【BL】俺の青春、思っていたのとなんか違う!

――“それ”は、ある日突然オレの下駄箱の中に入っていた。


* * *


高校1年生の3学期の最終日。

オレはいつものように学校に向かった。


校門を過ぎたあたりで予鈴がなった。

周りにいるやつらは、本鈴に間に合うようにと駆け足でオレを追い越していく。


オレはとくに気にしない。

いつものことだから。


それに、このペースで行けば教室にちょうど着く頃に本鈴が鳴るのも知っている。


人気のなくなった昇降口に到着。

おもむろに下駄箱を開け、その中に手を伸ばした。


そこにあるのはオレの上靴。

しかし、一番初めに指先に触れたのは上靴の布の感触ではなく、なぜだかひんやりとした少し硬いものだった。


「…ん?」


下駄箱の中を覗き込むと、オレの上靴の上に白い封筒が置いてあった。


「なんだこれ?」


手紙を手に取りひっくり返すが、宛名はどこにもない。


中を確認しようと封筒を開けたとき、そこでチャイムが鳴った。

これは、朝礼の始まりを告げる本鈴だ。


いつものペースで行けば間に合うものの、手紙に気を取られていたせいで時間を食った。


オレはその手紙をリュックの中に押し込むと、駆け足で1年2組の教室へと急いだ。



普段と同じように担任がやってきて朝礼をし、そのすぐあとに修了式のため体育館に移動した。

だから、あの手紙のことなんてすっかり忘れていた。


修了式後、新学期に向けての簡単な荷物整理のためにちょっとしたホームルームをしたくらいで、時間がきたらすぐに下校となった。


「このあと、遊びに行ける人ー?」

「「は〜い!」」


この1年2組のメンバーで過ごす最後の日。

どうやら、クラスメイトたちはこのあとみんなで遊びにいくようだ。


団体行動は好きじゃないオレは、ハナから行く気はない。

そもそも、クラスで浮いているオレは誘われないことも知っている。


だから、気が楽だ。

――そう思っていたら。


「ねぇねぇ、矢吹くんもみんなで遊びにいこうよ」


そうオレに声をかけてきたのは、森さんだった。


「い…いや、オレは…」


まさかだれが誘ってくるとも思わなくて、しかもそれが苦手な女子。

どう対応していいのかわからなかった。


「愛奈〜!なにしてるの?」


そこへやってきたのは、高い位置でポニーテールをした女子。

森さんと仲のいい高田(たかだ)さんだ。


「えっとね、矢吹くんもいっしょにって誘ってて」

「あ〜、なるほどね。で、矢吹、行くの?」

「オレは…、このあと――」

「オッケ!用事があるとかで行けないってことね」


オレが最後まで言う前に高田さんが代弁してくれた。

人によっては話の腰を折られたと気を悪くするかもしれないが、女子と話すのが苦手なオレにとっては早々に会話を終わらせてくれてありがたい。


「愛奈、なにしてんだよ〜!矢吹なんて放っといたらいいじゃん。場の雰囲気が暗くなるだけなんだしさ!」

「そうそう!2人とも早く行こ〜!」


今から遊びにいくクラスメイトたちが森さんと高田さんを呼んでいる。


「用事があるなら仕方ないね。じゃあね、高田くん」

「…う、うん」

「もし2年でも同じクラスになったらよろしくね」


そう言って、森さんは高田さんといっしょに教室から出ていった。


こんな見た目が地味なオレにまで気にかけてくれる森さん。

かわいくて社交的な彼女だからこそ、周りの男子の憧れの存在というのには納得。


オレも“普通の男子”だったら、森さんみたいな女子を好きになったりしたのだろうか。


だけど、ずっと前からオレの目に映るのは――1人しかいない。


オレもそろそろ帰ろう。

机の横にかけていたリュックを机の上に置き、そのついでに中から水筒を取り出した。

お茶を飲んでいるとき、ふと横目にリュックの中にある白いものを見つけた。


「…あ、これ」


それは、朝にオレの下駄箱の中に入っていた封筒だった。

そういえば、中身を確認していなかった。


下駄箱に手紙が置いてあるなんて、昔ながらの学園もののドラマでよくある設定。

でも、今時ラブレターなんて書くやつがいるわけな――。


フッと笑いながら中から取り出した便箋に書かれた内容を見て、オレは思わず目を疑った。


【突然の手紙で驚かせてしまったらごめんなさい。
1年1組の椎葉岳です。
連絡先を聞いていなかったので、こうして手紙を書きました。

高校1年の最後の今日、あなたに伝えたいことがあります。
修了式後、中庭で待っています】


ま、まさか…。

これは本当に…ラブレターなのか?


しかも、目を疑ったのは手紙の内容ではない。

差出人が、隣のクラスの椎葉だったからだ。


――椎葉岳。


クラスの人気ムードメーカー…とまではいかないが、1組の盛り上げ役のうちの1人。

得意な科目があるわけでもなく、クラスの立ち位置と同じくらい成績も中の中のいたって普通。


おっちょこちょいで、ちょっぴりビビり。

だけど、だれにでもやさしく、困っている人を放っておけないタイプ。


そんな矢吹のことが――、オレはずっと前から好きだった。


だけど、この気持ちは今まで心に閉まったままだった。

椎葉が知ったって、きっと困るだけだろうから。


そう思っていたら…。

まさかの椎葉から手紙が。


内容からして、たぶん告白――されるんだよな、オレ?


もしかして、椎葉もオレと同じ気持ちだったってことか?

椎葉も、“あのとき”のことを覚えてくれていたのか?


オレは柄にもなくドキドキと高鳴る胸をなんとか落ち着かせて、手紙に書いてある中庭へと駆け足で向かった。



中庭に呼び出すということは、きっとレンガの小道を進んだ先にある小さな噴水のところを指している。

この学校では、定番の告白スポットだ。


近づくにつれて、落ち着かせたはずの胸がまたバクバクと暴れ出す。


…いい加減静かにしろよ。

椎葉に聞こえるだろ。


木々の間から噴水の陰が見えたとき、微かに人の声が聞こえた。

そうっと歩み寄ると、それは椎葉の後ろ姿だった。


その光景に思わず目の奥が熱くなる。


本当に椎葉がいる…。


驚かせないように、オレはゆっくり椎葉に近づいた。


すると、椎葉の体がピクッと反応した。

どうやら、オレの気配に気づいたようだ。


「き…きてくれて、…あ、あ、あ、あ、ありがとう。えっと…、その…、キミをここに呼び出したのは俺の気持ちを伝えたくて…」


緊張しているのか、椎葉は振り返らない。

その空気感が伝わってきて、オレの緊張もピークに達して固唾を呑みながら椎葉の話を聞いていた。


「ずっと前から好きでした!俺と付き合ってください!」


そして、振り返った椎葉が頭を下げて、オレに手を差し出す。

まるで、その手を取ってくれと言わんばかりに。


そのときの多幸感といったら、今までに感じたこともないくらいだった。


…まさか。

まさか、椎葉と想いがひとつになるなんて。


「こんなオレでよければ、喜んで」


そう言って、オレは椎葉の手を取ろうとした。

そのとき――。


「…って、だれ!?!?」


顔上げた椎葉がオレを見て、まるで絵に描いたような驚いた顔をしていた。

同時に、オレに差し出していた手をさっと後ろへ引っ込めた。


その瞬間、さっきまでの多幸感は波が引くように消滅し――。

熱くなっていた想いが一瞬にして冷え切ったのがわかった。


心のどこかでは、やっぱりなにかの間違いなんじゃと思っている部分もあった。


でも、椎葉からの手紙が下駄箱に入っていて、指定された場所に椎葉がいた。

そこで『ずっと前から好きでした』なんて告白されたら――、勘違いだってするって。


「お、お前、なんでこんなところに…」

「なんでって、こんな手紙もらったらフツーはくるだろ?」


平静を装って答えてみたけど、落ち込んでいるのを悟られないように必死だった。


結局、椎葉はオレと森さんとを間違って告白したことがわかった。

ラブレターも、森さんの下駄箱に入れたつもりだったらしい。


…椎葉も、森さんのことが好きだったのか。


椎葉が下駄箱を確認しに行き、1人になった中庭でオレは空を見上げた。

下を向いたら、なにかがこぼれ落ちそうだったから。



やっぱりオレは、片想いがお似合いだな。

それでもオレは、椎葉のことが好きなんだ。
それから1ヶ月がたった。

矢吹との寮生活は可もなく不可もなく、ただただ平凡な毎日だった。


部活もしていない俺は、授業が終わればクラスメイトに誘われたら遊びにいくし、なにもなけれなそのまま寮に帰る生活。

矢吹も帰宅部で、俺と違って友達という友達はいないようだから、てっきりまっすぐ寮に帰っていると思っていたが、…どうやらそうでもないらしい。


部屋に戻っても、矢吹がいないことが度々あった。

土日も毎週のように外出している。


それも決まって夕方から。

そして、門限ギリギリの夜10時前に帰ってくる。


初めは気に留めていなかったが、あまりにも外出の頻度が高いから思いきって矢吹に聞いてみると、意外にもバイトをしているのだとか。


矢吹がバイト…?

正直想像がつかなかった。


見た目はこんなだし、人と話すのは得意じゃなさそうだから、接客業ではないだろう。

となると、商品の品出しとか、工場での作業とかの目立たない仕事か?


まあ、どっちにしても俺には関係ないけど。


寮での生活はそんな感じで、新しい2年1組のクラスは順風満帆だった。

朝起きるのがつらくても、愛奈ちゃんが同じクラスにいるというだけでパワーがみなぎる。


朝礼のチャイムが鳴るまでの朝の時間、クラスの男友達と話しながら愛奈ちゃんを横目で見ていた。


今日の愛奈ちゃんもかわいいな。

でも、なんだか少し元気がないようにも見える。


「愛奈、どうした?体調でも悪い?」


愛奈ちゃんがいつもと違うことに、愛奈ちゃんと1年のときから同じクラスの親友、高田さんが声をかけた。


希子(きこ)、おはよ〜。体調は全然普通なんだけどね」

「じゃあ、なにかあった?」


高田さんの問いに、愛奈ちゃんは視線を落とす。


「…うん。昨日…ピーちゃんが逃げちゃって」

「えっ、ピーちゃんが!?」


どうやら、愛奈ちゃん家のペットのオカメインコが鳥かごから外へ逃げてしまったようだ。

愛奈ちゃんが10歳の誕生日に両親からプレゼントされたらしく、家族同然なのだとか。


…そりゃ、突然家族がいなくなったら落ち込むよな。


「今頃ピーちゃん、どこでなにしてるのかなとか、こわい思いしてないかなとか考えたら…心配で心配で」

「…そうだよね。ピーちゃん、無事に帰ってきてくれるといいね」


一応、目印として右足にピンクの足環をしているらしいが、飛んでいった鳥を見つけるというのは…ほぼ絶望的だろう。


笑顔がかわいい愛奈ちゃんが、あんなに落ち込んでいる。

その姿を見ているだけで、俺は胸が痛かった。



「椎葉ってさ、ほんと森さんのこと好きだよな」


その日、寮の部屋に戻ると、ベッドで寝転がってマンガを読んでいた俺に、下から矢吹が話しかけてきた。

今日はバイトがないのか、めずらしくずっと部屋にいる矢吹。


「…い、いきなりどうしたんだよっ」

「いや、今日も椎葉は森さんのことばかり見てるなって思って見てたから」

「“今日も”って…、そんなストーカーみたいなことしてねーよ」


ムスッとして俺がロフトの柵から身を乗り出して反論すると、同じようにベッドに寝転がってスマホをいじっていた矢吹がクスッと笑ったのが見えた。


「それに、今日は愛奈ちゃんが落ち込んでたから余計に気になって」


と言い訳も付け加えておく。


「いいんじゃね?無意識に好きな人を目で追うのは、仕方のないことだと思うし。オレもそうだからわかる」


“わかる”って、…もしかして矢吹も今好きなやつがいたりするのか?


