純血の貴人は只人の乙女を慈しむ



 その姿を見た瞬間、本能が叫んだ。
 感動、興奮、熱狂。
 どんな言葉も、体の内側から湧き上がる激情を形容することはできない。
 朝葉時雨(あさばしぐれ)は、生まれて初めて喜びで体が打ち震えることを知った。
 泣きたくなることを知った。

「――ようやく、会えた」
 
 彼女こそが長年探し続けてきた唯一の人。
 この世にただひとりの、己の(つがい)だ。



 たったひとりでもかまいません。
 もしも私を必要としてくれるのならば、心も体も、私の全てを捧げます。
 だから、どうかお願いです。

「誰か、私を見て……」

 声を発した瞬間、長嶺凜花(ながみねりんか)はハッと目覚めた。
 一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
 しかし、夢と現の間を彷徨っていたのはほんの数秒だった。
 天窓からわずかに差し込む月の光。鼻をつくじめじめとした湿気と埃っぽい匂い。幼い頃から数えられないほど目にしてきた光景は、これが現実だといやでも知らしめる。
(……いつの間にか寝てしまったのね)
 今宵、凜花は寝衣(ねまき)姿で納屋に閉じ込められた。
 ――姉の髪を上手に梳かすことができなかった。
 ただ、それだけの理由で。
 草履を履くことも許されず、頬を平手打ちにされたせいか、目覚めた今も顔や足はじんじんと痛い。
 しかし、手当てをしようにも納屋には外側から錠がかかっている。
 本当はこんな薄暗い場所からは今すぐ出たいけれど、「助けて!」と声のかぎり叫んでも、泣いて許しを請うても無駄なことを凜花は知っていた。
 姉の気が済むまで自分が出ることは叶わない。でもそれは仕方のないことだ。
 長嶺杏花(きょうか)
 伯爵位を持つ名門・長嶺家の長女である彼女は、この家における生まれながらのお姫様であり、貴力を有する貴人なのだから。

 南北に長く伸びる島国、東倭国(とうわこく)
 この国には古の時代より、異質な力を持つ人々がいた。
 火や風などの自然の力を操る者、先読みの力や読心の力を持つ者。
 多種多様な力を持つ彼らは「奇妙な力を持つ者」、通称・「奇人(きじん)」と呼ばれた。
 長らく恐れられてきた彼らだが、時の権力者はあるとき、その特異な力を使役することで己が勢力を拡大せんと試みた。
 これをきっかけに政治の表舞台に姿を現した奇人だが、時代の流れとともに彼らの中にある意識が生まれ始める。
 ――特別な力をもつ我々こそが、力を持たないただの人間の上に立つべき存在である。
 いつしか奇人は「身分や地位の高い人」「人あらざる貴き力を持つ人」の二重の意味を込めて、自らを「貴人(きじん)」と称するようになった。
 以降数百年、東倭国には「持てる者」と「持たざる者」の二つの人種が存在している。
 持てるもの、すなわち貴人。
 持たざる者、すなわち只人(ただびと)
 貴人だけが持つ特異な能力を総称して「貴力(きりょく)」と呼ぶ。
 そして、この貴力の有無こそが、貴人と只人を選別する基準であった。
 この国の特権階級――現代においては貴族を指す――は、貴人が占めている。
 この国の発展には常に貴人があった。
 貴人は力を持たざる人間を「只人」と呼び、蔑んだ。
 しかし、そんな貴人も唯一、只人に劣っていることがある。
 ――貴人同士では、子をなせないのだ。
 故に、貴人は伴侶を貴族の家に生まれた只人から選ぶ。
 その結果、貴人の子が生まれる確率は半数以下だと言われている。
 伴侶に選ばれた只人は、貴人の子を産んで初めて正式に家の人間と認められる。
 一方、貴力を持たない赤子の大半は実子と認められることはなく、母子ともども日陰者となることがほとんどだった。
 今から十八年前。
 貴人の長嶺京介(きょうすけ)は、只人の娘・仁子(きみこ)を娶った。
 仁子は双子の女児――姉の杏花と妹の凜花を出産した。
 貴人の目には、貴力は色を帯びた光となって映るという。
光気(こうき)」と呼ばれるそれを、色の種類こそ異なれど貴人は皆体に纏っている。
 そして、姉の杏花にはある光気を、凜花は纏っていなかった。
 貴人の姉と只人の妹。
 同じ顔を持つ双子の命運は、この世に生まれ落ちると同時に決まっていたのだ。
 父は、只人の娘を「家の恥」となじり一度も抱くことはなかった。
 母は、只人の娘の存在を拒絶した。
 両親は、出来損ないの妹は初めから存在しなかったように、全ての愛情を姉に注ぎ、溺愛した。
 凜花は物心ついた頃から下女として扱われ、今もかろうじて生き延びてはいるが、その扱いは他の使用人にも劣る。
 そんな妹を杏花が軽んじるのは当然の流れだった。
 杏花は凜花を妹ではなく「下僕」と呼ぶ。
 普段、杏花は凜花をないものとして扱い、視界に映ることさえ穢らわしいと言わんばかりに無視をする。
 そのくせ、ときどき思い出したように呼びつけては用事を申しつけた。
 今回もそうだった。
 下女の仕事を終えて疲労困憊の凜花がようやく床につこうとした時、突然杏花に呼び出されたのだ。
『髪の毛を梳かしてちょうだい。一本でも傷めたら承知しないわよ』
 凜花は命じられるまま姉の髪に触れた。
 夜空を宿したようなぬばたまの髪は絹糸のごとくしなやかで、天鵞絨のように滑らかだった。艶も張りもない、地味で暗い凜花の髪とは何もかもが違う。
 ――羨ましい。
 ――私もこんなに綺麗な髪になれたら……
 丁寧に姉の髪を梳きながら、一瞬でもそんなことを考えてしまったのがいけなかった。
 たった一本。
 髪が櫛に絡んで、抜けてしまったのだ。
『いたっ……!』
 しまった、と思った時には遅かった。
『この無能! 髪もろくに梳かせないなんてどこまで愚図なの! 役立たず!』
 次の瞬間、凜花の目の前には星が散っていた。
 杏花が渾身の力をこめて平手打ちをしてきたのだ。
 痛みを感じる間も無くその場に伏して謝罪をしたけれど、無駄だった。
 ひとたび火がついた杏花は誰にも止められない。怒り狂った姉は、すぐさま他の使用人を呼び出すと、問答無用で凜花を納屋に連れていくように命じた。
 長嶺家において、貴人である杏花の言葉は当主の父に次いで絶対。
 この家に仕える限り、何人たりとも逆らうことは許されない。
 そして、今に至る。

 ――今は、いったい何時だろう。
 天窓から差し込む月明かりを見る限りまだ夜は開けていないが、少なく見積もっても数時間は経っているだろう。その証拠に春先にもかかわらず体はすっかり冷え切っている。
 ――日付はもう、変わっただろうか。
 凜花は冷たい指先をきゅっと握りしめる。
「『誰か、私を見て……』」
 先ほど寝ぼけながら発した言葉を再び唇に乗せる。でも、それに返ってきたのはしんとした静寂と耐え難いほどの惨めさだった。
「……馬鹿みたい」
 家の恥で、役立たずで、生きていること自体が無駄。血の繋がった両親や姉にそうまで言われる自分を見てくれる人なんて、いるはずがないのに。
 己のふがいなさは自分が一番よくわかっている。
 それでも、想像せずにはいられなかった。
 ――もしも誰かに必要とされたら、それはどんなに幸せなことだろうか、と。
 そうでもしないと、現実の世界に疲弊し切った心が壊れてしまうから。

 その晩、凜花は十八歳の誕生日をひとり孤独に納屋で迎えたのだった。


「凜花さん」
 その日、母屋の裏庭の掃き掃除をしていた凜花は、険のある声に箒を動かす手を止める。振り返ると、眉間に皺を寄せた年嵩の女がこちらを睨んでいた。
 母、長嶺仁子の上女中を務める由美子だ。
「はい。なんでしょうか?」
 普段は母のそばに控える彼女が話しかけてくるのは珍しい。内心驚きながらも返事をすると、由美子はため息混じりに口を開く。
「旦那様と奥様がお呼びです。急ぎ、旦那様の書斎に向かってください」
 凜花はぽかんと口を開く。
「……おふたりが、私を?」
 問い返すと、由美子は呆れる気持ちを隠そうともせずに深いため息をつく。
「そうだと言っているでしょう。何を聞いていたんですか? あいかわらずどんくさいこと」
 侮蔑があらわな物言いに凜花は視線を下げた。
 仁子の輿入れと共に長嶺家にやってきた彼女は、凜花と同じ貴力を持たない只人だ。しかし、伯爵夫人となった母に仕えている由美子は他の使用人とは格が違う。
 彼女の目には、凜花は母の娘ではなく、長嶺の血を引きながらもその名を汚す役立たずで無能な下女に映っているのだろう。あえて言葉にされずとも、凜花を疎ましく思っているのは態度の節々から伝わってくる。
「必ず埃を払ってから行くのですよ。薄汚れた格好でおふたりの前に現れては困ります。わかりましたね?」
「……はい」
 頭を下げると、上から再度大きなため息が降ってくる。
「本当に陰気な人。お嬢様とは似ても似つきませんね」
 捨て台詞を残して由美子は去っていく。
 足音が聞こえなくなると、凜花はゆっくりと顔を上げた。
 脳裏には今も、汚物を見るような由美子の眼差しが残っている。
 目頭が熱くなりかけるのを、凜花は拳を強く握りしめることでなんとか堪えた。
「……早く行かないと」
 下女の自分が当主夫妻を待たせることなど許されない。
 本当は着替えた方がいいのだろうが、凜花が所有しているものといえば、今着ているところどころ擦り切れた地味な木綿のお仕着せと、あちこちをつぎはぎした着物だけ。
 せめて汚れだけは落とさなければと、裾や袖を叩いて埃を落とす。そして、箒を片付け急ぎ両親のもとへと急いだ。
 この家に生まれて十八年が経つが、両親に呼び出されるなんて初めてだ。
 母の部屋の近くに個室を与えられている由美子と違い、下女の凜花は女中部屋で寝起きしている。
 炊事や洗濯、掃除などの仕事を主とする凜花が両親の姿を見ること自体が稀だった。
 たまにあったとしても、気まぐれに妹を呼び出す姉と違い、父も母も、ふだんは凜花を見ても「いないもの」として扱う。
 そうでないときは決まってため息をついた。
『……おまえなんて生まれてこなければよかったのに』
『子どもが杏花だけであったならよかったものを。只人の妹など邪魔なだけだ』
 最後に目を合わせて言葉を交わしたのは何年前か。
 もちろん、家族の集まりに呼ばれたことはない。
 だからこそ心の中は驚きでいっぱいだった。
 何かふたりの不興を買うようなことをしてしまったか、と日頃の自分の行いを振り返るが、顔を合わせることがない相手を怒らせる方が難しい。
 唯一心あたりがるとすれば三日前に杏花の怒りを買い、納屋に閉じ込められたことだが、杏花による折檻は今に始まったことではない。
 いかに姉を溺愛する両親とはいえ、いまさら呼び出して注意するとは思えなかった。
(もしかして……)
 書斎の前に到着した凜花の頭にある可能性がよぎる。
 東倭国では、男女ともに十八歳で成人とみなされる。
 納屋から出された日は、ちょうど凜花の誕生日だった。
 それはすなわち、双子の姉である杏花もまた成人を迎えたことを意味する。
 杏花の誕生祝いは、家を上げて盛大に催された。
 しかし、妹の凜花に祝いの言葉を述べる人はただのひとりもいなかった。
 生まれてこの方誕生日を祝福されたことのない凜花は、それを当然のこととして受け止めた。
 でも……もしも、今回だけは違ったとしたら?
 成人の節目だからと、特別に呼ばれたのだとしたら?
『おめでとう』
 ただ、一言でいい。
 両親にその言葉をもらえたら――そう思いかけた凜花はすぐにそれを打ち消した。
(……何を自惚れているの)
 両親がそんな甘い人間ではないことを、凜花はこの身をもって知っているのに。
(期待しては、だめ)
 空気のように、柳のように、存在を消して罵詈雑言を受け流し、静かに暮らす。
 それが、この家で生き延びるための唯一の方法なのだから。
「凜花です。お呼びと伺い参りました」
 扉の前で深呼吸をして声をかけると、すぐに「入れ」と短い声が返ってくる。
 凜花は、入室してすぐ深く頭を垂れた。
「失礼いたします」
「顔を上げろ」
 冷ややかな声に命じられるまま凜花は頭を上げる。
 革張りのソファには、父と母が並んで座っていた。 
 父は凜花と目が合うと、不快そうに顔を顰める。母にいたってはすでにこちらを見てすらいない。
「凜花。おまえには今から、杏花の代わりに朝葉家の別邸に行ってもらう」
 不機嫌な様子を隠そうともしない父は、唐突に切り出した。
 あまりに突然の命令に凜花は瞠目する。
 朝葉家といえば、東倭国に三家しか存在しない公爵家のひとつである。そして、貴人たちの間でも別格とされている家でもあった。
 東の橘花。
 西の天王寺。
 そして、中央の朝葉。
 数百年前から続くそれらの家は、通称『御三家』と呼ばれている。
 代々優秀な貴人を輩出し、政治・経済・産業のあらゆる分野に多大な影響を及ぼす名門中の名門。
 そのうちのひとつ、朝葉家の別邸に只人である自分が行く。しかも、杏花の代わりに――?
「只人のおまえは知らないだろうが、朝葉公爵にはふたりの息子がいる。兄の時雨殿と、弟の和泉(いずみ)殿だ。今回、おまえが向かう先は時雨殿の別邸だ。そこで行われる『選定の儀』に参加しなさい」
「選定の儀?」
 初めて耳にする言葉につい鸚鵡返しをしてしまう。
 直後、父の眉がぴくりと動いた。
 苛立ちを感じ取った凜花は、すぐさま「失礼いたしました」と視線を下げる。
「……選定の儀とは、伴侶を選ぶ儀式のことだ。時雨殿は二十四歳になるが、いまだに独身で婚約者もいない。我々貴人は通常、成人して間もなく伴侶とするべき只人を家に迎え入れる。だが、時雨殿は只人の娘とは結婚できない。なぜかわかるか?」
「……申し訳ありません。わかりません」
「時雨殿は、数百年ぶりに貴人同士の間に産まれた純血だからだ」
 今度こそ凜花は絶句した。
(ありえない)
 真っ先に頭に浮かんだのは、それだった。
 自身は只人であっても、貴人の家で育った凜花は知っている。
『貴人同士の間に子どもは生まれない』
 それが常識であり必然のはずだ。
 そうでなければ、自尊心と選民意識の強い貴人が只人の伴侶を迎えたりなんかしない。母がこの場にいることもなかっただろう。
 声もない凜花の前で、淡々とした父の言葉は続く。
「今となってはこの国に純血の貴人は時雨殿だけだ。だが、何百年も昔の時代には貴人同士で子をなすことができたという文献が残っているらしい。貴人は『選定の儀』を執り行い伴侶を選んだ、と。時雨殿は成人して以降、年に一度、成人を迎えた貴人の娘たちの中でも、特に高貴な家の生まれの者を屋敷に招いては儀式を行なっている。今回、我が長嶺家では杏花が十八を迎え、儀式に参加するよう招かれたのだ」
 だが、と声色が変わる。
 それまで抑揚のない声色で淡々と説明としていた父は、深いため息をつく。
「杏花は昨夜から熱を出して寝込んでいる。とても儀式に参加できる状態ではない。だが、いかに長嶺家といえども、公爵位を持つ朝葉家の招待を断ることはできん」
 だから姉の代わりに儀式に参加しろ――そう、父は言っている。
「そんな……私がお嬢様の代わりなんて」
 無理です。
 喉元まで出かかった言葉は、父の鋭い一瞥によって発せられることはなかった。
「できないとは言わせない。日頃から杏花とおまえがことあるごとに入れ替わっているのに私が気づいていないとでも思ったか? つい先日の華道の習い事も、杏花ではなくおまえが参加していたようだな」
「っ……!」
 まさか、ばれていたなんて。
 ひゅっと息を呑む凜花に、父は嗤う。
「把握しているのは私と仁子くらいのものだ。おおかた、杏花がそうするように言ったんだろう。別に習い事のひとつやふたつ好きにすればいい。おまえと違ってあの子は女学校に通っている。息抜きしたくなる気持ちもわからんではない」
 とにかく、と父は語気を強めた。
「おまえがやることはひとつ。杏花の代わりに時雨殿の屋敷に赴き、選定の儀に臨め。彼がどのような基準で伴侶を選ぶのかは不明だが、間違っても身代わりだとばれるような無様な真似は許さん。――これは、命令だ」
 話は終わりだと言わんばかりに父は、犬を追い払うように手を払ひらひらと振る。
 しかし、凜花は動けなかった。
 とてもではないが受け止めきれなかったのだ。
 動揺から思わず母の方を見ると、視線が重なった。
 だがそれは一瞬にして逸らされる。
「旦那様を困らせるものではありません。使用人なら使用人らしく主の命令には黙って従うのが当然でしょう。これは、杏花にとっても長嶺家にとっても重要なことです。それが理解できたのなら、この後すぐに杏花の部屋に向かい、そこで準備をなさい」
 断る選択肢など、初めから存在しなかった。
「――承知いたしました」
 深く、深く、頭を垂れる。
 そうして部屋を出て行こうとすると、「凜花」と呼び止められる。
 振り返ると、父の冷たい眼差しに射抜かれた。
「杏花と同じその顔だけがおまえの唯一の取り柄だ。娘の代わり、しかと果たせ」
 そう言ったきり、父が凜花を見ることはついぞなかった。
「……はい」
 ――私も、あなたの娘ではないのですか?
 頭に浮かんだ言葉を発することは、決してない。
 父も、その隣で目を逸らしたままの母も、考えてみたこともないのだろう。
 杏花が成人を迎えたということは、凜花もそうであるということを。
 結局、ふたりが凜花を娘と呼ぶことは最後までなかった。

 書斎を辞した凜花はすぐに杏花のもとへ向かう。
 姉と顔を合わせるのは三日ぶり。
 誕生日前夜に平手打ちをされ、納屋に閉じ込められて以来だ。
 本当は今すぐ回れ右をしたいが、それは父の命令に背くことを意味する。
 選定の儀に参加せずに杏花の顔に泥を塗れば、どんな仕打ちが待っているかわからない。それは、凜花にとってこの世の何よりも恐ろしいことだ。
 杏花の自室前に到着した凜花は、入室の許可を得て静かに襖を開ける。
「――遅いわ、この愚図!」
 そうして飛んできたのは、耳をつんざくような罵声だった。
 天蓋付きの寝台の上で上半身を起こした杏花は、怒りをあらわに凜花を睨んだ。
 異国文化をこよなく愛する姉は、畳に布団を敷いて眠ることを嫌う。
 今も、和装ではなく洋装の寝衣を着ていた。
 手首までたっぷりと裾のある白色のそれはまるでドレスのようで、滑らかな白磁の肌に艶やかな黒髪を持つ杏花が着ていると、精巧な人形のように見える。
 深層の令嬢という言葉がまさしくぴったりの可憐な容姿。
 しかしその顔は今、苛立ちに満ちていた。
 薄らと紅潮する頬は熱のせいか、それとも妹に対する怒りのせいか。
 どうか後者であってほしいと願いながら、凜花はその場に膝をつき平伏する。
「お待たせして申し訳ありません、お嬢様」
 直後、何かが凜花の頭を直撃した。
「っ……!」
 痛みに思わず声を漏らす。畳に敷き詰められた重厚な絨毯の上には、杏花が投げつけた枕が畳の上に落ちていた。
「いい気味ね。おまえがいけないのよ。私が熱で苦しんでいるのに、いつまでもやってこないから」
 頭を上げなさい、と命じられた凜花は恐る恐る上半身を起こす。そうして視界に映ったのは、妹を下僕と言って憚らない姉が苛立ちで顔を歪める姿だった。
「まったく、本当にのろまで嫌になる。もしもおまえのせいで選定の儀に間に合わない……なんてことになったら八つ裂きにしてやるところだったわ」
 ころころと鈴の音のように軽やかな声。しかし、発言はどこまでも物騒だ。
「お父様とお母様から話は聞いたわね? これからおまえには私の代わりに選定の儀に臨んでもらうわ」
「はい」
「衣装は全てこちらで用意したわ。どれも、こんな機会がなければおまえが触れることなんて許されない一級品ばかりよ。それを着られるんだもの、私に感謝しなさい」
「ありがとうございます、お嬢様」
「ふんっ。思ってもいないくせに、返事ばかりは立派ね。――自分の役割はわかっているわね。おまえは私の代わり。長嶺杏花として行くの。無様な真似を晒して私の顔に泥を塗ることは許さないわ」
 次いで杏花はあるものを凜花の目の前に投げ捨てた。絹でできた小袋だ。
「私の貴力を込めた水晶をその中に入れておいたから、肌身離さず身につけなさい」
「ありがたく頂戴いたします」
 感謝の言葉を述べた凜花は、小袋を袂にしまう。
 只人の凜花は貴力を持たず、光気も身に纏っていない。それにもかかわらずこれまで杏花との入れ替えが成功していたのは、この小袋の中身があったからだ。
 杏花は凜花に身代わりを命じるとき、必ず自身の貴力を込めた水晶を入れた小袋を凜花に渡した。
 只人の凜花は何も見えないが、これを身につけているわずかな間だけ、この体は杏花の光気を纏うのだとか。
 同じ姿形を持つ凜花がこの手法を取ると、姉と簡単に入れ替われる。
「――いいわ。ちゃんと私の光気を纏ってる」
 杏花の目にはその変化が映っているのか、満足そうに姉は頷いた。
「今日はいつもより多めに貴力を込めておいたわ。儀式の間くらいはごまかせるでしょう。……それにしても惜しいことをしたわ。熱さえ出なければ、私が時雨様にお会いできたのに……」
 ――時雨様。
 その名を口にした瞬間、杏花の表情がふわりと和らぐ。白魚のような手を頬にあてた杏花は物憂げに小首を傾げた。
「お父様のお話によると、時雨様はとても見目麗しい方らしいわ。今は、軍で働かれているのだとか。只人のおまえにはぴんと来ないだろうけれど、純血の貴人なんて数百年間生まれてこなかった尊き存在なの。その貴力は国一番だとも言われているわ。その上、御三家のひとつ、朝葉家の後継ぎなんて、非のうちどころがないというのはきっと時雨様のことを言うのね。もしも時雨様の伴侶に選ばれたなら、どんなに素敵かしら……」
 うっとりと呟くその顔は本当に愛らしい。
 とても妹を下僕と蔑み、平手打ちをするようには見えないほどに。
 しかし、その眼差しが凜花の方を向いた途端、杏花の表情は一変した。
「ねえ、凜花」
「は、はい」
「お父様にもお母様にも話したことはないけれど、私、本当は只人の男を伴侶になんて迎えたくないの。他の貴人がそうしているからと言って、なんの力を持たない只人の男がいずれこの家を継ぐなんて……只人との間に子を作るなんて、想像しただけで寒気がする」
 今のこの国の法律では、貴人といえど女は家を継ぐことはできない。
 故に杏花は、いずれ只人の男を伴侶に選び婿養子に迎える。表向きは只人の夫が爵位を継ぎ、実際には裏で杏花が実権を握る。それが既定路線となっていた。
 そんなことはまっぴらごめんだ、と杏花は吐き捨てる。
「でも、時雨様が相手なら話は違う。純血の貴人の妻、しかも公爵夫人なんて貴族の頂点に立つようなものじゃない。こんなにも素敵なことはないわ」
 だから、と。
 杏花は赤く色づく唇の端を上げた。
「なんとしてでも選ばれてくるのよ?」
「え……?」
「大丈夫、今のおまえの光気は私そのものだもの。この後、化粧をして着替えれば私と同じ見目になる。それなら時雨様に選ばれない理由はないでしょう?」
 凜花はぎょっとする。
 自分の役割は、杏花になりきり儀式に参加することだけだと思っていた。
 それすらも只人の身には難易度が高すぎるのに、その上「必ず選ばれろ」なんて。仮に凜花が選ばれたいと望んだところで、必ずしもそうなるとは限らない。
 そんなことは、考えずとも杏花もわかっているはずだ。
「お、お待ちください。旦那様は、朝葉様が伴侶を選ばれる基準はわからないとおっしゃっておりました」
「それがどうしたというの? 基準がわからないなんて私には関係ない。私は、おまえに『選ばれろ』と命じたの。おまえはただ『わかりました』と返事をすればいい。違う?」
「ですがっ……!」
「なあに?」
 ふふっと杏花は可憐に笑う。
「もしかして、私に意見するつもり? まさかそんなことしないわよね。おまえが私に逆らうなんてありえないもの。そうでしょう?」
「…………」
「返事は?」
「……はい、お嬢様」
「それでいいの。――こちらへいらっしゃい」
 命じられるがままふらふらと立ち上がり、寝台のそばに膝をつく。すると、杏花のほっそりとした指先が、凜花の頬から首筋にかけてをつうっと撫ぜた。
 天女のようにたおやかな微笑みを浮かべた杏花は、突如として凜花の首に爪を立てる。
「っ――!」
 首の皮膚の表面が裂ける痛みに凜花はたまらず顔を歪める。対する杏花は手を離すどころか、いっそう立てた爪に力をこめた。
(痛い……!)
 皮膚を切られる感覚に涙が滲む。
「ふふっ、いい顔ね」
 杏花は笑い声を漏らし、ゆっくりと手を離した。
 直後、ぬるりとした何かが首をつたう感覚がする。杏花の指先が赤く染まっているのを見て、凜花はそれが自分の血だとわかった。
「もしも選ばれなかったら……今度こそおまえのことを殺してしまうかも」
 杏花は寝台の上から凜花を見下ろし、艶然と微笑む。 
「それが嫌ならせいぜい頑張ることね。――応援してるわよ、凜花」

 身の危険を感じたことは過去に何度もある。
 大雪の吹き荒ぶ真冬の夜、肌着一枚で外に放り出されたとき。
 三日間、水以外を口にすることを禁じられたとき。
 井戸に突き落とされそうになったとき。
 そして今日、首筋に爪を立てられたとき。
 それらのいずれもが、姉によるものだった。
 朝葉時雨の別邸に向かう道中。
 馬車にひとり乗り込んだ凜花は、自身の首筋に手を当てる。
 杏花によって傷つけられたそこは、化粧によってほとんど見えなくなっている。
 しかし、肌を裂かれた瞬間の痛みや、笑顔で強烈な毒を吐く杏花のことを思い出すと自然と体が震えた。
 両手で自分の体を抱きしめるが、震えが収まる気配はいっこうに訪れない。
(朝葉様の伴侶に選ばれなければ、私は……)
 ――殺されるかもしれない。
 そう危機感を感じるほどに、先ほどの杏花は本気の眼差しをしていた。
(どうすればいいの……?)
 朝葉側の意向もあり、屋敷を訪れることができるのは選定の儀を受ける娘だけ。
 そのため、馬車の中には凜花しかいない。だからこそ、凜花はずっと堪えていた心の声を初めて漏らした。
「こんなのめちゃくちゃだわ……」
 姉の言っていたとおり、今の凜花は周囲から杏花だと思われている。その証拠に身支度を手伝った只人の使用人は終始、凜花のことを「お嬢様」と呼んでいた。
 父にばれていることを知ったが、それでも、今まで入れ変わってきたが気づかれたことは一度もない。
 使用人も、習い事の教師も、皆そろって不思議なくらいに騙されてくれた。
 しかし、今回騙す相手はこれまでとはわけが違う。
 この国一番の貴力を持つという、数百年ぶりの純血の貴人・朝葉時雨。
 彼の身の上なら、きっと只人に対する差別意識もことさら強いはず。
 そのような人に入れ替えがばれたらどのような目に遭うのか。
 最悪の場合、命に関わるかもしれない。
 仮に助かったとしても、選ばれなければ杏花は凜花を許さない。
 前門の虎、後門の狼という言葉が頭をよぎる。
 朝葉時雨という名の虎と、杏花という名の狼。
 逃げ場のない状況に、恐怖と緊張で頭がおかしくなりそうだ。
 与えられた小袋を着物の上から握りしめ、今すぐ叫び出したい衝動を必死に堪える。
 選定の儀で何が行われるのか、どのような基準で伴侶を選ぶのか。
 それらが不明である以上、凜花にできることは失礼のないようにすることだけだ。長嶺の――父や姉の名前を汚さぬよう、せいいっぱい良家の令嬢らしく振る舞う。
「……大丈夫」
 己を励ますように、凜花は唇にその言葉を乗せる。
 凜花は只人の下女にすぎない。けれど、少なくとも伯爵令嬢として最低限の作法は身につけている。稽古を面倒がる姉に変わり、幾度となく入れ替わってきたからだ。
(まずは、生きて帰ることだけを考えよう)
 ――まだ死にたくない。
 たとえ、自分の帰りを待つ人など誰もいなくとも。
 
 それからほどなくして馬車は朝葉時雨の別邸に到着する。
 御者の手を借りて馬車から降りた凜花はまず、屋敷の豪奢さに圧倒された。
 そこは、瀟洒な洋館だった。
 別邸と聞いていたから自然と素朴な建物を想像していたが、よくよく考えてみると、御三家と称される朝葉家の別邸が小さいはずもない。
(そんな立派な場所に私がいるなんて……) 
 いまだ現実感はないものの、呆けてばかりはいられない。
 凜花は心の中で己を鼓舞し、正面玄関へと歩を進める。
 次期公爵家当主の伴侶を決める、選定の儀。
 さぞかし盛大な催し物なのだろうと思っていたが、意外にもエントランスホールの前で待ちかまえていたのはひとりだった。
 しかも、大人ですらない。十代半ばほどの少女だったのだ。ぱっちりとした二重といい、すっと通った鼻筋といい、とても整った顔立ちをしている。
 何より驚いたのは、彼女の持つ色だ。
(金の髪に緑の瞳の人なんて、初めて見た……)
 一目で異国の血を引いていることがわかる少女は、洋装ではなく真っ赤な着物を着ていた。見た目との不均衡さはどこか非現実的でつい見惚れる凜花の前で、少女はゆっくりと口を開く。
「長嶺杏花様でいらっしゃいますね?」
 一切の感情を感じられない、抑揚のない声だった。はい、と答えかけるも寸前でやめる。今の自分は杏花であることを思い出したのだ。
「そうよ」
 顎を引いた凜花は短く答える。その際、ゆったりと微笑むのも忘れない。
 ともすれば傲慢にも見えかねないその顔こそが、自信家な姉を最も魅力的に見せることを凜花は知っている。
「あなたは?」
「みどりと申します。時雨様より、儀式に臨まれる皆様の案内役を仰せつかっております。早速ではございますが、こちらの誓約書をご覧ください」
 みどりと名乗った少女は一枚の和紙を差し出した。
 そこには流麗な筆跡で「選ばれた伴侶を除き、儀式に関する全てを他言無用とする」との文言が書いてある。
「こちらに同意していただけるのであれば、血を一滴いただきます」
「血を?」
「はい。私が針で刺しますので、血をこの紙に垂らしてください」
 眉ひとつ動かさないみどりを前に凜花は困惑した。儀式の内容は不明とはいえ、まさか血を求められるとは想像もしていなかったのだ。
(血には、最も貴力がこもるはず……)
 ならばおそらくこれは形式上の誓約書ではない。
「もしも誓いを破ったらどうなるの?」
「時雨様が貴人たる所以を、その身を持って知ることになるでしょう」
 つまり、何らかの制裁が課されるということだろう。しかも、貴力を持って。
「わかったわ。さあ、どうぞ」
 おおよそのことを把握した凜花は、迷わず右手の人差し指を差し出す。すると、無表情を貫いていたみどりの眉がぴくりと動いた。
「どうしたの?」
「……いえ。それでは、失礼いたします」
 みどりは針の先端を凜花の人差し指に刺す。そうしてぷっくらと浮かび上がった血を和紙にたらし、「結構でございます」と頷いた。
「……あなたは、怖がらないのですね」
「え?」
「他のお嬢様方は、皆様とても怖がっていましたので」
 何かと思えばそんなこと。
 姉の折檻に比べれば針なんて、蚊に刺されるようなものだ。
「これくらいなんてことないわ」
 口調は杏花に寄せつつも本心を口にする。これにみどりは「さようでございますか」と抑揚なく答え、「どうぞこちらへ」と歩き始めた。
 エントランスホールを過ぎると、真紅の絨毯が敷き詰められた長廊下があらわれる。共に無言のまま廊下を進むと、みどりが足を止めた。
「こちらのサロンにてお待ちください。他の候補者の皆様はすでにお待ちです。杏花様のお席は正面向かって中央でございます。着席されましたら、時雨様がいらっしゃるまでお待ちください」
「あなたは入らないの?」
「私は候補者ではないので。それでは、失礼します」
 みどりは背中を向けて去っていく。最初から最後まで機械仕掛けの人形のような人だった。
 ひとりになった凜花は深呼吸をする。
 ここから先は、さらに一挙一動に気をつける必要がある。
 朝葉時雨はもちろん、他の候補者にも入れ替わりがばれることだけは避けなければ。
「……落ち着いて、冷静に」
 小声で己にそう言い聞かせた凜花は、重厚な木の扉を開ける。すると中にいた候補者の視線が一斉に凜花へと向けられた。
 その眼差しを一身に受けた凜花は心の中で息を呑む。
 ――まさか、只人であると勘づかれたか。
 最悪の展開が頭をよぎり、冷や汗が背中をつたう。しかしそれは、うちのひとりの「なんだ、杏花さんじゃない」という呟きによって否定された。
 どうやら皆、朝葉時雨が来たと勘違いをしたようだ。早々に摘み出される展開は避けられたことに安堵しつつも、表情にはおくびにも出さずににこりと微笑む。
「ごきげんよう」
 すると、揃ったように「ごきげんよう」と返ってくる。
 落ち着いて見渡せば、皆、入れ替わりの際に顔を出した女学校や社交界で見知った顔だ。
 候補者は全部で五人。凜花の他に同い年の侯爵令嬢がひとり、伯爵令嬢がふたり、子爵令嬢がひとり。
 いずれも貴族の中で特に名の通った家の令嬢だが、最も家格が高いのは長嶺家のようだ。中央の席を用意されたのもそれ故だろう。
 凜花は姉のよそ行きの顔を真似ながら、自身の席に腰を下ろす。
 しかし、皆緊張しているのか誰ひとりとして言葉を発さない。
 それがかえって凜花にはちょうどよかった。
 第一関門は突破したが、次こそはどうなるかわからない。
 朝葉時雨に只人であることがばれたら、その時点で凜花は終わる。
 仮に騙せたところで伴侶に選ばれる可能性はいかほどか。
 杏花の貴力を宿した水晶があるとはいえ、純血相手にその効力がどれほどだろう。
 今日の命か、明日の命か。緊張と不安で胸が張り裂けそうになった、そのとき。
 ゆっくりと、扉が開いた。
「っ……!」
 息を漏らしたのがどの家の令嬢か、凜花にはわからなかった。
 他の四人と同様、一瞬にして意識を表れた人物に持っていかれたからだ。
 現れたのは、とても背の高い青年だった。
 漆黒の軍服を纏った体はすらりとしているが細くはなく、服の上からでも鍛えられているのがわかる。
 色香漂う切長な瞳、すっと通った鼻筋。眉目秀麗なその顔立ち。
 しかし、目を引いたのはそれではない。
(なんて綺麗な色なの……)
 雪のように白い髪も、輝くような金の瞳も、およそこの世のものとは思えない美しさだった。みどりを見た時も驚いたが、今はそれ以上だ。
 ――彼が、朝葉時雨。
 数百年ぶりにこの国に生まれた、純血の貴人。
 視線を奪われる凜花の前で、彼は五人の候補者たちを一瞥する。
「杏花さん……」
 左隣から聞こえた声に弾かれたように振り返った凜花は、初めて異常に気づく。
 凜花以外の皆が、絨毯の上に膝をついて平伏していたのだ。
 そのうちひとりは頭だけをわずかに上げて、信じられない様子で凜花を見ている。彼女の顔は、恐怖に怯えるように真っ青だった。
「あなた、この光気を前にどうして平気でいられるの……?」
 光気。その単語に、一瞬にして血の気が引いた。
(しまった……!)
 どんなに取り繕おうと、只人の凜花の瞳に光気が映ることはない。
 それをまさかこんな形で裏目に出るなんて――。
 一気に混乱状態に陥った凜花は、なすすべもなく俯いた。今さら他の令嬢に倣って平伏したところで遅すぎる。終わった――そう思ったとき。
「顔を上げなさい」
 頭上から涼やかな声が降り注ぐ。
 怒りの色など微塵もない声色に誘われるように、凜花はゆっくりと顔を上げて、驚いた。いつの間にか時雨が目の前に立っていたのだ。
 金の瞳が射抜くようにこちらを見ている。
 鋭く力強い眼光を前に、凜花は蛇に睨まれた蛙のように動けない。
 空気が震えている。見られているだけなのに、肌がひりつくように痛い。
 恐怖に身をすくませる凜花の前で、時雨はゆっくりと右手をあげる。
 そして、男らしく筋張った指が化粧で隠した傷跡に触れた。
 異性の温もりを初めて素肌に感じた瞬間、頭の中に響いたのは姉の言葉だった。
『今度こそおまえのことを殺してしまうかも』
 死、という言葉が脳裏をよぎる。
 相手は貴人の頂点に立つ存在。只人の小娘の首など簡単に捩じ切れる。
 ――自分はこんなところで人生を終えるのか。
 空気のような十八年間だった。息を、声を、心さえも殺して密やかに過ごしてきた。無能と蔑まれ、存在自体を疎まれながらも日々を懸命に生き延びてきた。
 その結果がこれか。
 長嶺凜花として何も成し遂げることなく、最後まで姉の代わりとして一生を終えるのか。
(……私は、何のために生まれてきたんだろう)
 虚しくて、悲しくて、悔しくてたまらない。喉の奥から何かがせり上がるような感覚がする。目の奥がカッと熱くなって、滲んだ涙によって視界が滲む。
 しかし、涙は意地でも溢さない。溢してなるものか。
 ここで全てが終わるなら、せめて最後は惨めな姿を晒したくはない。
 生まれて初めて心の奥底から湧き上がった強い感情と共に、凜花は唇を引き結ぶ。すでに視界に映る時雨の姿はぼやけてほとんど見えなかったけれど、目は逸さなかった。
 首筋に手を触れられたまま見つめ合う。
 ほんの数秒にも満たないわずかな時間が永遠にも感じられた、そのとき。
 首にあった手が離れ、頬へと触れた。
 濡れる凜花の目元を、暖かな指先がそっと触れる。
「泣くな」
 時雨が、今にも溢れそうな涙を拭ったのだ。
(どうして……?)
 混乱する凜花は、次いで開けた視界に映る時雨を見て息を呑む。
 彼は、笑っていた。
「……ようやく会えた」
 歓喜の色を浮かべた時雨は、金の瞳に凜花を映して微笑む。
 次いで発せられた言葉に今度こそ凜花は言葉を失った。
「――会いたかった」
 とろけるような甘い声が、耳朶を震わせたのだ。
「あなたが、私の番だ」
 つがい。
 耳慣れない言葉を時雨が口にした次の瞬間。
 窓も開いていないのに突如として強風が吹き込み、部屋の扉が開く。
 それが時雨の貴力によるものなのは誰の目にも明らかだった。
 その証拠に彼以外の令嬢は皆、腰が抜けたように絨毯の上に座り込んでいる。
 椅子にいるのは凜花だけ。しかし、気持ちはおそらく他の令嬢たちと同じだった。とてもではないが今の状況に思考が追いつかない。
 誰ひとりとして言葉を発せない中、唯一、時雨だけは違った。
「――みどり」
 彼が声を張り上げると、すぐに先ほどの少女が現れる。
「選定の儀は終了した。他の皆様を入り口へとご案内するように」
「承知いたしました。皆様、どうぞこちらへ」
 恭しく頷いたみどりは、早速他の四人に退室するように促す。それに対して否を唱える者は誰もいなかった。
 まるで時雨に怯えるように、皆が一目散に部屋を出ていったのだ。
 そうして残された候補者は、凜花だけ。
(私が選ばれた……?)
 否、この場合、選ばれたのは杏花ということになるのだろうか。
 そもそも時雨が入れ替わりに気づいているのかさえ、凜花にはわからない。
「大丈夫か?」
 柔らかな声が、緊張と混乱の最中にいる凜花の意識を引き戻す。扉の方を見ていた凜花は視線を正面へと戻し、ひゅっと息を呑んだ。
 時雨が、跪いていたのだ。その光景に一瞬にして血の気が引いていく。
「そんな、おやめください!」
 下女であり姉の下僕でもある凜花には、上下関係の重要さが骨の髄まで叩き込まれている。
 今、自分の前に膝を折っているのは、この世にふたりといない純血の貴人。
 御三家の人間で、東倭国を代表する生粋の貴族の男だ。そんな天上人のような彼を自分が見下ろすなんて、絶対にあってはならないことだ。
「どうかお立ちくださいませ、お願いですから……!」
 悲鳴にも近い声で懇願した凜花は立ち上がり、先ほどの令嬢たちのように絨毯に手をつこうとする。だがあまりに慌てていたせいか、足が絡まり体の重心が崩れた。
(あっ……!)
 そのまま転びそうになるのを時雨がすかさず抱き止める。
 背中に回された両手や逞しい胸板に凜花が全身を強張らせるのと、頭上で小さな笑い声が聞こえたのは同時だった。
 ゆっくり抱擁を解いた時雨は、凜花の手を取り立ち上がらせる。
「怪我はないな?」
「あ……はい」
「なら、いい」
 時雨はほっとしたように息をつく。
 しかし、凜花は落ち着くどころか戸惑いが加速する一方だった。
 入れ替わりで身につけた貴族令嬢の振る舞い方など忘れてしまった。
 もしもここにいたのが杏花なら、こんなふうに挙動不審になったりしない。
 姉は、凜花のおどおどした態度は見ている者を不愉快にさせると常々口にしていた。ならばきっと時雨も機嫌を損ねたに違いない。
(謝らないと)
 申し訳ありません、と許しを請わなければ――。
「それにしても、噂とはつくづく当てにならないものだな」
 凜花が謝罪の言葉を述べるより早く、時雨が口を開く。
 予想に反してその顔はどこか楽しげだ。時雨は愉快そうに頬を緩ませる。
「長嶺伯爵のご息女がこんなにも愛らしい方だとは思わなかった」
「なっ……!」
 ――愛らしい、なんて。
 そんなことは初めて言われた。
 今まで凜花を形容する言葉といえば、「みすぼらしい」「陰気」といったものばかりだったから。
 もはやどこを見たのか分からず視線をさまよわせる凜花を見て、時雨は「本当に可愛いな」といっそう笑みを深める。
(もうやめて……)
 これ以上は本当に心臓が持たない。
 ほんの少し前まで「殺されるかもしれない」と怯えていたのに、突然の褒め言葉に今度は別の意味で心臓が痛くなる。
 凜花は、両手を赤らむ頬に当てて視線を下げる。
 視界から時雨を追い出さないと、とても平静を装うことなどできそうになかったのだ。そうして深呼吸をすること数回、あることに気づく。
 先ほど彼は「長嶺伯爵のご息女」と言った。ならば、もしや――。
(私が只人だと気づいていない……?)
 しかし、純血の貴人たる彼が気づかないなんてことがあるのだろうか。
 困惑しつつもなんとか落ち着きを取り戻した凜花は、ゆっくりと視線をあげる。
 目の前に立つ時雨はやはり笑顔だった。
「少しは落ち着いたか?」
「……はい。大変失礼いたしました」
「かまわない。驚かせたのは私の方だ。――改めて自己紹介をさせてくれ。私は、朝葉時雨だ」
「……長嶺杏花と申します。この度は、選定の儀にお招きいただきましたこと、心より感謝申し上げます」
 行きの馬車の中、心の中で繰り返し練習していた挨拶を述べると、時雨は小さく笑む。その友好的な態度はやはり疑っているようには見えない。
 ――彼は、凜花を貴人だと思っている。
 そう確信ができてようやく胸を撫で下ろすことができた。
 時雨もそれに気づいたのか、からかうように金の目を細める。
「少しは私に慣れてくれたかな?」
「はい……いいえ、その……」
 どちらとも取れる曖昧な返事にも、時雨は苛立つことなく柔らかく微笑んでいる。
「あの……」
「ん?」
「本当に、私が選ばれたのですか?」
 時雨は頷き、凜花の手に触れる。
「――っ……!」
 不意の接触に手を振り払いそうになるのをなんとか堪える。
 しかし、拳をきゅっと握ることは忘れなかった。
 こうすれば、少なくとも手のひらに触れられることはない。
 どれほど丁寧に化粧を施して上等な着物を身に纏ったとしても、下女として過ごす日々で荒れた手だけはごまかせない。
 一方の時雨はかまうことなく凜花の手の甲を包みこんだ。
 その手は大きく、温かい。
「私はずっと、あなたを探していた」
「私を……?」
「ああ。一目見てわかった。あなたこそが私が長年追い求めていた、心から会いたいと望んでいた人だ。――あなたに会えて、本当に嬉しい」
 胸が痛い。心臓がいまだかつてないほど激しく波打っている。
 ――初めてだった。
 こんなにも優しい言葉をかけられたのも、温かな眼差しを向けられたのも。
(わかってる)
 伴侶となるのは凜花ではなく杏花だ。
 誰よりも傲慢で、わがままで、傍若無人。一方で、誰よりも可愛らしく、自尊心に満ちている。そんな姉の光気を纏った凜花を、時雨は選んだ。
「あなたに出会えた奇跡に感謝する」
 とろけるような甘い微笑みを見て、初めて気づいた。
 金だと思われた時雨の瞳は、洋燈の灯を浴びると蜂蜜のような琥珀色にも見える。
 凜花は生まれてこの方宝石というものを見たことがない。
 それでもきっと、彼の瞳の前にはどんな金剛玉石も霞むに違いない。
 本気でそう思えるほどに、凜花を宿す瞳は美しかった。
「私も……」
 声が唇が震える。
 悲しみや恐怖ではない。人は喜びでも泣きたくなるのだと初めて知った。
「私も、あなたにお会いできてよかったです」
 たとえ自分自身に向けられた言葉ではなかったとしても、誰かに望まれる喜びを知ることができた。
 今日ここに来なければ、凜花はこの幸せな感情を知ることはなかっただろう。
 こうして彼と言葉を交わすのはきっと今日が最初で最後。
 凜花と時雨とでは生きる世界が違う。
 だからこそ凜花は、この美しい人を目に焼き付けようと思った。
 彼は、初めて凜花に笑顔をくれた人だから。
「祝言の日が楽しみだな」
 そう言って、時雨は重ねた手に優しく力を込めたのだった。

