凜花は誰かと触れ合った経験がほとんどない。
 姉が両親に頭を撫でられ、抱きしめられているのを凜花はいつも遠目から見つめることしかできなかった。
 だからこそ、軍服越しにもわかった逞しい腕や、頭を支える大きな手のひらに体は初め驚いた。しかし、体の強張りはすぐに解けた。
 それでいい、と微笑んだ時雨がとても優しい声をしていたから。
『もう、大丈夫だ』
 その言葉を耳にした瞬間、体の内側からはどうしようもない安心感が生まれた。
 ――これが夢なら二度と覚めなくてもいい。
 本気でそう思うほどに、胸が満たされたのだ。
「ん……」
 だから、目覚めた凜花は初め、まだ自分が夢の中にいるのだと思った。
(ここは……)
 ゆっくりと重い瞼を開ける。
 真っ先に視界に飛び込んできたのは、染みひとつない天井だった。
 そこからはきらきらと眩い光を放つシャンデリアが下げられている。
 そういえば、今自分が横になっている寝具や枕も信じられないほどにふかふかだ。使い慣れた煎餅布団ではない。
「天国……?」
 薄暗く黴臭い女中部屋とは明らかに違うその景色に呟いた、そのとき。
「縁起でもないことを言わないでください。勝手に召されては困ります」
 呆れたような声が耳に飛び込んでくる。驚いた凜花が身じろぎをするより早く、声の主は姿を現した。
「あなたは――」
 仰向けの凜花を覗き込んだその人物は、ムッとしたように顔を顰めた。
「もう忘れたのですか?」
 輝くような金の髪や鮮やかな緑の瞳を忘れるわけがない。
 選定の儀の日に凜花と出迎えた少女、みどりだ。
 しかし、あの夜と違って今の彼女には表情がある。人形のように淡々としていたのとは別人のような姿にぽかんとしたのは一瞬だった。
 みどりが目の前にいる。
 その事実に寝起きでぼんやりとしていた思考は一気に晴れた。
 まず間違いなくここは時雨の別邸。ならば、自分が先ほど見たのは夢ではない。
「あの、私っ……!」
 現実に引き戻された凜花は急いで起き上がろうとする。
 しかし、上半身を起こそうとしただけで視界が揺れた。耐えきれずに再び寝台に倒れ込めば、「何をやっているんですか」とみどりは眉を顰めた。
「急に動いたらそうなるに決まってるでしょう。丸一日寝込んでいたんですから」
「寝込んでいた……?」
「そうですよ」
 ため息をついたみどりは、凜花の背中に手を差し込み上半身を起こすのを手伝ってくれる。
「ありがとうございます」
 下女の自分が他人に世話を焼かれる日が来るなんて、と落ち着かない気分になりながらも礼を伝えると、なぜかみどりは怪訝そうに眉根を寄せる。
「端的に説明します。ここは選定の儀を行なった時雨様の別邸です。昨日、時雨様は意識を失ったあなたを連れて帰ってきました。あなたは酷い熱で、今の今までずっと意識が戻らずにいたんです」
 状況は理解できましたか、と確認された凜花はこくんと頷く。
(朝葉様が助けてくださった……)
 はっきりと意識が覚醒した今、あのときの状況が一気に頭の中で思い返された。
 両親や姉に厳しい言葉を投げつけたことも、落雷が杉の木を真っ二つにしたことも、全て。
(でも、どうして?)
 時雨が伴侶に選んだのは杏花のはず。それなのになぜ凜花を助けてくれたのか。
 わからないことが多すぎるが、今は真っ先にしなければいけないことがある。
「あの……」
 恐る恐る声をかけると、「なんです?」とやけにツンツンした声が返ってくる。
「朝葉様にお礼を申し上げたいのですが、今はどちらにいらっしゃいますか?」
 時雨の意図はともかくとして、まずは助けてくれた礼を言わないと。
 そう思っての問いだったのだが、なぜかみどりは呆気に取られたように目を瞬かせる。前回と本当に印象が違うな、と内心思いながらも凜花は首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「どうって……選定の儀の時と態度が違いすぎませんか」
「それを言うならあなたもそうだと思いますが……」
「私はいいんです。これが素ですから。でも、あなたは? 選定の儀と今、どちらが本当なんですか?」
 警戒心をむき出しのみどりにどう答えたものか、と逡巡したときだった。
「そこから先は私が聞こう」
 不意に入口の扉が開く。
 凜花とみどりが同時にそちらを見ると、扉に背中を任せて腕を組んだ時雨が立っていた。白いシャツにズボン姿の彼は、目を見開く凜花を見て顔を綻ばせる。
「女性の部屋に許可なく入ってすまない。部屋の中から声が聞こえたものだから起きているのかと思ってね」
 時雨がみどりに目配せをすると、彼女は小さく頷き部屋を出ていった。そうして時雨とふたりきりになった凜花は、考えるよりも先に動いていた。
 ――お礼を言わないと。
 その一心で寝台から滑り出た凜花は絨毯の上に平伏する。直後、「何をしている⁉︎」と驚愕する声が聞こえたけれど、凜花はかまわず頭を下げた。
「私を助けてくださいましたこと、心より感謝申し上げます。本当に……本当にありがとうございました」
 絨毯に額がつくほど深く礼をすると、すぐにつかつかとこちらに向かって歩いてくる足音がする。それは凜花のすぐ近くでぴたりと止まった。
「やめなさい。顔を上げるんだ」
 促された凜花はおそるおそる顔をあげると、困ったように眉を下げる時雨と視線が重なった。
「あなたがそのようなことをする必要はない。だから、立ちなさい」
「でも――」
「いいから」
 命じられた凜花は、両足に力を入れて立ちあがろうとする――が、うまく体の重心が取れずにふらついた。すると、時雨がすかさず抱き止めてくれる。
「失礼いたしました……!」
 時雨のシャツにしがみついてしまった凜花が三度謝罪しようとすると、それより早く「まったく……」と頭上で時雨が呟いた。
「だから言っただろう。丸一日寝込んでいたのに、突然動いたらふらつくに決まってる」
 ひゅっと喉の奥が鳴った。
 他人に呆れられるのなんて慣れ切ったことなのに、改めて時雨の口から漏れたため息に自分でも信じられないくらい胸が痛む。
「申し訳ありません……」
「ああ、いや。別に責めているわけじゃない。とにかく今は安静にしないと」
「きゃっ!」
 ふわり、と体が浮く感覚がした。時雨が凜花を横抱きにしたのだ。そのまま流れるように寝台に座らされる。異性との接触に自然と体を固くした凜花は、ここにきてようやくあることに気づく。
 ――見覚えのない服を着ている。
 納屋に閉じ込められたときに着ていた、つぎはぎだらけの木綿のお仕着せではない。真っ白なドレスのような洋装は、杏花の寝衣によく似ている。
 いったい、いつの間に。
 凜花が固まっていると、寝台近くの椅子に腰掛けた時雨が「安心しなさい」と苦笑する。
「着替えさせたのはみどりだ。私はあなたの肌には触れていないよ」
「そのような意味では……!」
 こんなにも上等なものを自分が着ていることが信じられなかっただけだ。
 誓って時雨の無体を疑ったわけではない。しかし、何を言っても失礼にあたるような気がした凜花は再び「ごめんなさい」と口にすることしかできなかった。
 成人にもなって、まともな会話ひとつできない己の情けなさが嫌になる。
 ――こんなだから愚図だ無能だと言われてしまうのだ。
 杏花のふりをしなければ、自分はまともに相手の目を見ることもできない。
「……本当に申し訳ありません」
 馬鹿のひとつ覚えのように謝罪の言葉を繰り返す。そうしたところで時雨を困らせるだけだとわかっていても、それ以外の他人との関わり方を凜花は知らない。
 特に姉に対しては、謝罪の機会を一度でも逃したが最後、躾という名の激しい折檻が待っていたから。
「謝罪は十分聞いた。だから、いったん謝るのは終わりにしよう」
「すみま――」
「ほら、また」
 指摘しつつも時雨が気分を損ねた様子もなく、苦笑混じりに口を開いた。
「まずは私の話を聞いてほしい。その上で不明な点や気になる点があればなんでも答えよう。いいね?」
「……はい」
 頷きながらも凜花は信じられない気持ちでいた。
 自分とまともに話をしようとしてくれた人は、時雨が初めてだ。
 困惑を隠しきれない凜花の前で、時雨は形の良い唇をゆっくりと開く。
「ここが私の屋敷で、君を連れ帰った日から丸一日経過したことは聞いた?」
「……はい。先ほど、みどり様が教えてくださいました」
 すると、時雨はなぜかくっくと笑う。
「みどりに敬称や敬語を使う必要はない。多分、あの子もそれを嫌がるだろう」
 ――あの子。
 親しげな物言いに少しだけ引っかかったものの、凜花がそれに触れることはない。
「まずは、祝言の日の出来事について話そうか。あの日、私が長嶺邸に向かうと私の伴侶を名乗る女が待っていた。長嶺伯爵に娘がふたりいたことは知らなかったが、姿形からしてあなたとあの女は双子か?」
「……はい。彼女は、姉の杏花です。選定の儀には、体調を崩した姉に代わって私が参加いたしました。只人にも関わらず貴人に扮して朝葉様を騙したこと、心よりお詫びいたします」
 もう一度土下座したい気持ちを堪えながらも謝罪をする。しかし朝葉はまるで気にしたそぶりもなく「問題ない」と言い切った。
「そもそも私は騙されていないからな。あなたが貴人でないことや、他人の光気を纏っているのは初めから気づいていた」
 凜花はひゅっと息を呑む。
「初めから、ご存じだった……?」
「自分で言うのもなんだが、これでも純血の貴人なのでね。他の令嬢たちはごまかせたようだが、私からすれば子供騙しのようなものだ」
 苦笑して肩をすくめる時雨に凜花は今度こそ絶句する。
「全てわかった上で私はあなたを選んだ。姉ではなく、貴人ではないあなた自身を」
 ――信じられなかった。
 脳裏に過ぎるのは、選定の儀の時に紡がれた言葉の数々だった。
 会いたかったと、探していた……と時雨は言った。
(じゃあ、あれは本当に私自身に向けられていたの……?)
 全てを手にする杏花ではなく、何も持たない只人の自分を、彼が選んだ?
