雨が必要だ。
 そのためには体の中を貴力を空にするつもりで臨む必要がある。
 瞼を閉じた時雨は、全神経を右の手のひらに集中させる。
 そうするうちにどこからともなく長嶺邸上空に分厚い雲が集まり始め、やがてざあっ……と土砂降りのような大雨が降り始めた。
 それは瞬くまに時雨の周囲を濡らし、あちこちに水溜りを作る。
(これで火の勢いは収まるはず)
 さすがに一瞬で全てが鎮火とはいかないが、先ほどに比べて明らかに火の勢いが弱まっている。この間に住民の救助と避難、治癒を行わなければ――そう頭の中で段取りを立てたそのとき、ふっと視界が揺らいだ。
「――っ……」
 足元がふらつきかけるが、なんとか堪える。
 今は、倒れている場合ではない。
 部下たちに引き続き救助活動を続けるように命じた時雨は、自分が到着するまでこの場の指揮をとっていた部下から状況報告を受ける。
「ご苦労。長嶺伯爵夫妻は?」
「おふたりとも気を失っていますがご無事です。今は手当てを受けておられます」
「そうか。他に人的被害は?」
「今のところ逃げ遅れた人はいません。伯爵夫妻以外の怪我人についても、治癒能力を持つ隊員が対処しております」
 ただ、と隊員は眉根を寄せた。
「発火場所に不審な点がみられます。使用人の証言によると、裏庭の納屋や屋敷の女中部屋など、少なくとも敷地内の五箇所以上から火の手が上がったようです。……放火でしょうか」
「まだなんとも言えないが……可能性は高いだろうな」
 火の回りの速さといい、勢いといい、今現在把握できている状況だけでも不審な点が多すぎる。落雷があったというわけではないようだし、自然発火の線は薄い。
 となると、可能性は絞られる。
(――貴力を用いた放火事件)
 しかし、誰が、いったい、なんのために、長嶺伯爵邸を狙うのか。
 とにもかくにも火の手が治り始めてよかった、と安堵の息をついたときだった。
 一人の隊員が時雨の元にやってくる。
 隊員いわく、目覚めた長嶺京介が何やら騒ぎ立てているという。京介は、貴力精鋭部隊が対応にあたっていると知るなり時雨を呼べ、とわめいているのだとか。
「わかった、すぐに向かう」
 時雨は嘆息し、長嶺夫妻が手当を受けているという場所へと向かった。
(顔も見たくないが、仕方ない)
 あんな男でも凜花の父親だ。この目で無事を確かめて彼女に報告する必要がある。長嶺夫妻は敷地外の道端で座り込み、何やら隊員に向けて叫んでいた。
 おおかた、屋敷が燃えたことに取り乱しているのだろう。
「長嶺殿」
 内心うんざりしながら時雨は声をかける。
 振り返った長嶺京介は、髪は縮れ、顔も手足も煤だらけという見るも無惨な姿だった。夫人もほとんど同様だが、幸いにもふたりとも目立った大きな傷はない。
「ご無事で何よ――」
「時雨殿! 杏花は……娘はどこにいる⁉︎」
 京介はふらふらと立ち上がり、煤で汚れた両手で時雨の両手首を掴む。避難の際に煙で喉をやられたのか、その声はひどくしゃがれていた。
「杏花がどこにもいないのだ! まさか、火災に巻き込まれたのでは……!」
「落ち着け、長嶺殿!」
 あまりの取り乱しように敬語も忘れて時雨は声を張り上げる。
「今現在、救助した人々の中に長嶺杏花はいません。しかし、使用人たちの話を聞く限り、逃げ遅れたものは今のところ誰もいないそうです」
「それではなぜ杏花がいない⁉︎」
 そんなの知るか、と言いたくなるのをすんでのところで堪える。それよりも今は、この男を落ち着かせる方が先だ。
「最後に長嶺杏花を見たのはいつですか?」
「そんなこと――」
「彼女のことが心配なら答えてください。火事に気づく直前まで彼女は屋敷にいたのですか?」
 時雨の重ねての質問にようやく平静を取り戻したのか、京介は考え込むような顔をする。
「最後に娘を見たのは、昼過ぎだ」
 次いで、「そうだ」と何かを思い出したように京介は目を見開いた。
「そのときの娘は、随分と機嫌がよかったような気がする。ようやく欲しいものが手に入るのだ、と実に嬉しそうに話していた」
「欲しいもの? なんです、それは」
「……そこまでは」
 この答えに時雨は思わず舌打ちをした。
 手に入る、ということは、火事が起きる直前に買い物にでも出かけたのだろうか。だから運よく火事から免れた?
 だが、そんな都合のいいことがあるだろうか。
 何かが引っ掛かる。
 こうしている間にも、時雨が呼び寄せた雨によって火は小さくなっていく。一方で、時雨の中に芽生えた疑念の種火は大きくなっていった。
 同時に複数箇所から発生した不審火、異常なまでの火の回りの早さ、姿の見えない杏花。
(そういえば、あの女の貴力は――)
 考えて、ハッとする。
(植物を操る力……!)
