「凜花さん」
 その日、母屋の裏庭の掃き掃除をしていた凜花は、険のある声に箒を動かす手を止める。振り返ると、眉間に皺を寄せた年嵩の女がこちらを睨んでいた。
 母、長嶺仁子の上女中を務める由美子だ。
「はい。なんでしょうか?」
 普段は母のそばに控える彼女が話しかけてくるのは珍しい。内心驚きながらも返事をすると、由美子はため息混じりに口を開く。
「旦那様と奥様がお呼びです。急ぎ、旦那様の書斎に向かってください」
 凜花はぽかんと口を開く。
「……おふたりが、私を?」
 問い返すと、由美子は呆れる気持ちを隠そうともせずに深いため息をつく。
「そうだと言っているでしょう。何を聞いていたんですか? あいかわらずどんくさいこと」
 侮蔑があらわな物言いに凜花は視線を下げた。
 仁子の輿入れと共に長嶺家にやってきた彼女は、凜花と同じ貴力を持たない只人だ。しかし、伯爵夫人となった母に仕えている由美子は他の使用人とは格が違う。
 彼女の目には、凜花は母の娘ではなく、長嶺の血を引きながらもその名を汚す役立たずで無能な下女に映っているのだろう。あえて言葉にされずとも、凜花を疎ましく思っているのは態度の節々から伝わってくる。
「必ず埃を払ってから行くのですよ。薄汚れた格好でおふたりの前に現れては困ります。わかりましたね?」
「……はい」
 頭を下げると、上から再度大きなため息が降ってくる。
「本当に陰気な人。お嬢様とは似ても似つきませんね」
 捨て台詞を残して由美子は去っていく。
 足音が聞こえなくなると、凜花はゆっくりと顔を上げた。
 脳裏には今も、汚物を見るような由美子の眼差しが残っている。
 目頭が熱くなりかけるのを、凜花は拳を強く握りしめることでなんとか堪えた。
「……早く行かないと」
 下女の自分が当主夫妻を待たせることなど許されない。
 本当は着替えた方がいいのだろうが、凜花が所有しているものといえば、今着ているところどころ擦り切れた地味な木綿のお仕着せと、あちこちをつぎはぎした着物だけ。
 せめて汚れだけは落とさなければと、裾や袖を叩いて埃を落とす。そして、箒を片付け急ぎ両親のもとへと急いだ。
 この家に生まれて十八年が経つが、両親に呼び出されるなんて初めてだ。
 母の部屋の近くに個室を与えられている由美子と違い、下女の凜花は女中部屋で寝起きしている。
 炊事や洗濯、掃除などの仕事を主とする凜花が両親の姿を見ること自体が稀だった。
 たまにあったとしても、気まぐれに妹を呼び出す姉と違い、父も母も、ふだんは凜花を見ても「いないもの」として扱う。
 そうでないときは決まってため息をついた。
『……おまえなんて生まれてこなければよかったのに』
『子どもが杏花だけであったならよかったものを。只人の妹など邪魔なだけだ』
 最後に目を合わせて言葉を交わしたのは何年前か。
 もちろん、家族の集まりに呼ばれたことはない。
 だからこそ心の中は驚きでいっぱいだった。
 何かふたりの不興を買うようなことをしてしまったか、と日頃の自分の行いを振り返るが、顔を合わせることがない相手を怒らせる方が難しい。
 唯一心あたりがるとすれば三日前に杏花の怒りを買い、納屋に閉じ込められたことだが、杏花による折檻は今に始まったことではない。
 いかに姉を溺愛する両親とはいえ、いまさら呼び出して注意するとは思えなかった。
(もしかして……)
 書斎の前に到着した凜花の頭にある可能性がよぎる。
 東倭国では、男女ともに十八歳で成人とみなされる。
 納屋から出された日は、ちょうど凜花の誕生日だった。
 それはすなわち、双子の姉である杏花もまた成人を迎えたことを意味する。
 杏花の誕生祝いは、家を上げて盛大に催された。
 しかし、妹の凜花に祝いの言葉を述べる人はただのひとりもいなかった。
 生まれてこの方誕生日を祝福されたことのない凜花は、それを当然のこととして受け止めた。
 でも……もしも、今回だけは違ったとしたら?
 成人の節目だからと、特別に呼ばれたのだとしたら?
『おめでとう』
 ただ、一言でいい。
 両親にその言葉をもらえたら――そう思いかけた凜花はすぐにそれを打ち消した。
(……何を自惚れているの)
 両親がそんな甘い人間ではないことを、凜花はこの身をもって知っているのに。
(期待しては、だめ)
 空気のように、柳のように、存在を消して罵詈雑言を受け流し、静かに暮らす。
 それが、この家で生き延びるための唯一の方法なのだから。
「凜花です。お呼びと伺い参りました」
 扉の前で深呼吸をして声をかけると、すぐに「入れ」と短い声が返ってくる。
 凜花は、入室してすぐ深く頭を垂れた。
「失礼いたします」
「顔を上げろ」
 冷ややかな声に命じられるまま凜花は頭を上げる。
 革張りのソファには、父と母が並んで座っていた。 
 父は凜花と目が合うと、不快そうに顔を顰める。母にいたってはすでにこちらを見てすらいない。
「凜花。おまえには今から、杏花の代わりに朝葉家の別邸に行ってもらう」
 不機嫌な様子を隠そうともしない父は、唐突に切り出した。
 あまりに突然の命令に凜花は瞠目する。
 朝葉家といえば、東倭国に三家しか存在しない公爵家のひとつである。そして、貴人たちの間でも別格とされている家でもあった。
 東の橘花。
 西の天王寺。
 そして、中央の朝葉。
 数百年前から続くそれらの家は、通称『御三家』と呼ばれている。
 代々優秀な貴人を輩出し、政治・経済・産業のあらゆる分野に多大な影響を及ぼす名門中の名門。
 そのうちのひとつ、朝葉家の別邸に只人である自分が行く。しかも、杏花の代わりに――?