「森さんのどこが好きなんだよ?」

「…えっ!…えっと、その〜…。入学式のときに、一目惚れ…したんだよな。たぶん俺、黒髪のストレートのロングヘアがタイプみたいで」


思い返せば、これまで好きになってきた女子はみんなそんな感じの髪型だった。

サラサラとなびく黒髪ストレートは男の憧れというか。


たしか…、(さくら)ちゃんがそうだった。


桜ちゃんとは、小学1年生のときの俺の初恋相手。


桜ちゃんはすぐに転校してしまったが、それまでは頻繁にいっしょに遊ぶ仲だった。

桜ちゃんの前だと、気取らず自然体でいられてとても居心地がよかったのを今でも覚えている。


その桜ちゃんが、きれいな長い黒髪をしていた。

どうやら俺のタイプは、その頃からブレていないらしい。


でもまさか、矢吹と恋愛の話をするとは思ってもみなかった。

矢吹だって、見た目からして今まで彼女がいた経験はなさそうだし。


同じぼっちの矢吹に共感されたところで、それほどうれしくもない。


そういえば、さっきの矢吹の言葉――。


『今日も椎葉は森さんのことばかり見てるなって思って見てたから』


“今日も”、“見てたから”…?

それって、矢吹が俺のことを?


でも、なんで?



次の日。


今日は、10年近く集めているマンガの新刊の発売日。

前回の発売日から半年ぶりで、めちゃくちゃ気になるところで終わっていたから、この日をどれだけ心待ちにしていたことか。


俺は、授業が終わると走って学校を出た。

そのとき、校門を過ぎたところで矢吹を追い越した。


寮にも戻らずどこかへ行くということは、あいつ…今日はバイトか?


その瞬間だけ矢吹を気にかけたくらいで、俺は急いで駅前の書店へと向かった。


お目当てのマンガの新刊をゲットし、上機嫌で書店を出た。

そのとき、俺の顔の前をなにかがかすめていく。


驚いて足を一歩後ろへ引き、なんだったのかと思って慌てて目を向けると――。


歩道に路駐された自転車のハンドルに、1羽の黄色い小鳥が留まっていた。

頬を赤く染めたようなかわいらしい小鳥。


俺でも知っている。

あれは、オカメインコだ。


でも、オカメインコが野生でいるはずがない。

しかもよく見ると、右足にピンクの足環をしていた。


『昨日…ピーちゃんが逃げちゃって』


昨日の愛奈ちゃんの話を思い出し、足環の特徴もピーちゃんといっしょ。


今俺の目の前に、愛奈ちゃんがずっと心配しているピーちゃんがいる。

このまま見過ごすことなんてできない。


「…あっ!ま、待て!ピーちゃん!」


俺は飛んでいくピーちゃんを追った。


ピーちゃんは空高く飛んでいくことはないものの、まるで俺を嘲笑うかのように通りを右へ左へと曲がっていく。

そして、気づけば俺は見知らぬ路地に迷い込んでいた。


「どこだ、ここ…」


周りは古びたビルに囲まれていて、薄暗くて気味が悪い。

さらに最悪なことに、ここへきてピーちゃんを見失ってしまった。


せっかく、あと少しでピーちゃんを捕まえられるところだったのに…。


唇を噛み、スマホに目をやると【18:14】と画面に表示されていた。


日の入り前のこの時間で、ただでさえ普段から太陽の光が差し込みづらそうなこの場所には街灯もなく、さらに暗く感じた。


タバコの吸い殻や空き缶が所々に落ちていて、雰囲気もよくない。

後ろを振り返ると、大通りの街灯の明かりが漏れていた。


…仕方ないけど、こんなところ早く出よう。


そう思って、迷路の出口のように見える大通りからの明かりに向かって歩いていくと――。


「あっれー?こんなところにだれかいるー」

「ほんとだっ。てっきり野良猫かと思ったら」

「この辺りでは見ない顔だな」


もう少しで大通りに出られるというところで、脇道からぬっと3人の男が出てきた。

3人ともたぶん俺より年上で、オーバーサイズの服の上からでもわかるくらいに体格がいい。


「兄ちゃん、どうした?迷ったか?」


1人の男が俺の顔を覗き込んできた。

鼻にも口にも輪っかのピアスがついている。


「だったら、オレたちが道案内してやるよ〜」

「そうそう。オレたち、やさしいから」


3人に周りを囲まれて、俺は恐怖でその場に固まった。

3人ともタバコ臭くて、思わず息を止める。


「…あ、あの。ご親切にしていただきうれしいのですが…、道案内といっても…もう目の前が大通りなので――」

「あぁ!?なんか言ったか?」


突然1人の男が顔をしかめて俺に詰め寄ってきた。

それに俺の驚いて、俺の額から一気に嫌な汗が吹き出す。


「えっと…、どうかここは穏便に…」

「穏便にって、せっかく親切にしてやってんのに、それを無碍にしようとしてんのはお前のほうだろうがっ」

「お前、オレたちにケンカ売ってんのか!?あぁ!?」


…ひぃっ!!

こ…こわすぎる…!!


完全によくない人たちに絡まれてしまった。

しかし、俺にはここから逃げ出す術が思いつかない。


「す、す、すみせん…。ボク、そろそろ寮に帰らないといけなくて…」

「寮だぁ!?」

「はっ!そんなに帰りたいのかよ?」


その質問に対して、俺はブンブンと首を縦に振る。


「だったら、帰してやってもいいぞ」

「えっ…」

「その代わり、もらうもんもらってからな」


ニヤリと口角を上げて、男たちが俺にイヤな視線を向ける。

そして、一斉に俺の前に手を差し出した。


「ほら、よこせ」

「よ…よこせ、とは…」

「はぁ?そんなの、金に決まってんだろ」

「お前の手持ち金、すべてオレたちにくれるなら帰してやるよ」


…な、なんということだろうか。

これが俗に言う“カツアゲ”というやつだ。


しかし、昨日お小遣いをもらったところ。

それにこのお金は、父さんと母さんが一生懸命に働いて稼いだお金。


今会ったばかりのこの人たちに渡すわけにはいかない…!


「…すみません。それだけは無理――」


勇気を振り絞ってそう口にした瞬間、俺の左頬に頭まで響くような鈍い衝撃が走った。

そのまま地面のよろけながら倒れて、落ちていた鏡の破片を見てようやく理解した。


左頬が赤く腫れている。

同時に患部が熱くなって、ヒリヒリとした痛みを伴う。


…俺、殴られたんだ。

これまで殴られたことなんてなかったから初めての経験だけど…、フツーに痛い。


「うっせぇ!口答えしてねぇで、さっさと出しやがれ!!」


俺に対する怒鳴り声が、殺風景な路地に反響する。


「あ〜あ。いきなり殴っちゃうなんてかわいそう」

「でもまあ、こいつ短気だから、早く言うこと聞いておいたほうが身のためだよ?」


他の2人の男が、地面にへたり込む俺の前にしゃがみ込む。


…こ、こわいっ。

俺はただ、ピーちゃんを追ってここに迷い込んでしまっただけなのに。


それが…、どうしてこんなことに。


「おい、てめぇ…聞こえてんのか?さっさと出せって言ってんだよ!」


俺を殴った男がズカズカと俺に歩み寄る。


こんな状況、もう俺にはどうすることもできない。

それなら、さっさとお金だけ渡して逃がしてもらうほうがいいのだろうか。


「いい度胸だな…。シカトか?ああ!?」


殴ってきた男が俺の胸ぐらをつかみ、無理やり地面から引っ張りあげる。

絶体絶命のピンチに、俺は声を発することもできずにいた。


「…聞き分けのわりぃガキだな。どうやら、もう一発殴られてぇみたいだな」


男が握り拳をつくり、それを大きく振りかぶる。

それを見た無抵抗な俺はギュッと目をつむり、奥歯をぐっと噛みしめた。


――そのとき。


「てめぇ…。なにしようとしてんだ、コラァ!!」


まるで心臓までをも揺らすかのような野太い声が、突然路地に響き渡る。


俺は驚いて目を向けると、大通りからの明かりを背中に受けた黒い人影がこちらに向かって走ってくるのが見えた。

そして、そのまま俺の胸ぐらをつかんでいた男の脇腹に飛び蹴りを食らわす。


男は飛び蹴りの衝撃で俺から手を離すと、水切りの石のようにバウンドして吹っ飛んでいった。


「お…おいっ!」

「なにやってんだよ!」


残りの2人の男たちは、慌てて飛んでいった男のもとへ駆け寄る。


「す、すげー…」


その光景に、俺は口がぽかんと開いた。

恐怖で手も足も出なかった俺と違い、あんな大柄な男に蹴りを食らわすだなんて。


「大丈夫か!?」


見上げると、黒のタンクトップに白いシャツを羽織った男が立っていた。

新たな男の登場に、俺の思考がついていけない。


ただ言えるのは、どうやら俺を助けてくれたようだ。


「あ…、は…はい。なんとか大丈夫です…」


安心で表情が緩んだ瞬間、左頬の痛みにとっさに顔が引きつった。


「おいっ。大丈夫って、…殴られてるじゃねぇか!」

「ま…まあ、一発だけですし」


同じ男なのに情けない姿を見られ、痩せ我慢でハハハと笑ってみせる。

すると、白シャツの男の表情が変わった。


「…ぜってぇ許さねぇ」


ゆっくりと長い前髪をかき上げると、現れた鋭い瞳で不良3人組を睨みつける。

さらに、なにかを発しているわけでもないのに、ビリッとピリついた空気間を俺は肌で感じ取った。


「てめぇ…、よくもやってくれたな」


殴られた男が手に膝をついて立ち上がる。


「正義のヒーローにでもなったつもりか?まずはお前からだ」

「まったくバカなやつだよ。わざわざ自分から殴られにくるなんて」

「おい、わかってんのか?こっちは3人。オレたちのほうが有利に決まってんだろ」


たしかにあいつらの言うとおりだ。


相手はガタイのいい男が3人。

なのにこっちは、俺は戦力外だし…実質1人だけ。


どう考えたって、あいつらに勝てるわけがない…!


「も…もういいよ!俺のせいで、赤の他人を巻き込むわけには――」

「お前はそこで黙って見てるだけでいいんだよ。すぐに方を付けてくっから」


白シャツ男は、そう言って俺に微笑みかけた。

まるで、窮地から救い出してくれる王子様のような振る舞いに、思わず俺の胸がドキッと鳴った。


…なんだこのイケメン。


「悪いけど、これだけ預かってほしい」


そう言って手渡されたのはエコバッグ。

買い物帰りなのだろうか、ずっしりと重みがある。


白シャツ男はポキポキと指を鳴らすと、羽織っていたシャツを脱ぎ捨てた。

そこで露わになる、鍛え上げられて引き締まった両腕。


左腕の手首から肘にかけて、まとわりつくようなデザインの入れ墨がゴリゴリに入っていた。

なんかそれだけで、めちゃくちゃ強そうなオーラが漂う。


――その後の勝負は一瞬だった。


3人相手だろうと関係なく、白シャツ男はあっという間に不良たちを蹴散らしてしまった。


突然現れた俺のヒーロー。

しかし、絵に描いたようなキラキラした雰囲気ではなく、両耳にいくつものピアスをつけた気だるげなダウナー系男子。


俺に絡んできたあの3人も大概不良だったけど、よくよく考えたら白シャツ男はあいつらよりも見た目はワル。


俺、なんか…ヤバイやつらに関わってしまったとか!?


で…でも、ひとまず助けてもらったお礼を言わないと。

あと、預かったエコバッグも返さないとだし。


「す、すみません…!助けていただき――」


そう言いながら俺が駆け寄ると、なぜか白シャツ男は俺を睨みつけてきた。

その眼光は俺の瞳を貫くようにまっすぐ向けられ、その場に固まってしまった俺のところへ白シャツ男が足早にやってくる。


「なんで1人でこんなところにきたっ!!」


耳をつんざくような怒鳴り声に、俺は頭の中がぐわんぐわんと揺れた。


な…なんか、俺…怒られてる?

