たったひとりでもかまいません。
もしも私を必要としてくれるのならば、心も体も、私の全てを捧げます。
だから、どうかお願いです。
「誰か、私を見て……」
声を発した瞬間、長嶺凜花はハッと目覚めた。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
しかし、夢と現の間を彷徨っていたのはほんの数秒だった。
天窓からわずかに差し込む月の光。鼻をつくじめじめとした湿気と埃っぽい匂い。幼い頃から数えられないほど目にしてきた光景は、これが現実だといやでも知らしめる。
(……いつの間にか寝てしまったのね)
今宵、凜花は寝衣姿で納屋に閉じ込められた。
――姉の髪を上手に梳かすことができなかった。
ただ、それだけの理由で。
草履を履くことも許されず、頬を平手打ちにされたせいか、目覚めた今も顔や足はじんじんと痛い。
しかし、手当てをしようにも納屋には外側から錠がかかっている。
本当はこんな薄暗い場所からは今すぐ出たいけれど、「助けて!」と声のかぎり叫んでも、泣いて許しを請うても無駄なことを凜花は知っていた。
姉の気が済むまで自分が出ることは叶わない。でもそれは仕方のないことだ。
長嶺杏花。
伯爵位を持つ名門・長嶺家の長女である彼女は、この家における生まれながらのお姫様であり、貴力を有する貴人なのだから。
南北に長く伸びる島国、東倭国。
この国には古の時代より、異質な力を持つ人々がいた。
火や風などの自然の力を操る者、先読みの力や読心の力を持つ者。
多種多様な力を持つ彼らは「奇妙な力を持つ者」、通称・「奇人」と呼ばれた。
長らく恐れられてきた彼らだが、時の権力者はあるとき、その特異な力を使役することで己が勢力を拡大せんと試みた。
これをきっかけに政治の表舞台に姿を現した奇人だが、時代の流れとともに彼らの中にある意識が生まれ始める。
――特別な力をもつ我々こそが、力を持たないただの人間の上に立つべき存在である。
いつしか奇人は「身分や地位の高い人」「人あらざる貴き力を持つ人」の二重の意味を込めて、自らを「貴人」と称するようになった。
以降数百年、東倭国には「持てる者」と「持たざる者」の二つの人種が存在している。
持てるもの、すなわち貴人。
持たざる者、すなわち只人。
貴人だけが持つ特異な能力を総称して「貴力」と呼ぶ。
そして、この貴力の有無こそが、貴人と只人を選別する基準であった。
この国の特権階級――現代においては貴族を指す――は、貴人が占めている。
この国の発展には常に貴人があった。
貴人は力を持たざる人間を「只人」と呼び、蔑んだ。
しかし、そんな貴人も唯一、只人に劣っていることがある。
――貴人同士では、子をなせないのだ。
故に、貴人は伴侶を貴族の家に生まれた只人から選ぶ。
その結果、貴人の子が生まれる確率は半数以下だと言われている。
伴侶に選ばれた只人は、貴人の子を産んで初めて正式に家の人間と認められる。
一方、貴力を持たない赤子の大半は実子と認められることはなく、母子ともども日陰者となることがほとんどだった。
今から十八年前。
貴人の長嶺京介は、只人の娘・仁子を娶った。
仁子は双子の女児――姉の杏花と妹の凜花を出産した。
貴人の目には、貴力は色を帯びた光となって映るという。
「光気」と呼ばれるそれを、色の種類こそ異なれど貴人は皆体に纏っている。
そして、姉の杏花にはある光気を、凜花は纏っていなかった。
貴人の姉と只人の妹。
同じ顔を持つ双子の命運は、この世に生まれ落ちると同時に決まっていたのだ。
父は、只人の娘を「家の恥」となじり一度も抱くことはなかった。
母は、只人の娘の存在を拒絶した。
両親は、出来損ないの妹は初めから存在しなかったように、全ての愛情を姉に注ぎ、溺愛した。
凜花は物心ついた頃から下女として扱われ、今もかろうじて生き延びてはいるが、その扱いは他の使用人にも劣る。
そんな妹を杏花が軽んじるのは当然の流れだった。
杏花は凜花を妹ではなく「下僕」と呼ぶ。
普段、杏花は凜花をないものとして扱い、視界に映ることさえ穢らわしいと言わんばかりに無視をする。
そのくせ、ときどき思い出したように呼びつけては用事を申しつけた。
今回もそうだった。
下女の仕事を終えて疲労困憊の凜花がようやく床につこうとした時、突然杏花に呼び出されたのだ。
『髪の毛を梳かしてちょうだい。一本でも傷めたら承知しないわよ』
凜花は命じられるまま姉の髪に触れた。
夜空を宿したようなぬばたまの髪は絹糸のごとくしなやかで、天鵞絨のように滑らかだった。艶も張りもない、地味で暗い凜花の髪とは何もかもが違う。
――羨ましい。
――私もこんなに綺麗な髪になれたら……
丁寧に姉の髪を梳きながら、一瞬でもそんなことを考えてしまったのがいけなかった。
たった一本。
髪が櫛に絡んで、抜けてしまったのだ。
『いたっ……!』
しまった、と思った時には遅かった。
『この無能! 髪もろくに梳かせないなんてどこまで愚図なの! 役立たず!』
次の瞬間、凜花の目の前には星が散っていた。
杏花が渾身の力をこめて平手打ちをしてきたのだ。
痛みを感じる間も無くその場に伏して謝罪をしたけれど、無駄だった。
ひとたび火がついた杏花は誰にも止められない。怒り狂った姉は、すぐさま他の使用人を呼び出すと、問答無用で凜花を納屋に連れていくように命じた。
長嶺家において、貴人である杏花の言葉は当主の父に次いで絶対。
この家に仕える限り、何人たりとも逆らうことは許されない。
そして、今に至る。
――今は、いったい何時だろう。
天窓から差し込む月明かりを見る限りまだ夜は開けていないが、少なく見積もっても数時間は経っているだろう。その証拠に春先にもかかわらず体はすっかり冷え切っている。
――日付はもう、変わっただろうか。
凜花は冷たい指先をきゅっと握りしめる。
「『誰か、私を見て……』」
先ほど寝ぼけながら発した言葉を再び唇に乗せる。でも、それに返ってきたのはしんとした静寂と耐え難いほどの惨めさだった。
「……馬鹿みたい」
家の恥で、役立たずで、生きていること自体が無駄。血の繋がった両親や姉にそうまで言われる自分を見てくれる人なんて、いるはずがないのに。
己のふがいなさは自分が一番よくわかっている。
それでも、想像せずにはいられなかった。
――もしも誰かに必要とされたら、それはどんなに幸せなことだろうか、と。
そうでもしないと、現実の世界に疲弊し切った心が壊れてしまうから。
その晩、凜花は十八歳の誕生日をひとり孤独に納屋で迎えたのだった。