「おかしい」
入学式が終わって一ヶ月が経った五月。吹けば僅かな肌寒さを感じさせた風も今は随分と心地良く感じ始めた頃、今日も今日とて早めに登校していた二人は周の教室で人が来るまでの間一緒にいた。
けれど今日は咲良が椅子に座った途端机に頬杖をついていかにも不満ですといった顔と声で周を見る。何がおかしいのか皆目見当もつかない周は数回瞬きをしてから首を傾げる。
「何が?」
「…高校入ったら、もっとあまねと話せると思ってた」
「ああ」
一瞬言葉に詰まった咲良がバツが悪そうに周から目を逸らし拗ねたように呟いた言葉に周は納得したように頷いた。
「中学の時とは違うよね、やっぱり」
二人が通っていた中学は人が少なかったから一年から三年までの教室が横並びだったのもあって教室間の行き来がとてもしやすかった。何より学校全員が幼馴染といっても過言ではない環境だったから、休み時間の度に他学年がどの教室にいても違和感なんてなかった。
だけど高校は違う。階によって学年は別れているし人数が違う。親しい友人グループは2年にもなれば出来上がっているし選択教科による教室の移動なんかもあって正直学年が違う二人が以前と同じような時間を過ごすことは不可能に近かった。
「でも朝はこうして話せてるし、部活がない日は一緒に帰れてるじゃん」
「中学の時は毎日一緒に帰ってた」
「そりゃ部活も一緒だったからねぇ。咲良は部活入らないの?」
「入らねえ。遅くなったらばあちゃんが心配する」
「そっか、そうだったね。フミさん元気?」
周の問いかけに「元気」とシンプルに返した咲良はそれきり口を閉ざしてしまった。
(ありゃ、地雷踏んだかな)
その様子に慣れている周は焦ったり怒ったりせずただじっと咲良が喋り出すのを待つ。咲良は昔から拗ねると黙るクセがあった。否、拗ねているというのはまた違うかもしれない。上手く言葉に出来ない感情をゆっくりと自分の中で噛み砕いて理解しようとしている、と言った方が周自身も納得出来る。
咲良が思考タイムに入ったことで周も今どこが地雷だったのだろうかと考える。
考えて数秒も経たずすんなりと答えが出て、思わず口角が上がった。それと一緒に小さく呼吸が漏れたことで床を睨んでいた咲良の視線が上がり数秒ぶりに目が合う。
言葉はないけれど視線が「何?」と言っているのがわかって周はいっそう笑みを深くした。
「寂しかった?」
「はっ⁉︎」
瞬間的に顔が赤くなった姿に周はにまにまと心底楽しそうに笑う。どうやら図星だったらしい。
「さっくんはかわいいなぁ。ほらおいでお兄さんがなでなでしてあげよう」
「バッ、な、ガ…っ! 〜〜〜…」
馬鹿何言ってんだガキ扱いすんな、だろうかと推測しながら周は腕を広げた。その姿を見て咲良が悔しそうに歯噛みする。ほんの数秒の葛藤の後、バツが悪そうな表情のまま立ち上がり周の前に膝を着く。そのまま胸元に顔を寄せると咲良の腕が周の背に回った。
鼻のすぐそばに咲良のサラサラの髪が当たる。ふわりと香るのはシトラス系のシャンプーの香りだった。何年か前まではおばあさんのフミさんと一緒のメーカーの香りだったのになぁと思いながら周も咲良を抱き寄せて頭を撫でる。
「あ、膝汚れるねごめん」
「…別に良い」
「そか、ありがとう」
「……なああまね」
「ん?」
のそりと腕の中で顔を上げた咲良と目が合う。長い睫毛に縁取られた綺麗な目と視線が絡み、相変わらずイケメンだなぁと思いながら指通りのいい髪を梳くように撫でていると心地良いのか咲良の目が猫のように細められて思わず周の喉から変な音が鳴りそうだった。
猫みが強いんだよなぁ…! そう思っているなんて本人には絶対に伝えられないけれど、周はこの幼馴染が見せる甘えた様子がいっとう好きだった。
「こういうの、誰にでもしてんの?」
「え、こういうのって、これ?」
「そう、これ」
思い返す限りこんなことは咲良にしかしていないなと天井を見ながら結論づけて視線を戻す。
「うん、さっくんだけだよ」
「…そう」