「只人のおまえは知らないだろうが、朝葉公爵にはふたりの息子がいる。兄の時雨殿と、弟の和泉(いずみ)殿だ。今回、おまえが向かう先は時雨殿の別邸だ。そこで行われる『選定の儀』に参加しなさい」
「選定の儀?」
 初めて耳にする言葉につい鸚鵡返しをしてしまう。
 直後、父の眉がぴくりと動いた。
 苛立ちを感じ取った凜花は、すぐさま「失礼いたしました」と視線を下げる。
「……選定の儀とは、伴侶を選ぶ儀式のことだ。時雨殿は二十四歳になるが、いまだに独身で婚約者もいない。我々貴人は通常、成人して間もなく伴侶とするべき只人を家に迎え入れる。だが、時雨殿は只人の娘とは結婚できない。なぜかわかるか?」
「……申し訳ありません。わかりません」
「時雨殿は、数百年ぶりに貴人同士の間に産まれた純血だからだ」
 今度こそ凜花は絶句した。
(ありえない)
 真っ先に頭に浮かんだのは、それだった。
 自身は只人であっても、貴人の家で育った凜花は知っている。
『貴人同士の間に子どもは生まれない』
 それが常識であり必然のはずだ。
 そうでなければ、自尊心と選民意識の強い貴人が只人の伴侶を迎えたりなんかしない。母がこの場にいることもなかっただろう。
 声もない凜花の前で、淡々とした父の言葉は続く。
「今となってはこの国に純血の貴人は時雨殿だけだ。だが、何百年も昔の時代には貴人同士で子をなすことができたという文献が残っているらしい。貴人は『選定の儀』を執り行い伴侶を選んだ、と。時雨殿は成人して以降、年に一度、成人を迎えた貴人の娘たちの中でも、特に高貴な家の生まれの者を屋敷に招いては儀式を行なっている。今回、我が長嶺家では杏花が十八を迎え、儀式に参加するよう招かれたのだ」
 だが、と声色が変わる。
 それまで抑揚のない声色で淡々と説明としていた父は、深いため息をつく。
「杏花は昨夜から熱を出して寝込んでいる。とても儀式に参加できる状態ではない。だが、いかに長嶺家といえども、公爵位を持つ朝葉家の招待を断ることはできん」
 だから姉の代わりに儀式に参加しろ――そう、父は言っている。
「そんな……私がお嬢様の代わりなんて」
 無理です。
 喉元まで出かかった言葉は、父の鋭い一瞥によって発せられることはなかった。
「できないとは言わせない。日頃から杏花とおまえがことあるごとに入れ替わっているのに私が気づいていないとでも思ったか? つい先日の華道の習い事も、杏花ではなくおまえが参加していたようだな」
「っ……!」
 まさか、ばれていたなんて。
 ひゅっと息を呑む凜花に、父は嗤う。
「把握しているのは私と仁子くらいのものだ。おおかた、杏花がそうするように言ったんだろう。別に習い事のひとつやふたつ好きにすればいい。おまえと違ってあの子は女学校に通っている。息抜きしたくなる気持ちもわからんではない」
 とにかく、と父は語気を強めた。
「おまえがやることはひとつ。杏花の代わりに時雨殿の屋敷に赴き、選定の儀に臨め。彼がどのような基準で伴侶を選ぶのかは不明だが、間違っても身代わりだとばれるような無様な真似は許さん。――これは、命令だ」
 話は終わりだと言わんばかりに父は、犬を追い払うように手を払ひらひらと振る。
 しかし、凜花は動けなかった。
 とてもではないが受け止めきれなかったのだ。
 動揺から思わず母の方を見ると、視線が重なった。
 だがそれは一瞬にして逸らされる。
「旦那様を困らせるものではありません。使用人なら使用人らしく主の命令には黙って従うのが当然でしょう。これは、杏花にとっても長嶺家にとっても重要なことです。それが理解できたのなら、この後すぐに杏花の部屋に向かい、そこで準備をなさい」
 断る選択肢など、初めから存在しなかった。
「――承知いたしました」
 深く、深く、頭を垂れる。
 そうして部屋を出て行こうとすると、「凜花」と呼び止められる。
 振り返ると、父の冷たい眼差しに射抜かれた。
「杏花と同じその顔だけがおまえの唯一の取り柄だ。娘の代わり、しかと果たせ」
 そう言ったきり、父が凜花を見ることはついぞなかった。
「……はい」
 ――私も、あなたの娘ではないのですか?
 頭に浮かんだ言葉を発することは、決してない。
 父も、その隣で目を逸らしたままの母も、考えてみたこともないのだろう。
 杏花が成人を迎えたということは、凜花もそうであるということを。
 結局、ふたりが凜花を娘と呼ぶことは最後までなかった。

 書斎を辞した凜花はすぐに杏花のもとへ向かう。
 姉と顔を合わせるのは三日ぶり。
 誕生日前夜に平手打ちをされ、納屋に閉じ込められて以来だ。
 本当は今すぐ回れ右をしたいが、それは父の命令に背くことを意味する。
 選定の儀に参加せずに杏花の顔に泥を塗れば、どんな仕打ちが待っているかわからない。それは、凜花にとってこの世の何よりも恐ろしいことだ。
 杏花の自室前に到着した凜花は、入室の許可を得て静かに襖を開ける。
「――遅いわ、この愚図!」
 そうして飛んできたのは、耳をつんざくような罵声だった。
 天蓋付きの寝台の上で上半身を起こした杏花は、怒りをあらわに凜花を睨んだ。
 異国文化をこよなく愛する姉は、畳に布団を敷いて眠ることを嫌う。
 今も、和装ではなく洋装の寝衣を着ていた。
 手首までたっぷりと裾のある白色のそれはまるでドレスのようで、滑らかな白磁の肌に艶やかな黒髪を持つ杏花が着ていると、精巧な人形のように見える。
 深層の令嬢という言葉がまさしくぴったりの可憐な容姿。
 しかしその顔は今、苛立ちに満ちていた。
 薄らと紅潮する頬は熱のせいか、それとも妹に対する怒りのせいか。
 どうか後者であってほしいと願いながら、凜花はその場に膝をつき平伏する。
「お待たせして申し訳ありません、お嬢様」
 直後、何かが凜花の頭を直撃した。
「っ……!」
 痛みに思わず声を漏らす。畳に敷き詰められた重厚な絨毯の上には、杏花が投げつけた枕が畳の上に落ちていた。
「いい気味ね。おまえがいけないのよ。私が熱で苦しんでいるのに、いつまでもやってこないから」
 頭を上げなさい、と命じられた凜花は恐る恐る上半身を起こす。そうして視界に映ったのは、妹を下僕と言って憚らない姉が苛立ちで顔を歪める姿だった。
「まったく、本当にのろまで嫌になる。もしもおまえのせいで選定の儀に間に合わない……なんてことになったら八つ裂きにしてやるところだったわ」
 ころころと鈴の音のように軽やかな声。しかし、発言はどこまでも物騒だ。
「お父様とお母様から話は聞いたわね? これからおまえには私の代わりに選定の儀に臨んでもらうわ」
「はい」
「衣装は全てこちらで用意したわ。どれも、こんな機会がなければおまえが触れることなんて許されない一級品ばかりよ。それを着られるんだもの、私に感謝しなさい」
「ありがとうございます、お嬢様」
「ふんっ。思ってもいないくせに、返事ばかりは立派ね。――自分の役割はわかっているわね。おまえは私の代わり。長嶺杏花として行くの。無様な真似を晒して私の顔に泥を塗ることは許さないわ」
 次いで杏花はあるものを凜花の目の前に投げ捨てた。絹でできた小袋だ。
「私の貴力を込めた水晶をその中に入れておいたから、肌身離さず身につけなさい」
「ありがたく頂戴いたします」
 感謝の言葉を述べた凜花は、小袋を袂にしまう。
