あまねくさくらの咲く頃に

 海の見える教室の、後ろから二番目の窓側の席。
 カーテンの白いレースが攫われて、波目みたいな模様が光で透かされたあの瞬間。
 教師の話も聞かずに珍しく眠っていた君が不意に目を覚まして、ちょっと垂れそうになった涎に気がついて慌てて手の甲で拭って、そしてそれを誰かに見られてやしないかとさりげなく周囲を見渡した時、目が合った。
 大きな目をまあるく開いて、その後鼻先に皺を寄せるみたいに笑った君を見たとき、心臓が大きく脈打った。
 絶望なんて言葉はあまり好きではないけれど、この胸の高鳴りを形容する言葉があるとするならばそれは絶望しかないと、そう思った。



 ───



 季節は春、陽光が柔らかく照らす坂道を南周(みなみあまね)は随分と履き慣れた感じのするローファーで歩いていた。
 男子高校生にしては少し長めの黒髪が春風に揺れ、母親似のぱちっとした目を心地良さそうに細める。田舎の高校にしては小洒落た紺色のブレザーと似たような色で誂えたネクタイがこの一年でようやく着慣れてきた、と言ったところだうか。
 小高い山の上に建てられた県立白島(はくしま)高等学校。周は今年で二年生になる。

 瀬戸内海に浮かぶ島のたった一つの高校には島民はもちろん、島の外からも学生がやって来るおかげか田舎の学校にしてはそれなりの在校生がいるのではと思う。それでも島の外からやって来た生徒から「中学の頃は全部で六百とかいた」という話を聞く限り全校生徒合わせても三百に満たないこの学校は少ない方に分類されるのかもしれない。
 それでも周には全校生徒の名前も顔も把握しきれないこの状態が未だに慣れない。

 なぜなら周は生まれも育ちも白島で、所謂過疎地といわれているこの島には子供が少ないからだ。全校生徒合わせても三十にも満たないし、同級生が十人もいないなんて当たり前。
 狭い田舎の狭い世界、同級生は全員幼馴染が当たり前だし家の場所も住所もわかれば電話番号だってわかる。さらに言えば保育園小中高、もっと言えば産院だって同じ人もいる。
 そういう場所で人生の大半を過ごしてきた周にとって教室の前から後ろまで席で埋まっている状況すら「すごい」になる。
 そしてつい先日入学式が終わったばかりの白島高校には当然だが新入生がやって来た。周はそれを実は周りよりも楽しみにしていたのだ。

「あまね」

 背後から掛けられたまだ幼さの残る低音に周は振り向いた。
 白島高校、通称白高(はっこう)は校舎に続く結構な傾斜のある坂道がある種有名だ。それは坂を覆うように植えられた桜が原因で、見頃の時期は遠目から見ると坂の全てがピンク色に見えるからだ。
 今はもう盛りの時期も過ぎて花はまばら。ほとんど葉桜となっている代わりに地面にはぽつぽつとピンク色が見えている。

 その中を少し急いでやって来る茶髪に口端がゆるゆると上がった。
 まだ袖を通して数日しか経っていないはずなのにスタイルが良いせいか一年先輩の周より着こなしているように見える姿に今度は息を吐くように笑う。

「なんで笑ってんの」
「制服似合ってるなぁって思って」

 隣に来た男子生徒の背は周よりも十センチは高く顔立ちも整っているせいか少し幼い顔の作りをしている周と並ぶとどちらが年上か分からなくなる。

「おはよう、咲良」
「ん、おはようあまね」

 錦咲良(にしきさくら)は周を見ながら嬉しそうに表情を緩めた。

「あまね家出るの早過ぎじゃね? 朝一緒に行きたいって言ったじゃん」
「一応咲良の家まで行ったよ? でもまだ寝てるからって言われてさ」
「…起こしてくれたら良かったじゃん」
「そっかそっか、じゃあ次からはそうしようね〜」
「あ、ちょ、子供扱いすんな…っ!」

 背伸びをして細くてサラサラな茶髪を撫でると咲良が複雑そうに顔を歪めるけれど、周はそれを咲良が嫌がっていないというのを知っている。

「また一緒の学校だね」
「それ入学式の時も言ってた」
「え、そうだっけ」
「そうだよ。忘れんぼだな」

 頭を撫でる手を下ろしてまだ正面玄関も見えない校舎へと向かうべく足を進める。
 周と咲良は幼馴染だ。それこそ産院は違うけれど保育園小中高と同じの、もう十年以上になる付き合いの幼馴染。学年は周の方が一つ上だけれど人数の少ないコミュニティで過ごして来た二人にとってそれはほんの少しの壁にもなりはしなかった。
 けれど中学と高校は全く違う。小学校と中学校は隣接していたけれど高校はそもそも二人の家からは離れた場所に建っているし、人間関係もガラリと変わる。

 そのせいでこの一年二人には接点があまりなかった。でも、それも終わったのだ。
 なぜならまた同じ学校に通うのだからまた中学の時のように頻繁に話したり遊んだりもできるだろう。周は実はそれが楽しみだったのだ。
 周は咲良と過ごす時間が昔から好きだった。幼馴染というのもあるけれど、咲良の醸し出す落ち着いた雰囲気が一緒に過ごしていて楽だからだ。

「あまね今日部活は?」
「ない。だから一緒に帰ろ。母さんも咲良に会いたがってるよ。さっくんはうちで相変わらずアイドル的な人気だから」
「それマジで意味わかんねえんだよな。去年夏祭りの時ばあちゃんに拝まれたじゃん、俺。あれなんなの」
「推しの演歌歌手見た時と同じ反応だったなぁ」
「ますます意味がわかんねえ」

 葉桜の並木を二人で声を上げて笑いながら歩く。
 始業時間から一時間ほど早いこの場所にいるのは今二人だけ。だからこそこんな馬鹿笑いをすることができる。そうしてやっと到着した山の上にある校舎の正面玄関。横開きの扉の奥には靴箱が並んでいるのが見える。
 創立して何年になるかは知らないが結構な年季の入っている横開きの扉を開けて中に入ると下駄箱が置いてあるせいか土の匂いがした。
 学年で上履きが置いてある場所が異なり、それぞれ靴を履き替えて教室棟へと移動する。渡り廊下も教室の横の廊下も白高は開放感に溢れていて、セキュリティ? なにそれ。といった感じである。

「他の人来るまであまねのとこいてもいい?」
「いいよ」
「やった。ありがと」

 イケメンにタイプがあるのだとすれば、咲良は猫系だと周は思っていた。それも高貴な猫だ。その猫が懐いてくれているという感覚に喜びを感じない人類など果たしているのだろうか、否、いない。いないと周はこの時ばかりは言い切れた。
 紺色のスクールバックを肩に掛けて階段を上がり二階に進む。三年まで共通で三クラスまである中で一、二組が普通科、二年からは三組が進学科となっていて周は普通科の二年一組に在籍している。
 カラカラと軽い音で扉を開けて窓際の席に座ると咲良がその隣に座る。こうして見ると本当に同級生のようだなと周はまじまじと咲良を見た。

「…なに?」
「同級生っぽいと思って。本当におれたちどっちかが後一年ズレてたら良かったのになぁ」

 ほんの少し、間が開いた。

「…そんなの、俺が一番思ってる」

 いつも通りのやりとりなのに少しだけ違和感を覚えた。けれどそれは本当に些細なものだったから、周はそれを違和感とも捉えずにいつも通り気の抜けた笑みで「だよねぇ」と返した。
「おかしい」

 入学式が終わって一ヶ月が経った五月。吹けば僅かな肌寒さを感じさせた風も今は随分と心地良く感じ始めた頃、今日も今日とて早めに登校していた二人は周の教室で人が来るまでの間一緒にいた。
 けれど今日は咲良が椅子に座った途端机に頬杖をついていかにも不満ですといった顔と声で周を見る。何がおかしいのか皆目見当もつかない周は数回瞬きをしてから首を傾げる。