 凜花が屋敷に戻ると、再び父の書斎に行くように伝えられる。一息つく間もなく書斎に向かうと、そこには両親だけではなく杏花の姿もあった。
「ただいま戻りました」
 椅子に座る三人の前で凜花は絨毯に膝をつく。
 この空間にいるのは、血縁上はまぎれもない親子。しかし、凜花が椅子に座ることはない。彼らと同じ目線になるなんてあってはならないことだからだ。
「ご苦労だったな。それで、選定の儀はどうだった?」
 父の問いにピリッと緊張が走る。三人の視線を一身に浴びた凜花は、体が震えそうになるのを懸命に堪えながら、乾いた口を開いた。
「朝葉時雨様は、お嬢様を伴侶に選ばれました」
 そう告げると、両親は驚きをあらわに目を見開き、杏花は「やったわ!」と勢いよく立ち上がる。
「お父様、お母様、私の言ったとおりだったでしょう? 時雨様が選ぶのは絶対に私だって!」
 選ばれたのは自分だ、と。
 儀式に参加していない姉は何の疑いもなく言い切った。
 杏花は凜花のもとへとやってくると、興奮のまま凜花の両手に触れる。
 姉が自分に触れるのは折檻をする時だけ。それが体に染み付いている凜花は反射的に身を引こうとするが、それより早く、杏花のふっくらと柔らかな手が張りのない凜花の手を包み込む。
「さすがは私の妹ね! おまえならきっとやれると思っていたわ!」
 数刻前に「殺してやる」とのたまったその口で、姉は凜花を「妹」と呼んだ。
「ああ、どうしましょう。こんなに素敵なことがあるかしら!」
「熱があるのだから少し落ち着きなさい、杏花。それにしても、まさか本当に選ばれるとは……困ったことになったな」
 父の意外な言葉に凜花は目を見張る。
 ――困ったこと、なんて。
 朝葉は、政財界に多大な影響力を持ち、財産・家柄ともに申し分ない。長嶺としても朝葉との縁組は喜ばしいことではないのだろうか。
「それについては先ほどもお話ししたでしょう? 私が時雨様の伴侶に選ばれても、この家は凜花が継げば問題ないわ。貴族の中でも継ぐ家のない貴人の男はいるもの。その中からお父様がお選びになって、婿養子にお迎えになればよろしいのよ」
「だが、そうしたところでそれに貴人の子を産めるとは到底思えん」
 こんな役立たずに、と父は吐き捨てる。すると、それを嗜めるように杏花は「お父様」と猫撫で声で父に語りかける。
「何事も始める前から悲観的になるものではないわ。もし凜花と婿殿の子どもが只人だった場合は、貴人の子を産むまで孕ませればいいのよ。お母様もそう思うでしょう?」
「そうね。これにはそれくらいしか使い道はないでしょうし。杏花の言うとおりだと思いませんか、あなた」
 ひとり話題についていけない凜花の前で話は進む。
 ――意味がわからなかった。
(何を、言っているの……?)
 凜花が婿養子をとってこの家を継ぐ。貴人の子を産むまで孕み続ける――?
「む、無理です」
 逆らってはいけない。心を殺して全てを受け入れる。
 それがこの屋敷で生きていくための絶対条件だ。しかし、いかに凜花といえどこの状況で黙っていることなど到底できない。
「私が家を継ぐなんて、そんなこと――」
 できません。
 喉元まででかかった言葉は、パチン! という鈍い音によってかき消された。
 杏花が平手打ちをしたのだ。突然の痛みに凜花は片手でぶたれた左頬を押さえる。すると、今後は空いている方の右頬を叩かれた。
 思わずその場に突っ伏す凜花の頭上に、軽やかな声が降る。
「おまえは、何を言っているの?」
「お嬢様、お許しくださ――ああっ!」
 許しを請おうとすることさえできなかった。
 杏花は凜花の前髪を鷲掴みにして、無理やり顔を上げさせたのだ。
 ぶちっと髪の毛がちぎれる音がする。
「私の代わりに選定の儀に臨んだからといって、何か勘違いをしているのではなくて? 何度も教えたでしょう。おまえはただ『はい』『わかりました』とだけ言えばいいの。だいたい、下女のおまえにこの家を継ぐことを許すと言っているのよ。それを『無理』とはなにごと?」
「お嬢様、私は――」
「躾が足りなかったようね」
 ――躾。
 その響きに全身が凍りつく。
 やめて、怖い、痛いのはもう嫌だ――。
 目の前が真っ暗に染まる。
 恐怖から歯をかちかちと震わせる凜花を前に、杏花は嗤う。
「どうする、凜花? 今の私はとても気分が良いから、ここで素直に受け入れれば許してあげる。でもそうでないのなら……さて、どう躾けましょうね。二度と生意気な口が聞けないように、新しい方法を考えないと」
 髪を掴まれたまま、目尻に涙を浮かべた凜花は救いを求めて両親の方を見る。だがふたりは揃って顔を顰めるだけで、杏花を諌める様子は微塵もない。
(ああ……)
 やはり、彼らにとっての娘は、杏花だけなのだ。
 目の前が真っ暗になる感覚に陥りながら、凜花は項垂れる。
「……お許しください。私が、全て間違っておりました」
「わかればいいのよ」
 ようやく髪を掴んでいた手を離した杏花は、次いで「部屋に戻りなさい」と冷ややかに命じる。
「これ以上おまえの辛気臭い顔を見たくはないわ」
「……失礼いたします」
 おぼつかない足取りで女中部屋に戻った凜花は、布団を頭まで被り、声を殺して嗚咽した。

 時雨の意向もあり結婚式や披露宴は行わず、長嶺の屋敷で身内だけの祝言を挙げることに決まった。
 朝葉側の参列者は時雨だけ。
 当初、父母は「長嶺家と杏花をあまりに軽んじている!」と憤っていたが、結局は時雨の意向を汲むことになった。いかに名門と言われる長嶺家であろうと、御三家かつ純血の貴人を前には逆らえないらしい。
 何よりも、杏花自身がそれでいいと頷いたのが大きかった。
「時雨様の妻になるということは、貴人の女の頂点に立つにも等しいわ。それを思えば祝言なんて瑣末ごとだもの。……ああ、早くお会いしたいわ」
 そう言って頬を染めて祝言までの日取りを指折り数える杏花は、恋する乙女そのものだった。
 選定の儀を終えてからというもの、姉は夜ごと凜花を自室に呼んでは時雨について語らせた。
 彼がどんな姿形をしているか、どんな声をしていて、杏花に扮した凜花とどんな会話を交わしたか――。
 何度だって杏花は聞きたがり、そのたびに凜花は同じ話をした。
「黒の軍服を着た、とても美しい顔立ちをした男性でした。髪は雪のように白く、瞳は金色をしていらっしゃいました。涼やかな声をしておられ、背は私よりも頭ひとつ分ほど高かったように思います」
 それでも、言わなかったこともある。
 時雨との会話を問われた凜花はこう答えた。
「会話はほとんど交わしませんでした。こちらを見て『あなたが私の伴侶だ』『祝言の日が楽しみだ』とおっしゃった後、すぐに部屋を出ていかれましたから」
 嘘は言っていない。しかし、本当のことを全て伝えたわけでもなかった。
『私はずっと、あなたを探していた』
『あなたこそが私が長年追い求めていた、心から会いたいと望んでいた人だ』
 凜花の目をまっすぐ見つめて言われたその言葉だけは、どうしても言えなかった。言いたくないと、自分の心の中だけに留めておきたいと思ってしまった。
 それらは全て「凜花」という形代を通して杏花に向けられたものだ。
 それを理解していてもなお、彼の言葉は凜花の心を震わせた。
 ――誰か、私を見て。
 その凜花の願いを初めて叶えてくれた言葉だったから。

 数週間後、ついに祝言の日を迎えた。
 その日は朝から酷い雷雨が続いていた。
 時雨の到着を目前に控えた今も、屋敷の外からは絶え間なく雷鳴が轟く音がする。
 この時間、本来なら杏花は広間で時雨の到着を待っていなければならない。
 しかし今、姉は自身の部屋にいる。
『時雨様がいらっしゃる前に、凜花とふたりきりで話がしたいわ。最後に姉妹で水入らずの時間を過ごしたいの』
 両親にそう願い、五分間だけ許されたのだ。
 呼び出された凜花は、絨毯に膝をついたまま姉の言葉を静かに待つ。
 選定の儀から今日までずっと杏花の機嫌は良かった。
 その証拠にこの間、凜花は一度も折檻を受けていない。
 その姉が祝言を目前に控えた今、ふたりきりの時間を作るなんて。
(何を企んでいるの……?)
 嫌な予感がする。そしてそれは、往々にして的中した。
「鬱陶しい天気ね」
 白無垢を纏った凜花は顔を顰める。
「せっかくの晴れの日なのに、天気がこれでは嫌になるわ」
 横殴りの雨が硝子窓を激しく叩きつける様を睨め付けた杏花は、チッと舌打ちをする。そのような仕草をしてもなお杏花は綺麗だった。
 常日頃から華のある杏花だが、今日の姉は普段の比ではない。
 完璧な化粧を施し、純白の婚礼衣装を身に纏ったその姿はぞっとするほどに美しい。
 対する凜花は、普段と同じ木綿のお仕着せを着ている。時雨と杏花の式に凜花が参加することはない。いつもどおり下女としての仕事をこなすだけだ。
「ねえ、凜花」
「は、はい」
 ようやく視線をこちらに向けた姉に凜花は上ずる声で返事をする。
「私は綺麗でしょう?」
「はい。とてもお綺麗です」
「そうね。そして、そんな私にとっておまえは唯一の汚点なの。――自分と同じ顔をした出来損ないがこの世に存在すると思っただけで、吐き気がするわ」
 突然、杏花は両手で凜花の首に手をかけた。そのまま爪が食い込むほどの力で締め始める。
「あっ……っ……!」
 苦悶で顔が歪む。頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。
 痛い、苦しい、お願い、やめて――!
「ふん、いい気味」
「けほっ……!」
 首を絞められていた時間はほんの数秒。飽きたように両手を離した杏花は、凜花の体を絨毯に打ちつけ睥睨する。
 そして、紅を引いた唇をにいっとあげて笑うと、白い手を二度叩いた。
 すると突然部屋の襖が開かれる。現れたふたりの男を凜花は知っていた。言葉こそほとんど交わしたことはないものの、いずれもこの屋敷に仕える使用人だ。
「おまえたち。さっさとそれを納屋に連れて行きなさい。夜までは絶対に出してはだめよ」
 その直後、両側から両手を掴まれ無理やり立たされる。
「お嬢様⁉︎」
「さようなら、凜花。せいぜい私の代わりを頑張って務めなさいな」
 呼びかけるが、姉はひらひらと手を振るだけだった。
 そのまま凜花は部屋を引きずり出される。そうして襖が閉められると、「悪いな」と片方から小さな声が聞こえた。
「俺たちもお嬢様には逆らえないんだ。でも、できれば手荒な真似はしたくない」
 男たちはいずれも申し訳なさそうに眉を下げる。
 ――ああ。彼らも、凜花と同じなのだ。
 そう思うと抵抗することはできなくて、凜花は「わかりました」と力なく頷いた。

(寒い……)
 納屋に閉じ込められた凜花は、両手で自身の体を強く抱きしめる。
 しかし、お仕着せはもちろん、下着まで濡れている状況ではなんの気休めにもならなかった。
 そろそろ時雨が到着した頃だろうか。
 姉を見た彼は、きっとその美しさに見惚れるだろう。
 そして、あの夜と同じ瞳で姉を見つめ、同じ声で言葉をかける。
 その様を想像するとなぜか心臓がきゅっと締め付けられた。
(ああ……)
 朝葉時雨。凜花に初めて人に望まれる喜びと笑顔を教えてくれた人。
 彼との束の間の邂逅が走馬灯のように頭を駆け巡る。
『あなたに出会えた奇跡に感謝する』
 あれは、神様がくれた最初で最後の贈り物だったのかもしれない。
 この世に生を受けて十八年。
 生きているのが辛いと思ったことは数え切れないほどあるけれど、自ら死を望んだことは一度もない。しかしこの先、生きていたとしても凜花に待っているのは終わりの見えない地獄だ。
『貴人の子を産むまで孕ませればいいのよ』
 あの日からずっと姉の言葉が脳裏を離れなかった。
 あのとき、あの場にいた誰ひとりとして凜花を人間として見ていなかった。
 ただ、貴人の子を産む胎としてだけ見ていたのだ。
(そんなのもう、人間ですらない)
 娘と認められなくても、家族の一員になれなくても仕方のないことだと諦めた。
 でも、今回ばかりは違う。
(この先の人生を家畜のように生きていくくらいなら……せめて人間として終わりたい)
 そう、初めて自ら死を望みかけた、そのとき。
 突然、納屋の扉が開き――凜花は、息を呑んだ。
 視界に飛び込んできたのは、全身を雨で濡らした時雨だったのだ。
 どうして、なぜ。
 祝言に臨んでいるはずの彼がここにいる――?
 納屋の閂を手にした時雨は、座り込む凜花を見て唖然としたように目を見開く。だがそれは一瞬だった。瞬きの後、金の瞳に燃えるような怒りが宿る。
「誰が、こんな酷いことを――」
「朝葉、様……?」
 震える声で名前を呼ぶと、時雨は閂を投げ捨て凜花に手を差し伸べる。
 その手が凜花の頬に触れる直前。
「時雨殿!」
 雷鳴にまぎれて大きな声が耳に届いた。
 ふたりが声の方に目を向けるのと、激しい雨を全身に浴びて激昂する父が時雨のもとに到着したのは同時だった。
「いったい何を考えておられる! 突然飛び出してこんなところにくるなんて、気でも狂われたか⁉︎」
 叫ぶ父の後ろでは、白無垢の裾を両手で掴み、鬼の形相でこちらに向かってくる凜花が見える。
「それはこちらの台詞です」
 そんな姉には一瞥もくれず、時雨は言った。
「なぜ、私の伴侶がこのようなところに閉じ込められているのですか」
「何をおっしゃっているの⁉︎」
 応えたのは父ではなく、追いついた杏花だった。
 純白の白無垢は跳ねた泥により見るも無惨に汚れている。
 全身をびしょ濡れにした杏花は父を押し除け、時雨の前に進み出た。
「あなたが選んだのは私でしょう⁉︎」
「黙れ」
「なっ……!」
 凜花を背中に庇い、時雨はすうっと目を細める。
「確かにおまえの光気には見覚えがある。おおかた、ここにいる彼女と入れ替わっていたんだろう?」
「そ、それはっ……!」
「その理由は聞かないし、興味もない。だが勘違いをするな。私が選んだのはおまえではない」
 全身を雨に打たれながらも時雨は微動だにすることなく、ピシャリと言い放つ。
 彼が放つ圧倒的な威圧感に凜花は震えた。
 時雨が恐ろしく感じたのではない。
 多分、生き物としての格の違いを本能で感じ取ったのだと思う。
 それは両親も同じだったのか、ふたりは顔を打ちつける雨を拭うこともできずに蒼白な顔でその場に立ち尽くす。
 しかし、杏花だけは違った。
「意味がわからないわ! それは貴人ではない、只人よ! それなのに時雨様の伴侶だなんてありえないでしょう⁉︎」
 拳を握りしめて激昂する杏花とは対照的に、時雨は冷静だった。
「もう一度だけ言う。――そのやかましい口を閉じるんだ」
 時雨はこれ以上の発言は許さないとばかりに吐き捨てる。
 そして、再び凜花の方を振り返った彼は、痛ましそうに顔を歪めた。
 時雨はおもむろに軍服の上着を脱ぎ、凜花の肩に羽織らせる。
「濡れているが、ないよりはましだろう」
「い、いけません! 汚れてしまいます!」
「かまわない」
 一蹴した時雨は、慌てふためく凜花の体をふわりと抱き上げる。突然の浮遊感に咄嗟に両手で彼の胸にしがみつけば、「それでいい」と柔らかな声が耳に届いた。
「そのまま私に掴まっていなさい。――長嶺殿」 
 凜花を抱いた時雨は、氷のように冷たい声色で父を呼ぶ。
「当初の予定どおり彼女をもらい受けます。かまいませんね?」
「それは……!」
 食い下がる父に、時雨は「状況がわかっていないようですね」と吐き捨てる。
「この上まだ私を謀るつもりですか? そちらがそのつもりなら、私は朝葉の名のもとに相応の手段を取らせていただくが、よろしいか」
「っ……!」
 只人の凜花には、自分以外の彼らが纏う光気は見えない。
 それでも、今なら選定の儀式の際に一斉に平伏した令嬢たちの気持ちがわかる。
 それほどまでに今この場における時雨は圧倒的だった。
 彼の威圧を正面から受け止めた父は、今にも倒れそうな青い顔をしている。
 その体はいっそ哀れなほどに震えていた。
 母にいたっては、声を発することもできずに直立している。
「……わかりました。お連れください」
「お父様⁉︎」
 まさか父がそう答えるとは思わなかったのか、杏花が悲鳴をあげる。
「何をおっしゃっているの⁉︎ その役立たずが、どうして――」
「『役立たず』?」
 反芻する時雨に、杏花は興奮のまま「そうよ!」と叫んだ。
「それは何の役にも立たない愚図の只人よ!」
 激昂する杏花がなおも凜花を罵倒し続ける中、時雨は凜花にだけ聞こえるほどの小さな声で囁いた。
「耳を塞ぎなさい」
 そして彼が天高く右手を掲げた次の瞬間、曇天の空に目が眩むような稲光が一斉に走った。その直後、地面が裂けるような轟音がその場一体に轟く。
 ――雷が、すぐ近くの木を直撃したのだ。
 あまりの衝撃に、その場にいた時雨以外の全員がぬかるむ地面に座り込んだ。
 見ると、屋敷の庭の中でも一際立派な杉の木が真っ二つに折れている。
「ただの貴人風情が、私の伴侶を愚弄するのか」
 再び時雨が手を掲げようとしたのを見た父は慌てて杏花を制する。
「黙りなさい、杏花!」
 泥に染まった白無垢を纏う杏花は、地面に座り込んで駄々っ子のように首を横に振る。
「そんな……でも、だって!」
「いいから、もうやめなさい!」
 それでも父が引かないことに杏花は唇をきゅっと引き結び、射殺さんばかりに凜花を睨んだ。
「っ……!」
 怒りに満ちた眼差しに凜花は呼吸を忘れる。だがそれは一瞬のことだった。背中に回された時雨の手が凜花の後頭部に触れ、そっと彼の胸元に引き寄せたのだ。
 まるで、もう何も見なくてもいいというように。
「今日のところはこれで失礼します」
 時雨は凜花の視界を覆ったまま歩き出す。
「もう、大丈夫だ」
 雷鳴と雨音に混じって聞こえたその声を最後に、凜花は意識を手放した。



 凜花は誰かと触れ合った経験がほとんどない。
 姉が両親に頭を撫でられ、抱きしめられているのを凜花はいつも遠目から見つめることしかできなかった。
 だからこそ、軍服越しにもわかった逞しい腕や、頭を支える大きな手のひらに体は初め驚いた。しかし、体の強張りはすぐに解けた。
 それでいい、と微笑んだ時雨がとても優しい声をしていたから。
『もう、大丈夫だ』
 その言葉を耳にした瞬間、体の内側からはどうしようもない安心感が生まれた。
 ――これが夢なら二度と覚めなくてもいい。
 本気でそう思うほどに、胸が満たされたのだ。
「ん……」
 だから、目覚めた凜花は初め、まだ自分が夢の中にいるのだと思った。
(ここは……)
 ゆっくりと重い瞼を開ける。
 真っ先に視界に飛び込んできたのは、染みひとつない天井だった。
 そこからはきらきらと眩い光を放つシャンデリアが下げられている。
 そういえば、今自分が横になっている寝具や枕も信じられないほどにふかふかだ。使い慣れた煎餅布団ではない。
「天国……?」
 薄暗く黴臭い女中部屋とは明らかに違うその景色に呟いた、そのとき。
「縁起でもないことを言わないでください。勝手に召されては困ります」
 呆れたような声が耳に飛び込んでくる。驚いた凜花が身じろぎをするより早く、声の主は姿を現した。
「あなたは――」
 仰向けの凜花を覗き込んだその人物は、ムッとしたように顔を顰めた。
「もう忘れたのですか?」
 輝くような金の髪や鮮やかな緑の瞳を忘れるわけがない。
 選定の儀の日に凜花と出迎えた少女、みどりだ。
 しかし、あの夜と違って今の彼女には表情がある。人形のように淡々としていたのとは別人のような姿にぽかんとしたのは一瞬だった。
 みどりが目の前にいる。
 その事実に寝起きでぼんやりとしていた思考は一気に晴れた。
 まず間違いなくここは時雨の別邸。ならば、自分が先ほど見たのは夢ではない。
「あの、私っ……!」
 現実に引き戻された凜花は急いで起き上がろうとする。
 しかし、上半身を起こそうとしただけで視界が揺れた。耐えきれずに再び寝台に倒れ込めば、「何をやっているんですか」とみどりは眉を顰めた。
「急に動いたらそうなるに決まってるでしょう。丸一日寝込んでいたんですから」
「寝込んでいた……?」
「そうですよ」
 ため息をついたみどりは、凜花の背中に手を差し込み上半身を起こすのを手伝ってくれる。
「ありがとうございます」
 下女の自分が他人に世話を焼かれる日が来るなんて、と落ち着かない気分になりながらも礼を伝えると、なぜかみどりは怪訝そうに眉根を寄せる。
「端的に説明します。ここは選定の儀を行なった時雨様の別邸です。昨日、時雨様は意識を失ったあなたを連れて帰ってきました。あなたは酷い熱で、今の今までずっと意識が戻らずにいたんです」
 状況は理解できましたか、と確認された凜花はこくんと頷く。
(朝葉様が助けてくださった……)
 はっきりと意識が覚醒した今、あのときの状況が一気に頭の中で思い返された。
 両親や姉に厳しい言葉を投げつけたことも、落雷が杉の木を真っ二つにしたことも、全て。
(でも、どうして?)
 時雨が伴侶に選んだのは杏花のはず。それなのになぜ凜花を助けてくれたのか。
 わからないことが多すぎるが、今は真っ先にしなければいけないことがある。
「あの……」
 恐る恐る声をかけると、「なんです?」とやけにツンツンした声が返ってくる。
「朝葉様にお礼を申し上げたいのですが、今はどちらにいらっしゃいますか?」
 時雨の意図はともかくとして、まずは助けてくれた礼を言わないと。
 そう思っての問いだったのだが、なぜかみどりは呆気に取られたように目を瞬かせる。前回と本当に印象が違うな、と内心思いながらも凜花は首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「どうって……選定の儀の時と態度が違いすぎませんか」
「それを言うならあなたもそうだと思いますが……」
「私はいいんです。これが素ですから。でも、あなたは? 選定の儀と今、どちらが本当なんですか?」
 警戒心をむき出しのみどりにどう答えたものか、と逡巡したときだった。
「そこから先は私が聞こう」
 不意に入口の扉が開く。
 凜花とみどりが同時にそちらを見ると、扉に背中を任せて腕を組んだ時雨が立っていた。白いシャツにズボン姿の彼は、目を見開く凜花を見て顔を綻ばせる。
「女性の部屋に許可なく入ってすまない。部屋の中から声が聞こえたものだから起きているのかと思ってね」
 時雨がみどりに目配せをすると、彼女は小さく頷き部屋を出ていった。そうして時雨とふたりきりになった凜花は、考えるよりも先に動いていた。
 ――お礼を言わないと。
 その一心で寝台から滑り出た凜花は絨毯の上に平伏する。直後、「何をしている⁉︎」と驚愕する声が聞こえたけれど、凜花はかまわず頭を下げた。
「私を助けてくださいましたこと、心より感謝申し上げます。本当に……本当にありがとうございました」
 絨毯に額がつくほど深く礼をすると、すぐにつかつかとこちらに向かって歩いてくる足音がする。それは凜花のすぐ近くでぴたりと止まった。
「やめなさい。顔を上げるんだ」
 促された凜花はおそるおそる顔をあげると、困ったように眉を下げる時雨と視線が重なった。
「あなたがそのようなことをする必要はない。だから、立ちなさい」
「でも――」
「いいから」
 命じられた凜花は、両足に力を入れて立ちあがろうとする――が、うまく体の重心が取れずにふらついた。すると、時雨がすかさず抱き止めてくれる。
「失礼いたしました……!」
 時雨のシャツにしがみついてしまった凜花が三度謝罪しようとすると、それより早く「まったく……」と頭上で時雨が呟いた。
「だから言っただろう。丸一日寝込んでいたのに、突然動いたらふらつくに決まってる」
 ひゅっと喉の奥が鳴った。
 他人に呆れられるのなんて慣れ切ったことなのに、改めて時雨の口から漏れたため息に自分でも信じられないくらい胸が痛む。
「申し訳ありません……」
「ああ、いや。別に責めているわけじゃない。とにかく今は安静にしないと」
「きゃっ!」
 ふわり、と体が浮く感覚がした。時雨が凜花を横抱きにしたのだ。そのまま流れるように寝台に座らされる。異性との接触に自然と体を固くした凜花は、ここにきてようやくあることに気づく。
 ――見覚えのない服を着ている。
 納屋に閉じ込められたときに着ていた、つぎはぎだらけの木綿のお仕着せではない。真っ白なドレスのような洋装は、杏花の寝衣によく似ている。
 いったい、いつの間に。
 凜花が固まっていると、寝台近くの椅子に腰掛けた時雨が「安心しなさい」と苦笑する。
「着替えさせたのはみどりだ。私はあなたの肌には触れていないよ」
「そのような意味では……!」
 こんなにも上等なものを自分が着ていることが信じられなかっただけだ。
 誓って時雨の無体を疑ったわけではない。しかし、何を言っても失礼にあたるような気がした凜花は再び「ごめんなさい」と口にすることしかできなかった。
 成人にもなって、まともな会話ひとつできない己の情けなさが嫌になる。
 ――こんなだから愚図だ無能だと言われてしまうのだ。
 杏花のふりをしなければ、自分はまともに相手の目を見ることもできない。
「……本当に申し訳ありません」
 馬鹿のひとつ覚えのように謝罪の言葉を繰り返す。そうしたところで時雨を困らせるだけだとわかっていても、それ以外の他人との関わり方を凜花は知らない。
 特に姉に対しては、謝罪の機会を一度でも逃したが最後、躾という名の激しい折檻が待っていたから。
「謝罪は十分聞いた。だから、いったん謝るのは終わりにしよう」
「すみま――」
「ほら、また」
 指摘しつつも時雨が気分を損ねた様子もなく、苦笑混じりに口を開いた。
「まずは私の話を聞いてほしい。その上で不明な点や気になる点があればなんでも答えよう。いいね?」
「……はい」
 頷きながらも凜花は信じられない気持ちでいた。
 自分とまともに話をしようとしてくれた人は、時雨が初めてだ。
 困惑を隠しきれない凜花の前で、時雨は形の良い唇をゆっくりと開く。
「ここが私の屋敷で、君を連れ帰った日から丸一日経過したことは聞いた?」
「……はい。先ほど、みどり様が教えてくださいました」
 すると、時雨はなぜかくっくと笑う。
「みどりに敬称や敬語を使う必要はない。多分、あの子もそれを嫌がるだろう」
 ――あの子。
 親しげな物言いに少しだけ引っかかったものの、凜花がそれに触れることはない。
「まずは、祝言の日の出来事について話そうか。あの日、私が長嶺邸に向かうと私の伴侶を名乗る女が待っていた。長嶺伯爵に娘がふたりいたことは知らなかったが、姿形からしてあなたとあの女は双子か?」
「……はい。彼女は、姉の杏花です。選定の儀には、体調を崩した姉に代わって私が参加いたしました。只人にも関わらず貴人に扮して朝葉様を騙したこと、心よりお詫びいたします」
 もう一度土下座したい気持ちを堪えながらも謝罪をする。しかし朝葉はまるで気にしたそぶりもなく「問題ない」と言い切った。
「そもそも私は騙されていないからな。あなたが貴人でないことや、他人の光気を纏っているのは初めから気づいていた」
 凜花はひゅっと息を呑む。
「初めから、ご存じだった……?」
「自分で言うのもなんだが、これでも純血の貴人なのでね。他の令嬢たちはごまかせたようだが、私からすれば子供騙しのようなものだ」
 苦笑して肩をすくめる時雨に凜花は今度こそ絶句する。
「全てわかった上で私はあなたを選んだ。姉ではなく、貴人ではないあなた自身を」
 ――信じられなかった。
 脳裏に過ぎるのは、選定の儀の時に紡がれた言葉の数々だった。
 会いたかったと、探していた……と時雨は言った。
(じゃあ、あれは本当に私自身に向けられていたの……?)
 全てを手にする杏花ではなく、何も持たない只人の自分を、彼が選んだ?
「あなたは、純血の貴人がどのように伴侶となる女性を選ぶか知っているか?」
 凜花は無言で首を横に振る。
「血で選ぶんだ」
「血……?」
 そういえば、儀式に望む前に血を一滴誓約書にたらした。
「で、ですが、私は貴人ではありません……」
「ああ。だから私も初めは驚いた。純血の貴人の伴侶は、当然貴人だと思っていたから。だから、これまでの儀式には貴人の令嬢しか招いてこなかったんだ」
 数百年ぶりの貴人ということもあり、儀式については文献で得た知識しかないのだ、と時雨は言った。
「みどりが持ってきた誓約書を見たときは目を疑った。一目で今までとは違うと感じたから。それは、本物のあなたに会って確信に変わった。――私が長年求め続けてきた伴侶は、あなただ」
 時雨が右手で凜花の頬に触れた。皮膚を通じて感じる温もりに不思議と涙が出そうになる。
「信じられない?」
「……はい」
「なぜ?」
「だって……私のような者が朝葉様の伴侶だなんて……」
 貴人でも貴族でもない。
 両親や姉からは存在自体疎まれ、家畜のように思われている役立たず。
 それが、長嶺凜花という存在なのだから。
「どうにもあなたは、自分を過小評価するきらいがあるようだな」
 さてどうしたものか、と時雨は考え込むそぶりする。
「貴人の中には読心を得意とする者がいるが、あいにく私は精神系の力は使えない。だが……そうだな、ほら」
 頬に触れていた時雨の手のひらがそっと凜花の首筋に触れる。すると、まるで湯たんぽのような温かさを皮膚に感じた。
「こんなふうに治癒の力は使える」
 ――まさか。
 凜花は、先ほどまで時雨が触れていた場所に己の手を当てて――驚いた。
 祝言の日、姉の手によって抉られた皮膚がもとに戻っていたのだ。
「私は、任務以外で治癒の力を使うことはほとんどない。あなたにそうするのは、私の唯一無二の伴侶だからだ」
「朝葉様……」
「一度に全てを飲み込むのは難しいと思う。しばらくの間は、私の婚約者としてこの屋敷に滞在するといい。ご実家には私から話を通しておく。入籍をするのはあなたの気持ちが定まってからでかまわない。それでも、これだけは頭に留めておいてほしい。私が選んだのは貴人の長嶺杏花ではない。あなた自身だ」
 時雨は凜花をじっと見据える。その眼差しからは嫌悪も、憎悪も、悪意も――凜花が今まで一身に受けてきた負の感情は一切感じられなかった。
 蜂蜜色にも琥珀色にも見える神秘的な金の瞳に映るのは、自分だけ。
 その事実にたまらなく胸が締め付けられる。
「でも……私には、朝葉様にお返しできるものが何一つありません……」
「かまわない」
 答えは明瞭で、簡潔だった。
「私があなたに求めることはただひとつ。――私のそばにいてほしい」
「っ……!」
「あなたはただこの屋敷で自由にのんびりと過ごせばいい。望むのは、それだけだ」
 次いで時雨は思い出したように「ああ、そうだ」と目を瞬かせる。
「私としたら、肝心なことを忘れていた」
「なんでしょう?」
「あなたの名前は?」
 ここにきてようやく名前を名乗っていないことに気づく。
「凜花……凛々しい花と書いて、凜花といいます」
 父は何を思ってこの名前をつけたのだろう。
 凛々しさも花のような美しさも、自分は何ひとつ持っていないのに。
 そう思っていたからこそ、続く時雨の言葉は意外なものだった。
「――凜花。あなたに相応しい素敵な名前だ」
「え……?」
「私のことも、名前で呼んでほしい」
「……時雨様?」
 恐れ多さを感じながらもそう呼べば、時雨は満足そうな顔をする。
「それでいい。そう遠くない未来、あなたも『朝葉』になるのだから」
 そう言って、時雨はとても優しい顔で微笑んだ。