どうして、初対面の人なんかに――。


「この辺りはなぁ!さっきみたいなやつらが縄張りにして、そのへんをウロウロしてんだよ!あんなザコじゃなくて、もしもっとヤベーやつらに出くわしていたらっ…」


そう言って、白シャツ男は唇を噛んだ。


「…でも、無事でよかった。もしお前になにかあったら、オレは…」


そのとき、一瞬白シャツ男の目が潤んだように見えた。

だけど、初対面の俺なんかにそこまで感情移入するだろうか。


白シャツ男は目元を隠すようにして、かき上げていた前髪をくしゃくしゃにして下ろした。


それを見て、…はっとした。


まったく雰囲気が違ったから気づかなかったが…。

見覚えのある、そのくしゃくしゃボサボサの黒髪――。


「…もしかして、矢吹?」


半信半疑で俺が尋ねると、白シャツ男の口角が少しだけ上がった。


「今頃気づいたのかよ」


その声に、まるで俺の体に雷が落ちたかのような衝撃が全身を駆け巡った。

さっきまではテンパってそれどころじゃなかったが、冷静になって聞いてみたら矢吹の声だ。


「で、なんで椎葉がこんなところにいるんだよ」

「え…えっと、ピーちゃんを見かけて…」

「“ピーちゃん”?」

「そう、愛奈ちゃんのところのインコ。捕まえようと思って追いかけたら、気づいたらこんなところに…」


その俺の話を聞いて、「はぁ〜…」と重いため息をつく矢吹。


「そ、それよりも…!矢吹…その格好」


この前、意外と矢吹の体が引き締まっていることを知ったが、黒いタイトなタンクトップを着ている今のほうが筋肉質な上半身がさらに際立って見える。

それに、左腕のその入れ墨…。


「まあ聞きたいこともいろいろあるだろうけど、まずは椎葉の手当てが先だ」

「…手当て?」

「ここ」


そう言って、矢吹が俺の左頬を人差し指で軽く突つく。

その瞬間、波紋のように痛みが顔全体に広まった。


「……ッ…!!」


…そうだった。

俺、殴られてたんだった。


「早く冷やさないとな」

「いいよ。寮に帰ってから適当に冷やすから」

「それじゃ遅いだろ。オレのバイト先、この近くだから」


矢吹は、片手にエコバッグ。

そしてもう片方の手で俺の手首を握ると、半ば強引にバイト先へと連れていった。



矢吹はそこから歩いて数分のところにある歓楽街へと入っていった。

たくさんの居酒屋が並び、俺は馴染みのない場所に辺りをキョロキョロと窺うが、矢吹は慣れた調子で通りを進んでいく。


そして、とあるビルの地下1階へと続く階段を下りていく。


「矢吹、ここって…」

「いいから、いいから」


さっきから矢吹は俺の手首を握ったままで離してくれそうにない。

ごくりとつばを飲み込んで、俺は矢吹のあとに続いた。


「戻りましたー。遅くなってすみません」


そう言って、下り階段を下りてすぐの店のドアを開ける矢吹。


ドアの先には、ぼんやりと温かみのあるオレンジの光に包まれた長細い空間が広がっていた。


L字型のカウンターに、そのカウンターの中の棚にはぎっしりと並べて置かれた酒瓶の数々。


「ここが、矢吹のバイト先…?」

「ああ。バーテンダーの見習いしてんだ」


矢吹はそれだけ言うと、1人でカウンターの中へと入っていった。

俺は初めてのバーに呆然として、ただただ入口で突っ立っているだけ。


矢吹のやつ、てっきり地味で目立たないようなバイトをしているのかと思っていたら…。

めちゃくちゃオシャレすぎて度肝を抜かれた。


「おう、戻ったか」


すると、カウンター奥のドアからだれかが出てきた。


黒シャツに黒のズボン、腰に黒のロングエプロンをかけた全身真っ黒の男の人。

だからか、ブリーチでキンキンに染められた金髪がまぶしく見える。


「遅かったな。なんかあったか?」

「学校の友達が、変なやつらに絡まれているのをたまたま見かけて」


矢吹がそう言うと、金髪の男の人が俺に視線を向けた。


「ああ、なるほど」


なにかを悟ってくれたのか、金髪の男の人はニッと歯を見せタバコの煙を吐く。


「マスター、氷もらいます」

「構わねぇよ」


氷を詰めた袋を持った矢吹が歩み寄ってきたかと思ったら、突然俺の左頬にその袋を押し当てた。


「冷たっ…!!」

「それくらい我慢しろ」

「だ、だって…」


俺は渋々矢吹から氷の入った袋を受け取る。


「オレ、ちょっと着替えてくるから。しばらくそれで冷やしておけよ」


矢吹はそう言うと、金髪の男の人――マスターが出てきた奥の部屋へと入っていった。

ぽかんとその場に立ち尽くす俺。


「まあ、座れよ」


マスターに促され、俺は緊張した面持ちでカウンター席へと座った。


な…なにか頼んだほうがいいのだろうか。

でも、バーって酒を提供するところだよな…?


そんなふうに思っていることが顔に出ていたのか、マスターがクスクスと笑う。


「痛みが引くまでゆっくりしていったらいいから。まだこの時間は客もこないだろうし」

「あ…はい、ありがとうございます」


マスターはとりあえずお冷を俺の前に出してくれた。


「このへんを歩くなら気をつけたほうがいいぞ。1本通りを逸れただけで、雰囲気がガラッと変わるからな」

「そう…みたいですね」

「店の買い物で外に出してたが、偶然あいつが通りかかってよかったな。あいつなら、この辺りの不良くらい簡単にのしちまうから」


…えぇ、矢吹ってそんなに強いのか!?

まあ…たしかに強かったけど。


でも…、俺が知るもやし(と思っていた)矢吹からでは、未だに信じられなかったりする。


「ちなみにおれは、昔この辺りを牛耳っていたちょっとしたワルだったからな。いくらあいつが強くたって、おれのほうが上だぞっ」


マスターは自慢げに腕を曲げて、力こぶを見せつける。

シャツの上からでもマッチョなのがわかる。


それに、首筋に入れ墨がチラ見えしているから、おそらく全身に入っているような気がする。

もうそれだけで、ゴリゴリ強そう。


矢吹も、まさか左腕にあんな入れ墨が入っているとは思わなかった。

シャツや体操着が年中長袖だったのは、入れ墨を隠すためだったのか。


「そういや、あいつの友達なんだって?」

「…そうっすね。友達というか、寮で同じ部屋のルームメイトで」

「へ〜、ルームメイトね〜…」


マスターは頬を緩ませ、なぜか含み笑いをする。


そのとき、ドアが開く音がした。

現れたのは、マスターと同じ全身黒の服装に身を包んだ矢吹。


前髪をかき上げ、さっきよりもセットされたオールバックの髪型から覗かせる耳には複数の形の違うピアスがついていた。

普段はボサボサの髪で耳が隠れてしまっているけど、本当はあんなにたくさんのピアスが…。


年中長袖の矢吹だが、黒シャツを腕まくりした左腕には黒い入れ墨。


学校の雰囲気とまったく違う矢吹の姿に、思わず俺は口がぽかんと開いた。


…いやいやいや。

別人すぎるだろ、…これ。


「お前…、本当に矢吹か?」


放心状態の俺の声に反応して、チラリと視線を向ける矢吹。

そして、照れたようにはにかんだ。


「なに言ってんだよ、オレだよ。でも、周りには秘密にしてたから…。椎葉に見られて、ちょっと恥ずかしかったりもする」


なんだか矢吹の頬が赤くみえるのは、オレンジ色の店の照明のせいだろうか。

それとも――。


「せっかくだから、お友達になにか作ってやれよ」

「え、いいんすか?」

「ああ。お前の腕前も見ておかないとだしな」

「ありがとうございます!」


マスターにお辞儀すると、矢吹はさっそく準備に取りかかった。


「椎葉、苦手な飲み物とかあったりする?」

「べつに…、ないとは思うけど」

「了解」


矢吹は、迷うことなく次々とボトルを手に取るとシェイカーの中に注いでいく。

そして、そのシェイカーをリズミカルに振りだした。


心地よいシェイカーの音に、伏し目がちな矢吹の表情がこのバーの雰囲気とマッチして、どこか色っぽさをかもし出している。


矢吹はシェイカーからグラスに注ぐと、それを俺の前に滑らせるようにして差し出した。

出てきたのは、透明の炭酸水の中に薄くスライスされたレモンとミントが浮かぶドリンク。


「お待たせ。モヒート風はちみつレモン」


それを聞いて、俺はグラスの中を覗き込んだ。


モヒートって、たしかカクテルの名前だよな…?


「矢吹、これって…」

「心配すんなって。ジュースだよ」


俺が言おうとしたことがわかったのか、すぐに矢吹が付け加えた。


よかった、酒じゃないのか。


「それじゃあ、いただきます」


安心した俺はさっそくひと口飲む。

すると、レモンとミントの香りが口いっぱいに広がった。


はちみつだから甘ったるいかと思ったが、炭酸水とレモンが調和して飲みやすい。

それに、ちょこんとのったミントが爽やかでいいアクセントになっている。


「おいしいよ、矢吹!」

「そうか?それならよかった」


矢吹は白い歯を見せて笑った。


その表情を見て、はっとする。

矢吹って、こんなふうに笑うんだと。



「ごちそうさまでした」


俺は空になったグラスを矢吹に差し出す。


「で、お会計なんだけど…。俺、今二千円くらいしか持ってないんだけど…足りるかな?」


おずおずとリュックから厚みのない財布を取り出す。

すると、なぜかマスターが大笑いした。


「椎葉くん、そんなことしなくていいよ!これは店からのサービスだから」

「でも…」

「それに、こちらこそこんなバーテン見習いのドリンクを提供しちゃってごめんね〜。こんなので、お金なんて取れないよ」

「ちょっとマスター、“こんなの”って…」

「だってそうだろ?ちょっとオシャレジュース作れたからって威張んなよ」


マスターに言い負かされ、ムスッと少し頬を膨らませる矢吹。


「椎葉、そういうことだから。それに友達から金は取らないよ」

「そうそう。あと数年後、椎葉くんが酒飲める歳になったら客としてきてくれよな」


こんなおいしいものをいただいたのに、本当にいいのかな。

と思いつつも、マスターと矢吹がそう言ってくれるならと思って、俺は財布をリュックにしまった。


「そうだ、千冬(ちふゆ)。今日はもう上がっていいぞ」

「え、もう?」

「ああ。椎葉くんといっしょに帰ったらいいから」

「でもオレ、今日まだ全然働いてないっすけど…」

「おれがいいって言ったらいいんだよ。それにほらっ、椎葉くんがまたさっきと同じやつらに逆恨みで絡まれないとも言い切れねぇし」


マスターの言葉に、矢吹はチラリと俺のほうを振り返る。

その表情はどこか不安そうだ。


「わかりました。じゃあ、今日は上がらせてもらいます」


矢吹はそう言うと、奥の部屋へと着替えに行った。


少しすると、俺と同じ制服姿の矢吹が出てきた。

その格好は、いつもよく見るボサボサ髪のダッサイ矢吹に戻っている。


「じゃあ、椎葉くん。よかったら、また遊びにきてよ。酒は出せないけど」

「はいっ、ありがとうございます」

「千冬、次のシフト明後日だから。よろしくな」


――“千冬”。

今まで気にしたことなかったけど、矢吹の下の名前って千冬だったんだ。


その名前の響き、どこか懐かしい気がするんだけど――。


「……ば!…椎葉!」


突然、俺を呼ぶ声が聞こえてはっとする。

隣を見ると、歓楽街を並んで歩く矢吹が俺の顔を覗き込んでいた。


「話聞いてた?」

「…ごめん、ぼうっとしてた」


それを聞いて、呆れたように笑う矢吹。


「お願いがあるんだけどさ、このこと…だれにも言わないでほしいんだ」

「“このこと”って?」

「オレが…、外ではあんな感じなこと」


“あんな感じ”とは、細マッチョでケンカが強くて、イケてる髪型でそれが似合うイケメンで、入れ墨やピアスがゴリゴリのダウナー系男子だったってことだよな…?