「あなたは、純血の貴人がどのように伴侶となる女性を選ぶか知っているか?」
 凜花は無言で首を横に振る。
「血で選ぶんだ」
「血……?」
 そういえば、儀式に望む前に血を一滴誓約書にたらした。
「で、ですが、私は貴人ではありません……」
「ああ。だから私も初めは驚いた。純血の貴人の伴侶は、当然貴人だと思っていたから。だから、これまでの儀式には貴人の令嬢しか招いてこなかったんだ」
 数百年ぶりの貴人ということもあり、儀式については文献で得た知識しかないのだ、と時雨は言った。
「みどりが持ってきた誓約書を見たときは目を疑った。一目で今までとは違うと感じたから。それは、本物のあなたに会って確信に変わった。――私が長年求め続けてきた伴侶は、あなただ」
 時雨が右手で凜花の頬に触れた。皮膚を通じて感じる温もりに不思議と涙が出そうになる。
「信じられない?」
「……はい」
「なぜ?」
「だって……私のような者が朝葉様の伴侶だなんて……」
 貴人でも貴族でもない。
 両親や姉からは存在自体疎まれ、家畜のように思われている役立たず。
 それが、長嶺凜花という存在なのだから。
「どうにもあなたは、自分を過小評価するきらいがあるようだな」
 さてどうしたものか、と時雨は考え込むそぶりする。
「貴人の中には読心を得意とする者がいるが、あいにく私は精神系の力は使えない。だが……そうだな、ほら」
 頬に触れていた時雨の手のひらがそっと凜花の首筋に触れる。すると、まるで湯たんぽのような温かさを皮膚に感じた。
「こんなふうに治癒の力は使える」
 ――まさか。
 凜花は、先ほどまで時雨が触れていた場所に己の手を当てて――驚いた。
 祝言の日、姉の手によって抉られた皮膚がもとに戻っていたのだ。
「私は、任務以外で治癒の力を使うことはほとんどない。あなたにそうするのは、私の唯一無二の伴侶だからだ」
「朝葉様……」
「一度に全てを飲み込むのは難しいと思う。しばらくの間は、私の婚約者としてこの屋敷に滞在するといい。ご実家には私から話を通しておく。入籍をするのはあなたの気持ちが定まってからでかまわない。それでも、これだけは頭に留めておいてほしい。私が選んだのは貴人の長嶺杏花ではない。あなた自身だ」
 時雨は凜花をじっと見据える。その眼差しからは嫌悪も、憎悪も、悪意も――凜花が今まで一身に受けてきた負の感情は一切感じられなかった。
 蜂蜜色にも琥珀色にも見える神秘的な金の瞳に映るのは、自分だけ。
 その事実にたまらなく胸が締め付けられる。
「でも……私には、朝葉様にお返しできるものが何一つありません……」
「かまわない」
 答えは明瞭で、簡潔だった。
「私があなたに求めることはただひとつ。――私のそばにいてほしい」
「っ……!」
「あなたはただこの屋敷で自由にのんびりと過ごせばいい。望むのは、それだけだ」
 次いで時雨は思い出したように「ああ、そうだ」と目を瞬かせる。
「私としたら、肝心なことを忘れていた」
「なんでしょう?」
「あなたの名前は?」
 ここにきてようやく名前を名乗っていないことに気づく。
「凜花……凛々しい花と書いて、凜花といいます」
 父は何を思ってこの名前をつけたのだろう。
 凛々しさも花のような美しさも、自分は何ひとつ持っていないのに。
 そう思っていたからこそ、続く時雨の言葉は意外なものだった。
「――凜花。あなたに相応しい素敵な名前だ」
「え……?」
「私のことも、名前で呼んでほしい」
「……時雨様?」
 恐れ多さを感じながらもそう呼べば、時雨は満足そうな顔をする。
「それでいい。そう遠くない未来、あなたも『朝葉』になるのだから」
 そう言って、時雨はとても優しい顔で微笑んだ。

「――色々なことを一度に聞いて疲れただろう。今は自分の体を休めることを第一に考えなさい。私は、傷は癒せても体力を与えることはできないから」
「……はい」
 かろうじて聞こえるほどの声に、時雨は微笑んだ。
「それでは私はこれで失礼する」
 扉を閉めた時雨は、部屋の前に控えていたみどりに視線を向ける。
「彼女を頼んだ。……あとで、私の書斎に来てくれ」
「承知いたしました」
 時雨と入れ替わりにみどりが部屋の中に入っていく。
 そうしてひとりになった時雨は、引き結んだ唇を強く噛む。
 そうでもしないと感情を制御できないほどの苛立ちが体の中を渦巻いていた。
 書斎に到着すると、身を投げ出すように椅子に座り込む。
「……くそっ」
 口汚く吐き捨てた時雨は、右腕で目を覆い天井に仰ぐ。
 視界を暗くすることでなんとか気持ちを鎮めようと試みるが、絨毯に突っ伏す凜花の姿がありありと思い浮かんで、とてもではないが落ち着かない。
 彼女は息するように謝罪をし、平伏をした。
(……胸糞悪い)
 無論、凜花にではなく、彼女がそうなるにいたったであろう背景に対してだ。
 ――凜花が長嶺家でどのような扱いを受けていたのか。
 聞くこと自体が彼女の負担になるかもしれないと、先ほどはあえて問わずにいた。しかし、おおよその見当はつく。
 まず間違いなく、凜花はろくな扱いは受けていなかっただろう。
 時雨自身は経験したことはないが、いたずらが過ぎた子どもへの罰として、納屋や蔵に閉じ込めることがあるのは知っていた。
 しかし、あのような雷雨の日に素足で納屋に……なんて常軌を逸しているとしか言いようがない。
(それに比べて、姉の方は随分と甘やかされていそうだった)
 祝言を挙げるべく長嶺家を訪ねた日のことを思い出す。
 本物の長嶺杏花を見た時雨は、瞬時に「違う」と思った。
 ――この女は貴人だ。
 しかし、時雨が選んだのはごく普通の貴力を持たない人間だった。
 確かに目の前の女は選定の儀のときと同じ。纏う光気はもちろん、姿形や声もそのままだ。それらの事実に時雨は真っ先に身代わりを考えた。
 だから、聞いた。
『私の選んだ伴侶はどこにいる?』
 それなのに目の前の女ときたら、けらけらと笑いながら答えたのだ。
『何をおかしなことをおっしゃっているのですか? 目の前にいるではありませんか。時雨様は冗談がお好きなのですね』
 時雨様、と。
 許したはずのない名前で女に呼ばれた瞬間、吐き気がした。
 どんなに整った顔をしても人の性根は顔に出る。
 事実、なんの汚れもない純白の花嫁衣装を纏った女の顔からは、気の強さと意地の悪さが滲み出ていた。
『こんな茶番に付き合っている暇はない。もういい、私が自分で探せばいいだけだ』
 制止の声も聞かずに広間を出た時雨は、五感を研ぎ澄ませた。
 女と同じ顔をしていた以上、儀式で会った彼女はまず間違いなく長嶺伯爵の娘で、双子だろう。ならば屋敷のどこかにいるはずだと思ったのだ。
 ――そして見つけた彼女は、見るも無惨な有様だった。
 青ざめた髪や顔はもちろん、見るからに粗末な着物をびしょ濡れにした彼女の首には、何者かに絞められたような傷跡があった。その上、足元は何も履いておらず、爪先には泥がついている。
 信じられなかった。同時に、視界が揺らぐほどの怒りが湧き上がった。
 一刻も早く助けないと、と動こうとした時雨だが、愚かにも長嶺伯爵はその邪魔をした。それだけではない。女は言ったのだ。
『役立たず』『愚図』、と。
 泥で汚れた白無垢の方がよほど似合いだと思うほどに、女は醜悪だった。
 そして確認すると、やはり女は凜花の実の姉だという。
(私なら、妹にあのようなことは絶対にしない)
 拳を強く握りしめたそのとき、書斎の扉が叩かれる。
 入室を許可するとみどりが静かに入ってきた。机の前に立ったみどりは厳しい表情をしている。きっと、今の自分も同じような顔をしているだろう。
「彼女はどうした?」
「あの後、白湯を湯呑みの半分ほど飲んで、今は眠っています」
「……そうか。おまえは彼女をどう思う?」
「どう、とは」
「先ほどの態度を見て何を感じた? 演技だと思うか」
 みどりは「いいえ」と首を横に振る。
「それにしては手が込みすぎているかと。それに、平伏することに慣れているように感じました」
「……やはりおまえもそう感じたか」
 意見は一致した。
「彼女については私の方で少し調べてみる。おまえには身の回りの世話を頼みたい。彼女が望んだことは、可能な限りどんなことでも叶えてやってくれ。金に糸目はつけなくていい」
「承知いたしました。ですが……ひとつだけお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
 一拍の後、みどりは言った。
「時雨様は……あの方を好いておられるのですか?」
「好く? 私が、彼女を?」
 思わぬ質問に漏れたのは、乾いた笑み。
「おまえもわかっているだろう。彼女は私の番だ。それ以上でもそれ以下でもないさ」

 時雨の別邸で目覚めた翌朝。
 靄のかかった頭のままぼうっと瞼を開けた凜花は、気だるい体をゆっくりと起こす。 
(なんだか、すごく眠い……)
 寝起きは良い方なのに、と思いつつもぼんやりと辺りを見渡して、ハッとする。
「ここは……」
 女中部屋とは広さも調度品の豪華さも何もかもが異なる部屋の様子に、一瞬にして昨日の出来事が思い出された。
(そうだ……昨日、朝葉様とお話をして……)
 白湯を飲んだ直後に強烈な眠気に襲われて、そのまま意識を手放してしまった。結局そのまま熟睡してしまったようだ。
 ――まだ、夢の中にいるようだ。
 こんなにも素敵な洋室のふかふかの寝台で寝ていることも、時雨の選んだ伴侶が自分だということも、昨日の今日ではとても受け止めきれていない。
 しかし、呆けていられたのは寝台横のテーブル上の置き時計を見るまでだった。
「いけない……!」
 すでにいつも起きる時間より二時間も遅い。長嶺にいた頃なら完璧な寝坊だ。
 凜花は急いで足元に置かれていた室内履きに足を通そうとする。だがその直後、視界が揺らいだ。
「あっ……」
 くらり、とめまいにも似た感覚に立つことができずに寝台の上に座り込む。
(何……?)