 只人の凜花は貴力を持たず、光気も身に纏っていない。それにもかかわらずこれまで杏花との入れ替えが成功していたのは、この小袋の中身があったからだ。
 杏花は凜花に身代わりを命じるとき、必ず自身の貴力を込めた水晶を入れた小袋を凜花に渡した。
 只人の凜花は何も見えないが、これを身につけているわずかな間だけ、この体は杏花の光気を纏うのだとか。
 同じ姿形を持つ凜花がこの手法を取ると、姉と簡単に入れ替われる。
「――いいわ。ちゃんと私の光気を纏ってる」
 杏花の目にはその変化が映っているのか、満足そうに姉は頷いた。
「今日はいつもより多めに貴力を込めておいたわ。儀式の間くらいはごまかせるでしょう。……それにしても惜しいことをしたわ。熱さえ出なければ、私が時雨様にお会いできたのに……」
 ――時雨様。
 その名を口にした瞬間、杏花の表情がふわりと和らぐ。白魚のような手を頬にあてた杏花は物憂げに小首を傾げた。
「お父様のお話によると、時雨様はとても見目麗しい方らしいわ。今は、軍で働かれているのだとか。只人のおまえにはぴんと来ないだろうけれど、純血の貴人なんて数百年間生まれてこなかった尊き存在なの。その貴力は国一番だとも言われているわ。その上、御三家のひとつ、朝葉家の後継ぎなんて、非のうちどころがないというのはきっと時雨様のことを言うのね。もしも時雨様の伴侶に選ばれたなら、どんなに素敵かしら……」
 うっとりと呟くその顔は本当に愛らしい。
 とても妹を下僕と蔑み、平手打ちをするようには見えないほどに。
 しかし、その眼差しが凜花の方を向いた途端、杏花の表情は一変した。
「ねえ、凜花」
「は、はい」
「お父様にもお母様にも話したことはないけれど、私、本当は只人の男を伴侶になんて迎えたくないの。他の貴人がそうしているからと言って、なんの力を持たない只人の男がいずれこの家を継ぐなんて……只人との間に子を作るなんて、想像しただけで寒気がする」
 今のこの国の法律では、貴人といえど女は家を継ぐことはできない。
 故に杏花は、いずれ只人の男を伴侶に選び婿養子に迎える。表向きは只人の夫が爵位を継ぎ、実際には裏で杏花が実権を握る。それが既定路線となっていた。
 そんなことはまっぴらごめんだ、と杏花は吐き捨てる。
「でも、時雨様が相手なら話は違う。純血の貴人の妻、しかも公爵夫人なんて貴族の頂点に立つようなものじゃない。こんなにも素敵なことはないわ」
 だから、と。
 杏花は赤く色づく唇の端を上げた。
「なんとしてでも選ばれてくるのよ?」
「え……?」
「大丈夫、今のおまえの光気は私そのものだもの。この後、化粧をして着替えれば私と同じ見目になる。それなら時雨様に選ばれない理由はないでしょう?」
 凜花はぎょっとする。
 自分の役割は、杏花になりきり儀式に参加することだけだと思っていた。
 それすらも只人の身には難易度が高すぎるのに、その上「必ず選ばれろ」なんて。仮に凜花が選ばれたいと望んだところで、必ずしもそうなるとは限らない。
 そんなことは、考えずとも杏花もわかっているはずだ。
「お、お待ちください。旦那様は、朝葉様が伴侶を選ばれる基準はわからないとおっしゃっておりました」
「それがどうしたというの? 基準がわからないなんて私には関係ない。私は、おまえに『選ばれろ』と命じたの。おまえはただ『わかりました』と返事をすればいい。違う?」
「ですがっ……!」
「なあに?」
 ふふっと杏花は可憐に笑う。
「もしかして、私に意見するつもり? まさかそんなことしないわよね。おまえが私に逆らうなんてありえないもの。そうでしょう?」
「…………」
「返事は?」
「……はい、お嬢様」
「それでいいの。――こちらへいらっしゃい」
 命じられるがままふらふらと立ち上がり、寝台のそばに膝をつく。すると、杏花のほっそりとした指先が、凜花の頬から首筋にかけてをつうっと撫ぜた。
 天女のようにたおやかな微笑みを浮かべた杏花は、突如として凜花の首に爪を立てる。
「っ――!」
 首の皮膚の表面が裂ける痛みに凜花はたまらず顔を歪める。対する杏花は手を離すどころか、いっそう立てた爪に力をこめた。
(痛い……!)
 皮膚を切られる感覚に涙が滲む。
「ふふっ、いい顔ね」
 杏花は笑い声を漏らし、ゆっくりと手を離した。
 直後、ぬるりとした何かが首をつたう感覚がする。杏花の指先が赤く染まっているのを見て、凜花はそれが自分の血だとわかった。
「もしも選ばれなかったら……今度こそおまえのことを殺してしまうかも」
 杏花は寝台の上から凜花を見下ろし、艶然と微笑む。 
「それが嫌ならせいぜい頑張ることね。――応援してるわよ、凜花」

 身の危険を感じたことは過去に何度もある。
 大雪の吹き荒ぶ真冬の夜、肌着一枚で外に放り出されたとき。
 三日間、水以外を口にすることを禁じられたとき。
 井戸に突き落とされそうになったとき。
 そして今日、首筋に爪を立てられたとき。
 それらのいずれもが、姉によるものだった。
 朝葉時雨の別邸に向かう道中。
 馬車にひとり乗り込んだ凜花は、自身の首筋に手を当てる。
 杏花によって傷つけられたそこは、化粧によってほとんど見えなくなっている。
 しかし、肌を裂かれた瞬間の痛みや、笑顔で強烈な毒を吐く杏花のことを思い出すと自然と体が震えた。
 両手で自分の体を抱きしめるが、震えが収まる気配はいっこうに訪れない。
(朝葉様の伴侶に選ばれなければ、私は……)
 ――殺されるかもしれない。
 そう危機感を感じるほどに、先ほどの杏花は本気の眼差しをしていた。
(どうすればいいの……?)
 朝葉側の意向もあり、屋敷を訪れることができるのは選定の儀を受ける娘だけ。
 そのため、馬車の中には凜花しかいない。だからこそ、凜花はずっと堪えていた心の声を初めて漏らした。
「こんなのめちゃくちゃだわ……」
 姉の言っていたとおり、今の凜花は周囲から杏花だと思われている。その証拠に身支度を手伝った只人の使用人は終始、凜花のことを「お嬢様」と呼んでいた。
 父にばれていることを知ったが、それでも、今まで入れ変わってきたが気づかれたことは一度もない。
 使用人も、習い事の教師も、皆そろって不思議なくらいに騙されてくれた。
 しかし、今回騙す相手はこれまでとはわけが違う。
 この国一番の貴力を持つという、数百年ぶりの純血の貴人・朝葉時雨。
 彼の身の上なら、きっと只人に対する差別意識もことさら強いはず。
 そのような人に入れ替えがばれたらどのような目に遭うのか。
 最悪の場合、命に関わるかもしれない。
 仮に助かったとしても、選ばれなければ杏花は凜花を許さない。
 前門の虎、後門の狼という言葉が頭をよぎる。
 朝葉時雨という名の虎と、杏花という名の狼。
 逃げ場のない状況に、恐怖と緊張で頭がおかしくなりそうだ。
 与えられた小袋を着物の上から握りしめ、今すぐ叫び出したい衝動を必死に堪える。
 選定の儀で何が行われるのか、どのような基準で伴侶を選ぶのか。
 それらが不明である以上、凜花にできることは失礼のないようにすることだけだ。長嶺の――父や姉の名前を汚さぬよう、せいいっぱい良家の令嬢らしく振る舞う。
「……大丈夫」
 己を励ますように、凜花は唇にその言葉を乗せる。
 凜花は只人の下女にすぎない。けれど、少なくとも伯爵令嬢として最低限の作法は身につけている。稽古を面倒がる姉に変わり、幾度となく入れ替わってきたからだ。