「マスターから聞いたけど、あっちが素の矢吹なんだよな?断然あっちのほうがモテるって!」

「そんなのいらねぇよ」

「なんで!?」


実はダウナー系イケメン男子だったって女子が知れば、みんな矢吹に対する見る目が一変すると思うけど。


女子だけじゃない、男子だってそうだ。

マッチョでケンカが強いとか、男の憧れだろ。


しかし、矢吹はそんなことは一切望んでいないらしい。


聞くと、中学生のときはそれで大失敗をしてしまったと話す矢吹。

矢吹のイケメンっぷりが学校中に知れ渡り、常に女子たちに囲まれて大変だったとか。


そもそも女子は苦手らしく、目立つことも苦手は矢吹は、青峰高校では素の自分を隠し地味男子を装っていた。


「それに、周りからモテたいんじゃなくて、オレは…1人の人だけに見てもらいたいから」


そう言って、矢吹は俺のことをじっと見つめる。


なんだ…?この展開。

まるで、矢吹の好きなやつが俺みたいな――。


って、なにおかしなこと考えてんだ、俺は。


とにかく、矢吹は素の自分は好きな人の前だけに留めておきたいってことだな。


そんな大切なこと、俺が知っちゃってよかったのかな。


「だから…。オレの秘密、みんなには内緒な」


ウインクしながら口元に人差し指を立て、はにかんで笑ってみせる矢吹。

一度素の矢吹を知ってしまった俺からすると、たとえ地味な格好だったとしても、もうなにをやってもイケメンにしか見えない。


「お、おう…!絶対だれにも言わない」

「ありがとう、椎葉。2人だけのヒミツってことで」


――“2人だけのヒミツ”。


矢吹がめちゃくちゃイケメンだっていうことは、周りは知らない。

俺だけが知っている矢吹の…本当の姿。


そんなことを考えたら、秘密の共有になぜだか胸がドキドキした。


「そうだ、矢吹。連絡先、聞いてもいいか?」

「…えっ」


俺の何気ない問いかけに、驚いたように大きく目を見開く矢吹。


「あ、ごめん…。無理にとは言わないんだけど、その〜…また今日みたいなやつらに絡まれたときに助けてほしいな〜、なんて」


でも、そんなことのために矢吹の連絡先を聞こうとするなんて虫がよすぎるか。

矢吹からしたら便利屋じゃねぇんだから、男ならそれくらい1人でなんとかしろって話だよな。


「わりぃ…!やっぱり、今の話はナシで――」

「…したいっ」


そのとき、隣から語尾の強まった返事が返ってきた。


「え?」


キョトンとして顔を上げると、頬を赤くし恥ずかしそうに俺に視線を向ける矢吹と目が合った。


「オレも…、椎葉と連絡先交換……したい」


やっとのことで声を絞り出す矢吹。

その姿がなんだかかわいくて、思わず俺は頬が緩んだ。


その日、俺たちは初めて連絡先を交換した。



ピーちゃんを追って変な路地に迷い込み、そこで不良に絡まれ殴られてしまった俺。


「椎葉くん、顔どうしたの?」

「あ〜…、ちょっと猫に引っかかれちゃって。…ハハハ」


次の日、驚いたように目を丸くして俺の顔を覗き込んできた愛奈ちゃんに、俺は笑いながらそう答えた。


ピーちゃんを見つけたけど捕まえられなかったなんて話したら、愛奈ちゃんを糠喜びさせるだけだし。

それに、無抵抗で不良に殴られたなんて…男として恥ずかしいし。


その後、何事もなかったかのようにピーちゃんが戻ってきたそうだ。


自分で家に帰れるなら、あのとき俺が必死になって追いかけて、挙句の果てに変なやつらに殴られた意味が…。

とも思ったが、愛奈ちゃんのためにと思って負った傷だから、名誉の負傷だと思っておく。


この傷のわけを知っているの矢吹だけ。

そして、そのときの矢吹の本当の姿を知っているのも――俺だけ。
――ある日曜日の朝。


「お待たせ」


俺が待ち合わせ場所に行くと、時計台の陰からだれかが振り返った。


「ううん。オレもさっききたところ」


現れたのは、黒色のパーカーにゆとりのあるカーキ色のパンツ姿の男子。

オールバックにセットしたヘアスタイルに、整った顔がよく似合う。


そう。

それは、ルームメイトの矢吹だ。


今週は、金曜日の学校終わりに俺も矢吹もたまたま実家に帰っていた。

そして、実家からお互いこうして待ち合わせ場所にやってきた。


今日は2人で遊びにいく予定をしている。


先週、俺から矢吹を誘ってみた。

母さんが商店街の福引で水族館のペアチケットが当たってそれをくれたから、この前助けてくれたお礼で矢吹と行こうと思って。


「それにしても、今日はその格好なんだな」


矢吹は学校での地味男子モードではなく、周りには秘密にしているダウナー系男子モード。

服もかっこよく決まっていて、がんばってオシャレしてきたつもりの俺が霞んで見えてしまうくらい。


「いいのか?もし学校のやつらに見られたら…」

「大丈夫だろ。あそこの水族館って、ここから少し離れてるし。知り合いに出会う確率は低いだろうから」

「でも、0%ってわけじゃないだろ?」

「まあな。けど、椎葉と2人でいるときは素のオレでいたい」


そう言って、矢吹が俺に微笑んだ。


そっか。

矢吹がそれでいいなら、俺はべつにどっちでもいいんだけど。


そうして、俺たちは電車に乗った。

しばらくの間電車に揺られることになるから、俺たちは空いている2人掛けの席に座った。


「あっ。あの雲、イルカみたいに見えね?」

「え、どこどこ?」

「ほら、あそこだって」

「だから、どこだよ〜」


窓に張り付いてイルカ雲を探す俺を見てクスクスと笑いながら、隣の席の矢吹が後ろから身を乗り出して窓を指をさす。


「あれだよ」

「あれか!」


すると矢吹は、窓に向かって人差し指を立てていた俺の右手をそっと自分の手で包みこんだ。


「違う違う。あっち」


そうして、窓の上を右側に滑らせるようにして誘導する。

矢吹の手のぬくもりが俺の手の甲にじんわりと伝わる。


それは、心地のいい温かさだった。


「椎葉、見えた?あれがイルカっぽい雲」


耳元で矢吹の声が聞こえて我に返った。


「…ああ!あの雲かっ」


矢吹に握られた俺の手の人差し指の先に、矢吹が言っている雲を見つけた。

思っていたよりも、なかなかイルカっぽい形をしている。


しかし今の俺は、イルカ雲よりも至近距離にいる矢吹のほうが気になって仕方がなかった。

なんで俺、こんなに矢吹にドキドキしてんだよ…!!


車窓から流れていく景色をいっしょに眺めていると、まるで2人で旅に出かけているような気分になった。



水族館の最寄り駅まで、まだあと30分はあるという頃。

停車した駅で老夫婦が乗ってきた。


それを見て、俺は立ち上がった。

と思ったら、ゴツンと頭をぶつけた。


ぶつけた頭を擦りながら隣を見ると、矢吹も同じように頭を擦っていた。

どうやら、同時に席を立ち上がったようだ。


「…イタタ。もしかして、矢吹も?」

「ははっ、同じこと考えてたみたいだな」


勢いよく頭をぶつけてしまったため、俺たちは顔を見合わせて苦笑い。

そして、通路をゆっくりとした足取りで歩いてきた老夫婦に俺が声をかけた。


「あの、ここどうぞ」

「あら、ありがとう。でも悪いわ、せっかく座っていたのに」

「お気遣いなく。オレたち、次の駅で降りるので」


そう言う矢吹だけど、降りるにはまだもう少し先。

でもそう言っておかないと、この遠慮気味な老夫婦は座ってくれなさそうだったから。


「ありがとう、助かるよ」

「やさしいのね、ボクたち」


その言葉に俺たちははにかんだ。

もう“ボク”と呼ばれる年齢ではないけれど、矢吹といっしょに褒められたらやっぱりうれしい。


俺たちがなかなか降りないと老夫婦が気を遣わないように、俺と矢吹はそっと隣の車両へ移動したのだった。



そうして、水族館に到着。


母さんからもらったチケットを財布から出して、さっそくゲートへ。

しかし、肝心の矢吹がついてこない。


「どうした?矢吹」


振り返ると、矢吹がうつむいたまま動かない。


「早く行こうよ」

「…本当にいいのかな」


ぽつりと矢吹が声を漏らす。


「ここまできてこんなこと言うのもあれだけど、そのチケット、椎葉のお母さんが『仲いいお友達といっしょに』って言ってくれたんだよな?」

「ああ、そうだけど」

「それなら、森さんと2人できたほうがよかったんじゃないのか?」


矢吹の言葉に、愛奈ちゃんの笑った顔が頭の中に浮かぶ。


「チケットの有効期限もまだあと半年近くあるみたいだし、オレじゃなくて今度森さんと――」

「…あー、もう!面倒くさいやつだな。俺の中では、お前が“仲いいお友達”なんだよ」

「え…、オレが?」

「そうだよ。春から同じ部屋で暮らしてて、みんなは知らない矢吹を俺だけが知っている。これって、“仲いい”他に言い方ねぇだろ」


俺がそう言うと、矢吹はぽかんとした顔で俺のことを見ていた。


…ヤベ。

『面倒くさいやつ』とか、…ちょっと言い過ぎたかな。


「と…とにかく!俺が矢吹といっしょに行きたいんだよ。だから、それでいいだろ」


俺には、これくらいしかお礼できることがないんだから。


そう思いながらドギマギして待っていると、矢吹がゆっくりと顔を上げた。


「椎葉がオレのことそんなふうに思ってくれてただなんて、めちゃくちゃうれしい」


矢吹のその笑顔は、地味男子の矢吹でも、ダウナー系男子の矢吹でも見せたことがないくらいキラキラしていた。


「行こうぜ」

「ああ」


俺がチケットを差し出すと、矢吹はそれを快く受け取った。



水族館の中は、カップルや家族連れで賑わっていた。

水族館自体くるのは久々で、実は俺も楽しみだったりする。


薄暗い館内では、矢吹の雰囲気もいつもと違って見える。


夜に矢吹と出歩いたことがあるのは、不良に絡まれて矢吹が家まで送ってくれたあの日だけで、あのときは明るい歓楽街を通っていた。

だけど今は、水槽の青や紫のぼんやりとした照明が顔にかかり、その怪しげな色がミステリアスな矢吹にピッタリで絵になる。


「矢〜吹っ」


俺は、ぼうっと水槽を見上げていた矢吹に歩み寄った。

そこは、ミズクラゲの水槽だった。


「クラゲ、好きなの?」

「そうだな。なんかずっと見てられる」

「あっ、それわかるかも」


ふわんふわんと自由に水中を漂うクラゲの姿は俺も好きだ。


「もう少しここにいてもいいかな」

「おう」


本当にクラゲが好きなんだな。

またひとつ、俺しか知らない矢吹を知ってなんだかうれしくなった。


――クラゲを見つめてたたずむ矢吹。


その姿が、なぜだか俺の初恋の桜ちゃんと重なった。


そういえば、小学1年生のときの遠足でどこかの水族館に行ったとき――。

桜ちゃんもあんなふうにクラゲの水槽を眺めていたっけ。


「椎葉、そろそろ行こうか」


すると、矢吹が声をかけてきた。


「もういいの?」

「ああ。それに、もうすぐイルカショーの時間みたいだから」

「ほんとだ」


俺たちは、イルカショーが行われるプールへと向かった。


様々な技を披露するイルカに拍手を送り、ときには客席にまで飛んできた水しぶきが顔にかかり、隣に座る矢吹と顔を見合わせて笑った。


タッチプールでは、ヒトデや小魚を触ることができた。


「…うおお!この魚、思ってたよりもヌルヌルする…!」

「椎葉、ビビリすぎだって。そっちのデカイ魚は?」

「えっ、…なんか噛まれそうじゃね?」

「大丈夫だって。てか、腰引けすぎ」


そう言って、大笑いしながら矢吹が俺にスマホを向ける。


その場で矢吹が撮った動画を見せてもらったら、たしかに魚を触るのにへっぴり腰になっている俺が映っていた。

なんだったら、脚も若干震えてる。


「だったら、矢吹が触ってみろよ。そのデカイ魚!」

「まあいいけど」


矢吹はパーカーの袖を腕まくりすると、水槽の中へ手を入れた。

ビビる矢吹を絶対に撮るんだと、俺はスマホを構えた。


「ほら、べつに噛まねーよ」


すると、まったくおもしろくないことに、平然とデカイ魚をも撫でてみせる矢吹。


「…なっ。そんなあっさり…」

「オレ、よくガキの頃じいちゃんと釣りに行ってたから。そのあと、釣った魚を捌くこともあったし、魚には慣れてるっていうか」


クソ〜!