「――色々なことを一度に聞いて疲れただろう。今は自分の体を休めることを第一に考えなさい。私は、傷は癒せても体力を与えることはできないから」
「……はい」
 かろうじて聞こえるほどの声に、時雨は微笑んだ。
「それでは私はこれで失礼する」
 扉を閉めた時雨は、部屋の前に控えていたみどりに視線を向ける。
「彼女を頼んだ。……あとで、私の書斎に来てくれ」
「承知いたしました」
 時雨と入れ替わりにみどりが部屋の中に入っていく。
 そうしてひとりになった時雨は、引き結んだ唇を強く噛む。
 そうでもしないと感情を制御できないほどの苛立ちが体の中を渦巻いていた。
 書斎に到着すると、身を投げ出すように椅子に座り込む。
「……くそっ」
 口汚く吐き捨てた時雨は、右腕で目を覆い天井に仰ぐ。
 視界を暗くすることでなんとか気持ちを鎮めようと試みるが、絨毯に突っ伏す凜花の姿がありありと思い浮かんで、とてもではないが落ち着かない。
 彼女は息するように謝罪をし、平伏をした。
(……胸糞悪い)
 無論、凜花にではなく、彼女がそうなるにいたったであろう背景に対してだ。
 ――凜花が長嶺家でどのような扱いを受けていたのか。
 聞くこと自体が彼女の負担になるかもしれないと、先ほどはあえて問わずにいた。しかし、おおよその見当はつく。
 まず間違いなく、凜花はろくな扱いは受けていなかっただろう。
 時雨自身は経験したことはないが、いたずらが過ぎた子どもへの罰として、納屋や蔵に閉じ込めることがあるのは知っていた。
 しかし、あのような雷雨の日に素足で納屋に……なんて常軌を逸しているとしか言いようがない。
(それに比べて、姉の方は随分と甘やかされていそうだった)
 祝言を挙げるべく長嶺家を訪ねた日のことを思い出す。
 本物の長嶺杏花を見た時雨は、瞬時に「違う」と思った。
 ――この女は貴人だ。
 しかし、時雨が選んだのはごく普通の貴力を持たない人間だった。
 確かに目の前の女は選定の儀のときと同じ。纏う光気はもちろん、姿形や声もそのままだ。それらの事実に時雨は真っ先に身代わりを考えた。
 だから、聞いた。
『私の選んだ伴侶はどこにいる?』
 それなのに目の前の女ときたら、けらけらと笑いながら答えたのだ。
『何をおかしなことをおっしゃっているのですか? 目の前にいるではありませんか。時雨様は冗談がお好きなのですね』
 時雨様、と。
 許したはずのない名前で女に呼ばれた瞬間、吐き気がした。
 どんなに整った顔をしても人の性根は顔に出る。
 事実、なんの汚れもない純白の花嫁衣装を纏った女の顔からは、気の強さと意地の悪さが滲み出ていた。
『こんな茶番に付き合っている暇はない。もういい、私が自分で探せばいいだけだ』
 制止の声も聞かずに広間を出た時雨は、五感を研ぎ澄ませた。
 女と同じ顔をしていた以上、儀式で会った彼女はまず間違いなく長嶺伯爵の娘で、双子だろう。ならば屋敷のどこかにいるはずだと思ったのだ。
 ――そして見つけた彼女は、見るも無惨な有様だった。
 青ざめた髪や顔はもちろん、見るからに粗末な着物をびしょ濡れにした彼女の首には、何者かに絞められたような傷跡があった。その上、足元は何も履いておらず、爪先には泥がついている。
 信じられなかった。同時に、視界が揺らぐほどの怒りが湧き上がった。
 一刻も早く助けないと、と動こうとした時雨だが、愚かにも長嶺伯爵はその邪魔をした。それだけではない。女は言ったのだ。
『役立たず』『愚図』、と。
 泥で汚れた白無垢の方がよほど似合いだと思うほどに、女は醜悪だった。
 そして確認すると、やはり女は凜花の実の姉だという。
(私なら、妹にあのようなことは絶対にしない)
 拳を強く握りしめたそのとき、書斎の扉が叩かれる。
 入室を許可するとみどりが静かに入ってきた。机の前に立ったみどりは厳しい表情をしている。きっと、今の自分も同じような顔をしているだろう。
「彼女はどうした?」
「あの後、白湯を湯呑みの半分ほど飲んで、今は眠っています」
「……そうか。おまえは彼女をどう思う?」
「どう、とは」
「先ほどの態度を見て何を感じた? 演技だと思うか」
 みどりは「いいえ」と首を横に振る。
「それにしては手が込みすぎているかと。それに、平伏することに慣れているように感じました」
「……やはりおまえもそう感じたか」
 意見は一致した。
「彼女については私の方で少し調べてみる。おまえには身の回りの世話を頼みたい。彼女が望んだことは、可能な限りどんなことでも叶えてやってくれ。金に糸目はつけなくていい」
「承知いたしました。ですが……ひとつだけお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
 一拍の後、みどりは言った。
「時雨様は……あの方を好いておられるのですか?」
「好く? 私が、彼女を?」
 思わぬ質問に漏れたのは、乾いた笑み。
「おまえもわかっているだろう。彼女は私の番だ。それ以上でもそれ以下でもないさ」

 時雨の別邸で目覚めた翌朝。
 靄のかかった頭のままぼうっと瞼を開けた凜花は、気だるい体をゆっくりと起こす。 
(なんだか、すごく眠い……)
 寝起きは良い方なのに、と思いつつもぼんやりと辺りを見渡して、ハッとする。
「ここは……」
 女中部屋とは広さも調度品の豪華さも何もかもが異なる部屋の様子に、一瞬にして昨日の出来事が思い出された。
(そうだ……昨日、朝葉様とお話をして……)
 白湯を飲んだ直後に強烈な眠気に襲われて、そのまま意識を手放してしまった。結局そのまま熟睡してしまったようだ。
 ――まだ、夢の中にいるようだ。
 こんなにも素敵な洋室のふかふかの寝台で寝ていることも、時雨の選んだ伴侶が自分だということも、昨日の今日ではとても受け止めきれていない。
 しかし、呆けていられたのは寝台横のテーブル上の置き時計を見るまでだった。
「いけない……!」
 すでにいつも起きる時間より二時間も遅い。長嶺にいた頃なら完璧な寝坊だ。
 凜花は急いで足元に置かれていた室内履きに足を通そうとする。だがその直後、視界が揺らいだ。
「あっ……」
 くらり、とめまいにも似た感覚に立つことができずに寝台の上に座り込む。
(何……?)
 うまく体に力が入らない。
 体がまだ寝ぼけているのだろうか。
(――しっかりしないと)
 眠っている間のことは当然覚えていないが、凜花はもう丸二日も休んでいたことになる。これ以上の迷惑はかけられないと、重い体でなんとか立ち上がる。
 そして部屋を出ようとしたところであることに気づく。
 今の自分は真っ白な洋装を着ている。
 袖、裾ともに覆われているため露出は少ないが、寝衣であることには変わりない。そのような姿で部屋を出ていいものだろうか。
 かといって、このままみどりが来るまで惰眠を貪ることなど到底できない。
 時雨は彼女を凜花の世話役にすると言っていたが、とんでもない。
 今までずっと凜花は他人の世話をしてきた。そんな自分が、昨日今日でまったく反対の立場になれるほど図太くはなれなかったのだ。
 正直、「みどりの世話をしろ」と言われた方がよほど納得がいくくらいだ。
 まずは、彼女を探して何か仕事がないかを聞いてみよう。
 そう決めた凜花がドアノブに手を伸ばしたのと、外側からノックされたのは同時だった。
「は、はい!」
「私だ。朝早くにすまないが、入ってもいいか?」
 扉の向こうから聞こえてきたのは、まさかの時雨の声。
「も、もちろんです」
 ――私相手に許可を求めるなんて。
 内心驚きながらも凜花が一歩下がると、ゆっくりと扉が開く。
「おはよう」
「おはようございま――」
 言いかけて、声は止まってしまった。
 現れた時雨は、一部の隙もないほど完璧な姿をしていたからだ。
 儀式の時と同じ黒の軍服を纏った彼は、昨夜は下ろしていた前髪をすっきりと上げている。顕になった額の形といい、すっと通った鼻筋や形の良い唇といい、目の覚めるような顔立ちだ。
「どうかしたか?」
「い、いえ……なんでもありません」
 あなたの顔に見惚れていました、なんて言えるわけがない。
「このような時間まで寝ておりまして申し訳ありません」
 寝坊したことを謝罪する。対するなぜか時雨は困ったように眉を下げるが、特に何かを言うことなく上着の衣嚢からあるものを取り出した。
「出仕前にこれを渡しておこうと思ってね。手を出してごらん」
「は、はい」
 両手を天井に向けると、手のひらに小袋が乗せられる。
 目を瞬かせる凜花に、時雨は中を確認するよう促す。素直に紐を解いて中身を手のひらの上に取り出すと、とても綺麗な蜂蜜色の石が現れた。
「これは……琥珀、ですか?」
「似ているけど違う。それは水晶だ」
 水晶、と凜花は小さく反芻する。
「姉との入れ替わりでも使ったはずだが」
「……私の知っている水晶は、このような色ではありませんでした」
 凜花と入れ替わりの際に必ず渡されたものは、無色透明だった。
「普通、多少の貴力を込めたところで水晶の色が変わらない。あなたが持っているそれに色が付いているのは、それだけの量の貴力を私が注いだからだ」
 時雨は穏やかな声で続ける。
「要は、お守りのようなものだ。持っていれば、いざという時に私の貴力があなたを守ってくれる」
「お守り?」
「ああ。ただし、普段は決して人目に触れぬよう小袋に入れて肌身離さず身につけておいてほしい。その袋から出していいのは、あなたの身に危機が迫ったときだけだ」
「なぜ、ですか?」
「その小袋は封印に長けた貴人が作った特別製で、光気を遮断する効果を持っている。小袋に入っているかぎり、あなたが私の伴侶だと気づかれることはない」
 純血にして次期公爵家当主である時雨は、普段から何かと注目を浴びることが多い。婚約者という立場の今、あえて凜花自身が注目を浴びる必要はないだろう、と時雨は言った。
「それでも忘れないでほしい。これを渡すのは、あなたが私にとって特別な人という証でもある」
 特別。その一言に、心臓がドクンと音を立てる。
 ――ありがとうございます。
 そう、言えたらいいのに。
「本当に……いいのですか?」
 口をついて出たのは、確認の言葉だった。
 ――私が、このようなものを持っていてもいいのだろうか。
 相応しくないと――申し訳ないという気持ちが先に立って、声は情けなくも震えてしまう。
「いいんだ」
 大きな手のひらが水晶ごと凜花の手を包み込む。
「私があなたに持っていてほしいだけだ。難しく考える必要はない」
 低く心地よい声に、後ろ向きだった凜花の心が浮上する。
 この水晶の価値がいかほどか、凜花は知らない。
 それでも、純血の貴人の貴力を注いである以上、天井知らずであることは間違いなかった。それを自分のようなもののために用意してくれた――凜花のことを考えてくれたという事実に胸が震えた。
「……贈り物をいただくなんて、初めてです」
 感動から声を漏らすと、時雨は目を見張った。
「初めてって……成人祝いは?」
「ありませんでした」
 凜花は首を横に振る。
「だから……本当に嬉しいです」
 心からの感謝を伝えた凜花は、小袋にしまう前にもう一度手のひらの上の水晶をじっと見つめる。
「時雨様の光気は、こんなにも輝いているのでしょうか」
「え?」
 目を見開く時雨の瞳と、水晶はとてもよく似た色をしている。
「時雨様の瞳と同じ色ですね。本当に綺麗……」
 うっとりと水晶を見つめていた、そのとき。
「あなたは……私の瞳が、綺麗だと思うのか?」
 なぜか上ずる声で問う時雨に、凜花は迷うことなく頷いた。
「はい。私が今まで見た中で、もっとも美しい色です」
 これに対して時雨はただ一言「そうか」と呟く。そして、言葉少なに「行ってくる」と部屋を出ていった。
 ひとり部屋に残った凜花は、扉が閉まる音にハッとする。
「お見送りの挨拶をしなかったわ……」
 ――いってらっしゃいませ。
 そう言えたらよかったのに、と思っていると、時雨と入れ替わるようにみどりがやってくる。開いたままの扉。その前にぽかんと立ち尽くす凜花を見た彼女は、人形のように精巧な顔をムッとしかめた。
「こんなところで何をしているんですか? まだ本調子ではないのだから、寝ていないとだめでしょう。ほら、早く寝台に戻る!」
 みどりは容赦なく凜花の背中を押す。ぐいぐいと寝台へと追いやられた凜花は、勢いに押されるままふかふかの寝具の上にぽすんと腰かけた。
 すると、みどりは「まったくもう」とこぼしながら、白い手を凜花の額にあてる。もともと体温が低いのか、ひんやりとした感触が気持ちいい。
「熱は……なさそうですね」
「あの、みどり様」
「『みどり』」
 呼んだ直後に訂正される。
「私はあくまで使用人。敬称は必要はありません。年もあなたより年下です」
「……何歳なのですか?」
「十五です。それと敬語も不要です。時雨様もそうおっしゃっていませんでしたか?」
「言われました、でも――」
「それならそのとおりにしてください」
 厳しい口調で嗜めながらも、みどりは上掛けを凜花の肩に羽織らせてくれる。その手つきはとても丁寧で、言葉とはまるで裏腹だ。
(なんというか……とても可愛い人、かも)
 寝台に寝かせるのも、熱を測るのも全ては凜花の体調を思ってのことだ。
 ――こんなふうに、誰かに手を焼かれる日が来るなんて。
 今日まで、熱が出ようと怪我をしようと凜花を心配する者は誰もいなかった。
 凜花自身、いつ、どの瞬間に杏花の呼び出しがあるかわからないから、どんなに体調が悪くてもそれを表に出すことはしなかった。
 弱った姿を見せたが最後、美しい姉は嬉々として追い討ちをかけてくるから。
「……何を笑っているんですか?」
 だからこそ、心配されることがくすぐったくて……嬉しくて、頬が緩む。
「なんでもありませ――なんでも、ないわ」
 たどたどしくも敬語をやめると、みどりは「それでいいんですよ」と視線を逸らす。その耳が少しだけ赤いことに気づいたが、凜花は指摘することなく微笑んだ。

 それから数日間、凜花は一日の大半を与えられた部屋で過ごした。
 よほど体が疲れていたのか、それとも気が緩んだのかはわからない。
 ただ、自分でも驚くほどの倦怠感と眠気に襲われた。
 とにかく一日中体が重たくてたまらないのだ。
 特に酷いのは朝で、実家にいた頃は屋敷の誰よりも早く起きていたのに、みどりに声をかけられるまで自分で起きることすらできない。
 しかし、そんな凜花を時雨もみどりも「怠惰だ」と叱ることはなく、むしろ労ってくれた。 
『とにかく今は自分の体を休めること、体力をつけることを第一に考えなさい』
 時雨のその言葉に従うように、みどりは徹底的に凜花の世話をした。
 着替えはもちろん、髪を梳かしたり、肌を拭いたり……とまるで凜花を本物の貴族令嬢のように扱ったのだ。
 一方で、時雨とはお守りを渡されたのを最後に一度も顔を合わせていない。
 みどり曰く、彼は朝早く出仕して日付が変わってから帰ってくるような生活を何年も送っているらしい。
 世話になっている以上せめて見送りか出迎えだけでもしたいと思ったのか、どうしても睡魔には勝つことができなかった。
 この間、みどりはこの屋敷について簡単な説明をしてくれた。
 今から三十年ほど前。現在の朝葉家当主である時雨の父が、時雨の母のために建てたのがこの瀟洒な洋館だという。
 それを時雨は十八歳の成人を機に父から譲り受け、以降今日まで本邸ではなくこの屋敷で暮らしているのだとか。
 現在、別邸に住んでいるのは時雨とみどりのふたりだけ。
 広い屋敷の手入れをするのに、使用人がみどりひとりでは大変ではないのか。
 凜花のその疑問にみどりは『問題ありません』とあっさり答えた。
『時雨様の指示で、日常的に使う部屋以外は全て閉ざしているので。空気の入れ替えは定期的にしていますし、そもそもこの屋敷にお客様はめったにいらっしゃいませんから』
 続けてみどりは、時雨はこの屋敷に他人を入れるのが嫌いなこと、選定の儀が唯一の例外なのだと話した。
 それなのに、時雨は凜花がここで暮らすことを許してくれた。
 ――凜花が、彼の伴侶だから。
 純血の貴人は血で伴侶を選ぶと時雨は言った。
 しかし、それが自分だということを、頭では理解できても納得するのは難しい。
 たちの悪い冗談だと言われた方がよほどしっくりくる。
 それでも、時雨が凜花を選んだのであれば、間違いはないのだろう。
 しかし、凜花には彼の伴侶として何をすればいいのかがわからない。
 姉との入れ替わりの経験で、貴族令嬢としての振る舞い方はそれなりにわかっている。とはいえそれは付け焼き刃のようなもので、結局のところ凜花はどこまでいっても下女なのだ。
(私が、時雨様の力になれることはあるのかしら……)
 人生で初めて与えられた穏やかな休息の中、凜花は何度も考えたけれど答えは見つからなかった。
 それでも時雨のために何かできればいいのに、と凜花は思った。
『私があなたに求めることはただひとつ。――私のそばにいてほしい』
 彼は、こんな自分を初めて必要としてくれた人なのだから。

 屋敷に来てから七日目の朝。
 目覚めた凜花は、瞼を開けてすぐに体の変化を感じた。
 ここ数日間常にあった怠さが嘘のようになくなっている。
 頭の中の靄が晴れたような爽快感といい、肩の軽さといい、屋敷に来る前とはまるで違う。それは、寝台から立ち上がってからよりいっそう感じた。
 ――体が軽い。
 試しに大きく伸びをしたり、足を上げてみると、初めての軽やかさを感じる。
「不思議……」
 自分であるのは確かなのに、まるで違う自分に生まれ変わったような感覚だ。
(こんなにゆっくり休んだのは初めてだから……?)
 疲れの片鱗もない軽やかな体になんとなくそわそわしながらも、凜花は窓辺に向かい、カーテンを開ける。
 そして、差し込んできた光の眩しさに目を細めた。
 少しして明るさに慣れた目をゆっくりと開けば、瑞々しい木々の葉が風に揺られてゆらゆらとそよいでいるのが見えた。
 その合間から差し込んだ陽の光は、凜花の顔を優しくて照らしてくれる。
「綺麗……」
 自然と感嘆の息が漏れる。
 実家にいた頃、朝は最も気が滅入る時間だった。
 ――また、朝になってしまった。
 どうか何も起こりませんように、お嬢様の癇癪が起きませんように……そう祈りながら疲れ切った体を起こして一日が始まる。
 それが凜花にとっての朝だった。
(でも、今は違う)
 かつてこんなにも朝日の美しさを実感したことがあるだろうか。
 一日の始まりを不安ではなく、安心で迎えられたことがあるだろうか。
 きっと、多くの人にとってはなんてことない朝の風景。
 それが、今の凜花にはたまらなく眩しく感じる。
(みどりが来る前に空気の入れ替えをしておこう)
 凜花は窓の蝶番を外そうと手を伸ばそうとした、そのとき。
「何をしているのですか⁉︎」
 悲鳴混じりの大声が空気を震わせた。凜花が弾かれたように振り返ると、青ざめた顔のみどりが扉の前に立っていた。
「……みどり?」
 視線が重なった瞬間、みどりは凜花の胸に飛び込んでくる。突然の行動に目を見開く凜花の胸ぐらを掴んだみどりは、必死の形相でこちらを睨み上げる。
「何を馬鹿なことを考えているのですか! 身投げをしようなんて……命を無駄にするなんて許しません!」
「えっ……⁉︎」
 命を無駄に? 身投げ?
 凜花は慌てて首に振る。
「ま、待って? 私はただ、窓を開けようかと――」
「……なんですって?」
「その、空気を入れ替えようと思っただけで……」
 驚きながらも伝えると、みどりは潤んだ瞳を大きく見開く。
 数秒後、青ざめていた肌は一気に耳まで赤く染まった。
「まぎらわしいことをしないでくださいっ!」
「ご、ごめんなさい!」
 鼓膜が震えるような声に凜花は慌てて謝罪する。
 これにみどりは赤らむ顔を隠すように顔を背けた。
「……だいたい、なぜもう起きているんですか。私が来るまでのんびりとしていればいいのに」
「目が覚めたから……それに、本当にすっかり体調はよくなったの」
 すると、みどりは弾かれたように振り返る。なぜか驚いている彼女に戸惑いながらも、凜花は正直に自身の身に起きた変化を伝えた。
「昨日まではだるくて仕方なかったけれど、それもなくなって……」
「本当ですか?」
「ええ。まるで体の内側から作り替えられたみたいに、体が軽いの」
 それもこれも十分すぎるほど休ませてくれたおかげだ。
「こんなに熟睡することなんて今までなかったから……本当にありがとう」
 睡眠の力はすごいのだな、と感心する凜花に、みどりはなぜか難しい顔をする。
「……そう、ですか」
 言ったきり、みどりは何かを考え込むように黙り込む。
 それを不思議に思いながらも、凜花は言った。
「だから、もし何か私にもできる仕事があれば教えて欲しいのだけれど……」
 すると、みどりは「またですか?」と顔を顰めた。
「何もする必要はありません、と何度もお伝えしたでしょう」
「でも……」
 みどりは「はぁ」とため息をつく。
 彼女の気持ちはわからなくない。
 実際、凜花は休んでいる間、眠気と戦いながらも何度か同じことを聞いていた。
 いずれのときもみどりは今のように「自由にしていろ」の一点張りだったのだから、みどりも面倒に思うのも当然だ。
 しかし、これまでの凜花に取って生きることと働くことは同義だった。
 これ以上は急速ではなく怠惰に思えてしまう。何よりも気持ちが落ち着かないのだ。
(せめて自分のことは自分でしないと)
 困らせて申し訳ないと思いつつも凜花は食い下がる。
「皿洗いでも、床掃除でもなんでもいいのだけれど……。その、何かをしていないと落ち着かなくて」
 もうひと押しすると、みどりは「仕方ありませんね」と呆れた声で呟いた。
「私には判断できないので、時雨様に聞いてきます」
 時雨の名前に凜花は目を瞬かせる。
「まだいらっしゃるの?」
「今日は午後から出仕なさるそうです。すでに朝食は済まされたので、今は書斎にいらっしゃるかと」
「それなら、私から直接お聞きしてもいい?」
「わかりました。一緒に時雨様のところに行きましょう」
 これ以上は止めることも億劫だと思ったのか、みどりは渋々ながらも頷いた。
 とはいえ、さすがに寝起き姿のまま向かうわけにはいかない。
 凜花は急ぎ着替えようとしたのだが、すぐに難問にぶつかった。
 ――何を着たらよいのかわからないのだ。
 今、凜花が寝泊まりしている洋室には内扉があり、その先は衣装部屋となっている。そこは広さ八畳ほどの洋室で、一目で上等とわかる洋装がところ狭しと並んでいる。部屋の中には桐箪笥もあり、抽斗の中には色鮮やかな着物がたくさん収められていた。
 目覚めた翌日、みどりに案内されたときはあまりの豪華さにめまいがした。
 これが全て自分のために用意されたものかと思うと、喜びよりむしろ畏れ多さを感じてしまったほどである。それは今も同じで、衣装部屋に入るなり途方に暮れていると、見かねたみどりが助け舟を出してくれる。
「とりあえずこれを着たらよいかと」
 彼女がさっと選んだのは、爽やかな若草色のワンピースだった。
「ありがとう」
 すぐに着替えた凜花は、姿見の前で自身の姿を確認して――驚いた。
(これが、私……?)
 血色のよい肌をして、下ろしたてのワンピースを着た姿はまるで別人のようだ。
 特に髪は、以前より艶も張りも格段によくなっている。
「よくお似合いですよ」
「あ、ありがとう……」
 自分に見惚れていたようで恥ずかしくなった凜花は、慌てて視線をみどりに戻す。そして、時雨の書斎へと赴いた。
「失礼いたします」
 みどりの後に続いて部屋の中へと入る。
(わぁ……)
 素敵な部屋、と心の中で感嘆の息をつく。
 大きな張り出し窓や天井から吊るされたシャンデリア、ふかふかの絨毯。たくさんの本が並ぶ本棚。とても雰囲気のいい部屋だが、一箇所だけ違和感を覚える。
(暗幕……?)
 正面向かって左側の壁に何やら大きな幕がかけられている。
 なんだろう、と思っていたそのとき。
「それが気になる?」
 書机で何やら書き物仕事をしていた時雨が顔を上げた。
「あっ……し、失礼しました」
 部屋を見渡したのはほんの数秒だが、じろじろと見すぎたかもしれない。慌てて謝罪すると、時雨は「別に怒っていない」と苦笑する。
「そこには絵が飾ってあるのだが、あまり私の好みではなくてね。外すのも面倒だから、そうして布で隠してあるんだ」
 そう言った彼は、凜花とみどりを見て笑顔を浮かべる。ふっと綻んだ秀麗な顔はやはり、とても美しい。
「おはよう。体の調子はどうだ?」
「おかげさまで、すっかりよくなりました」
「違和感はない?」
「は、はい。その……今までで一番調子がいいです。まるで、自分ではないみたいに」
 みどりのとき同様、凜花が自身の変化を伝えた、そのとき。
(え……?)
 一瞬、時雨の表情が強張ったような気がした。
「確かに、顔色がよくなったな」
 しかしそれは気のせいだったらしい。その証拠に目の前の彼は、柔和に微笑んでいる。
「それに、少しふっくらしたか?」 
「え?」
「顔のあたりとかが、なんとなく」
 ――ふっくら。
 凜花は咄嗟の返事に詰まってしまう。
 過去に「貧相」と嗤われたことは幾度もあれど、その逆は一度もない。
「……時雨様。女性に対して『ふっくら』はいかがなものかと思います」
 驚く凜花の沈黙をどう捉えたのか、不意にみどりが口を挟む。すると、注意された時雨は困ったように苦笑した。
「そうか? 私はいい意味で言ったのだが、気を悪くさせたのなら謝る」
 すまなかった、と謝罪された凜花は慌てて首を横に振る。
「そんな! むしろ、こんなにもゆっくりと休ませていただき本当にありがとうございました」
「どういたしまして。でも、わざわざ礼を言いに来てくれたのか?」
 不思議そうな顔をする時雨に、凜花は緊張しながらも切り出した。
「その……時雨様にお願いがあって参りました」
「お願い?」
「はい。この屋敷で働くお許しをいただきたいのです」
 この申し出に時雨の口元から笑みが消える。
「私は、何もしないでいいと伝えたはずだが……」
 伝わってくる困惑の色に凜花はひゅっと息を呑んだ。反射的に謝罪しかけたとき、ふたりのやりとりを聞いていたみどりが静かに口を開く。
「何かしていないと落ち着かないそうですよ。皿洗いでも床掃除でも、なんでもいいから仕事が欲しいと」
 これに時雨はわずかに眉根を寄せた。
「……さすがにそれは許可できないな」
 時雨はすまなそうな顔をしつつもすえなく却下する。
「そう……ですよね」
 屋敷の主人である時雨にこうもはっきり言われては、おとなしく引き下がる他なかった。
(……余計なことを言ってしまったわ)
 時雨を困らせるつもりはなかった。
 ただ、自分にできることがあればなんでもしようと思っていただけで。しかし、そう考えること自体がおこがましかったのかもしれない。 
「無理を言って申し訳ありません」
 忙しい時雨にこれ以上時間を取らせてはいけない。そう凜花が視線を落としかけたそのとき。
「――そうだ。それならひとつ、私の手伝いを頼まれてくれるかな」
 耳に飛び込んできた言葉に凜花がハッと顔を上げると、時雨は微笑んだ。
「これから市街地に買い物に出かけようと思うのだが、あなたとみどりにも一緒についてきてほしいんだ」
「それなら私はお邪魔でしょう。おふたりだけでどうぞ」
 みどりの申し出に、時雨は「いや」と首を横に振る。
「残念だが私はその後の予定が詰まっているから、あまり長くは一緒にいられないんだ。途中で抜けることになるのに、病み上がりの彼女をひとりにはできない。だから、その後の買い物はふたりに頼みたい」
 時雨の説明にみどりは「……それでしたら」と承知する。
「あなたはどうだ? 手伝ってくれるととても助かるのだが……」
「ぜひご一緒させてくださいませ!」
 時雨に頼み事をされた。
 その喜びから思わず前のめりで承諾した凜花だが、すぐに己の失態を悟る。
 自分以外のふたりが目を丸くしてこちらを見ていたからだ。
「……本当に元気になったようで安心した」
 時雨が苦笑する横では、みどりが「散歩に行く犬みたいですね」と冷静に分析する。そんなふたりを前に凜花の顔はみるみる赤く染まった。
 とてつもなく恥ずかしい。それでも、不思議と心は軽かった。

 その後、凜花は、みどりとともに時雨の自動車に乗り込んだ。
 運転席の時雨の隣に凜花、みどりと並ぶ。
(これが自動車……)
 そういえば、杏花はことあるごとに「自動車が欲しい」と父にねだっていた。
 しかし、いかに娘に甘い父といえど、高級品である自動車はそう簡単に買えるものではなかったらしい。そんな希少な自動車を時雨は自分専用で日常遣いしているというのだから、さすがに朝葉家は格が違う。
 生まれて初めての自動車に緊張していた凜花だが、いざ走り始めると驚きの連続だった。
(すごいわ。馬もいないのに動いてる……!)
 凜花は次々と変わりゆく景色に興奮を隠しきれない。すると、それを横目で見た時雨は、ハンドルを握ったままクスリと笑う。
「自動車に乗るのは初めて?」
「は、はい」
 外出の際には自分の足を使うのあたりまえだった凜花にとっては、まるで夢のような乗り物だ。素直にそう答えると、時雨はクックと笑いを噛み殺す。
「私はもう慣れたからなんとも思わないが、こうも喜んでくれると嬉しいものだな。みどりもそう思わないか?」
 話を振られたみどりはすげなく答える。
「尻尾を振る犬のようだな、とは思います」
 この答えに凜花は途端に恥ずかしくなる。
 言うに事欠いて、また犬とは。
 しかし、まったくもってそのとおりで何も言い返せない。
 すると、それを聞いていた時雨が「こら」と苦笑混じりにみどりをたしなめた。
「そう意地悪を言うものではないよ。おまえも初めて車に乗ったときは彼女と同じ反応をしていただろうに」
 対するみどりはといえば、一瞬ムッとした顔をしながらも、すぐに「はい」と頷く。ふたりのやりとりを聞きながら、凜花は思った。
(仲がいいのね)
 彼らの距離感は、主人と使用人にしては少し近すぎるような気がする。
 かといって男女関係を匂わせるようなものでもない。みどりは時雨を心から慕い、そんな彼女を時雨も信頼しているように見える。
 凜花はちらりと左隣のみどりを見た。
 彼女は今、地味な紺色のワンピースを着てつばの大きな帽子を被っている。
「……何か?」
 じっと見ていたことに気づいたのか、みどりが胡乱げに目を細める。
 凜花は慌てて首を横に降った。
「なんでもないの。ただ、いつもは着物を着ているのに、今日は洋装だから雰囲気が違うなと思って……その、帽子も被っているし」
 凜花の指摘にみどりは面倒そうにため息をつく。
「私の髪は目立つので、外出するときは極力隠すようにしているんです。そうでもしないと見せ物のようにじろじろ見られますから。鬱陶しいのはごめんです」
 これに呼応するように時雨も頷く。
「確かに、私たちのような髪や瞳はこの国では珍しい。注目を浴びるのに慣れているとはいえ、見せ物扱いされて嬉しいわけでもない」
 だから移動する時はもっぱら自動車が多いのだ、と前を見据えたまま時雨は肩をすくめる。しかしその口調からは、微かな苛立ちと憂いが感じられた。
 ――見せ物。
 確かに、黒い髪と瞳の色の人間が大多数が占めるこの国において、時雨やみどりのような容姿はとても目立つ。
 実際に凜花もふたりを初めて見たとき、その髪や瞳の色に釘付けになった。
 でもそれは物珍しさからだけではない。
「……綺麗だから」
「え?」
「時雨様もみどりも、とても美しいから見惚れずにはいられないのではないでしょうか? 私は、そうでした」
 正直に感じた気持ちを唇に乗せる。すると時雨は「ありがとう」と口元を綻ばせ、みどりはぽかんと呆けたように口を開いた。
 しかしそれはほんの一瞬で、すぐにツンと顔をそらされてしまった。
「……時雨様はともかく、私を褒めても何も出ませんよ」
 その頬は薄らと赤い。
 照れを隠しきれていない横顔を微笑ましく見ていた、そのとき。
(あら……?)
 凜花は、ふとある既視感を覚える。
 しかし、その正体に辿り着く前に車は市街地に到着したのだった。

 時雨は、自動車を市街地の中央通りにほど近い敷地に停めた。
 なんでも彼が個人的に所有する土地で、自動車を停めるためだけに購入したのだという。
 それから三人で向かった中央通りは、見たことがないほどの人の数で溢れていた。
「すごい人……」
 人々が歩く中を馬車や自動車が通り抜けたり……と見ているこちらがひやひやするほどの賑わいぶりである。
「今日は平日だからこれでも少ない方だ」
「休日にもなるとすれ違うのもやっとですしね」
 涼しい顔の時雨やみどりとは対照的に、凜花は目の前の光景にただただ圧倒される。長嶺の屋敷と時々訪れる杏花の習い事、女学校。
 そんな狭い世界で生きてきた凜花には、この人の数すらも新鮮に感じたのだ。
(時雨様はいったい何を買うのかしら?)
 彼ほどの人が必要とするものなんて、凜花にはまるで想像もつかない。すると、みどりが不意に口を開いた。
「私は日用品の買い出しをしてきます」
 えっ、と内心声を上げる凜花の前で、時雨は「わかった」と頷いた。
「私と彼女はあの店にいるから、終わったらおまえもおいで」
「承知しました。それでは、失礼いたします」
 背中を向けたみどりは、あっという間に雑踏の中に消えてしまう。その後ろ姿を唖然と見送る凜花に、時雨は言った。
「さあ、私たちも行こうか」
「でも、みどりは……?」
「あの子なりに気を遣ってくれたんだろう」
 気を遣う? 
 驚きでいっぱいの凜花だが、時雨は小さく微笑んだだけだった。
 その後、彼に導かれるまま、凜花は煉瓦造りの三階建ての建物に到着する。
 店の外の陳列窓には、見た目にも可愛らしい食べ物や飲み物の絵が飾られている。まさか、ここは――。
「甘味処……?」
「もしかして、これも初めてか?」
 頷けば、時雨は信じられないとばかりに目を見開いた。次いで彼は何を思ったのか、店の前で棒立ちになる凜花の手に触れる。
「入ろう」
「あの……」
「いいから」
 凜花の手を引いた時雨が入り口のドアを開くと、チリンチリン、と可愛らしい鐘の音がする。
 広い店内には椅子とテーブルがずらりと並んでいて、すでに客で賑わっていた。
 その多くは女性だが、中には男性と女性のふたり組もいる。凜花より少し年上の女性と二十代半ばほどの紳士は見つめ合い手を繋いでいた。
(デート、というものかしら)
 人前であんなふうに触れ合うなんて……。
 頬がぽっと赤くなるのを感じた凜花がつい視線を背けると、愉快そうに唇の端を上げる時雨と目が合った。
 その後、店員に案内されて席に付くなり時雨はくすりと笑う。
「そんなに照れることか?」
「人前で手を繋いでいるから……」
「それを言ったら、先ほど私も君の手に触れてしまったが」
「あれは……別、です」
 凜花に入店を促すために触れただけであって他意はない……はずだ。
 実際、今の凜花と時雨はあのふたり組と同じように向き合って座っているが、手を繋いでなんかいない。
「別、か。いちおう、私はあなたと結婚する予定なのだが」
「けっ……こ……!」
 声を上擦らせると、時雨は「すまない」と楽しげに笑う。
「あなたがあまりに可愛らしい反応をするものだから、つい。心配せずとも決断を急がせたりはしないよ」
 今度こそ凜花は絶句した。
 ――可愛い、なんて。
(そんなこと、あるわけないのに)
 お世辞だとわかっている。それでも、こうもはっきりと言われたら照れずにはいられない。
(……顔が、熱い)
 走ったわけでもないのに頬が火照る。すると、これ以上はさすがに哀れだと思ったのか、時雨はさりげなく話題を変えた。
「さあ、何を頼む?」
 テーブルの上にある御品書を手渡された凜花は、ぎょっとした。
(こんなにするの……?)
 他の客にとっては問題ない金額設定なのだろうが、少なくとも凜花が気軽に頼める値段ではない。
「わ、私は……お水で……」
 答えると、時雨の笑顔が消える。
 しまった。さすがに何も頼まないのは、彼にとっても店にとっても失礼にあたる。
「それでは、いちばん安いものを……」
 申し訳なさといたたまれなさで身を縮こまらせる凜花を前に、時雨は「わかった」と頷き、店員を呼んで栗ぜんざいをふたつ注文する。
「えっ……!」
 驚く凜花が何か言うより早く時雨が口を開く。
「栗ぜんざいは嫌い?」
「食べたことがないので……でも、栗と餡子は大好きです。どちらも数えるほどしか食べたことはありませんが……」
 実家にいた頃、甘いものは嗜好品だった。もちろん、凜花が簡単に食べられるはずもなかった。
「それならきっと気にいると思う。私は甘いものがあまり得意ではないが、ここの甘味なら食べられるんだ」
「……本当によろしいのですか?」
「もちろん」
 それから注文の品が届くのを待つ間、ふたりは向かい合って雑談をする。
(こんなふうに時雨様と外で話す日が来るなんて……)
 選定の儀で初めて会ったときにはとても想像できなかった。それでもせっかくの機会を無駄にしたくはなくて、凜花は気になっていた問いを口にする。
「時雨様は、軍でどんなお仕事をされているのですか?」
 これに時雨は「なんと言えばいいかな」と考え込むそぶりを見せ、そして言った。
「『軍の何でも屋』」
「……え?」
「私が所属している隊の異名だ。主な仕事は大規模な救助活動や災害対策で、貴力を使わないと解決できないようなことに対処している。『東倭国陸軍貴力精鋭部隊』なんて大層な名前を賜っているが、ようはていのいい雑用係だ。私は、その隊長をしている」
 あっけらかんと答えた時雨とは対照的に、凜花は驚きを隠せなかった。
「時雨様が雑用係、ですか?」
「おかしいか?」
「そうは言いませんが……次期公爵様の時雨様が、とは思いました」
 正直だな、と時雨は楽しそうに笑う。
「そういう声があるのは確かだ。実際、私の父もいい顔はしていない。それでも私は自ら望んで軍人になり、今の隊に所属している」
「なぜ、ですか?」
「私には力があるから」
「力……」
 反芻すると、時雨は「ああ」と頷く。
「私は治癒の他に、火や水、風や土などの自然の力を操ることができる。これらは災害対策や救助活動にとても役立つんだ。だから貴力精鋭部隊を選んだ。それだけだ」
 特に深い理由はない、と時雨は肩をすくめる。しかし凜花はとてもそうは思えなかった。
 本来、時雨の立場であれば仕官自体する必要はないはず。それなのに、彼は自らの意思で軍人となることを選び、貴力を他者のために使用している。
(……立派な方なのね)
 そんな彼が凜花にはとても――本当に、眩しく見えた。
 それからすぐに栗ぜんざいが運ばれてくる。
(わぁ……!)
 見た目にも美味しそうなそれに自然と顔が綻ぶ。すると、それを見ていた時雨がクスッと笑う。
「その顔が見たかったんだ」
「え……」
「一つ、今日の目的が果たせたな」
 目を瞬かせる凜花に、彼は種明かしをする。
「私は、今日一日あなたのことを徹底的に甘やかすつもりだ」
「甘やかす……? でも、今日は時雨様のご用事だと」
「あなたが、あなた自身を甘やかすこと。それが私の用事だよ」
 ――声が、出なかった。
 驚きで言葉を発することも難しい凜花に、時雨は言った。
「凜花。成人おめでとう。ささやかだけれど、私からもお祝いさせて欲しい」
「っ……!」
 一瞬にして頭を駆け巡ったのは、何気なく交わした数日前のやりとり。
 お守りをくれた時雨に、凜花は贈り物をもらったのは初めてであること、成人祝いがなかったことを話した。でもそれは、凜花にとっては当然のことだった。
 それなのに、まさかこんな形で祝われるなんて――。
「私が付き合えるのは残念ながらここだけだが、この後もみどりと一緒に買い物を楽しむといい。金のことは何も気にしなくていい。今日は、何もかも忘れてあなたも自分を大切にしてあげなさい」
 感激のあまり胸が詰まって、うまく声が出ない。
「ありがとう、ございます……」
 今にも泣きそうな声で礼を言うと、時雨は「まだ食べてもいないのに」と苦笑する。しかしその顔はとても穏やかだった。
 そうして食べた栗ぜんざいは、間違いなく十八年間の人生で最も美味しいものとなったのだった。