(まずは、生きて帰ることだけを考えよう)
 ――まだ死にたくない。
 たとえ、自分の帰りを待つ人など誰もいなくとも。
 
 それからほどなくして馬車は朝葉時雨の別邸に到着する。
 御者の手を借りて馬車から降りた凜花はまず、屋敷の豪奢さに圧倒された。
 そこは、瀟洒な洋館だった。
 別邸と聞いていたから自然と素朴な建物を想像していたが、よくよく考えてみると、御三家と称される朝葉家の別邸が小さいはずもない。
(そんな立派な場所に私がいるなんて……) 
 いまだ現実感はないものの、呆けてばかりはいられない。
 凜花は心の中で己を鼓舞し、正面玄関へと歩を進める。
 次期公爵家当主の伴侶を決める、選定の儀。
 さぞかし盛大な催し物なのだろうと思っていたが、意外にもエントランスホールの前で待ちかまえていたのはひとりだった。
 しかも、大人ですらない。十代半ばほどの少女だったのだ。ぱっちりとした二重といい、すっと通った鼻筋といい、とても整った顔立ちをしている。
 何より驚いたのは、彼女の持つ色だ。
(金の髪に緑の瞳の人なんて、初めて見た……)
 一目で異国の血を引いていることがわかる少女は、洋装ではなく真っ赤な着物を着ていた。見た目との不均衡さはどこか非現実的でつい見惚れる凜花の前で、少女はゆっくりと口を開く。
「長嶺杏花様でいらっしゃいますね?」
 一切の感情を感じられない、抑揚のない声だった。はい、と答えかけるも寸前でやめる。今の自分は杏花であることを思い出したのだ。
「そうよ」
 顎を引いた凜花は短く答える。その際、ゆったりと微笑むのも忘れない。
 ともすれば傲慢にも見えかねないその顔こそが、自信家な姉を最も魅力的に見せることを凜花は知っている。
「あなたは?」
「みどりと申します。時雨様より、儀式に臨まれる皆様の案内役を仰せつかっております。早速ではございますが、こちらの誓約書をご覧ください」
 みどりと名乗った少女は一枚の和紙を差し出した。
 そこには流麗な筆跡で「選ばれた伴侶を除き、儀式に関する全てを他言無用とする」との文言が書いてある。
「こちらに同意していただけるのであれば、血を一滴いただきます」
「血を?」
「はい。私が針で刺しますので、血をこの紙に垂らしてください」
 眉ひとつ動かさないみどりを前に凜花は困惑した。儀式の内容は不明とはいえ、まさか血を求められるとは想像もしていなかったのだ。
(血には、最も貴力がこもるはず……)
 ならばおそらくこれは形式上の誓約書ではない。
「もしも誓いを破ったらどうなるの?」
「時雨様が貴人たる所以を、その身を持って知ることになるでしょう」
 つまり、何らかの制裁が課されるということだろう。しかも、貴力を持って。
「わかったわ。さあ、どうぞ」
 おおよそのことを把握した凜花は、迷わず右手の人差し指を差し出す。すると、無表情を貫いていたみどりの眉がぴくりと動いた。
「どうしたの?」
「……いえ。それでは、失礼いたします」
 みどりは針の先端を凜花の人差し指に刺す。そうしてぷっくらと浮かび上がった血を和紙にたらし、「結構でございます」と頷いた。
「……あなたは、怖がらないのですね」
「え?」
「他のお嬢様方は、皆様とても怖がっていましたので」
 何かと思えばそんなこと。
 姉の折檻に比べれば針なんて、蚊に刺されるようなものだ。
「これくらいなんてことないわ」
 口調は杏花に寄せつつも本心を口にする。これにみどりは「さようでございますか」と抑揚なく答え、「どうぞこちらへ」と歩き始めた。
 エントランスホールを過ぎると、真紅の絨毯が敷き詰められた長廊下があらわれる。共に無言のまま廊下を進むと、みどりが足を止めた。
「こちらのサロンにてお待ちください。他の候補者の皆様はすでにお待ちです。杏花様のお席は正面向かって中央でございます。着席されましたら、時雨様がいらっしゃるまでお待ちください」
「あなたは入らないの?」
「私は候補者ではないので。それでは、失礼します」
 みどりは背中を向けて去っていく。最初から最後まで機械仕掛けの人形のような人だった。
 ひとりになった凜花は深呼吸をする。
 ここから先は、さらに一挙一動に気をつける必要がある。
 朝葉時雨はもちろん、他の候補者にも入れ替わりがばれることだけは避けなければ。
「……落ち着いて、冷静に」
 小声で己にそう言い聞かせた凜花は、重厚な木の扉を開ける。すると中にいた候補者の視線が一斉に凜花へと向けられた。
 その眼差しを一身に受けた凜花は心の中で息を呑む。
 ――まさか、只人であると勘づかれたか。
 最悪の展開が頭をよぎり、冷や汗が背中をつたう。しかしそれは、うちのひとりの「なんだ、杏花さんじゃない」という呟きによって否定された。
 どうやら皆、朝葉時雨が来たと勘違いをしたようだ。早々に摘み出される展開は避けられたことに安堵しつつも、表情にはおくびにも出さずににこりと微笑む。
「ごきげんよう」
 すると、揃ったように「ごきげんよう」と返ってくる。
 落ち着いて見渡せば、皆、入れ替わりの際に顔を出した女学校や社交界で見知った顔だ。
 候補者は全部で五人。凜花の他に同い年の侯爵令嬢がひとり、伯爵令嬢がふたり、子爵令嬢がひとり。
 いずれも貴族の中で特に名の通った家の令嬢だが、最も家格が高いのは長嶺家のようだ。中央の席を用意されたのもそれ故だろう。
 凜花は姉のよそ行きの顔を真似ながら、自身の席に腰を下ろす。
 しかし、皆緊張しているのか誰ひとりとして言葉を発さない。
 それがかえって凜花にはちょうどよかった。
 第一関門は突破したが、次こそはどうなるかわからない。
 朝葉時雨に只人であることがばれたら、その時点で凜花は終わる。
 仮に騙せたところで伴侶に選ばれる可能性はいかほどか。
 杏花の貴力を宿した水晶があるとはいえ、純血相手にその効力がどれほどだろう。
 今日の命か、明日の命か。緊張と不安で胸が張り裂けそうになった、そのとき。
 ゆっくりと、扉が開いた。
「っ……!」
 息を漏らしたのがどの家の令嬢か、凜花にはわからなかった。
 他の四人と同様、一瞬にして意識を表れた人物に持っていかれたからだ。
 現れたのは、とても背の高い青年だった。
 漆黒の軍服を纏った体はすらりとしているが細くはなく、服の上からでも鍛えられているのがわかる。
 色香漂う切長な瞳、すっと通った鼻筋。眉目秀麗なその顔立ち。
 しかし、目を引いたのはそれではない。
(なんて綺麗な色なの……)
 雪のように白い髪も、輝くような金の瞳も、およそこの世のものとは思えない美しさだった。みどりを見た時も驚いたが、今はそれ以上だ。
 ――彼が、朝葉時雨。
 数百年ぶりにこの国に生まれた、純血の貴人。
 視線を奪われる凜花の前で、彼は五人の候補者たちを一瞥する。
「杏花さん……」
 左隣から聞こえた声に弾かれたように振り返った凜花は、初めて異常に気づく。
 凜花以外の皆が、絨毯の上に膝をついて平伏していたのだ。
 そのうちひとりは頭だけをわずかに上げて、信じられない様子で凜花を見ている。彼女の顔は、恐怖に怯えるように真っ青だった。
「あなた、この光気を前にどうして平気でいられるの……?」
 光気。その単語に、一瞬にして血の気が引いた。
(しまった……!)
