海の見える教室の、後ろから二番目の窓側の席。
 カーテンの白いレースが攫われて、波目みたいな模様が光で透かされたあの瞬間。
 教師の話も聞かずに珍しく眠っていた君が不意に目を覚まして、ちょっと垂れそうになった涎に気がついて慌てて手の甲で拭って、そしてそれを誰かに見られてやしないかとさりげなく周囲を見渡した時、目が合った。
 大きな目をまあるく開いて、その後鼻先に皺を寄せるみたいに笑った君を見たとき、心臓が大きく脈打った。
 絶望なんて言葉はあまり好きではないけれど、この胸の高鳴りを形容する言葉があるとするならばそれは絶望しかないと、そう思った。



 ───



 季節は春、陽光が柔らかく照らす坂道を南周(みなみあまね)は随分と履き慣れた感じのするローファーで歩いていた。
 男子高校生にしては少し長めの黒髪が春風に揺れ、母親似のぱちっとした目を心地良さそうに細める。田舎の高校にしては小洒落た紺色のブレザーと似たような色で誂えたネクタイがこの一年でようやく着慣れてきた、と言ったところだうか。
 小高い山の上に建てられた県立白島(はくしま)高等学校。周は今年で二年生になる。

 瀬戸内海に浮かぶ島のたった一つの高校には島民はもちろん、島の外からも学生がやって来るおかげか田舎の学校にしてはそれなりの在校生がいるのではと思う。それでも島の外からやって来た生徒から「中学の頃は全部で六百とかいた」という話を聞く限り全校生徒合わせても三百に満たないこの学校は少ない方に分類されるのかもしれない。
 それでも周には全校生徒の名前も顔も把握しきれないこの状態が未だに慣れない。

 なぜなら周は生まれも育ちも白島で、所謂過疎地といわれているこの島には子供が少ないからだ。全校生徒合わせても三十にも満たないし、同級生が十人もいないなんて当たり前。
 狭い田舎の狭い世界、同級生は全員幼馴染が当たり前だし家の場所も住所もわかれば電話番号だってわかる。さらに言えば保育園小中高、もっと言えば産院だって同じ人もいる。
 そういう場所で人生の大半を過ごしてきた周にとって教室の前から後ろまで席で埋まっている状況すら「すごい」になる。
 そしてつい先日入学式が終わったばかりの白島高校には当然だが新入生がやって来た。周はそれを実は周りよりも楽しみにしていたのだ。

「あまね」

 背後から掛けられたまだ幼さの残る低音に周は振り向いた。
 白島高校、通称白高(はっこう)は校舎に続く結構な傾斜のある坂道がある種有名だ。それは坂を覆うように植えられた桜が原因で、見頃の時期は遠目から見ると坂の全てがピンク色に見えるからだ。
 今はもう盛りの時期も過ぎて花はまばら。ほとんど葉桜となっている代わりに地面にはぽつぽつとピンク色が見えている。

 その中を少し急いでやって来る茶髪に口端がゆるゆると上がった。
 まだ袖を通して数日しか経っていないはずなのにスタイルが良いせいか一年先輩の周より着こなしているように見える姿に今度は息を吐くように笑う。

「なんで笑ってんの」
「制服似合ってるなぁって思って」

 隣に来た男子生徒の背は周よりも十センチは高く顔立ちも整っているせいか少し幼い顔の作りをしている周と並ぶとどちらが年上か分からなくなる。

「おはよう、咲良」
「ん、おはようあまね」

 錦咲良(にしきさくら)は周を見ながら嬉しそうに表情を緩めた。

「あまね家出るの早過ぎじゃね? 朝一緒に行きたいって言ったじゃん」
「一応咲良の家まで行ったよ? でもまだ寝てるからって言われてさ」
「…起こしてくれたら良かったじゃん」
「そっかそっか、じゃあ次からはそうしようね〜」
「あ、ちょ、子供扱いすんな…っ!」

 背伸びをして細くてサラサラな茶髪を撫でると咲良が複雑そうに顔を歪めるけれど、周はそれを咲良が嫌がっていないというのを知っている。

「また一緒の学校だね」
「それ入学式の時も言ってた」
「え、そうだっけ」
「そうだよ。忘れんぼだな」

 頭を撫でる手を下ろしてまだ正面玄関も見えない校舎へと向かうべく足を進める。
 周と咲良は幼馴染だ。それこそ産院は違うけれど保育園小中高と同じの、もう十年以上になる付き合いの幼馴染。学年は周の方が一つ上だけれど人数の少ないコミュニティで過ごして来た二人にとってそれはほんの少しの壁にもなりはしなかった。
 けれど中学と高校は全く違う。小学校と中学校は隣接していたけれど高校はそもそも二人の家からは離れた場所に建っているし、人間関係もガラリと変わる。

 そのせいでこの一年二人には接点があまりなかった。でも、それも終わったのだ。
 なぜならまた同じ学校に通うのだからまた中学の時のように頻繁に話したり遊んだりもできるだろう。周は実はそれが楽しみだったのだ。
 周は咲良と過ごす時間が昔から好きだった。幼馴染というのもあるけれど、咲良の醸し出す落ち着いた雰囲気が一緒に過ごしていて楽だからだ。

「あまね今日部活は?」
「ない。だから一緒に帰ろ。母さんも咲良に会いたがってるよ。さっくんはうちで相変わらずアイドル的な人気だから」
「それマジで意味わかんねえんだよな。去年夏祭りの時ばあちゃんに拝まれたじゃん、俺。あれなんなの」
「推しの演歌歌手見た時と同じ反応だったなぁ」
「ますます意味がわかんねえ」

 葉桜の並木を二人で声を上げて笑いながら歩く。
 始業時間から一時間ほど早いこの場所にいるのは今二人だけ。だからこそこんな馬鹿笑いをすることができる。そうしてやっと到着した山の上にある校舎の正面玄関。横開きの扉の奥には靴箱が並んでいるのが見える。
 創立して何年になるかは知らないが結構な年季の入っている横開きの扉を開けて中に入ると下駄箱が置いてあるせいか土の匂いがした。
 学年で上履きが置いてある場所が異なり、それぞれ靴を履き替えて教室棟へと移動する。渡り廊下も教室の横の廊下も白高は開放感に溢れていて、セキュリティ? なにそれ。といった感じである。

「他の人来るまであまねのとこいてもいい?」
「いいよ」
「やった。ありがと」

 イケメンにタイプがあるのだとすれば、咲良は猫系だと周は思っていた。それも高貴な猫だ。その猫が懐いてくれているという感覚に喜びを感じない人類など果たしているのだろうか、否、いない。いないと周はこの時ばかりは言い切れた。
 紺色のスクールバックを肩に掛けて階段を上がり二階に進む。三年まで共通で三クラスまである中で一、二組が普通科、二年からは三組が進学科となっていて周は普通科の二年一組に在籍している。
 カラカラと軽い音で扉を開けて窓際の席に座ると咲良がその隣に座る。こうして見ると本当に同級生のようだなと周はまじまじと咲良を見た。

「…なに?」
「同級生っぽいと思って。本当におれたちどっちかが後一年ズレてたら良かったのになぁ」

 ほんの少し、間が開いた。

「…そんなの、俺が一番思ってる」

 いつも通りのやりとりなのに少しだけ違和感を覚えた。けれどそれは本当に些細なものだったから、周はそれを違和感とも捉えずにいつも通り気の抜けた笑みで「だよねぇ」と返した。