「何が?」
「…高校入ったら、もっとあまねと話せると思ってた」
「ああ」

 一瞬言葉に詰まった咲良がバツが悪そうに周から目を逸らし拗ねたように呟いた言葉に周は納得したように頷いた。

「中学の時とは違うよね、やっぱり」

 二人が通っていた中学は人が少なかったから一年から三年までの教室が横並びだったのもあって教室間の行き来がとてもしやすかった。何より学校全員が幼馴染といっても過言ではない環境だったから、休み時間の度に他学年がどの教室にいても違和感なんてなかった。
 だけど高校は違う。階によって学年は別れているし人数が違う。親しい友人グループは2年にもなれば出来上がっているし選択教科による教室の移動なんかもあって正直学年が違う二人が以前と同じような時間を過ごすことは不可能に近かった。

「でも朝はこうして話せてるし、部活がない日は一緒に帰れてるじゃん」
「中学の時は毎日一緒に帰ってた」
「そりゃ部活も一緒だったからねぇ。咲良は部活入らないの?」
「入らねえ。遅くなったらばあちゃんが心配する」
「そっか、そうだったね。フミさん元気?」

 周の問いかけに「元気」とシンプルに返した咲良はそれきり口を閉ざしてしまった。

(ありゃ、地雷踏んだかな)

 その様子に慣れている周は焦ったり怒ったりせずただじっと咲良が喋り出すのを待つ。咲良は昔から拗ねると黙るクセがあった。否、拗ねているというのはまた違うかもしれない。上手く言葉に出来ない感情をゆっくりと自分の中で噛み砕いて理解しようとしている、と言った方が周自身も納得出来る。
 咲良が思考タイムに入ったことで周も今どこが地雷だったのだろうかと考える。

 考えて数秒も経たずすんなりと答えが出て、思わず口角が上がった。それと一緒に小さく呼吸が漏れたことで床を睨んでいた咲良の視線が上がり数秒ぶりに目が合う。
 言葉はないけれど視線が「何?」と言っているのがわかって周はいっそう笑みを深くした。

「寂しかった?」
「はっ⁉︎」

 瞬間的に顔が赤くなった姿に周はにまにまと心底楽しそうに笑う。どうやら図星だったらしい。

「さっくんはかわいいなぁ。ほらおいでお兄さんがなでなでしてあげよう」
「バッ、な、ガ…っ! 〜〜〜…」

 馬鹿何言ってんだガキ扱いすんな、だろうかと推測しながら周は腕を広げた。その姿を見て咲良が悔しそうに歯噛みする。ほんの数秒の葛藤の後、バツが悪そうな表情のまま立ち上がり周の前に膝を着く。そのまま胸元に顔を寄せると咲良の腕が周の背に回った。
 鼻のすぐそばに咲良のサラサラの髪が当たる。ふわりと香るのはシトラス系のシャンプーの香りだった。何年か前まではおばあさんのフミさんと一緒のメーカーの香りだったのになぁと思いながら周も咲良を抱き寄せて頭を撫でる。

「あ、膝汚れるねごめん」
「…別に良い」
「そか、ありがとう」
「……なああまね」
「ん?」

 のそりと腕の中で顔を上げた咲良と目が合う。長い睫毛に縁取られた綺麗な目と視線が絡み、相変わらずイケメンだなぁと思いながら指通りのいい髪を梳くように撫でていると心地良いのか咲良の目が猫のように細められて思わず周の喉から変な音が鳴りそうだった。
 猫みが強いんだよなぁ…! そう思っているなんて本人には絶対に伝えられないけれど、周はこの幼馴染が見せる甘えた様子がいっとう好きだった。

「こういうの、誰にでもしてんの?」
「え、こういうのって、これ?」
「そう、これ」

 思い返す限りこんなことは咲良にしかしていないなと天井を見ながら結論づけて視線を戻す。

「うん、さっくんだけだよ」
「…そう」

 満足そうに息を吐いた咲良が再び周の胸元に顔を埋める。そこで深く呼吸をされると温かい息がシャツ越しに肌に当たってくすぐったいと笑う。

「なあ、なんで俺のこと未だにさっくんって呼ぶの」

 くぐもった声が訊いてくる。

「かわいいなって思った時は無意識にさっくんって呼んでる」
「……俺、もう高校生なんですけど」
「うん、でも年下じゃん?」
「たった一年じゃん」
「されど一年だよ」

 反論出来なくなったのかまた黙りこくった咲良が胸元にぐりぐりと額を擦り付ける。機嫌よ治れと思いながら頭を撫でていれば思いの外咲良が離れてくれなくて時間は順調に過ぎていく。
 朝の八時が過ぎた頃、ちらほらと人が来る気配がしてぽんぽんと背中を叩く。

「さっくん、そろそろ教室行きな」
「ん…」
「今日は部活ないから一緒に帰ろう? 放課後連絡する」
「ん」

 渋々、本当に渋々といった様子で周から腕を離した咲良が「またね」と告げてスクールバックを持ち教室の後ろのドアから出て行く。それから三分も経たずに前のドアから同級生が入ってくる。おはようなんて軽い挨拶をしてから昨日のテレビの話とか宿題の話とかをして親しい友人がやって来るとその人達と話してあっという間に時間は過ぎて行く。
 周は真面目な性格だった。教科書を置き勉なんてことはしないし、予習復習も欠かさないおかげで成績もそれなりに良く、また空気もそれなりに読めて波風を立てずに生きて行くのが得意なタイプだった。
 クラスで特に目立つわけではないけれど分け隔てなくどんなグループとも話せる、それが周だ。

 だから休み時間は常に友人といるし、昼食だって一緒に食べる人は決まっている。部活がある日なんかは放課後まで誰かといるのだから、確かに咲良との時間が全くと言っていいほど学校ではないなと周が思ったのは玄関で靴を履き替えている頃だった。
 もう咲良は駐輪場に到着しているらしくて周はきちんと靴を履いた後心持ち早歩きで坂を下る。そうは言っても白高の坂は急である。早足で下っていれば自然と歩幅は大きくなり最終的にほとんどダッシュと同じ速度で下り切ると平坦な道になったと同時に膝に両手を着いて肩で息をする。

 息を整えるのもそこそこに顔を上げて校門のすぐ横に建てられた駐輪場を見れば一年の場所に自転車に跨った咲良がいるのが見えた。スマホを見ていてまだ周には気付いていない様子だ。周はそのまま2年の自転車置き場に行って入学祝いに祖母に買って貰った自転車のスタンドを軽く蹴って咲良のもとへ向かう。

「ごめんごめん、待った?」
「そんなに。……なんで息切れしてんの?」
「走った」
「なんで。ゆっくりで良いって言ったじゃん」
「咲良が待ってるんだよなぁって思ったら走ってた」
「…そうかよ」

 また咲良が黙るがこれは照れ隠しだと分かっている周は何も言わず、二人並んで自転車を漕ぎ始めた。
 高校から二人の地元まで一つ山を越えて大体四十分程の距離がある。
 港町を自転車で走ってから長く険しい坂に差し掛かるのだが周はここを高確率で自転車から降りて登っていた。理由は簡単だ、非常に疲れるからである。
 それに今日は咲良と帰る日だから必然的に自転車から降りてゆっくりと坂道を登る。

「母さんが今日の晩御飯唐揚げだって言ってた。持って帰る?」
「ん、そうする。おばさんの唐揚げばあちゃんも好きだし」
「フミさん今年で何歳だっけ。揚げ物食べれるのすごいよねぇ」
「すげえ元気。多分俺より元気」