 どんなに取り繕おうと、只人の凜花の瞳に光気が映ることはない。
 それをまさかこんな形で裏目に出るなんて――。
 一気に混乱状態に陥った凜花は、なすすべもなく俯いた。今さら他の令嬢に倣って平伏したところで遅すぎる。終わった――そう思ったとき。
「顔を上げなさい」
 頭上から涼やかな声が降り注ぐ。
 怒りの色など微塵もない声色に誘われるように、凜花はゆっくりと顔を上げて、驚いた。いつの間にか時雨が目の前に立っていたのだ。
 金の瞳が射抜くようにこちらを見ている。
 鋭く力強い眼光を前に、凜花は蛇に睨まれた蛙のように動けない。
 空気が震えている。見られているだけなのに、肌がひりつくように痛い。
 恐怖に身をすくませる凜花の前で、時雨はゆっくりと右手をあげる。
 そして、男らしく筋張った指が化粧で隠した傷跡に触れた。
 異性の温もりを初めて素肌に感じた瞬間、頭の中に響いたのは姉の言葉だった。
『今度こそおまえのことを殺してしまうかも』
 死、という言葉が脳裏をよぎる。
 相手は貴人の頂点に立つ存在。只人の小娘の首など簡単に捩じ切れる。
 ――自分はこんなところで人生を終えるのか。
 空気のような十八年間だった。息を、声を、心さえも殺して密やかに過ごしてきた。無能と蔑まれ、存在自体を疎まれながらも日々を懸命に生き延びてきた。
 その結果がこれか。
 長嶺凜花として何も成し遂げることなく、最後まで姉の代わりとして一生を終えるのか。
(……私は、何のために生まれてきたんだろう)
 虚しくて、悲しくて、悔しくてたまらない。喉の奥から何かがせり上がるような感覚がする。目の奥がカッと熱くなって、滲んだ涙によって視界が滲む。
 しかし、涙は意地でも溢さない。溢してなるものか。
 ここで全てが終わるなら、せめて最後は惨めな姿を晒したくはない。
 生まれて初めて心の奥底から湧き上がった強い感情と共に、凜花は唇を引き結ぶ。すでに視界に映る時雨の姿はぼやけてほとんど見えなかったけれど、目は逸さなかった。
 首筋に手を触れられたまま見つめ合う。
 ほんの数秒にも満たないわずかな時間が永遠にも感じられた、そのとき。
 首にあった手が離れ、頬へと触れた。
 濡れる凜花の目元を、暖かな指先がそっと触れる。
「泣くな」
 時雨が、今にも溢れそうな涙を拭ったのだ。
(どうして……?)
 混乱する凜花は、次いで開けた視界に映る時雨を見て息を呑む。
 彼は、笑っていた。
「……ようやく会えた」
 歓喜の色を浮かべた時雨は、金の瞳に凜花を映して微笑む。
 次いで発せられた言葉に今度こそ凜花は言葉を失った。
「――会いたかった」
 とろけるような甘い声が、耳朶を震わせたのだ。
「あなたが、私の番だ」
 つがい。
 耳慣れない言葉を時雨が口にした次の瞬間。
 窓も開いていないのに突如として強風が吹き込み、部屋の扉が開く。
 それが時雨の貴力によるものなのは誰の目にも明らかだった。
 その証拠に彼以外の令嬢は皆、腰が抜けたように絨毯の上に座り込んでいる。
 椅子にいるのは凜花だけ。しかし、気持ちはおそらく他の令嬢たちと同じだった。とてもではないが今の状況に思考が追いつかない。
 誰ひとりとして言葉を発せない中、唯一、時雨だけは違った。
「――みどり」
 彼が声を張り上げると、すぐに先ほどの少女が現れる。
「選定の儀は終了した。他の皆様を入り口へとご案内するように」
「承知いたしました。皆様、どうぞこちらへ」
 恭しく頷いたみどりは、早速他の四人に退室するように促す。それに対して否を唱える者は誰もいなかった。
 まるで時雨に怯えるように、皆が一目散に部屋を出ていったのだ。
 そうして残された候補者は、凜花だけ。
(私が選ばれた……?)
 否、この場合、選ばれたのは杏花ということになるのだろうか。
 そもそも時雨が入れ替わりに気づいているのかさえ、凜花にはわからない。
「大丈夫か?」
 柔らかな声が、緊張と混乱の最中にいる凜花の意識を引き戻す。扉の方を見ていた凜花は視線を正面へと戻し、ひゅっと息を呑んだ。
 時雨が、跪いていたのだ。その光景に一瞬にして血の気が引いていく。
「そんな、おやめください!」
 下女であり姉の下僕でもある凜花には、上下関係の重要さが骨の髄まで叩き込まれている。
 今、自分の前に膝を折っているのは、この世にふたりといない純血の貴人。
 御三家の人間で、東倭国を代表する生粋の貴族の男だ。そんな天上人のような彼を自分が見下ろすなんて、絶対にあってはならないことだ。
「どうかお立ちくださいませ、お願いですから……!」
 悲鳴にも近い声で懇願した凜花は立ち上がり、先ほどの令嬢たちのように絨毯に手をつこうとする。だがあまりに慌てていたせいか、足が絡まり体の重心が崩れた。
(あっ……!)
 そのまま転びそうになるのを時雨がすかさず抱き止める。
 背中に回された両手や逞しい胸板に凜花が全身を強張らせるのと、頭上で小さな笑い声が聞こえたのは同時だった。
 ゆっくり抱擁を解いた時雨は、凜花の手を取り立ち上がらせる。
「怪我はないな?」
「あ……はい」
「なら、いい」
 時雨はほっとしたように息をつく。
 しかし、凜花は落ち着くどころか戸惑いが加速する一方だった。
 入れ替わりで身につけた貴族令嬢の振る舞い方など忘れてしまった。
 もしもここにいたのが杏花なら、こんなふうに挙動不審になったりしない。
 姉は、凜花のおどおどした態度は見ている者を不愉快にさせると常々口にしていた。ならばきっと時雨も機嫌を損ねたに違いない。
(謝らないと)
 申し訳ありません、と許しを請わなければ――。
「それにしても、噂とはつくづく当てにならないものだな」
 凜花が謝罪の言葉を述べるより早く、時雨が口を開く。
 予想に反してその顔はどこか楽しげだ。時雨は愉快そうに頬を緩ませる。
「長嶺伯爵のご息女がこんなにも愛らしい方だとは思わなかった」
「なっ……!」
 ――愛らしい、なんて。
 そんなことは初めて言われた。
 今まで凜花を形容する言葉といえば、「みすぼらしい」「陰気」といったものばかりだったから。
 もはやどこを見たのか分からず視線をさまよわせる凜花を見て、時雨は「本当に可愛いな」といっそう笑みを深める。
(もうやめて……)
 これ以上は本当に心臓が持たない。
 ほんの少し前まで「殺されるかもしれない」と怯えていたのに、突然の褒め言葉に今度は別の意味で心臓が痛くなる。
 凜花は、両手を赤らむ頬に当てて視線を下げる。
 視界から時雨を追い出さないと、とても平静を装うことなどできそうになかったのだ。そうして深呼吸をすること数回、あることに気づく。
 先ほど彼は「長嶺伯爵のご息女」と言った。ならば、もしや――。
(私が只人だと気づいていない……?)