 その後、店の前でみどりと合流したところで、時雨とは別れた。
 これから用事があるという彼を見送ると、「さて」とみどりは切り出した。
「次はどうしますか? 反物屋で着物を新しく仕立ててもいいですし、宝飾品が欲しいのであればそちらに向かってもいいかと」
 これに凜花は静かに首を横に振る。
「帰りましょう。もう十分すぎるほど甘やかせてもらったわ」
「……まだ、甘味処だけですよ?」
「ええ」
 姉の下僕だった自分が、あんなにも素敵な空間で栗ぜんざいを食べられた。
 甘いものなんて余程のことがないと口にはできないのが普通だった凜花にとっては、それだけでとてつもなく贅沢なことだ。それに、何よりも。
「時雨様が、おめでとうと言ってくださっただけで、十分すぎるくらい嬉しいの」
 そう素直に伝えると、なぜかみどりは顔を顰めた。
 怒っているのではない、まるで何かを堪えているようなその表情。
「……本当にそんなふうに考える必要はないんですよ。言ったでしょう。お世辞でもなんでもなく、あなたがそばにいるだけで時雨様のお役に立っているんです」
 それはどういう意味か、と問おうとしたそのとき。
「――様っ!」
 どこからか聞き覚えのある声が聞こえた。
 弾かれたようにその方角を見た凜花に、みどりが「どうしました?」と声をかける。しかし、凜花は反応できなかった。
「どこにいらっしゃるのですか、時雨様!」
 人混みの奥から人目も憚らず叫ぶ声が聞こえた途端、凜花の頭の中は真っ白になった。高揚していた気分は波が引くようにさあっ……と消える。
 背筋が凍り、体が震え始める。この声を凜花が忘れることは決してない。
「……なんです、あれは」
 みどりは不愉快そうに顔を顰める。
 行き交う人があまりに多くて杏花の姿はまだ見えないから、彼女にはわからないのだ。しかし、凜花が姉の声を聞き間違えるはずがなかった。
「杏花……」 
 ――なぜ、どうして、杏花がここにいる。
 今の時間帯は女学校に行っているはずなのに。
「それじゃあ、この声は――」
 目を見開くみどりに凜花が答えるより早く、声が雑踏に響いた。
「私です! あなたの伴侶の杏花です!」
 杏花は、まるでここに時雨がいると確信しているように叫んでいる。しかし今、ここに彼はいない。
「……おそらく、私かあなたから時雨様の光気を感じ取ったのでしょう」 
「そんなことが……」
「貴人の場合、ごく稀にありえるそうです。以前、時雨様が話していたことがあります」
『光気には香りに似ているところがある。みどりからは、ときどき私の光気がかすかに感じられることがあるのは多分、一緒にいる時間が多いからだろう。とはいえ本当に少しだから、よほど感のいい貴人でなければまず気づかないだろうけど』
 ならば、杏花は数少ない「感のいい貴人」だったということになる。
 ――今すぐ逃げないと。
 そう思うのに、「だめよ」ともうひとりの自分がそれを拒絶する。
 逃げたりしたら、そのあとどんな酷い仕打ちが待っているかわからない。
 骨の髄まで植え付けられた姉への恐怖心。
 それは、凜花から正常な思考をいともたやすく奪い取る。
「こちらへ」
 目の前が真っ暗になりかけたとき、不意にみどりが凜花の手を取った。
 大通りから建物と建物の間の裏道に滑り込んだ彼女は、勝手知ったる道とばかりに走り出す。しかし、その間も後ろからは杏花の時雨の名を呼ぶ声がした。
「……しつこいですね」
 このままでは埒があかないと思ったのか、みどりはため息と共に足を止める。そして、建物の影に凜花の体を押し込めた。
「絶対にここから動かないでください」
「みどり?」
「声を出すのもいけません。もちろん、水晶を出すことも。わかりましたね」
 言うなり、みどりは凜花に背中を向けた。
 そして彼女が向かったのは――杏花のもとだった。
(何をするつもりなの……?)
 恐怖と動揺で混乱する凜花は気づかなかったが、いつの間にか彼女はふたりのすぐそばまで来ていた。凜花の隠れた場所からも姉の姿ははっきりと見える。
 必死の形相の姉の視線は今、凜花との間に立つみどりに注がれていた。
「……誰? 私に何か用かしら?」
 凜花ならそれだけで身がすくむほどの眼力。しかし、みどりは違った。
「長嶺杏花様でいらっしゃいますね。私は時雨様にお仕えしている者です」
 選定の儀の時のような抑揚のない声でみどりは言った。
「時雨様はこちらにはいらっしゃいません」
「……そんなはずないわ。だって、はっきりと時雨様の光気を感じたもの」
「では、行き違いになったのでしょう」
 きっぱりと告げるみどりに、凜花は不愉快そうに顔を顰めた。
「使用人が、時雨様について随分と知った口を聞くのね。私は時雨様の伴侶よ。敬意を払いなさい」
「選ばれたのはあなたではありません。あなたの妹の凜花様です」
「なっ……違うわ! あんな出来損ないが選ばれるはずがない、何かの間違いよ! だいたい、凜花はどこにいるの? どうせ、すぐに捨てられたのでしょう」
「ご安心を。屋敷でお健やかに過ごされております」
「なんですって……?」
「とにかく、ここに時雨様はいらっしゃいません。それがご理解できたのなら、大声で時雨様のお名前を呼ぶのも、伴侶などと詐称するのもおやめください。時雨様の名誉に関わります」
 はっきりと強い口調でみどりは告げる。対する杏花は怒りをあらわに表情を歪めた。
「只人風情が誰に向かって口を聞いているの?」
「ただ、事実のみをお伝えしています」
「……そう」
 一歩も引かないみどりを前に、凜花はにいっと唇の端を上げる。
「よおくわかったわ。おまえは特に頭の悪い只人のようね。凜花と同じだわ」
 ひゅっと喉の奥が鳴る。
 ――凜花、と。
 歌うような声で名前を呼ばれただけで、体が芯から凍えるような感覚がした。
 歯がカチカチとなりそうになるのを必死に堪える。そうしたが最後、ここに凜花がいることがばれてしまう。
「みどりとか言ったわね。――頭の悪い只人には、躾が必要ね」
 そう告げる声も、顔も、可憐な令嬢そのもの。
 しかし、次に杏花が取った行動は野蛮以外の何物でもなかった。
 すうっと目を細めた杏花は不意に両手を掲げる。直後、道の端に生えていた雑草が突如として急激に成長し始めた。それはあっという間にみどりの足を絡め取る。
 ――植物を自由自在に操る力。
 それこそが、杏花の貴力である。
(助けないと……!)
 今すぐここから飛び出してみどりを救わないと。仕置きをするならば彼女にではなく自分にしてくださいと、平伏して許しを請うのだ。
 みどりは、身を挺してこんな自分を庇ってくれているのだから。
 ――そう、頭ではわかっているのに。
(どうして……!)
 手が、足が、動かない。
 自分だけが極寒の地にいるように全身が震えて、言うことを聞かないのだ。
 そうする間にもパチン! という鈍い音が凜花の耳に飛び込んでくる。
 身動きの取れないみどりの頬を杏花が平手打ちしたのだ。
 その衝撃で彼女がかぶっていた帽子が地面に落ち、輝くような金色の髪があらわになる。それを見た杏花は桜色の唇の端を上げる。
「瞳の色を見てそうだとは思ったけれど……おまえ、異国の血を引いているのね。金の髪に緑の瞳なんて、とても派手な色をしているじゃない」
 うっとりとしたような声色だが、続く声は違った。
「只人のくせに、生意気よ」
 杏花は再び手を振り下ろした。それも、一度や二度ではない。何度も、何度も、何度も……。しかし、みどりは呻き声ひとつあげなかった。それがいっそう杏花の神経を逆撫でしたのか、音はますます大きくなっていく。
(もう、やめてっ……!)
 そう叫びたいのに、声が出ない。
「このっ……なんてやつなの⁉︎」
 どれほど続いたのか。
 はあはあと息を乱した杏花が手をだらりと下ろすと、みどりを拘束していた植物がするするともとの大きさに戻っていく。
「もういいわ! 私の手の方がダメになるじゃない!」
 地獄のような時間だった。しかし、みどりがその場に膝をつくことはついぞなかった。
「気はすみましたか?」
「くっ……帰ったら凜花に伝えなさい! おまえは私の下僕だと言うことを忘れるな、とね!」
 そして、杏花は来た道を憤然と戻っていった。その後ろ姿が見えなくなると、みどりは落ちていた帽子を再び被りくるりと後ろを振り向く。
 そして、凜花を見て息をついた。
「……なんて顔をしているんですか。せっかく元気になったのに、酷い顔色です」
 どうして。なぜ。
「さあ、帰りますよ」
 何もなかったような顔をしているの。
 白磁の肌が腫れ上がるほど叩かれたのに。
 陶器のように滑らかな肌が、血で滲んでいるのに。
「ごめんなさい……」
「あなたが謝るようなことは、何も」
「本当に、ごめんなさい……!」
 自分だけが安全な場所にいて、代わりにみどりが暴行を受けてしまった。
 凜花は何もしなかった――できなかった。
 そんな凜花をみどりは、ただの一言も責めることはなかった。
  
 東倭国にたった三家のみ存在する公爵家。
 そのうちの一つ、朝葉公爵邸の当主の私室にてふたりの男が睨み合っている。大きな硝子窓を背景に椅子に座り机の上で手を組むのは、朝葉道景(みちかげ)
 今の朝葉家の当主である。その正面には、凛と背筋を伸ばして佇む時雨がいた。
「――どういうつもりだ、時雨」
 道景の眉間に深い皺が何本も浮かぶ。昼間から酔っているのか、離れていても酒の匂いが鼻につく。赤らんだ顔はまるで茹で蛸のようだ。
(もっとも、これがそうなら不味くて食べられたものではないだろうが)
 頭の片隅で道景と蛸を並べて思い浮かべていると、再び「時雨!」と激しい声が届く。空気が震えるほどの声量に、時雨は面倒なのを隠すことなくため息をついた。
「そのように大声を出さずとも聞こえています。……父上」
 最後の呼びかけにわずかな間が生じたのは、本心では父などと呼びたくないからだ。
 しかし、こればかりは仕方ない。
 どれほど否定したくとも、血縁上の父親はまぎれもなくこの男なのだから。
「聞こえているのなら私にも理解できるように説明しろ。なぜ、只人の娘などを伴侶に選んだ。純血の貴人たるおまえが、どうしてっ……!」
 道景はだんっ! と机を叩いて立ち上がる。椅子が大きな音を立てて倒れるけれど、時雨は眉ひとつ動かさない。
「なぜ、と言われましても。本能で、としか申し上げられません」
「本能だと? 私を馬鹿にしているのか⁉︎」
 ああ、しているさ。
(そう言えたら、すっきりするんだろうな)
 心の中では吐き捨てた時雨は「いいえ」と抑揚もなく否定する。
「事実のみを答えています。父上のお言葉を借りるのであれば、『純血の貴人である私が選んだ』、それ以外の答えはありません。ご説明しようにも理解できるとは思わない。なぜならあなたは、純血ではないのだから」
「っ……この、親不孝者が!」
 道景は机の上にあった万年筆を時雨に投げつける。しかしそれは時雨に触れることなく目の前で落下した。空気の壁を目の前に作り出したのだ。
「私が風を操れることをお忘れですか?」
「くっ……!」
「落ち着いてください。そうでなければまともに話もできない。私はそれでもかまわないが、呼び出したのは父上、あなたです」
「ならば言ってやる。今はまだ知られていなくとも、いずれおまえの選んだ娘が只人であることは明らかになる。人の口に戸は立てられん。噂とはそういうものだ」
「それが何か?」
「『何か』ではないわ、大馬鹿者! 純血のおまえは貴人の伴侶を迎えると誰もが思っている中、只人の娘を選んだと知られたら、朝葉の名に傷がつくこともわからないのか!」
「『純血の貴人の伴侶は、同じく貴人である』。以前までの私同様、貴人ならば皆そう考えることは承知しています。ですが実際はそうではなかった、ただそれだけの話です。周りにどう思われようと私はなんとも思いません」
 自分の考えを述べる時雨に道景はいっそう声を荒らげる。
「おまえがそうでも、周囲は違う!」
「ですから、そんなことは私には関係ないと申し上げています」
 動物を相手にしているようだ。何を言ってもまるで通じない。
「だいたい、父上が常識を語るのはおかしなことだと思いませんか」
「……なんだと」
「『貴人同士の間に子は生まれない』。その定説を覆し、母上との間に私を作ったのは他ならない、父上ではないですか」
 その直後。
「っ……おまえが小夜(さよ)を語るのはやめろ! 小夜を殺した、おまえが!」
 今にも血管が切れそうな怒りように、時雨は億劫なのを隠さず今一度深くため息をついた。
「これまでに何度も申し上げたが、母上が亡くなったのは病です。言いがかりはやめていただきたい」
「ふざけるな! おまえの存在が小夜を追い詰めたのだから、おまえが殺したも同然だろう! 人間の皮を被った化け物が……! おまえがいなければ……おまえさえ生まれてこなければ!」
「それこそ私に言われてもどうしようもない話です。親が子を選べない以上、その逆もまた然りなのですから」
「黙れ」
「いいえ、黙りません。先ほど父上は『なぜ、只人の娘などを伴侶に選んだ』と言いましたが、お忘れか? あなたが母上の次に伴侶に迎えたのも、貴力を持たない女性だ」
「黙れと言っているのがわからんのか! あれは、おまえ以外の子を……和泉を作るために形式上迎えただけの女だ! 私が妻と呼ぶのは、今も昔も小夜だけだ!」
 最低だな、と思えど言葉にはしない。この男にはその価値すらない。
 ――小夜。
 父が呼ぶ血縁上の実母について、時雨はほとんど覚えていない。
『化け物』
『おまえなんて……産むんじゃなかった』
 覚えているのは、呪詛のように吐き出された言葉だけだ。
「……出ていけ」
「言われずとも」
 命じられるがまま出て行きかけた時雨だが、「ああ、そうだ」と扉の前でふと足を止める。
「心配なさらずとも、外では引き続き従順な息子のふりをします。ですから父上も、間違っても人前で私のことを『化け物』などと呼ばない方がいい。そんなことをしたらそれこそ朝葉の名前に傷がつく」
「っ……うるさい、さっさと出ていけ!」
「それでは、失礼します」
 扉を閉めた直後、何かが床に落ちて壊れる音がした。

 道景の私室を後にした時雨はすぐさま来た道を戻る。
 中央でも屈指の豪邸として知られる朝葉家本邸は、三階建ての洋館でとにかく大きい。おかげでエントランスホールに向かうだけでも無駄に時間がかかる。
 一刻でも外に出たい時雨だが、しかし、それを阻む人がいた。
「兄上」
 今まさに玄関から外に出ようとしたとき、背後から声をかけられる。
 振り返ると、階段の手すりに背中を預けた黒髪の青年が腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「……和泉」
 名を呼べば、青年は茶色の瞳をすうっと細める。
 朝葉和泉。四歳年下の腹違いの弟である。
「もう帰るのですか?」
「用は済んだからな。それより、大学はどうした?」
「今日は休みました。久しぶりに兄上に会えるというのに、学校になど行っていられません。それなのに兄上ときたら私に声もかけないなんて、酷いではありませんか」
 和泉は流れるように言葉を紡ぐ。柔和な笑みや穏やかな物言いは、兄を慕う弟そのものだ。しかし、時雨は知っている。
(あいかわらず、腹の底が見えない男だ)
 和泉は時雨を慕ってなどいない。目はときに言葉以上に感情を物語る。その証拠に、こちらを見下ろす茶色の瞳からは親しみのかけらすらも感じ取れない。
 一方で、彼は兄に対する負の感情を言葉にしたことは、ただの一度もなかった。
 だからこそ厄介だと思う。
 感情的ですぐに手が出る父よりも、よほど抜け目のない男だ。とはいえ、表向きは有効な態度を示している以上、時雨もそれに合わせるしかない。
「……すまないな。てっきりおまえは学校に行っているものだと思っていたんだ。知っていたら声くらいかけたさ」
「それならいいのですが。せっかくですし、一緒にお茶でもどうですか?」
「いや。悪いがこれから軍に向かわねばならない」
「それは残念」
 用意していたような台詞を口にした和泉は、「父さんに聞きましたよ」と続ける。
「伴侶を見つけられたそうですね。それも、只人だとか」
「それがどうした?」
 自然と声が一段、低くなる。するとすぐさま和泉はパッと両手を上げた。
「別に聞いただけです。そう怒らないでください。十八のときから探し求めていた伴侶が見つかってよかったですね。弟としてお祝い申し上げます。私もぜひお会いしたいものですね」
「……機会があればな」 
「楽しみにしています。そういえば、あれは元気にしていますか?」
「『あれ』、とは?」
「わかっているくせに。みどりですよ」
 大袈裟に肩をすくめて和泉は笑う。
「あの役立たず、うちに居場所がないからといって兄上に寄生するなんて。まったく、生まれの卑しいものは性根まで卑し――」
「黙れ」
 時雨はピシャリと言い放つ。
 脅しの意味も込めて右手を掲げる素振りを見せた途端、軽薄な笑みが消える。
 和泉は階段を一段後ずさり、頬を引くつかせる。
「……冗談ですよ」
「そうか。だが私はあまり冗談が好きではない」
 青ざめた顔の和泉を一瞥し、時雨は背を向ける。
 今度は、呼び止められることはなかった。

 その後、自ら運転する車で軍本部に向かった時雨は、自身が束ねる部隊の隊長室に入る。軍服の上着を壁にかけて、そのまま執務椅子に深くもたれかかった。
「――クソが」
 片手で瞼を覆う。天井を仰ぐ時雨の口から漏れたのは、とても凜花には聞かせられないような悪態だった。だがそうしたところで咎める者は誰もいない。
 東倭国陸軍貴力精鋭部隊。
 その名のとおり、貴力を有する貴人によって構成される部隊である。
 主に、貴力でないと解決できないような特殊な事件を取り扱っており、それを率いるのが時雨だ。
 とはいえ、「精鋭部隊」と言えば聞こえこそいいものの、任務の大半は大規模な事故や災害現場における復旧作業や人命救助。
 要は、貴力を用いた力仕事が主である。任務の内容もそのときどきで異なることから、密かに「軍の何でも屋」の異名を取っている。
 そもそもの大前提として、貴人は身分の高い貴族の子息だけ。すなわち気位の高い者がほとんどだ。
 そんな彼らが好んで力仕事をするはずもなく、この部隊はいつだって人手不足だ。その分、現在所属している隊員はいずれも部隊の名に相応しい精鋭ばかりで、貴力も折り紙付きなのだけれど。
 ともあれ、本来であれば時雨のような立場の人間が所属する場所ではない。
 昼間、凜花にも話したが、時雨がここにいるのはひとえに自ら志願したことだ。
(力ある者が、それを必要とされる場所で使わないでどうする)
 崇高な思考や目的があるわけではない。
 できるからする、ただそれだけのことが父には到底理解できないようだが、そんなのは時雨の知ったことではない。
 血の繋がった息子を化け物と呼ぶ父と、本当は好きでもないくせに上っ面だけの好意を伝えてくる腹違いの弟。
(……どいつも貴人だなんだと、鬱陶しい)
 彼らのことを思い出すだけで心の底から気分が悪くなる。和泉はいずれ凜花を連れてこいと言っていたが、そんなつもりは毛頭ない。
 凜花は、あのふたりとは正反対の人間だ。
 そんな彼女を毒蛇の沼に放り込むような真似をするものか。
「――隊長。少しよろしいでしょうか」
 物思いに耽っていた時雨は、すぐさま姿勢を正して「入れ」と命じる。
「失礼いたします」
 手本のような敬礼をしたのは、時雨の副官を務める宮田佐助。伯爵家の次男である彼は時雨と同い年で、士官学校時代の同期でもある。
「どうかしたのか?」
「内密にお話ししたいことがございます」
「話せ」
 発言を許可すると、宮田は扉を閉める。そして、ふっと肩の力を抜いた。
「長嶺杏花の件、あらかた調べ終わったぞ」
 先ほどまでのお堅い雰囲気とは打って変わって気安い態度は、ふたりきりのときのみ見られるものである。時雨を呼び捨てにする数少ない彼は、両肩をすくめてうんざりとした様子で続けた。
「この女、可愛いのは見た目だけでその中身はとんでもない悪女だな。色々と伝手を使って、主に長嶺家を解雇された使用人から話を聞いたが、悪い話が次から次へと出てきた」
 聞いているだけで女嫌いになりそうだった、と宮田は顔を顰める。
「長嶺杏花はとにかくわがままで酷い癇癪持ちらしい。一度怒らせたら誰にも手がつけられないほどだったみたいだ。特に、ひとりの下女に対してのあたりが強くて、その子は日常的に折檻を受けていた、と皆が口を揃えて言っていた。しかもその内容が本当に酷いものばかりだ」
 無意識に机の下で握る手に力が込もる。
「……続けろ」
 宮田は小さく頷く。
「朝夕、時間をかまわず呼び出されるのは当たり前。髪を梳くのが下手だという理由で納屋に閉じ込めたり、出されたお茶が温かったからと、真冬にも関わらず裸足で外に放り出されることもあったらしい。他にも細かいことをあげ始めたらきりがない。そんな中でも不思議なのは、誰ひとりとしてその子の名前や外見の特徴を挙げなかったことだ。皆、『それだけは言えない』と声を震わせていた。多分、長嶺杏花に脅されたんだろうな」
 宮田の報告を聞きながら、時雨の頭をよぎったのは祝言の日のこと。
 雷雨の中、瑣末なお仕着せ姿で納屋に閉じ込められていた凜花の青ざめた顔と、折れそうなほど細い体だった。
 今、報告を受けて改めて思う。
(……私に何も言わないはずだ)
 日常的にそのような恐ろしい目に遭っていた彼女が、場所を朝葉の別邸に移しただけで安心できるはずもない。きっと思い出すだけで身が竦む思いがするはずだ。
「朝葉? どうした、顔が怖いぞ」
「……いや、なんでもない。報告は以上か」
「ああ」
「ありがとう、助かった」
 宮田は考えもしないだろう。
 目の前の男の伴侶こそが、その哀れな被害者だなんて。
「そうだ、実は俺からも大切な話があるんだ」
「なんだ?」
 宮田は真面目な顔で時雨の方をじっと見る。そして――。
「頼む、朝葉! 少しでいいから金を貸してくれ!」
 顔の前で両手をぱんっ! と合わせて大きく頭を下げた。
 今の今まで室内を取り巻いていた緊迫した雰囲気を一瞬に打ち消すような発言に、時雨は眉間に皺を寄せる。
「……何を言ってるんだ、おまえは」
「どーしても落としたい子がいるんだ! そのために色々と贈り物をしたいんだけど、今手持ちがなくてさ」
「給与はどうした」
「そんなもん、全部酒と遊びに使っちまったさ」
 あっけらかんと言い放つ同期に時雨は能面のような顔になる。
「そうか、残念だったな。あいにく私も手持ちはないから、他をあたれ」
「公爵家の坊ちゃんで隊長のおまえに金がないわけないだろ⁉︎」
「『お前に渡す手持ち金はない』と言ったんだ。ほら、用が済んだなら持ち場に戻れ」
 さっさと出て行けとひらひらと手を振ると、宮田は「そんなぁ」とがっくりと肩を落としてのろのろと隊長室を出ていく。
 その後ろ姿が見えなくなると、時雨は堪えきれずに小さく噴き出した。
 同期とはいえ仮にも上司に「金を貸せ」なんてとんでもないことを言う男だが、喜怒哀楽がはっきりしているところは悪くない。おかげで陰鬱としていた思考が少しだけ晴れたような気がする。
 金の貸し借りをするつもりはないが、機会があれば飲み代くらいは出してやろう。そう思いながら残りの事務仕事を片付けて、いつもより少し早めに帰路に着く。
(日付が変わる前に帰るのは久しぶりだな)
 凜花は今日一日自分を甘やかせただろうか――そんなことを思いながら正面玄関の扉を開けた、そのとき。
「時雨様!」
 今まさに頭に描いていた凜花が、顔面を蒼白にして階段を降りてきた。

 時雨の帰宅より遡ること数刻。
 杏花との遭遇の後すぐに屋敷に戻ったふたりだが、玄関の扉を開けた直後、異変が訪れた。凜花の前で突然みどりが倒れたのだ。
 慌ててその場に膝をつけば、みどりが息を乱していた。額に触れると明らかに熱い。
 発熱している。
 しかし、帰路の間、みどりは「少し冷やせば治ります」と平然とした顔をしていた。むしろ「ごめんなさい」と何度も同じ言葉を繰り返す凜花に「もう聞き飽きました」と苦笑していたほどなのに。
 ――とにもかくにも手当てと看病が必要だ。
 しかし、それから額や腫れた頬を冷やしても、薬を飲ませても、症状はよくなるどころか悪くなっていく一方で、日が暮れる頃にはますます熱が上がっていった。
 その間、凜花ができたのは、彼女の汗を拭い、手を握ってやることだけだった。
(私のせいだわ)
 あのとき凜花が杏花の前に姿を表していれば、みどりが傷つくことはなかったのに――。
(……どうして私はこうなの)
 全て杏花の言うとおり。
 愚図でのろまなで、出来損ないの自分が心の底から嫌になる。
「私に時雨様のような力があれば、今すぐあなたを癒せたのに……」
 思わず呟くと、熱にうなされながらもみどりは笑う。
「なにを、ばかなことを……時雨様は、特別です。比べるのが、おかしいんです」
「……そうね。本当に、そのとおりね」
 かえって慰められているような気がして、凜花は無理やり口元に笑みを浮かべ、華奢な彼女の両手を握る。そうすることで少し安心したのか、みどりの表情がふっと緩んだ。いつもよりも幼なげなその顔に、ふと昼間と同じ既視感を覚える。
(もしかして、みどりは――)
 頭の中にある考えが浮かんだとき、窓の外からエンジン音が聞こえてくる。
 ――時雨が帰ってきたのだ。
 凜花は、すぐさま部屋を飛び出し階段を駆け降りた。そして、玄関の扉が開くと同時に懇願した。
「時雨様!」
 出迎えの挨拶もせずに無作法なのは承知しているけれど、今はみどりのことしか考えられなかった。
「お叱りは後でいくらでも受けます。どのような罰を与えてくださってもかまいません。ですからどうか……どうか、みどりをお助けください!」
 時雨が驚きに目を見開いたのは一瞬だった。
「何があった?」
 すぐに険しい顔つきになった彼の問いに、凜花は早口で答える。
「昼間、買い物に行った際にお嬢さ――姉の杏花が時雨様を探しているところに遭遇しました」
「私を探していた?」
「はい。時雨様の光気を感じ取ったのだろう、とみどりは話していました」
 凜花は拳をグッと握り、正直に告白した。
「……みどりは、身動きが取れなくなった私に隠れているように言いました。そして、私の代わりに姉の暴行を受けました」
 直後、ぞわりと肌が粟立つのを感じる。
 目には見えない何かがこの空間を渦巻いている。見ると、金色の瞳が爛々と輝いていた。祝言の日と同じ。抑えきれない怒りを宿した貴人の瞳だ。
「あの子は、今?」
「へ、部屋で眠っています」
「わかった」
 言うなり時雨はみどりの部屋へと直行する。凜花は慌ててその後に続いた。そうして部屋の中へと入った時雨は、一直線にみどりのもとへ向かい、寝台の前に跪く。
「みどり」
 呼びかける声は、底抜けに優しい。
「時雨、様……?」
「よく頑張って耐えたな。もう、大丈夫だ」
 声だけではない。みどりの両頬にそっと触れる手つき、熱に喘ぐ彼女を見つめる眼差し、その全てに心からの愛情が込められている。
 心からみどりを心配しているのが痛いほど伝わってくる様子に、凜花は思った。
 ――違う。
 同じように助けられたからこそ、凜花にはわかる。
 ――これは、本物だ。
 時雨の凜花に対する優しさが偽物だったとは思わない。それでも自分のときとは明らかに何かが違うと、そう直感した。
「痛みはじきになくなる。明日には熱も下がっているはずだ。もう大丈夫だから、ゆっくりおやすみ」
 時雨が手のひらをかざすと、腫れた傷が引いていく。次第にみどりの呼吸は落ち着いていき、やがて静かな寝息が聞こえてきた。
 数分にも満たないわずかなその時間、凜花は身動きひとつ取れなかった。
 金髪に緑の瞳のみどりと白髪に金の瞳の時雨。
 横たわる少女と跪く青年。
 ――なんて綺麗なふたりだろう。
 絵のように美しいふたりを前にした凜花は、自分という存在がこの場においての異物であるとはっきりと感じたのだった。

「……眠ったようだ。明日までは起きることはないだろう」
 それから程なくして時雨は立ちあがろうとする。だが次の瞬間、彼の体が大きくぐらりと傾いた。
「時雨様⁉︎」
 前向きに倒れ込む体を凜花は支えようとする。しかし、すんでのところで足を踏みとどめた時雨は「大丈夫だ」と片手でそれを制した。
「なんでもない」
 膝をつくことなくしっかりと己の足で立ち、時雨は言った。
 その顔はひどく青ざめている。もとが白磁の肌をしているだけにいっそう青みが目立って、とても大丈夫なようには見えなかった。
 そんな凜花の心配が伝わったのだろうか。
 彼は「本当に大丈夫だから」と静かに首を横に振る。
「……少し、疲れただけだ。貴力の中でも治癒は特に力を使うから」
 それよりも、と時雨は薄く笑う。
「あなたの方こそ大丈夫か?」
 ――話をそらされた。
 なぜかそう感じた。
 何よりも、その笑顔はとても自然なのに、先ほどみどりに向けたものを見た今では、作りもののように見えてしまう。だがそれを指摘できるはずもなく、凜花は「いいえ」と小さな声で答えた。
「みどりが守ってくれましたから。私は……彼女を盾にして、何もできずに震えていただけです。本当に……申し訳ありませんでした」
「なぜ私に謝る?」
 不思議がる時雨を前に一瞬、答えることを躊躇う。しかし、どう考えてもごまかすことはできそうになくて、凜花は正直に理由を告げた。
「……時雨様の、妹さんを傷つけてしまったからです」
 妹。
 そう発した直後、時雨は笑みを消した。
 一切の表情を消した彼はやはり奇跡のように美しい。
 同時に凜花はこうも思った。
 ――これが、本物の朝葉時雨という人なのだ、と。
 わずかな沈黙の後、時雨はゆっくりと、そして探るように口を開く。
「みどりがそう話したのか?」
「いいえ」
 凜花は首を横に振り、そう思うにいたった経緯を伝える。
「おふたりの横顔が似ているな、と。そう感じただけです」
 この答えに観念したように時雨は頷いた。
「あなたの言うとおり、私とこの子はまぎれもない兄妹だ」
 やはり、と凜花は目を見張る。
「私にはみどりの他にもうひとり、和泉という弟もいるが、私たち兄弟は三人とも母親が違う。私の母は貴人で、弟の和泉とみどりの母はどちらも貴力を持たない女性だった。ただし、みどりの母は異人で、父の愛人だった」
「だった、ということは……」
「すでに亡くなっている。身内の恥を晒すようだが、私の父は異性関係が少々派手でね。私の母が亡くなった後は複数の女性と同時に関係を持っていた。そのうち、和泉を産んだ女性は公爵夫人となった」
 現在の公爵夫人は、夫が自分を貴人の子を産む道具として見ていないことを嘆き、息子を産んですぐに実家に戻った。
 以降二十年、一度も朝葉の屋敷には姿を現していない。
「一方、みどりを産んだ女性は使用人として扱われ……その境遇に耐えかねて、あの子がまだ今よりずっと小さい頃に、屋敷の窓から身投げをして亡くなった」
「っ……!」
 一瞬、息をするのも忘れた。
(だから今朝、私が飛び降りようとしたのだと思った……?)
 そんなつもりは微塵もなかったとはいえ、結果的に凜花は彼女の心の傷を抉ったことになる。
「私、なんてこと……」
「どうした?」
 訝しむ時雨に凜花は今朝あったことを震える声で包み隠さず話す。それに対して彼は怒ることも呆れることもなく、「あなたは悪くない」と口にした。
「責任は、この子の母を死にいたらしめた私の父にある。……みどりは、貴人ではないが、異国の血を引いているのがひと目でわかる容姿をしている。それが原因で、昔から朝葉の中でもあまり良い扱いを受けていなかった」
 当時のことを思い出しているのか、声には隠しきれない怒りが宿っている。
「父がこの子に与えたのは『みどり』という名前だけだ。しかも、瞳の色が緑だからそれでいいだろうと、そんな安直な理由で名付けをして……あの人は、一度たりともこの子を抱くことはなかった」
 拳を握りしめる時雨の手は、震えていた。
「父を始めとした誰も彼もが、この子を使用人として見ていた。私はそれがどうしても許せなくて、成人したのをきっかけにこの子を引き取った。もちろん使用人ではなく妹としてね」
 でも、と。苦笑した時雨は、眠るみどりの髪を優しく撫でる。
「この子ときたら、いくら私がやめろ言っても頑なに『自分は使用人です』と言って聞かないんだ。だから、形式上は私に仕える使用人ということになっている」
 告白を聞いてわかったことがある。
 凜花とみどりの境遇は似ている。しかし、ふたりの間には明確な差があった。
 きょうだいに愛されなかった自分と、愛されたみどり。
 決して埋めようがない、圧倒的な隔たりだ。
「……大切にしていらっしゃるのですね」
「ああ」
 時雨は迷うことなく頷いた。
「可愛くて大切な、私の妹だ」
 静かに眠るみどりの頬に触れる手つきはやはり、とても優しい。
 その姿を前に凜花の中に湧き上がったのは、嫉妬でも妬みでもない。
 心からの、憧れだった。

「――私は疲れたからもう休む。あなたも色々と大変だっただろう。ゆっくりおやすみ」
 そう言って、時雨とは別れた。
 その後自室に戻った凜花だが、あれから何時間も経っているのになかなか寝付けずにいる。この屋敷に来てからの熟睡ぶりが嘘のように目が冴えていた。
 いったん寝台から起き上がった凜花は、窓のカーテンを開けた。
 雲の多い空だが、時々姿を表す月がなんとも美しい。
 それからしばらく眩い月を見つめていた凜花だが、これではますます目が冴えてしまうと再び寝台へと横になる。
(やっぱり、眠れない……以前まではこの時間に起きているのは当たり前だったのに)
 今の凜花の体は、この時間は寝ているのが普通になっている。
 多分それは、心も体もここでの生活に順応しつつあるから。そしてそうなることができたのはまぎれもなく時雨とみどりのおかげだ。
 凜花は、日中のふたりの姿を改めて思い浮かべる。
 一対の絵のようにうつくしい彼らを見て、凜花は憧れた。
 尊い、とさえ思った。
 思い合い、支え合うきょうだいのあり方なんて、凜花は知らないから。
 今の凜花の立場は、時雨の婚約者だという。
 時雨もみどりも「何もしなくていい」と言ってくれるが、それを「わかりました」と受け止めることは、どうしても難しい。
 ――私は、このままここにいてもいいのだろうか。
 寝台に横たわった凜花は天井を仰ぎ、両手を上げる。しかし当然ながら風が揺らぐことも火が出ることもない。
(もしも、私に力があれば……)
 みどりを杏花から守ることができたのだろうか。
 逃げも隠れもせずに、姉に対峙できたのだろうか。
(……違う。そうじゃないわ)
 ありえない「もしも」を想像した凜花は、すぐにその可能性を否定する。
 昼間の出来事に関して貴力の有無は関係ない。今の凜花に必要なのは、心の強さだ。姉を前にしても毅然と立ち向かう心の強さが、凜花には足りない。
(――強くなりたい)
 今は無能で、愚鈍で、弱い自分だけれど。
 時雨やみどりの役に立てるような強い人になりたい。
 凜花は静かに瞼を閉じる。自然と頭に浮かんだのは、時雨のことだった。
 最後に見た彼はひどく疲れた顔をしていた。
(時雨様は、もうおやすみになったかしら)
 そう思ったそのとき、前触れもなくゆっくりと扉が開く音がする。
(みどり……?)
 明日の朝まで起きないと思っていたのに、こんなときまで凜花の様子を見に来てくれたのだろうか。今は凜花のことなどより自分の体を案じてほしい、と思いつつも凜花は寝たふりすることに決めた。
 理由はわからないが、みどりは口癖のように「よく寝てくださいね」と言う。
 そんな彼女に起きていると知られて心配はかけたくない。
 そう、思っていたのに。
「……凜花?」
 耳に届いた声は、まぎれもなく時雨のものだった。
 瞼を閉じたまま混乱状態に陥る。
 あまりに突然の出来事に体が硬直したように動かない。それに時雨は凜花が眠っていると確信したのか、無言のままそっと髪の毛に触れてきた。
(っ……!)
 時雨の指先が凜花の頬に触れる。ぞっとするほど冷たい感触にみじろぎしなかったのは、奇跡というよりほかなかった。
 視界が暗闇に染まる凜花にはわからない。しかし、だからこそ肌は敏感に時雨の指先の軌跡を辿ってしまう。そうする間にも頬に触れていた指先はゆっくりと顔の輪郭をなぞり、やがて首筋に到達した。
 そのまま、皮膚の表面を繰り返しなぞる。
 そのたびに声を上げたくなるのを凜花は必死に堪えた。
 意味がわからなくて、だからこそ心臓が飛び出そうなほど緊張している。
 ――いったい何をするつもりなのか。
 凜花とて成人した女だ。
 経験は皆無とはいえ、ひとつ屋根の下に暮らす男女に何が起こるか考えたことがなかったわけではない。いちおうは婚約者だというのだからなおさらだ。
 だが、今日まで彼はそういった意味で凜花に触れてくることは一度もなかった。
 それなのになぜ――。
「凜花」
 そのとき、低く掠れた声が耳朶を震わせた。
 ――なんて声で、私を呼ぶの。
 過去に一度も聞いたことがない、余裕のないその声色はどうしようもなく「男」を感じさせる。
 もう、これ以上は寝たふりはできない。
 凜花は意を決して瞼を開けようとするが、それより早く何かが首筋に触れた。
 指とは違う柔らかな感触と共に、さらりと彼の髪の毛が凜花の頬に触れる。
 その直後。
(いっ……!)
 ガリっという音と共に衝撃が首を襲った。
 凜花の首筋に顔を埋めた時雨が、突如として歯を突き立てたのだ。
 自分の中から血が溢れるのを確かに感じる。しかし時雨は顔を離すどころか、流れた血をぺろりと舐めた。
 肌をなぞる舌の生温かい感覚に、凜花は堪えきれずについに瞼を開けた。
「時雨、様……?」
 名前を呼ぶのと、首筋の感覚が消えるのは同時だった。
「どう、して……?」
 呆然と時雨が呟くと、雲に隠れていた月が姿を現した。窓辺から差し込む月明かりによって時雨の姿が浮かび上がる。そうして凜花の目に飛び込んできたもの。
 それは、完全に瞳孔の開き切った金の瞳。
 そして、血に濡れた唇だった。



三章

「――すまなかった」
 唇を赤い血で濡らした時雨が、凜花を見て瞠目したのは一瞬だった。
 消え入りそうな声で謝罪した時雨は、凜花の首筋をさらりと撫でるなり逃げるようにくるりと背中を向ける。
「あっ……!」
 ハッと我に帰った凜花は、急いで寝台を抜け出しその後を追いかける。
 だが当然ながら時雨に追いつくことは、できなかった。
「時雨様っ!」
 開け放たれたままの玄関から飛び出し、彼の名前を呼ぶ。しかしすでにその姿はどこにもなく、代わりに自動車が遠ざかる音だけが聞こえたのだった。
 それすらもやがて聞こえなくなると、凜花はよろよろとその場に座り込む。
 せっかくの絹でできた寝衣が土で汚れてしまう。でも、今の凜花にはそれを気にする余裕はなかった。
(何が、起きたの……?)
  