満足そうに息を吐いた咲良が再び周の胸元に顔を埋める。そこで深く呼吸をされると温かい息がシャツ越しに肌に当たってくすぐったいと笑う。
「なあ、なんで俺のこと未だにさっくんって呼ぶの」
くぐもった声が訊いてくる。
「かわいいなって思った時は無意識にさっくんって呼んでる」
「……俺、もう高校生なんですけど」
「うん、でも年下じゃん?」
「たった一年じゃん」
「されど一年だよ」
反論出来なくなったのかまた黙りこくった咲良が胸元にぐりぐりと額を擦り付ける。機嫌よ治れと思いながら頭を撫でていれば思いの外咲良が離れてくれなくて時間は順調に過ぎていく。
朝の八時が過ぎた頃、ちらほらと人が来る気配がしてぽんぽんと背中を叩く。
「さっくん、そろそろ教室行きな」
「ん…」
「今日は部活ないから一緒に帰ろう? 放課後連絡する」
「ん」
渋々、本当に渋々といった様子で周から腕を離した咲良が「またね」と告げてスクールバックを持ち教室の後ろのドアから出て行く。それから三分も経たずに前のドアから同級生が入ってくる。おはようなんて軽い挨拶をしてから昨日のテレビの話とか宿題の話とかをして親しい友人がやって来るとその人達と話してあっという間に時間は過ぎて行く。
周は真面目な性格だった。教科書を置き勉なんてことはしないし、予習復習も欠かさないおかげで成績もそれなりに良く、また空気もそれなりに読めて波風を立てずに生きて行くのが得意なタイプだった。
クラスで特に目立つわけではないけれど分け隔てなくどんなグループとも話せる、それが周だ。
だから休み時間は常に友人といるし、昼食だって一緒に食べる人は決まっている。部活がある日なんかは放課後まで誰かといるのだから、確かに咲良との時間が全くと言っていいほど学校ではないなと周が思ったのは玄関で靴を履き替えている頃だった。
もう咲良は駐輪場に到着しているらしくて周はきちんと靴を履いた後心持ち早歩きで坂を下る。そうは言っても白高の坂は急である。早足で下っていれば自然と歩幅は大きくなり最終的にほとんどダッシュと同じ速度で下り切ると平坦な道になったと同時に膝に両手を着いて肩で息をする。
息を整えるのもそこそこに顔を上げて校門のすぐ横に建てられた駐輪場を見れば一年の場所に自転車に跨った咲良がいるのが見えた。スマホを見ていてまだ周には気付いていない様子だ。周はそのまま2年の自転車置き場に行って入学祝いに祖母に買って貰った自転車のスタンドを軽く蹴って咲良のもとへ向かう。
「ごめんごめん、待った?」
「そんなに。……なんで息切れしてんの?」
「走った」
「なんで。ゆっくりで良いって言ったじゃん」
「咲良が待ってるんだよなぁって思ったら走ってた」
「…そうかよ」
また咲良が黙るがこれは照れ隠しだと分かっている周は何も言わず、二人並んで自転車を漕ぎ始めた。
高校から二人の地元まで一つ山を越えて大体四十分程の距離がある。
港町を自転車で走ってから長く険しい坂に差し掛かるのだが周はここを高確率で自転車から降りて登っていた。理由は簡単だ、非常に疲れるからである。
それに今日は咲良と帰る日だから必然的に自転車から降りてゆっくりと坂道を登る。
「母さんが今日の晩御飯唐揚げだって言ってた。持って帰る?」
「ん、そうする。おばさんの唐揚げばあちゃんも好きだし」
「フミさん今年で何歳だっけ。揚げ物食べれるのすごいよねぇ」
「すげえ元気。多分俺より元気」
咲良には両親がおらず、母方の祖母であるフミが女でひとつで育てている。だからというわけではないが二人は家族ぐるみの付き合いをしていてこうやって夕飯のおかずを持って帰らせることなんてしょっちゅうだ。高校に入ってからは減ってしまったが周たちはお互いの家で寝泊まりすることも珍しくなかったし、お互いがお互いの家を「もう一つの実家」と思っている部分もある。
それに周の家族(特に母と祖母)は咲良のことが大好きだった。
この田舎では珍しい程見た目が整っていて礼儀正しく良い子な咲良は周の両親や祖母にとても可愛がられているし、周だって咲良のことを可愛がっている。