 咲良には両親がおらず、母方の祖母であるフミが女でひとつで育てている。だからというわけではないが二人は家族ぐるみの付き合いをしていてこうやって夕飯のおかずを持って帰らせることなんてしょっちゅうだ。高校に入ってからは減ってしまったが周たちはお互いの家で寝泊まりすることも珍しくなかったし、お互いがお互いの家を「もう一つの実家」と思っている部分もある。
 それに周の家族(特に母と祖母)は咲良のことが大好きだった。

 この田舎では珍しい程見た目が整っていて礼儀正しく良い子な咲良は周の両親や祖母にとても可愛がられているし、周だって咲良のことを可愛がっている。
 家族全員が咲良のことをもう一人の家族と思って接しているのだ。もちろん咲良の祖母であるフミのことも大好きだが、そもそも周の祖母とフミが何十年来の親友だからこそこの縁が成り立っているのである。
 咲良の祖母であるフミは一言でいえば元気だ。未だに畑仕事は毎日しているし海産物加工の仕事にも勤めている。家事だってお手の物で病気知らずの巷でも噂の元気印のお婆さんだ。そのフミと咲良は二人で元々民宿だった建物をリノベーションした物件に住んでいる。

 夕飯の話だったり学校の話だったりと話題は尽きず、気が付けば下り坂に突入していて二人は自転車に跨り周を先頭にして長くて急な坂を一気に下る。五月の風は良い感じに涼しくて心地良さすら覚えるけれど、車輪はしゃかりきに回って結構なスピードが出ている。
 ここで小石なんかに引っ掛かれば間違いなくバランスを崩して吹き飛ぶんだろうなんて縁起でもないことを考えつつも二人は難なく坂を下って海の方へと向かってペダルを漕ぐ。
 たまにすれ違う老人が「おかえり」なんて言ってくれるのも日常でそれに「ただいま」と返して二人並んでそう広くもないガタガタとした道を進む。
 坂の上から見下げた海のすぐそばにある漁港。そこから少し離れた場所でブレーキを踏むと二人とも似たようなタイミングで自転車を降りる。年季の入った木造の車庫の前でコンテナに座った老婆を見ると周はそのまま駆け寄った。

「ばあちゃんただいま。何してるの?」
「あーちゃんおかえりぃ。そら豆が取れたからねぇ、今皮をむいてるのよぉ」
「お邪魔します」
「あれまっ! さっくんじゃないのよぉおかえりなさい今日も男前ねえ、ようこそようこそ。さあさあおうち入りなさい。明子(あきこ)さーん! さっくんとあーちゃんが帰ってきたわよぉ!」

 手慣れた様子でそら豆の皮を剥いて中身を取り出していた周の祖母であるトメは咲良を見るなり優しく垂れた目を少女のように輝かせてぱちぱちと手を叩いた。
 うん、相変わらずの人気ぶりだなと周は頷きつつ車庫の中に自転車を停める。咲良といえば結構な頻度で顔を合わせているはずなのに毎回オーバーリアクションをする祖母に若干困惑気味だった。
 けれど本気で嫌がっている訳ではないと知っているからか無理に間に入ることなく自転車のカゴからスクールバックを取り出して肩に掛けてから咲良の隣に行くと心なしかほっとしたように息を吐いた姿に面白くて口角が上がる。

「ばあちゃんそこら辺にしといてあげて」
「あらあらだめねえ、歳を取ると図々しくなっちゃって」
「大丈夫だよ、咲良照れてるだけだから。じゃあ家入ろっか」
「…ん」

 幼い頃から南一家は咲良のことをほめそやしてきた自覚がある。それなのに未だに褒められることに慣れていない咲良の姿に周もトメも似たような顔で笑うと、決まって咲良はバツが悪そうに視線を外す。
 ぽんぽんと背中を叩いて家へと促すと玄関を開けた先で待っていたのは周の母である明子で、名前の通り明るい声と笑顔で「おかえり」と告げた後は息子には目もくれず咲良に歓迎のマシンガントークをお見舞いする。それもいつものことだなと先に靴を脱いで手洗いうがいを済ませてまた玄関に戻ると咲良はもうぐったりとしていた。なんとなく、オーラが。

「咲良も手洗いしておいで」

 そう助け舟を出すと咲良は頷いて「お邪魔します」と小さく挨拶した後すれ違い様に周を恨めしく見るのだがそんな姿すら可愛らしいのだから周の口角はまた緩く上がってしあった。
 明子といえばマシンガントークで満足したらしく足取りも軽くリビングへと戻って行き、扉を締め切る前に思い出したように周を見て「おやつ持っていきな」とやけに男前なジェスチャーでキッチンに来いと息子を促す。
 それに逆らわずキッチンに行けば持たされたのは手のひらよりも一回り大きな菓子盆に盛られた洋菓子と和菓子。ありがとうとお礼を言ってから玄関に戻ると咲良がいた。

「先に上がっててよかったのに」
「諸事情で無理」
「なんだそれ」

 咲良が妙に真剣な顔で言うからおかしくて笑ってしまう。
 また恨めしそうな目線を貰ってしまったが周は気にすることなく階段を上がって奥側にある扉のドアノブを回して部屋に入った。
 六畳のフローリングの部屋にはベッドと勉強机、本棚。壁には小学生の頃に貼った漫画のポスターが貼りっぱなしだし、特にこれといった拘りのない普通の部屋だ。周の部屋に来たときは二人でベッドの前に並んで座るのがなんとなくのお決まりになっている。
 中学生の頃は漫画を読んだりゲームをしたりしていたが高校に入ってからはそういうこともせずのんびりと会話を楽しんでいた。

「あ、そういえばさ」
「ん?」

 スマホで最近よく見ている動画を共有していると不意に写ったどこの誰かもわからない『イケメン高校生』なんてタグで紹介されている男子高校生の姿にふと顔を咲良の方に向ける。

「クラスの女子がさ、一年にイケメンいるよねって話してて」
「…うん」
「咲良のことだったよ」
「……あ、そ」
「え、嬉しくないの?」

 周の言うことを予想していたのかはたまたもう聞いていた事だったのかさして興味も無さそうに返事をした咲良は映っていた男子高校生の動画をスワイプして次の物を再生する。今度は可愛らしい動物の動画で、子猫が大型犬とじゃれている姿だ。

「…褒められてるってわかるからまあ悪い気はしねえけど、嬉しいって程じゃない。でもどうでもいい」
「えー、おれイケメンなんてただの一回も言われたことないから素直に羨ましい」
「あまねがイケメン…?」

 ぼんやりと動画を見ていた咲良が周の方に顔を向けた。
 整った顔にじっと見つめられると妙な居心地の悪さを感じて無意識に背筋が伸びる。
 ふ、と柔らかく咲良が微笑って左手が伸び、周の頬を人差しの指の背でほんの少しだけ触れた。

「あまねは可愛いでしょ」

 イタズラっぽい顔で告げる顔は同じ男なのに見惚れてしまうくらいなんというか様になっていて、周は思わず下唇をきゅ、と噛んだ。なんだか悔しいと感じた。
 周の家に着いたのが十六時過ぎで唐揚げが出来上がったのが十八時前だった。
 帰り道に言った通りタッパーに詰められた唐揚げとエトセトラを入れたパンパンのビニール袋を自転車のカゴに入れた咲良と周は今海沿いを歩いていた。家が近いというのもあって周は徒歩だし、咲良も自転車を押して歩いている。
 十八時にもなれば外はもう薄暗く日中には感じなかった肌寒さにたまに身震いするが歩いているうちに気にならなくなった。