 しかし、純血の貴人たる彼が気づかないなんてことがあるのだろうか。
 困惑しつつもなんとか落ち着きを取り戻した凜花は、ゆっくりと視線をあげる。
 目の前に立つ時雨はやはり笑顔だった。
「少しは落ち着いたか?」
「……はい。大変失礼いたしました」
「かまわない。驚かせたのは私の方だ。――改めて自己紹介をさせてくれ。私は、朝葉時雨だ」
「……長嶺杏花と申します。この度は、選定の儀にお招きいただきましたこと、心より感謝申し上げます」
 行きの馬車の中、心の中で繰り返し練習していた挨拶を述べると、時雨は小さく笑む。その友好的な態度はやはり疑っているようには見えない。
 ――彼は、凜花を貴人だと思っている。
 そう確信ができてようやく胸を撫で下ろすことができた。
 時雨もそれに気づいたのか、からかうように金の目を細める。
「少しは私に慣れてくれたかな?」
「はい……いいえ、その……」
 どちらとも取れる曖昧な返事にも、時雨は苛立つことなく柔らかく微笑んでいる。
「あの……」
「ん?」
「本当に、私が選ばれたのですか?」
 時雨は頷き、凜花の手に触れる。
「――っ……!」
 不意の接触に手を振り払いそうになるのをなんとか堪える。
 しかし、拳をきゅっと握ることは忘れなかった。
 こうすれば、少なくとも手のひらに触れられることはない。
 どれほど丁寧に化粧を施して上等な着物を身に纏ったとしても、下女として過ごす日々で荒れた手だけはごまかせない。
 一方の時雨はかまうことなく凜花の手の甲を包みこんだ。
 その手は大きく、温かい。
「私はずっと、あなたを探していた」
「私を……?」
「ああ。一目見てわかった。あなたこそが私が長年追い求めていた、心から会いたいと望んでいた人だ。――あなたに会えて、本当に嬉しい」
 胸が痛い。心臓がいまだかつてないほど激しく波打っている。
 ――初めてだった。
 こんなにも優しい言葉をかけられたのも、温かな眼差しを向けられたのも。
(わかってる)
 伴侶となるのは凜花ではなく杏花だ。
 誰よりも傲慢で、わがままで、傍若無人。一方で、誰よりも可愛らしく、自尊心に満ちている。そんな姉の光気を纏った凜花を、時雨は選んだ。
「あなたに出会えた奇跡に感謝する」
 とろけるような甘い微笑みを見て、初めて気づいた。
 金だと思われた時雨の瞳は、洋燈の灯を浴びると蜂蜜のような琥珀色にも見える。
 凜花は生まれてこの方宝石というものを見たことがない。
 それでもきっと、彼の瞳の前にはどんな金剛玉石も霞むに違いない。
 本気でそう思えるほどに、凜花を宿す瞳は美しかった。
「私も……」
 声が唇が震える。
 悲しみや恐怖ではない。人は喜びでも泣きたくなるのだと初めて知った。
「私も、あなたにお会いできてよかったです」
 たとえ自分自身に向けられた言葉ではなかったとしても、誰かに望まれる喜びを知ることができた。
 今日ここに来なければ、凜花はこの幸せな感情を知ることはなかっただろう。
 こうして彼と言葉を交わすのはきっと今日が最初で最後。
 凜花と時雨とでは生きる世界が違う。
 だからこそ凜花は、この美しい人を目に焼き付けようと思った。
 彼は、初めて凜花に笑顔をくれた人だから。
「祝言の日が楽しみだな」
 そう言って、時雨は重ねた手に優しく力を込めたのだった。

 凜花が屋敷に戻ると、再び父の書斎に行くように伝えられる。一息つく間もなく書斎に向かうと、そこには両親だけではなく杏花の姿もあった。
「ただいま戻りました」
 椅子に座る三人の前で凜花は絨毯に膝をつく。
 この空間にいるのは、血縁上はまぎれもない親子。しかし、凜花が椅子に座ることはない。彼らと同じ目線になるなんてあってはならないことだからだ。
「ご苦労だったな。それで、選定の儀はどうだった?」
 父の問いにピリッと緊張が走る。三人の視線を一身に浴びた凜花は、体が震えそうになるのを懸命に堪えながら、乾いた口を開いた。
「朝葉時雨様は、お嬢様を伴侶に選ばれました」
 そう告げると、両親は驚きをあらわに目を見開き、杏花は「やったわ!」と勢いよく立ち上がる。
「お父様、お母様、私の言ったとおりだったでしょう? 時雨様が選ぶのは絶対に私だって!」
 選ばれたのは自分だ、と。
 儀式に参加していない姉は何の疑いもなく言い切った。
 杏花は凜花のもとへとやってくると、興奮のまま凜花の両手に触れる。
 姉が自分に触れるのは折檻をする時だけ。それが体に染み付いている凜花は反射的に身を引こうとするが、それより早く、杏花のふっくらと柔らかな手が張りのない凜花の手を包み込む。
「さすがは私の妹ね! おまえならきっとやれると思っていたわ!」
 数刻前に「殺してやる」とのたまったその口で、姉は凜花を「妹」と呼んだ。
「ああ、どうしましょう。こんなに素敵なことがあるかしら!」
「熱があるのだから少し落ち着きなさい、杏花。それにしても、まさか本当に選ばれるとは……困ったことになったな」
 父の意外な言葉に凜花は目を見張る。
 ――困ったこと、なんて。
 朝葉は、政財界に多大な影響力を持ち、財産・家柄ともに申し分ない。長嶺としても朝葉との縁組は喜ばしいことではないのだろうか。
「それについては先ほどもお話ししたでしょう? 私が時雨様の伴侶に選ばれても、この家は凜花が継げば問題ないわ。貴族の中でも継ぐ家のない貴人の男はいるもの。その中からお父様がお選びになって、婿養子にお迎えになればよろしいのよ」
「だが、そうしたところでそれに貴人の子を産めるとは到底思えん」
 こんな役立たずに、と父は吐き捨てる。すると、それを嗜めるように杏花は「お父様」と猫撫で声で父に語りかける。
「何事も始める前から悲観的になるものではないわ。もし凜花と婿殿の子どもが只人だった場合は、貴人の子を産むまで孕ませればいいのよ。お母様もそう思うでしょう?」
「そうね。これにはそれくらいしか使い道はないでしょうし。杏花の言うとおりだと思いませんか、あなた」
 ひとり話題についていけない凜花の前で話は進む。
 ――意味がわからなかった。
(何を、言っているの……?)
 凜花が婿養子をとってこの家を継ぐ。貴人の子を産むまで孕み続ける――?