家族全員が咲良のことをもう一人の家族と思って接しているのだ。もちろん咲良の祖母であるフミのことも大好きだが、そもそも周の祖母とフミが何十年来の親友だからこそこの縁が成り立っているのである。
咲良の祖母であるフミは一言でいえば元気だ。未だに畑仕事は毎日しているし海産物加工の仕事にも勤めている。家事だってお手の物で病気知らずの巷でも噂の元気印のお婆さんだ。そのフミと咲良は二人で元々民宿だった建物をリノベーションした物件に住んでいる。
夕飯の話だったり学校の話だったりと話題は尽きず、気が付けば下り坂に突入していて二人は自転車に跨り周を先頭にして長くて急な坂を一気に下る。五月の風は良い感じに涼しくて心地良さすら覚えるけれど、車輪はしゃかりきに回って結構なスピードが出ている。
ここで小石なんかに引っ掛かれば間違いなくバランスを崩して吹き飛ぶんだろうなんて縁起でもないことを考えつつも二人は難なく坂を下って海の方へと向かってペダルを漕ぐ。
たまにすれ違う老人が「おかえり」なんて言ってくれるのも日常でそれに「ただいま」と返して二人並んでそう広くもないガタガタとした道を進む。
坂の上から見下げた海のすぐそばにある漁港。そこから少し離れた場所でブレーキを踏むと二人とも似たようなタイミングで自転車を降りる。年季の入った木造の車庫の前でコンテナに座った老婆を見ると周はそのまま駆け寄った。
「ばあちゃんただいま。何してるの?」
「あーちゃんおかえりぃ。そら豆が取れたからねぇ、今皮をむいてるのよぉ」
「お邪魔します」
「あれまっ! さっくんじゃないのよぉおかえりなさい今日も男前ねえ、ようこそようこそ。さあさあおうち入りなさい。明子さーん! さっくんとあーちゃんが帰ってきたわよぉ!」
手慣れた様子でそら豆の皮を剥いて中身を取り出していた周の祖母であるトメは咲良を見るなり優しく垂れた目を少女のように輝かせてぱちぱちと手を叩いた。
うん、相変わらずの人気ぶりだなと周は頷きつつ車庫の中に自転車を停める。咲良といえば結構な頻度で顔を合わせているはずなのに毎回オーバーリアクションをする祖母に若干困惑気味だった。
けれど本気で嫌がっている訳ではないと知っているからか無理に間に入ることなく自転車のカゴからスクールバックを取り出して肩に掛けてから咲良の隣に行くと心なしかほっとしたように息を吐いた姿に面白くて口角が上がる。
「ばあちゃんそこら辺にしといてあげて」
「あらあらだめねえ、歳を取ると図々しくなっちゃって」
「大丈夫だよ、咲良照れてるだけだから。じゃあ家入ろっか」
「…ん」
幼い頃から南一家は咲良のことをほめそやしてきた自覚がある。それなのに未だに褒められることに慣れていない咲良の姿に周もトメも似たような顔で笑うと、決まって咲良はバツが悪そうに視線を外す。
ぽんぽんと背中を叩いて家へと促すと玄関を開けた先で待っていたのは周の母である明子で、名前の通り明るい声と笑顔で「おかえり」と告げた後は息子には目もくれず咲良に歓迎のマシンガントークをお見舞いする。それもいつものことだなと先に靴を脱いで手洗いうがいを済ませてまた玄関に戻ると咲良はもうぐったりとしていた。なんとなく、オーラが。
「咲良も手洗いしておいで」
そう助け舟を出すと咲良は頷いて「お邪魔します」と小さく挨拶した後すれ違い様に周を恨めしく見るのだがそんな姿すら可愛らしいのだから周の口角はまた緩く上がってしあった。
明子といえばマシンガントークで満足したらしく足取りも軽くリビングへと戻って行き、扉を締め切る前に思い出したように周を見て「おやつ持っていきな」とやけに男前なジェスチャーでキッチンに来いと息子を促す。
それに逆らわずキッチンに行けば持たされたのは手のひらよりも一回り大きな菓子盆に盛られた洋菓子と和菓子。ありがとうとお礼を言ってから玄関に戻ると咲良がいた。
「先に上がっててよかったのに」
「諸事情で無理」