「相変わらずおばさん元気」
「ねー、多分おれより元気だよ」
「俺のばあちゃんと一緒じゃん」

 波の音と虫の鳴き声、たまに遠くから人の声がする道をゆっくりと進みながら思い出すのは家を出るまでの明子とのやりとり。

「さっくん唐揚げ出来たよ! 勢い余ってトンカツも作ったけど持ってく⁉︎」
「や、唐揚げでだけで大丈夫」
「遠慮しないでいいから持ってって! フミさんだってこれくらいぺろりでしょー? それとそら豆の塩茹でしたやつと、あ、朝取れたアスパラも持っていきな! お義母さんいいよねー?」
「うんうん、いっぱい持っておいき」
「いやこれはさすがに貰いすぎ」
「大丈夫大丈夫大丈夫!」

 女性二人の圧に咲良は勝てずに結果言われるがまま沢山のお土産を持たされることになった。ちなみにそういう場合周は助けに入らない。なぜなら入ったところで無駄だからである。
 見守り役に徹している周を最後に恨めしげな目で見るまでがこの流れのパターンだ。

「今度なんかお礼持ってく」
「気にしなくてもいいけどフミさんの漬物食べたい。梅干しとか」
「……ばあちゃんの梅干し欲しがるのマジであまねくらいだぞ。なんで平気な顔してあれ食えんの。この世の酸っぱいの全部集めたみたいな味してんじゃん」
「なんだろ、昔から好きなんだよねフミさんの梅干し」

 フミが漬ける梅干しは一言でいえば酸っぱいとしょっぱいの極地だ。あの梅干しが一つあれば白米が冗談ではなく一合は食べられる気がする、と周は本気で思っていた。つまり最高のご飯のお供なのである。

「まだまだ高校生になりたてのさっくんにはあの味の奥深さがわからないんだなー」
「あれに至ってはあまねの味覚がバグってるだけだろ」
「うわ生意気だ!」
「いって」

 ノーガードの脇腹に周の緩い手刀が決まった。大して痛くもない筈なのに大袈裟なリアクションをする咲良にからからと楽しげに笑う。
 一緒に学校から帰ってどちらかの家に寄ってどちらかが送る。中学生の頃は当たり前だったルーチンがふと懐かしく感じたのは、確かにこの状況が久しぶりだと感じたからだろうなと周は隣を見た。
 その視線に気がついた咲良が不思議そうな顔で見てくるのに周は自然と頬を緩めた。

「なに?」

 今朝教室で寂しそうにしていた咲良を思い出す。「もっと話せると思ってた」とこぼした言葉にはきっと嘘は無いし、本心からの言葉だったのだろう。保育園から中学まで全員が幼馴染といっても全員と仲良くなれる訳ではない。
 特に咲良は元々人付き合いが苦手で喋るのも得意な方ではなかったなと、今更ながらに周は思い出した。

「んー、なんだろうなぁ」

 周はじわりと自分の心の中に浸透していく感情にどう名前を付けようかと思案していた。周にとって咲良は幼馴染であり、家族でもある。それにきっと一番自分に近い友人だ。そんな人が一年自分がいない学校で過ごしたことを、言葉には出していないが全身で“寂しい”と表してくれた。
 それは、うん。ちょっと、だいぶ、嬉しいかもしれない。

「…なんでニヤついてんだよ」
「いやぁ、へへへ」

 これをこのまま言葉にするのはまずいなと、周は思った。だって多分単純に気持ち悪い。
 だけど咲良の感じを見るにここで何か言わないとまた拗ねてしまうかもなぁ、と長年の経験から予測されるパターンを導き出すと周は緩んだ顔のまま口を開いた。

「おれは咲良に好かれてるんだなぁって思ったんだよ」

 からかい半分、自意識過剰な本音半分で呟いた言葉は咲良の失笑によって吹き飛ばされるはずだった。
 けれど代わりに訪れたのは静寂。
 咲良の足が止まり、車輪の音も止んだ。三歩程先に進んでいた周はそれに気がついて足を止めて後ろを見る。薄暗いのと、咲良が俯いているせいで表情はわからなかった。

「咲良どうしたの?」

 声を掛けても返事はない。それに瞬きをして一歩咲良の方に向かおうとした時顔を上げた。やっぱり薄暗くて表情はよくわからなかったけれど、強い目力で見られていることはわかった。
 縋るような視線の強さだと思った。

「好きだよ」

 始終聞こえている波の音が一瞬止んだ気がした。

「俺はあまねのことが好きだ。幼馴染とか、友達とか、家族だからじゃない」

 退路を断つように続いた言葉に周はゆっくりと瞬きをした。まだ理解が追い付いていないからどんな言葉も発することが出来ない。

「あまねが好きだ」

 肌寒い風が背中から吹いた。
 木々の揺れる音と、波の音が戻ってきた。ハッとして咲良を見るけれど途端に今までどうやって咲良を見てきたのかがわからなくなってしまって視線を彷徨わせる。どんな言葉を掛けたらいいのか、どんな顔をしたらいいのかわからない。ああ、混乱しているんだと思った。
 混乱するのは咲良がこんな嘘を付かないと周は多分、誰よりも良く知っているから。
 咲良は嘘をついていない。冗談でこんなことは言わない。
 それなら、この言葉は真実なのだ。
 自分を落ち着かせようと吸った息がやけに大きく響いた気がした。

「あまね」
「!」

 いつの間にか視界に咲良の靴と自転車が入ってきていた。
 歩数にして一歩分の距離に、咲良がいる。
 周は自分の体が妙に強張っているのを感じた。何か言わないといけない。せめて目くらい合わせないといけない。緊張すらしている周に降ってきたのは思いの外あっけらかんとした声だった。

「別に答えようとしなくてもいい」
「え」
「だって今だと俺確実に振られるじゃん。だから何も言うな」
「えぇー…」

 困惑に眉を下げ心なしか猫背になって申し訳なさそうにしている周とは対照的に咲良はいつも通り、という感じだった。
 先程まで感じていた視線の強さもなくなり、いつもの少し気怠げな目が周を見下ろしている。何なら周の反応を見て楽しんでいる風でもあるのだから、周の困惑はさらに強まった。

「あまねは俺のこと考えて悶々としてればいーんだよ」
「ええっ⁉︎」

 思ってもみなかった言葉に仰天して目を見開く。そんな姿を見て悪役みたいに口の片方だけ上げて笑った咲良は徐に自転車に跨った。

「じゃあ帰るわ、また明日な。おばさんたちによろしく伝えといて」
「え? あ、うん」
「おやすみ」
「おやすみ…」

 まさに風の如く自転車に乗って去っていった背中を見送って周は少しの間その場でぼんやりと立ちすくんでいた。
 予想もしていなかった事態にまだ混乱が抜け切っていないのだと、頭の中の変に冷静な部分が自分に伝えてくる。そう、まだ自分は混乱しているなと思うのに体は自然と自分の家の方向に向かって進み始める。
 でもその足取りはひどくゆっくりとしたものだった。
 まるで地面が本当にそこにあるのかと確かめるかのようなスピードと慎重さで歩を進めるけれど、家から引っ掛けてきたクロックスの靴底がしっかりと目の荒いコンクリートを踏み締める。
 あ、夢じゃない。
 そう思ったと同時に周の中に浮かんだのはたくさんの情報だったが、一番強いものは咲良の顔。そして。

「……告白、初めてされた」

 そんな気の抜けた感想だった。
 軽い音と一緒に振動したスマホ画面に表示されたのは「うまかった。ありがとう」の文章と一件の画像。一瞬躊躇したけれど親指でそこをタップするとトーク画面が開かれる。
 また軽い音がして表示されたのは唐揚げを食べている白髪の髪を一つにまとめたしゃっきりとしたおばあさん。

(相変わらず美味しそうに食べるなフミさん)

 周の祖母を形で例えるとしたら丸で、フミさんは三角だ。顔つきも性格もまるで違うけれどこの二人は助学生時代からの親友らしい、不思議だなんて思うけれど周の思考は今それ以外のことでほとんどが埋まっている。
 祖母について考えたのだって単なる現実逃避だ。