どこまでかっこいいんだよ、矢吹のヤツ。


「そもそも、噛むような危ない魚ならこんなところに入ってないだろ」

「そ、それはそうだけど〜…」


見た目からしてなんだかこわいじゃん。


「それに、タッチプールでキャーキャー言ってるの、子どもと椎葉くらいだけど?」


そう言われて辺りを見回すと、触りながらも小さな悲鳴を上げてはしゃいでいるのは、小学生以下の子どもくらいだった。


「…俺、高2なんだけど」

「いいじゃん、だれにでも苦手なものはあるんだから」

「でも、子どもといっしょって…」

「だから、いいんだって。かわいい椎葉が見れたから」


…か、“かわいい”?


だれかから、“かわいい”と言われたのは初めてだった。

男の俺が“かわいい”と言われるのは変な感じだけど、それで矢吹が楽しそうなら…まあいっかな。


そのあと、お腹が空いた俺たちは、水族館内にあるレストランに昼メシを食べに入った。

ここは、全席水槽を眺めながら食事をすることができる。


俺と矢吹は、レストランの人気ナンバーワンのランチプレートを頼んだ。


運ばれてきたのは、サラダやフルーツもいっしょに付いたオムライス。

しかしこのオムライス、ただのオムライスではない。


海をイメージしているらしく、なんと上にかけられたソースが青いのだ。


そのインパクトある見た目に、俺は思わず横に置いていたリュックからスマホを取り出した。

しかし、構える前にそっとリュックの中に戻してしまった。


「見てー、すごいソースの色」

「ほんどだ!写真のほうがもっと青く見える〜」

「あとでSNSにアップしよ〜っと」


周りのお客さんは、パシャパシャと運ばれてきた料理の写真を撮っている。


本当は…俺も撮りたかった。

でも、友達の姿を撮り合うならまだしも、いちいち料理を撮るとなると女子みたいって矢吹に思われるかもしれないから。


「食べようぜ、矢吹」

「いいの?写真撮らなくても」

「…ええ!?そ、そんなのべつに撮らないし」


…ヤバイ、バレてたか?


俺は記念に写真に収めたい気持ちを押し殺して、オムライスの真ん中にスプーンを入れた。


青色ソースのオムライスは見た目こそすごかったが、思ったよりも味は普通だった。

なんだったら、普通のオムライスよりもおいしかった。


ただ成長期真っ只中の高2の俺からしたら、量としては少し物足りなかった。

まだ小腹が空いている。


矢吹も俺と同じなのか、ペロリと平らげていた。


「矢吹。外に売店あったから、あとでそこでなにか買ってもいいか?」

「オレは全然構わねぇけど」

「じゃあ、ひとまずここ出ようぜ」


そう言って席から立ち上がった俺の腕を、なぜだか向かいの席に座る矢吹がつかんだ。


「…矢吹?」


キョトンとして見下ろすと、ゆっくりと矢吹が顔を上げた。


「本当は、これを食べたかったんじゃないのか?」


矢吹が手にして俺に見せたのは、テーブルの端に立てかけていたメニュー表。

そこの期間限定のパフェのページを俺に見せた。


それを見て、ギクッとした。


「椎葉、ここに入る前、店の外にあったこのパフェの看板をずっと見てただろ?だから、頼みたいのかなって思ってて」


図星だった。


俺は甘いものが好きな、自称『スイーツ男子』。

とくに、期間限定商品には目がない。


もちろん、レストランの入口前に並べられていたこのパフェの看板はすぐ目に入っていた。


水色のゼリーが詰められた、上に海の生き物をかたどったクッキーがのっているパフェ。

しかも、プラス500円でシロクマの3Dラテアートのカフェモカをセットできる。


…そして、販売期間は今日まで。

今日を逃せば、二度とお目見えすることができなくなる。


見た目からしてかわいいし、絶対写真に撮りたい。


だけど、そもそもこんな女子ウケ狙いのスイーツを俺が頼んだら…。

絶対矢吹のやつ…引くよな。


そう思って、無難な人気ナンバーワンのランチプレートしか頼めなかった。


案の定、矢吹の視線が気になって、それすらスマホで撮ることはできなかったし。


実はそんな葛藤をしていた俺の気持ちに、…矢吹は気づいていたのか?


「小腹空いてるんだろ?だったら、ちょうどいいじゃん。今から追加で頼んだら」


矢吹の言葉に、俺の心が揺らぐ。


…た、頼みたい。


でも、キモすぎだろ。

パフェ頼んで、追加でシロクマラテアートのカフェモカもだなんて。


「いいの、いいの。すごいパフェだなーって、ちょっと見てただけだから」


本当は嘘。

だけど、そう言っておかないとせっかく抑え込んでいた『頼みたい』という欲があふれ出そうになるから。


矢吹に悟られないように無理して笑ってみせる。

完全に痩せ我慢だ。


――すると。


「じゃあ、オレは頼んでみようかな」


向かいの席からそんな声が聞こえた。

驚いて振り返ると、矢吹がメニュー表からひょっこりと目だけを出して俺を見つめる。


「実はオレ、このパフェ気になってたんだよね。でも、1人で頼むのはなんか恥ずかしいから、椎葉もいっしょに頼んでくれるとうれしいんだけど」


そう言って、視線をパフェのメニュー表へ促す矢吹。

俺はごくりと生唾を飲んだ。


「けど…矢吹、俺に合わせようと無理してない?」

「無理?なんで?」

「だって、俺のために好きでもないパフェなんて頼まなくても――」

「知らねぇの?オレ、スイーツめちゃくちゃ好きだけど」


それを聞いて、一瞬ぽかんとした。


細マッチョで、ダークオーラ漂うダウナー系男子の矢吹が――。

俺と同じ…スイーツ男子!?


「毎食、デザートに甘いもの食わないとやってけないタイプ」

「…矢吹が?どちらかというと、その見た目からして辛いもののほうが好きそうな感じだけど…」

「食べれないことはないけど、どちらかというと辛いものは苦手」


…マジかっ。

見た目とのギャップが違いすぎるだろ。


「だからさ、いっしょに頼もうよ。椎葉」


矢吹が甘えた声で俺を誘ってくる。

そんな声と上目遣いで見られたら――。


「そこまで言うなら…、仕方ねーな!」


俺はやれやれというふうにイスに座り直した。

でも本音としては、めちゃくちゃうれしかった。


「すみませ〜ん!」


矢吹が手を上げて店員さんを呼ぶ。


「この、『ドルフィンマリンパフェ』2つお願いします」

「かしこまりました。以上でよろしいでしょうか?」

「あ、ごめんなさい。セットで、この『シロクマカフェモカ』も2つで」


…3Dラテアートのカフェモカまで!

矢吹のやつ、わかってる!!



「お待たせいたしました。ドルフィンマリンパフェとシロクマカフェモカになります」


やってきたパフェとカフェモカを見て、思わず俺の口から感嘆の声が漏れた。


かっ…かわいい!

それにシロクマカフェモカに関しては、俺と矢吹のとで3Dになっているシロクマの表情がそれぞれ違った。


「じゃあ、さっそくいただきま――」

「待って、椎葉」


ロングスプーンをパフェの一番上にのったバニラアイスに振り下ろそうとした俺に、矢吹が待ったをかけた。


「矢吹、どうかしたか?」

「食べる前にパフェとカフェモカ、ちょっとこっちに移動させてもいいか?」

「え?…あ、ああ」


矢吹に言われたとおり、席から見える水槽のほうへパフェとカフェモカを並べる。

すると、矢吹がズボンのポケットからスマホを取り出した。


「かわいいから、ちょっと写真撮らせて」


そう言って、2つ並んだパフェとカフェモカを撮り始めた。

その姿に、俺は呆気に取られていた。


「…あ、わりぃ。もしかして…引いた?」

「う…ううん。でも、矢吹ってそんなキャラだったんだと思って」

「本当はさっきのオムライスのときも、椎葉が写真を撮るならオレも撮りたいなって思ってはいたんだけど」


矢吹が…そんなことを?