 みどりを痛めつけた忌々しい能力だ。凜花からも聞いたことがあるから、間違いない。嫌な、予感がした。
「朝葉隊長!」
 ちょうどそのとき、宮田が駆けつけてくる。どうやら無事、凜花を屋敷に送り届けてくれたようだ。
「ご苦労だった。宮田、この後の現場の指揮はお前に任せていいか?」
 大元である火はもうほとんど鎮火している。軽傷者はいるものの、火災の規模としては奇跡的に大怪我をした人はいなかった。そして、伯爵夫妻も無事でいる。
 隊長としては褒められたことではないが、現場としては時雨が抜けても大きな問題はない。
「――頼む」
 短い言葉に宮田は時雨の決意の固さを感じ取ったのか、間髪を容れず「承知いたしました」と敬礼した。
 時雨は感謝の気持ちも込めて頷き、背中を向けて走り出す。 直後、背後から京介の「娘を探してくれ!」と懇願する声が聞こえたけれど、時雨は振り返らない。
 そのまま敷地外に停めていた自動車に乗り込みエンジンをかける。
 時雨が今いる長嶺邸は、市街地から離れた郊外にある。
 周囲に広がるのはのどかな田園地帯で、おかげで火が他に家に飛び火することはなかった。しかし、凜花たちの待つ屋敷まではどんなに早く見積もっても車で二十分はかかる。
 一秒でも早く、向かわなければ。
 考えすぎであればいいが、どうしても不安と焦りが消えない。
 ――どうか、杞憂であってほしい。
 そう願った、次の瞬間。
「っ……!」
 面前に巨大な火の玉が飛び込んできた。
 時雨は咄嗟にハンドルを切る。火の玉は時雨の頬のぎりぎりのところを通過するが、安堵の息をつく間もなく、時雨は視界一杯に映る樹木に目を見張った。
(しまった――!)
 直後、自動車は木に正面から衝突した。その衝撃で時雨の体は外へと投げ出され、地面に叩きつけられる。
 全身に鈍い痛みが走り、一瞬、意識が遠のく。
 横向きに倒れた時雨は体の痛みを堪えてなんとか立ち上がり、すぐに全身を確認する。どこもかしこも鈍い痛みが凄まじいが、骨折はしていないようだ。
 強固な風の鎧を体に纏うのがあと一秒でも遅れていたら、致命傷を負っていたかもしれない。
 ――何が起きた、とは思わなかった。
 目前に迫る火を見た瞬間、時雨は自分の中に浮かんだ予想が杞憂でないことを確信した。
「これで死なないなんて、さすがは化け物だ」
 畦道にはおよそ相応しくない、俳優が劇を演じているようなその立ち姿。
 長嶺杏花が植物を自在に操るのならば、この男は火を操る貴力を持つ。
「和泉」
 間違いない。
 この男が、今回の火事を招いたのだ。

 どうして、なぜ。
 疑問ばかりが次から次へと浮かび上がる。
 それほどまでに信じがたい光景だった。
 気を確かに、と。
 少し前に凜花を励ましてくれたみどりは今、地面に仰向けに倒れている。
 彼女の頬には爪を立てられたような引っ掻き跡が三本、痛々しく滲んでいた。
 微かながらに胸は上下しているから、呼吸はしている。しかし、その瞼は閉ざされていた。そして、横たわるみどりの腹を足で踏みつけ嫣然と笑う、その人は。
「何をしているのですか、お嬢様……!」
 大嫌いで、憎らしくて、それ以上に恐ろしくてたまらない姉だった。
 ――火事に巻き込まれたかもしれない。
 そう案じていた凜花を嘲笑うかのように、みどりを踏みつけた杏花は「ふふっ」と顔を綻ばせる。
「見てわかるでしょう? 生意気な只人を躾けていたの」
「……おやめください」
 杏花は「嫌よ」と一周した。
「私はただ妹に会いにきたのに、この只人ときたら『お引き取りください』『凜花様はお会いにはなられません』の一点張りなんだもの。だから、貴人として教育をしてあげたの」
 教育?
 違う。こんなのは、一方的な暴行にすきない。
「お願いですから、みどりから離れて……!」
 凜花が声を震わせて叫んだ次の瞬間、杏花は踏みつけていた足でみどりの腹を思い切り蹴り飛ばした。直後、意識のないみどりが苦しそうなうめき声をあげて、唇の端から胃液らしきものが溢れ出る。
 すると、それに気づいたみどりが「嫌だわ」と顔を顰めた。
「汚いじゃない」
「お嬢様が、蹴ったからではありませんか……!」
 初めて、凜花は姉に向けて声を荒らげた。
 一度ならず二度までもみどりが暴行されるのを目撃した凜花は、すでに冷静さに欠いていた。
 姉に対する恐ろしさも、なぜここにいるのかという疑問はもちろんある。
 でも、今はそれ以上にみどりが痛々しくて見ていられない。
 みどりは、時雨が自分の命よりも大切に思っているたった一人の妹だ。
 凜花に対してはたまに言葉がきついときもあるけれど、本当はとても優しくて心の強い子だ。そんな彼女は、決して足蹴にされていい人ではない。
(助けないと……!)