「…なんでおれがこんなに悩んでるのに咲良は普通なんだ…」

 理不尽だとすら思った。文面からも写真からも気まずさなんて一ミリも感じない。何事もなかったかのように連絡を寄越してきたことに少しだが怒りすら湧いてきた。でもそれを逃すように細く息を吐いて周は両手で持ったスマホの画面を睨むように見る。
 迷いに迷った挙句、送ったものはふてぶてしい顔をした猫がサムズアップしているスタンプだった。その直後に着いた既読のマークに周は肩を揺らした、さながら猫のように。そして帰ってきたのは「おやすみ」の四文字である。
 腹が立つほどの通常運転だ、こんなに悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなる。そんな思いで周は苛立ちのままおやすみと返してスマホを机の上に置いてベッドに倒れ込んだ。

「……もしかしてあれ夢だったかな」

 その方がいっそリアルな気もすると思いながら周は目を閉じた。
 けれどそれが夢ではなかったとわかるのは翌日の朝のことだった。

「昨日のマジだから」

 朝の挨拶もそこそこに自転車に跨った咲良の言葉に周は思い切り顔をしかめた。

「なんだよその顔」
「……昨日のメッセージじゃ普通だったじゃんか…!」
「あそこで追撃したら周知恵熱出しそうじゃん。あと『落ち着いてー』とか『さっくんの勘違いだよー』とか腹立つこと言われそうだと思って」

 ぎくりと周の肩が揺れたのを咲良は見逃さずこれ見よがしに溜息を吐く。

「はじめに言っとくけど勘違いじゃねえから」

 いつもはそれなりの速度で進む道を今日は焦ったいくらいのペースで進む。前を見てペダルを漕いでいる咲良の口から出た声は清々しい程に真っ直ぐで迷いなんて一欠片も無かった。

「…わかってるよ」

 この真っ直ぐさが眩しいなと思いながら周も前を見ながらぽつりと呟いた。小さな声だったけれど隣にいる咲良には聞こえたみたいで少しだけ視線を感じる。

「咲良が勘違いとか冗談でああいうこと言う人じゃないってわかってる」

 キィ、と小さなブレーキ音と一緒に咲良が止まった。少し進んだところで周も止まり、後ろを見る。昨日と同じ景色だなと思いつつ、違うのは空の明るさと驚いている咲良の顔だ。でも少しだけ嬉しそうな色を表情に見つけた瞬間、周は口を開いた。

「だからどうしようってなってるんだろバカ! 男なんですけどおれ!」

 周はあまり大きな声を出す性格ではない。だからこそ声の大きさに驚いた咲良が目を丸くして思わず人がいないか後ろを確認したのを見たと同時に周は自転車を漕ぎ出した。
 それはもう全力で。

「あ、おい!」

 焦ったような声が後ろから追ってくる。今はそれなりにある距離もあと十数秒もしたら縮まってしまうだろう。周と咲良にはそれくらいの運動神経の差がある。
 けれど少し時間が稼げるだけで良いのだ。それだけ動けば絶対に体温が上がって顔が赤くなるし息も上がる。そうなれば隠せるから。
 弟のように思っていた幼馴染から冗談でも勘違いでもない告白をされたことで赤くなった顔を隠せるから。

(ああどうしよう)

 必死にペダルを漕ぎながら周は心臓が早くなるのを感じていた。
 告白をされた時は困惑したしその後もうまく事実を飲み込めないでいた。それは今も変わらない。けれど今はっきりとわかってしまったことがある。

(おれ嫌じゃなかった。告白されたの、嫌じゃなかった)

 同性に恋愛感情を抱かれていたとわかって最初に行き着くのは大抵困惑と、そして嫌悪のはずだと、そんな偏見が周の中にはあった。だけど昨日から今この瞬間に至るまで嫌悪なんて全然感じていない。居心地の悪さはあるけれど、これは嫌悪じゃない。
 純度の高い困惑が周を包んでいる。
 その辿り着いてしまった事実に周は「うわあああ!」と声を上げてペダルを漕ぐ。最早立ち漕ぎだ。こんなことしたのは小学生振りな気がする。

「おやまあ南さんちの息子さん今日ははしゃいでるのねえ」
「おはようございます!」
「おはよう、いってらっしゃーい」

 畑仕事をしている近所のおばあさんにも大きな声で挨拶をして立ち漕ぎのまま進んでいく。その数秒後に咲良の声が聞こえたからもうすぐそばにいるのだろう。それなのに周が立ち漕ぎをやめたのは山の上り坂に差し掛かる場所だった。
 両足を地面に着けて咳き込むほど呼吸が荒れ放題の横に咲良が自転車を止めたのはそれからすぐのこと。咲良も呼吸が乱れているものの周程ではなく、基礎体力の違いを見せつけられて周の眉間に皺が寄った。

「なんで、すぐ、追い付いて来ないんだ…!」

 理不尽の極みである。

「追いつかれ待ちだったのかよ」
「そういうわけじゃ、ない、けど…っ。追いつかれたら、止まろうと思ってたんだよ!」
「知らねえよ」

 ごもっともである。

「ああ、もう、めちゃくちゃ汗かいてる…。学校着いたら着替えよ…」

 一度大きく息を吐き出してから足を前に出す。眼前に見えるのは長い長い坂道で、毎日のことなのに頂上まで遠いなと思ってしまうのは仕方のないことだった。

「あまね」
「なんですか錦君」
「怒ってんの?」
「怒ってるんじゃない。気まずい」
「それを俺に言えるのがあまねのすごいとこだよな」
「なんにもすごくない」

 ぎりぎり二人が並んで自転車を押せる程の歩道の幅だと自然と距離が近くなる。昨日までなら目を見ながら他愛もない話ができたのに今日は隣を見ることが出来ない。不自然なくらい真っ直ぐ前を見ながらいつもより気持ち大きめに足を前に出しているのだが隣の咲良はそれにも難なく付いてくる。

「さっきさ」

 坂の半分くらいに差し掛かった頃、静かな声で咲良が言う。

「あまねが男なんだけどって言ったじゃん」
「え、うん」
「俺もそれ結構考えてた。どうしてあまねなんだろうって。なんで女子じゃなくてあまねなんだろうって考えた」

 何か重たいことを伝えるような雰囲気ではなく、ただ独り言のように語られる言葉は自然と周の中に落ちていく。

「でもわかんなかった」

 吹っ切れたような声のトーンに思わず周は横を見た。

「どんだけ考えてもあまねのことが好きだってこと以外わかんなかった」

 例えばこれがフィクションの世界なら。
 ここで特殊な光効果が使われたり主題歌が流れたりするだろう。妙に咲良の顔がアップになったり、二人の姿が遠くから絵画のように切り取られたりもするのだろう。けれどこれは現実で、告白されているのは周だ。
 周は下唇を噛んだ。眉間というか顔中の皺を中心に寄せて側から見たらとんでもない顔をする。ハンドルを握る手に妙に力が入ってギチリと嫌な音がした。

「うわすげえ顔」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
「俺」

 いつの間にか歩幅はいつも通りになっていた。
 ゆっくりと坂を上りながらたまに横切っていく車のナンバーを目で追う。毎日同じ時間帯だからか通る車も大体一緒だ。

「…咲良はさ、おれとどうなりたいの」

 少しだけ間が開いた。

「付き合いたい、普通に。好きだし」

 でも、とすぐに言葉が続く。

「今のままじゃ無理だから頑張るわ」
「………頑張る、とは」
「アピール?」

 照れも何もない。真面目に考えましたけど何か? みたいな顔で見られた周はどう言葉を返せばいいか分からず咲良の方を向いたまま目を見開いていた。戸惑いが、また一段と深くなったのを確かに感じていた。