「む、無理です」
 逆らってはいけない。心を殺して全てを受け入れる。
 それがこの屋敷で生きていくための絶対条件だ。しかし、いかに凜花といえどこの状況で黙っていることなど到底できない。
「私が家を継ぐなんて、そんなこと――」
 できません。
 喉元まででかかった言葉は、パチン! という鈍い音によってかき消された。
 杏花が平手打ちをしたのだ。突然の痛みに凜花は片手でぶたれた左頬を押さえる。すると、今後は空いている方の右頬を叩かれた。
 思わずその場に突っ伏す凜花の頭上に、軽やかな声が降る。
「おまえは、何を言っているの?」
「お嬢様、お許しくださ――ああっ!」
 許しを請おうとすることさえできなかった。
 杏花は凜花の前髪を鷲掴みにして、無理やり顔を上げさせたのだ。
 ぶちっと髪の毛がちぎれる音がする。
「私の代わりに選定の儀に臨んだからといって、何か勘違いをしているのではなくて? 何度も教えたでしょう。おまえはただ『はい』『わかりました』とだけ言えばいいの。だいたい、下女のおまえにこの家を継ぐことを許すと言っているのよ。それを『無理』とはなにごと?」
「お嬢様、私は――」
「躾が足りなかったようね」
 ――躾。
 その響きに全身が凍りつく。
 やめて、怖い、痛いのはもう嫌だ――。
 目の前が真っ暗に染まる。
 恐怖から歯をかちかちと震わせる凜花を前に、杏花は嗤う。
「どうする、凜花? 今の私はとても気分が良いから、ここで素直に受け入れれば許してあげる。でもそうでないのなら……さて、どう躾けましょうね。二度と生意気な口が聞けないように、新しい方法を考えないと」
 髪を掴まれたまま、目尻に涙を浮かべた凜花は救いを求めて両親の方を見る。だがふたりは揃って顔を顰めるだけで、杏花を諌める様子は微塵もない。
(ああ……)
 やはり、彼らにとっての娘は、杏花だけなのだ。
 目の前が真っ暗になる感覚に陥りながら、凜花は項垂れる。
「……お許しください。私が、全て間違っておりました」
「わかればいいのよ」
 ようやく髪を掴んでいた手を離した杏花は、次いで「部屋に戻りなさい」と冷ややかに命じる。
「これ以上おまえの辛気臭い顔を見たくはないわ」
「……失礼いたします」
 おぼつかない足取りで女中部屋に戻った凜花は、布団を頭まで被り、声を殺して嗚咽した。

 時雨の意向もあり結婚式や披露宴は行わず、長嶺の屋敷で身内だけの祝言を挙げることに決まった。
 朝葉側の参列者は時雨だけ。
 当初、父母は「長嶺家と杏花をあまりに軽んじている!」と憤っていたが、結局は時雨の意向を汲むことになった。いかに名門と言われる長嶺家であろうと、御三家かつ純血の貴人を前には逆らえないらしい。
 何よりも、杏花自身がそれでいいと頷いたのが大きかった。
「時雨様の妻になるということは、貴人の女の頂点に立つにも等しいわ。それを思えば祝言なんて瑣末ごとだもの。……ああ、早くお会いしたいわ」
 そう言って頬を染めて祝言までの日取りを指折り数える杏花は、恋する乙女そのものだった。
 選定の儀を終えてからというもの、姉は夜ごと凜花を自室に呼んでは時雨について語らせた。
 彼がどんな姿形をしているか、どんな声をしていて、杏花に扮した凜花とどんな会話を交わしたか――。
 何度だって杏花は聞きたがり、そのたびに凜花は同じ話をした。
「黒の軍服を着た、とても美しい顔立ちをした男性でした。髪は雪のように白く、瞳は金色をしていらっしゃいました。涼やかな声をしておられ、背は私よりも頭ひとつ分ほど高かったように思います」
 それでも、言わなかったこともある。
 時雨との会話を問われた凜花はこう答えた。
「会話はほとんど交わしませんでした。こちらを見て『あなたが私の伴侶だ』『祝言の日が楽しみだ』とおっしゃった後、すぐに部屋を出ていかれましたから」
 嘘は言っていない。しかし、本当のことを全て伝えたわけでもなかった。
『私はずっと、あなたを探していた』
『あなたこそが私が長年追い求めていた、心から会いたいと望んでいた人だ』
 凜花の目をまっすぐ見つめて言われたその言葉だけは、どうしても言えなかった。言いたくないと、自分の心の中だけに留めておきたいと思ってしまった。
 それらは全て「凜花」という形代を通して杏花に向けられたものだ。
 それを理解していてもなお、彼の言葉は凜花の心を震わせた。
 ――誰か、私を見て。
 その凜花の願いを初めて叶えてくれた言葉だったから。

 数週間後、ついに祝言の日を迎えた。
 その日は朝から酷い雷雨が続いていた。
 時雨の到着を目前に控えた今も、屋敷の外からは絶え間なく雷鳴が轟く音がする。
 この時間、本来なら杏花は広間で時雨の到着を待っていなければならない。
 しかし今、姉は自身の部屋にいる。
『時雨様がいらっしゃる前に、凜花とふたりきりで話がしたいわ。最後に姉妹で水入らずの時間を過ごしたいの』
 両親にそう願い、五分間だけ許されたのだ。
 呼び出された凜花は、絨毯に膝をついたまま姉の言葉を静かに待つ。
 選定の儀から今日までずっと杏花の機嫌は良かった。
 その証拠にこの間、凜花は一度も折檻を受けていない。
 その姉が祝言を目前に控えた今、ふたりきりの時間を作るなんて。
(何を企んでいるの……?)
 嫌な予感がする。そしてそれは、往々にして的中した。
「鬱陶しい天気ね」
 白無垢を纏った凜花は顔を顰める。
「せっかくの晴れの日なのに、天気がこれでは嫌になるわ」
 横殴りの雨が硝子窓を激しく叩きつける様を睨め付けた杏花は、チッと舌打ちをする。そのような仕草をしてもなお杏花は綺麗だった。
 常日頃から華のある杏花だが、今日の姉は普段の比ではない。
 完璧な化粧を施し、純白の婚礼衣装を身に纏ったその姿はぞっとするほどに美しい。
 対する凜花は、普段と同じ木綿のお仕着せを着ている。時雨と杏花の式に凜花が参加することはない。いつもどおり下女としての仕事をこなすだけだ。
「ねえ、凜花」
「は、はい」
 ようやく視線をこちらに向けた姉に凜花は上ずる声で返事をする。
「私は綺麗でしょう?」
「はい。とてもお綺麗です」
「そうね。そして、そんな私にとっておまえは唯一の汚点なの。――自分と同じ顔をした出来損ないがこの世に存在すると思っただけで、吐き気がするわ」
 突然、杏花は両手で凜花の首に手をかけた。そのまま爪が食い込むほどの力で締め始める。
「あっ……っ……!」
 苦悶で顔が歪む。頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。
 痛い、苦しい、お願い、やめて――!
「ふん、いい気味」
「けほっ……!」
 首を絞められていた時間はほんの数秒。飽きたように両手を離した杏花は、凜花の体を絨毯に打ちつけ睥睨する。
 そして、紅を引いた唇をにいっとあげて笑うと、白い手を二度叩いた。
 すると突然部屋の襖が開かれる。現れたふたりの男を凜花は知っていた。言葉こそほとんど交わしたことはないものの、いずれもこの屋敷に仕える使用人だ。
「おまえたち。さっさとそれを納屋に連れて行きなさい。夜までは絶対に出してはだめよ」
 その直後、両側から両手を掴まれ無理やり立たされる。
「お嬢様⁉︎」
「さようなら、凜花。せいぜい私の代わりを頑張って務めなさいな」
 呼びかけるが、姉はひらひらと手を振るだけだった。
 そのまま凜花は部屋を引きずり出される。そうして襖が閉められると、「悪いな」と片方から小さな声が聞こえた。
「俺たちもお嬢様には逆らえないんだ。でも、できれば手荒な真似はしたくない」
 男たちはいずれも申し訳なさそうに眉を下げる。
 ――ああ。彼らも、凜花と同じなのだ。
 そう思うと抵抗することはできなくて、凜花は「わかりました」と力なく頷いた。

(寒い……)
 納屋に閉じ込められた凜花は、両手で自身の体を強く抱きしめる。
 しかし、お仕着せはもちろん、下着まで濡れている状況ではなんの気休めにもならなかった。
 そろそろ時雨が到着した頃だろうか。
 姉を見た彼は、きっとその美しさに見惚れるだろう。
 そして、あの夜と同じ瞳で姉を見つめ、同じ声で言葉をかける。
 その様を想像するとなぜか心臓がきゅっと締め付けられた。
(ああ……)
 朝葉時雨。凜花に初めて人に望まれる喜びと笑顔を教えてくれた人。
 彼との束の間の邂逅が走馬灯のように頭を駆け巡る。
『あなたに出会えた奇跡に感謝する』
 あれは、神様がくれた最初で最後の贈り物だったのかもしれない。
 この世に生を受けて十八年。
 生きているのが辛いと思ったことは数え切れないほどあるけれど、自ら死を望んだことは一度もない。しかしこの先、生きていたとしても凜花に待っているのは終わりの見えない地獄だ。
『貴人の子を産むまで孕ませればいいのよ』
 あの日からずっと姉の言葉が脳裏を離れなかった。
 あのとき、あの場にいた誰ひとりとして凜花を人間として見ていなかった。
 ただ、貴人の子を産む胎としてだけ見ていたのだ。
(そんなのもう、人間ですらない)
 娘と認められなくても、家族の一員になれなくても仕方のないことだと諦めた。
 でも、今回ばかりは違う。
(この先の人生を家畜のように生きていくくらいなら……せめて人間として終わりたい)
 そう、初めて自ら死を望みかけた、そのとき。
 突然、納屋の扉が開き――凜花は、息を呑んだ。
 視界に飛び込んできたのは、全身を雨で濡らした時雨だったのだ。
 どうして、なぜ。
 祝言に臨んでいるはずの彼がここにいる――?