「でも、さすがにこのパフェセットはかわいすぎるから、そのまま食べるのは無理だった」


そう言って、照れたように笑ってみせる矢吹。


矢吹は同じスイーツ男子だけじゃなく、俺と同じで記念に料理の写真も撮りたいやつだったんだ。


「お…俺も、いいかな。写真撮っても」

「ああ。早くしないとアイスが溶けるぞ」


矢吹に促され、俺は思い思いにスマホで写真を撮った。


こんなかわいいシロクマの顔を壊すことなんてできない。

でも残しておいても次第に崩れていってしまうから、それならかわいい状態を写真に。


アングルを変えながら写真を撮る俺を、矢吹は微笑みながら見つめていた。


「うま!矢吹、この水色のゼリー食べたか!?」

「まだそこまで行ってねぇよ」

「へ〜。矢吹は順番に上から食べていく派なんだな」

「これが普通じゃね?」

「俺は、下へ下へと掘り進めていく派」


あまりのおいしさに、パフェを食べる手が止まらない俺。

だけどここでふと気になって、スプーンを握る手を止めた。


「椎葉?どうかしたか?」


不思議に思った矢吹が俺の顔を覗き込む。

俺はスプーンを置いて、矢吹に目を向けた。


「…やっぱり、変かな」

「変?」

「だって、男が2人だけでかわいいパフェ食べながらキャッキャッしてるのって」


周りを見ると、俺たちと同じパフェを食べている人たちはいる。

でもみんな、カップルや女子同士のお客さんばかりだ。


「なんだか、笑われてるような気もするし…」


俺はおそるおそる周りに視線を送る。

すると、矢吹がテーブルから身を乗り出して俺の顔を両側から挟んだ。


そして、こっちを向けと言わんばかりに無理やり顔を向けさせられる。


「周りからどう思われようが、そんなのなんだっていいじゃん。オレたち2人が楽しかったら、それで」


その瞬間、その言葉が俺の胸に突き刺さった。

まっすぐに俺を見つめる矢吹のまなざしには、一切の迷いがない。


「それに、案外椎葉が思ってるほどでもねぇよ?」


矢吹は俺にアイコンタクトを送る。

それを受けて辺りを見回してみると、俺たちのことを見ている人なんてだれもいなかった。


水族館内と同じで薄暗いレストランの中は、そもそも他のお客さんの表情まではっきりとは見えない。


「あははっ!じゃあ次はここまわろうよ」

「もう〜、そんなに急いで食べるから。だから言ったでしょ、フフッ」


それに俺の耳に聞こえた笑い声も、よく聞いたら俺たちに向けられたものではなかった。


「案外みんな、自分たちのことしか見てねぇんだよ」

「な、なんかそうみたいだな。ごめん、おかしなこと言って」


自意識過剰だった自分が恥ずかしい。


「椎葉はずっと周りには隠してたのか?スイーツが好きなことは」

「まあ…そうだな。男のくせにって思われそうだから」

「そんなの、男も女も関係ねぇよ。好きなものは好きなんだから」


矢吹はパフェにのっていたさくらんぼを口の中へと入れる。


「スイーツ好きなかわいい男もいれば、クールなものが好きなかっこいい女もいる。なにも変じゃねぇよ」

「そうなんだけど、そうじゃない男や女のほうが多いとは思うから」


俺はモテたいから、かっこいい男でいたい。

そう思ってスイーツ男子ということを隠していたし、これまで俺と同じような男子にも出会ったことがなかった。


「だったらさ――」


矢吹はそうつぶやくと、口の中からなにかを出した。

それはさっき食べたさくらんぼのヘタ。


なんと、そのヘタが蝶々結びになって出てきた。


「こんな近くに気の合う男が2人いて、偶然出会った。オレたちってめちゃくちゃラッキーじゃん」


――ラッキー…。


そうだよ。

もしかしたら、好きな人に出会う確率より低いかもしれない。


「オレは、俺の知らない椎葉を知れてうれしい」


矢吹の言葉が胸に響く。

俺が、周りは知らない矢吹を知ってうれしいように、矢吹も俺のこと…そんなふうに思ってくれていたんだ。


「ありがとう、矢吹」


俺はパフェを頬張った。

すると、それを見た矢吹がクスッと笑う。


「椎葉、ここっ。クリームついてる」


そう言って、自分の口元を指さす矢吹。


「へ?ここ?」

「違う違う、反対」

「このへん?」

「もう少し下」

「え〜…、もうどこだよ〜」


ぷぅっと頬を膨らませる俺を見て笑う矢吹が、握っていた自分のロングスプーンを俺のほうへと向けた。


「だから、ここだって」


俺の口元を撫でるようにしてスプーンを滑らせる矢吹。

見ると、矢吹のスプーンの上に白いクリームがのっていた。


「はい、あーん」


そう言われたものだから、俺は反射的に口を開けた。

その口の中へ、矢吹がクリームのついた自分のロングスプーンを差し込む。


ふと、ロングスプーンを握る矢吹と目が合った。


…この状況。

よくよく考えたら、俺が矢吹に食べさせてもらってるみたいな――。


想像するだけで、一瞬にして俺は顔が熱くなった。

暗がりでわからないとはいえ、きっと頬を真っ赤にしていることだろう。


そんな俺のことを悟ったのか、矢吹は人差し指を自分の口元にあてた。


「シッ。だから、心配しなくたって大丈夫だって。みんな自分のことしか見てないから」 


ドキドキしながら視線だけ周りに向けると、矢吹の言うとおりだれもこちらを見ていなかった。

みんなそれぞれのおしゃべりに夢中だ。


「そうだな」


俺も自然と笑みがこぼれた。


この席を取り巻くこの空間は、俺たちだけのものだ。



「は〜、さすがに腹いっぱい!」


俺は、飲み干したカップをコースターの上に置いた。

向かいに座る矢吹も、名残惜しそうに残りのカフェモカを飲んでいる。


「なあ、椎葉」

「ん?」


水槽を眺めていた俺が振り返ると、矢吹がそっとカップから口を離した。


「オレの前では嘘つかないで」


俺を瞳に映す矢吹の視線から目が離せない。


「スイーツ好きな話もそうだけど、ランチプレートを食べる前、本当は写真撮りたかったんだろ?」

「…え、あ…ああ、…まあ」


やっぱり、どうやら矢吹にはお見通しだったようだ。


「素直に言ってくれたらよかったのに。いや、べつに自分の分の料理の写真を撮るくらい、自由にしたらいいのに」

「だ、だって、女子っぽいだろ…?矢吹、引くかな〜って思って――」

「引かねぇよ!そんなことで、椎葉のこと引くわけねぇだろ!」


突然矢吹がテーブルを叩いて立ち上がるから、俺は目を丸くして驚いた。

さすがにこれには、周りの席のお客さんもこちらを見ていた。


「矢吹…!みんな見てるから」

「わ…わりぃ」


矢吹はパーカーのフードで顔を隠すと、おずおずと席に座り直した。

どうやら、自分でも思いがけず大きな声を出してしまったようだ。


「とにかく、椎葉がなにをしようとオレはなんとも思わねぇよ。むしろ、いろんな椎葉の一面をもっと知りたい」

「…矢吹」

「だから、オレの前では素のままでいて。オレがこうして、椎葉に本当の姿をさらけ出せているように」


そう言って、矢吹が俺の頭の上にぽんっと手を置く。

そして、わしゃわしゃと頭を撫でられた。


「や…矢吹!やりすぎだって…!」

「いいだろっ。かわいいんだから」


俺、矢吹から年下みたいに思われてるのかな。

だって、さっきから矢吹の言う“かわいい”って、“かわいい弟”みたいな意味で言ってくれてるんだよな?



レストランから出ると、俺たちはまだ見れていない残りのエリアをまわった。


男2人で水族館なんて嫌がるかなと思ったけど、楽しむ矢吹を見て俺もうれしくなった。


きてよかった。

そう思えた。


最後にやってきたのは、深海エリア。

深海魚が展示されていて、館内で最も照明が暗く設定された場所だ。


隣を歩く矢吹の顔でさえも若干見えづらい。


「深海魚って不思議だよな」

「そうだな。こんなやつが海の底にいるんだよな」


俺たちは、ひとつひとつの水槽を見てまわった。


「矢吹、見てみろよ。この魚、変な顔してる!」

「ほんとだ。でも、なんかちょっとかわいいかも」


ぶよっとした顔が潰れたような魚を見て笑う俺と矢吹。

隣の水槽に移ったとき、さっき俺たちが見ていた水槽にカップルがやってきた。


「見て見て!この魚、変なの〜」

「なんだよ、こいつ!希子、飼ってみてよ」

「えっ…。買うならカクレクマノミがいいな」


仲よさそうに水槽を覗き込むカップル。

しかし、そのときの俺は一気に額から汗がにじみ出ていた。


…“希子”?


聞き覚えのある名前に、そうっと顔を向けると――。

水槽の照明に照らされたその顔は、なんと愛奈ちゃんの親友の高田さんだった!


日曜日の人気の水族館。


知り合いに会う確率は0%ではないとは思っていたが、まさか同じ学校の、しかも同じクラスの人がこの水族館にいるだなんて…!

それに、高田さんの彼氏って青峰高校の1つ上の先輩だったよな…!?


もし2人が今のダウナー系男子の矢吹に気づいたら――。

きっと明日には学校中の噂になっているに違いない。


でも、俺でもぱっと見はすぐに矢吹に気づけなかったから、意外と出くわしても大丈夫だったりするのか…?

でも、さすがに声で矢吹とバレるか。


騒がれるのが苦手で、矢吹は地味男子と偽って姿を隠してるっていうのに、こんなところで学校のやつらにバレるわけにはいかない。


「ねぇ、隣の水槽も見ようよ」

「ああ」


…ヤバイ!

高田さんたちがこっちにくる…!!


「椎葉。さっきの魚気になるから、やっぱりもう一度――」


今そっちの水槽に戻ったら、高田さんカップルとすれ違う…!


俺は矢吹の口を防ぐと、とっさに壁の陰に隠れてしゃがみこんだ。


――ここが深海エリアの暗い部屋でよかった。

顔と同じくらいの高さにある水槽にしか目が行っていない高田さんカップルは、すぐそばの壁の陰にしゃがみこんでいる俺たちには一切気づかず、俺たちの前を手をつないで通り過ぎて行った。


「…あ。もしかして、…あれって高田さん?」


ようやく高田さんに気づいた矢吹が声を漏らす。

でも声が聞こえるといけないから、俺は矢吹の口元を塞いだまま。


息を殺して、高田さんカップルが遠ざかっていくをやり過ごす。


「次のところ行こっ」


高田さんカップルが深海エリアを出ていったのを確認して、やっとのことで安堵して大きなため息をつく。


「…危なかった〜。危うく、矢吹がバレるところだった」

「椎葉、お前…」


体と体が触り合うくらいの距離で、俺たちは声を潜めて話す。


「なに驚いた顔してんだよ、矢吹」

「だって、こんな必死になって隠れなくたって――」

「必死になるに決まってるだろ。矢吹の本当の姿は、俺だけの秘密なんだから。矢吹がそう言ったんだろ?」


俺は、あの日の会話を思い出す。


『だから…。オレの秘密、みんなには内緒な』

『お、おう…!絶対だれにも言わない』

『ありがとう、椎葉。2人だけのヒミツってことで』


ああ言って、約束したんだから。


「だから、矢吹の秘密は俺が全力で守ってみせるから」


そう言って、俺はニッと笑ってみせた。

暗がりでそれが矢吹に見えているかはわからないけど。


すると、突然矢吹が俺に向かって腕を伸ばしてきた。

左手は俺の背中にまわし、右手は俺の後頭部にやさしく添える。


見つめる矢吹の顔が近づいてきて――。

ドラマでよく見るシチュエーションに、思わず俺はドキッとした。


これは…!

もしかして…、キ…キキキキキキキキ……キス!?


とっさにギュッと目をつむると、予想に反して唇にはなにも当たらなかった。

気づいたら、俺は矢吹のたくましい腕に抱きしめられていた。


「ありがとう、椎葉」

「お、お礼なんかいいって…!」


だれかにハグされたことがなかったから、…正直恥ずかしい。

でも、嫌じゃなかった。


男同士だって、ハグくらいするよな。


それにしても、一瞬でも矢吹にキスされるかもなんて考えてしまっていた俺…バカだろ。



帰りの電車。

俺たちは、窓からオレンジ色にまぶしい夕日を眺めていた。


「椎葉、今日は誘ってくれてありがとう。楽しかった」

「ほんと?矢吹が喜んでくれたのならよかった」


今日はたくさん矢吹の笑った顔を見ることができて、いっしょにいて俺もすっげー楽しかった。


「椎葉はこのまま寮に直接帰るんだよな?」

「そのつもりだけど、矢吹は?」

「オレは実家に帰るよ。この格好のまま寮には戻れないしな」


今の矢吹は、ダウナー系男子モード。

寮へ帰るとなると、いつもの地味男子モードに戻らなければならない。


「明日は実家から登校して、それで授業が終わったら寮に帰るから」

「そっか」


このままいっしょに寮に戻れると思っていたから…なんだか寂しいな。

今日の夜は、部屋は俺1人か。


電車は、青峰高校の最寄り駅に到着する。

一旦矢吹とはここでお別れ。


「それじゃあ矢吹、また明日――」


と言って、ホームに降りた俺が振り返ると、閉まろうとするドアから矢吹が飛び出してきた。


「…や、矢吹!?」


突然矢吹が降りてきて、普通にビビった。


〈無理な駆け込み乗車等は危険ですのでおやめください――〉


ほら、アナウンスで怒られた。

絶対矢吹のことだよ。


俺たちがさっきまで乗っていた電車は、そのまま発進して行ってしまった。


「…ど、どうしたんだよ。忘れ物か?」

「違う違う。椎葉に見せたいものがあるのを思い出して」

「見せたいもの?」


首をかしげる俺の顔を矢吹が覗き込む。


「まだ時間、大丈夫そ?」

「俺は、寮の門限にさえ間に合えばいいだけだから、まだ大丈夫だけど」

「そっか、よかった」


矢吹は微笑むと、俺の手を引いて案内した。


連れてこられたのは、歓楽街の中にある矢吹のバイト先のバー。

しかし、バイト先に入るのではなく、その裏の通りへと進んでいく。


そして、ある建物の前で足を止めた矢吹。

しゃがみこんで、ゆっくりとシャッターを持ち上げると――。


「…おおっ!かっけー!」


そこに現れたものを見て、俺は声が漏れた。


矢吹が倉庫のシャッターを開けて俺に見せてくれたものは、艶のある黒いボディのバイク。


「これ…、矢吹の!?」

「ああ。ここ、マスターが所有してる倉庫で、オレのバイクも置かせてもらってるんだ」

「そうなんだっ。それにしても、めちゃくちゃかっけーよ!」

「フフッ、ありがとう」


指紋がついたら大変だから、遠めからまじまじと見つめる。


やっぱりバイクは男の憧れだよな!

俺もいつか、こんなでっけーバイクを乗ってみてーなぁ。


「椎葉!」


すると、後ろから矢吹が俺を呼ぶ声が聞こえた。

振り返ると、俺に向かってなにかが飛んできたから、矢吹のバイクに当たるといけないと思って慌ててそれをキャッチする。


俺がつかんだものは、ヘルメットだった。


「これは…?」


ぽかんとしながら矢吹のほうを見ると、矢吹はフルフェイスのヘルメットを装着していた。


「なにぼうっとしてんだよ。行くぞ」

「行くって…どこに?」

「さっき、『見せたいものがある』って言っただろ」

「…え?見せたいものって、このバイクのことじゃ――」

「違ぇよ、なんの自慢だよ。こんなんじゃなくて、もっとすごいの」


…すごいの?


「早く行こうぜ」


矢吹に急かされ、俺は不慣れにもヘルメットを被った。


「ど、どこに足を乗せたらいいんだ…?」

「足はここ」

「じゃあ、どこに捕まれば…」

「慣れてないなら、ひとまずはオレの背中にしがみついたらいいから」


矢吹がそう言うものだから、俺は遠慮なくギュッと矢吹の背中を包み込むようにして腕をまわした。


「…ちょっ、椎葉。いくらなんでも引っ付きすぎだって。もう少しゆとりを――」

「だ、だって…!俺、バイクに乗るのなんて初めてだから…!ちょ、ちょ、ちょっと…ビビってる」


本当はかっこよく矢吹の後ろに乗りたいところだけど、こわいものはこわい…!