「なんだそれ」
咲良が妙に真剣な顔で言うからおかしくて笑ってしまう。
また恨めしそうな目線を貰ってしまったが周は気にすることなく階段を上がって奥側にある扉のドアノブを回して部屋に入った。
六畳のフローリングの部屋にはベッドと勉強机、本棚。壁には小学生の頃に貼った漫画のポスターが貼りっぱなしだし、特にこれといった拘りのない普通の部屋だ。周の部屋に来たときは二人でベッドの前に並んで座るのがなんとなくのお決まりになっている。
中学生の頃は漫画を読んだりゲームをしたりしていたが高校に入ってからはそういうこともせずのんびりと会話を楽しんでいた。
「あ、そういえばさ」
「ん?」
スマホで最近よく見ている動画を共有していると不意に写ったどこの誰かもわからない『イケメン高校生』なんてタグで紹介されている男子高校生の姿にふと顔を咲良の方に向ける。
「クラスの女子がさ、一年にイケメンいるよねって話してて」
「…うん」
「咲良のことだったよ」
「……あ、そ」
「え、嬉しくないの?」
周の言うことを予想していたのかはたまたもう聞いていた事だったのかさして興味も無さそうに返事をした咲良は映っていた男子高校生の動画をスワイプして次の物を再生する。今度は可愛らしい動物の動画で、子猫が大型犬とじゃれている姿だ。
「…褒められてるってわかるからまあ悪い気はしねえけど、嬉しいって程じゃない。でもどうでもいい」
「えー、おれイケメンなんてただの一回も言われたことないから素直に羨ましい」
「あまねがイケメン…?」
ぼんやりと動画を見ていた咲良が周の方に顔を向けた。
整った顔にじっと見つめられると妙な居心地の悪さを感じて無意識に背筋が伸びる。
ふ、と柔らかく咲良が微笑って左手が伸び、周の頬を人差しの指の背でほんの少しだけ触れた。
「あまねは可愛いでしょ」
イタズラっぽい顔で告げる顔は同じ男なのに見惚れてしまうくらいなんというか様になっていて、周は思わず下唇をきゅ、と噛んだ。なんだか悔しいと感じた。
入学式が終わって一ヶ月が経った五月。吹けば僅かな肌寒さを感じさせた風も今は随分と心地良く感じ始めた頃、今日も今日とて早めに登校していた二人は周の教室で人が来るまでの間一緒にいた。
けれど今日は咲良が椅子に座った途端机に頬杖をついていかにも不満ですといった顔と声で周を見る。何がおかしいのか皆目見当もつかない周は数回瞬きをしてから首を傾げる。
「何が?」
「…高校入ったら、もっとあまねと話せると思ってた」
「ああ」
一瞬言葉に詰まった咲良がバツが悪そうに周から目を逸らし拗ねたように呟いた言葉に周は納得したように頷いた。
「中学の時とは違うよね、やっぱり」
二人が通っていた中学は人が少なかったから一年から三年までの教室が横並びだったのもあって教室間の行き来がとてもしやすかった。何より学校全員が幼馴染といっても過言ではない環境だったから、休み時間の度に他学年がどの教室にいても違和感なんてなかった。
だけど高校は違う。階によって学年は別れているし人数が違う。親しい友人グループは2年にもなれば出来上がっているし選択教科による教室の移動なんかもあって正直学年が違う二人が以前と同じような時間を過ごすことは不可能に近かった。
「でも朝はこうして話せてるし、部活がない日は一緒に帰れてるじゃん」
「中学の時は毎日一緒に帰ってた」
「そりゃ部活も一緒だったからねぇ。咲良は部活入らないの?」
「入らねえ。遅くなったらばあちゃんが心配する」
「そっか、そうだったね。フミさん元気?」
周の問いかけに「元気」とシンプルに返した咲良はそれきり口を閉ざしてしまった。
(ありゃ、地雷踏んだかな)
その様子に慣れている周は焦ったり怒ったりせずただじっと咲良が喋り出すのを待つ。咲良は昔から拗ねると黙るクセがあった。否、拗ねているというのはまた違うかもしれない。上手く言葉に出来ない感情をゆっくりと自分の中で噛み砕いて理解しようとしている、と言った方が周自身も納得出来る。