 しかし、倒れるみどりのすぐそばには杏花がいる。とても駆け寄ることはできない。
「お願いです、お嬢様! みどりを手当てしたいのです、だから――」
 彼女を返してほしい。そう言うより早く「嫌よ」と杏花は冷ややかに言った。
「それが人にものを頼む態度なの?」
「え……?」
「やめてほしいなら態度で示しなさい。こういうときにどうすれば良いのか、愚図で、のろまで、出来損ないのおまえはよぉく知っているはずよ。だって、私がそう教えてきたもの」
 ころころと鈴が転がるように楽しげに杏花は言った。嫌というほど凜花の耳に馴染んだ笑い方だ。凜花を痛ぶるとき、姉は何よりも楽しそうに笑うのだから。
「凜花」
 すうっと杏花は目を細める。
「おまえは自分が誰かを忘れたの?」
「あ……」
「どこにいようとおまえは私の下僕よ。今も、昔も、そしてこれからも」
 ――下僕。
 何十回、何百回、何千回。
 生まれてから長嶺を出るまで数えきれないほど言われてきた、その言葉。
「朝葉時雨のもとで随分と良い夢を見れたようだけれど、いい加減目を覚ましなさい」
 杏花の顔から笑みが消える。
 人形のような顔に浮かんだのは、身震いするような憎悪の感情だった。
 十八年間の人生で体に染み込んだ下僕としての自分が顔をのぞかせ、凜花は膝をつきそうになる。
「この屋敷も、次期朝葉公爵夫人の座もわたしのものよ。おまえのような只人がいていい場所ではないわ」
 しかし、続くその言葉に凜花はぴたりと動きを止めた。
 ――杏花は、時雨を呼び捨てで呼んだ。
 祝言の日も、市街地で遭遇したときも、彼女は「時雨様」と言っていた。
 時雨に対して異常なまでの執着心を抱いていたのに、なぜ。
 驚きと戸惑いで黙り込む凜花を見て怯えていると取ったのか、杏花は一変してにいっと唇の端をあげて笑う。
「私は和泉様と結婚して、朝葉公爵夫人になるの」
 凜花は、姉の言葉にますます困惑を深めた。
(和泉様と結婚……?)
 意味が、わからない。
「……朝葉家を継ぐのは、時雨様です。和泉様ではありません」
 声を震わせ、凜花は事実を告げる。姉に面と向かって意見するのを本能が恐れているのか、背中を冷や汗がつたうのがわかった。
 そんな中でも、意識はみどりへと向く。
 ――みどりを杏花から引き離さないと。
 すると、心が焦る凜花を嘲笑うかのように、杏花はゆったりとした口調で「馬鹿な子」と嘲笑う。
「私がここにいる意味をまだ理解していないの? 朝葉時雨は二度とおまえのもとには戻ってこないわ。今頃、和泉様に殺されているのではないかしら?」
「え……?」
 一瞬、頭の中が真っ白になる。
(時雨様が、殺される?)
 言葉の意味を頭が理解することを拒んで、声が出ない。その反応は杏花を喜ばせるものでしかなかった。
「朝葉時雨の正体は人の血を啜る化け物で、おまえの血を飲まなければ三十歳を待たずに死ぬそうね」
 ――なぜ、杏花がそれを知っている。
 時雨以外に純血の貴人と番の関係について知っているのは、道景とみどりだけのはず。絶句する凜花に、杏花は「和泉様がおっしゃっていたわ」と笑顔で答える。
「和泉様は、ご自分が当主になりたいそうよ。そのためには兄が邪魔だけれど、純血の化け物には敵わない。ならばその生命線である凜花を殺せばいいとお考えになった」
 しかし、そのためには確実に凜花と時雨を引き離さなければならない。
「だから、屋敷に火を放ったの」
「なっ……!」
「植物を操る私の貴力と、火を操る和泉様の貴力。私たちはとても相性が良いのよ? きっと屋敷は大火事になっているでしょうね。朝葉時雨もかなりの貴力を使うはず」
 そうして心身ともに疲弊した時雨がひとりになったところを、和泉が待ち伏せをする。そして――。
「和泉様が、化け物を殺すの」
 唇に弧を描く姿は、まるで夢見る少女のよう。しかしその桃色の唇はとてつもなく残忍な言葉を発している。
 その不均衡さに、姉が語った数々の事実に、めまいががした。
(ふたりが共謀して、屋敷に火を放った……?)