 震える指先で首筋に触れる。しかし、先ほどまで流れていたはずの血が指を汚すことはなかった。
 ならばあれは夢だった……?
(――違う)
 去り際に時雨が触れたほんの一瞬。あのとき、彼が貴力による治療を施したのだ。 
 凜花はその夜、一睡もできないまま朝を迎えた。
 空が明るくなってから鏡で首筋を確認したところ、やはり首筋には傷跡ひとつ残っていなかった。
 それでも目に焼きついた光景は、あれが夢ではなく現実だと訴えた。
 だって、体が覚えているのだ。
 頬を包み込む大きな手のひらの感触、首筋をなぞる骨ばった指先、肌をちくんとさしたどこか甘い痛み。そして、滴る血を啜る舌の温かさ。
 ――血を吸われた。
 その事実だけを切り取ると、とてもおそろしいことをされたように聞こえる。
 しかし、あのときの凜花は驚きはしたものの、恐怖心は一切抱かなかった。
 怖がるにしては、あまりに時雨が美しすぎたから。
 雪のように真っ白な髪は、月明かりを浴びてきらきらと白銀に輝いていた。
 月光を宿したような金の瞳も、薄くて形の良い唇が真紅に染まる様も、全てが非現実的で、神秘的で、凜花は首の微かな痛みも忘れて魅入ってしまった。
 彼が、数百年にひとりの貴人たる所以をそこに見た気さえした。
 すまなかった、と彼は言ったけれど、凜花は謝る必要なんてないと思っている。
 時雨があのような行動を取ったのは何かしらの理由があるはず。
 それを知りたいと凜花は思った。
 ――それなのに。
 あの夜を境に、時雨はぴたりと屋敷に帰らなくなった。
 一度だけ、凜花が眠っている間にひっそりと帰宅し、みどりの様子を見にきたというが、そのときも「しばらくは軍の宿舎に滞在する」と伝えただけで、その理由は何も語らなかったという。
「……私が失態を犯したから、お怒りなのかもしれません」
 おかげでみどりはすっかり元気を失ってしまった。
 杏花の暴行にも涙ひとつ流さなかった彼女が、である。
(違うのに)
 時雨が帰ってこないのはまず間違いなく、凜花との一件が原因だ。
 しかし、凜花はそれをみどりには話せていない。
 あの夜のことが、時雨にとって他人に知られたくないことかもしれないと思ったからだ。そんな凜花にできることは、ただ彼を待つことだけだった。
 しかし、それも十日たってようやく諦めがついた。
 ――このままじっとしていても、何も変わらない。
 だから凜花は手紙を書くことにした。
 多くは書かない。ただ話がしたいこと、屋敷で待っていることだけを記して封をし、部屋を出る。階段を降りると、ちょうどみどりが階段の手すりを掃除しているところだった。
「……どうしましたか?」
 すっかり気落ちしてしまったみどりに、凜花は言った。
「時雨様に手紙を書いたの」
「手紙?」
 きょとんと目を瞬かせるみどりに、凜花はこれから届けに行くつもりだと告げる。多忙な時雨に直接会うことは叶わずとも、渡してくれるように頼むことくらいはできるはずだ。
 しかし、これにみどりが待ったをかけた。
「私が行きます。先日のこともありますし、またどこであの勘違い女に遭遇するかわかりません。あなたは屋敷で大人しくしていてください」
 昨日までの落ち込みぶりが嘘のようにみどりは息を吹き返す。
 まるで、凜花が行動するのを待っていたようだ。
 勘違い女とは、言わずもがな杏花のことだろう。
「みどりは、おじょ――杏花が怖くないの?」
 この問いにみどりはふんっ、と鼻息を荒くする。
「まったく。叩かれたのは痛かったですし、うるさいな、とは思いましたがそれ以上は特に何も。只人だ、異人だと蔑まれるのには慣れていますから。ああいう人たちには何を言っても伝わらないので、相手にするだけ時間も気力も無駄です」
 あんなにも酷い目に遭ったにもかかわらず、みどりはあっけらかんと言い放つ。
 ――慣れている。
 ごく自然にそう口にしたみどりに、凜花はたまらなく胸を締め付けられた。
 その言葉の裏からは、彼女の苦しい日々が透けて見えたから。
 無能な自分は蔑まれても仕方ないと諦め、姉に怯えて生きてきた凜花には、みどりがとても眩しく見える。
「あなたは……強いのね」
 自然と溢れた言葉に、みどりはふわりと顔を綻ばせる。
「私には、時雨様がいましたから」
 きっぱりとした物言いからは、彼に対する絶対的な信頼が感じ取れる。そして、みどりはそれだけでは終わらなかった。
「でも、それはあなたも同じです」
「え……?」
「今のあなたにも時雨様がいます。だから、あんな女を怖がる必要はないんですよ」
 そう言って悪戯っぽくはにかむみどりは、やはり時雨に似ていた。

 長嶺邸。
 当主の長嶺京介は、二度目となる時雨の来訪を白々しいほど手厚く出迎えた。
 京介は直々に時雨を和室の応接間に案内すると、自らは下座に座った。
 時雨は一瞬戸惑ったものの、特にそのことに言及することなく勧められるがまま上座に腰を下ろす。
 礼儀の観点で言えば「結構です」と遠慮するのが正解なのだろう。
 しかし、そんな無駄なやりとりをする気は毛頭ない。訪ねたのはこちらだが、用が済んだらさっさと帰りたい、というのが正直なところだ。
「時雨殿」
 先に切り出したのは京介の方だった。
「あまり顔色が優れないようだが、どこかお加減でも――」
「問題ありません」
 最後まで聞くことなく切り捨てる。無礼は百も承知だが、あいにくこの男に持ち合わせる礼儀を時雨は持ち合わせていない。
「な、ならいいが。それで、今日はどのような用件かな」
 落ち着きもなくそわそわとしたその姿からは、時雨に対する畏怖が明らかに見て取れる。
 長嶺家と言えば、御三家には及ばないものの貴族の中では十指に入る名家だ。
 その当主たる男が自分のような青二才を相手に怯えるなんて。
(……情けない)
 この男は、最後に会ったときもぬかるみに腰を抜かして震えていた。さらには今日まで時雨に対してなんの連絡もなく、あげく「どのような用件か」ときた。
「私がここにきた理由がわからないと本気でおっしゃっているのですか? ――あなたの娘についてに決まっているでしょう」
 きっぱりと告げると、京介は観念したのか大きくため息をつく。そして、億劫そうな様子を隠しませずに口を開いた。
「……あれのことなら、うちにはもう関係のないことだ。必要なら差し上げよう。むしろ今さら返されても困る」
「『あれ』?」
 隠しきれない怒りは冷ややかな声となってあらわれた。途端にビクッと体を震わせる京介を時雨は金の瞳でじろりと睨む。
 親なら誰しも子どもには無性の愛を注ぐ、なんて綺麗事を言うつもりはない。
 そんなことは夢物語にすぎないことは身をもって知っている。
 だがそれにしたってこれは、ない。 
「私は犬猫の話をしているのではない。あなたの娘の話をしています」
「娘?」
 京介は鼻で嗤う。
「私の娘は、杏花だけだ」
 そして、開き直ったように肩をすくめた。
「とにかく、我が家の問題に口を挟まないでいただきたい。あなたのような立場の人間があれを選ぶとは意外だが、引き取った以上はそちらの好きにすればいい」
 煮るなり焼くなり好きにしろ、と京介は吐き捨てた。
(――下衆が)
 今ほど自分が理性のある人間でよかったと思ったことはない。そうでなければこの瞬間、時雨は己の貴力を持ってこの屋敷を燃やし尽くしていただろう。
 それほどまでに頭に血が上っているのがわかる。
 しかし、それを表に出すことはしない。
 この男には、それすらもする価値はないとはっきりわかった。
「ならばそのとおりにさせていただきます。今後一切、彼女には関わらないでいただきたい」
 そう言って、時雨は用意していた小切手をテーブルの上に叩きつける。
「これはその対価です。結納金代わりだとでも考えてくれればかまいません」
「なっ……!」
 小切手を受け取った京介の顔に驚愕が浮かぶ。
 祝言前、すでに時雨は一度、長嶺側に多額の結納金を支払っている。
 まだ凜花と杏花が別人だと知る前の話だ。それはいまだに返還されていない。
 そのような状況の中、時雨は追加で杏花のときの倍額の金額を提示した。
 それはつまり、凜花には杏花の倍の価値をつけたということになる。
「どうしました? 足りないとは言わせませんよ」
 口が裂けてもそんなことは言えないだろうな、と思った。
 事実、京介はすぐさま小切手を着物の袂に仕舞い込む。
「も、もちろんそんなことは言わない。十分すぎるほどだ」
「では、この件はこれで終わりです。――それと、もうひとつ」
 予想外に多額の金を得たことで一気に上機嫌になった京介は「なにかな?」とにやにやと緩み切った顔を向ける。
 その顔面を殴りつけたい衝動をなんとか堪え、時雨は言った。
「先日、私に仕える者が長嶺杏花から酷い暴行を受けました。それについても長嶺側からは依然なんの連絡も来ていない。いったいどういうおつもりなのか、考えを聞かせていただけますか」
「は……?」
「『は?』ではない。私は説明を求めています。まさか何も聞いていないのですか」
「あ、ああ。杏花からは何も……」
 やはり一発殴りつけてやろうか。
 間の抜けた顔を前に拳を握りながら、時雨は声だけは淡々と続ける。
「――どうやら、長嶺家は朝葉に思うところがおありらしい。それなら、こちらも相応の対応を取らせていただきます」
「まっ、待ちなさい! 言いがかりだ、そんなことは誓ってありえない!」
「ならば、今回のことに関しての説明を。私としては、最低限でも長嶺杏花に同じ痛みを味わってほしいと考えています」
「同じ……?」
「両頬が腫れ上がるほど殴りつけてもよろしいか、と聞いています」
 すると京介は身を小さくしながらも、納得がいかないように眉根を寄せた。
「……今の話を聞く限り、相手は只人だろう? それも使用人相手に大袈裟な――ひいっ!」
 最後まで言わせることは、しなかった。亮介の目の前で湯呑み茶碗が割れたのだ。
「大袈裟、と今おっしゃっいましたか?」
 あと一言でも余計なことを言ったらどうなるか、亮介も悟ったのだろう。彼は「わかった!」と身を震わせ叫んだ。
「杏花には私から厳しく言い聞かせる!」
「二度目はないと肝に銘じておくように、とも伝言を」
 話は済んだ。立ち上がった時雨だが、最後にどうしても気になった疑問を口にする。
「長嶺殿」
「なっ、なんだ?」
「あなたは、私のもとにいる娘の名を覚えていますか?」
「……凜花だろう。それが、何か?」
 まるで興味なさそうに答えた京介に、時雨はもはや何も言わずに背中を向けた。
 これ以上は一秒だってこの男と言葉を交わす価値はないと、そう思ったから。

 見送り固辞した時雨は、自家用車に乗り込み軍へと戻る。
 幸いにも長嶺杏花と鉢合わせることはなかった。
 京介がそう采配したのかは定かではないが、どちらにしてもそれでよかったと心から思う。もしも直接顔を見たら、自分でも怒りを堪えられるかわからなかったから。
 宮田は杏花を「悪女」と呼んだが、時雨はそんな生やさしい言葉は到底釣り合わないと思っている。血の繋がった双子の妹を徹底的にいたぶり、みどりに暴行した女。
「――化け物が」
 吐き捨てた直後、時雨は自嘲する。
(それは、私も同じか)
 実父の朝葉道景は時雨を罵る際、「化け物」と呼ぶ。時雨はそれを否定したことは一度もなかった。
 眠る女の血を啜る自分は、化け物以外の何者でもないのだから。
 酷く疲れていたから、凜花が眠っていると思っていたから……なんて、何の理由にもなりはしない。
 それから軍本部に戻った時雨が隊長室の椅子に座って間もなく、宮田が入ってくる。彼はまっすぐ時雨のもとへやってくると、一通の手紙を差し出した。
「……なんだ、これは」
「ん? 俺からの恋文」
「そうか、燃やすか」
「って、冗談だよ馬鹿野郎、すぐに燃やそうとする奴がいるか!」
 人差し指にぽっと炎を灯した途端、宮田は慌てて手紙を天井高く上げる。
「ただでさえ最悪な顔色をしてるってのに、こんなことで貴力を無駄遣いするな!」
「顔色が悪いのはおまえが気色悪いことを言うからだ。それと、きゃんきゃんうるさい」
 注意しながらも本当のところは少しだけホッとしていた。
 やかましい男だが、長嶺家でのやりとりで精神的に疲弊していた今は、この軽薄さが少しだけありがたい。
「ったく、物騒なやつだな……。おまえ宛の手紙なのは本当だよ。朝早く、えらい顔の整った十代半ばくらいの女の子が届けに来た。『みどりと言えばわかるはずです』ってさ」
「みどりが?」
 手紙を受け取り、ハッとする。白い封筒には確かに「朝葉時雨様」と宛名が書かれているが、その筆跡は明らかにみどりのものではない。
「すごく綺麗な子だったけど、おまえの身内か何か?」
 その言葉に時雨は視線を宮田へと移す。
「……そんなところだ」
「へぇ。とにかく、確かに渡したからな」
 用は済んだとばかりに宮田は出ていく。
 余計な詮索をしないあたりもあの男の美徳だな、と思いながら時雨は再び封筒に目を落とした。
 みどりが持ってきたというのだから、差出人が凜花なのは間違いないだろう。
 最後に会ったのは十日も前。
 満月の夜、驚愕に目を見開く凜花に血に濡れた顔を晒して以来、時雨は一度も屋敷に戻っていない。
 ――いったい何が書いてあるのか。
 すぅ……と深呼吸をして気持ちを整えた時雨は、ゆっくりと封を開ける。
「どうして……」
 そして――たまらず、声を漏らした。
 手紙にはただ「話したい」「元気でいるのか、体調を崩していないか」「帰ってくるのをいつまでも待っている」という内容だけが書かれていた。
 意外なほどに短くて簡潔な文章。
 凜花の筆跡は繊細で、流麗で、控えめな彼女の性格を表しているようだ。
(なぜ私の帰りを待っている、なんて言えるんだ……)
 手紙を開ける直前まで、時雨は罵詈雑言が書かれていることも覚悟した。
 二度と顔も見たくないと、本当に怖かったのだと、説明しろと責める内容に違いないと思った。それなのに凜花はただの一言も時雨を責めなかった。
 むしろ、こちらの心配までしてくれている。
(彼女は、人を責めるということ自体したことがないのかもしれない)
 そしておそらく、怒るということも。
 幼い頃から虐げられてきた彼女は、息をするように謝罪をし、頭を下げる。
 そうすることで過酷な環境に置かれた自分の心を、体を守ってきたのだろう。
 体の内側から熱い感情が込み上げる。胸をかきむしられるようで、それでいて甘い痛みもともなう感覚の正体を時雨は知らない。 
「……そろそろ、潮時か」
(帰ろう)
 これ以上、逃げ続けても状況は変わらない。
 その夜。
 十日ぶりに屋敷に戻った時雨は、涙目で出迎えたみどりをなだめ、凜花の自室へと向かい、扉を叩いた。
「……みどり?」
 返ってきた声に時雨はすうっと呼吸を整え、そして言った。
「――私だ」
 直後、すぐにぱたぱたと駆けてくる音がする。しかし、鍵が開くより早く時雨は「開けなくていい」とそれを制する。
「……今の私が言ったところでなんの説得力もないが、この時間に女性の部屋に入るわけにはいかない」
 だから、と時雨は続けた。
「書斎で待っている。私も、あなたに話さなければならないことがあるんだ。急がなくていいから、ゆっくりおいで」
「……はい、時雨様」
 扉越しに名前を呼ばれた。ただそれだけなのに、なぜか胸がざわめいた。

 部屋の前から時雨の足音が遠ざかっていくと、凜花はふっと扉の前で座り込んだ。
 ……安心したのだ。
 昼間、みどりは確かに手紙を届けてくれた。
 しかし、この時間になっても帰宅しないことに「やはりだめだったか」と諦めかけていたからこそ、こうして帰ってきてくれたことが――凜花に話しかけてくれたことに心の底から安堵する。
(時雨様を待たせてはいけない)
 凜花は白のワンピース型の寝衣の上に上着を羽織り、時雨の書斎に向かう。
 そして、重厚な扉をノックした。
「どうぞ」
 返ってきた声に心臓が大きく跳ねる。同時に手が震えた。
 ――緊張する。
 何かはわからない。それでもこの扉を開けたが最後、今までとはなにかが大きく変わる……そんな予感がした。
 それでも凜花は迷わなかった。
 時雨と話がしたい、顔が見たい――そう心が訴えていたから。
「失礼いたします」
 凜花が扉を開けると同時に、窓の方を見ていた時雨がゆっくりと振り返る。
 十日ぶりに見る金の瞳と視線が重なった瞬間、凜花はひゅっと息を呑んだ。
 窓に背中を向けて佇む時雨が、とても疲れているように見えたのだ。
 神秘的な髪や瞳の色は最後に見たときと同じ。圧倒的な美貌も変わらない。
 それなのに酷くくたびれて見えるのはたぶん、顔色のせい。もとより透けるように白い肌はいっそ病的なまでに青白く、目の下にははっきりとした隈がある。
 月明かりを背に立つ姿は、この世のものとは思えない美しさと儚さが共存していた。
「凜花」
 ためらいがちに名前を呼んだ時雨は、慎重な足取りで凜花の方へとやってくる。
 月光を背にした彼はやはり、壮絶なまでに美しい。
 そうして凜花の前に立った彼は、戸惑いがちに口を開いた。
「……逃げないのか?」
 逃げる? 
「何から……でしょうか」
「私からだ」
「なぜ?」
 問い返すと、時雨は大きく目を見張る。
「私のことが、怖くないのか?」
 わけがわからない、と本気で思った。考える間もなく心がそれを否定する。
「ありえません」
 発した言葉は自分でも驚くほどに強かった。でも、本当にそうなのだ。
「私が時雨様を怖がるなんて――そんなこと、絶対に」 
「……あんなことをしたのに?」
 それが何を指すかは考えるまでもなかった。
 十日前。今と同じ月明かりが美しい夜、彼は凜花の血を啜ったのだから。
「はい」
「……なぜ」
 質問を重ねる時雨の瞳は、揺れていた。
 何が彼を不安にさせているのか、凜花にはわからない。
 今の彼はまるで迷子のようだと凜花は思った。
 彼に対して自分のような瑣末な人間が何ができるかはわからない。それでも、言わなければならないと思った。
「何か、事情がおありなのでしょう?」
 その問いに息を呑む時雨に、凜花は「やはり」と思った。
 時雨ならば、凜花のことなど指先ひとつでどうにでもできる。
 命を奪うなんて呼吸するよりたやすいはずだ。 
「理由もなしに時雨様があのようなことをするとは思えません。ですから……話していただけませんか?」
 何も知らず、ただ避けられているだけの状態はもう嫌だった。
「居候の身でこのようなことを申し上げるのは、生意気だと承知しております。そ
れでも……時雨様には、今までどおりこの屋敷に帰ってきていただきたいのです」
 だって。
「あなたがいないと……みどりが、とても寂しそうです」
 ――もちろん、凜花も。
 でも、心の声までは唇に乗せることはできなかった。
 みどりはともかく、凜花が寂しがっているといったところで、彼にとっては迷惑でしかないだろうから。しかし、これに対して返ってきたのは意外な言葉だった。
「あなたを居候だなんて思ったことは、一度もない」
 目を見開く凜花を、時雨は悲しげな……それでいて覚悟を決めた瞳で見返す。
「――全て、話すよ」
 でも、と続けて彼は言った。
「その前にあなたに見てほしいものがある」
 視線を凜花から外しておもむろに歩き出した彼は、暗幕の張られた壁の前で足を止めた。
(あれは確か、絵が飾ってあると……)
 初めて書斎を訪ねた際にの彼の言葉を思い出す。
『そこには絵が飾ってあるのだが、あまり私の好みではなくてね。外すのも面倒だから、そうして布で隠してあるんだ』
 その時の言葉を思い出す凜花の前で、時雨は暗幕を剥がす。
 現れたのは、肖像画だった。
 親子だろうか。一目で上流階級とわかる一家が描かれている。
 椅子に座りたおやかに微笑む女性と、彼女の肩に手を置く紳士、そして屈託のない笑顔で笑う可愛らしい男の子。皆、とても整った顔立ちをしている。
 凜花には、美術品の良し悪しはわからない。
 それでも、幸せそうな雰囲気はとても伝わってきた。
 だからこそ困惑する。
 彼は、この絵の何が気に入らないのだろう?
「これは、私が三歳の時の肖像画だ」
 静かに、時雨は切り出した。
「男は父の朝葉道景、女は母の朝葉小夜。そしてこの子どもが、私だ」
「……この子が、時雨様?」
「ああ」
 凜花はすぐにはそれ以上反応できなかった。
(だって、髪も瞳も……)
 ――色が、違う。
 両親はもとより絵の中の幼い時雨は、髪も瞳も真っ黒だった。よくよく見ると整った顔立ちには面影がある。しかし今、目の前に立つ彼とは色がまるで違う。
「幼い頃の私は、この国の多くの人間と同様に黒髪に黒い瞳を持っていた」
 遠い昔を懐かしむように、時雨は絵を見据えたまますうっと目を細めた。
「……私を産んだ母の小夜は伯爵家出身の令嬢で、貴人だった。本来なら同じく貴人の父と結ばれることはありえなかった。父には、普通の人間を伴侶に迎えて後継ぎを作る義務があったから。それでもふたりは周囲の反対を押し切って結婚した。そして……私が生まれた」
 視線を絵に向けたまま、時雨は淡々と語る。
「自分で言うのもなんだが、私が生まれた時は屋敷中が歓喜に沸いたらしい。貴人同士で結婚した両親は子どもを諦めていたから、喜びはひとしおだったんだろう。実際、小さい頃の私を両親はたいそう可愛がってくれていたようだ。もっとも、それも長くは続かなかったけれど」
「……何があったのですか?」
「両親が、純血の貴人の正体を知ったんだ」
「正体……?」
 ああ、と時雨は頷く。
「三歳を過ぎた頃から、私の髪や瞳は少しずつ色素が抜けていった。初めは何かの病気かと疑われたが、調べるうちにそうではないことがわかった。――私が貴力を使うたびに、色が変化していったんだ」
 幼い時雨は特に気にも止めなかった。でも、両親は違った。
「日に日に変化していく私を見て、両親は心配になったんだろう。方々に手を尽くして、数百年前の純血の貴人について記された書物を片っ端から収集した。そして、純血の貴人は――私には、膨大な貴力を有する代わりに他の貴人が持ち得ない特徴があることがわかった」
 そして、彼は言った。
「本来の私は、三十年と生きられない体らしい」
「っ……!」
 瞠目する凜花を振り返ることなく、彼は落ち着きの払った声で言った。
「純血の貴人は、体の中に通常の貴人の何倍もの貴力を有している。それだけで寿命は削られていくそうだ。だがそれを回避する唯一の方法がある。それが、『番』を伴侶に迎えることだ」
 ――つがい。
 反芻する凜花に、時雨は頷く。
「この世でたったひとり、番の血のみが純血の貴人を生きながらえさせることができる。番の血を定期的に接種することで寿命は伸びるんだ。――逆を言えば、番のいない純血の貴人は、例外なく三十歳を迎える前に死ぬことになる。二十代半ば頃から急速に老いていき、見た目の若さはそのままに体は老人のようになる。……そう、書物には記されていた」
 その特殊な性質ゆえに一度は純血の貴人は滅び、自然と只人の伴侶を迎えるのが主流になっていったのだろう、と時雨は語る。
「自分の子が短命だと……人の血を啜る化け物だと知った母は、心を病んで私が五歳の時に病で亡くなった。母を深く愛していた父は、母が亡くなる原因となった私を憎むようになった。それにもかかわらず父が私の正体について隠しているのは、私のためではない。母が『化け物を産んだ女』と言われるのを恐れたためだ」
 もしも番と出会わなければ、時雨は三十歳を迎えず死ぬ。そのときのために、予備が必要だと考えた道景は、子どもを作るためだけに次々と女性と関係を持った。
「その中で生まれたのが貴人の和泉と、貴力を持たないみどりだ」
 ふたりの母親は違う。
 貴人の和泉を産んだ女性は朝葉公爵夫人となり、みどりを産んだ異国の女性は誰にも愛されず、見向きもされない日々に絶望し、自ら命を絶った。
 道景は、只人のみどりには見向きもしなかった。だが時雨にとっては母は違えど可愛い妹。そのまま放っておけるはずもなく、成人と同時に彼女を引き取った。
「人外の力を持ち、人の血を飲まずには生きられない私は、父の言うとおり化け物なんだろう」
「そんなっ……!」
「いいんだ。本当のことだから」
 静かに凜花の言葉を遮り時雨は言った。
「本来なら私のような化け物は、天命に従って死ぬべきなのだと思う。でも、私にはまだ生きなければならない理由があった」
「理由……?」
「ああ。みどりが――あの子が、成人して結婚し、幸せになるのを見届けてからではないと私は死ねない」
 だから、と。
 ゆっくり時雨が振り返る。
「私は、あなたを利用した」
 今にも消えゆく雪のように儚く、時雨は言った。
「初めてあなたに会ったとき、私は喜びで震えた。……私は今年二十四歳になった。そう遠くない未来に死を待つだけだと思っていたからこそ、あなたと出会えたことを奇跡だと思った」
 ――ああ、これでみどりの将来を見届けられる。
 そう思ったのだ、と時雨は語る。
「私は、嫌がるみどりに命じてあなたの食事に睡眠薬を混ぜた。そうして眠るあなたの血を吸ったんだ。――私は、あなたを利用するためにここへ連れてきた」
 声は、かすかに震えている。
「屋敷に来た当初、あなたは酷い眠気と倦怠感に襲われていただろう。あれは、私があなたが寝ている間に血を吸っていたからだ。その後、体が軽いと感じたのは私の血にあなたの体が適応したからだと思う。番となった伴侶は、血を提供する代わりに丈夫な体を得るらしいから」
 この告白に脳裏をよぎったのは、過去のふたりの言動だった。
 屋敷に来た当初、彼らはことあるごとに凜花の体の心配をした。
 よく眠れているか、体は大丈夫か……と。
 あれは、時雨が凜花の血を吸っていることの裏返しだったのだ。 
 仕事を欲しがる凜花に『何もしなくていい』と言ったのも、すでに血をとっているからと……そういう意味だったのだ。
 ようやく腑に落ちた。散らばっていた点と点が繋がり、線になる。
「――これが、私の隠していた全てだ」
 語り終えた時雨は、いっそう白い顔をしていた。
 幽鬼のように佇む姿は、まるで判決を待つ罪人のようですらある。
 そして時雨は、おもむろにその場に両膝をつく。
「時雨様⁉︎」
 声を上げた凜花を、時雨はまっすぐ見据えた。
「眠るあなたに無体を強いたこと、何も説明せずに逃げたこと……あなたを、私の目的のために利用したこと。――本当に申し訳なかった」
「おやめください! 時雨様がそのような……!」
「いいや。どれだけ謝罪してもし足りないほどのことを私はした。それでも……どうか、私に力を貸してほしい」
「力……?」
 反芻すると「ああ」と時雨は力なく頷く。
「ずっと、とは望まない。だが、せめてあと三年――みどりの成人を見届けるまで協力してはもらえないだろうか。あなたの血を……私に分けてほしいんだ」
「時雨、様……」
「それを許してくれるのであれば、私は、私の持ちうる全てを使ってあなたの望みを叶えるよう努力する。あなたが嫌だと言うなら、血をもらう以外では一切あなたに触れないと誓う」
 だからお願いだ、と時雨は深く、深く頭を下げる。

「――私の番で、いてほしい」

 こんなにも切ない願いがあるだろうか。
 こんなにも優しい想いがあるだろうか。
 自分が生き延びるためではない。彼は今、他でもない妹のために願っている。
 その姿を前に、答えはひとつしかなかった。
「嫌です」
 ビクッと肩を震わせる時雨に凜花は言った。
「三年なんて……触れないなんて、言わないでください」
 弾かれたように顔を上げた時雨に凜花は微笑んだ。
「私なんかの血でいいのなら、十年でも、二十年でも……私の命が続く限り差し上げます」
「凜花……?」
 信じられない、とその顔は言っていた。
「私の血で時雨様が元気になってくださるなら、断る理由がありません。全部……は困りますが、あなたが必要な分だけ差し上げます。大丈夫です。私、こう見えて頑丈にできているんですよ」
 十八年間。たくさん叩かれ、虐げられ、痛い思いをしてきた。
 それを思えば多少血を吸われるくらい、なんてことはない。
「……どうしてだ?」
「え?」
「なぜ、私を前に笑えるんだ? 化け物の私に――」
「時雨様は、化け物なんかじゃありません」
 純血の貴人が実は短命であることも、彼の両親についても。
 次々と明かされた衝撃的な事実に、思考が追いついていないというのが正直なところだ。それでもひとつだけ、はっきりと思ったことがある。
 時雨は、確かに特別な人だ。
 貴人の中でも唯一の存在で、絶対的な権力を持ち、生まれも、立場も、財力も申し分ない天上人のような人。彼に比べれば凜花など地面を這いつくばる蟻でしかない。 
 出会った時も、今もその気持ちは変わらない。
 でも、それだけではないのだとようやくわかった。
 ――彼もまた、凜花と同じ人なのだ。
 父の言葉に傷つき、血を分けた妹のために生きながらえようともがく、誰よりも美しくて、愛情深い人。
「あなたは、とても優しくて……心の温かい人だと、私は思います」
「違う。私は優しくなんてない」
 まるで肯定されるのが罪であるかのように、時雨は首を横に振る。しかし、凜花は引かなかった。絨毯についていた彼の手にそっと自らの手を重ねる。
「時雨様は、私を長嶺から連れ出してくれました。安心して眠れる寝床と清潔な服を、温かい食事をくださいました」
「……私の都合であなたを連れ出したのだから、当然だ」
「お守りをくださいました。甘味処にも連れて行ってくれました」
「それも、機嫌取りをしただけだ。適当に優しく振る舞って、好印象を持たれた方が色々とやりやすいから――」
「それでもっ!」
 何を言っても否定する時雨に、凜花は初めて声を張り上げた。
「私はっ……私は、時雨様に救われました!」
 目の前で時雨が言葉を失うのがわかる。
 金の瞳は濡れていないのに、まるで涙を流しているようだと凜花は思った。
 ――ほんの一瞬。
 目の前の大人の男と、絵の中の幼い少年が重なる。
「私の血が必要なだけなら、こんなふうに手厚く迎え入れる必要はありませんでした。納屋でも地下にでも閉じ込めて、必要な時だけ血を吸えばよかった……適当に生かせばよかった」
 気まぐれに呼び出し、怒鳴り、折檻をした杏花のように。
 それが当然だった凜花は、時雨にそうされたところで黙って受け入れただろう。
「でも、時雨様はそんなことはしませんでした」
「そんなの……当然だろう?」
 その言葉に「ああ、やはり彼は優しいな」と改めて思う。
「私にとっては違います。私をひとりの人間として扱ってくれたのは、時雨様とみどりが初めてでした」
 重ねていた手をゆっくりと持ち上げ、包み込む。
 大きな手だ。柔らかくて、温かくて、凜花を救ってくれた優しい手。
「時雨様は優しいです。私は、あなた以上に優しい人を他に知りません。時雨様だけが、私自身を見てくださいました。私を……必要だと言ってくださいました」
 なんの役にも立たない出来損ないの自分を求めてくれた。
 それだけが、凜花にとって揺るぎない事実。
「私に会えて嬉しいと……そばにいてほしいと言われた時、胸が震えるほどに嬉しかったんです」
 声が震えた。重ねた手のひらも、震えている。
 それが伝わったのだろうか。金の瞳を揺らした時雨は、今宵初めて微笑んだ。
「……あなたは、優しすぎる」
 ――ありがとう。
 続くその言葉に、眩しいほどに綺麗な彼を前に、凜花は思う。
 生まれてから今日までずっと、自分のことが嫌いだった。
 取り柄は姉と同じ顔だけで、それ以外は何も持たない不出来な己を恥じていた。
 役立たずで鈍臭くてのろまな自分は、存在するだけで邪魔なのだと思っていた。
 でも、違ったのかもしれない。少なくとも今の凜花にはそう思えた。

 ――自分は、時雨に出会うために生まれてきたのだ。
 
 凜花は、今、初めてこの世に生を受けたことを感謝した。



 東倭国陸軍貴力精鋭部隊。
「軍の何でも屋」の異名を持つこの部隊はいつだって人手不足で、仕事も山積みだ。現場仕事がなくとも隊長の時雨のもとには事務仕事が絶えずやってくる。
 現に今も、隊長室の執務机の上には各種報告書やら経費申請やら、ありとあらゆる書類が積み重なっていた。
 ふだんの時雨であれば、淡々と目の前の仕事を処理していく。
 無駄口を叩くのなんてそれこそ宮田がいるときくらいのものだ。
 しかし今、執務椅子に座った時雨は珍しくひとり物思いに耽っていた。
 目の前には決済待ちの書類があるが、いっこうに手を伸ばす気になれない。
 代わりに頭に思い浮かんだのは、この世にたったひとりの己の番のことだった。
 ――凜花は今頃何をしているだろう。
 日が暮れようとしている今は、みどりと共に夕飯作りをしている頃だろうか。
 もしそうだとしたら今日はなるべく早く帰りたい。緊急出動がないとよいのだが……。

 そうまで考えたところで、ハッと我に返った時雨はたまらず机に突っ伏した。
「何を考えているんだ、私は……」
 仕事をしろ、仕事を。
 そう自身に活を入れると同時に扉が叩かれる。
「隊長、入りますよ――」
「待てっ、宮田!」
 制止も虚しく扉が開かれる。書類の束を抱えて入ってきた宮田は、慌てて机から上半身を起こそうとしていた時雨を見て怪訝そうに眉を顰めた。
「……何をしているんだ?」
「なんでもない」
 時雨はこほん、と咳払いをするが我ながらわざとらしすぎた。
 それに副官の宮田が気づかないはずもなく、書類を机の上にどさりと置いた彼は、何かを探るように目を細めた。
「もしかして……」
「なんだ」
「女、できただろ」
「…………は?」
 一瞬、理解が追いつかずに返事が遅れる。するとその間を肯定と捉えたのか、宮田は途端に目を輝かせた。
「やっぱりなぁ! そうだと思ったんだよ。最近のおまえはどうにも上の空だったからな。そのくせ少し前は幽霊みたいな面してたのに、今じゃすっかり顔色もいい。教えろよ、どんな女――」
「私語は慎め、馬鹿者が」
 機関銃のように一気に捲したてる部下にピシャリと言い放つ。しかし、宮田はにやにやと緩み切った顔で「何を言ってるんだよ」とおどけるように肩をすくめた。
「緩みきった面をした今のおまえにだけは言われたくない。自覚がないなら鏡を見てみろ」
「…………」
 そんなに酷いだろうか。
 仕方なく時雨は引き出しから手鏡を取り出してみるが、そこに映るのは見慣れた仏頂面の自分の顔。別にいつもどおりだ、と視線を鏡から副官に移して後悔する。
 宮田が、肩をくすくすと震わせて笑いを噛み殺していたのだ。
「……宮田」
 あえて低い声で呼べば、宮田は耐えきれないとばかりにぶはっと噴き出した。
「わ、悪い……やっぱりおまえ、箱入りだよな。昔から変なところで素直だったし」
「それをいうなら伯爵家次男のおまえもそうだろうが」
「うちと公爵家とじゃ比較にならねえよ。それにしても、朝葉をこうも骨抜きにするなんて、いったいどんな女だ? 年上のおねーさまとか?」
「うるさい、凜花は――」
 言いかけて、ハッとする。慌てて口をつぐむもすでに遅く、宮田は先ほど以上に緩み切った顔で「へぇ」と唇の端を上げた。
「凜花、ねぇ」
 宮田が凜花の名前を口にした途端、なぜかもやっとした。しかしその理由について深く考えることはなく、時雨は「宮田」と冷ややかな声で副官の名を呼ぶ。
「あと一言でも余計なことを言ってみろ。降格処分にするぞ」
 もちろん冗談だ。私情で階級をどうこうするようなことは時雨はしないし、第一、自分の副官はこの男以外は務まらない。
 しかし、宮田は本気と捉えたのか「それはないだろ!」と文句を言いつつも口をつぐむ。そうしてようやく静かになると、時雨は仕方なくため息をついた。
「……私は、そんなに浮ついているように見えたか?」
「そりゃあもう――って、そっちが話しかけたんだから話していいんだよな」
 いいに決まっているだろう、と時雨が答えると、宮田は苦笑する。
「悪い、俺も少しからかいすぎた。いつもより表情が柔らかくなったのは確かだけど、浮ついてるってほどじゃない。気づいてるのは俺くらいだと思うから安心しろ。――それで、実際のところはどうなんだ?」
「……どう、とは?」
「わかっているくせに。凜花って子は、ようやく見つけた伴侶なんだろう?」
 時雨は目を見張る。
 凜花の存在については彼にも明かしていない。
 選定の儀で起きたことについても、他の候補者には他言無用の制約を課した。宮田は時雨が純血であることは知っていても、番については何も知らないはずだ。
 知っているのは時雨の把握している限り、父とみどり、そして凜花だけ。
 それなのになぜ、時雨の変化と伴侶の存在を結びつけたのか。
「……どうしてそう思った」
「何年の付き合いだと思ってる。それくらい見ていればわかるさ」
 宮田はあっけらかんと答えた。
「それにしても、朝葉もついに妻帯者かぁ」
「……まだ入籍はしていない」
「へぇ。じゃあ婚約者ってわけだ」
「まぁ、そうだな」
 答えながらもだんだんとむず痒くなってくる。
 いい年をした大人の男が、職場で恋愛話をしている状況がなんとも居心地が悪い。しかしそう感じているのは時雨だけなのか、宮田は実に楽しげである。
「せいぜい逃げられないように頑張れよ。まぁ、おまえならなんの心配もないか。それで、俺には会わせてくれないのか?」
 水臭いな、とわざとらしく肩をすくめる宮田に時雨は息をつく。
「……そう遠くないうちに紹介するさ」
 嘆息する時雨に宮田は「楽しみにしてる」とにこやかに微笑んだのだった。