咲良が思考タイムに入ったことで周も今どこが地雷だったのだろうかと考える。
考えて数秒も経たずすんなりと答えが出て、思わず口角が上がった。それと一緒に小さく呼吸が漏れたことで床を睨んでいた咲良の視線が上がり数秒ぶりに目が合う。
言葉はないけれど視線が「何?」と言っているのがわかって周はいっそう笑みを深くした。
「寂しかった?」
「はっ⁉︎」
瞬間的に顔が赤くなった姿に周はにまにまと心底楽しそうに笑う。どうやら図星だったらしい。
「さっくんはかわいいなぁ。ほらおいでお兄さんがなでなでしてあげよう」
「バッ、な、ガ…っ! 〜〜〜…」
馬鹿何言ってんだガキ扱いすんな、だろうかと推測しながら周は腕を広げた。その姿を見て咲良が悔しそうに歯噛みする。ほんの数秒の葛藤の後、バツが悪そうな表情のまま立ち上がり周の前に膝を着く。そのまま胸元に顔を寄せると咲良の腕が周の背に回った。
鼻のすぐそばに咲良のサラサラの髪が当たる。ふわりと香るのはシトラス系のシャンプーの香りだった。何年か前まではおばあさんのフミさんと一緒のメーカーの香りだったのになぁと思いながら周も咲良を抱き寄せて頭を撫でる。
「あ、膝汚れるねごめん」
「…別に良い」
「そか、ありがとう」
「……なああまね」
「ん?」
のそりと腕の中で顔を上げた咲良と目が合う。長い睫毛に縁取られた綺麗な目と視線が絡み、相変わらずイケメンだなぁと思いながら指通りのいい髪を梳くように撫でていると心地良いのか咲良の目が猫のように細められて思わず周の喉から変な音が鳴りそうだった。
猫みが強いんだよなぁ…! そう思っているなんて本人には絶対に伝えられないけれど、周はこの幼馴染が見せる甘えた様子がいっとう好きだった。
「こういうの、誰にでもしてんの?」
「え、こういうのって、これ?」
「そう、これ」
思い返す限りこんなことは咲良にしかしていないなと天井を見ながら結論づけて視線を戻す。
「うん、さっくんだけだよ」
「…そう」
満足そうに息を吐いた咲良が再び周の胸元に顔を埋める。そこで深く呼吸をされると温かい息がシャツ越しに肌に当たってくすぐったいと笑う。
「なあ、なんで俺のこと未だにさっくんって呼ぶの」
くぐもった声が訊いてくる。
「かわいいなって思った時は無意識にさっくんって呼んでる」
「……俺、もう高校生なんですけど」
「うん、でも年下じゃん?」
「たった一年じゃん」
「されど一年だよ」
反論出来なくなったのかまた黙りこくった咲良が胸元にぐりぐりと額を擦り付ける。機嫌よ治れと思いながら頭を撫でていれば思いの外咲良が離れてくれなくて時間は順調に過ぎていく。
朝の八時が過ぎた頃、ちらほらと人が来る気配がしてぽんぽんと背中を叩く。
「さっくん、そろそろ教室行きな」
「ん…」
「今日は部活ないから一緒に帰ろう? 放課後連絡する」
「ん」
渋々、本当に渋々といった様子で周から腕を離した咲良が「またね」と告げてスクールバックを持ち教室の後ろのドアから出て行く。それから三分も経たずに前のドアから同級生が入ってくる。おはようなんて軽い挨拶をしてから昨日のテレビの話とか宿題の話とかをして親しい友人がやって来るとその人達と話してあっという間に時間は過ぎて行く。
周は真面目な性格だった。教科書を置き勉なんてことはしないし、予習復習も欠かさないおかげで成績もそれなりに良く、また空気もそれなりに読めて波風を立てずに生きて行くのが得意なタイプだった。
クラスで特に目立つわけではないけれど分け隔てなくどんなグループとも話せる、それが周だ。
だから休み時間は常に友人といるし、昼食だって一緒に食べる人は決まっている。部活がある日なんかは放課後まで誰かといるのだから、確かに咲良との時間が全くと言っていいほど学校ではないなと周が思ったのは玄関で靴を履き替えている頃だった。
もう咲良は駐輪場に到着しているらしくて周はきちんと靴を履いた後心持ち早歩きで坂を下る。そうは言っても白高の坂は急である。早足で下っていれば自然と歩幅は大きくなり最終的にほとんどダッシュと同じ速度で下り切ると平坦な道になったと同時に膝に両手を着いて肩で息をする。