 納屋の閂を手にした時雨は、座り込む凜花を見て唖然としたように目を見開く。だがそれは一瞬だった。瞬きの後、金の瞳に燃えるような怒りが宿る。
「誰が、こんな酷いことを――」
「朝葉、様……?」
 震える声で名前を呼ぶと、時雨は閂を投げ捨て凜花に手を差し伸べる。
 その手が凜花の頬に触れる直前。
「時雨殿!」
 雷鳴にまぎれて大きな声が耳に届いた。
 ふたりが声の方に目を向けるのと、激しい雨を全身に浴びて激昂する父が時雨のもとに到着したのは同時だった。
「いったい何を考えておられる! 突然飛び出してこんなところにくるなんて、気でも狂われたか⁉︎」
 叫ぶ父の後ろでは、白無垢の裾を両手で掴み、鬼の形相でこちらに向かってくる凜花が見える。
「それはこちらの台詞です」
 そんな姉には一瞥もくれず、時雨は言った。
「なぜ、私の伴侶がこのようなところに閉じ込められているのですか」
「何をおっしゃっているの⁉︎」
 応えたのは父ではなく、追いついた杏花だった。
 純白の白無垢は跳ねた泥により見るも無惨に汚れている。
 全身をびしょ濡れにした杏花は父を押し除け、時雨の前に進み出た。
「あなたが選んだのは私でしょう⁉︎」
「黙れ」
「なっ……!」
 凜花を背中に庇い、時雨はすうっと目を細める。
「確かにおまえの光気には見覚えがある。おおかた、ここにいる彼女と入れ替わっていたんだろう?」
「そ、それはっ……!」
「その理由は聞かないし、興味もない。だが勘違いをするな。私が選んだのはおまえではない」
 全身を雨に打たれながらも時雨は微動だにすることなく、ピシャリと言い放つ。
 彼が放つ圧倒的な威圧感に凜花は震えた。
 時雨が恐ろしく感じたのではない。
 多分、生き物としての格の違いを本能で感じ取ったのだと思う。
 それは両親も同じだったのか、ふたりは顔を打ちつける雨を拭うこともできずに蒼白な顔でその場に立ち尽くす。
 しかし、杏花だけは違った。
「意味がわからないわ! それは貴人ではない、只人よ! それなのに時雨様の伴侶だなんてありえないでしょう⁉︎」
 拳を握りしめて激昂する杏花とは対照的に、時雨は冷静だった。
「もう一度だけ言う。――そのやかましい口を閉じるんだ」
 時雨はこれ以上の発言は許さないとばかりに吐き捨てる。
 そして、再び凜花の方を振り返った彼は、痛ましそうに顔を歪めた。
 時雨はおもむろに軍服の上着を脱ぎ、凜花の肩に羽織らせる。
「濡れているが、ないよりはましだろう」
「い、いけません! 汚れてしまいます!」
「かまわない」
 一蹴した時雨は、慌てふためく凜花の体をふわりと抱き上げる。突然の浮遊感に咄嗟に両手で彼の胸にしがみつけば、「それでいい」と柔らかな声が耳に届いた。
「そのまま私に掴まっていなさい。――長嶺殿」 
 凜花を抱いた時雨は、氷のように冷たい声色で父を呼ぶ。
「当初の予定どおり彼女をもらい受けます。かまいませんね?」
「それは……!」
 食い下がる父に、時雨は「状況がわかっていないようですね」と吐き捨てる。
「この上まだ私を謀るつもりですか? そちらがそのつもりなら、私は朝葉の名のもとに相応の手段を取らせていただくが、よろしいか」
「っ……!」
 只人の凜花には、自分以外の彼らが纏う光気は見えない。
 それでも、今なら選定の儀式の際に一斉に平伏した令嬢たちの気持ちがわかる。
 それほどまでに今この場における時雨は圧倒的だった。
 彼の威圧を正面から受け止めた父は、今にも倒れそうな青い顔をしている。
 その体はいっそ哀れなほどに震えていた。
 母にいたっては、声を発することもできずに直立している。
「……わかりました。お連れください」
「お父様⁉︎」
 まさか父がそう答えるとは思わなかったのか、杏花が悲鳴をあげる。
「何をおっしゃっているの⁉︎ その役立たずが、どうして――」
「『役立たず』?」
 反芻する時雨に、杏花は興奮のまま「そうよ!」と叫んだ。
「それは何の役にも立たない愚図の只人よ!」
 激昂する杏花がなおも凜花を罵倒し続ける中、時雨は凜花にだけ聞こえるほどの小さな声で囁いた。
「耳を塞ぎなさい」
 そして彼が天高く右手を掲げた次の瞬間、曇天の空に目が眩むような稲光が一斉に走った。その直後、地面が裂けるような轟音がその場一体に轟く。
 ――雷が、すぐ近くの木を直撃したのだ。
 あまりの衝撃に、その場にいた時雨以外の全員がぬかるむ地面に座り込んだ。
 見ると、屋敷の庭の中でも一際立派な杉の木が真っ二つに折れている。
「ただの貴人風情が、私の伴侶を愚弄するのか」
 再び時雨が手を掲げようとしたのを見た父は慌てて杏花を制する。
「黙りなさい、杏花!」
 泥に染まった白無垢を纏う杏花は、地面に座り込んで駄々っ子のように首を横に振る。
「そんな……でも、だって!」
「いいから、もうやめなさい!」
 それでも父が引かないことに杏花は唇をきゅっと引き結び、射殺さんばかりに凜花を睨んだ。
「っ……!」
 怒りに満ちた眼差しに凜花は呼吸を忘れる。だがそれは一瞬のことだった。背中に回された時雨の手が凜花の後頭部に触れ、そっと彼の胸元に引き寄せたのだ。
 まるで、もう何も見なくてもいいというように。
「今日のところはこれで失礼します」
 時雨は凜花の視界を覆ったまま歩き出す。
「もう、大丈夫だ」
 雷鳴と雨音に混じって聞こえたその声を最後に、凜花は意識を手放した。