 うまく体に力が入らない。
 体がまだ寝ぼけているのだろうか。
(――しっかりしないと)
 眠っている間のことは当然覚えていないが、凜花はもう丸二日も休んでいたことになる。これ以上の迷惑はかけられないと、重い体でなんとか立ち上がる。
 そして部屋を出ようとしたところであることに気づく。
 今の自分は真っ白な洋装を着ている。
 袖、裾ともに覆われているため露出は少ないが、寝衣であることには変わりない。そのような姿で部屋を出ていいものだろうか。
 かといって、このままみどりが来るまで惰眠を貪ることなど到底できない。
 時雨は彼女を凜花の世話役にすると言っていたが、とんでもない。
 今までずっと凜花は他人の世話をしてきた。そんな自分が、昨日今日でまったく反対の立場になれるほど図太くはなれなかったのだ。
 正直、「みどりの世話をしろ」と言われた方がよほど納得がいくくらいだ。
 まずは、彼女を探して何か仕事がないかを聞いてみよう。
 そう決めた凜花がドアノブに手を伸ばしたのと、外側からノックされたのは同時だった。
「は、はい!」
「私だ。朝早くにすまないが、入ってもいいか?」
 扉の向こうから聞こえてきたのは、まさかの時雨の声。
「も、もちろんです」
 ――私相手に許可を求めるなんて。
 内心驚きながらも凜花が一歩下がると、ゆっくりと扉が開く。
「おはよう」
「おはようございま――」
 言いかけて、声は止まってしまった。
 現れた時雨は、一部の隙もないほど完璧な姿をしていたからだ。
 儀式の時と同じ黒の軍服を纏った彼は、昨夜は下ろしていた前髪をすっきりと上げている。顕になった額の形といい、すっと通った鼻筋や形の良い唇といい、目の覚めるような顔立ちだ。
「どうかしたか?」
「い、いえ……なんでもありません」
 あなたの顔に見惚れていました、なんて言えるわけがない。
「このような時間まで寝ておりまして申し訳ありません」
 寝坊したことを謝罪する。対するなぜか時雨は困ったように眉を下げるが、特に何かを言うことなく上着の衣嚢からあるものを取り出した。
「出仕前にこれを渡しておこうと思ってね。手を出してごらん」
「は、はい」
 両手を天井に向けると、手のひらに小袋が乗せられる。
 目を瞬かせる凜花に、時雨は中を確認するよう促す。素直に紐を解いて中身を手のひらの上に取り出すと、とても綺麗な蜂蜜色の石が現れた。
「これは……琥珀、ですか?」
「似ているけど違う。それは水晶だ」
 水晶、と凜花は小さく反芻する。
「姉との入れ替わりでも使ったはずだが」
「……私の知っている水晶は、このような色ではありませんでした」
 凜花と入れ替わりの際に必ず渡されたものは、無色透明だった。
「普通、多少の貴力を込めたところで水晶の色が変わらない。あなたが持っているそれに色が付いているのは、それだけの量の貴力を私が注いだからだ」
 時雨は穏やかな声で続ける。
「要は、お守りのようなものだ。持っていれば、いざという時に私の貴力があなたを守ってくれる」
「お守り?」
「ああ。ただし、普段は決して人目に触れぬよう小袋に入れて肌身離さず身につけておいてほしい。その袋から出していいのは、あなたの身に危機が迫ったときだけだ」
「なぜ、ですか?」
「その小袋は封印に長けた貴人が作った特別製で、光気を遮断する効果を持っている。小袋に入っているかぎり、あなたが私の伴侶だと気づかれることはない」
 純血にして次期公爵家当主である時雨は、普段から何かと注目を浴びることが多い。婚約者という立場の今、あえて凜花自身が注目を浴びる必要はないだろう、と時雨は言った。
「それでも忘れないでほしい。これを渡すのは、あなたが私にとって特別な人という証でもある」
 特別。その一言に、心臓がドクンと音を立てる。
 ――ありがとうございます。
 そう、言えたらいいのに。
「本当に……いいのですか?」
 口をついて出たのは、確認の言葉だった。
 ――私が、このようなものを持っていてもいいのだろうか。
 相応しくないと――申し訳ないという気持ちが先に立って、声は情けなくも震えてしまう。
「いいんだ」
 大きな手のひらが水晶ごと凜花の手を包み込む。
「私があなたに持っていてほしいだけだ。難しく考える必要はない」
 低く心地よい声に、後ろ向きだった凜花の心が浮上する。
 この水晶の価値がいかほどか、凜花は知らない。
 それでも、純血の貴人の貴力を注いである以上、天井知らずであることは間違いなかった。それを自分のようなもののために用意してくれた――凜花のことを考えてくれたという事実に胸が震えた。
「……贈り物をいただくなんて、初めてです」
 感動から声を漏らすと、時雨は目を見張った。
「初めてって……成人祝いは?」
「ありませんでした」
 凜花は首を横に振る。
「だから……本当に嬉しいです」
 心からの感謝を伝えた凜花は、小袋にしまう前にもう一度手のひらの上の水晶をじっと見つめる。
「時雨様の光気は、こんなにも輝いているのでしょうか」
「え?」
 目を見開く時雨の瞳と、水晶はとてもよく似た色をしている。
「時雨様の瞳と同じ色ですね。本当に綺麗……」
 うっとりと水晶を見つめていた、そのとき。
「あなたは……私の瞳が、綺麗だと思うのか?」
 なぜか上ずる声で問う時雨に、凜花は迷うことなく頷いた。
「はい。私が今まで見た中で、もっとも美しい色です」
 これに対して時雨はただ一言「そうか」と呟く。そして、言葉少なに「行ってくる」と部屋を出ていった。
 ひとり部屋に残った凜花は、扉が閉まる音にハッとする。
「お見送りの挨拶をしなかったわ……」
 ――いってらっしゃいませ。
 そう言えたらよかったのに、と思っていると、時雨と入れ替わるようにみどりがやってくる。開いたままの扉。その前にぽかんと立ち尽くす凜花を見た彼女は、人形のように精巧な顔をムッとしかめた。
「こんなところで何をしているんですか? まだ本調子ではないのだから、寝ていないとだめでしょう。ほら、早く寝台に戻る!」
 みどりは容赦なく凜花の背中を押す。ぐいぐいと寝台へと追いやられた凜花は、勢いに押されるままふかふかの寝具の上にぽすんと腰かけた。
 すると、みどりは「まったくもう」とこぼしながら、白い手を凜花の額にあてる。もともと体温が低いのか、ひんやりとした感触が気持ちいい。
「熱は……なさそうですね」
「あの、みどり様」
「『みどり』」
 呼んだ直後に訂正される。
「私はあくまで使用人。敬称は必要はありません。年もあなたより年下です」
「……何歳なのですか?」
「十五です。それと敬語も不要です。時雨様もそうおっしゃっていませんでしたか?」
「言われました、でも――」
「それならそのとおりにしてください」
 厳しい口調で嗜めながらも、みどりは上掛けを凜花の肩に羽織らせてくれる。その手つきはとても丁寧で、言葉とはまるで裏腹だ。
(なんというか……とても可愛い人、かも)
 寝台に寝かせるのも、熱を測るのも全ては凜花の体調を思ってのことだ。
 ――こんなふうに、誰かに手を焼かれる日が来るなんて。
 今日まで、熱が出ようと怪我をしようと凜花を心配する者は誰もいなかった。
 凜花自身、いつ、どの瞬間に杏花の呼び出しがあるかわからないから、どんなに体調が悪くてもそれを表に出すことはしなかった。
 弱った姿を見せたが最後、美しい姉は嬉々として追い討ちをかけてくるから。
「……何を笑っているんですか?」
 だからこそ、心配されることがくすぐったくて……嬉しくて、頬が緩む。
「なんでもありませ――なんでも、ないわ」
 たどたどしくも敬語をやめると、みどりは「それでいいんですよ」と視線を逸らす。その耳が少しだけ赤いことに気づいたが、凜花は指摘することなく微笑んだ。

 それから数日間、凜花は一日の大半を与えられた部屋で過ごした。
 よほど体が疲れていたのか、それとも気が緩んだのかはわからない。
 ただ、自分でも驚くほどの倦怠感と眠気に襲われた。
 とにかく一日中体が重たくてたまらないのだ。
 特に酷いのは朝で、実家にいた頃は屋敷の誰よりも早く起きていたのに、みどりに声をかけられるまで自分で起きることすらできない。
 しかし、そんな凜花を時雨もみどりも「怠惰だ」と叱ることはなく、むしろ労ってくれた。 
『とにかく今は自分の体を休めること、体力をつけることを第一に考えなさい』
 時雨のその言葉に従うように、みどりは徹底的に凜花の世話をした。
 着替えはもちろん、髪を梳かしたり、肌を拭いたり……とまるで凜花を本物の貴族令嬢のように扱ったのだ。
 一方で、時雨とはお守りを渡されたのを最後に一度も顔を合わせていない。
 みどり曰く、彼は朝早く出仕して日付が変わってから帰ってくるような生活を何年も送っているらしい。
 世話になっている以上せめて見送りか出迎えだけでもしたいと思ったのか、どうしても睡魔には勝つことができなかった。
 この間、みどりはこの屋敷について簡単な説明をしてくれた。
 今から三十年ほど前。現在の朝葉家当主である時雨の父が、時雨の母のために建てたのがこの瀟洒な洋館だという。
 それを時雨は十八歳の成人を機に父から譲り受け、以降今日まで本邸ではなくこの屋敷で暮らしているのだとか。
 現在、別邸に住んでいるのは時雨とみどりのふたりだけ。
 広い屋敷の手入れをするのに、使用人がみどりひとりでは大変ではないのか。
 凜花のその疑問にみどりは『問題ありません』とあっさり答えた。
『時雨様の指示で、日常的に使う部屋以外は全て閉ざしているので。空気の入れ替えは定期的にしていますし、そもそもこの屋敷にお客様はめったにいらっしゃいませんから』
 続けてみどりは、時雨はこの屋敷に他人を入れるのが嫌いなこと、選定の儀が唯一の例外なのだと話した。
 それなのに、時雨は凜花がここで暮らすことを許してくれた。
 ――凜花が、彼の伴侶だから。
 純血の貴人は血で伴侶を選ぶと時雨は言った。
 しかし、それが自分だということを、頭では理解できても納得するのは難しい。
 たちの悪い冗談だと言われた方がよほどしっくりくる。
 それでも、時雨が凜花を選んだのであれば、間違いはないのだろう。
 しかし、凜花には彼の伴侶として何をすればいいのかがわからない。
 姉との入れ替わりの経験で、貴族令嬢としての振る舞い方はそれなりにわかっている。とはいえそれは付け焼き刃のようなもので、結局のところ凜花はどこまでいっても下女なのだ。
(私が、時雨様の力になれることはあるのかしら……)
 人生で初めて与えられた穏やかな休息の中、凜花は何度も考えたけれど答えは見つからなかった。
 それでも時雨のために何かできればいいのに、と凜花は思った。
『私があなたに求めることはただひとつ。――私のそばにいてほしい』
 彼は、こんな自分を初めて必要としてくれた人なのだから。

 屋敷に来てから七日目の朝。
 目覚めた凜花は、瞼を開けてすぐに体の変化を感じた。
 ここ数日間常にあった怠さが嘘のようになくなっている。
 頭の中の靄が晴れたような爽快感といい、肩の軽さといい、屋敷に来る前とはまるで違う。それは、寝台から立ち上がってからよりいっそう感じた。
 ――体が軽い。
 試しに大きく伸びをしたり、足を上げてみると、初めての軽やかさを感じる。
「不思議……」
 自分であるのは確かなのに、まるで違う自分に生まれ変わったような感覚だ。
(こんなにゆっくり休んだのは初めてだから……?)
 疲れの片鱗もない軽やかな体になんとなくそわそわしながらも、凜花は窓辺に向かい、カーテンを開ける。
 そして、差し込んできた光の眩しさに目を細めた。
 少しして明るさに慣れた目をゆっくりと開けば、瑞々しい木々の葉が風に揺られてゆらゆらとそよいでいるのが見えた。
 その合間から差し込んだ陽の光は、凜花の顔を優しくて照らしてくれる。
「綺麗……」
 自然と感嘆の息が漏れる。
 実家にいた頃、朝は最も気が滅入る時間だった。
 ――また、朝になってしまった。
 どうか何も起こりませんように、お嬢様の癇癪が起きませんように……そう祈りながら疲れ切った体を起こして一日が始まる。
 それが凜花にとっての朝だった。
(でも、今は違う)
 かつてこんなにも朝日の美しさを実感したことがあるだろうか。
 一日の始まりを不安ではなく、安心で迎えられたことがあるだろうか。
 きっと、多くの人にとってはなんてことない朝の風景。
 それが、今の凜花にはたまらなく眩しく感じる。
(みどりが来る前に空気の入れ替えをしておこう)
 凜花は窓の蝶番を外そうと手を伸ばそうとした、そのとき。
「何をしているのですか⁉︎」
 悲鳴混じりの大声が空気を震わせた。凜花が弾かれたように振り返ると、青ざめた顔のみどりが扉の前に立っていた。
「……みどり?」
 視線が重なった瞬間、みどりは凜花の胸に飛び込んでくる。突然の行動に目を見開く凜花の胸ぐらを掴んだみどりは、必死の形相でこちらを睨み上げる。
「何を馬鹿なことを考えているのですか! 身投げをしようなんて……命を無駄にするなんて許しません!」
「えっ……⁉︎」
 命を無駄に? 身投げ?