息を整えるのもそこそこに顔を上げて校門のすぐ横に建てられた駐輪場を見れば一年の場所に自転車に跨った咲良がいるのが見えた。スマホを見ていてまだ周には気付いていない様子だ。周はそのまま2年の自転車置き場に行って入学祝いに祖母に買って貰った自転車のスタンドを軽く蹴って咲良のもとへ向かう。
「ごめんごめん、待った?」
「そんなに。……なんで息切れしてんの?」
「走った」
「なんで。ゆっくりで良いって言ったじゃん」
「咲良が待ってるんだよなぁって思ったら走ってた」
「…そうかよ」
また咲良が黙るがこれは照れ隠しだと分かっている周は何も言わず、二人並んで自転車を漕ぎ始めた。
高校から二人の地元まで一つ山を越えて大体四十分程の距離がある。
港町を自転車で走ってから長く険しい坂に差し掛かるのだが周はここを高確率で自転車から降りて登っていた。理由は簡単だ、非常に疲れるからである。
それに今日は咲良と帰る日だから必然的に自転車から降りてゆっくりと坂道を登る。
「母さんが今日の晩御飯唐揚げだって言ってた。持って帰る?」
「ん、そうする。おばさんの唐揚げばあちゃんも好きだし」
「フミさん今年で何歳だっけ。揚げ物食べれるのすごいよねぇ」
「すげえ元気。多分俺より元気」
咲良には両親がおらず、母方の祖母であるフミが女でひとつで育てている。だからというわけではないが二人は家族ぐるみの付き合いをしていてこうやって夕飯のおかずを持って帰らせることなんてしょっちゅうだ。高校に入ってからは減ってしまったが周たちはお互いの家で寝泊まりすることも珍しくなかったし、お互いがお互いの家を「もう一つの実家」と思っている部分もある。
それに周の家族(特に母と祖母)は咲良のことが大好きだった。
この田舎では珍しい程見た目が整っていて礼儀正しく良い子な咲良は周の両親や祖母にとても可愛がられているし、周だって咲良のことを可愛がっている。
家族全員が咲良のことをもう一人の家族と思って接しているのだ。もちろん咲良の祖母であるフミのことも大好きだが、そもそも周の祖母とフミが何十年来の親友だからこそこの縁が成り立っているのである。
咲良の祖母であるフミは一言でいえば元気だ。未だに畑仕事は毎日しているし海産物加工の仕事にも勤めている。家事だってお手の物で病気知らずの巷でも噂の元気印のお婆さんだ。そのフミと咲良は二人で元々民宿だった建物をリノベーションした物件に住んでいる。
夕飯の話だったり学校の話だったりと話題は尽きず、気が付けば下り坂に突入していて二人は自転車に跨り周を先頭にして長くて急な坂を一気に下る。五月の風は良い感じに涼しくて心地良さすら覚えるけれど、車輪はしゃかりきに回って結構なスピードが出ている。
ここで小石なんかに引っ掛かれば間違いなくバランスを崩して吹き飛ぶんだろうなんて縁起でもないことを考えつつも二人は難なく坂を下って海の方へと向かってペダルを漕ぐ。
たまにすれ違う老人が「おかえり」なんて言ってくれるのも日常でそれに「ただいま」と返して二人並んでそう広くもないガタガタとした道を進む。
坂の上から見下げた海のすぐそばにある漁港。そこから少し離れた場所でブレーキを踏むと二人とも似たようなタイミングで自転車を降りる。年季の入った木造の車庫の前でコンテナに座った老婆を見ると周はそのまま駆け寄った。
「ばあちゃんただいま。何してるの?」
「あーちゃんおかえりぃ。そら豆が取れたからねぇ、今皮をむいてるのよぉ」
「お邪魔します」
「あれまっ! さっくんじゃないのよぉおかえりなさい今日も男前ねえ、ようこそようこそ。さあさあおうち入りなさい。明子さーん! さっくんとあーちゃんが帰ってきたわよぉ!」
手慣れた様子でそら豆の皮を剥いて中身を取り出していた周の祖母であるトメは咲良を見るなり優しく垂れた目を少女のように輝かせてぱちぱちと手を叩いた。