「時雨様と私を殺すために、屋敷に火を放ったのですか?」
「そうよ。餌としては少々もったいないけれど、目的を果たすためには仕方ない犠牲だわ」
 何も問題ないとばかりに杏花は肩をすくめる。凜花はますますわからなくなった。
「旦那様と奥様がどうなってもよかったのですか?」
 凜花とは違い、杏花は目に入れても痛くないくらいに溺愛されていたのに、どうしてそんな薄情なことができるのか。今こうしている間にもふたりは怪我をするか、最悪の場合は命を落としていても不思議ではないのに。
「お父様は貴人よ。お母様だって、おふたりの寝室の近く火種はおかなかったもの。よほど運が悪くない限り、そう簡単に死にはしないわ」
 その物言いからは、両親がどうなってもかまわないと思っているのがわかった。
 たまらず、凜花は言った。
「狂っているわ……」
「なんとでもおっしゃい」
 凜花の言葉をものともせずに杏花は愉快そうに鼻を鳴らす。
「このまま何もせずにいれば、私は只人の男を伴侶に迎え、おまえは公爵夫人になる。そんなことは絶対に認めない。私がこの世で一番許せないのは、おまえより下になることなの。そうならないためなら屋敷なんてどうでもいいわ」
 まるで別の生き物と話しているようだ、と凜花は思った。
 姉のことはこれまでも心の底から恐ろしいと思っていたが、今はその比ではない。目の前の存在が、人の皮を被った悪意ある生き物に見えてならない。
「さあ、おしゃべりは終わりよ」
 恐怖で体を震わせる凜花に杏花は最後通告を突きつける。
「――跪きなさい」
 数えきれないほど聞いた、その言葉。
「惨めったらしく地面に這いつくばって、私に許しを請いなさい。そうすれば命だけは助けてあげるわ」
 凜花がそうすると信じて疑わない口調で杏花は言った。
「和泉様には『殺せ』と言われたけれど、こうして顔を見たら殺すのが惜しくなったわ」
 それはきっと、凜花が妹だからとか、可哀想になったとかの理由ではない。
「化け物は和泉様が退治してくれる。そうすれば、おまえを生かしておいても和泉様もうるさくは言わないでしょう。だって、簡単に殺したりしたらもったいないもの。下僕の分際で私をこけにした分、おまえにはもっと苦しんでもらわないと気が済まないわ」
 凜花、と。
 柔らかな声で、杏花は双子の片割れの名を呼んだ。
「今この場で私に殺されるか、死んだほうがましだと思いながら一生私にこき使われるか。おまえは、どちらの地獄を選ぶ?」
 ――この場で死ぬ? 
 ――そもそも、時雨様は無事でいるの?
 ――早くみどりを助けなければ。 
 頭がどうにかなりそうな緊張状態の中、凜花は無意識に自分の胸元を掴んで、ハッとする。
『大丈夫だ。私を信じて』
 別れ際の時雨の声が、頭をよぎった。
 そうして凜花がゆっくりと膝をつこうとするのを、杏花はにいっと歪んだ笑みで見つめた。

「なぜこんなことをした、和泉」
 どうしてここにいるのか、とは聞かないし、その必要もない。
 すでに時雨は、今回の火災は和泉と杏花が引き起こしたものだと確信している。
 そして和泉は、それを否定しなかった。
「兄上が邪魔だからですよ」
 笑顔を貼り付けて和泉は言った。
「こうでもしなければ、兄上と長嶺凜花を完全には引き離せない。そのために長嶺邸を餌にしました。今の私の役割は……そうですね、足止めといったところです」
「足止め?」
 この言葉に全身の毛が逆立つような感覚がした。
 自分と凜花を引き離したい。そして、足止め。
 それから連想させるのはひとつだけ。
「――凜花に、何をした」
 血を這うような低い声で時雨は唸る。
「私自身は何も。するとしたら杏花の方です。こうして私が兄上の足止めをしている今この瞬間にも、あの只人の女は殺されかけている。そう考えるとぞくぞくしませんが?」
「おまえっ……!」
 やはり嫌な予感はあたった。
 杏花だけいなかったのは、凜花のもとにいるから。 
 彼女の身に何かあったら――そう考えると、焦りと怒りで目の前が真っ暗になりかける。しかし、時雨は両手の拳を強く握りしめることでなんとか正気を保つ。
 凜花には、お守りを渡してある。
 だから安全というわけではもちろんないが、今は、目の前の問題ごとを一秒でも早く片付ける必要がある。
「時間の無駄だ、要求を言え」
 睨み据えながら問えば、和泉は朗らかに微笑んだ。
「それなら、今すぐこの場で死んで、私に当主の座を譲ってくれますか?」
「話にならないな」 
 馬鹿馬鹿しい、と時雨は一刀両断すると、和泉は「そうでしょうね」と肩をすくめる。
「それにしても、兄上がそのように必死なところは初めて見ますね。まぁ、それもそうか。あの女に何かあれば兄上もいずれ死ぬ。必死になるのも当然だ」
 ああ楽しい、と実に愉快そうに和泉は声をあげて笑う。
 その一言に時雨は悟る。
 ――和泉は、純血の貴人の秘密を知っている。
「父から聞いたのか?」
「違いますよ」
 意外にも和泉はこれを否定した。
「父さんからは何も聞いていません。自分で調べたんです。純血でもなく次男にすぎない私は、兄上に何かあったときの予備でしかない。父さんもその役割のために私を作った。私は、昔からそれが嫌でたまらなかったんですよ。だから、いずれあなたから当主の座を奪ってやろうと密かに純血について調べました。そこであなたの正体と番との関係を知ったんです」
 兄上、と。
 ねっとりと絡みつくような声で、和泉は言った。
「お二人の関係は素敵だと思いますよ? 血を啜らずには生きられない化け物と、無能で誰からも愛されない只人の娘。互いの存在なしに生きられない――なんて、比翼連理で素敵じゃないですか。でも、しょせんあなたは化け物だ。当然、朝葉の当主には相応しくない」