「だからまあ、これからもよろしく」

 なにがどうよろしくなのか周は聞けなかった。聞くべきではないと思った。ただこれから自分の日常が変わっていくのだという確かな予感はした。
 嫌悪感は、相変わらずなかった。
 だがしかし現実とは想像通りに行くわけではないのである。

「再来週の月曜から中間だぞー。お前らしっかり勉強しとけよー」

 周は担任の声を聞きながらああそうかと黒板の左側にあるその日の時間割りが書かれている場所を見た。備考と書かれた枠の中に確かに中間テストの日程が書き込まれていたがクラスを包む悲壮な雰囲気とは違い周の表情はいつも通りだ。
 優等生を地で行く周は中間テストくらいで焦ることはない。けれど気がかりな点はある。

(咲良、大丈夫かな…)

 そう、幼馴染である咲良のことだった。
 咲良は見た目がクールでそれなりに頭が良さそうな顔をしているけれどそれは本当に顔だけだ。涼しげな顔をして教科書を見ている時は大抵漢字の読み方がわからなくて躓いていたり偉人の顔を見て誰かに似てるなと考えていたりするだけなのだ。
 周を含め、咲良と幼馴染の人は全員それを知っている。知っているからこそ、周は自分のことなんてそっちのけで咲良のことが心配だった。

 そして本日最後の授業が終わり、LHRも終わった頃周は席に座ったままバッグからスマホを取り出した。するといくつか通知が来ていたが、その中に幼馴染からのものがあった。
 周より一つ年下の、咲良と同じクラスになった人物からだ。
 通知は二件。一つ目は『あーくん見てこれ』それに続いて表示されたのはさながら燃え尽きたスポーツマンのように生気を失って項垂れる咲良の写真だった。

「はあ〜〜〜」

 周は頭を抱えて深い溜息を吐いた。そのまま床を貫通して下にある咲良の教室にめり込んでしまいそうな程の溜息だった。

「なに南どうしたの」
「幼馴染がちょっとね」
「あ! もしかしてあのイケメン⁉︎ なあなあアイツまだなんの部活も入ってないんだよな? だったらさ、陸部とかどう? アイツ足速かったって色んな奴から聞いてるし顧問もスカウトしてるらしんだけどさ」
「西田、再来週テストだよ」
「はぅっ」

 心臓を両手で押さえてその場に項垂れた見るからにスポーツマンな西田を尻目に周はさっさと帰宅の準備をして立ち上がりバッグを肩に掛ける。周の所属している茶道部は基本的に部活参加が自由だ。だから余程のことが無い限りテストの二週間前から周は部活を休むようにしているのだ。

「じゃあお疲れ」
「お疲れー…。あ、でも南! マジで幼馴染に声掛けといてくれよ! 才能あんのに勿体ねえって!」
「…ああ、まあ覚えてたらね」

 煮え切らない返事をして周は教室の後ろのドアから出る。
 そのまますぐそばにある階段を使って一階に降りると一年一組の教室へと顔を覗かせる。
 見慣れない先輩の登場に教室に残っている何人かの一年生が周の方を見るから少し気まずいけれど目当ての人物はいるかなと視線を巡らせれば案外すぐに発見することができた。

「あ、あーくん! おい錦ー、あーくん来たぞ生き返れー」
「…あまね…?」
「そうあーくん。こいつウケるよね、テストって聞いた瞬間からマジでこんなんでさ」
「うん、まあ予想は出来てたからなぁ。教えてくれてありがとうね良雄(よしお)
「こんくらいヨユー。そんじゃ俺部活行くね! おっつー!」
「頑張れ。あと良雄もちゃんと勉強するんだよ」

 癖っ毛をふよふよと跳ねさせながら太陽みたいな明るい笑顔と一緒に手を振って教室から出て行った幼馴染の姿を見送ってから周はまだ沈没気味な咲良を見ると隣に行ってしゃがむ。

「咲良」
「…テスト、嫌いだ…」

 見上げた咲良の顔はこの世の終わりと形容しても差し支えないほど絶望に染まっていた。相変わらず勉強が嫌いだなと周は息を小さく吐くが表情は柔らかい。

「うん、知ってる。勉強教えるから一緒に頑張ろう」

 いつもならここで力無く頷くのだが今日の咲良はなにやら複雑そうな顔をした。眉を寄せ唇をむぐむぐと動かして、目には悔しそうな感情すら見える。

「?」

 首を傾げた周を見て咲良は非常に言いづらそうに口を開いた。

「……カッコ悪い。…俺、アピールするって言ったばっかなのに…」
「……」

 耳を澄ませていなければ聞こえない程の小さな声に思い出したのは今朝の出来事。ああ確かに言っていたなと思いはするものの、今はそれに気まずさを抱くことはなかった。むしろ少し、笑いそうになっていた。

「なんで笑うんだよ」

 どうやら堪えきれていなかったらしい。不満だと隠す気もない顔と声で訴えられた言葉に周は今度こそ吹き出すように笑った。

「あはは、ごめん。今更だなぁって思って」
「え」

「咲良が勉強苦手なんてこと子供の頃から知ってるよ。だからそこで嫌になるなんてことない。だからえーっとその、安心して?」

 不満げな顔が言葉を理解し始めて徐々に和らぎ、最終的になんとも言えない顔をして机に突っ伏した姿を見て目を丸くする。どうしたのかと声を掛けようとしたとき「沼…」とくぐもった声が聞こえたけれど周は意味がわからず首を傾げることしか出来なかった。


 ───


「それでもさ」

 放課後、昨日と同じ時間帯の周の家の周の部屋に二人は折り畳み式のローテーブルに向かいあうようにして座っていた。
 一年の教科書と咲良のノートを広げて勉強を教えている最中に空気を切るように言葉を発したのは咲良だった。

「ちょっとは、その、警戒とかしねえの」

 少しだけ居心地悪そうに訴えられた言葉に周を目を瞬かせた。

「しないかな」

 あっけらかんと言い放った周に咲良は悔しそうに表情を歪める。今日の咲良は表情が豊かだなと対照的に周の口角は上がって不思議な空間が出来上がっていた。

「だって咲良はしなきゃいけないことをほっぽり出しておれをどうにかしようなんて思わないでしょ。そんなことしたらおれが怒るって知ってるから」
「……」

 唇を噛んで言葉に詰まっている様子に笑みを深める。

「じゃあ勉強に戻ろうか。入学してすぐのテストだから範囲は狭いし、内容も中学の時の復習みたいなのも多いから大丈夫だよ。とりあえず咲良は文章問題だなぁ」

 一年の教科書をペラペラと捲りながら去年の今頃の記憶を掘り返す。自分の時はどんな問題が出ていただろうかと思いつつ咲良が苦手そうな部分に付箋を貼っていれば、その様子を見ていた咲良がぽつりと声をこぼす。

「…ありがと、あまね」
「…気にしないで」

 こくりと小さく頷いた咲良は見るからに元気が無い。
 今から苦手な勉強をしなくてはいけないし、教室で言っていた「格好悪い」という言葉が余計に落ち込ませているのだろうなと予測する。
 周は恋愛の経験値は少ない。むしろ皆無だと言っていい。だからこそ咲良の気持ちは理解しきれない部分があるが、周自身が感じたことのある感情とリンクするものがあるとするならば“年下には格好いいところを見せたい”という欲かなと思う。

 それなら今の落胆のしようも少しだけわかる気がする。
 気がするのだが、正直周にとって咲良はかわいい後輩で幼馴染で弟のようなものだ。そんな存在が目の前で落ち込んでいるのだから甘やかさないわけにはいかないのである。
 周は軽く身を乗り出して右手を伸ばした。そして欲望の赴くまま丸くて形のいい頭とサラサラの髪を撫で回す。