うん、相変わらずの人気ぶりだなと周は頷きつつ車庫の中に自転車を停める。咲良といえば結構な頻度で顔を合わせているはずなのに毎回オーバーリアクションをする祖母に若干困惑気味だった。
けれど本気で嫌がっている訳ではないと知っているからか無理に間に入ることなく自転車のカゴからスクールバックを取り出して肩に掛けてから咲良の隣に行くと心なしかほっとしたように息を吐いた姿に面白くて口角が上がる。
「ばあちゃんそこら辺にしといてあげて」
「あらあらだめねえ、歳を取ると図々しくなっちゃって」
「大丈夫だよ、咲良照れてるだけだから。じゃあ家入ろっか」
「…ん」
幼い頃から南一家は咲良のことをほめそやしてきた自覚がある。それなのに未だに褒められることに慣れていない咲良の姿に周もトメも似たような顔で笑うと、決まって咲良はバツが悪そうに視線を外す。
ぽんぽんと背中を叩いて家へと促すと玄関を開けた先で待っていたのは周の母である明子で、名前の通り明るい声と笑顔で「おかえり」と告げた後は息子には目もくれず咲良に歓迎のマシンガントークをお見舞いする。それもいつものことだなと先に靴を脱いで手洗いうがいを済ませてまた玄関に戻ると咲良はもうぐったりとしていた。なんとなく、オーラが。
「咲良も手洗いしておいで」
そう助け舟を出すと咲良は頷いて「お邪魔します」と小さく挨拶した後すれ違い様に周を恨めしく見るのだがそんな姿すら可愛らしいのだから周の口角はまた緩く上がってしあった。
明子といえばマシンガントークで満足したらしく足取りも軽くリビングへと戻って行き、扉を締め切る前に思い出したように周を見て「おやつ持っていきな」とやけに男前なジェスチャーでキッチンに来いと息子を促す。
それに逆らわずキッチンに行けば持たされたのは手のひらよりも一回り大きな菓子盆に盛られた洋菓子と和菓子。ありがとうとお礼を言ってから玄関に戻ると咲良がいた。
「先に上がっててよかったのに」
「諸事情で無理」
「なんだそれ」
咲良が妙に真剣な顔で言うからおかしくて笑ってしまう。
また恨めしそうな目線を貰ってしまったが周は気にすることなく階段を上がって奥側にある扉のドアノブを回して部屋に入った。
六畳のフローリングの部屋にはベッドと勉強机、本棚。壁には小学生の頃に貼った漫画のポスターが貼りっぱなしだし、特にこれといった拘りのない普通の部屋だ。周の部屋に来たときは二人でベッドの前に並んで座るのがなんとなくのお決まりになっている。
中学生の頃は漫画を読んだりゲームをしたりしていたが高校に入ってからはそういうこともせずのんびりと会話を楽しんでいた。
「あ、そういえばさ」
「ん?」
スマホで最近よく見ている動画を共有していると不意に写ったどこの誰かもわからない『イケメン高校生』なんてタグで紹介されている男子高校生の姿にふと顔を咲良の方に向ける。
「クラスの女子がさ、一年にイケメンいるよねって話してて」
「…うん」
「咲良のことだったよ」
「……あ、そ」
「え、嬉しくないの?」
周の言うことを予想していたのかはたまたもう聞いていた事だったのかさして興味も無さそうに返事をした咲良は映っていた男子高校生の動画をスワイプして次の物を再生する。今度は可愛らしい動物の動画で、子猫が大型犬とじゃれている姿だ。
「…褒められてるってわかるからまあ悪い気はしねえけど、嬉しいって程じゃない。でもどうでもいい」
「えー、おれイケメンなんてただの一回も言われたことないから素直に羨ましい」
「あまねがイケメン…?」
ぼんやりと動画を見ていた咲良が周の方に顔を向けた。
整った顔にじっと見つめられると妙な居心地の悪さを感じて無意識に背筋が伸びる。
ふ、と柔らかく咲良が微笑って左手が伸び、周の頬を人差しの指の背でほんの少しだけ触れた。
「あまねは可愛いでしょ」
イタズラっぽい顔で告げる顔は同じ男なのに見惚れてしまうくらいなんというか様になっていて、周は思わず下唇をきゅ、と噛んだ。なんだか悔しいと感じた。