 凜花は慌てて首に振る。
「ま、待って? 私はただ、窓を開けようかと――」
「……なんですって?」
「その、空気を入れ替えようと思っただけで……」
 驚きながらも伝えると、みどりは潤んだ瞳を大きく見開く。
 数秒後、青ざめていた肌は一気に耳まで赤く染まった。
「まぎらわしいことをしないでくださいっ!」
「ご、ごめんなさい!」
 鼓膜が震えるような声に凜花は慌てて謝罪する。
 これにみどりは赤らむ顔を隠すように顔を背けた。
「……だいたい、なぜもう起きているんですか。私が来るまでのんびりとしていればいいのに」
「目が覚めたから……それに、本当にすっかり体調はよくなったの」
 すると、みどりは弾かれたように振り返る。なぜか驚いている彼女に戸惑いながらも、凜花は正直に自身の身に起きた変化を伝えた。
「昨日まではだるくて仕方なかったけれど、それもなくなって……」
「本当ですか?」
「ええ。まるで体の内側から作り替えられたみたいに、体が軽いの」
 それもこれも十分すぎるほど休ませてくれたおかげだ。
「こんなに熟睡することなんて今までなかったから……本当にありがとう」
 睡眠の力はすごいのだな、と感心する凜花に、みどりはなぜか難しい顔をする。
「……そう、ですか」
 言ったきり、みどりは何かを考え込むように黙り込む。
 それを不思議に思いながらも、凜花は言った。
「だから、もし何か私にもできる仕事があれば教えて欲しいのだけれど……」
 すると、みどりは「またですか?」と顔を顰めた。
「何もする必要はありません、と何度もお伝えしたでしょう」
「でも……」
 みどりは「はぁ」とため息をつく。
 彼女の気持ちはわからなくない。
 実際、凜花は休んでいる間、眠気と戦いながらも何度か同じことを聞いていた。
 いずれのときもみどりは今のように「自由にしていろ」の一点張りだったのだから、みどりも面倒に思うのも当然だ。
 しかし、これまでの凜花に取って生きることと働くことは同義だった。
 これ以上は急速ではなく怠惰に思えてしまう。何よりも気持ちが落ち着かないのだ。
(せめて自分のことは自分でしないと)
 困らせて申し訳ないと思いつつも凜花は食い下がる。
「皿洗いでも、床掃除でもなんでもいいのだけれど……。その、何かをしていないと落ち着かなくて」
 もうひと押しすると、みどりは「仕方ありませんね」と呆れた声で呟いた。
「私には判断できないので、時雨様に聞いてきます」
 時雨の名前に凜花は目を瞬かせる。
「まだいらっしゃるの?」
「今日は午後から出仕なさるそうです。すでに朝食は済まされたので、今は書斎にいらっしゃるかと」
「それなら、私から直接お聞きしてもいい?」
「わかりました。一緒に時雨様のところに行きましょう」
 これ以上は止めることも億劫だと思ったのか、みどりは渋々ながらも頷いた。
 とはいえ、さすがに寝起き姿のまま向かうわけにはいかない。
 凜花は急ぎ着替えようとしたのだが、すぐに難問にぶつかった。
 ――何を着たらよいのかわからないのだ。
 今、凜花が寝泊まりしている洋室には内扉があり、その先は衣装部屋となっている。そこは広さ八畳ほどの洋室で、一目で上等とわかる洋装がところ狭しと並んでいる。部屋の中には桐箪笥もあり、抽斗の中には色鮮やかな着物がたくさん収められていた。
 目覚めた翌日、みどりに案内されたときはあまりの豪華さにめまいがした。
 これが全て自分のために用意されたものかと思うと、喜びよりむしろ畏れ多さを感じてしまったほどである。それは今も同じで、衣装部屋に入るなり途方に暮れていると、見かねたみどりが助け舟を出してくれる。
「とりあえずこれを着たらよいかと」
 彼女がさっと選んだのは、爽やかな若草色のワンピースだった。
「ありがとう」
 すぐに着替えた凜花は、姿見の前で自身の姿を確認して――驚いた。
(これが、私……?)
 血色のよい肌をして、下ろしたてのワンピースを着た姿はまるで別人のようだ。
 特に髪は、以前より艶も張りも格段によくなっている。
「よくお似合いですよ」
「あ、ありがとう……」
 自分に見惚れていたようで恥ずかしくなった凜花は、慌てて視線をみどりに戻す。そして、時雨の書斎へと赴いた。
「失礼いたします」
 みどりの後に続いて部屋の中へと入る。
(わぁ……)
 素敵な部屋、と心の中で感嘆の息をつく。
 大きな張り出し窓や天井から吊るされたシャンデリア、ふかふかの絨毯。たくさんの本が並ぶ本棚。とても雰囲気のいい部屋だが、一箇所だけ違和感を覚える。
(暗幕……?)
 正面向かって左側の壁に何やら大きな幕がかけられている。
 なんだろう、と思っていたそのとき。
「それが気になる?」
 書机で何やら書き物仕事をしていた時雨が顔を上げた。
「あっ……し、失礼しました」
 部屋を見渡したのはほんの数秒だが、じろじろと見すぎたかもしれない。慌てて謝罪すると、時雨は「別に怒っていない」と苦笑する。
「そこには絵が飾ってあるのだが、あまり私の好みではなくてね。外すのも面倒だから、そうして布で隠してあるんだ」
 そう言った彼は、凜花とみどりを見て笑顔を浮かべる。ふっと綻んだ秀麗な顔はやはり、とても美しい。
「おはよう。体の調子はどうだ?」
「おかげさまで、すっかりよくなりました」
「違和感はない?」
「は、はい。その……今までで一番調子がいいです。まるで、自分ではないみたいに」
 みどりのとき同様、凜花が自身の変化を伝えた、そのとき。
(え……?)
 一瞬、時雨の表情が強張ったような気がした。
「確かに、顔色がよくなったな」
 しかしそれは気のせいだったらしい。その証拠に目の前の彼は、柔和に微笑んでいる。
「それに、少しふっくらしたか?」 
「え?」
「顔のあたりとかが、なんとなく」
 ――ふっくら。
 凜花は咄嗟の返事に詰まってしまう。
 過去に「貧相」と嗤われたことは幾度もあれど、その逆は一度もない。
「……時雨様。女性に対して『ふっくら』はいかがなものかと思います」
 驚く凜花の沈黙をどう捉えたのか、不意にみどりが口を挟む。すると、注意された時雨は困ったように苦笑した。
「そうか? 私はいい意味で言ったのだが、気を悪くさせたのなら謝る」
 すまなかった、と謝罪された凜花は慌てて首を横に振る。
「そんな! むしろ、こんなにもゆっくりと休ませていただき本当にありがとうございました」
「どういたしまして。でも、わざわざ礼を言いに来てくれたのか?」
 不思議そうな顔をする時雨に、凜花は緊張しながらも切り出した。
「その……時雨様にお願いがあって参りました」
「お願い?」
「はい。この屋敷で働くお許しをいただきたいのです」
 この申し出に時雨の口元から笑みが消える。
「私は、何もしないでいいと伝えたはずだが……」
 伝わってくる困惑の色に凜花はひゅっと息を呑んだ。反射的に謝罪しかけたとき、ふたりのやりとりを聞いていたみどりが静かに口を開く。
「何かしていないと落ち着かないそうですよ。皿洗いでも床掃除でも、なんでもいいから仕事が欲しいと」
 これに時雨はわずかに眉根を寄せた。
「……さすがにそれは許可できないな」
 時雨はすまなそうな顔をしつつもすえなく却下する。
「そう……ですよね」
 屋敷の主人である時雨にこうもはっきり言われては、おとなしく引き下がる他なかった。
(……余計なことを言ってしまったわ)
 時雨を困らせるつもりはなかった。
 ただ、自分にできることがあればなんでもしようと思っていただけで。しかし、そう考えること自体がおこがましかったのかもしれない。 
「無理を言って申し訳ありません」
 忙しい時雨にこれ以上時間を取らせてはいけない。そう凜花が視線を落としかけたそのとき。
「――そうだ。それならひとつ、私の手伝いを頼まれてくれるかな」
 耳に飛び込んできた言葉に凜花がハッと顔を上げると、時雨は微笑んだ。
「これから市街地に買い物に出かけようと思うのだが、あなたとみどりにも一緒についてきてほしいんだ」
「それなら私はお邪魔でしょう。おふたりだけでどうぞ」
 みどりの申し出に、時雨は「いや」と首を横に振る。
「残念だが私はその後の予定が詰まっているから、あまり長くは一緒にいられないんだ。途中で抜けることになるのに、病み上がりの彼女をひとりにはできない。だから、その後の買い物はふたりに頼みたい」
 時雨の説明にみどりは「……それでしたら」と承知する。
「あなたはどうだ? 手伝ってくれるととても助かるのだが……」
「ぜひご一緒させてくださいませ!」
 時雨に頼み事をされた。
 その喜びから思わず前のめりで承諾した凜花だが、すぐに己の失態を悟る。
 自分以外のふたりが目を丸くしてこちらを見ていたからだ。
「……本当に元気になったようで安心した」
 時雨が苦笑する横では、みどりが「散歩に行く犬みたいですね」と冷静に分析する。そんなふたりを前に凜花の顔はみるみる赤く染まった。
 とてつもなく恥ずかしい。それでも、不思議と心は軽かった。

 その後、凜花は、みどりとともに時雨の自動車に乗り込んだ。
 運転席の時雨の隣に凜花、みどりと並ぶ。
(これが自動車……)
 そういえば、杏花はことあるごとに「自動車が欲しい」と父にねだっていた。
 しかし、いかに娘に甘い父といえど、高級品である自動車はそう簡単に買えるものではなかったらしい。そんな希少な自動車を時雨は自分専用で日常遣いしているというのだから、さすがに朝葉家は格が違う。
 生まれて初めての自動車に緊張していた凜花だが、いざ走り始めると驚きの連続だった。
(すごいわ。馬もいないのに動いてる……!)
 凜花は次々と変わりゆく景色に興奮を隠しきれない。すると、それを横目で見た時雨は、ハンドルを握ったままクスリと笑う。
「自動車に乗るのは初めて?」
「は、はい」
 外出の際には自分の足を使うのあたりまえだった凜花にとっては、まるで夢のような乗り物だ。素直にそう答えると、時雨はクックと笑いを噛み殺す。
「私はもう慣れたからなんとも思わないが、こうも喜んでくれると嬉しいものだな。みどりもそう思わないか?」
 話を振られたみどりはすげなく答える。
「尻尾を振る犬のようだな、とは思います」
 この答えに凜花は途端に恥ずかしくなる。
 言うに事欠いて、また犬とは。
 しかし、まったくもってそのとおりで何も言い返せない。
 すると、それを聞いていた時雨が「こら」と苦笑混じりにみどりをたしなめた。
「そう意地悪を言うものではないよ。おまえも初めて車に乗ったときは彼女と同じ反応をしていただろうに」
 対するみどりはといえば、一瞬ムッとした顔をしながらも、すぐに「はい」と頷く。ふたりのやりとりを聞きながら、凜花は思った。
(仲がいいのね)
 彼らの距離感は、主人と使用人にしては少し近すぎるような気がする。
 かといって男女関係を匂わせるようなものでもない。みどりは時雨を心から慕い、そんな彼女を時雨も信頼しているように見える。
 凜花はちらりと左隣のみどりを見た。
 彼女は今、地味な紺色のワンピースを着てつばの大きな帽子を被っている。
「……何か?」
 じっと見ていたことに気づいたのか、みどりが胡乱げに目を細める。
 凜花は慌てて首を横に降った。
「なんでもないの。ただ、いつもは着物を着ているのに、今日は洋装だから雰囲気が違うなと思って……その、帽子も被っているし」
 凜花の指摘にみどりは面倒そうにため息をつく。
「私の髪は目立つので、外出するときは極力隠すようにしているんです。そうでもしないと見せ物のようにじろじろ見られますから。鬱陶しいのはごめんです」
 これに呼応するように時雨も頷く。
「確かに、私たちのような髪や瞳はこの国では珍しい。注目を浴びるのに慣れているとはいえ、見せ物扱いされて嬉しいわけでもない」
 だから移動する時はもっぱら自動車が多いのだ、と前を見据えたまま時雨は肩をすくめる。しかしその口調からは、微かな苛立ちと憂いが感じられた。
 ――見せ物。
 確かに、黒い髪と瞳の色の人間が大多数が占めるこの国において、時雨やみどりのような容姿はとても目立つ。
 実際に凜花もふたりを初めて見たとき、その髪や瞳の色に釘付けになった。
 でもそれは物珍しさからだけではない。
「……綺麗だから」
「え?」
「時雨様もみどりも、とても美しいから見惚れずにはいられないのではないでしょうか? 私は、そうでした」
 正直に感じた気持ちを唇に乗せる。すると時雨は「ありがとう」と口元を綻ばせ、みどりはぽかんと呆けたように口を開いた。
 しかしそれはほんの一瞬で、すぐにツンと顔をそらされてしまった。
「……時雨様はともかく、私を褒めても何も出ませんよ」
 その頬は薄らと赤い。
 照れを隠しきれていない横顔を微笑ましく見ていた、そのとき。
(あら……?)