 夕方。職務を終えた時雨は、とある目的のためにひとり市街地に赴いた。
 目当ての店で注文していた品を受け取り、その後は寄り道することなく早々に自動車で屋敷へと戻る。その道中、時雨はハンドルを握りながら宮田との会話を思い返した。
(――確かに、浮かれているな)
 少なくとも職務中に他のことに気を取られる、なんてことは今まで一度もなかった。それにもかかわらず、最近の時雨はふとした瞬間に凜花のことを考えてしまう。
 きっかけは、二週間前。
 全てを告白した時雨を、凜花はただの一言も責めなかった。
 時雨を「優しい」と、「ありがとう」と言ってくれたのだ。
 時雨が彼女のためにしたことなんて、本当にささやかなことばかりだ。
『……時雨様の光気は、こんなにも輝いているのでしょうか』
『あなた様の瞳と同じ色ですね。本当に綺麗……』
 父は気味が悪いと蔑む瞳を、彼女はうっとりとした声で「綺麗」と言った。
『ありがとう、ございます……』
 甘味処に連れて行っただけで、泣きそうな顔で礼を言った。
 いずれも時雨にとっては取るに足らない好意を、凜花はまるで玉石を与えられたように喜んだ。
 ――なんて健気で、いじらしい。
 これまで凜花はとても過酷な環境に置かれてきた。
 血の繋がった親には娘と認められず、下女として扱われる。
 その状況はみどりにとてもよく似ていた。
(みどりには私がいた。でも……)
 凜花は、違う。
 みどりにとっての時雨は、凜花にとっての杏花にあたる。しかし、凜花と血を分けたたったひとりの姉は、こともあろうに自分と同じ顔をした妹を下僕と蔑み、虐げた。
 だからこそ時雨は心に決めた。
(今まで苦しんできた分、私が凜花を大切にする)
 当初、時雨が凜花に丁重に接していたのは、騙して血を得ることへの後ろめたさがあったからだ。
 でも今は、違う。ただひたすらに凜花を大事にしたいし、慈しみたい。
 時雨は運転をしながらちらりと隣の席に視線を向け、そこに置いたものを見た。
 ――彼女は、喜んでくれるだろうか。
 凜花の笑顔を想像しているうちに、車は屋敷に到着する。
「時雨様」
 玄関では凜花とみどりが揃って出迎えてくれた。
 並ぶふたりを見ていると、髪や目の色はまるで違うのになんとなく姉妹のようで、心が温かくなるのを感じる。
「おかえりなさいませ」
「――ああ、ただいま」
 楚々とした百合のようなこの笑顔を守りたいと、強く思った。

 番としての役割を知った夜をきっかけに、屋敷における凜花の役割は少しだけ変わった。婚約者としての立場はそのままに、今まではみどりがひとりで担っていた家事を手伝うようになったのだ。
 純血の貴人や番について明かした時雨は、引き続き屋敷では自由にしてよいと凜花に言った。
 何もせずにおだやかに、のびのびと羽を伸ばしてほしい、と。
 ならば、と凜花は以前と同じお願いを彼にした。
 ――この屋敷で働きたい、と。
 この屋敷における自分の存在意義は、血を時雨に捧げること。
 それがわかったからといって、何もせずに惰眠を貪ることはやはりどうしてもできなかった。
 この凜花の願いに、時雨は「わかった」と渋々ながらも頷いてくれた。
 ただし、基本的には屋敷を出ることはしない、という条件付きで。
 どうやら時雨は、以前市街地であったことをかなり気にしてくれているらしい。
 必要なものがあればみどりに買い出しを頼み、それ以外のやむをえないときは時雨が休みのときに共に出かけるように、と凜花に言い含めた。
 以降、凜花は、日中はみどりとともに屋敷の掃除や時雨の衣類の洗濯など、家事のひととおりをこなすようになったのだった。
 その一方で、時雨は挨拶のように「何か必要なものや欲しいものはないか」と聞いてきた。そのたびに凜花は「ありません」「十分すぎるほどよくしていただいております」と返している。
 それから二週間がたったある日の夜。
 時雨の帰宅後、食堂の夕食の席にて。
「――この魚の煮付け、美味しいな」
 感心する時雨に凜花は笑う。
「よかったです」
 縦長の大きなテーブルを挟んで時雨の対面に座る凜花は、心の中で安堵の息をつく。
(やっぱり、時雨様は薄い味付けの方がお好きのようね)
 最近では自然と朝食はみどりが、夕食は凜花が主に作るようになっていた。
 そしてみどりは、時雨の味付けの好みを凜花に教えなかった。
 意地悪ではない。
『これから先は、あなたの味がこの家の味になっていくのですから』
 そう言ってくれたのだ。
「やはり、みどりは今日も別なのか」
 ぽつり、と時雨は呟く。
 この場に妹の存在がないことが不満そうな姿に、凜花は「はい」と苦笑した。
「私も毎回誘ってはいるのですけれど……」
 答えながら思い起こされたのは、時雨が帰宅する少し前にしたやりとり。
 食事は一緒に取ろう、と声をかける凜花にみどりは言った。
『妹であろうと私は使用人です。それに、恋人の束の間の逢瀬を邪魔したくないので』
 もちろん凜花はすぐに「そんなことない」と慌てて否定したのだけれど。
 ――恋人、なんて。
(私と時雨様は、そのような関係ではないのに……)
 時雨が必要としてくれる限り、彼のそばに居続ける覚悟はできている。むしろ、この先の長い人生を時雨と一緒にいられるなんて、こんなにも幸せなことはない。
 でも、勘違いをしてはいけない。
 時雨が必要としているのは、あくまでこの身に流れる血である。
 凜花という「個」を欲しているわけではない。
 それにもかかわらずこうして心を配ってくれているのは、ひとえに彼の優しさから。凜花を異性として見ているわけではない。
 よくてふたり目の妹といったところだろう。
 ――妹。
 それでも過分なほどなのに、なぜか胸がざわめく。しかし、凜花はそれにあえて気づかないふりをした。
「ごちそうさま。今日もどれも美味しかった。……凜花?」
「あっ……は、はい。お粗末様でした」
 物思いに耽っていた凜花が慌てて返事をすると、箸を置いた時雨はわずかに眉根を寄せる。
「何かあったのか?」
「え?」
「それとも体調がすぐれない? そうだとしたら、今夜は無理をしなくても――」
「だ、大丈夫です!」
 時雨を遮った凜花は急いで否定する。
 今夜はこのあと、時雨の書斎を訪れることになっている。
 ――血を捧げるためだ。
 数日に一度、時雨は凜花の血を啜る。そうすることで彼は健康を保つことができるのだという。事実、この二週間で四回その機会を設けたが、時雨は目に見えて顔色が良くなった。
 彼のその姿を見るたびに凜花は安堵する。
 必要とされていると、感じることができるから。
「……お恥ずかしいですが、お腹がいっぱいになって、少し眠くなってしまったようです」
 ごまかすと、時雨は「ならいいが」と心配そうに眉を下げた。
 それから時雨を見送り、食事の片付けと入浴を済ませた凜花は、寝衣に上着を羽織り書斎へと赴く。場所は寝室ではないのは、時雨がそう望んだからだ。
 睡眠薬で眠らされていた以前ならともかく、同意の上の行為となった今、目的がどうあれ妙齢の男女が夜に寝室でふたりきりになるのは好ましくないから、と。
「失礼いたします」
 返事を待って中に入ると、執務椅子に座る時雨がふっと頬を緩める。
「もう少しで終わるから、座って待っていてくれるか?」
「はい」
 頷いた凜花は革張りのソファに静かに座る。対する時雨は、万年筆を手に何やら書き物をしている。
(……お忙しいのね)
 時雨は軍人であるが、朝葉公爵家の後継ぎでもある。凜花には考えも及ばないような仕事がたくさんあるのだろう。
 血を捧げ、家事をする。
 彼が凜花にしてくれたことを思えば、それだけでは到底足りない。
(番として以外でも……何か、力になれればいいのに)
 それが何かわからない自分をふがいなく思いながら、凜花は視線をなにとはなしに壁へと移した。以前見た家族の肖像画には、再び暗幕がかけられている。
「待たせてすまない」
 声をかけられた凜花が視線を時雨に戻すと、顔を上げた彼と目が合った。
「招待状の返事が溜まってしまって。都度返信をしているのに、それを上回る数がくるものだから困ったものだ」
「招待状、ですか?」
「ああ。夜会やら昼食会やら、毎日のようにあちらこちらから誘いが届く。こんなことは言いたくないが、断る方の手間も考えてほしいものだ」
 鬱陶しそうに肩をすくめる時雨に凜花は目を瞬かせた。
「……招待状を頂いて、嬉しくはないのですか?」
「嬉しい?」
 凜花は頷く。
 少なくとも杏花はそうだった。目立つことが大好きな姉は、招待状の束を前に「私は忙しいのに」と口では言いながらもまんざらではない顔をしていた。
 時雨は杏花のような目立ちたがりではないだろうが、招待されるということは、それだけ望まれているということではないのだろうか。
 凜花の疑問に時雨は苦笑する。
「確かに望まれてはいるのだろうが、彼らが求めているのは私自身ではなく『純血の貴人』だ。前にみどりも言っていたが、見せ物のようなものだ。気乗りはしないな」
「あ……」
 その答えに、己の考えの浅はかさを思い知る。
「申し訳ありません、その……」
「謝ることはない。むしろ、あなたのそういう純粋なところは美徳だ」
 顔を強張らせる凜花を宥めるように、時雨は微笑む。
「さて、この話は終わりだ」
 そうして立ち上がった彼は、凜花の隣にそっと腰掛けた。
 ぎしっとソファの軋む音にドクンと胸が跳ねた。自らの意思で血を捧げると決めてから、今日で五回目。それなのに、この瞬間はいつだって緊張する。
「――いいか?」
 頷いた凜花は、下ろしていた髪をかきあげ首筋を晒した。
 じっとこちらを見つめる金の瞳に自分が映っていることを、凜花は毎回奇跡のように感じる。時雨は片手を凜花の肩に、もう片方の手を顎に添えた。
「すぐに終わる」
「……はい」
 凜花の同意を得た時雨はゆっくりと顔を近づける。
 ――まるで、口付けを交わすようだ。
 きゅっと瞼を閉じると同時に鈍い痛みが首筋に走る。
「んっ……」
 声を漏らす凜花の皮膚を温かな舌がつうっとなぞった。
 それからすぐに顔が離れる気配がすると、かわりに大きな手のひらが噛み跡に触れる。ひだまりの中にいるような温かさは、時雨が治癒をしているからだ。
 唇が触れた瞬間から治療まで、十数秒にも満たない。
 そんなつかの間の番としての時間を、凜花は一瞬にも、何時間にも感じた。
 恥ずかしくて早く終わればいいという気持ちと、触れられているときの心地よさをもっと堪能したいという相反するふたつの気持ち。
 それらを感じながらも、凜花はふと違和感を覚える。
 首筋から手が離れると同時にソファが軋む音がしたと思った途端、髪を触れられたのだ。
「時雨様?」
 ぱっと瞼を開けた凜花は、驚いた。時雨がいつの間にか凜花の背後にまわっている。その上、なぜか彼はソファ越しに、下ろしていた凜花の髪に触れていたのだ。
「何を、されているのですか?」
「もう少しだけじっとしていて」
「は、はい」
 わけがわからないまま前を向く。そうこうするうちに「こうか」「……いや、こちらの方がいいか」と時雨はひとりごとを言いながら手を動かす。それからすぐに「よし」という声とともに手は離れた。
「……もう、よろしいですか?」
「ああ」
 振り返ると、なぜか満足そうな顔をした時雨が立っている。
(首がすうすうする……)
 時雨が髪を結ったのだろうか。でも、なぜ?
 戸惑いながらも凜花はそっと自身の髪の毛に触れて、ハッとした。髪になにかが挿さっている。
 まさか――。
 ハッとする凜花に、時雨は「こちらへおいで」と、暖炉の上の壁に設置された鏡の方へと誘った。時雨は凜花に手鏡を渡す。
「壁の鏡と合わせ鏡にしてごらん。そうすればよく見える」
「は、はい」
 言われるがまま凜花は、暖炉の上の鏡に背中を向けて手元の鏡を覗き込み――息を呑んだ。すっきりとひとつに纏められた髪を華やかに彩るものがあったからだ。
(髪飾り……?)
 金色のそれは、花の形をしている。
「時雨様、これは――」
「桔梗の髪飾りだ」
 驚きをあらわにする凜花に、時雨は穏やかに微笑む。
「あなたの成人祝いはうやむやになったままでいただろう? その後も何度も聞いてもあなたは何もいらないと言うから、こちらで選ばせてもらった」
 凜花、と。
 宝物のように優しい声で、彼は呼ぶ。
「改めて、成人おめでとう」
「っ……!」
「受け取ってくれるね?」
 今までの凜花なら。
『このような高価なものはいただけません』
 と、顔を真っ青にして誇示していただろう。
 でも、今は違う。
 こんなにも優しく温かな眼差しを向けられて、いらないなんて言えるはずがない――言いたくなかった。
(どうしよう)
 嬉しすぎて、胸が痛い。
「ありがとうございます。……一生、大切にいたします」
 これに時雨は「大袈裟だな」と苦笑する。
「桔梗の花言葉は色によって異なるようだが、『気品』『清楚』などがあるらしい。桔梗の凛と咲く姿があなたにとてもよく似ていると思って、選んだ」
「私に……?」
 頷いた時雨は笑顔で言った。
「『凛とした花』。あなたそのものだ」
 まるで眩しいものを見つめるように目を細めて、時雨は微笑む。
 その柔らかな声色に、優しい眼差しに。
 ――ことり、と。
 心が動く音を、凜花は聞いた気がした。

 それからも日々は穏やかに過ぎていった。
 朝、時雨を見送ったあとは、みどりとともに家事をこなす。夕方になると夕食作りに取りかかり、時雨を出迎える。そうしてふたりで食事を囲み、眠りにつく。
 平穏な毎日に慣れる一方で、凜花はいまだに夢のようだと思うことがある。
 今の凜花は過分なほどの待遇を受けている。
 生きる意味を見出せなかった自分を必要としてくれた人がいて、その上この先もずっと一緒にいてほしいと望まれたのだ。
 こんなにも幸せな日が訪れる日が来るなんて、実家にいた頃は想像したこともなかった。
 ――いつまでもこんな日々が続けばいい。
 そう思っていたある日、変化が訪れた。

 桔梗の髪飾りを贈られてから一週間ほどたった日の昼過ぎ。
 買い物に出かけたみどりの代わりに郵便を受け取った凜花は、うちのひとつを見て目を見張った。白の封筒には、手習の手本のような流麗な筆跡で『長嶺凜花様』と自分の名前が書いてあったのだ。
 凜花は、驚きながらも差出人を見て絶句する。
 ――朝葉道景。
 そこには、時雨の父であり、朝葉家の現当主の名前があったのだ。
「どうして……」
 玄関の前で立ち尽くしていると、ちょうどみどりが帰ってくる。
「ただいま戻りました」
「あ……」
「……何かあったのですか?」
 顔面を蒼白にする凜花を見るなり、みどりは眉をひそめた。
 わずかなためらいの後、凜花は手に持った封筒をみどりに見せる。受け取った彼女は差出人を見るなり一瞬肩を震わせ、さあっと血の気の引いた顔をした。
 その表情に「しまった」と思う。
 朝葉道景はみどりの実父だ。しかし、ふたりの間に親子としての交流は皆無だったと時雨から聞いている。名前を見ただけでこの様子では、彼女にとっても当然のように好ましい相手ではないのだろう。
 それなのに迂闊に見せてしまった己を恥じる。
 しかし、「ごめんなさい」と凜花が口を開くよりも早くみどりは言った。
「中は、読んだのですか?」
 凜花は首を横に振る。
「私が勝手に開けていいものだとは思えなかったから……」
「懸命な判断です。開封する前に時雨様にお見せした方がいいかと。……もっとも、何が書いてあるかはおおよそ見当はつきますが」
「……どういうこと?」
 目を瞬かせる凜花に、みどりは忌々しそうに眉間に皺を寄せて答える。
「朝葉公爵は、自分の誕生日を祝うという名目で、毎年この時期になると朝葉家の分家や、近しい友人らを本邸に招いて夜会を開くんです。その手紙の中身はおそらく夜会の招待状でしょう」
 いい年をした男が誕生会なんて、と毒づく姿からは朝葉道景に対する嫌悪が滲み出ている。
「この夜会には時雨様も出席されます。それなのにあなたを名指ししてきたのは、こうでもしないと時雨様があなたを連れてこないと思ったからでしょう。実際、時雨様は公爵に『伴侶の顔を見せろ』と何度も言われているようですし」
 初耳だった。
「でも、そんなこと時雨様は一言も……」
「あえて耳には入れないようにしていたのでしょう。……本邸は、只人にとって居心地の良い場所とは言えませんから」
 それが実体験から来る言葉なのは間違いなかった。
「……もしも私が夜会に行かなかったら、どうなるのかしら」
「どうにもなりません。実質、今の朝葉家を動かしているのは時雨様です。せいぜい周りが影口を叩くくらいかと。純血の貴人相手に面と向かって文句を言える人はそうそういませんし」
 逆に言えば、凜花が欠席すれば時雨が悪様に言われるということだ。
 嫌だ、と率直に思った。
 時雨自身が気にしないとしても、凜花のせいで時雨が後ろ指をさされるなんてあってはならないことだ。
「時雨様はあなたのことが大切だから、連れていきたくないのでしょうね」
「大切……」
「まさか、自覚がないとでも?」
 呆れるような、からかうような口調に凜花は慌てて首を横に振る。
「十分すぎるほどよくしていただいているわ」
「それならいいんです。水晶まで贈られているのに、これで自覚がないと言われたら、さすがに時雨様に同情します」
 みどりがそうも言うということは、やはりあの琥珀色の水晶はとんでもなく価値が高いらしい。改めて自分はとんでもないものを持っているのだな、と服の上からそっとお守りに触れる。
「もっとも、そうでなくともあなたは鈍そうですから、時雨様くらい行動に移さなければ伝わらないのでしょうね」
「鈍い……?」
「そういうところです」
 意味がわからず目を瞬かせる凜花に、みどりは悪戯っぽく微笑んだ。

 その夜。
 凜花は、時雨が食事を終えたのを見計らい、昼間の手紙を差し出した。
 それを見るなり彼の顔は一気に不愉快そうなものに変わる。そうして時雨が開封したところ、予想どおり中身は夜会への招待状だった。
「不愉快な思いをさせたな。これは私の方で処理しておくから、あなたは何も気にしなくていい」
 話は終わりだ、とでもいうように時雨は乱暴な仕草で招待状を封筒に戻す。
 それを見ていた凜花は、意を決して切り出した。
「私も、ご一緒してはいけないでしょうか?」
 目を見張る時雨に、凜花はためらいながらも続けた。
「私は……私のせいで、時雨様は悪く言われるのは嫌です」
 正直に告げると、時雨はふっと表情を和らげた。
「そんなことをあなたが気にしなくてもいい。影で何を言われようと、直接私に意見しようなんて人間はいないのだから」
 つまりそれは、意見しないだけで彼を悪く言う人が確実にいるということだ。
 それを時雨の口からはっきり聞いたことで、凜花の気持ちは定まった。
(時雨様は、長嶺から……杏花から私を守ってくださった)
 そして、朝葉公爵は実の子である時雨を「化け物」と罵るのだと言う。
 だからこそ凜花は時雨のそばにいたかった。只人の自分にできることは、それしかないから。
「時雨様」
「……なんだ」
 凜花がこれから何を言おうとしているのか、きっと彼は気づいている。難しい顔をしているのもそれ故だろう。それでも、凜花は言った。
「私は、あなたの番です」
 今すぐ結婚すると言い切るほどの覚悟は、まだ持てない。
 時雨の妻になると言うことは、すなわち次期朝葉公爵夫人になるということだ。
 公爵夫人。この国でたった三人しか存在しないその席に自分が座るなんて、想像しただけでも身がすくむ思いがする。それでもこの先ずっと、彼のそばにいたいと思う気持ちに嘘はない。
「時雨様の番である私は、いずれ朝葉公爵様にお会いすることは避けられません」
「凜花……」
「そもそもこちらでお世話になっている以上、もっと早くにご挨拶を申し上げるべきだったのだと思います。ですからどうか、私もご一緒させてはいただけませんか?」
 時雨はすぐには答えなかった。思い悩むように眉根を寄せた彼は、じっと凜花を見据えている。やがてためらいがちに彼は口を開いた。
「……夜会に参加するほとんどが貴人だ」
「承知しております」
「……父は、典型的な貴人だ。貴力を持たない人を蔑み、自分は特別なのだと思い込んでいる。そんなところにあなたを連れて行っても嫌な思いしかしないだろう。それでも、行きたいと?」
「はい」
 何を言っても引かない凜花に、先に折れたのは時雨の方だった。
「――わかった。一緒に行こう」
 その言葉に凜花が礼を言おうとした、そのとき。
 時雨は覚悟を決めたかのような真剣な表情で、凜花を見据えた。
「あなたのことは、私が守る」
 ただ一心に凜花を見据える眼差しに、声色に。
 胸のときめきを抑えることは、できなかった。

 夜会当日。
 自室の姿見の前に立つ凜花は、人生二度目の「自分に見惚れる」経験をしていた。
(私じゃないみたい……)
 鏡の中に映る凜花は今、鮮やかな薄紫色の着物を着ている。裾の部分に流麗な桔梗の柄をあしらった着物は、今日のために時雨が仕立ててくれたものだ。
 普段は簡素に一つに結んでいるだけの髪は、みどりの手によって一部の乱れなくすっきりと纏められた。うなじがすうすうとしているのがなんとも落ち着かないものの、髪を上げることでほっそりとした首筋が際立っているように見える。
 そうしてうっすらと化粧を施した凜花は、紛れもない令嬢だった。
 もしも長嶺の使用人がこの姿を見ても、おそらく凜花だとは気づかないだろう。
 それだけではない。
(杏花とも、違う……?)
 本来、同じ顔で、上等な着物を着れば杏花と瓜二つになるはず。
 それなのに今、凜花は漠然と姉とも別人のようだと思った。
 しかし、その理由がわからないでいると、みどりは仕上げに髪飾りを挿してくれる。先日、時雨から贈られたものだ。
「完璧ですね」
 鏡越しに満足そうに頷くみどりに凜花が礼をいうと、彼女はふっと微笑んだ。
「そういえば、桔梗の花言葉を知っていますか?」
 不意の質問に凜花は目を瞬かせる。
「確か、時雨様は『気品』や『清楚』といった意味があるとおっしゃっていたけれど……」
「そうですね。でも、それだけではありません」
「他の意味があるの?」
 ええ、と頷き、みどりは言った。
「紫色の桔梗の花言葉は、『変わらぬ愛』」
「え……?」
「時雨様は、なぜこのお着物を選ばれたのでしょうね?」
 悪戯っぽく微笑むみどりに凜花は何も答えられなかった。
 ただ、鏡に映る自分の顔は耳まで真っ赤だった。

「――どこか調子でも悪いのか?」
 みどりに見送られて屋敷を出てまもなく、ハンドルを握る時雨は言った。
 隣を見ると、正面を見据えた時雨が眉間に皺を寄せている。
「なぜ、ですか?」
「先ほどから何も言わないから。無理をしているようなら――」
「あっ……そうではないのです!」
 凜花が慌てて否定すると、当然のように「では、なぜ?」と質問される。
 これに凜花は「うっ」とまたも返事に詰まった。
 一瞬、答えが喉元まで言葉が出かかるが、寸前で引っ込める。
 口数が少ないのは、出発前にみどりから聞いた話が原因だ。
 そうだとしても、本当のことなど言えるわけがない。
『紫の桔梗の花言葉を知った上で、この着物を選んでくださったのですか?』
 なんて。
 そんなことを口にしたら「私を好きなのですか?」と質問したも同然だし、そもそも自惚れが過ぎるというものだ。
 きっとただの偶然だろうと結論づけて、凜花は呼吸を整えた。
「その……少し緊張していたのだと思います」
 嘘は、ついていない。
 これから朝葉本邸に向かい、時雨の家族と対面することを考えると自然と背筋が伸びる。ただ、桔梗の花言葉の衝撃がそれを上回ってしまったというだけで。
 幸いにも運転中で前を見据える時雨に凜花の拙いごまかしは通じたようで、それ以上追求されることはなかった。そうして彼の車に揺られること、しばらく。
「凜花」
 不意に、名前を呼ばれる。
 隣を見ると、彼は前を見据えたまま口を開く。
「その着物、とてもよく似合っている。姉とは似ていないな」
「え……?」
「あなたの方が、百倍綺麗だ」
 ちらりと横目で凜花を見た時雨はふっと微笑む。そのとても優しい笑みや言葉に、凜花は一度は引いたはずの熱が再びぶりかえすのを感じた。
 いくらなんでも褒めすぎだ。そう思うのに、頬が緩むのを止められない。
「……ありがとう、ございます」
 言えたのはただそれだけ。
(顔が、熱い)
 それから本邸に到着するまで、凜花はあえて時雨とは反対の方を見続けた。
 どうか顔の火照りが治まりますように、と願いながら。

「兄上」
 朝葉本邸に到着したふたりがエントランスホールに踏み入れると、すぐに声をかけられる。揃って声の方に目を向けると、黒髪に濃茶色の瞳をした青年がちょうど正面玄関から降りてくるところだった。
「……和泉」
 時雨がぽつりと呼んだ名前に凜花はハッとする。
(この方が、時雨様の弟さん……)
 そして、みどりのもうひとりの兄でもある。まさか朝葉公爵令息直々出迎えするなんて、と内心驚く凜花の前に、和泉は軽快な足取りでやってきた。
「はじめまして。朝葉和泉と言います」
 にこっと人好きの笑みを浮かべる和泉に、凜花は深々と腰を折る。
「長嶺凜花と申します」
 するとすぐに「頭を上げてください」と苦笑する声が頭上に振る。
「あなたはいずれ私の義姉上になる方だ。私相手に頭を下げる必要はありませんよ」
 そんなわけにはいかない、と本心では思いつつも、ここは素直に従った方が良さそうだと判断した凜花はゆっくりと顔を上げる。
 和泉は、依然笑みを湛えたままだ。
「お会いできてよかった。兄上が頑なに連れてこようとしないから、どんな方なのかとずっと気になっていたんです。でもその理由がわかりました。こんなにも可愛らしいお嬢さんでは、兄上が隠したくなる気持ちもわかる」
「……恐縮です」
 恭しく答えながらも、凜花は不思議に思った。
 和泉に「可愛らしい」と言われてもぴくりとも心が動かなかったのだ。
 もちろんお世辞だとわかっているが、時雨に言われたときは胸がどきどきして仕方なかったのに……そう頭の片隅で考えていると、「和泉」と時雨がやけに低い声で弟の名を呼んだ。
「もういいだろう」
「ああ、そうだったね。そろそろ行かないと、父さんも他の皆さんも、兄上たちがくるのを待ち侘びているよ。招待した人はもうほとんど来ているからね」
「どういう意味だ? 私たちは時間に余裕を持ってきたはずだ」
 時雨は眉根を寄せた。凜花も表情にこそ出さないものの、心の中で「えっ」と声を上げる。対する和泉は「あれ?」と大袈裟に目を丸くする。
「それなら、招待状を作成するときに手違いがあったのかもしれないね。少なくとも夜会が始まってもう三十分は経っているから」
「――手違い、な」
 時雨は忌々しそうに吐き捨てる。彼のそんな仕草を初めて見た凜花が目を丸くすると、彼は「なんでもない」と息をつく。
「それならなおのこと私たちはもう行かなければ。おまえは戻らないのか?」
 時雨の問いに和泉は肩をすくめた。
「まだひとりだけ来ていなくてね。僕がここで待っているから、ふたりはお先にどうぞ」
「そうさせてもらう。――行こう、凜花」
「はい」
 頷いた凜花は時雨に一礼する。そして歩き始めた時雨の後ろに続こうとした、そのときだった。
 ――ゾクっと、背筋が震えた。
 凜花はハッと後ろを振り返る。しかしそこにいるのは笑顔で手を振る和泉だけだった。
 何やらとても強い視線を感じた気がしたが、気のせいだったようだ。
 それから時雨の後に続いて大広間の扉の前に到着する。
 すでにほとんどの招待客が来ているという和泉の言葉どおり、扉越しにも賑やかな雰囲気が伝わってくる。
(しっかりしないと)
 ここで凜花が何か失敗をすれば、時雨に恥をかかせることになる。それだけは絶対に避けなければならない。凜花は深呼吸をして気を引き締める。
 すると、それを見ていた時雨が「凜花」と名を呼んだ。
「お守りは持っているな?」
「はい」
「ならいい」
 目の前に差し出された時雨の左手に、凜花は息を呑む。
 ――手を、繋ごうというのか。
 ふたりきりの時ではなく衆目の中で、自分と?
 そのためらいを感じ取ったのか。それとも待ちきれなかったのか。
 時雨はくすっと苦笑すると、少しだけ強引に凜花と手を絡める。
「時雨様⁉︎」
「あなたは不思議な人だな。手を繋ぐよりも濃密なことを、私たちはすでにしているのに」
 それが吸血行為のことを指しているのは、すぐにわかった。
「時雨様っ……!」
 ポッと頬の火照りを感じた凜花はたまらず名前を呼ぶ。それに時雨はクックと小さく笑い、そして言った。
「肩の力は抜けた?」
「あ……」
 確かに、今のやりとりのおかげで、過度な気負いが抜けたような気がする。
「あなたはそのままで十分魅力的だ。だから、何も気負う必要はない」
 魅力的、なんて。
 お世辞とわかっていても、心は揺れる。 
「行こうか」
 優しくも力強い声色に誘われるように、凜花は頷いた。
 そうして二人は共に大広間へと足を踏み入れた。
 直後、それまでの賑やかさが嘘のようにしん……と静まり返る。水面に雫が落ちて波紋が広がるように会場中に伝わったそれは、数秒の後にざわめきへと転じた。
 中にいた人々の視線が一気に時雨と凜花に集中する。それらが好意的なものでないのを、凜花はすぐに肌で感じた。
「只人が、どうして……」
「あれが時雨殿の選んだ伴侶だというの……?」
 皮膚がひりつくような眼差しを感じながら、凜花はある違和感に気づいた。
 一見しただけでわかるほどに女性客の割合が多い。しかもその大半が凜花と同じ年頃に見える。当然、時雨も気づいた。
「――そういうことか」
 何やらそう小声で呟いた小声は、明らかに苛立っていた。次いで彼は「凜花」と小声で言った。
「父への挨拶が済んだらすぐに帰ろう」
 その理由を問うことはこの場ではできなかった。
 凜花と指を絡めた時雨は、迷いのない足取りで会場の最奥へと向かう。
 その最中も、凜花は突き刺すような眼差しを感じていた。
 そのとき、前を見据えて歩く時雨がぎゅっと握った手のひらに力を込めた。ハッと隣を仰ぎ見ると、ほんの一瞬こちらを向いた時雨が唇を綻ばせる。
 まるで、「大丈夫」とでも言うように。
 それに呼応するように、凜花もまたそっと彼の手を握り返した。
 そうして到着した場所は、すでに人だかりができていた。ならばこの中心にいるのが朝葉道景だろう。
「失礼」
 時雨が厳しい口調で言うと、人だかりがさぁ……とはけていく。
 そうして姿を見せた人物に、凜花は心の中で驚きの声を上げた。
 年齢はおそらく五十代後半。一目で高級とわかる黒の紋付袴を着た立ち姿はすらりとしている。白髪混じりの黒髪と同じ黒の瞳を持つその人物は、確かに整った顔立ちをしている。
 しかし、纏う雰囲気はとても朝葉家当主のものとは思えなかった。
 なぜなら、あきらかに酔っているのだ。
 耳まで真っ赤な顔に、とろんと所在なさげな瞳は酔っぱらいそのものである。
(この方が朝葉公爵様……時雨様の、お父様?)
 似ていない。
 率直にそう思った。
「おお、時雨。遅かったな、待ちくたびれたぞ」
 道景は、時雨を見るなり両手を広げて喜びを示す。その様子は、とても息子を化け物呼ばわりする父親には見えない。対する時雨は眉ひとつ動かさなかった。
「お待たせして申し訳ありません。どうやら招待状に手違いがあったようです」
「そうか。まあ、こうして来たのだからよしとしよう」
 赤ら顔でニヤリと唇の端を上げる道景は、凜花には一瞥もくれない。この振る舞いに声を上げたのは、時雨だった。
「父上。紹介いたします。こちらが長嶺凜花さんです」
 紹介を受けた凜花は、和泉のとき同様、深く頭をさげる。
「長嶺凜花と申します。このたびはご招待を賜りまして――」
「時雨」
 しかし、凜花は最後まで挨拶を言うことができなかった。道景が遮ったのだ。
「見なさい。今日は、おまえのためにこんなにもたくさんのお嬢さん方に集まっていただいた」
 道景はあからさまに時雨を遮った。
 こうまでされてわからぬほど凜花は鈍くない。
 ――彼は、凜花をいないものとして扱うつもりなのだ。
 周囲の人間も当然それに気付いたのか、どこからともなく嘲笑が漏れ始める。
 それらの矛先は無論、時雨でも道景でもなく凜花だ。
「身の程知らず」「只人のくせに生意気なのよ」……ひそひそと囁かれる悪意に反応するように、繋いだ手にぎゅっと力が込められた。
「――どいつもこいつも、馬鹿ばかりで嫌になる」
 時雨は、傍らの凜花にだけ聞こえるほどの小声で吐き捨る。そして、一切の感情を打ち消し道景を見据えた。
「私のため? 今日は、父上の誕生日を祝う場でしょう」
「そうだとも。だから、これは私のためでもある」
 大仰に頷いた道景は一歩踏み出し、時雨の耳元でそっと囁いた。
「――いい加減に目を醒ませ。そこにいる番は、妾にでもすればいい」
 その声は、凜花にも確かに聞こえた。 
「何を――!」
 直後、声を上げようとする時雨を、凜花は手をぎゅっと繋ぐことで制した。
 弾かれたようにこちらを振り向く彼に、凜花は小さく頷く。
 ――私は大丈夫です。
 そう、伝えたかった。
 衆目の中、今ここで彼が声を荒らげて好影響になることはない。むしろ大多数が凜花の存在を疎んでいる中、時雨が大っぴらに凜花を庇えば彼の評判に関わる。
 それは凜花の望むところではないし、第一、凜花はこの状況をさほど気にしていなかった。道景の言動に驚きはしたけれど、怒るようなことではない。
 むしろ正当なことだとさえ思った。
 時雨には、凜花より相応しい令嬢なんてたくさんいるのはまぎれもない事実だ。
(それでも時雨様の番は、私だけ)
 その事実が凜花に勇気を与えてくれる。
 だから何も怒ることはないし、傷つくことはない。こんなの杏花の仕打ちにくらべればなんてことないのだ。
 そんな凜花の気持ちが通じたのだろうか。
「父上」
 時雨は一転して表情を和らげた。直後、周囲の令嬢たちから「はぁ……」と感嘆の息が漏れる。その気持ちが凜花には十分すぎるほどよくわかった。
 時雨の微笑みにはそれだけの威力がある。道景にとっても息子のこの反応は予想外だったのか、戸惑いを隠しきれずに目を見張っている。
 そんな中、時雨は笑顔で言った。
「私は、父上に感謝を申し上げたいことがあります」
「……ほう?」
 道景は驚きつつも気分よさげに頬を和らげる。
 対する時雨はすうっと目を細め、冷ややかに微笑んだ。
「父上は、大変愛情深く、一途でいらっしゃる。私も同じようになりたいものだと常々思っておりましたが、念願叶ってこうして生涯を共にする伴侶を見つけることができました。これも全て、私に見本を示してくださった父上のおかげですね」
 それが道景に対する強烈な皮肉であると、凜花にはわかった。
 なぜなら道景は、三人の女性との間にそれぞれ子供を儲けている。
 一途とは到底言い難い。当然、道景が気付かぬはずがなかった。
「時雨、おまえっ……!」
 一転して怒りをあらわにした道景が声を荒らげようとした、そのとき。
 不意に凜花たちの後方からざわめきが聞こえた。何事かと思った凜花は大広間の入り口の方へと視線を向ける。
 そして、目を疑った。
「どう、して……」
 ゆっくりとこちらに向かってくる和泉の傍には、杏花がいた。
 ふらっと足から力が抜ける。すかさずそれを支えた時雨は、「どういうことだ」と、凜花同様驚きをあらわにしている。
 ならば、姉が来ることは彼も知らされていなかったのだ。
 ――和泉が待っていた最後の招待客が、杏花だったなんて。
 そうこうするうちに和泉に伴われた杏花がすぐ目の前にやってくる。
「どういうことだ、和泉」
 すぐさま説明を求める時雨に、和泉は「どうもなにも」と肩をすくめて微笑んだ。
「彼女はお客様ですよ、兄上。凜花さんの姉ならいずれ朝葉の親戚となる方でもある。お呼びすることになんの問題もないでしょう?」
「時雨様、ごきげんよう」
 杏花は、青ざめる凜花と険しい顔の時雨にふわりと微笑む。
 その姿は、最後に市街で見たときとは打って変わって落ち着いていた。
 次いで杏花は道景に恭しく頭を下げる。
「長嶺杏花と申します。このたびはこのような素敵な会にご招待いただきまして、心より感謝申し上げます。父からもくれぐれもよろしくお伝えするように、と申しつけられました」
 いやというほど耳に馴染んだ、鈴の音のように軽やかな声が挨拶を述べる。
 今度は最後まで挨拶に耳を傾けた道景は、唇の端をあげてニヤリと笑う。
「こちらこそよく来てくれた。長嶺殿のご息女が成人したとは聞いていたが、こんなにも素敵なお嬢さんだったとはな。――やはり、貴人は違う」
「めっそうもございません」
 道景が凜花と杏花を比較しているのはあきらかだった。
 ふたりのやりとりを見聞きしていた周囲からは、たちまち「やはり選ばれたのは杏花さんなのでは……」「杏花さんの方がふさわしいわ」との声が聞こえ始める。
 そんな中、凜花は指一本動かせずにいた。
 ――目の前に杏花がいる。
 その事実が、たまらなく恐ろしい。
「帰ろう」
「あっ……!」
 時雨はすでに道景はもちろん、杏花のことも見ていなかった。金の瞳に映るのはただひとり、凜花だけ。
「長嶺伯爵が約束を違えたことは後日追求する。今は、こんなところ一秒だっている価値はない」
「待ちなさい、時雨!」
 凜花の手を掴んだ時雨は、道景の制止も無視して歩き出す。直後、杏花が動いた。
「凜花!」
 姉が呼んだのは時雨ではなく、凜花だった。彼女は何を思ったのか凜花の空いていた方の手を掴んだのだ。
 柔らかな両手が凜花の手をそっと包み込む。水仕事など一度もしたことがない滑らかな手。そして、数えきれないほど凜花を叩い、爪を立てた手でもある。
「っ……!」
 途端に長嶺にいた頃の記憶が凜花の頭の中を一気にかけ巡る。
『――遅いわ、この愚図!』
『もしも選ばれなかったら……今度こそおまえのことを殺してしまうかも』
『自分と同じ顔をした出来損ないがこの世に存在すると思っただけで、吐き気がするわ』
「ああ、会いたかったわ!」
 しかし、記憶の中と同じ声で杏花は真逆の言葉を口にした。
「あなたったら、時雨様のお屋敷に行ったきり文のひとつもよこさないのですもの。お父様やお母様も心配していたのよ? だめじゃない、両親に心配をかけては。でも、ここで会えてよかったわ。あなたはたった一人の妹だもの。……本当に、会えてよかった」
 溢れ出す感情を堪えきれないように杏花の瞳に涙が滲む。
 花のように可憐な顔に一筋の涙が伝うその様は、どう見ても妹を案じる優しい姉にほかならない。だが凜花は、姉が自分を心配することなど万にひとつもないと知っている。
 ――何を言っているの?
 ――意味がわからない。
 ――怖い、離して。
 言いたいのに、言えない。喉がカラカラに乾いて声が出ない。
 恐怖で目の前が真っ暗になりかけた、そのとき。
「もう十分だ。これ以上は、耳が腐る」
 時雨が、杏花の手を叩き落とした。
 そのまま彼は凜花を自分の背中に隠す。
「あえて言葉にするまでもないと思っていたが、思い違いがあるようなのではっきり言っておく。私が選んだのは、ここにいる長嶺凜花ただひとり。それ以外の誰も私の伴侶にはなり得ない」
 そして、彼は声を張り上げた。
「彼女に否を唱えるのは、純血の貴人たる私に意見するのと同義であると頭に叩き込め!」
 腹の奥に響くような声が室内に轟き、空気を震わせた。
 時雨から発せられた怒気にあてられたのか、道景を含めた大広間にいたほぼ全ての人間がその場に膝をつく。例外は、和泉と杏花だけ。
 時雨はそのふたりに一瞥もくれることなく背を向ける。
 そして、凜花の肩を抱き寄せ広間を後にした。
 その後ろ姿を、杏花が蛇のような鋭い目つきで見送っていたことを、ふたりは知らない。