「は⁉︎」

 驚愕した顔の咲良が目を見開くが周の手が頭にあるせいで顔を上げられずなすがままになるほかない。

「ちょ、ま、あまね…っ」
「んー?」
「クッソ、ガキ扱いすんなっ」
「嫌なの?」

 そう訊くと、咲良は押し黙った。
 そこから周は勝利を確信した笑顔で咲良の頭を撫で回した。その間咲良はなんとも言えない顔で撫でられ続け、勉強会が終わった後はどこか疲れた様子で帰路に着いたとか。
 白高の五月から六月下旬にかけては何かと忙しい。
 なぜかといえばその間に中間テストと体育祭があるからである。テスト期間中に組み分けがあり委員会別に放課後集まって仕事の割り振りがあったり競技の内容を決めたりとやることがそれなりにある。
 けれど忙しいのも案外楽しいもので、特に委員会活動は普段関わりのない他学年の生徒とも話せる機会であり周はそれなりに充実した日々を過ごしていた。ちなみに周と咲良は同じ放送委員会で、この前の集会の時は居眠りしているところを咲良に見られたばかりだ。
 さて──不安だった咲良の中間テストも無事終わった今現在、白高は熱気に包まれていた。

「走れーーーー!」
「負けんな諦めんなー!」
「頑張ってー!」

 怒号と声援が混ざる熱狂的な空間で選ばれし数名がグラウンドをひた走る。学年でも指折りの俊足を持つ男女が本気で走る姿は見ているだけでも心が奮い立つものがあるなと思いながら周は放送席のテントでのんびりと過ごしていた。
 体操服に体育祭の時にだけ身につける鉢巻を巻くだけの格好だが、女子は髪型やメイクも凝っている人がいる。周が所属している白組の応援団の女子は頬に雪の結晶を描いていたし紅組は炎だ。気合が入っている。

 周は運動が出来ないわけではない。でも得意でもない。徒競走に選ばれるはずもなければ騎馬戦にだって選ばれない。人数が足りない場所にひょこっと参加して後は応援に徹するのみだ。
 組対抗応援合戦も周は参加しない。あれは選ばれし光の人たちが行くものなのだ。

「南くん応援合戦今年も参加しないんだ?」

 放送席にて現在進行形で熱い実況をしている人の横に座っている女子が周の方を振り返る。昨年も同じ委員会だった三年の先輩だ。

「しません。リズム感が家出してるので」
「あー。応援合戦ってなぜか踊りがちだよね、しかも難しいやつ」
「今年は外国の女性グループのやつだから余計無理です」

 この人は放送委員の副委員長に当たる。委員長は今熱い実況をしている男子の先輩だ。プロも顔負けなんじゃ無いかと思う程の名実況に会場が沸いている。来年は誰がこの人の後を継ぐんだろうかと少し遠い目になった。周は来年も放送委員を志望するつもりだが、もちろんこんな実況は出来ない。来年に期待かな、なんて思いながらグラウンドを見る。
 すると徒競走の一年男子が最終組らしく、委員長のまるでプロレスの選手紹介のような癖のある巻舌で参加者の名前が挙げられていく。
 最早なんと言っているのかが分からないほど怪しくはあるのだが、最後の二人の名前ははっきりとわかった。思わず顔を選手側に向けると、何やら黄色い声も聞こえて周は目を丸くする。

「おおっと入学して僅か二ヶ月ですでに女子のハートを射抜いているのか錦咲良! ずるいぞイケメン直江良雄! これは完全に私情ですがこの二人には派手に転んでいただきたい!」

 生徒たちのテントから笑いが起きて遠目からでも咲良が居心地悪そうに顔を顰めているのがわかる。それに間違いなければすごい顔で委員長を睨んでいるが、これはまあ仕方がないよなと周は苦笑する他なかった。それに比べて良雄は全方位に投げキッスを送るというファンサービスを行なっていた。まるで正反対の二人の様子に会場はさらに盛り上がる。

「南くん幼馴染なんだよね、錦くんと」

 副委員長が視線を選手たちに向けたまま周に話し掛ける。

「誰から聞いたんですか?」
「聞いたというか勝手に耳に入ってくるというか。有名って程でもないけどたまに話題になるよ、女子の間で」
「ああ、まあ目立ちますもんね咲良。良雄もだけど」

 パン、とピストルの音が鳴り、大きな声援が上がる。
 スタートからゴールまではグラウンド約半周分の距離、ほんの少し目を離していたらすぐに終わってしまう数秒の出来事。力を入れて応援するタイプではないのだが、幼馴染二人の対決とあっては黙っていられず、周は思わず立ち上がる。周以外にも放送委員の全員が立ち上がって咲良やみんなのことを応援していた。
 鉢巻をたなびかせながら走る二人の姿を見て風のようだなと、そう思った。

「おおっと速い速い! 紅組錦咲良と白組直江良雄の一騎打ちだー!」

 幼馴染二人の大奮闘に周は内心大興奮だ。多分他の幼馴染たちも周と同じ気持ちだろう。小学も中学も徒競走での二人の競走は名物と呼んでも差し支えなかった。
 高校に入れば人数も多くなるしきっと見られなくなるのだろうなと思っていた対決がまさか実現するとは夢にも思わず、手に汗握る展開に拳をぎゅっと握った。
 必死に走る二人が放送席の前に差し掛かる。意識せず周は大きく息を吸った。

「二人とも頑張れー!」

 ゴールテープは放送席からよく見える場所にある。周の声援が消える間際に真っ白なゴールテープが切られ、ピストルが鳴った。
 ほとんど同着でゴールに飛び込んだ二人。肉眼では勝敗の見分けが付かないほどの接戦だったが、勝者が拳を高く天に突き上げた。

「あああクッッソ負けたーーー!」

 グランドに五体投地したのはふわふわの癖っ毛。つまり、咲良の勝利だ。

「おおおおっと! バスケ部期待のエースが帰宅部に敗れたーーー! 帰宅部の超新星の誕生だーーー!」

 わっと声のギアがまた一段と上がる。二人を称えるものから良雄への激励もあれば中には陸上部や運動部顧問や先輩方からの「錦―! 俺たちはお前を待っている!」そんな野太い声も混ざっていた。
 そんな熱烈なラブコールを無視して咲良は未だに倒れたままの良雄に手を貸して起き上がらせていた。二人が何やら話していたが咲良が良雄の背中を軽く殴ったあたりまた何か余計なことを言ったんだろうなと思いながら周は放送委員の椅子に座り直す。

 一年の徒競走が終われば次は二年三年と続き、それ以外にも綱引きや玉入れ、部活対抗のリレーなんかもあって時間はあっという間に過ぎていく。根っからの文系である周が参加する競技は運の要素が非常に強い障害物兼借り物競走だ。
 障害物はハードルや網などそう代わり映えのないものだが、借り物のクセが少し強いのだ。例えば先生の中で一番高そうな時計をしている人だとか、自分がちょっといいなと思っている人(性別不問)だとか、家でヨークシャーテリアを飼っていそうな人だとか、とにかくそういう「え?」となるお題が多いのだ。
 そんな感じだからか普通のお題の方が希少価値が高い。だがしかし周はその希少価値を引き寄せる運を持っていた。

「黒髪の同級生です」
「西田です!」

 グラウンドで参加者の阿鼻叫喚が轟く中周はさらりと同級生の西田とゴールテープを切り、そのまま何事もなく競技を終えるとまた放送委員のテントに戻る。するとそこには咲良の姿があった。

「おかえり」
「ただいま。一年のテントに行かなくていいの? 咲良いろんな競技に引っ張りだこって言ってなかったっけ」
「……あっちは視線とかがうぜえからやだ」
「ああ…」

 周は納得した。そしてさすがイケメンだなとも思った。今は実況休憩中の委員長も咲良の発言に眼鏡をくいっと押し上げながら「モテる男はつらいですなぁ」なんて欠片も思っていなさそうなことを笑いながら言っていた。
 咲良はそんな委員長を見て苦虫を噛み潰したような顔をしている。けれど先輩相手に咲良は失礼な態度を取ることはない。良い子だなと周は深く頷きながらその様子を眺めていれば現在進行中の三年生による障害物兼借り物競走でグラウンドにどよめきが広がった。
「お姫様抱っこだーーーーーー‼︎」