べつに笑われたっていい。

矢吹が言ってくれたから。


『オレの前では素のままでいて。オレがこうして、椎葉に本当の姿をさらけ出せているように』


だから、俺もそのままの俺でいる。


それに矢吹なら、どんなに情けない俺を見たとしても絶対に笑うはずがない。


「じゃあ、椎葉があんまりこわくないように、いつも以上に安全運転で行くから。少しの間だけ、我慢できる?」


背中にしがみつく俺を振り返りながらやさしく矢吹が問いかけ、それに対して俺はブンブンと首を縦に振った。



バイクで走ること、30分。

太陽はすっかり沈んでしまって、月が顔を出そうにも今日は分厚い雲が空を覆っていた。


バイクは歓楽街を抜けてそのまま突き進んでいき、走り続けていると徐々に車通りが少なくなってきた。

街灯もまばらになって、空が暗い分まるで闇の中を走っているようだった。


矢吹はそんな明かりのない空を見上げて声を発する。


「いい感じ」


その言葉の意味が俺にはわからなかった。

そもそも、矢吹がどこに向かっているのかもわからない。


急にひんやりとした空気に変わったと思ったら、山道に入っていた。


「寒いか?」

「ううん、大丈夫」


俺は、再度矢吹の背中に抱きついた。

ほら、こうしたら温かい。


「着いたぞ」


矢吹は、周りにはなにもない山頂にある駐車場にバイクを止めた。


きれいとは言い難い公衆トイレと明かりに吸い寄せられた虫たちが舞う自動販売機がぽつんとあるだけ。

おそらく、明るい時間帯には山道の運転に疲れたドライバーが休憩に立ち寄ったりする場所なのだろう。


「こんなところに、…見せたいもの?」

「ここじゃねぇけどな。あっち」


そう言って、矢吹はスマホのライトを頼りに雑木林の中へ入っていった。

闇雲に歩いていくわけではなく、昔はハイキングコースだったようで、思ったよりも歩きやすかった。


そうして、雑木林を抜けて開けたところで前を歩いていた矢吹が足を止めた。


「これが、椎葉に見せたいもの」


そう言って俺のほうを振り返る矢吹の後ろには、まばゆいばかりの光の海が広がっていた。

その夜景のあまりの美しさに、俺は息を呑んだ。


「…すっげーーー!!!!」


そして、ワンテンポ遅れて感嘆の声が漏れた。


感動して小走りで駆け寄る俺の手を、なぜか矢吹が握った。


「足元悪いから、あんまりはしゃぐと危なねぇから。気をつけて」

「は…はいっ」


矢吹の注意を聞き入れ、俺は矢吹の隣で夜景を眺めた。

俺たちが暮らす街並みが、光の粒となってきらめいている。


「今日は月も出てないし、とくにきれいに見える」


暗がりでも、矢吹の微笑む顔がうかがえる。

ここへくる途中で、矢吹が空を見上げながら『いい感じ』とつぶやいたのはこのためだったのか。


有名な夜景スポットは人が多いだろうけど、ここには俺たち以外だれもいなく、聞こえるのは虫の音だけ。

静かに、そしてゆったりとした時間に包まれながら夜景を堪能することができる。


「ここって、矢吹が見つけたのか?」

「そう言いたいところだけど、マスターに教えてもらって一度連れてきてもらったんだ」

「へ〜、そうなんだ」


こんなところ、バイクか車じゃないとこれないもんな。

免許も持っていない今の俺には、絶対にこれないような場所。


しばらくその場で夜景を眺めたあと、矢吹がバイクで寮まで送ってくれた。

寮付近でだれかに矢吹を見られるとマズイから、少し離れたところで降ろしてもらった。


「送ってくれてありがとな、矢吹。夜景、すっげーきれいだった!」

「オレも、マスターに連れてきてもらった以来だったから、久々に見たら改めて感動した」

「そうだったんだ。まあ、あんなにきれいなんだからな」


俺はバイクから降りてヘルメットを外すと、それを矢吹に手渡した。

すると、なぜだか矢吹は俺の手を包み込むようにしてヘルメットに手を添えた。


「夜景を見たときのあの感動をだれかと共有したくて、次くるときは“大切な人”を連れてこようって決めてたんだ」


そう言って、矢吹が俺をまっすぐに見つめた。

その視線になぜだか俺の胸がドキッとする。


「え…、えっと。…矢吹、今のって――」

「オレ、行くな。おやすみ、椎葉」


矢吹はフルフェイスのシールドを下げると、バイクのエンジンを噴かせて颯爽と夜の街へと消えてしまった。


今日は矢吹と水族館に行って、夜はサプライズで夜景にも連れていってもらって、めちゃくちゃ楽しい1日だった。

新しい矢吹の一面を見たり、俺も矢吹に素を見せることができるようになった。


――それにしても。


『次くるときは“大切な人”を連れてこようって決めてたんだ』


あの意味は、いったいどういうことだったのだろうか。



なあ、矢吹。

お前の……“大切な人”ってだれのこと?
きゅっと唇を結び、目を閉じる俺。

そんな俺を伏し目がちに見つめる矢吹が、ゆっくりと俺に顔を近づけてきて――。


* * *


暦の上では秋だが、まだまだギラギラとした太陽が照らす9月はじめ。

長いようで短かった夏休みは先週で終わり、ムシムシと暑い中2学期が始まった。


そして、今日の6限はホームルーム。

1ヶ月後にある文化祭のために、クラスの出し物についての話し合いだ。


「それでは今回は、先週のホームルームで決まった出し物の劇のキャストや役割を決めたいと思います」


学級委員の2人が前に立って進行する。


俺たちのクラス2年1組がするのは『白雪姫』の劇。

台本が配られたが、主要キャストは白雪姫・王子・魔女・7人の小人くらいで、あとは衣装係や大道具・小道具、照明といった裏方だ。


「この歳で劇っていうのもな〜」

「ああ。おれは、大道具とかでいいかな」


周りの男子からはそんな声が聞こえる。


「そんなの、白雪姫は愛奈で決定じゃん」

「や…やめてよ、希子。私、人前に立つの苦手なんだから〜…」


愛奈ちゃんを推す高田さんに対して、愛奈ちゃんは遠慮がちに顔の前で手を横に振って否定する。


そっか、愛奈ちゃんは劇とかは苦手なのか。

俺も白雪姫役は愛奈ちゃんしかいないと思っていたが、愛奈ちゃんがイヤなら無理にはかわいそう――。


「うわっ。しかも、ラストに白雪姫と王子のキスシーンまである!」


…な!ぬっ!?


おそらく、この教室にいる男子全員が反応したのではないだろうか。


あ…、違った。

矢吹はまったく興味なさそうだから、矢吹以外の男子全員だ。


「お、おれ、やっぱり王子役でもいいかもな〜」

「…ずりーぞ!オレだって、小学生のときは演劇で褒められたことあるんだから、やるならオレが王子かなっ」


さっきまで大道具でいいと言っていたやつらが、いきなりそんなことを言い出してきた。

あいつら…、愛奈ちゃんとのキス狙いか。


「みんな静かにー!キャストや裏方役の振り分けは、公平になるようにくじ引きで決めます」


学級委員からの提案に、クラスの男子たちは鼻息を荒くする。


もし愛奈ちゃんと俺で白雪姫と王子になれなくたって、同じ係りになれば関わる時間も増えるだろうし。

…なんとしてでも、愛奈ちゃんと同じ係りにならなければ!


――そうして決まった。


俺は見事、愛奈ちゃんと同じキャストになることができた!


…しかし。

愛奈ちゃんの役は、まさかの白雪姫に毒リンゴを渡す魔女役。


一方俺は、…なぜだか白雪姫に選ばれてしまった!


「あ、あの〜。白雪姫は、フツー女子がやるものじゃ…」

「なに言ってるの、椎葉くん!今の多様性の時代に、これは男、これは女なんていう考えは古いよ!」


と、学級委員に一蹴されてしまった。


そして、白雪姫の相手となる王子役に選ばれたのは――。

なんと…矢吹!


「えっ、矢吹が王子って大丈夫かよ〜」

「地味ダサ王子なんて聞いたことねーよ」


周りの男子たちは小馬鹿にするように笑っている。


あいつらはなにも知らないから好き勝手言える。

言っておくけど、このクラスの男子の中で一番顔面偏差値高いのは矢吹だからな?


声を大にして言いたいところだが、それが言えないのがもどかしい。


周りと違って、矢吹が王子役をすることに対して俺は違和感はないが…。


「あ、あのぉ…学級委員」

「またどうしたの、椎葉くん」

「となると、俺は矢吹とチューすることに…?」


一番気になるのはそこだった。

俺は、ドギマギしながら返答を待っていた。


すると、なぜだか学級委員が笑い出した。

プププッという声まで漏れている。


「椎葉くん、そんなこと気にしてたの?」

「…ま、まあ」

「なにそれ、ピュアすぎ。一応台本には【ここでキス】とは書いてるけど、こんなの“フリ”に決まってるじゃん」


そうだよな…!

文化祭なんかで、マジでキスするわけねーもんなっ。


こうして、それぞれの役割が決まった。


「じゃあさっそく採寸を測るので、キャストはこっちにきてー!」


そう言って、衣装係のリーダーとして指示を出すのは高田さん。

高田さんは、意外にも手芸が得意なんだとか。


衣装係には、運よく手芸部や裁縫が得意なクラスメイトが集まっていた。

それもあってか、衣装係はこのホームルームでキャストの採寸を行ったあと、次の日からすぐに衣装作りに取り掛かった。


大道具や小道具、その他の係りも文化祭に向けて順調に取り組んでいる。

意外とこのクラス、チームワークがよかった。


キャストたちによる演劇の練習も、監督を中心に実にスムーズ。


こういうときって、大抵はクラスで意見の食い違いが起きて一度は分裂するものだけど。

現に、ギクシャクしているクラスもあるようだ。


しかし、俺たちはこの『白雪姫』の演劇に本気。


というのも、各学年で最優秀賞に選ばれたクラスには景品がある。

それは、3万円のお食事券!


文化祭後の打ち上げの足しにと、俺たち2年1組は虎視眈々と最優秀賞を狙っていた。


「お食事券をゲットできるかできないかは、最終的には白雪姫と王子の2人の演技力にかかってるんだからね!」


監督にそう言われてしまったら、「はい、がんばります」としか言えなくなる。


矢吹はバイトでみんなよりも早く練習を抜ける代わりに、帰ってきたら部屋で俺と2人で練習がしたいと頼んできた。


といっても、王子は白雪姫が毒リンゴを食べて倒れるまで出番はない。

ようやく登場したとしても、俺は棺の中で眠ったままの状態。


これといって絡みは少なく、2人で練習するほどでもなかった。

それでも矢吹は、バイト終わりで疲れているというのに夜遅くまで劇の練習に励んだ。


胸の上で手を組み、棺で眠っているふうの床で寝転ぶ俺に矢吹が近づく。


「『おお、なんと美しい姫だ』」

「…で、ここで小人Cが…『王子様、どうか白雪姫をお助けください!』」


俺は眠ったフリをしながら、片手に持った台本で小人のセリフを担当する。


「『私が姫を…?』」

「小人D『はい!姫を愛する者、つまり王子様の口づけで姫は目覚めることでしょう』。続いて小人Eが『お願いします、王子様!』。最後に小人Gが『どうか…!どうか姫を目覚めさせてください!』」


俺1人で、7人の小人のAからGまで分担するのはなかなか大変だった。

自分で言ってても、わけがわからなくなってくる。


「『話はわかった。私の口づけで姫が目覚めるというのなら――』」

「おし!矢吹、完璧」


と、いつもここで中断して休憩を取る。


体を起こそうとした俺に、矢吹が手を伸ばす。

俺は微笑んで、ありがたくその手を取った。


「それにしても矢吹、実は演技うまいんだな」

「そんなことねぇよ。周りのキャストや、…椎葉が真剣にしてくれるから感情移入できるだけで」

「そりゃ、真剣にもなるよ。監督に俺たちの演技にかかってるなんて言われたら」

「だな」


俺たちは顔を見合わせて笑った。


こうして矢吹と秘密の特訓をするうちに、あっという間に1ヶ月が過ぎた。

季節は、矢吹の長袖姿も違和感のないみんながカーディガンを羽織り始める秋となった。



そして、今日は待ちに待った文化祭。


「「超カワイイ〜♪」」


女子たちのキャッキャッした声を浴びるのは――、この俺。


俺は、高田さんがこの3日徹夜して細部の仕上がりまでこだわったという白雪姫のドレスに身を包んでクラスメイトたちの前に現れた。


矢吹から弟扱いで『かわいい』と言われるのはまだ納得できるが、女子から『カワイイ』と言われるのは少し複雑な気分。

だって、男ならやっぱり『かっこいい』と言われたいから。


「わー!椎葉くん、すごく似合ってる!」


そう言ってやってきたのは、黒いローブをきた魔女役の愛奈ちゃん。


「そ、そうかな。俺がドレスだなんて…変じゃない?」

「そんなことないよ!すっごくかわいくて、もしわたしが男子だったら好きになっちゃうかも」


その瞬間、俺の胸がドキッと鳴った。

す…、好きになっちゃう…!?