「……今日は、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」
「凜花」
 帰宅後、時雨は凜花を自室に送り届けてくれた。 
 深く頭を下げよう俯く凜花を、柔らかな声がそっと止める。
「あなたが謝る必要は何もない。今宵のことはすべて私の落ち度だ。守ると言っておきながら……本当にすまない」
 まさかの謝罪に凜花は弾かれたように顔を上げる。そして首を横に振った。
 違う、そんなことない。だって時雨は凜花を守ってくれた。凜花以外だけが伴侶だと、時雨が選んだのは凜花なのだと公言してくれた。
 それなのに凜花は、何もできなかった――。
(私は、何も変わっていない)
 再び俯く。情けなくて、とても時雨の顔が見られなかった。
 強くなりたいと、強くならなければならないと思った。
 それなのに現実はこれだ。前回はみどりの、今回は時雨の背中に隠れて自分自身は震えて、言い返すどころか一言すら発することができなかった。
 道景に無視をされても、周囲の令嬢に冷ややかな目を向けられても耐えられた。
 でも、杏花だけはだめだ。
 姉の前に立った途端、凜花の思考は停止する。
 頭の中は恐怖でいっぱいになって赤子のように無力になってしまう。
 ……いや、赤子の方がよほど強いかもしれない。
 少なくとも黙りこむ凜花と違い、赤子は快、不快を泣き声で伝えられるのだから。
「凜花」
 視線を下げたままの凜花に、時雨は辛抱強く話しかける。
「大丈夫。ここには私しかいない」
 だから、と。
 時雨はそっと凜花を抱き寄せた。
「泣きたいだけ泣けばいい。そうしたところであなたを責める者は誰もいない」
「っ……!」
「溜め込むな。虐げられて当然だなんて思うな。そんなことをされていい人間なんてどこにもいない。貴人かどうかなんて関係ない。あなたは、怒っていいんだ」
 その言葉に。逞しい胸板に。背中に回された温かな手に。
 気持ちが、決壊した。
(怖かった……)
 天女のような微笑みを浮かべる姉が恐ろしくてたまらなかった。でも、それ以上に。
「悔しい……」
 杏花を前に何もできなかった弱い自分が悔しくて、悔しくてたまらなかった。
「嫌いっ……!」
 生まれて初めて、その感情を唇に乗せる。
 今までずっと、姉に何をされても仕方ないと思ってきた。
 出来損ないだから、役立たずの只人だから、姉を苛立たせる自分が悪いから。
 そう理由付けて自分の感情を殺してきた。そうでもしないと、辛い現実の日々を乗り越えることはできなかったから。
 でも本当の自分は、ずっと怒っていたのだと、今初めてわかった。
「私がほしいものを全部持っているくせに……私がどれだけ望んでも手に入らないものを持っているのに……家族が、いるのに!」
 家族。両親の愛情。自分の居場所。
 それらを全てを持ちながらもなお、姉は凜花を苦しめる。
「杏花なんて、大嫌い……!」
 それと同じくらい、弱い自分が嫌いだと心の底から思う。
「あなたには、私がいる」
 でも、そんな凜花を受け止めてくれる人がいた。
「私があなたの家族になる」
「時雨様……」
「あなたは、ひとりじゃない」
 その言葉は、渇いた凜花の心にすうっと染み渡る。
(ああ……)
 凜花は今、初めて自覚する。
 多分、初めて出会ったときからこの気持ちは心の中に芽生えていた。
 それは時雨とともに過ごすうちに……彼の優しさという慈雨を浴びるうちに密かに育ち、そして今、確かに凜花の中で花開いた。
(時雨様が、好き)
 命の恩人としてだけではない。
 異性として、自分は彼に焦がれている。



 ――朝葉時雨の伴侶は、長嶺凜花だけである。
 公然と宣言したあの夜以降、朝葉家は二つの派閥に分裂した。
 引き続き時雨を次期後継者と仰ぐ一派と、時雨ではなく和泉を後継者とするべきだと主張する一派である。
 きっかけは、夜会での時雨の振る舞いに激怒した道景が「時雨を廃嫡する!」と宣言したことによる。しかし、いかに当主といえど時雨の廃嫡は道景の一存で決められるものではなかった。
 それというのも、今の朝葉家を実質仕切っているのは時雨であるからだ。すでに道景は形式上の当主にすぎず、一族の中での発言権は時雨に軍配が上がる。
 何よりも純血である時雨に勝る存在はいない……というのが大半の意見だった。
 一方で、朝葉の名を汚した時雨に後継者たる資格はなく、弟の和泉の方が相応しいという意見も存在した。
 今はまだ圧倒的に時雨を推す意見が多いものの、分家の中には、和泉を推すことで、今後の一族の中における影響力を高めようと目論む家も出てきている。
 朝葉家は今、混乱の最中にあった。

 夜会から七日経ったその日、時雨は朝葉本邸に向かっていた。
 和泉に会うためである。
 あの夜以降、時雨は多忙な合間を縫って来たくもない本邸に三度も顔を出した。
 しかしいずれも空振りに終わった。いっこうに和泉と会えないのだ。
 一方でこの間、道景とは一度も顔を合わせていない。
 廃嫡だなんだと喚いた父は、あの夜以降ほとんど自室に引きこもっているという。時雨としてもあの男に用はないので、むしろ願ったり叶ったりではあった。
 とにかく、時雨が用があるのは和泉だ。
(今日もいないなら、大学まで押しかけてやる)
 苛立ちながらも本邸に到着するなり和泉の部屋に向かった時雨だが、すぐに拍子抜けした。
「兄上? どうしました、そんなに怖い顔をして」
 まるで待っていたと言わんばかりの和泉がいたからだ。ソファに座り何やら読書をしていた和泉は、すっと立ち上がるとにこやかに笑む。
「兄上の方から私を訪ねてくるなんて珍しいですね。今度こそ、一緒にお茶でもどうです?」
「和泉。――もう、やめろ」
「何をでしょうか?」
「その薄ら寒い笑みをやめろ、と言っている」
 時雨の厳しい眼差しにも和泉は顔色ひとつ変えず、むしろ飄々と肩をすくめた。
「急に来たかと思えば、何を言っているのかわかりませんね」
「……そうか」
 軽薄な微笑みに苛立ちが込み上げるのを感じながら、時雨は言った。
「それなら私の質問に答えろ。この間の夜会におまえはどんな意図があって長嶺杏花を連れてきた? 内容次第によってはおまえでも許さない」
「許さない、なんて物騒なことを言いますね。理由はあのときも言ったはずですよ。彼女は凜花さんの姉だから呼んだだけです。深い意味はありません」
「それ以外になんの意図もないとでも言うのか?」
「むしろそれ以外に何があると?」
 笑みを湛えて質問を質問で返す姿に時雨は理解する。
 ――この男には、何を言っても無駄だ。
 子どもの頃から掴みどころがない弟だと思っていた。
 しかし今、改めて思い知る。時雨が何を言ったところで和泉には響かない。
「おまえが何を企んでいるかは知らない。だが、この先もしも凜花に何かをするつもりならおまえが相手でも容赦はしない」
 言うべきことは言った。
「邪魔をしたな」
 そう言って背中を向けようとした、そのとき。
「兄上」
 意外にも和泉がそれを引き止めた。
「そんなに彼女が大切ですか?」
「……何?」
 振り返った時雨に彼は続ける。
「しょせんは只人だ。伴侶だからと言って大事にしなければならない決まりなんてないでしょう。適当に囲っておけばいいだけだ。あんな宣言をするなんて理解に苦しみます。彼女を伴侶に選んだことで、兄上は私に後継者の座を奪われようとしているではないですか」
 心底不思議でならないと言った顔に、つい乾いた笑みが漏れる。
(奪われようとしている、か)
 そもそもその認識自体が間違っていることに、和泉は気づいていない。
「……何がおかしいのですか」
「いや、何。随分と強気だと思ってな」 
 和泉の顔から笑みが消える。いつも飄々としている和泉が眉根を寄せる様に、時雨は初めて弟の素顔を見たような気がした。
「どういう意味です」
 時雨は肩をすくめた。弟が警戒すればするほど時雨は冷静になる。
「最近、分家の連中がうるさくしているのは把握している。だが、あいにく私は、おまえに後継者の座を脅かされたと感じたことは一度もないんだ」
 和泉の頬に朱が走る。その変化に時雨は悟った。
 ――和泉は、当主の座を欲しているのだ。
 予想ではあるがほとんど確信に近かった。
「おまえが真に朝葉の人々のことを考えるなら、後継者の座なんていくらでも譲った。でも、おまえには無理だ」
「……なぜ、私には無理だと言えるんです。私が、純血ではないからですか」
「違う。みどりを――貴力を持たない人を同じ人とも思ってないからだ。そんな男にこの家は任せられないさ」
 和泉は「ふん」と馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「貴人と只人は違います。比べるまでもない」
「そうか。ならやはり、おまえに譲ることはできないな」
 話は平行線に終わる。言葉にせずともこれ以上は時間の無駄なのは、きっと互いに理解していた。只人に対する価値観という観点において、時雨と和泉はどうあっても相容れない。
 それが虚しくて、腹立たしかった。

 それからすぐ自動車に乗り込んだ時雨は、凜花とみどりの待つ屋敷への帰路につく。
「……本当に疲れる」
 その道中、ハンドルを握りながらたまらずため息が漏れる。
 次期当主の座についてあれこれと騒ぎ立てる家の連中も、実質権力など何もないのに廃嫡だと騒ぎ立てる父も、狐のような狡猾さをもつ弟も。
 全てが心の底から面倒に感じてたまらなかった。
 先ほど和泉に言った言葉に嘘はない。
 時雨は別に、次期公爵の座に執着があるわけではないのだ。
 和泉が信用のおける男であったなら自分は喜んで立場を譲っただろう。
(でも、和泉はだめだ)
 弟は、みどりを家族と認めていない。それどころか妹すら認めず、父の愛人であったみどりの母を今なお蔑んでいる。それに何よりも和泉は凜花を傷つけた。
 杏花を呼んだことに深い意味はない、と和泉は言った。
 でも、まず間違いなく弟は嘘をついている。
 おそらく和泉は、凜花が下女として扱われていたことも、杏花に虐げられていたことも把握している。その上で、時雨に直接手を出せない和泉は杏花を呼び凜花を追い詰めることで、間接的に兄への嫌がらせをしたかったのではないか。
(厄介なことにならないといいが……)
 すでに和泉には十分釘をさした。
 この上何かをするほど愚かな弟ではないと信じたかった。

 その日の夜。
「んっ……」
「すまない、痛かったか?」
「大丈夫、です」
 凜花の血を飲んだ時雨は、噛み跡を完璧に治してから凜花を解放する。首筋に触れていた手のひらを離すと、どこかぽおっとした様子の凜花と目が合った。どうやら凜花は、治癒の際に生じる熱を心地よく感じるらしい。
 その証拠に、吸血直後の彼女は決まってとろんとした顔をしている。
 潤んだ瞳にうっすらと赤く染まる頬、そして、ときおり漏らす掠れた声。
 どこか扇状的な光景に心が揺れないと言ったら嘘になる。
 しかし、時雨がそれを表情に出すことは決してしない。
 それよりも、無防備な彼女に対する庇護欲の方が優った。
 吸血行為はどうしたって痛みを伴う。だからこそ、血を吸うたびに時雨の中で凜花を大切にしたいと望む気持ちは日々大きくなっていく。
「何か、ありましたか?」
 ソファに隣り合って座る凜花は、頬の赤らみはそのままに問うてくる。
「……どうしてそう思った?」
 図星を突かれて反応に遅れる。すると、凜花は躊躇いがちに答えた。
「少し、気落ちされているように見えたので」
 これには驚いた。番の血を接種した今の自分の顔色は間違いなくいいはずだ。それなのにこんな質問をされるなんて。
(……参ったな)
 後継者問題や和泉について何ひとつ話していないのに、凜花は異変に気づいてくれた。それがどうにも嬉しくて、くすぐったい。
「今日、和泉に会ってきた」
「和泉様に?」
「ああ。先日の夜会に長嶺杏花を招いた意図を問い詰めに行ったのだが、答えは夜会の時と同じだった。釘は刺しておいたし、この上何かするほど愚かな男ではないと思いたいが、あなたも引き続き注意をしてほしい。お守りは、肌身離さず身につけておいてくれ」
「わかりました」
 凜花は服の上からぎゅっと何かを掴む。聞けば、今もお守りを首から下げているのだという。それに安堵しつつも、時雨はふっと肩の力を抜く。
 普段は弱音を吐く方ではないのに、凜花の前では不思議と気持ちが緩む。
 だからつい、本音が溢れた。
「弟を警戒するのは、あまり気分のいいものではないな」
 時雨は、みどりと和泉のどちらかなら間違いなくみどりの方が可愛い。
 だからといって、和泉を疎んだり憎んでいるわけではなかった。だが、残念ながら和泉の方は違ったようだ。
 その証拠に、最後に見た彼は怒りと苛立ちをあらわに時雨を睨んでいた。
「……家族でいがみ合うのは、父と私だけで十分だというのに」
 うんざりとした気分で自嘲した、そのとき。
 そっと、柔らかな凜花の手が時雨の両手に触れた。凜花は、ためらいがちに時雨の手を包み込む。
「以前、時雨様は『私が、あなたの家族になる』と言ってくださいました。私も、同じ気持ちです」
「……え?」
「私が、そばにおります」
 控えめながらも力強いその言葉、眼差し。
「番として、婚約者として、時雨様のおそばにいさせてください」
 時雨は、心の中の燻りが一瞬にして晴れていくのを感じた。
 ――本当になんて人だろう。
 同時に改めて感心する。十八年間、凜花は辛い境遇にいた。それなのに彼女はこうして人に寄り添う優しさを持っている。 
(敵わないな)
 凜花は自分自身を卑下するきらいがある。でも、時雨からすれば彼女の方がよほど強い人だ。貴力の有無ではない。彼女自身の心の強さだ。
「凜花。……もしも私が当主の座を退いて、貴族ですらなくなって……この屋敷から出ていかなければならなくなったとしたら、あなたはどうする?」
 朝葉家次期当主でも貴族でもない。時雨が人外の力を持った、血を求めるだけの存在になったとしたら、彼女はいったいどうするのだろう。
 ふと、そんな興味が湧いた。
「どこへなりともついて参ります」
 対する凜花の答えは迷いがなかった。
「そのような時雨様は想像がつきませんが、時雨様の立場がなんであれ、私は一生あなたの番です。何十年経ってもおそばにいます」
 ためらいなく答えるその姿に、時雨はすぐに反応できなかった。
(――ああ、もう)
 たまらないな、と思った。心の内側から湧き上がる感情のままに時雨は凜花を抱き寄せ、胸の中へと閉じ込める。
「きゃっ……!」
 突然の抱擁に凜花が体を固くするのがわかったけれど、すぐには離せない。
 離したくないと、そう思った。
「あの、時雨様?」
「……もう少しだけ、このままで」
 耳元でそっと囁くと、凜花は体を固くしながらもこくんと頷いた。その耳は明らかに赤い。それすらも可愛らしいな、と思う。
『私は一生あなたの番です。何十年経ってもおそばにいます』
 当たり前のように言ったその言葉は、間違いなく時雨の胸を貫いた。
 心を、震わせた。
『一生』『何十年』
 凜花と出会う以前の時雨は、三十歳より先のことなんて考えられなかった。
 しかし、今は違う。これから先何年経っても、凜花の艶やかな黒髪が自分のように真っ白になってもそばにいたいと、いてほしいと心から願う。
 年老いた自分の隣に凜花がいる。
 そう想像するだけで時雨はたまらなく幸せな気持ちになれた。
 きっと凜花は、老いてもなお可愛らしい。
「時雨様?」
 急に黙り込む時雨に、おずおずと顔を上げた凜花はきょとんと目を瞬かせる。
 形のよい額に唇を寄せたい気持ちをなんとか堪え、時雨は微笑んだ。
「私の番が、あなたでよかった」
 素直な気持ちを唇に乗せる。直後、凜花の頬に朱が走る。
 紅潮した頬や潤んだ瞳は、彼女が照れているのをこれ以上なく伝えてくる。
「……私もです」
 囁くように凜花は言った。
「時雨様の番になることができてよかったと……心から思っています」
 ちらりと上目遣いで告げる凜花を前に、熱い何かが込み上げてくる。
 この胸の高鳴りに名前をつけるとしたら、きっとそれは――。
「ありがとう、凜花」
 愛、なのだろう。
(――そうか)
 今さらながらに自覚する。
 番としてだけではない。
 時雨は、一人の女性として凜花を愛している。

 ――時雨様が好き。
 夜会から帰宅した夜、凜花は時雨の胸に抱かれながらはっきりと自覚した。 
 言うまでもなく、これは凜花にとっての初恋だ。
 とはいえ、恋心を伝えることはしていないし、この先時雨とどうにかなりたいとも望んでいない。
 だって、今のままで凜花は十分すぎるほど幸せなのだ。
 日中はみどりと共に家事を行い、数日に一度時雨に血を捧げる。
 誰に蔑まれることも、殴られることもない。
 大好きな人のそばで穏やかに過ごせる。すでに体に馴染んだ平穏なこの日常が凜花は大切で愛おしくてたまらなかった。
 その一方で、時雨は少しだけ変わった。
 これまでも十分大切にされていると感じていたが、夜会の日をきっかけにいっそう凜花に対して甘くなったような気がするのだ。
 今もそう。
 朝葉家本邸を訪ねてから二週間ほど経った今日は、時雨の数少ない休日だった。
 日頃から軍務に当主にと多忙にしているだけに、たまの休みの日くらいはゆっくりしてほしい。
 そう思っていたのだが、時雨は体を休ませるどころか、凜花を買い物に誘った。
 人生二度目の甘味処でお茶と甘いものを食べた後は、最近できたばかりの百貨店に連れて行ってくれた。
 そこで凜花は目がまわるような体験をした。
 時雨ときたら、女性ものの衣類や宝飾品を次々と購入していったのだ。
 彼の気持ちは本当に嬉しいし、ありがたい。
 とはいえ、何事にも限度というものがある。
 まもなく日が暮れようとしている時刻。
 昼過ぎに屋敷を出て早数刻、買い物を終えて時雨と共に百貨店を出た凜花は、色々な意味で心臓が痛かった。
 結局、時雨は車でも持ち帰れないほどの品を購入した。
 それらは後日、屋敷に届けてもらうことになっている。そのため今のふたりは身軽だが、反面、今日だけで飛んでいった金額を想像するとさすがに目眩がする。
「――本当に髪飾りはいらなかったのか? どれもあなたによく似合いそうだったが……」
 不満げな時雨に凜花は慌てて首を横に振る。
「私には、以前いただいた桔梗の髪飾りがありますから」
「それならいいが……あなたは本当に綺麗な濡羽色の髪をしているから、つい色々と飾りたくなってしまう」
 不意打ちの褒め言葉に、凜花は一瞬にして頬が熱くなるのを感じる。
「今日だけで十分すぎるほど買っていただきましたから……」
 これに時雨は目を見開き、なぜか申し訳なさそうな顔をした。
「すまない」
「えっ⁉︎」
 なぜ急に謝罪を? 焦る凜花を見た時雨は眉を下げる。
「金にものを言わせるような真似は下品だとわかっていたのだが、どれもあなたに似合うと思ったら、つい。気を悪くしたか?」
「めっそうもありません! 下品だなんて、そんなこと……!」
 凜花は慌てて誤解を訂正する。
「時雨様のお気持ちは嬉しいですし、あのように素敵なものをたくさん、本当に感謝しております」
 ただ、と凜花は申し訳なく思いながらも続けた。
「私は、時雨様に何もお返しできないのに……本当によろしかったのですか?」
「またそれか」
 時雨は苦笑し、顔を綻ばせる。
「何度も言っているように、お返しも何も必要ない。あなたが私の番でいてくれること以上に価値のあるものはないんだ」
「っ……!」
 心臓を、貫かれたような気がした。
 喜びで心が満たされる。
「ふっ、顔が真っ赤だ」
「か、からかわないでくださいませ!」
 顔を逸らしながら、凜花は痛いほどに心臓が高鳴るのを自覚していた。
 ――このままでいい。
 今の日々に何の不満もないし、いつまでも穏やかな日々が続けばいいと思っている。その気持ちに嘘はないはずなのに……。
(好き……)
 こんなにも優しくされたら、嬉しい言葉を言われたら、想いが溢れそうになってしまう。伝えたくなってしまう。
「時雨様、私――」
 衝動のまま口を開きかけた、そのとき。
「朝葉!」
 道の往来の中、空気を震わせるような大声が轟いた。
 直後、時雨は凜花を庇うように一歩前に出る。凜花は、時雨の背中越しに前方からひとりの軍人がこちらに向かってに駆けてくるのを見た。
「……宮田?」
「お知り合いですか?」
「私の副官だ」
 時雨が困惑したように答えるのと、宮田と呼ばれた軍人がふたりの前で足を止めたのはほぼ同時だった。
「ああ、ようやく見つけた……! 休暇なのにすまないが、至急俺と一緒にきてくれ!」
「いったい何事だ」
 肩で息をする宮田に時雨は眉根を寄せて問う。
 これに口を開きかけた宮田だが、凜花に気づくと途端にハッとした顔をする。
「長嶺杏花……?」
 宮田が呟くと、すぐさま時雨が「違う」と訂正する。
「彼女は長嶺凜花さん。私の婚約者で、最も信頼する人のひとりだ」
「長嶺杏花は、双子の姉です」
 凜花が自分は妹の方だと告げると、宮田は「そうか」と考え込む顔をする。
「それなら、あなたにも知る権利がある」
 しかしそれはほんの一瞬で、彼はすぐさま表情を引き締め時雨の方を見た。
「先ほど、長嶺伯爵の屋敷で大規模な火災が起きていると連絡が入った」
 時が、止まったような気がした。

「私はこのまま長嶺邸に向かう。宮田は彼女を屋敷に送り届けてから合流してくれ」
 自体を把握した後の時雨の判断は早かった。報告を受けた時雨はすぐさま宮田に命じると、青ざめる凜花を安心させるように微笑んだ。
「火事は私が必ずなんとかする。あなたは、みどりと共に私の帰りを待っていてほしい」
「時雨様……」
 どうにか声を絞り出して、凜花は懇願する。
「どうか……どうか、両親と姉を……」
「大丈夫だ。私を信じて」
 そして、時雨はその場を離れた。
 その後、凜花は宮田に付き添われて屋敷に帰宅する。
「朝葉は貴力で水を操ることができる。火事なんてあっという間に消火してすぐに帰ってきますよ。俺も、微力ながら全力を尽くします」
 凜花を励まそうとしているのか、宮田は大袈裟なくらいの笑顔を見せる。
「それでは、失礼します」
「宮田様!」
 凜花は出て行こうとする宮田を咄嗟に引き留めた。
「ご無事で……」
 凜花の震える声に宮田は「もちろん!」と白い歯を見せて笑い、足早に出ていった。その姿が玄関から見えなくなると、ふっと体の力が抜ける。
 座り込む寸前でなんとか踏ん張るけれど、それでも全身に力が入らない。
(火事……)
 一般的な火事なら所轄の消防団が消火にあたるはず。しかし、今回は時雨が隊長を務める貴力精鋭部隊が出動した。
『主な仕事は大規模な救助活動や災害対策で、貴力を使わなければ解決できないようなことに対処している』
 以前、甘味処で時雨はそう話していた。つまり、今現在の実家では大規模な火災が起きているということだ。
(お父様、お母様、杏花……)
 三人は、無事だろうか。
 十八年間過ごした実家の光景が脳裏によぎる。
 長嶺家で過ごした日々は凜花にとって辛い記憶でしかない。
 それでも「死んでほしい」と思ったことは一度もない。
 何よりも、時雨が火災現場にいるという事実が凜花を落ち着かなくさせた。
 宮田も、時雨本人も「大丈夫」と話していた。日々任務にあたる彼らがそう言うなら心配はいらないのだろうと理解はしている。
 それでもなお、不安な気持ちは消せない。
「――気を確かに」
 共に宮田を見送ったみどりがそっと凜花の両手を包み込む。凜花はそれに初めて自分の体が震えていることをに気づいた。
「宮田様もおっしゃっていたでしょう。時雨様が向かわれたのであれば何も心配ありません。だいたい、そんな暗い顔でお勤めを果たされた時雨様を出迎えるつもりですか?」
 はっぱをかけるように、みどりは両手にぎゅっと力をこめた。
 それが彼女なりの励ましなのは、すぐにわかった。
「……そうね。しっかりしないといけないわね」
 おそらく今回の出動で時雨はかなりの貴力を使うだろう。
 純血の時雨は、他の貴人に比べて体内に膨大な貴力を宿しているという。
 しかし、それを使えば使うだけ疲弊するのだと彼は言っていた。
 ならば凜花は番として、無事に戻った彼にいくらでも血を捧げる。
 貧血になろうと、寝込むことになろうとかまわない。
(時雨様は、私が番でよかったと言ってくださった)
 それなら、凜花は番として、自分にしかできない役割を果たす。そのためにもまずは時雨のを信じて帰りを待つ。
 しかし、それからの時間を凜花はとてつもなく長く感じた。
 自室の窓から見える空は、すでに夕暮れに染まっている。もうしばらくすれば、空は夜へと変わるだろう。
 ――どうか一刻でも早く時雨が無事に戻りますように。
 ――三人が無事でありますように。
 心の中で強く願った、そのとき。
 不意に部屋の外から何やら大きな物音が聞こえた。
(時雨様?)
 彼が、帰ってきたのかもしれない。
 部屋を出た凜花は急いで階段を駆け降りる。しかし、すぐに違和感を覚えた。屋敷の玄関扉が大きく開かれている。しかし、誰もいない。
「時雨様? みどり……?」
 警戒しながらも凜花は開け放たれた玄関扉を出る。
 そして、ありえないものを見た。

 宮田の知らせを受けた時雨はすぐさま現場に車を走らせた。そうして見えてきた長嶺邸からは、あたり一面を覆うほどの黒煙が上がっていた。
(こんなにも火の勢いが強いなんて……!)
 これまで数々の火災現場や災害現場に出動してきたからこそわかる。
 敷地内の建物がひとつふたつ燃えた程度では、これほどまでの煙は上がらない。
 自動車で近寄れるぎりぎりのところで車を降りた時雨は、長嶺邸の惨状に息を呑んだ。
 広大な敷地内のいたるところから火の手が上がっている。
 見ると、先に到着していた隊員たちが、天から雪のように降り注ぐ火の粉を払いながら屋敷の人々の救助にあたっていた。
「隊長!」
 うちのひとりが時雨に気付き声を張り上げた。
「ご苦労だった。あとは私に任せろ」
 時雨は頷き、右手を天高くかざす。
 これだけの火事を鎮火させるには大雨が必要だ。
 そのためには体の中を貴力を空にするつもりで臨む必要がある。
 瞼を閉じた時雨は、全神経を右の手のひらに集中させる。
 そうするうちにどこからともなく長嶺邸上空に分厚い雲が集まり始め、やがてざあっ……と土砂降りのような大雨が降り始めた。
 それは瞬くまに時雨の周囲を濡らし、あちこちに水溜りを作る。
(これで火の勢いは収まるはず)
 さすがに一瞬で全てが鎮火とはいかないが、先ほどに比べて明らかに火の勢いが弱まっている。この間に住民の救助と避難、治癒を行わなければ――そう頭の中で段取りを立てたそのとき、ふっと視界が揺らいだ。
「――っ……」
 足元がふらつきかけるが、なんとか堪える。
 今は、倒れている場合ではない。
 部下たちに引き続き救助活動を続けるように命じた時雨は、自分が到着するまでこの場の指揮をとっていた部下から状況報告を受ける。
「ご苦労。長嶺伯爵夫妻は?」
「おふたりとも気を失っていますがご無事です。今は手当てを受けておられます」
「そうか。他に人的被害は?」
「今のところ逃げ遅れた人はいません。伯爵夫妻以外の怪我人についても、治癒能力を持つ隊員が対処しております」
 ただ、と隊員は眉根を寄せた。
「発火場所に不審な点がみられます。使用人の証言によると、裏庭の納屋や屋敷の女中部屋など、少なくとも敷地内の五箇所以上から火の手が上がったようです。……放火でしょうか」
「まだなんとも言えないが……可能性は高いだろうな」
 火の回りの速さといい、勢いといい、今現在把握できている状況だけでも不審な点が多すぎる。落雷があったというわけではないようだし、自然発火の線は薄い。
 となると、可能性は絞られる。
(――貴力を用いた放火事件)
 しかし、誰が、いったい、なんのために、長嶺伯爵邸を狙うのか。
 とにもかくにも火の手が治り始めてよかった、と安堵の息をついたときだった。
 一人の隊員が時雨の元にやってくる。
 隊員いわく、目覚めた長嶺京介が何やら騒ぎ立てているという。京介は、貴力精鋭部隊が対応にあたっていると知るなり時雨を呼べ、とわめいているのだとか。
「わかった、すぐに向かう」
 時雨は嘆息し、長嶺夫妻が手当を受けているという場所へと向かった。
(顔も見たくないが、仕方ない)
 あんな男でも凜花の父親だ。この目で無事を確かめて彼女に報告する必要がある。長嶺夫妻は敷地外の道端で座り込み、何やら隊員に向けて叫んでいた。
 おおかた、屋敷が燃えたことに取り乱しているのだろう。
「長嶺殿」
 内心うんざりしながら時雨は声をかける。
 振り返った長嶺京介は、髪は縮れ、顔も手足も煤だらけという見るも無惨な姿だった。夫人もほとんど同様だが、幸いにもふたりとも目立った大きな傷はない。
「ご無事で何よ――」
「時雨殿! 杏花は……娘はどこにいる⁉︎」
 京介はふらふらと立ち上がり、煤で汚れた両手で時雨の両手首を掴む。避難の際に煙で喉をやられたのか、その声はひどくしゃがれていた。
「杏花がどこにもいないのだ! まさか、火災に巻き込まれたのでは……!」
「落ち着け、長嶺殿!」
 あまりの取り乱しように敬語も忘れて時雨は声を張り上げる。
「今現在、救助した人々の中に長嶺杏花はいません。しかし、使用人たちの話を聞く限り、逃げ遅れたものは今のところ誰もいないそうです」
「それではなぜ杏花がいない⁉︎」
 そんなの知るか、と言いたくなるのをすんでのところで堪える。それよりも今は、この男を落ち着かせる方が先だ。
「最後に長嶺杏花を見たのはいつですか?」
「そんなこと――」
「彼女のことが心配なら答えてください。火事に気づく直前まで彼女は屋敷にいたのですか?」
 時雨の重ねての質問にようやく平静を取り戻したのか、京介は考え込むような顔をする。
「最後に娘を見たのは、昼過ぎだ」
 次いで、「そうだ」と何かを思い出したように京介は目を見開いた。
「そのときの娘は、随分と機嫌がよかったような気がする。ようやく欲しいものが手に入るのだ、と実に嬉しそうに話していた」
「欲しいもの? なんです、それは」
「……そこまでは」
 この答えに時雨は思わず舌打ちをした。
 手に入る、ということは、火事が起きる直前に買い物にでも出かけたのだろうか。だから運よく火事から免れた?
 だが、そんな都合のいいことがあるだろうか。
 何かが引っ掛かる。
 こうしている間にも、時雨が呼び寄せた雨によって火は小さくなっていく。一方で、時雨の中に芽生えた疑念の種火は大きくなっていった。
 同時に複数箇所から発生した不審火、異常なまでの火の回りの早さ、姿の見えない杏花。
(そういえば、あの女の貴力は――)
 考えて、ハッとする。
(植物を操る力……!)
 みどりを痛めつけた忌々しい能力だ。凜花からも聞いたことがあるから、間違いない。嫌な、予感がした。
「朝葉隊長!」
 ちょうどそのとき、宮田が駆けつけてくる。どうやら無事、凜花を屋敷に送り届けてくれたようだ。
「ご苦労だった。宮田、この後の現場の指揮はお前に任せていいか?」
 大元である火はもうほとんど鎮火している。軽傷者はいるものの、火災の規模としては奇跡的に大怪我をした人はいなかった。そして、伯爵夫妻も無事でいる。
 隊長としては褒められたことではないが、現場としては時雨が抜けても大きな問題はない。
「――頼む」
 短い言葉に宮田は時雨の決意の固さを感じ取ったのか、間髪を容れず「承知いたしました」と敬礼した。
 時雨は感謝の気持ちも込めて頷き、背中を向けて走り出す。 直後、背後から京介の「娘を探してくれ!」と懇願する声が聞こえたけれど、時雨は振り返らない。
 そのまま敷地外に停めていた自動車に乗り込みエンジンをかける。
 時雨が今いる長嶺邸は、市街地から離れた郊外にある。
 周囲に広がるのはのどかな田園地帯で、おかげで火が他に家に飛び火することはなかった。しかし、凜花たちの待つ屋敷まではどんなに早く見積もっても車で二十分はかかる。
 一秒でも早く、向かわなければ。
 考えすぎであればいいが、どうしても不安と焦りが消えない。
 ――どうか、杞憂であってほしい。
 そう願った、次の瞬間。
「っ……!」
 面前に巨大な火の玉が飛び込んできた。
 時雨は咄嗟にハンドルを切る。火の玉は時雨の頬のぎりぎりのところを通過するが、安堵の息をつく間もなく、時雨は視界一杯に映る樹木に目を見張った。
(しまった――!)
 直後、自動車は木に正面から衝突した。その衝撃で時雨の体は外へと投げ出され、地面に叩きつけられる。
 全身に鈍い痛みが走り、一瞬、意識が遠のく。
 横向きに倒れた時雨は体の痛みを堪えてなんとか立ち上がり、すぐに全身を確認する。どこもかしこも鈍い痛みが凄まじいが、骨折はしていないようだ。
 強固な風の鎧を体に纏うのがあと一秒でも遅れていたら、致命傷を負っていたかもしれない。
 ――何が起きた、とは思わなかった。
 目前に迫る火を見た瞬間、時雨は自分の中に浮かんだ予想が杞憂でないことを確信した。
「これで死なないなんて、さすがは化け物だ」
 畦道にはおよそ相応しくない、俳優が劇を演じているようなその立ち姿。
 長嶺杏花が植物を自在に操るのならば、この男は火を操る貴力を持つ。
「和泉」
 間違いない。
 この男が、今回の火事を招いたのだ。