「だから、長嶺杏花と手を組んだのか」
「そんなところです」  
 語るように、歌うように和泉は柔らかく語る。
「私は兄上が邪魔。杏花は妹が邪魔。私たちの利害は一致しました。次期公爵夫人の座を約束したら快く協力してくれましたよ。感情的で愚かな女だが、野心的で冷酷なところは悪くない。私の妻になるには、あれくらいの器量がなくては困る」
 子どもは適当に只人を囲えばいいだけだ、と和泉は笑顔で言い切る。
 まるで自分が次期公爵になることを確信しているような口調に、時雨は「もういい」と吐き捨てた。
「おまえのくだらない野心も妄想もかけらも興味がない。今すぐそこをどけ。私は、凜花のもとに行く」
 和泉の襲撃によって時雨の自動車は破損した。しかし、和泉の後方には彼が乗ってきたであろう車がある。一刻も早くあれを奪い屋敷に向かうのだ。
「行かせるわけがないでしょう」
 他する和泉は、兄の思惑などお見通しのようにクックと笑う。
「あれほどの大火を消すほどの大雨を呼び寄せたんだ。いかに化け物とはいえ、貴力はもうほとんど残っていないはずだ。この上私の相手なんてできるわけがない」
「なにも問題ない」
 否定すると、和泉は笑みをさっと消して不快そうに眉根を寄せる。
「……本気で言っているのですか」
「ああ。おまえ相手には、今の私でも十分すぎる」
 嘲笑と共に答えた、次の瞬間。
 無数の火の矢が一直線に時雨目がけて飛んでくる。 
 時雨はその場から一歩も動かなかった。眼前に迫った火の矢は一本たりとも時雨にあたることなく、目には見えない壁に遮られて四散する。
「なぜ……!」
 和泉は動揺をあらわに目を見開く。
 対する時雨は、眉ひとつ動かすことなく片手をひらりと振った。
 その瞬間、目にも止まらぬ速さの風が吹き、立ち尽くす和泉の頬に傷をつける。
「かまいたち……?」 
 呆然と呟く和泉の頬から一筋、血がつたった。
「どうした、立っているだけか? 今、私が手加減をしなければおまえの四肢は私の風で切断されていただろうな」
「強がりをっ……!」
「強がりかどうかは、自分の目で確かめればいい」
 なおも和泉は火の矢を繰り出すが、やはり時雨がそれによって傷つくことはない。
「貴力とは、こう使うものだ」
 時雨が片手を軽く翳した途端、たちまち炎の渦が巻き起こる。
 それは一瞬にして竜の形へと変わる。
 まるで本当に生きているかのような火の竜はカッと大きく口を開き、降り注ぐ炎の矢を飲み込むと、和泉めがけて一直線に飛んでいった。
「なっ……!」
 和泉の面前に迫った火の竜は、彼をも飲み込まんと刃を向いて――。
 時雨が手を下ろすと、たちまち幻のように消えた。
 そうしてその場に残ったのは、顔面を蒼白にして尻餅をつく和泉だった。
 体全体を震わせて座り込む弟のもとに、時雨は向かう。
 圧倒的な力の差を目の当たりにした和泉は、ふるふると首を横に振って逃げようとする。しかし、腰が抜けているのか実際にはその場から一歩も動かない。
「私は軍人だ。今日のような災害現場には、これまで数えきれないほど遭遇している。その私が、たかだか雨を降らせた程度で身動きが取れなくなるとでも思ったか?」
「やめろ、来るな化け物っ……!」
 もはや会話もままならないほどに和泉は動揺している。
 これ以上は会話する時間ももったいない。
「和泉」
「ひぃっ……!」
 時雨は膝をつき、和泉と視線を合わせる。
「おまえは色々とやりすぎた。これから先は、その身で自分の罪を贖え」
「うっ……!」
 時雨は和泉の鳩尾に思い切り拳を入れる。次いでぐったりと意識を失った体を手早く拘束し、弟の車に放り込んだ。そうして和泉の服の中から車の鍵を探し出し、すぐさまエンジンをかける。
「っ……!」
 しかし運転し始めてすぐ、時雨は自身の体調の変化を感じた。
(……さすがに貴力を使いすぎたか)
 和泉にはああ言ったが、実際のところは虚勢を張っていただけだ。
 現に、今も頭の中を殴られているような頭痛と体中を走る悪寒が止まらないし、額からは冷や汗が流れている。
 こうなることは初めてではない。凜花と出会う以前は、大量の貴力を使った後は今の比ではないほどの体調不良に見舞われていた。
 そのときに比べれば、運転する気力が残っているだけまだましな方だ。
 もはや一分一秒が惜しい。
 どうか無事でいてくれと強く願いながら、時雨は車を走らせた。

 凜花はゆっくりと両膝をつく。
 その様を実に愉快そうに見下ろす姉を見返しながら、凜花は思った。
『私が全て間違えておりました』
『全て、お嬢様が正しいです』
『本当に申し訳ありませんでした』
 もしも、凜花がそう言えば、杏花の顔は歓喜に変わる。
 姉は、可憐な顔にぞっとするほど冷ややかな笑みを浮かべて、生き地獄を選んだ妹を生涯いたぶり続けるだろう。そして凜花は、姉が言ったとおり「死んだ方がましだ」と絶望しながら死ぬまでの日々を過ごす。
 その未来は、時雨の隣で共に老いていくよりもずっと詳細に凜花の頭に浮かんだ。
(――それでも、私は)
 両手を地面について頭を下げようとした凜花は、次の瞬間、正面の杏花の足をめがけて思いきり体当たりをした。
「いっ……!」
 まさか凜花がそんなことをするとは思いもしなかったのか、不意を突かれた杏花はその場に背中から倒れ込む。その隙に凜花はみどりのもとに駆け寄り、横たわる彼女を背中に庇った。
 ――今度こそ、私がみどりを守る。
「おまえっ、よくも……!」
 鬼の形相に変わった杏花が手を掲げると、たちまちすぐ近くに生えた樹木の枝が急激に伸びる。それは迷うことなく一直線に凜花めがけて飛んでくる。
 凜花は、迷わず胸元に下げていた小袋から水晶を取り出した。
 眼前に、木の鞭が迫る。
(時雨様っ……!)