 凜花は、ふとある既視感を覚える。
 しかし、その正体に辿り着く前に車は市街地に到着したのだった。

 時雨は、自動車を市街地の中央通りにほど近い敷地に停めた。
 なんでも彼が個人的に所有する土地で、自動車を停めるためだけに購入したのだという。
 それから三人で向かった中央通りは、見たことがないほどの人の数で溢れていた。
「すごい人……」
 人々が歩く中を馬車や自動車が通り抜けたり……と見ているこちらがひやひやするほどの賑わいぶりである。
「今日は平日だからこれでも少ない方だ」
「休日にもなるとすれ違うのもやっとですしね」
 涼しい顔の時雨やみどりとは対照的に、凜花は目の前の光景にただただ圧倒される。長嶺の屋敷と時々訪れる杏花の習い事、女学校。
 そんな狭い世界で生きてきた凜花には、この人の数すらも新鮮に感じたのだ。
(時雨様はいったい何を買うのかしら?)
 彼ほどの人が必要とするものなんて、凜花にはまるで想像もつかない。すると、みどりが不意に口を開いた。
「私は日用品の買い出しをしてきます」
 えっ、と内心声を上げる凜花の前で、時雨は「わかった」と頷いた。
「私と彼女はあの店にいるから、終わったらおまえもおいで」
「承知しました。それでは、失礼いたします」
 背中を向けたみどりは、あっという間に雑踏の中に消えてしまう。その後ろ姿を唖然と見送る凜花に、時雨は言った。
「さあ、私たちも行こうか」
「でも、みどりは……?」
「あの子なりに気を遣ってくれたんだろう」
 気を遣う? 
 驚きでいっぱいの凜花だが、時雨は小さく微笑んだだけだった。
 その後、彼に導かれるまま、凜花は煉瓦造りの三階建ての建物に到着する。
 店の外の陳列窓には、見た目にも可愛らしい食べ物や飲み物の絵が飾られている。まさか、ここは――。
「甘味処……?」
「もしかして、これも初めてか?」
 頷けば、時雨は信じられないとばかりに目を見開いた。次いで彼は何を思ったのか、店の前で棒立ちになる凜花の手に触れる。
「入ろう」
「あの……」
「いいから」
 凜花の手を引いた時雨が入り口のドアを開くと、チリンチリン、と可愛らしい鐘の音がする。
 広い店内には椅子とテーブルがずらりと並んでいて、すでに客で賑わっていた。
 その多くは女性だが、中には男性と女性のふたり組もいる。凜花より少し年上の女性と二十代半ばほどの紳士は見つめ合い手を繋いでいた。
(デート、というものかしら)
 人前であんなふうに触れ合うなんて……。
 頬がぽっと赤くなるのを感じた凜花がつい視線を背けると、愉快そうに唇の端を上げる時雨と目が合った。
 その後、店員に案内されて席に付くなり時雨はくすりと笑う。
「そんなに照れることか?」
「人前で手を繋いでいるから……」
「それを言ったら、先ほど私も君の手に触れてしまったが」
「あれは……別、です」
 凜花に入店を促すために触れただけであって他意はない……はずだ。
 実際、今の凜花と時雨はあのふたり組と同じように向き合って座っているが、手を繋いでなんかいない。
「別、か。いちおう、私はあなたと結婚する予定なのだが」
「けっ……こ……!」
 声を上擦らせると、時雨は「すまない」と楽しげに笑う。
「あなたがあまりに可愛らしい反応をするものだから、つい。心配せずとも決断を急がせたりはしないよ」
 今度こそ凜花は絶句した。
 ――可愛い、なんて。
(そんなこと、あるわけないのに)
 お世辞だとわかっている。それでも、こうもはっきりと言われたら照れずにはいられない。
(……顔が、熱い)
 走ったわけでもないのに頬が火照る。すると、これ以上はさすがに哀れだと思ったのか、時雨はさりげなく話題を変えた。
「さあ、何を頼む?」
 テーブルの上にある御品書を手渡された凜花は、ぎょっとした。
(こんなにするの……?)
 他の客にとっては問題ない金額設定なのだろうが、少なくとも凜花が気軽に頼める値段ではない。
「わ、私は……お水で……」
 答えると、時雨の笑顔が消える。
 しまった。さすがに何も頼まないのは、彼にとっても店にとっても失礼にあたる。
「それでは、いちばん安いものを……」
 申し訳なさといたたまれなさで身を縮こまらせる凜花を前に、時雨は「わかった」と頷き、店員を呼んで栗ぜんざいをふたつ注文する。
「えっ……!」
 驚く凜花が何か言うより早く時雨が口を開く。
「栗ぜんざいは嫌い?」
「食べたことがないので……でも、栗と餡子は大好きです。どちらも数えるほどしか食べたことはありませんが……」
 実家にいた頃、甘いものは嗜好品だった。もちろん、凜花が簡単に食べられるはずもなかった。
「それならきっと気にいると思う。私は甘いものがあまり得意ではないが、ここの甘味なら食べられるんだ」
「……本当によろしいのですか?」
「もちろん」
 それから注文の品が届くのを待つ間、ふたりは向かい合って雑談をする。
(こんなふうに時雨様と外で話す日が来るなんて……)
 選定の儀で初めて会ったときにはとても想像できなかった。それでもせっかくの機会を無駄にしたくはなくて、凜花は気になっていた問いを口にする。
「時雨様は、軍でどんなお仕事をされているのですか?」
 これに時雨は「なんと言えばいいかな」と考え込むそぶりを見せ、そして言った。
「『軍の何でも屋』」
「……え?」
「私が所属している隊の異名だ。主な仕事は大規模な救助活動や災害対策で、貴力を使わないと解決できないようなことに対処している。『東倭国陸軍貴力精鋭部隊』なんて大層な名前を賜っているが、ようはていのいい雑用係だ。私は、その隊長をしている」
 あっけらかんと答えた時雨とは対照的に、凜花は驚きを隠せなかった。
「時雨様が雑用係、ですか?」
「おかしいか?」
「そうは言いませんが……次期公爵様の時雨様が、とは思いました」
 正直だな、と時雨は楽しそうに笑う。
「そういう声があるのは確かだ。実際、私の父もいい顔はしていない。それでも私は自ら望んで軍人になり、今の隊に所属している」
「なぜ、ですか?」
「私には力があるから」
「力……」
 反芻すると、時雨は「ああ」と頷く。
「私は治癒の他に、火や水、風や土などの自然の力を操ることができる。これらは災害対策や救助活動にとても役立つんだ。だから貴力精鋭部隊を選んだ。それだけだ」
 特に深い理由はない、と時雨は肩をすくめる。しかし凜花はとてもそうは思えなかった。
 本来、時雨の立場であれば仕官自体する必要はないはず。それなのに、彼は自らの意思で軍人となることを選び、貴力を他者のために使用している。
(……立派な方なのね)
 そんな彼が凜花にはとても――本当に、眩しく見えた。
 それからすぐに栗ぜんざいが運ばれてくる。
(わぁ……!)
 見た目にも美味しそうなそれに自然と顔が綻ぶ。すると、それを見ていた時雨がクスッと笑う。
「その顔が見たかったんだ」
「え……」
「一つ、今日の目的が果たせたな」
 目を瞬かせる凜花に、彼は種明かしをする。
「私は、今日一日あなたのことを徹底的に甘やかすつもりだ」
「甘やかす……? でも、今日は時雨様のご用事だと」
「あなたが、あなた自身を甘やかすこと。それが私の用事だよ」
 ――声が、出なかった。
 驚きで言葉を発することも難しい凜花に、時雨は言った。
「凜花。成人おめでとう。ささやかだけれど、私からもお祝いさせて欲しい」
「っ……!」
 一瞬にして頭を駆け巡ったのは、何気なく交わした数日前のやりとり。
 お守りをくれた時雨に、凜花は贈り物をもらったのは初めてであること、成人祝いがなかったことを話した。でもそれは、凜花にとっては当然のことだった。
 それなのに、まさかこんな形で祝われるなんて――。
「私が付き合えるのは残念ながらここだけだが、この後もみどりと一緒に買い物を楽しむといい。金のことは何も気にしなくていい。今日は、何もかも忘れてあなたも自分を大切にしてあげなさい」
 感激のあまり胸が詰まって、うまく声が出ない。
「ありがとう、ございます……」
 今にも泣きそうな声で礼を言うと、時雨は「まだ食べてもいないのに」と苦笑する。しかしその顔はとても穏やかだった。
 そうして食べた栗ぜんざいは、間違いなく十八年間の人生で最も美味しいものとなったのだった。

 その後、店の前でみどりと合流したところで、時雨とは別れた。
 これから用事があるという彼を見送ると、「さて」とみどりは切り出した。
「次はどうしますか? 反物屋で着物を新しく仕立ててもいいですし、宝飾品が欲しいのであればそちらに向かってもいいかと」
 これに凜花は静かに首を横に振る。
「帰りましょう。もう十分すぎるほど甘やかせてもらったわ」
「……まだ、甘味処だけですよ?」
「ええ」
 姉の下僕だった自分が、あんなにも素敵な空間で栗ぜんざいを食べられた。
 甘いものなんて余程のことがないと口にはできないのが普通だった凜花にとっては、それだけでとてつもなく贅沢なことだ。それに、何よりも。
「時雨様が、おめでとうと言ってくださっただけで、十分すぎるくらい嬉しいの」
 そう素直に伝えると、なぜかみどりは顔を顰めた。
 怒っているのではない、まるで何かを堪えているようなその表情。
「……本当にそんなふうに考える必要はないんですよ。言ったでしょう。お世辞でもなんでもなく、あなたがそばにいるだけで時雨様のお役に立っているんです」
 それはどういう意味か、と問おうとしたそのとき。
「――様っ!」
 どこからか聞き覚えのある声が聞こえた。
 弾かれたようにその方角を見た凜花に、みどりが「どうしました?」と声をかける。しかし、凜花は反応できなかった。
「どこにいらっしゃるのですか、時雨様!」
 人混みの奥から人目も憚らず叫ぶ声が聞こえた途端、凜花の頭の中は真っ白になった。高揚していた気分は波が引くようにさあっ……と消える。
 背筋が凍り、体が震え始める。この声を凜花が忘れることは決してない。
「……なんです、あれは」
 みどりは不愉快そうに顔を顰める。
 行き交う人があまりに多くて杏花の姿はまだ見えないから、彼女にはわからないのだ。しかし、凜花が姉の声を聞き間違えるはずがなかった。
「杏花……」 
 ――なぜ、どうして、杏花がここにいる。
 今の時間帯は女学校に行っているはずなのに。
「それじゃあ、この声は――」
 目を見開くみどりに凜花が答えるより早く、声が雑踏に響いた。
「私です! あなたの伴侶の杏花です!」
 杏花は、まるでここに時雨がいると確信しているように叫んでいる。しかし今、ここに彼はいない。
「……おそらく、私かあなたから時雨様の光気を感じ取ったのでしょう」 
「そんなことが……」
「貴人の場合、ごく稀にありえるそうです。以前、時雨様が話していたことがあります」
『光気には香りに似ているところがある。みどりからは、ときどき私の光気がかすかに感じられることがあるのは多分、一緒にいる時間が多いからだろう。とはいえ本当に少しだから、よほど感のいい貴人でなければまず気づかないだろうけど』
 ならば、杏花は数少ない「感のいい貴人」だったということになる。
 ――今すぐ逃げないと。
 そう思うのに、「だめよ」ともうひとりの自分がそれを拒絶する。
 逃げたりしたら、そのあとどんな酷い仕打ちが待っているかわからない。
 骨の髄まで植え付けられた姉への恐怖心。
 それは、凜花から正常な思考をいともたやすく奪い取る。
「こちらへ」
 目の前が真っ暗になりかけたとき、不意にみどりが凜花の手を取った。
 大通りから建物と建物の間の裏道に滑り込んだ彼女は、勝手知ったる道とばかりに走り出す。しかし、その間も後ろからは杏花の時雨の名を呼ぶ声がした。
「……しつこいですね」
 このままでは埒があかないと思ったのか、みどりはため息と共に足を止める。そして、建物の影に凜花の体を押し込めた。
「絶対にここから動かないでください」
「みどり?」
「声を出すのもいけません。もちろん、水晶を出すことも。わかりましたね」
 言うなり、みどりは凜花に背中を向けた。
 そして彼女が向かったのは――杏花のもとだった。
(何をするつもりなの……?)