 どうして、なぜ。
 疑問ばかりが次から次へと浮かび上がる。
 それほどまでに信じがたい光景だった。
 気を確かに、と。
 少し前に凜花を励ましてくれたみどりは今、地面に仰向けに倒れている。
 彼女の頬には爪を立てられたような引っ掻き跡が三本、痛々しく滲んでいた。
 微かながらに胸は上下しているから、呼吸はしている。しかし、その瞼は閉ざされていた。そして、横たわるみどりの腹を足で踏みつけ嫣然と笑う、その人は。
「何をしているのですか、お嬢様……!」
 大嫌いで、憎らしくて、それ以上に恐ろしくてたまらない姉だった。
 ――火事に巻き込まれたかもしれない。
 そう案じていた凜花を嘲笑うかのように、みどりを踏みつけた杏花は「ふふっ」と顔を綻ばせる。
「見てわかるでしょう? 生意気な只人を躾けていたの」
「……おやめください」
 杏花は「嫌よ」と一周した。
「私はただ妹に会いにきたのに、この只人ときたら『お引き取りください』『凜花様はお会いにはなられません』の一点張りなんだもの。だから、貴人として教育をしてあげたの」
 教育?
 違う。こんなのは、一方的な暴行にすきない。
「お願いですから、みどりから離れて……!」
 凜花が声を震わせて叫んだ次の瞬間、杏花は踏みつけていた足でみどりの腹を思い切り蹴り飛ばした。直後、意識のないみどりが苦しそうなうめき声をあげて、唇の端から胃液らしきものが溢れ出る。
 すると、それに気づいたみどりが「嫌だわ」と顔を顰めた。
「汚いじゃない」
「お嬢様が、蹴ったからではありませんか……!」
 初めて、凜花は姉に向けて声を荒らげた。
 一度ならず二度までもみどりが暴行されるのを目撃した凜花は、すでに冷静さに欠いていた。
 姉に対する恐ろしさも、なぜここにいるのかという疑問はもちろんある。
 でも、今はそれ以上にみどりが痛々しくて見ていられない。
 みどりは、時雨が自分の命よりも大切に思っているたった一人の妹だ。
 凜花に対してはたまに言葉がきついときもあるけれど、本当はとても優しくて心の強い子だ。そんな彼女は、決して足蹴にされていい人ではない。
(助けないと……!)
 しかし、倒れるみどりのすぐそばには杏花がいる。とても駆け寄ることはできない。
「お願いです、お嬢様! みどりを手当てしたいのです、だから――」
 彼女を返してほしい。そう言うより早く「嫌よ」と杏花は冷ややかに言った。
「それが人にものを頼む態度なの?」
「え……?」
「やめてほしいなら態度で示しなさい。こういうときにどうすれば良いのか、愚図で、のろまで、出来損ないのおまえはよぉく知っているはずよ。だって、私がそう教えてきたもの」
 ころころと鈴が転がるように楽しげに杏花は言った。嫌というほど凜花の耳に馴染んだ笑い方だ。凜花を痛ぶるとき、姉は何よりも楽しそうに笑うのだから。
「凜花」
 すうっと杏花は目を細める。
「おまえは自分が誰かを忘れたの?」
「あ……」
「どこにいようとおまえは私の下僕よ。今も、昔も、そしてこれからも」
 ――下僕。
 何十回、何百回、何千回。
 生まれてから長嶺を出るまで数えきれないほど言われてきた、その言葉。
「朝葉時雨のもとで随分と良い夢を見れたようだけれど、いい加減目を覚ましなさい」
 杏花の顔から笑みが消える。
 人形のような顔に浮かんだのは、身震いするような憎悪の感情だった。
 十八年間の人生で体に染み込んだ下僕としての自分が顔をのぞかせ、凜花は膝をつきそうになる。
「この屋敷も、次期朝葉公爵夫人の座もわたしのものよ。おまえのような只人がいていい場所ではないわ」
 しかし、続くその言葉に凜花はぴたりと動きを止めた。
 ――杏花は、時雨を呼び捨てで呼んだ。
 祝言の日も、市街地で遭遇したときも、彼女は「時雨様」と言っていた。
 時雨に対して異常なまでの執着心を抱いていたのに、なぜ。
 驚きと戸惑いで黙り込む凜花を見て怯えていると取ったのか、杏花は一変してにいっと唇の端をあげて笑う。
「私は和泉様と結婚して、朝葉公爵夫人になるの」
 凜花は、姉の言葉にますます困惑を深めた。
(和泉様と結婚……?)
 意味が、わからない。
「……朝葉家を継ぐのは、時雨様です。和泉様ではありません」
 声を震わせ、凜花は事実を告げる。姉に面と向かって意見するのを本能が恐れているのか、背中を冷や汗がつたうのがわかった。
 そんな中でも、意識はみどりへと向く。
 ――みどりを杏花から引き離さないと。
 すると、心が焦る凜花を嘲笑うかのように、杏花はゆったりとした口調で「馬鹿な子」と嘲笑う。
「私がここにいる意味をまだ理解していないの? 朝葉時雨は二度とおまえのもとには戻ってこないわ。今頃、和泉様に殺されているのではないかしら?」
「え……?」
 一瞬、頭の中が真っ白になる。
(時雨様が、殺される?)
 言葉の意味を頭が理解することを拒んで、声が出ない。その反応は杏花を喜ばせるものでしかなかった。
「朝葉時雨の正体は人の血を啜る化け物で、おまえの血を飲まなければ三十歳を待たずに死ぬそうね」
 ――なぜ、杏花がそれを知っている。
 時雨以外に純血の貴人と番の関係について知っているのは、道景とみどりだけのはず。絶句する凜花に、杏花は「和泉様がおっしゃっていたわ」と笑顔で答える。
「和泉様は、ご自分が当主になりたいそうよ。そのためには兄が邪魔だけれど、純血の化け物には敵わない。ならばその生命線である凜花を殺せばいいとお考えになった」
 しかし、そのためには確実に凜花と時雨を引き離さなければならない。
「だから、屋敷に火を放ったの」
「なっ……!」
「植物を操る私の貴力と、火を操る和泉様の貴力。私たちはとても相性が良いのよ? きっと屋敷は大火事になっているでしょうね。朝葉時雨もかなりの貴力を使うはず」
 そうして心身ともに疲弊した時雨がひとりになったところを、和泉が待ち伏せをする。そして――。
「和泉様が、化け物を殺すの」
 唇に弧を描く姿は、まるで夢見る少女のよう。しかしその桃色の唇はとてつもなく残忍な言葉を発している。
 その不均衡さに、姉が語った数々の事実に、めまいががした。
(ふたりが共謀して、屋敷に火を放った……?)
「時雨様と私を殺すために、屋敷に火を放ったのですか?」
「そうよ。餌としては少々もったいないけれど、目的を果たすためには仕方ない犠牲だわ」
 何も問題ないとばかりに杏花は肩をすくめる。凜花はますますわからなくなった。
「旦那様と奥様がどうなってもよかったのですか?」
 凜花とは違い、杏花は目に入れても痛くないくらいに溺愛されていたのに、どうしてそんな薄情なことができるのか。今こうしている間にもふたりは怪我をするか、最悪の場合は命を落としていても不思議ではないのに。
「お父様は貴人よ。お母様だって、おふたりの寝室の近く火種はおかなかったもの。よほど運が悪くない限り、そう簡単に死にはしないわ」
 その物言いからは、両親がどうなってもかまわないと思っているのがわかった。
 たまらず、凜花は言った。
「狂っているわ……」
「なんとでもおっしゃい」
 凜花の言葉をものともせずに杏花は愉快そうに鼻を鳴らす。
「このまま何もせずにいれば、私は只人の男を伴侶に迎え、おまえは公爵夫人になる。そんなことは絶対に認めない。私がこの世で一番許せないのは、おまえより下になることなの。そうならないためなら屋敷なんてどうでもいいわ」
 まるで別の生き物と話しているようだ、と凜花は思った。
 姉のことはこれまでも心の底から恐ろしいと思っていたが、今はその比ではない。目の前の存在が、人の皮を被った悪意ある生き物に見えてならない。
「さあ、おしゃべりは終わりよ」
 恐怖で体を震わせる凜花に杏花は最後通告を突きつける。
「――跪きなさい」
 数えきれないほど聞いた、その言葉。
「惨めったらしく地面に這いつくばって、私に許しを請いなさい。そうすれば命だけは助けてあげるわ」
 凜花がそうすると信じて疑わない口調で杏花は言った。
「和泉様には『殺せ』と言われたけれど、こうして顔を見たら殺すのが惜しくなったわ」
 それはきっと、凜花が妹だからとか、可哀想になったとかの理由ではない。
「化け物は和泉様が退治してくれる。そうすれば、おまえを生かしておいても和泉様もうるさくは言わないでしょう。だって、簡単に殺したりしたらもったいないもの。下僕の分際で私をこけにした分、おまえにはもっと苦しんでもらわないと気が済まないわ」
 凜花、と。
 柔らかな声で、杏花は双子の片割れの名を呼んだ。
「今この場で私に殺されるか、死んだほうがましだと思いながら一生私にこき使われるか。おまえは、どちらの地獄を選ぶ?」
 ――この場で死ぬ? 
 ――そもそも、時雨様は無事でいるの?
 ――早くみどりを助けなければ。 
 頭がどうにかなりそうな緊張状態の中、凜花は無意識に自分の胸元を掴んで、ハッとする。
『大丈夫だ。私を信じて』
 別れ際の時雨の声が、頭をよぎった。
 そうして凜花がゆっくりと膝をつこうとするのを、杏花はにいっと歪んだ笑みで見つめた。

「なぜこんなことをした、和泉」
 どうしてここにいるのか、とは聞かないし、その必要もない。
 すでに時雨は、今回の火災は和泉と杏花が引き起こしたものだと確信している。
 そして和泉は、それを否定しなかった。
「兄上が邪魔だからですよ」
 笑顔を貼り付けて和泉は言った。
「こうでもしなければ、兄上と長嶺凜花を完全には引き離せない。そのために長嶺邸を餌にしました。今の私の役割は……そうですね、足止めといったところです」
「足止め?」
 この言葉に全身の毛が逆立つような感覚がした。
 自分と凜花を引き離したい。そして、足止め。
 それから連想させるのはひとつだけ。
「――凜花に、何をした」
 血を這うような低い声で時雨は唸る。
「私自身は何も。するとしたら杏花の方です。こうして私が兄上の足止めをしている今この瞬間にも、あの只人の女は殺されかけている。そう考えるとぞくぞくしませんが?」
「おまえっ……!」
 やはり嫌な予感はあたった。
 杏花だけいなかったのは、凜花のもとにいるから。 
 彼女の身に何かあったら――そう考えると、焦りと怒りで目の前が真っ暗になりかける。しかし、時雨は両手の拳を強く握りしめることでなんとか正気を保つ。
 凜花には、お守りを渡してある。
 だから安全というわけではもちろんないが、今は、目の前の問題ごとを一秒でも早く片付ける必要がある。
「時間の無駄だ、要求を言え」
 睨み据えながら問えば、和泉は朗らかに微笑んだ。
「それなら、今すぐこの場で死んで、私に当主の座を譲ってくれますか?」
「話にならないな」 
 馬鹿馬鹿しい、と時雨は一刀両断すると、和泉は「そうでしょうね」と肩をすくめる。
「それにしても、兄上がそのように必死なところは初めて見ますね。まぁ、それもそうか。あの女に何かあれば兄上もいずれ死ぬ。必死になるのも当然だ」
 ああ楽しい、と実に愉快そうに和泉は声をあげて笑う。
 その一言に時雨は悟る。
 ――和泉は、純血の貴人の秘密を知っている。
「父から聞いたのか?」
「違いますよ」
 意外にも和泉はこれを否定した。
「父さんからは何も聞いていません。自分で調べたんです。純血でもなく次男にすぎない私は、兄上に何かあったときの予備でしかない。父さんもその役割のために私を作った。私は、昔からそれが嫌でたまらなかったんですよ。だから、いずれあなたから当主の座を奪ってやろうと密かに純血について調べました。そこであなたの正体と番との関係を知ったんです」
 兄上、と。
 ねっとりと絡みつくような声で、和泉は言った。
「お二人の関係は素敵だと思いますよ? 血を啜らずには生きられない化け物と、無能で誰からも愛されない只人の娘。互いの存在なしに生きられない――なんて、比翼連理で素敵じゃないですか。でも、しょせんあなたは化け物だ。当然、朝葉の当主には相応しくない」
「だから、長嶺杏花と手を組んだのか」
「そんなところです」  
 語るように、歌うように和泉は柔らかく語る。
「私は兄上が邪魔。杏花は妹が邪魔。私たちの利害は一致しました。次期公爵夫人の座を約束したら快く協力してくれましたよ。感情的で愚かな女だが、野心的で冷酷なところは悪くない。私の妻になるには、あれくらいの器量がなくては困る」
 子どもは適当に只人を囲えばいいだけだ、と和泉は笑顔で言い切る。
 まるで自分が次期公爵になることを確信しているような口調に、時雨は「もういい」と吐き捨てた。
「おまえのくだらない野心も妄想もかけらも興味がない。今すぐそこをどけ。私は、凜花のもとに行く」
 和泉の襲撃によって時雨の自動車は破損した。しかし、和泉の後方には彼が乗ってきたであろう車がある。一刻も早くあれを奪い屋敷に向かうのだ。
「行かせるわけがないでしょう」
 他する和泉は、兄の思惑などお見通しのようにクックと笑う。
「あれほどの大火を消すほどの大雨を呼び寄せたんだ。いかに化け物とはいえ、貴力はもうほとんど残っていないはずだ。この上私の相手なんてできるわけがない」
「なにも問題ない」
 否定すると、和泉は笑みをさっと消して不快そうに眉根を寄せる。
「……本気で言っているのですか」
「ああ。おまえ相手には、今の私でも十分すぎる」
 嘲笑と共に答えた、次の瞬間。
 無数の火の矢が一直線に時雨目がけて飛んでくる。 
 時雨はその場から一歩も動かなかった。眼前に迫った火の矢は一本たりとも時雨にあたることなく、目には見えない壁に遮られて四散する。
「なぜ……!」
 和泉は動揺をあらわに目を見開く。
 対する時雨は、眉ひとつ動かすことなく片手をひらりと振った。
 その瞬間、目にも止まらぬ速さの風が吹き、立ち尽くす和泉の頬に傷をつける。
「かまいたち……?」 
 呆然と呟く和泉の頬から一筋、血がつたった。
「どうした、立っているだけか? 今、私が手加減をしなければおまえの四肢は私の風で切断されていただろうな」
「強がりをっ……!」
「強がりかどうかは、自分の目で確かめればいい」
 なおも和泉は火の矢を繰り出すが、やはり時雨がそれによって傷つくことはない。
「貴力とは、こう使うものだ」
 時雨が片手を軽く翳した途端、たちまち炎の渦が巻き起こる。
 それは一瞬にして竜の形へと変わる。
 まるで本当に生きているかのような火の竜はカッと大きく口を開き、降り注ぐ炎の矢を飲み込むと、和泉めがけて一直線に飛んでいった。
「なっ……!」
 和泉の面前に迫った火の竜は、彼をも飲み込まんと刃を向いて――。
 時雨が手を下ろすと、たちまち幻のように消えた。
 そうしてその場に残ったのは、顔面を蒼白にして尻餅をつく和泉だった。
 体全体を震わせて座り込む弟のもとに、時雨は向かう。
 圧倒的な力の差を目の当たりにした和泉は、ふるふると首を横に振って逃げようとする。しかし、腰が抜けているのか実際にはその場から一歩も動かない。
「私は軍人だ。今日のような災害現場には、これまで数えきれないほど遭遇している。その私が、たかだか雨を降らせた程度で身動きが取れなくなるとでも思ったか?」
「やめろ、来るな化け物っ……!」
 もはや会話もままならないほどに和泉は動揺している。
 これ以上は会話する時間ももったいない。
「和泉」
「ひぃっ……!」
 時雨は膝をつき、和泉と視線を合わせる。
「おまえは色々とやりすぎた。これから先は、その身で自分の罪を贖え」
「うっ……!」
 時雨は和泉の鳩尾に思い切り拳を入れる。次いでぐったりと意識を失った体を手早く拘束し、弟の車に放り込んだ。そうして和泉の服の中から車の鍵を探し出し、すぐさまエンジンをかける。
「っ……!」
 しかし運転し始めてすぐ、時雨は自身の体調の変化を感じた。
(……さすがに貴力を使いすぎたか)
 和泉にはああ言ったが、実際のところは虚勢を張っていただけだ。
 現に、今も頭の中を殴られているような頭痛と体中を走る悪寒が止まらないし、額からは冷や汗が流れている。
 こうなることは初めてではない。凜花と出会う以前は、大量の貴力を使った後は今の比ではないほどの体調不良に見舞われていた。
 そのときに比べれば、運転する気力が残っているだけまだましな方だ。
 もはや一分一秒が惜しい。
 どうか無事でいてくれと強く願いながら、時雨は車を走らせた。

 凜花はゆっくりと両膝をつく。
 その様を実に愉快そうに見下ろす姉を見返しながら、凜花は思った。
『私が全て間違えておりました』
『全て、お嬢様が正しいです』
『本当に申し訳ありませんでした』
 もしも、凜花がそう言えば、杏花の顔は歓喜に変わる。
 姉は、可憐な顔にぞっとするほど冷ややかな笑みを浮かべて、生き地獄を選んだ妹を生涯いたぶり続けるだろう。そして凜花は、姉が言ったとおり「死んだ方がましだ」と絶望しながら死ぬまでの日々を過ごす。
 その未来は、時雨の隣で共に老いていくよりもずっと詳細に凜花の頭に浮かんだ。
(――それでも、私は)
 両手を地面について頭を下げようとした凜花は、次の瞬間、正面の杏花の足をめがけて思いきり体当たりをした。
「いっ……!」
 まさか凜花がそんなことをするとは思いもしなかったのか、不意を突かれた杏花はその場に背中から倒れ込む。その隙に凜花はみどりのもとに駆け寄り、横たわる彼女を背中に庇った。
 ――今度こそ、私がみどりを守る。
「おまえっ、よくも……!」
 鬼の形相に変わった杏花が手を掲げると、たちまちすぐ近くに生えた樹木の枝が急激に伸びる。それは迷うことなく一直線に凜花めがけて飛んでくる。
 凜花は、迷わず胸元に下げていた小袋から水晶を取り出した。
 眼前に、木の鞭が迫る。
(時雨様っ……!)
 凜花はぎゅっと瞼を閉じる。
「どうしてっ……!」
 しかし、痛みは訪れなかった。代わりに耳に届いたのは、杏花の叫び声だった。
 凜花は恐る恐る瞼を開ける。そうして視界に飛び込んできた光景に絶句する。
 目の前では、何本の木の鞭が容赦無く凜花めがけて振り下ろされている。
 しかし、それが凜花に触れることはない。
 金色の薄い膜が凜花の周囲一体を包み込み、透明な壁となって守ってくれていたのだ。
 驚いたのは、それだけではない。
 ――手の中の水晶が光っている。
 眩いばかりの金色の光は、時雨の瞳と同じ色。その眩しさに反応するように、背後から「うっ」と呻く声が聞こえた。ハッと振り返ると、気を失っていたみどりが身じろぎしている。
(みどり……!)
 彼女が意識を取り戻したことに心の中で喜びの声をあげたのも束の間だった。
「なぜ、おまえが朝葉時雨の水晶を持っているの⁉︎ 光気を纏っているのよ!」
 無数に繰り出される鞭の先で、凜花が憤怒の表情を浮かべて叫ぶ。
「あの男がおまえに水晶を贈ったなんて聞いてないわ! それに、さっきまでなんの光気も纏っていなかったのに、なんで……どうしてよ!」
 半狂乱になった杏花は叫ぶ。その間も四方から木の鞭が絶えず振り下ろされ続けたけれど、凜花はもちろん、その背に庇うみどりに届くことは決してない。
 ――守られている。
 水晶が、時雨が、ふたりを守ってくれている。
 今になってはじめて、凜花は「お守り」の本当の意味を知った。
(これが、時雨様の光気? なんて綺麗なの……)
 攻撃されている最中にも関わらず、そのあまりの美しさに見惚れてしまう。
 手のひらの中の水晶はほのかに温かい。まるで時雨に触れられているようだ。
「よこしなさいよ……! その水晶は、おまえのような無能な只人が持っていていいものではないわ!」
 愚図、無能、のろま、役立たず、家の恥――。
 杏花はありとあらゆる暴言を吐きながら貴力を振るう。
 凜花はずっと、感情を爆発させる姉が恐ろしくてたまらなかった。
 杏花を怒らせないよう、刺激しないようにいつだって神経を張り巡らせ、常に綱渡りをしているようだった。しかし今、感情のままに叫ぶ姿を見て改めて思う。
 ――杏花は、子どもなのだ。
 欲しいものが手に入らないと癇癪を起こして、周囲がいうことを聞くまで泣き続ける、聞き分けのない幼子となんら変わらないのだと、初めて気づく。
(今なら、言える)
 十八年間、胸の奥底に閉じ込め続けてきた感情。どんな理不尽な命令にも俯いて応え続けてきた昔の自分が本当は何を考えていたのか。
(――時雨様が、守ってくださる)
 凜花は手のなかの水晶を強く握り、真っ向から杏花を見据える。
「お姉様」
 生まれて初めて、杏花を姉と呼んだ。その直後、ぴたりと攻撃が止む。視線の先では、目を大きく見開き驚愕をあらわにする杏花がいた。
「おまえ、今、なんと言ったの?」
「お姉様、と申し上げました」
「……おまえのような無能が、私を姉と呼ぶのはやめなさい!」
 喉が裂けんばかりに杏花は叫ぶ。しかし彼女が再び貴力を振るうことはない。
 おそらく、貴力を使い果たしたのだろう。それでもなお苛烈に睨んでくる杏花から目を逸らすことなく凜花は言った。
「いいえ、呼ばせていただきます。なぜなら……私はもうあなたの下僕ではありません。これから先も、なるつもりはありません。もちろん、水晶もお渡ししません」
「なんですって⁉︎」
「それだけじゃありません」
 凜花は、姉の声にあえて被せる。
「時雨様を悪く言うのは、おやめください」
 彼は、自分を卑下することしか知らない凜花に、新しい価値観を与えてくれた。自分を甘やかしていいのだと、凜花にもできる役割があるのだと教えてくれた。
 凜花に、笑うことを教えてくれた。
 常に姉に怯え、家族の愛情を羨み、孤独だった凜花に家族になると言ってくれた。凜花自身を必要だと、そばにいてくれるだけで良いのだと言ってくれた。
 いつだって後ろ向きな凜花の背中を推してくれた。
 そんな彼は、杏花が悪様に言っていいような人ではない。
「私は、時雨様ほど優しくて強いお方を他に知りません」
 そうだ、とこのときふと凜花はあることに気づく。
 ――凜花は、彼が「只人」と口にするのを一度だって聞いたことがない。
(ああ……)
 やはり彼は、とても優しくて温かい、血の通った人間だ。
「時雨様は、化け物ではありません!」
 力の限り叫んだ、そのとき。
「凜花!」
 求めてやまなかった声が凜花の鼓膜を震わせた。
 弾かれたように声の方を見ると、一台の車が玄関ポーチに入ってくる。
 見覚えのない車から駆け降りてきたのは、時雨だった。
 彼は一目散に凜花のもとにやってくると、そのまま力の限り凜花を抱きしめた。「――無事でよかった」
 抱き寄せられた逞しい胸から、激しく鼓動する心臓の音が聞こえてくる。
 その温もりに、音に、時雨という存在に。
 凜花は、心の底から安堵した。
 そのまま広い背中に縋りつきたい気持ちを堪えて、凜花は「みどりが」と呟く。時雨はそれに頷くと、地面に仰向けに横たわり、薄目を開ける妹のもとに跪いた。
「おまえも、よく頑張った」
「し、ぐれ様……」
 目尻から涙を流すみどりの頭を時雨は優しく撫でる。これにみどりは安心したように瞼を閉じて眠りにつく。その表情は先ほどと違ってとても穏やかだ。
 時雨はさらにみどりの頭をもうひと撫でして立ち上がる。そして、彼女と凜花を背中にかばい、杏花を睨み据えた。
「長嶺杏花」
 名前を呼んだ。
 ただそれだけのことに、隣に立つ凜花は皮膚の表面が泡立つような寒気を覚えた。
「おまえは、自分が何をしているのか本当に理解しているのか?」
 感情の揺らぎを感じさせないような朗々とした声だった。
 しかし、時雨は下ろした両手をきつく握りしめている。よく見るとそれは微かに震えていた。
 その姿に凜花は悟る。
 今の時雨はとても落ち着いているように見えるけれど、本当は体の内にある激情を必死に抑え込んでいるだけなのだ、と。
「な、んで……どうしておまえがここにいるの……」
 時雨が到着してからずっと、呼吸するのも難しいようにはくはくと口を動かしていた杏花は、ようやく声を絞り出す。杏花は時雨の問いに答えることなく、青ざめた顔で喚き始めた。
「和泉様は、何をしているの⁉︎」
「弟ならあの車の中にいる。もっとも、意識はないし拘束しているがな」
「なっ……!」
 杏花は目を見張り、声を荒らげる。
「あの役立たず! 弱りきった化け物のおまえを殺すのがあの人の役割なのに、足止めもできないなんて……!」
「わめくな、うるさい」
 時雨が軽く手を一振りした次の瞬間。
「ひっ……!」
 杏花は苦しそうに自分の首を抑える。みるみる顔色を悪くする杏花に向けて、時雨は怒りを押し殺した声で、今一度「長嶺杏花」と姉の名を呼んだ。
「今、おまえの周りだけ空気をなくした。息ができないのは、苦しいか?」
 こくこく、と必死の形相で杏花は頷く。しかし時雨は眉ひとつ動かさない。
「そうだろうな。そのような苦しみを、おまえは長年凜花に与え続けたんだ。みどりのことも散々痛ぶってくれたようだし、次はどうしてやろうか」
 ――このままでは遠からず、杏花の命は尽きるだろう。
 凜花がたまらず傍の時雨の手に触れる。すると、時雨はわかっているとばかりに凜花の方を見た。
「大丈夫だ。殺しはしない。だから、あとは私に任せなさい」
 言って、時雨は手を下ろした。
「かはっ……!」
 途端に咳き込み始める杏花のもとへ時雨は向かう。
「いやよ……来ないで……私に近寄らないで、化け物!」

 時雨は人ひとり分の距離を空けて、杏花の前で立ち止まる。そして、尻餅をついたまま震えて怯える杏花を見下ろした。
 ――化け物。
 耳に馴染んだと言ってもいいその響きに、時雨は冷笑する。
「私が化け物なら、おまえはなんだ?」
「何を、言って……」
「仮にも血を分けた双子の妹を『下僕』と呼び、虐げ続け、あげく殺そうとするおまえも十分化け物だよ、長嶺杏花」
「違うわ! 私は貴人よ! 化け物ではないわ!」
 全身を震わせ顔を青くしながらも杏花は怒鳴る。この後に及んでもなおもそう口にできるその図太さに、一周回って笑いたくなるのを堪えながら、時雨は「だから?」と冷静に問い返した。
「貴人だから、貴力を持たない者には何をしてもいいというのか?」
「あたりまえよ、何を当然のことを言っているの⁉︎ そもそもあれは、凜花は私の下僕だもの、どう扱おうと私の勝手じゃない!」
「……そうか」
 時雨はひらりと手をひと振りする。途端に杏花は大きく目を見開いた。
「安心しろ。おまえの周囲に強固な空気の壁を作っただけだ。先ほどと違って息はできるはずだ。もっとも、おまえの声はこちら側には聞こえないけれど」
 目の前の凜花は何かを叫び、両手で空気の壁を何度も叩いている。
 おおかた「化け物!」「ここから出せ!」などと言っているのだろうが、こちら側に声は届かない。
 でも、これでいい。杏花の言葉はこれ以上聞くに耐えなかった。何よりも、凜花の耳に触れさせたくなかったのだ。
 無音で叫び散らかす杏花を睥睨し、時雨は空気の壁に手を触れる。
 こうすれば、こちらの声は手のひらを通じて杏花に届く。
「放火犯を娘に持った長嶺伯爵は、社交界を追われることになるだろう。おまえの愚かな行いによって、長嶺伯爵は家も、財産も、社会的地位も失うんだ」
 なおも何かを叫ぶ凜花を無視して、時雨は続けた。
「いまだに現実が見えていないようだから教えてやる。放火は、大罪だ。貴人であろうと罪は罪。死刑は免れたとしても、おまえはこの先の長い年月を、日の当たらない暗い塀の中で過ごすことになるだろう」
 現実を受け入れたくないように、杏花は涙を流して首を大きく横に振る。
 その顔は確かに凜花と同じ造りなはずなのに、時雨にはまったく似ているようには思えなかった。
「本当なら私が直接手を下したいところだが、凜花が悲しむからそれはしない。……彼女は、長嶺邸が火事にあったと聞いた時、両親とおまえの身を案じた。そんな価値もない、おまえたちをだ」
 しかし、時雨の言葉が杏花に響くことはなかった。
 これから自分を待ち受ける現実を、とても受け入れることができなかったのだろう。空気の壁の中、杏花は絶叫し、そのまま意識を手放したのだった。

 杏花がその場に崩れ落ちるのを、凜花は静かに見届けた。
 姉が叫ぶ声は凜花には届かなかったけれど、時雨とのやりとりでおおよその内容は推測できた。視線の先では、杏花の拘束を終えた時雨がしっかりとした足取りでこちらに向かってくる。
 遠目にもわかるほど顔色が悪いのは、それだけ彼が貴力を消耗したからだ。
 ――守ってくれた。
 雷雨の夜、納屋に閉じ込められていたときと同じ。
 今回も時雨は凜花を救ってくれた。
「凜花」
 自分を呼ぶその声に、澄んだ金の眼差しに。
 ずっと堪えていた何かが、体の内側から込み上げるのを感じる。
 気づけば凜花は自ら時雨のもとに向かって駆け出していた。そのまま彼の胸に飛び込み、広い背中に手を回して縋り付く。時雨はそれを優しく抱き止めてくれた。
「時雨様……」
「ああ」
「時雨様っ……!」
 ただひたすらに名前を呼ぶ凜花の頭を大きな手のひらが何度も撫でる。
 まるで慈しむようなその手つきに、時雨の胸の中の凜花はゆっくりと顔を上げた。
 潤んだ視界に映る時雨は、眩しいほどに美しくて、温かい眼差しを向けてくれる。
 そんな彼を前に、凜花はたまらず涙を流した。
 なぜ涙が出るのか、自分でもわからない。
 杏花に対する恐怖、時雨が無事でいてくれたことへの安堵感、こうして駆けつけてくれたことへの感謝の気持ち。それらが一気に混じり合い、ひとつになる。
 言葉は、自然と溢れ出た。
「お慕いしております」
 目を見張る時雨に、重ねて告げる。
「時雨様のことを……心から」
 伝えるつもりはなかった。
 一緒にいられるだけで十分だと思っていた。
 同じ気持ちを返してもらえなくても、想うだけで十分だと思っていた。
 でも、今は違う。
『今この場で私に殺されるか、それとも、死んだほうがましだと思いながら一生私にこき使われるか。おまえは、どちらをの地獄を選ぶ?』
 杏花に問われたとき、凜花は姉に虐げられる一生を送る自分の姿を容易に想像できた。それでも凜花が望んだのは、絶望の中で死んだように生きることではなかった。時雨と共に希望を抱いた未来を生きたいと、心の底から強く願った。
 涙を浮かべながら笑う凜花の頬を、涙がつたう。
「……大好きです」
 愛、というものを凜花は知らなかった。
 血の繋がった両親や姉から与えられるのは、愛情ではなく無関心や憎しみだった。そんな凜花に、時雨はたくさんのものを与えてくれた。教えてくれた。
 望まれることの喜び、人肌の暖かさ、そして。
(愛を、教えてくれた)
 今、凜花は改めて想う。
 心の底から時雨のことが大切で、愛おしい。
「凜花」
 泣きなくなるほど優しい声で、愛しい人は凜花の名前を呼ぶ。
「たったひとりの、私の番」
 時雨は手のひらを凜花の頬にそっと添えると、親指で目尻からとめどなく溢れる涙を拭ってくれた。
「時雨、様……」
「愛してる」
「っ……!」
 息を呑む凜花に、時雨は言った。
「私の妻になってくれますか?」
 心も体も捧げたい。そう思える人に出会えた奇跡を今、改めて噛み締める。
「喜んで」
 至上の喜びを感じながら、凜花は微笑んだ。
 

 真っ黒な蒸気機関車が黒煙と汽笛を轟かせて動き出す。
 その姿が見えなくなるまで見送った凜花は、駅舎を後にする。
 そして、路肩に停車する自動車に乗り込んだ。
「お待たせいたしました、時雨様」
「見送りは済んだのか?」
「はい」
「……話は、できた?」
 運転席で心配そうに眉を下げる時雨に、凜花はゆっくりと首を横に振る。
「遠くから姿を見ていただけで、声をかけることはしませんでした。……私も、お二人も、顔を合わせたところで話すことは何もありませんから」
 今日、凜花は田舎に引っ越す両親を見送るために時雨とともにここに来た。
 遠目に見た長嶺伯爵夫妻は、凜花の記憶の中の両親とはまるで違っていた。
 覇気もなく背中を丸くする父と、白髪がとても増えた母は、凜花に気づくことなく他の乗客にまぎれて消えていった。
 凜花と両親が再び顔を合わせることは、おそらくこの先二度とない。
 親子の別離にしてはあまりにあっけない最後だが、寂しさは微塵もなかった。
 でも、それは仕方のないことなのかもしれない。
 凜花と彼らが親子として触れ合った瞬間は、ただの一度もなかったのだから。
 それにもかかわらずこうして密かに見送ったのは、自分の中でひとつの区切りをつけるためでもあった。
 凜花はこれから「朝葉凜花」になる。
 だから、長嶺の名前にさよならを告げるために、ここに来た。
「凜花」
「はい」
「帰ろう。――私たちの家へ」
 私の家ではない。
 私たちの家と言ってくれるのが心の底から嬉しくて、凜花は笑顔で頷いた。

 東倭国を代表する名門公爵令息と伯爵令嬢による放火事件。
 放火先は令嬢の実家という前代未聞のこの事件は、人々の関心を大いに引き付けた。 
 新聞が連日この事件を報道する中、朝葉道景は騒ぎに乗じて逃げるように当主の座を退いた。これにより名実ともに朝葉家当主となった時雨は、軍務や当主業と並行して事件の後処理に奔走した。
 とはいえ、腐っても朝葉は御三家。
 朝葉公爵の名をもってすれば、報道を抑え込むのはそう難しいことではない。
 しかし、時雨はそうしなかった。
『弟を止められなかった私にも責任がある』
 そう言って、時雨は朝葉に集まる世間からの批難を一身に受け止めたのだ。
 凜花は、そんな時雨をそばで支えることに注力した。
 朝はみどりと共に時雨を見送り、少しでも彼が居心地良く過ごせるように屋敷の中を整え、夜は温かい食事を用意して出迎える。そして、数日に一度血を捧げる。
 凜花がしたことと言えば、今までとほとんど変わらない。
 しかし、もう「それしかできない」と卑下することはしない。
 ――時雨の隣にいる。彼の番としての役割を果たす。
 それは自分にしかできないことだと、今の凜花は胸を張って言えるから。 
 事件後、拘束された杏花と和泉は、速やかに貴人専用の留置所に送られた。
 今回ふたりによって引き起こされた火事は、長嶺邸の敷地内にあるほぼ全ての建物を焼き尽くした。いかに大雨が降ったとはいえ、それほどまでの大火だったにもかかわらず、死者がひとりも出なかったのは奇跡というほかなかった。
 とはいえ、放火は大罪である。
 そこに貴人、只人は関係ない。
 この先、ふたりは法のもとで裁かれる。
 死者がいないことから死刑は免れるだろうが、無期、あるいは少なく見積もってもむこう十年以上は塀の中で過ごすことになるだろう、と時雨は言った。
 自分の容姿や貴人という立場に何より誇りを持っていた杏花にとって、若く美しい時間を暗く孤独な牢で生きなければならないのは、ある意味死よりも辛い刑なのかもしれない、と凜花は思った。
 また、今回の事件で家も財産も、名誉さえも失った長嶺夫妻は、田舎に住む親戚の家に身を寄せることに決め、今日、逃げるように中央を去っていった。
 残された長嶺家に仕える使用人は、希望する者は皆、時雨が朝葉家で雇用してくれることになった。
 本当に、時雨には感謝してもし足りない。
 そして、屋敷への帰路につく車中。
「――そういえば、時雨様にいただいた水晶はお返ししたほうがよいのでしょうか?」
 凜花がふと気になっていた問いを口にした次の瞬間、車が急停車する。
 時雨が急ブレーキを踏んだのだ。
「し、時雨様?」
 慌てて隣をみれば、彼はなぜか信じられないように目を大きく見開き、こちらを見ていた。
 琥珀色の水晶は、今も小袋に入れて首から下げている。
 これは、凜花が生まれて初めてもらった贈り物だ。
 気持ちの上で言えば、一生大切に持っていたい。
 一方で、これはもともと『いざというときのために』と時雨が渡してくれたものだ。今回のような事件はそうそう起きないだろうし、もしかしたら返した方がいいのだろうか、と思って聞いてみたのだけれど――。
(そんなに驚くようなことを聞いたかしら……?)
 不思議がる凜花に、なぜか青ざめた顔の時雨は口を開く。
「入籍前から離縁の話はしたくないのだが……」
「離縁?」
 凜花は目を瞬かせる。
「なぜ、そうなるのですか?」
「水晶を返すというのはそういうことだろう?」
「……そうなのですか?」
 互いに見つめ合うこと数秒。不思議な間の後、先に口を開いたのは時雨の方だった。
「貴人が貴力を込めた水晶を渡すのは、求婚と同義だ。その逆は離縁を申し出たことになるのだが……もしかして、知らなかったのか?」
 まったくもって初耳の内容に、今度は凜花が目を丸くする。
「し、知りませんでした。姉からは入れ替わりの際によく渡されていたので……」
「……長嶺杏花が例外なだけで、貴人が水晶を贈る相手は伴侶だけだ」
「そ、そうだったのですね」
「ああ」
 時雨は疲れた様子で頷く。その姿に内心「申し訳ないな」と思いながら、凜花は以前みどりに言われた言葉を思い出していた。
『水晶まで贈られているのに、これで自覚がないと言われたら、さすがに時雨様に同情します』
 あのときのみどりがなぜ呆れていたのか、今ならわかる。
「知らなかった上での質問なら良かった。……正直、心臓が止まるかと思った」
「そんな、大袈裟な……」
「大袈裟なものか」
 ふっと時雨は真顔になる。
「今の私にとって、あなたを失う以上に怖いことはないんだ」
 まっすぐなその言葉に、熱を秘めた眼差しに、胸が一気に高鳴る。
 嬉しさと恥ずかしさが込み上げた凜花は、たまらず視線を逸らした。すると時雨は小さな声で「可愛いな」と囁き、再び運転を再開させる。
 それからしばらくしてようやく頬の赤みが引いた頃、凜花は言った。
「……先ほどの水晶の話もそうですが、私は知らないことがまだまだたくさんありますね」
 時雨と結婚すれば凜花は必然的に公爵夫人になる。
 その覚悟はできているが、一方で本当に自分に務まるだろうかという不安は尽きないというのも正直なところだ。
(これから、色々と頑張らないと)
 するとそれを感じ取ったのか、時雨は「大丈夫だ」と柔らかな声で笑う。
「あなたはそのままでいい。無理をする必要はないし、負担に感じるようなら住まいを本邸に移す必要もない。私は、あなたが笑顔でのびのびと過ごしてくれればそれだけでいいんだ」
「時雨様……」
 彼の言葉からは、凜花を大切に想ってくれているのが痛いほど伝わってくる。
 それを心から嬉しいと思いながらも、凜花は「それはいけません」と笑顔で答える。
「すぐには無理でも、努力はします。そうしないと胸を張って時雨様のそばにいられませんもの」
「凜花……」
「だから、頑張りますね」
 自分を鼓舞するためにもはっきりと言葉に出す。
 これに、時雨は前を向きながら小さく呻いた。
「……どうして今言うんだ」
「え?」
「運転中じゃ、抱きしめたくても抱きしめられない」
「なっ……!」
 一度は引いた頬の熱が再びぶり返す。それは時雨にも伝わったのか、彼は再び「やっぱり可愛いな」と、今度ははっきりと声にしたのだった。
 その後、帰宅したふたりをみどりが出迎えてくれた。
「大丈夫ですか?」
 両親との決別を済ませてきたことを知る彼女は、真っ先に凜花を気遣ってくれた。これに凜花が笑顔で頷くと、みどりはホッとしたように小さく笑う。
 その表情があまりに可愛いものだから、凜花はつい頭を撫でてしまう。
「……なんですか?」
「可愛いな、と思って」
 奇しくも先ほどの時雨と同じ言葉を言えば、みどりは照れくさそうにふっと視線を逸らした。すると、そんなふたりを見守っていた時雨がクックと笑う。
「時雨様?」
 凜花とみどりが揃って振り向くと、時雨は実に嬉しそうに目を細める。
「そうしていると、ふたりは姉妹のようだな」
 姉妹。
 凜花にとっては恐怖でしかなかったその関係も、みどりが相手なら違う。
「それなら私が姉で、みどりが妹ですね」
「そういうことになるな」
 そう、時雨と話していたときだった。
「……私は、前からそのつもりでいました」
 このやりとりを聞いていたみどりは、ぽつりと呟く。
 その様子もまた本当に愛らしいものだから、顔を見合わせた凜花と時雨はふたり同時に笑みを溢す。すると、それにつられたようにみどりもまた微笑んだ。
(なんて幸せなんだろう)
 晴れ渡る空の下、大切な人たちの笑顔に囲まれながら凜花は思う。

 ――私の居場所は、ここにある。

 多幸感に満ちたその光景に、凜花は改めて自分の願いが叶ったことを実感したのだった。




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