 委員長の代わりに実況を担っている二年生女子の声が高らかに響く。

「うおおおおおおおお‼︎」

 三年生のテントから猛烈な勢いで走って来るのはお調子者と名高い野球部の少年、そしてその腕に抱えられているのはいがぐり頭がキュートな見た目からして活発そうな野球少年だ。

「きゃああああああ‼︎」

 絹を裂くような悲鳴が聞こえる。発しているのはいがぐり少年だ。

「おおっとこれはなんということでしょう! 坊主が坊主を抱きかかえています! この状況をどう見ますか委員長!」
「いやぁ実に興味深いですねぇ。お題が気になるところです」

 休憩中だったはずの委員長が実況席に戻っていた。
 光が当たらない場所のはずなのに眼鏡がきらりと光ったような気がする。

「野球部ペアがこのまま一位を掻っ攫うのかー⁉︎ いいやまだまだ! 背後から猛然と三年牧田が追い縋る! 手に持っているのは…スカートだーーー! きましたスカートです! 白高名物女子に土下座してスカートを借りるという悪魔的カード! まさか三年のレースに潜んでいました! お姫様抱っこ野球部、速さで不利か⁉︎」

 野球部と三年牧田の魂の叫びがグラウンドに響き渡る。両名真剣な顔でゴールを目指しているのに腕に抱えられた生気のないもう一人の野球部と誰かのスカートがたなびく光景がシュール過ぎて最早芸術的なものにすら映る。
 ほぼ真横に並んだ状態でのゴール──勝者はスカートを天へと突き上げた。

「牧田選手だーーーーーー! 熾烈な戦いを制したのは牧田選手! 野球部ペアは惜しくも二位という結果に終わりました。それでは気になるお題の発表ですね」

 まだまだ競技の最中だがその場にいる全員の視線が野球部に向いた。用意されているマイクの側に行き、神妙な面持ちでくしゃくしゃになった指示書を係に渡す。それを受け取った係は内容をしかと確認した後に連れてこられた未だに生気のない顔のいがぐり頭と、生徒のテント方へと顔を向ける。
 そして再び野球部の方へと向き直り「お疲れ」と戦友を慰めるように肩を叩いた。

「ただいまのお題は──、同じ部活の中で一番可愛い子でした!」

 高らかに告げられたお題に野球部二人は膝から崩れ落ちた。周囲は爆笑である。これが男女混合の部活動であれば甘酸っぱい空気にでもなったかもしれないが我が白高野球部には男子しかいない。その状態であのカードを引いてしまうとこんな場面が出来上がってしまうのだ。
 周はその様子に同情の視線を向けていたが、隣に座る咲良は何やら真剣な顔をしていた。

「…俺、来年これ出る」
「え」
「かわいい人連れてこいとかってやつ引けたら、周と走れる」
「………」

 非常に真剣な顔をしていた。そうなる未来を信じて疑っていない曇りひとつない目でグラウンドを見ながら咲良はそう言った。周の顔は菩薩のように穏やかだ。

「咲良──」

 ぽん、と肩に手を置いた。

「仮に来年本当にそのお題が当たったとして、咲良が本当におれを連れ出すつもりなら」

 すう、と薄く目を開くと咲良の肩が猫のようにびくっと跳ねる。

「怒るよ」
「…はい」

 グラウンドではまだ競技が続いていた。



 ───



 体育祭も無事に終わり後片付けも終わった頃。
 この日ばかりは全校生徒の下校時間が同じである。まだ夕方にもならない時間帯の玄関の外には体操服姿のままの生徒が溢れており、この大多数が今日はバスではなく保護者の車で帰ることになるのだろう。
 周の親も見にきてはいたが家もそこまで遠くない為今日も自転車だ。いつもならゆっくりと帰るのだが、今日は少しだけ事情が違う。

 その理由は単純にして明快、体育祭の日は南家と錦系で集まって焼肉をすると決めているからである。周も咲良も健康な高校生男子、そして今日は体育祭という普段よりも格段に体を動かした後。つまり腹ペコだったのだ。
 普段自転車を漕ぐ音がキコキコなのだとしたら今はガシャガシャだ。立ち漕ぎ寸前の勢いで二人は猛然と坂すらも登っていくのだが、やはり限界は来るもので中腹辺りで自転車から降りて歩き出す。
 当然二人の息は荒いが足は止まらずなんなら無言のまま先へ進み、頂上に到達すると再び自転車に跨ってそこからは麓まで快適な道だ。

 山の中は濃い緑の匂いが立ち込めていて、頬を打つ風の温度も随分と温くなってきた気がする。猛スピードで坂を下りながら周は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
 むせ返るような草木の匂いがする。夏がすぐそばにまで来ている、そんな香りだった。
 坂を下れば家までは早いもので五分程度ペダルを漕げば周の家に到着する。夕方前だというのに既に庭では周の両親が焼肉用の台と机などをセッティングしており、近所の漁師から貰ったらしい魚介類が焼かれていた。

「おかえり坊主共。先やってるよ」

 木陰に椅子を出して座っているひっつめ髪のおばあさん、フミがはきはきとした声を発して飲みかけのビールの缶を鷹揚に上げた。二人はそれに声を合わせて「ただいま」と答えるがフミを見た咲良の眉間には皺が寄っている。

「もう酒飲んでんのかよ早えよ」
「こんな上等なツマミがあるってのに飲まずにいられるかい。さああんた達もさっさと手洗ってこっちおいで」
「ばあちゃんここあまねの家」
「いいのよぉさっくん。ここはフミちゃんとさっくんの家でもあるもの」
「そういうこった。さあ早くおし、あたしゃ肉も食べたいんだよ」

 フミと祖母トメのやりとりに周は笑みをこぼして頷くとまだ少し納得していないような、ただ単に恥ずかしがっているだけのような顔をしている咲良の腕を引いて家の中へと連れて行く。
 本当ならすぐにでも風呂に入りたいところだが、これからすぐ炭の匂いに染まるのだと思えば風呂に入るだけ無駄だというのはもう二人とも経験から知っている。キッチンで忙しそうに色々やっている母に二人でただいまと告げて洗面所に向かい、まずは周が手を洗って次は咲良。
 それが終わると二人でキッチンに顔を出すのももう恒例行事だった。

「母さん、何か手伝う?」
「あー助かるー! さっくんはおにぎり持ってってくれるー? 周はみんなの分の割り箸と、あと紙コップ。紙皿なんかも持ってって。どうせ匂い嗅ぎつけて漁師共が来るんだから多めに持ってっていいわよ」
「はーい」

 バタバタと焼肉に向けての準備を進めていく。
 材料や箸などを持っていけば焼く係になっている父親から問答無用で二人ともおにぎりを口に放り込まれて小腹を満たす。それを食べ終えるとまた家に戻って何かを持ってきてを数回繰り返すと庭には立派な焼肉会場が出来上がった。

「焼けたのどんどん盛っていくから沢山食べるんだよー」

 周とそう変わらない身長だが全体的なフォルムが丸く、お腹がぽこりと出ている見るからに柔和な人物が首に掛けたタオルで汗を拭いながら笑顔で息子たちに焼けたばかりの肉が盛られた皿を渡す。

「ありがとおじさん」
「父さんもちゃんと食べるんだよ」
「焼きながら食べてるから大丈夫だよー」

 周の父、(まさる)はトメによく似た笑顔で頷いた。
 そして腹を空かせた高校生男子二人の意識はすっかり盛られた肉に向けられ、どちらともなく手を合わせると目を輝かせた。

「いただきます!」