 凜花はぎゅっと瞼を閉じる。
「どうしてっ……!」
 しかし、痛みは訪れなかった。代わりに耳に届いたのは、杏花の叫び声だった。
 凜花は恐る恐る瞼を開ける。そうして視界に飛び込んできた光景に絶句する。
 目の前では、何本の木の鞭が容赦無く凜花めがけて振り下ろされている。
 しかし、それが凜花に触れることはない。
 金色の薄い膜が凜花の周囲一体を包み込み、透明な壁となって守ってくれていたのだ。
 驚いたのは、それだけではない。
 ――手の中の水晶が光っている。
 眩いばかりの金色の光は、時雨の瞳と同じ色。その眩しさに反応するように、背後から「うっ」と呻く声が聞こえた。ハッと振り返ると、気を失っていたみどりが身じろぎしている。
(みどり……!)
 彼女が意識を取り戻したことに心の中で喜びの声をあげたのも束の間だった。
「なぜ、おまえが朝葉時雨の水晶を持っているの⁉︎ 光気を纏っているのよ!」
 無数に繰り出される鞭の先で、凜花が憤怒の表情を浮かべて叫ぶ。
「あの男がおまえに水晶を贈ったなんて聞いてないわ! それに、さっきまでなんの光気も纏っていなかったのに、なんで……どうしてよ!」
 半狂乱になった杏花は叫ぶ。その間も四方から木の鞭が絶えず振り下ろされ続けたけれど、凜花はもちろん、その背に庇うみどりに届くことは決してない。
 ――守られている。
 水晶が、時雨が、ふたりを守ってくれている。
 今になってはじめて、凜花は「お守り」の本当の意味を知った。
(これが、時雨様の光気? なんて綺麗なの……)
 攻撃されている最中にも関わらず、そのあまりの美しさに見惚れてしまう。
 手のひらの中の水晶はほのかに温かい。まるで時雨に触れられているようだ。
「よこしなさいよ……! その水晶は、おまえのような無能な只人が持っていていいものではないわ!」
 愚図、無能、のろま、役立たず、家の恥――。
 杏花はありとあらゆる暴言を吐きながら貴力を振るう。
 凜花はずっと、感情を爆発させる姉が恐ろしくてたまらなかった。
 杏花を怒らせないよう、刺激しないようにいつだって神経を張り巡らせ、常に綱渡りをしているようだった。しかし今、感情のままに叫ぶ姿を見て改めて思う。
 ――杏花は、子どもなのだ。
 欲しいものが手に入らないと癇癪を起こして、周囲がいうことを聞くまで泣き続ける、聞き分けのない幼子となんら変わらないのだと、初めて気づく。
(今なら、言える)
 十八年間、胸の奥底に閉じ込め続けてきた感情。どんな理不尽な命令にも俯いて応え続けてきた昔の自分が本当は何を考えていたのか。
(――時雨様が、守ってくださる)
 凜花は手のなかの水晶を強く握り、真っ向から杏花を見据える。
「お姉様」
 生まれて初めて、杏花を姉と呼んだ。その直後、ぴたりと攻撃が止む。視線の先では、目を大きく見開き驚愕をあらわにする杏花がいた。
「おまえ、今、なんと言ったの?」
「お姉様、と申し上げました」
「……おまえのような無能が、私を姉と呼ぶのはやめなさい!」
 喉が裂けんばかりに杏花は叫ぶ。しかし彼女が再び貴力を振るうことはない。
 おそらく、貴力を使い果たしたのだろう。それでもなお苛烈に睨んでくる杏花から目を逸らすことなく凜花は言った。
「いいえ、呼ばせていただきます。なぜなら……私はもうあなたの下僕ではありません。これから先も、なるつもりはありません。もちろん、水晶もお渡ししません」
「なんですって⁉︎」
「それだけじゃありません」
 凜花は、姉の声にあえて被せる。
「時雨様を悪く言うのは、おやめください」
 彼は、自分を卑下することしか知らない凜花に、新しい価値観を与えてくれた。自分を甘やかしていいのだと、凜花にもできる役割があるのだと教えてくれた。
 凜花に、笑うことを教えてくれた。
 常に姉に怯え、家族の愛情を羨み、孤独だった凜花に家族になると言ってくれた。凜花自身を必要だと、そばにいてくれるだけで良いのだと言ってくれた。
 いつだって後ろ向きな凜花の背中を推してくれた。
 そんな彼は、杏花が悪様に言っていいような人ではない。
「私は、時雨様ほど優しくて強いお方を他に知りません」
 そうだ、とこのときふと凜花はあることに気づく。
 ――凜花は、彼が「只人」と口にするのを一度だって聞いたことがない。
(ああ……)
 やはり彼は、とても優しくて温かい、血の通った人間だ。
「時雨様は、化け物ではありません!」
 力の限り叫んだ、そのとき。
「凜花!」