 恐怖と動揺で混乱する凜花は気づかなかったが、いつの間にか彼女はふたりのすぐそばまで来ていた。凜花の隠れた場所からも姉の姿ははっきりと見える。
 必死の形相の姉の視線は今、凜花との間に立つみどりに注がれていた。
「……誰? 私に何か用かしら?」
 凜花ならそれだけで身がすくむほどの眼力。しかし、みどりは違った。
「長嶺杏花様でいらっしゃいますね。私は時雨様にお仕えしている者です」
 選定の儀の時のような抑揚のない声でみどりは言った。
「時雨様はこちらにはいらっしゃいません」
「……そんなはずないわ。だって、はっきりと時雨様の光気を感じたもの」
「では、行き違いになったのでしょう」
 きっぱりと告げるみどりに、凜花は不愉快そうに顔を顰めた。
「使用人が、時雨様について随分と知った口を聞くのね。私は時雨様の伴侶よ。敬意を払いなさい」
「選ばれたのはあなたではありません。あなたの妹の凜花様です」
「なっ……違うわ! あんな出来損ないが選ばれるはずがない、何かの間違いよ! だいたい、凜花はどこにいるの? どうせ、すぐに捨てられたのでしょう」
「ご安心を。屋敷でお健やかに過ごされております」
「なんですって……?」
「とにかく、ここに時雨様はいらっしゃいません。それがご理解できたのなら、大声で時雨様のお名前を呼ぶのも、伴侶などと詐称するのもおやめください。時雨様の名誉に関わります」
 はっきりと強い口調でみどりは告げる。対する杏花は怒りをあらわに表情を歪めた。
「只人風情が誰に向かって口を聞いているの?」
「ただ、事実のみをお伝えしています」
「……そう」
 一歩も引かないみどりを前に、凜花はにいっと唇の端を上げる。
「よおくわかったわ。おまえは特に頭の悪い只人のようね。凜花と同じだわ」
 ひゅっと喉の奥が鳴る。
 ――凜花、と。
 歌うような声で名前を呼ばれただけで、体が芯から凍えるような感覚がした。
 歯がカチカチとなりそうになるのを必死に堪える。そうしたが最後、ここに凜花がいることがばれてしまう。
「みどりとか言ったわね。――頭の悪い只人には、躾が必要ね」
 そう告げる声も、顔も、可憐な令嬢そのもの。
 しかし、次に杏花が取った行動は野蛮以外の何物でもなかった。
 すうっと目を細めた杏花は不意に両手を掲げる。直後、道の端に生えていた雑草が突如として急激に成長し始めた。それはあっという間にみどりの足を絡め取る。
 ――植物を自由自在に操る力。
 それこそが、杏花の貴力である。
(助けないと……!)
 今すぐここから飛び出してみどりを救わないと。仕置きをするならば彼女にではなく自分にしてくださいと、平伏して許しを請うのだ。
 みどりは、身を挺してこんな自分を庇ってくれているのだから。
 ――そう、頭ではわかっているのに。
(どうして……!)
 手が、足が、動かない。
 自分だけが極寒の地にいるように全身が震えて、言うことを聞かないのだ。
 そうする間にもパチン! という鈍い音が凜花の耳に飛び込んでくる。
 身動きの取れないみどりの頬を杏花が平手打ちしたのだ。
 その衝撃で彼女がかぶっていた帽子が地面に落ち、輝くような金色の髪があらわになる。それを見た杏花は桜色の唇の端を上げる。
「瞳の色を見てそうだとは思ったけれど……おまえ、異国の血を引いているのね。金の髪に緑の瞳なんて、とても派手な色をしているじゃない」
 うっとりとしたような声色だが、続く声は違った。
「只人のくせに、生意気よ」
 杏花は再び手を振り下ろした。それも、一度や二度ではない。何度も、何度も、何度も……。しかし、みどりは呻き声ひとつあげなかった。それがいっそう杏花の神経を逆撫でしたのか、音はますます大きくなっていく。
(もう、やめてっ……!)
 そう叫びたいのに、声が出ない。
「このっ……なんてやつなの⁉︎」
 どれほど続いたのか。
 はあはあと息を乱した杏花が手をだらりと下ろすと、みどりを拘束していた植物がするするともとの大きさに戻っていく。
「もういいわ! 私の手の方がダメになるじゃない!」
 地獄のような時間だった。しかし、みどりがその場に膝をつくことはついぞなかった。
「気はすみましたか?」
「くっ……帰ったら凜花に伝えなさい! おまえは私の下僕だと言うことを忘れるな、とね!」
 そして、杏花は来た道を憤然と戻っていった。その後ろ姿が見えなくなると、みどりは落ちていた帽子を再び被りくるりと後ろを振り向く。
 そして、凜花を見て息をついた。
「……なんて顔をしているんですか。せっかく元気になったのに、酷い顔色です」
 どうして。なぜ。
「さあ、帰りますよ」
 何もなかったような顔をしているの。
 白磁の肌が腫れ上がるほど叩かれたのに。
 陶器のように滑らかな肌が、血で滲んでいるのに。
「ごめんなさい……」
「あなたが謝るようなことは、何も」
「本当に、ごめんなさい……!」
 自分だけが安全な場所にいて、代わりにみどりが暴行を受けてしまった。
 凜花は何もしなかった――できなかった。
 そんな凜花をみどりは、ただの一言も責めることはなかった。
  
 東倭国にたった三家のみ存在する公爵家。
 そのうちの一つ、朝葉公爵邸の当主の私室にてふたりの男が睨み合っている。大きな硝子窓を背景に椅子に座り机の上で手を組むのは、朝葉道景(みちかげ)
 今の朝葉家の当主である。その正面には、凛と背筋を伸ばして佇む時雨がいた。
「――どういうつもりだ、時雨」
 道景の眉間に深い皺が何本も浮かぶ。昼間から酔っているのか、離れていても酒の匂いが鼻につく。赤らんだ顔はまるで茹で蛸のようだ。
(もっとも、これがそうなら不味くて食べられたものではないだろうが)
 頭の片隅で道景と蛸を並べて思い浮かべていると、再び「時雨!」と激しい声が届く。空気が震えるほどの声量に、時雨は面倒なのを隠すことなくため息をついた。
「そのように大声を出さずとも聞こえています。……父上」
 最後の呼びかけにわずかな間が生じたのは、本心では父などと呼びたくないからだ。
 しかし、こればかりは仕方ない。
 どれほど否定したくとも、血縁上の父親はまぎれもなくこの男なのだから。
「聞こえているのなら私にも理解できるように説明しろ。なぜ、只人の娘などを伴侶に選んだ。純血の貴人たるおまえが、どうしてっ……!」
 道景はだんっ! と机を叩いて立ち上がる。椅子が大きな音を立てて倒れるけれど、時雨は眉ひとつ動かさない。
「なぜ、と言われましても。本能で、としか申し上げられません」
「本能だと? 私を馬鹿にしているのか⁉︎」
 ああ、しているさ。
(そう言えたら、すっきりするんだろうな)
 心の中では吐き捨てた時雨は「いいえ」と抑揚もなく否定する。
「事実のみを答えています。父上のお言葉を借りるのであれば、『純血の貴人である私が選んだ』、それ以外の答えはありません。ご説明しようにも理解できるとは思わない。なぜならあなたは、純血ではないのだから」
「っ……この、親不孝者が!」
 道景は机の上にあった万年筆を時雨に投げつける。しかしそれは時雨に触れることなく目の前で落下した。空気の壁を目の前に作り出したのだ。
「私が風を操れることをお忘れですか?」
「くっ……!」
「落ち着いてください。そうでなければまともに話もできない。私はそれでもかまわないが、呼び出したのは父上、あなたです」
「ならば言ってやる。今はまだ知られていなくとも、いずれおまえの選んだ娘が只人であることは明らかになる。人の口に戸は立てられん。噂とはそういうものだ」
「それが何か?」
「『何か』ではないわ、大馬鹿者! 純血のおまえは貴人の伴侶を迎えると誰もが思っている中、只人の娘を選んだと知られたら、朝葉の名に傷がつくこともわからないのか!」
「『純血の貴人の伴侶は、同じく貴人である』。以前までの私同様、貴人ならば皆そう考えることは承知しています。ですが実際はそうではなかった、ただそれだけの話です。周りにどう思われようと私はなんとも思いません」
 自分の考えを述べる時雨に道景はいっそう声を荒らげる。
「おまえがそうでも、周囲は違う!」
「ですから、そんなことは私には関係ないと申し上げています」
 動物を相手にしているようだ。何を言ってもまるで通じない。
「だいたい、父上が常識を語るのはおかしなことだと思いませんか」
「……なんだと」
「『貴人同士の間に子は生まれない』。その定説を覆し、母上との間に私を作ったのは他ならない、父上ではないですか」
 その直後。
「っ……おまえが小夜(さよ)を語るのはやめろ! 小夜を殺した、おまえが!」
 今にも血管が切れそうな怒りように、時雨は億劫なのを隠さず今一度深くため息をついた。
「これまでに何度も申し上げたが、母上が亡くなったのは病です。言いがかりはやめていただきたい」
「ふざけるな! おまえの存在が小夜を追い詰めたのだから、おまえが殺したも同然だろう! 人間の皮を被った化け物が……! おまえがいなければ……おまえさえ生まれてこなければ!」
「それこそ私に言われてもどうしようもない話です。親が子を選べない以上、その逆もまた然りなのですから」
「黙れ」
「いいえ、黙りません。先ほど父上は『なぜ、只人の娘などを伴侶に選んだ』と言いましたが、お忘れか? あなたが母上の次に伴侶に迎えたのも、貴力を持たない女性だ」
「黙れと言っているのがわからんのか! あれは、おまえ以外の子を……和泉を作るために形式上迎えただけの女だ! 私が妻と呼ぶのは、今も昔も小夜だけだ!」
 最低だな、と思えど言葉にはしない。この男にはその価値すらない。
 ――小夜。
 父が呼ぶ血縁上の実母について、時雨はほとんど覚えていない。
『化け物』
『おまえなんて……産むんじゃなかった』
 覚えているのは、呪詛のように吐き出された言葉だけだ。
「……出ていけ」
「言われずとも」
 命じられるがまま出て行きかけた時雨だが、「ああ、そうだ」と扉の前でふと足を止める。
「心配なさらずとも、外では引き続き従順な息子のふりをします。ですから父上も、間違っても人前で私のことを『化け物』などと呼ばない方がいい。そんなことをしたらそれこそ朝葉の名前に傷がつく」
「っ……うるさい、さっさと出ていけ!」
「それでは、失礼します」
 扉を閉めた直後、何かが床に落ちて壊れる音がした。

 道景の私室を後にした時雨はすぐさま来た道を戻る。
 中央でも屈指の豪邸として知られる朝葉家本邸は、三階建ての洋館でとにかく大きい。おかげでエントランスホールに向かうだけでも無駄に時間がかかる。
 一刻でも外に出たい時雨だが、しかし、それを阻む人がいた。
「兄上」
 今まさに玄関から外に出ようとしたとき、背後から声をかけられる。
 振り返ると、階段の手すりに背中を預けた黒髪の青年が腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「……和泉」
 名を呼べば、青年は茶色の瞳をすうっと細める。
 朝葉和泉。四歳年下の腹違いの弟である。
「もう帰るのですか?」
「用は済んだからな。それより、大学はどうした?」
「今日は休みました。久しぶりに兄上に会えるというのに、学校になど行っていられません。それなのに兄上ときたら私に声もかけないなんて、酷いではありませんか」
 和泉は流れるように言葉を紡ぐ。柔和な笑みや穏やかな物言いは、兄を慕う弟そのものだ。しかし、時雨は知っている。
(あいかわらず、腹の底が見えない男だ)
 和泉は時雨を慕ってなどいない。目はときに言葉以上に感情を物語る。その証拠に、こちらを見下ろす茶色の瞳からは親しみのかけらすらも感じ取れない。
 一方で、彼は兄に対する負の感情を言葉にしたことは、ただの一度もなかった。
 だからこそ厄介だと思う。
 感情的ですぐに手が出る父よりも、よほど抜け目のない男だ。とはいえ、表向きは有効な態度を示している以上、時雨もそれに合わせるしかない。
「……すまないな。てっきりおまえは学校に行っているものだと思っていたんだ。知っていたら声くらいかけたさ」
「それならいいのですが。せっかくですし、一緒にお茶でもどうですか?」
「いや。悪いがこれから軍に向かわねばならない」
「それは残念」
 用意していたような台詞を口にした和泉は、「父さんに聞きましたよ」と続ける。
「伴侶を見つけられたそうですね。それも、只人だとか」
「それがどうした?」
 自然と声が一段、低くなる。するとすぐさま和泉はパッと両手を上げた。
「別に聞いただけです。そう怒らないでください。十八のときから探し求めていた伴侶が見つかってよかったですね。弟としてお祝い申し上げます。私もぜひお会いしたいものですね」
「……機会があればな」 
「楽しみにしています。そういえば、あれは元気にしていますか?」
「『あれ』、とは?」
「わかっているくせに。みどりですよ」
 大袈裟に肩をすくめて和泉は笑う。
「あの役立たず、うちに居場所がないからといって兄上に寄生するなんて。まったく、生まれの卑しいものは性根まで卑し――」
「黙れ」
 時雨はピシャリと言い放つ。
 脅しの意味も込めて右手を掲げる素振りを見せた途端、軽薄な笑みが消える。
 和泉は階段を一段後ずさり、頬を引くつかせる。
「……冗談ですよ」
「そうか。だが私はあまり冗談が好きではない」
 青ざめた顔の和泉を一瞥し、時雨は背を向ける。
 今度は、呼び止められることはなかった。

 その後、自ら運転する車で軍本部に向かった時雨は、自身が束ねる部隊の隊長室に入る。軍服の上着を壁にかけて、そのまま執務椅子に深くもたれかかった。
「――クソが」
 片手で瞼を覆う。天井を仰ぐ時雨の口から漏れたのは、とても凜花には聞かせられないような悪態だった。だがそうしたところで咎める者は誰もいない。
 東倭国陸軍貴力精鋭部隊。
 その名のとおり、貴力を有する貴人によって構成される部隊である。
 主に、貴力でないと解決できないような特殊な事件を取り扱っており、それを率いるのが時雨だ。
 とはいえ、「精鋭部隊」と言えば聞こえこそいいものの、任務の大半は大規模な事故や災害現場における復旧作業や人命救助。
 要は、貴力を用いた力仕事が主である。任務の内容もそのときどきで異なることから、密かに「軍の何でも屋」の異名を取っている。
 そもそもの大前提として、貴人は身分の高い貴族の子息だけ。すなわち気位の高い者がほとんどだ。
 そんな彼らが好んで力仕事をするはずもなく、この部隊はいつだって人手不足だ。その分、現在所属している隊員はいずれも部隊の名に相応しい精鋭ばかりで、貴力も折り紙付きなのだけれど。
 ともあれ、本来であれば時雨のような立場の人間が所属する場所ではない。
 昼間、凜花にも話したが、時雨がここにいるのはひとえに自ら志願したことだ。
(力ある者が、それを必要とされる場所で使わないでどうする)
 崇高な思考や目的があるわけではない。
 できるからする、ただそれだけのことが父には到底理解できないようだが、そんなのは時雨の知ったことではない。
 血の繋がった息子を化け物と呼ぶ父と、本当は好きでもないくせに上っ面だけの好意を伝えてくる腹違いの弟。
(……どいつも貴人だなんだと、鬱陶しい)
 彼らのことを思い出すだけで心の底から気分が悪くなる。和泉はいずれ凜花を連れてこいと言っていたが、そんなつもりは毛頭ない。
 凜花は、あのふたりとは正反対の人間だ。
 そんな彼女を毒蛇の沼に放り込むような真似をするものか。
「――隊長。少しよろしいでしょうか」
 物思いに耽っていた時雨は、すぐさま姿勢を正して「入れ」と命じる。
「失礼いたします」
 手本のような敬礼をしたのは、時雨の副官を務める宮田佐助。伯爵家の次男である彼は時雨と同い年で、士官学校時代の同期でもある。
「どうかしたのか?」
「内密にお話ししたいことがございます」
「話せ」
 発言を許可すると、宮田は扉を閉める。そして、ふっと肩の力を抜いた。
「長嶺杏花の件、あらかた調べ終わったぞ」
 先ほどまでのお堅い雰囲気とは打って変わって気安い態度は、ふたりきりのときのみ見られるものである。時雨を呼び捨てにする数少ない彼は、両肩をすくめてうんざりとした様子で続けた。
「この女、可愛いのは見た目だけでその中身はとんでもない悪女だな。色々と伝手を使って、主に長嶺家を解雇された使用人から話を聞いたが、悪い話が次から次へと出てきた」
 聞いているだけで女嫌いになりそうだった、と宮田は顔を顰める。
「長嶺杏花はとにかくわがままで酷い癇癪持ちらしい。一度怒らせたら誰にも手がつけられないほどだったみたいだ。特に、ひとりの下女に対してのあたりが強くて、その子は日常的に折檻を受けていた、と皆が口を揃えて言っていた。しかもその内容が本当に酷いものばかりだ」
 無意識に机の下で握る手に力が込もる。
「……続けろ」
 宮田は小さく頷く。
「朝夕、時間をかまわず呼び出されるのは当たり前。髪を梳くのが下手だという理由で納屋に閉じ込めたり、出されたお茶が温かったからと、真冬にも関わらず裸足で外に放り出されることもあったらしい。他にも細かいことをあげ始めたらきりがない。そんな中でも不思議なのは、誰ひとりとしてその子の名前や外見の特徴を挙げなかったことだ。皆、『それだけは言えない』と声を震わせていた。多分、長嶺杏花に脅されたんだろうな」
 宮田の報告を聞きながら、時雨の頭をよぎったのは祝言の日のこと。
 雷雨の中、瑣末なお仕着せ姿で納屋に閉じ込められていた凜花の青ざめた顔と、折れそうなほど細い体だった。
 今、報告を受けて改めて思う。
(……私に何も言わないはずだ)
 日常的にそのような恐ろしい目に遭っていた彼女が、場所を朝葉の別邸に移しただけで安心できるはずもない。きっと思い出すだけで身が竦む思いがするはずだ。
「朝葉? どうした、顔が怖いぞ」
「……いや、なんでもない。報告は以上か」
「ああ」
「ありがとう、助かった」
 宮田は考えもしないだろう。
 目の前の男の伴侶こそが、その哀れな被害者だなんて。
「そうだ、実は俺からも大切な話があるんだ」
「なんだ?」
 宮田は真面目な顔で時雨の方をじっと見る。そして――。
「頼む、朝葉! 少しでいいから金を貸してくれ!」
 顔の前で両手をぱんっ! と合わせて大きく頭を下げた。
 今の今まで室内を取り巻いていた緊迫した雰囲気を一瞬に打ち消すような発言に、時雨は眉間に皺を寄せる。
「……何を言ってるんだ、おまえは」
「どーしても落としたい子がいるんだ! そのために色々と贈り物をしたいんだけど、今手持ちがなくてさ」
「給与はどうした」
「そんなもん、全部酒と遊びに使っちまったさ」
 あっけらかんと言い放つ同期に時雨は能面のような顔になる。
「そうか、残念だったな。あいにく私も手持ちはないから、他をあたれ」
「公爵家の坊ちゃんで隊長のおまえに金がないわけないだろ⁉︎」
「『お前に渡す手持ち金はない』と言ったんだ。ほら、用が済んだなら持ち場に戻れ」
 さっさと出て行けとひらひらと手を振ると、宮田は「そんなぁ」とがっくりと肩を落としてのろのろと隊長室を出ていく。
 その後ろ姿が見えなくなると、時雨は堪えきれずに小さく噴き出した。
 同期とはいえ仮にも上司に「金を貸せ」なんてとんでもないことを言う男だが、喜怒哀楽がはっきりしているところは悪くない。おかげで陰鬱としていた思考が少しだけ晴れたような気がする。
 金の貸し借りをするつもりはないが、機会があれば飲み代くらいは出してやろう。そう思いながら残りの事務仕事を片付けて、いつもより少し早めに帰路に着く。
(日付が変わる前に帰るのは久しぶりだな)
 凜花は今日一日自分を甘やかせただろうか――そんなことを思いながら正面玄関の扉を開けた、そのとき。
「時雨様!」
 今まさに頭に描いていた凜花が、顔面を蒼白にして階段を降りてきた。

 時雨の帰宅より遡ること数刻。
 杏花との遭遇の後すぐに屋敷に戻ったふたりだが、玄関の扉を開けた直後、異変が訪れた。凜花の前で突然みどりが倒れたのだ。
 慌ててその場に膝をつけば、みどりが息を乱していた。額に触れると明らかに熱い。
 発熱している。
 しかし、帰路の間、みどりは「少し冷やせば治ります」と平然とした顔をしていた。むしろ「ごめんなさい」と何度も同じ言葉を繰り返す凜花に「もう聞き飽きました」と苦笑していたほどなのに。
 ――とにもかくにも手当てと看病が必要だ。
 しかし、それから額や腫れた頬を冷やしても、薬を飲ませても、症状はよくなるどころか悪くなっていく一方で、日が暮れる頃にはますます熱が上がっていった。
 その間、凜花ができたのは、彼女の汗を拭い、手を握ってやることだけだった。
(私のせいだわ)
 あのとき凜花が杏花の前に姿を表していれば、みどりが傷つくことはなかったのに――。
(……どうして私はこうなの)
 全て杏花の言うとおり。
 愚図でのろまなで、出来損ないの自分が心の底から嫌になる。
「私に時雨様のような力があれば、今すぐあなたを癒せたのに……」
 思わず呟くと、熱にうなされながらもみどりは笑う。
「なにを、ばかなことを……時雨様は、特別です。比べるのが、おかしいんです」
「……そうね。本当に、そのとおりね」
 かえって慰められているような気がして、凜花は無理やり口元に笑みを浮かべ、華奢な彼女の両手を握る。そうすることで少し安心したのか、みどりの表情がふっと緩んだ。いつもよりも幼なげなその顔に、ふと昼間と同じ既視感を覚える。
(もしかして、みどりは――)
 頭の中にある考えが浮かんだとき、窓の外からエンジン音が聞こえてくる。
 ――時雨が帰ってきたのだ。
 凜花は、すぐさま部屋を飛び出し階段を駆け降りた。そして、玄関の扉が開くと同時に懇願した。
「時雨様!」
 出迎えの挨拶もせずに無作法なのは承知しているけれど、今はみどりのことしか考えられなかった。
「お叱りは後でいくらでも受けます。どのような罰を与えてくださってもかまいません。ですからどうか……どうか、みどりをお助けください!」
 時雨が驚きに目を見開いたのは一瞬だった。
「何があった?」
 すぐに険しい顔つきになった彼の問いに、凜花は早口で答える。
「昼間、買い物に行った際にお嬢さ――姉の杏花が時雨様を探しているところに遭遇しました」
「私を探していた?」
「はい。時雨様の光気を感じ取ったのだろう、とみどりは話していました」
 凜花は拳をグッと握り、正直に告白した。
「……みどりは、身動きが取れなくなった私に隠れているように言いました。そして、私の代わりに姉の暴行を受けました」
 直後、ぞわりと肌が粟立つのを感じる。
 目には見えない何かがこの空間を渦巻いている。見ると、金色の瞳が爛々と輝いていた。祝言の日と同じ。抑えきれない怒りを宿した貴人の瞳だ。
「あの子は、今?」
「へ、部屋で眠っています」
「わかった」