 求めてやまなかった声が凜花の鼓膜を震わせた。
 弾かれたように声の方を見ると、一台の車が玄関ポーチに入ってくる。
 見覚えのない車から駆け降りてきたのは、時雨だった。
 彼は一目散に凜花のもとにやってくると、そのまま力の限り凜花を抱きしめた。「――無事でよかった」
 抱き寄せられた逞しい胸から、激しく鼓動する心臓の音が聞こえてくる。
 その温もりに、音に、時雨という存在に。
 凜花は、心の底から安堵した。
 そのまま広い背中に縋りつきたい気持ちを堪えて、凜花は「みどりが」と呟く。時雨はそれに頷くと、地面に仰向けに横たわり、薄目を開ける妹のもとに跪いた。
「おまえも、よく頑張った」
「し、ぐれ様……」
 目尻から涙を流すみどりの頭を時雨は優しく撫でる。これにみどりは安心したように瞼を閉じて眠りにつく。その表情は先ほどと違ってとても穏やかだ。
 時雨はさらにみどりの頭をもうひと撫でして立ち上がる。そして、彼女と凜花を背中にかばい、杏花を睨み据えた。
「長嶺杏花」
 名前を呼んだ。
 ただそれだけのことに、隣に立つ凜花は皮膚の表面が泡立つような寒気を覚えた。
「おまえは、自分が何をしているのか本当に理解しているのか?」
 感情の揺らぎを感じさせないような朗々とした声だった。
 しかし、時雨は下ろした両手をきつく握りしめている。よく見るとそれは微かに震えていた。
 その姿に凜花は悟る。
 今の時雨はとても落ち着いているように見えるけれど、本当は体の内にある激情を必死に抑え込んでいるだけなのだ、と。
「な、んで……どうしておまえがここにいるの……」
 時雨が到着してからずっと、呼吸するのも難しいようにはくはくと口を動かしていた杏花は、ようやく声を絞り出す。杏花は時雨の問いに答えることなく、青ざめた顔で喚き始めた。
「和泉様は、何をしているの⁉︎」
「弟ならあの車の中にいる。もっとも、意識はないし拘束しているがな」
「なっ……!」
 杏花は目を見張り、声を荒らげる。
「あの役立たず! 弱りきった化け物のおまえを殺すのがあの人の役割なのに、足止めもできないなんて……!」
「わめくな、うるさい」
 時雨が軽く手を一振りした次の瞬間。
「ひっ……!」
 杏花は苦しそうに自分の首を抑える。みるみる顔色を悪くする杏花に向けて、時雨は怒りを押し殺した声で、今一度「長嶺杏花」と姉の名を呼んだ。
「今、おまえの周りだけ空気をなくした。息ができないのは、苦しいか?」
 こくこく、と必死の形相で杏花は頷く。しかし時雨は眉ひとつ動かさない。
「そうだろうな。そのような苦しみを、おまえは長年凜花に与え続けたんだ。みどりのことも散々痛ぶってくれたようだし、次はどうしてやろうか」
 ――このままでは遠からず、杏花の命は尽きるだろう。
 凜花がたまらず傍の時雨の手に触れる。すると、時雨はわかっているとばかりに凜花の方を見た。
「大丈夫だ。殺しはしない。だから、あとは私に任せなさい」
 言って、時雨は手を下ろした。
「かはっ……!」
 途端に咳き込み始める杏花のもとへ時雨は向かう。
「いやよ……来ないで……私に近寄らないで、化け物!」

 時雨は人ひとり分の距離を空けて、杏花の前で立ち止まる。そして、尻餅をついたまま震えて怯える杏花を見下ろした。
 ――化け物。
 耳に馴染んだと言ってもいいその響きに、時雨は冷笑する。
「私が化け物なら、おまえはなんだ?」
「何を、言って……」
「仮にも血を分けた双子の妹を『下僕』と呼び、虐げ続け、あげく殺そうとするおまえも十分化け物だよ、長嶺杏花」
「違うわ! 私は貴人よ! 化け物ではないわ!」
 全身を震わせ顔を青くしながらも杏花は怒鳴る。この後に及んでもなおもそう口にできるその図太さに、一周回って笑いたくなるのを堪えながら、時雨は「だから?」と冷静に問い返した。
「貴人だから、貴力を持たない者には何をしてもいいというのか?」
「あたりまえよ、何を当然のことを言っているの⁉︎ そもそもあれは、凜花は私の下僕だもの、どう扱おうと私の勝手じゃない!」
「……そうか」
 時雨はひらりと手をひと振りする。途端に杏花は大きく目を見開いた。
「安心しろ。おまえの周囲に強固な空気の壁を作っただけだ。先ほどと違って息はできるはずだ。もっとも、おまえの声はこちら側には聞こえないけれど」
 目の前の凜花は何かを叫び、両手で空気の壁を何度も叩いている。
 おおかた「化け物!」「ここから出せ!」などと言っているのだろうが、こちら側に声は届かない。