 言うなり時雨はみどりの部屋へと直行する。凜花は慌ててその後に続いた。そうして部屋の中へと入った時雨は、一直線にみどりのもとへ向かい、寝台の前に跪く。
「みどり」
 呼びかける声は、底抜けに優しい。
「時雨、様……?」
「よく頑張って耐えたな。もう、大丈夫だ」
 声だけではない。みどりの両頬にそっと触れる手つき、熱に喘ぐ彼女を見つめる眼差し、その全てに心からの愛情が込められている。
 心からみどりを心配しているのが痛いほど伝わってくる様子に、凜花は思った。
 ――違う。
 同じように助けられたからこそ、凜花にはわかる。
 ――これは、本物だ。
 時雨の凜花に対する優しさが偽物だったとは思わない。それでも自分のときとは明らかに何かが違うと、そう直感した。
「痛みはじきになくなる。明日には熱も下がっているはずだ。もう大丈夫だから、ゆっくりおやすみ」
 時雨が手のひらをかざすと、腫れた傷が引いていく。次第にみどりの呼吸は落ち着いていき、やがて静かな寝息が聞こえてきた。
 数分にも満たないわずかなその時間、凜花は身動きひとつ取れなかった。
 金髪に緑の瞳のみどりと白髪に金の瞳の時雨。
 横たわる少女と跪く青年。
 ――なんて綺麗なふたりだろう。
 絵のように美しいふたりを前にした凜花は、自分という存在がこの場においての異物であるとはっきりと感じたのだった。

「……眠ったようだ。明日までは起きることはないだろう」
 それから程なくして時雨は立ちあがろうとする。だが次の瞬間、彼の体が大きくぐらりと傾いた。
「時雨様⁉︎」
 前向きに倒れ込む体を凜花は支えようとする。しかし、すんでのところで足を踏みとどめた時雨は「大丈夫だ」と片手でそれを制した。
「なんでもない」
 膝をつくことなくしっかりと己の足で立ち、時雨は言った。
 その顔はひどく青ざめている。もとが白磁の肌をしているだけにいっそう青みが目立って、とても大丈夫なようには見えなかった。
 そんな凜花の心配が伝わったのだろうか。
 彼は「本当に大丈夫だから」と静かに首を横に振る。
「……少し、疲れただけだ。貴力の中でも治癒は特に力を使うから」
 それよりも、と時雨は薄く笑う。
「あなたの方こそ大丈夫か?」
 ――話をそらされた。
 なぜかそう感じた。
 何よりも、その笑顔はとても自然なのに、先ほどみどりに向けたものを見た今では、作りもののように見えてしまう。だがそれを指摘できるはずもなく、凜花は「いいえ」と小さな声で答えた。
「みどりが守ってくれましたから。私は……彼女を盾にして、何もできずに震えていただけです。本当に……申し訳ありませんでした」
「なぜ私に謝る?」
 不思議がる時雨を前に一瞬、答えることを躊躇う。しかし、どう考えてもごまかすことはできそうになくて、凜花は正直に理由を告げた。
「……時雨様の、妹さんを傷つけてしまったからです」
 妹。
 そう発した直後、時雨は笑みを消した。
 一切の表情を消した彼はやはり奇跡のように美しい。
 同時に凜花はこうも思った。
 ――これが、本物の朝葉時雨という人なのだ、と。
 わずかな沈黙の後、時雨はゆっくりと、そして探るように口を開く。
「みどりがそう話したのか?」
「いいえ」
 凜花は首を横に振り、そう思うにいたった経緯を伝える。
「おふたりの横顔が似ているな、と。そう感じただけです」
 この答えに観念したように時雨は頷いた。
「あなたの言うとおり、私とこの子はまぎれもない兄妹だ」
 やはり、と凜花は目を見張る。
「私にはみどりの他にもうひとり、和泉という弟もいるが、私たち兄弟は三人とも母親が違う。私の母は貴人で、弟の和泉とみどりの母はどちらも貴力を持たない女性だった。ただし、みどりの母は異人で、父の愛人だった」
「だった、ということは……」
「すでに亡くなっている。身内の恥を晒すようだが、私の父は異性関係が少々派手でね。私の母が亡くなった後は複数の女性と同時に関係を持っていた。そのうち、和泉を産んだ女性は公爵夫人となった」
 現在の公爵夫人は、夫が自分を貴人の子を産む道具として見ていないことを嘆き、息子を産んですぐに実家に戻った。
 以降二十年、一度も朝葉の屋敷には姿を現していない。
「一方、みどりを産んだ女性は使用人として扱われ……その境遇に耐えかねて、あの子がまだ今よりずっと小さい頃に、屋敷の窓から身投げをして亡くなった」
「っ……!」
 一瞬、息をするのも忘れた。
(だから今朝、私が飛び降りようとしたのだと思った……?)
 そんなつもりは微塵もなかったとはいえ、結果的に凜花は彼女の心の傷を抉ったことになる。
「私、なんてこと……」
「どうした?」
 訝しむ時雨に凜花は今朝あったことを震える声で包み隠さず話す。それに対して彼は怒ることも呆れることもなく、「あなたは悪くない」と口にした。
「責任は、この子の母を死にいたらしめた私の父にある。……みどりは、貴人ではないが、異国の血を引いているのがひと目でわかる容姿をしている。それが原因で、昔から朝葉の中でもあまり良い扱いを受けていなかった」
 当時のことを思い出しているのか、声には隠しきれない怒りが宿っている。
「父がこの子に与えたのは『みどり』という名前だけだ。しかも、瞳の色が緑だからそれでいいだろうと、そんな安直な理由で名付けをして……あの人は、一度たりともこの子を抱くことはなかった」
 拳を握りしめる時雨の手は、震えていた。
「父を始めとした誰も彼もが、この子を使用人として見ていた。私はそれがどうしても許せなくて、成人したのをきっかけにこの子を引き取った。もちろん使用人ではなく妹としてね」
 でも、と。苦笑した時雨は、眠るみどりの髪を優しく撫でる。
「この子ときたら、いくら私がやめろ言っても頑なに『自分は使用人です』と言って聞かないんだ。だから、形式上は私に仕える使用人ということになっている」
 告白を聞いてわかったことがある。
 凜花とみどりの境遇は似ている。しかし、ふたりの間には明確な差があった。
 きょうだいに愛されなかった自分と、愛されたみどり。
 決して埋めようがない、圧倒的な隔たりだ。
「……大切にしていらっしゃるのですね」
「ああ」
 時雨は迷うことなく頷いた。
「可愛くて大切な、私の妹だ」
 静かに眠るみどりの頬に触れる手つきはやはり、とても優しい。
 その姿を前に凜花の中に湧き上がったのは、嫉妬でも妬みでもない。
 心からの、憧れだった。

「――私は疲れたからもう休む。あなたも色々と大変だっただろう。ゆっくりおやすみ」
 そう言って、時雨とは別れた。
 その後自室に戻った凜花だが、あれから何時間も経っているのになかなか寝付けずにいる。この屋敷に来てからの熟睡ぶりが嘘のように目が冴えていた。
 いったん寝台から起き上がった凜花は、窓のカーテンを開けた。
 雲の多い空だが、時々姿を表す月がなんとも美しい。
 それからしばらく眩い月を見つめていた凜花だが、これではますます目が冴えてしまうと再び寝台へと横になる。
(やっぱり、眠れない……以前まではこの時間に起きているのは当たり前だったのに)
 今の凜花の体は、この時間は寝ているのが普通になっている。
 多分それは、心も体もここでの生活に順応しつつあるから。そしてそうなることができたのはまぎれもなく時雨とみどりのおかげだ。
 凜花は、日中のふたりの姿を改めて思い浮かべる。
 一対の絵のようにうつくしい彼らを見て、凜花は憧れた。
 尊い、とさえ思った。
 思い合い、支え合うきょうだいのあり方なんて、凜花は知らないから。
 今の凜花の立場は、時雨の婚約者だという。
 時雨もみどりも「何もしなくていい」と言ってくれるが、それを「わかりました」と受け止めることは、どうしても難しい。
 ――私は、このままここにいてもいいのだろうか。
 寝台に横たわった凜花は天井を仰ぎ、両手を上げる。しかし当然ながら風が揺らぐことも火が出ることもない。
(もしも、私に力があれば……)
 みどりを杏花から守ることができたのだろうか。
 逃げも隠れもせずに、姉に対峙できたのだろうか。
(……違う。そうじゃないわ)
 ありえない「もしも」を想像した凜花は、すぐにその可能性を否定する。
 昼間の出来事に関して貴力の有無は関係ない。今の凜花に必要なのは、心の強さだ。姉を前にしても毅然と立ち向かう心の強さが、凜花には足りない。
(――強くなりたい)
 今は無能で、愚鈍で、弱い自分だけれど。
 時雨やみどりの役に立てるような強い人になりたい。
 凜花は静かに瞼を閉じる。自然と頭に浮かんだのは、時雨のことだった。
 最後に見た彼はひどく疲れた顔をしていた。
(時雨様は、もうおやすみになったかしら)
 そう思ったそのとき、前触れもなくゆっくりと扉が開く音がする。
(みどり……?)
 明日の朝まで起きないと思っていたのに、こんなときまで凜花の様子を見に来てくれたのだろうか。今は凜花のことなどより自分の体を案じてほしい、と思いつつも凜花は寝たふりすることに決めた。
 理由はわからないが、みどりは口癖のように「よく寝てくださいね」と言う。
 そんな彼女に起きていると知られて心配はかけたくない。
 そう、思っていたのに。
「……凜花?」
 耳に届いた声は、まぎれもなく時雨のものだった。
 瞼を閉じたまま混乱状態に陥る。
 あまりに突然の出来事に体が硬直したように動かない。それに時雨は凜花が眠っていると確信したのか、無言のままそっと髪の毛に触れてきた。
(っ……!)
 時雨の指先が凜花の頬に触れる。ぞっとするほど冷たい感触にみじろぎしなかったのは、奇跡というよりほかなかった。
 視界が暗闇に染まる凜花にはわからない。しかし、だからこそ肌は敏感に時雨の指先の軌跡を辿ってしまう。そうする間にも頬に触れていた指先はゆっくりと顔の輪郭をなぞり、やがて首筋に到達した。
 そのまま、皮膚の表面を繰り返しなぞる。
 そのたびに声を上げたくなるのを凜花は必死に堪えた。
 意味がわからなくて、だからこそ心臓が飛び出そうなほど緊張している。
 ――いったい何をするつもりなのか。
 凜花とて成人した女だ。
 経験は皆無とはいえ、ひとつ屋根の下に暮らす男女に何が起こるか考えたことがなかったわけではない。いちおうは婚約者だというのだからなおさらだ。
 だが、今日まで彼はそういった意味で凜花に触れてくることは一度もなかった。
 それなのになぜ――。
「凜花」
 そのとき、低く掠れた声が耳朶を震わせた。
 ――なんて声で、私を呼ぶの。
 過去に一度も聞いたことがない、余裕のないその声色はどうしようもなく「男」を感じさせる。
 もう、これ以上は寝たふりはできない。
 凜花は意を決して瞼を開けようとするが、それより早く何かが首筋に触れた。
 指とは違う柔らかな感触と共に、さらりと彼の髪の毛が凜花の頬に触れる。
 その直後。
(いっ……!)
 ガリっという音と共に衝撃が首を襲った。
 凜花の首筋に顔を埋めた時雨が、突如として歯を突き立てたのだ。
 自分の中から血が溢れるのを確かに感じる。しかし時雨は顔を離すどころか、流れた血をぺろりと舐めた。
 肌をなぞる舌の生温かい感覚に、凜花は堪えきれずについに瞼を開けた。
「時雨、様……?」
 名前を呼ぶのと、首筋の感覚が消えるのは同時だった。
「どう、して……?」
 呆然と時雨が呟くと、雲に隠れていた月が姿を現した。窓辺から差し込む月明かりによって時雨の姿が浮かび上がる。そうして凜花の目に飛び込んできたもの。
 それは、完全に瞳孔の開き切った金の瞳。
 そして、血に濡れた唇だった。