 でも、これでいい。杏花の言葉はこれ以上聞くに耐えなかった。何よりも、凜花の耳に触れさせたくなかったのだ。
 無音で叫び散らかす杏花を睥睨し、時雨は空気の壁に手を触れる。
 こうすれば、こちらの声は手のひらを通じて杏花に届く。
「放火犯を娘に持った長嶺伯爵は、社交界を追われることになるだろう。おまえの愚かな行いによって、長嶺伯爵は家も、財産も、社会的地位も失うんだ」
 なおも何かを叫ぶ凜花を無視して、時雨は続けた。
「いまだに現実が見えていないようだから教えてやる。放火は、大罪だ。貴人であろうと罪は罪。死刑は免れたとしても、おまえはこの先の長い年月を、日の当たらない暗い塀の中で過ごすことになるだろう」
 現実を受け入れたくないように、杏花は涙を流して首を大きく横に振る。
 その顔は確かに凜花と同じ造りなはずなのに、時雨にはまったく似ているようには思えなかった。
「本当なら私が直接手を下したいところだが、凜花が悲しむからそれはしない。……彼女は、長嶺邸が火事にあったと聞いた時、両親とおまえの身を案じた。そんな価値もない、おまえたちをだ」
 しかし、時雨の言葉が杏花に響くことはなかった。
 これから自分を待ち受ける現実を、とても受け入れることができなかったのだろう。空気の壁の中、杏花は絶叫し、そのまま意識を手放したのだった。

 杏花がその場に崩れ落ちるのを、凜花は静かに見届けた。
 姉が叫ぶ声は凜花には届かなかったけれど、時雨とのやりとりでおおよその内容は推測できた。視線の先では、杏花の拘束を終えた時雨がしっかりとした足取りでこちらに向かってくる。
 遠目にもわかるほど顔色が悪いのは、それだけ彼が貴力を消耗したからだ。
 ――守ってくれた。
 雷雨の夜、納屋に閉じ込められていたときと同じ。
 今回も時雨は凜花を救ってくれた。
「凜花」
 自分を呼ぶその声に、澄んだ金の眼差しに。
 ずっと堪えていた何かが、体の内側から込み上げるのを感じる。
 気づけば凜花は自ら時雨のもとに向かって駆け出していた。そのまま彼の胸に飛び込み、広い背中に手を回して縋り付く。時雨はそれを優しく抱き止めてくれた。
「時雨様……」
「ああ」
「時雨様っ……!」
 ただひたすらに名前を呼ぶ凜花の頭を大きな手のひらが何度も撫でる。
 まるで慈しむようなその手つきに、時雨の胸の中の凜花はゆっくりと顔を上げた。
 潤んだ視界に映る時雨は、眩しいほどに美しくて、温かい眼差しを向けてくれる。
 そんな彼を前に、凜花はたまらず涙を流した。
 なぜ涙が出るのか、自分でもわからない。
 杏花に対する恐怖、時雨が無事でいてくれたことへの安堵感、こうして駆けつけてくれたことへの感謝の気持ち。それらが一気に混じり合い、ひとつになる。
 言葉は、自然と溢れ出た。
「お慕いしております」
 目を見張る時雨に、重ねて告げる。
「時雨様のことを……心から」
 伝えるつもりはなかった。
 一緒にいられるだけで十分だと思っていた。
 同じ気持ちを返してもらえなくても、想うだけで十分だと思っていた。
 でも、今は違う。
『今この場で私に殺されるか、それとも、死んだほうがましだと思いながら一生私にこき使われるか。おまえは、どちらをの地獄を選ぶ?』
 杏花に問われたとき、凜花は姉に虐げられる一生を送る自分の姿を容易に想像できた。それでも凜花が望んだのは、絶望の中で死んだように生きることではなかった。時雨と共に希望を抱いた未来を生きたいと、心の底から強く願った。
 涙を浮かべながら笑う凜花の頬を、涙がつたう。
「……大好きです」
 愛、というものを凜花は知らなかった。
 血の繋がった両親や姉から与えられるのは、愛情ではなく無関心や憎しみだった。そんな凜花に、時雨はたくさんのものを与えてくれた。教えてくれた。
 望まれることの喜び、人肌の暖かさ、そして。
(愛を、教えてくれた)
 今、凜花は改めて想う。
 心の底から時雨のことが大切で、愛おしい。
「凜花」
 泣きなくなるほど優しい声で、愛しい人は凜花の名前を呼ぶ。
「たったひとりの、私の番」
 時雨は手のひらを凜花の頬にそっと添えると、親指で目尻からとめどなく溢れる涙を拭ってくれた。
「時雨、様……」
「愛してる」
「っ……!」
 息を呑む凜花に、時雨は言った。
「私の妻になってくれますか?」
 心も体も捧げたい。そう思える人に出会えた奇跡を今、改めて噛み締める。
「喜んで」
 至上の喜びを感じながら、凜花は微笑んだ。