ま、まあ、愛奈ちゃんに『かわいい』と言ってもらえるなら、べつにこれでも構わないか。


劇の順番が近づき、衣装に着替え終わったキャストたちはメイクも施されていく。

しかし、ここでトラブル発生。


「そ…!それは…無理だから!」

「どうして?絶対取ったほうがいいって!」

「いや、だからダメなんだって!」


後ろのほうから男女の揉める声が聞こえる。

この声は、矢吹と高田さんだ。


振り返ると、高田さんが矢吹のなにかを取り上げようとしている。


いったいなにをそんな必死になって――。


と思ってよく見ると、なんと高田さんが矢吹の瓶底メガネを外そうとしていた…!!


すでに矢吹は王子役のかっこいい衣装を着て、ヘアスタイルもいい感じに整えられている状態。

このままでは、矢吹がイケメンだということが周りにバレてしまう…!


あのダッサイ瓶底メガネだけが、本当の矢吹の姿を隠す最後の砦だというのに!


「ちょっと…高田さん!矢吹のメガネだけは――」


俺も矢吹を助太刀しに駆け寄ろうとしたが、慣れないドレスのせいで裾を踏んでしまい、情けなく床に転倒してしまった。


「はい、取ったー!」


そんな高田さんの喜びの声が教室内に響く。

見ると、まるで騎馬戦で相手のハチマキを奪い取った勝者かのように、高田さんは矢吹のメガネを空高く掲げる。


「「…あっ」」


その瞬間、教室内にいたクラスメイトたちが一斉に息を呑み、同時に声を漏らした。

俺も含め、この場にいる全員の視線が無防備になった矢吹へと注がれる。


「や…、矢吹くん。その顔――」


だれかがそんな声を発した。

それを皮切りに、女子たちが甲高い悲鳴を上げる。


「ええぇぇぇぇ…!!!!矢吹くん、実はめちゃくちゃイケメン!?」

「なんで隠してたの!?ていうか、隠す必要ある!?」

「ほ、ほんとにお前…矢吹か?」


矢吹の素顔を知って、女子だけでなく男子からもどよめきの声が聞こえる。

そんな中、唯一絶望していたのは俺だった。


…知られてしまった。

矢吹の隠し通してきた本当の姿が。


『矢吹の秘密は俺が全力で守ってみせるから』

――って約束したのに。


「た…たたたた、高田さん!早くメガネ返してっ…」

「なに言ってるの、矢吹くん!こんなイケメンって知って、返すわけないでしょ!」


高田さんからメガネを取り上げようとする矢吹を他のクラスメイトたちが押さえつける。


「なっ、なにすんだよ…お前ら!」

「頼む、矢吹!最優秀賞のためだ…!」

「お願い〜!それまでこのままでいて!」


というのも、最優秀賞に選ばれるには、先生たちの投票を最も多く獲得する必要がある。

各学年の出し物に対し、先生1人につき1票が与えられているが、校長先生だけは5票保持している。


校長先生は、5クラスに1票ずつ投票することもできれば、1つのクラスに5票すべて入れることもできる。

そうなると、校長先生の5票を独占したクラスはかなり優位になる。


そこで鍵となるのが、矢吹の明かされたイケメンだということにクラスメイトたちは気づいた。


実は、校長先生は自他ともに認める“面食い”。

推しのアイドルグループのライブには欠かさず行っていると、前の朝礼のときに熱く語っていた。


そして、最近気になっているのが韓国のダウナー系アイドルグループ。

それこそ、メンバーは矢吹のような雰囲気のやつばかり。


だからこそ、校長先生の5票を一気にかっ攫うため、素顔の矢吹がなんとしてでも必要なのだ。


矢吹も矢吹で、見た目によらず頼まれたら断れないタイプ。


「わ、わかったから…!劇が終わったらすぐにメガネ返してくれるなら」

「もちろん、返す返す!ありがとー!」


こうして、矢吹は隠していた秘密をすべてさらけ出した状態で劇に挑むこととなった。


時間になり、俺たち2年1組は体育館へと向かった。

一旦舞台袖に待機し、劇の始まりを待つ。


「なあ、矢吹」


俺は、周りに聞こえないくらいの声で矢吹に声をかけた。


「どうした?」


振り返った王子役の矢吹は、メイクを施されたこともあってさらにイケメン度合いが増していた。


「その…、よかったのかよ?」

「ああ、素顔のこと?」

「そうそう」


女子に騒がれると困るからと、あれだけ正体を隠していたっていうのに。


「正直、…いやだよ。正体がバレて」

「だよな…。ごめんっ。俺、矢吹を守ってやれなくて…」

「いいって、そんなこと。それに、あのとき椎葉が駆けつけようとしてくれてたのは知ってるから」


あのときの俺…、本当に不甲斐ない。

それに、矢吹の前でマンガみたいなダッセー転け方したし。


「それにしても、よく似合ってるな。矢吹」

「そうか?“王子”ってキャラじゃねぇけど」

「それはたしかに」


俺たちは顔を見合わせて笑い合う。


「ずっと思ってて言えてなかったけど、椎葉だって似合ってるよ。白雪姫の格好」

「なんだよ、お前〜。バカにしてるだろ」

「してねぇよ。椎葉はどちらかというとかわいい顔をしてるから、もともと似合うんだよ」

「ドレスが似合うって言われても、なんもうれしくねーよ」


プイッと顔を背ける俺を見て、矢吹はクスクスと笑う。

そんな俺の肩を矢吹が叩き、振り返ると矢吹の人差し指が俺の頰に刺さった。


「まあまあ怒るなよ。褒めてるんだから」

「だーかーら、褒められても困るって」

「いいじゃん。“オレだけのプリンセス”って気になるから」


そう言って、矢吹はオレに爽やかなウインクをしてみせた。

『オレだけのプリンセス』という言葉の意味が知りたくて聞き返そうとしたが、矢吹は監督に呼ばれていってしまった。



〈お待たせいたしました。次は、2年1組の演劇『白雪姫』です。どうぞお楽しみください〉


照明を落として暗がりの体育館内にアナウンスが響き、ゆっくりとステージの幕が上がった。

いよいよだ。


〈――この国には、たいそう美しい娘がおりました。名前は、白雪姫〉


ナレーションに合わせて、舞台上の俺にスポットライトが当てられる。

白雪姫役の俺を見て、観客席からは笑い声が聞こえた。


「もしかして、あの白雪姫って…椎葉くん?」

「わっ、ほんとだ!かわいい〜!」


奇抜なキャスト設定に、周りは驚いている。


そして劇は、大きなミスもなく順調に進んでいく。


「『まあ!なんて大きくて丸いリンゴなこと!』」

「『ヒッヒッヒ〜。とってもおいしいリンゴだよ。さっそく味見しておくれ』」


白雪姫役の俺は、魔女役の愛奈ちゃんからリンゴを渡される。


「『それじゃあ、お言葉に甘えていただきま――ゔっ…!!」』


俺はリンゴをかじるフリをして、そのままステージの上に倒れた。

ここで一旦、照明が落ちる。


次にステージが照らされたとき、俺はすでに棺の中で眠っている役だった。


「『…うっ、うっ。姫…、どうしてこんなことに』」

「『白雪姫がいなかったら、ボクたちはこれからどうしたらいいというんだ…!」』


棺を囲むようにして、7人の小人役のクラスメイトたちが泣き崩れている。


劇後半は俺はずっと棺の中で横になったままのため、…正直暇。

だから、練習のときもそうだったけど、この時間は度々眠くなってしまう。


〈――そこへ、王子がやってきました〉


そして、ようやく矢吹の登場だ。


「『この森に、たいそう美しい娘がいると聞いてやってきたのだが』」


スポットライトを浴びながらステージに現れた矢吹。

それを見て、一瞬観客席が静まり返った。


棺の中で目をつむっている俺には見えないが、見たこともないイケメンに観客たちがぽかんとしている顔が想像できる。


「えっ…、なにあのイケメン」

「かっこよすぎるっ。…でもあんな人、1組にいた?」


観客席がざわついている。


「まさかとは思うけど…、もしかして…矢吹くん?」

「はっ!?矢吹くん!?そんなわけ――」

「…ほんとだ!言われてみたら、…矢吹くんかも!」


みんなイケメンすぎる矢吹に驚いている。


そうだろ、そうだろ。

地味男子の鎧を剥がした矢吹のかっこよさに恐れおののけ。


俺はずいぶん前から、矢吹の本物の姿を知ってるんだからな。



劇は、王子と小人たちの会話で終盤に差しかかる。

すると、その会話が心地よい子守唄のように聞こえ、とてつもない眠気に襲われた。


な、なんでこんなときにっ…。


だけど昨日の夜、文化祭への緊張からなのか、なかなか寝付けなかったのは確か。

気づいたら夜中の2時を過ぎていて、そういえば寝不足だった。


アドレナリンのおかげなのかここまでなにも感じていなかったが、棺の中でこうして横になっていたら一気に眠たくなってきた。


ダメなのに…。


必死に眠気に抗おうとするが眠ったフリのため動くこともできず、どんどんまぶたが重たくなっていく。


うっすらと遠くのほうに小人のセリフが聞こえる。


「『お願いします、王子様!』」

「『どうか…!どうか姫を目覚めさせてください!』」


しかし、意識がはっきりとせず夢か現か判断できない俺は、目をつむったままセリフの会話を聞き入る。


「『話はわかった。私の口づけで姫が目覚めるというのなら――』」


矢吹の声も聞こえる。


――このセリフ。

ということは、劇はクライマックスを迎えようとしている。


白雪姫役である俺は、王子役の矢吹にキスをされめでたしめでたし。


そう。

キスの“フリ”を――。


そのとき、俺の頬になにかが当たった。

柔らかく、あたたかいもの。


でも、これまでの劇の練習でそんな感触を感じたことは一度もなかった。

そういえば、矢吹との2人での練習のときは、王子が白雪姫にキスする直前で休憩を挟んでいた。


クラスでの通しの練習は、矢吹が俺に顔を近づけてきたくらいだった。


だから、矢吹とはキスシーンをほとんど練習したことがなかったけど――。

さっきの感触は、も…もしかして……キス?


でもでも…!

そうだったとしたら、どうして?なんで俺に?


劇だから?

だけど、そんなことで本当にキスをするか?


だって、キスって好きな人とするものだよな?

頬だったとしても、矢吹がノリや冗談でしてくるとは思えない。


…ということは?


頭の中で何度も何度も自問自答を繰り返すが、答えなんかが出てくるわけがなかった。

こんなの、直接矢吹に聞いてみるしかねぇだろ…!


「なあ!矢吹――」


ついさっきまで眠気は一気に吹っ飛び、俺は勢いよく棺の中から飛び起きた。

そのとき、額に硬いものがぶつかり、脳内にゴンッという鈍い音が響いた。


「…イッテ」


額を押さえて顔を上げると、すぐ目の前には俺と同じように少し顔をしかめながら苦笑いする矢吹の姿が。

その傍らには、ぽかんとした顔で俺を見つめる7人のクラスメイトたちがいる。


ずっと目をつむっていたせいで、突然視界に入った照明にとっさに俺は目を細めた。

そして、額を小突き合わせた俺と矢吹を見て笑いが起こる。


えっと、これはいったいどういう状況で――。


そこではっとした。

自問自答して矢吹のことで頭がいっぱいになってしまっていたが、今はまだ演劇中だったことを思い出す。


「『『し…、白雪姫姫!』』」


白雪姫が練習とは違い、ものすごい勢いで目覚めてきたものだから小人たちはギョッとして驚いていたが、すぐに台本通りのセリフに修正された。

俺もすぐに脳を切り替える。


「『…ま、まあみんな!こんなところに集まって、いったいどうしたの?』」

「『白雪姫が突然倒れてしまって…』」

「『でも、王子様のキスで目が覚めたのです!』」


お、王子様の…キス。


俺はおそるおそる顔を上げた。

そこには、俺を見下ろす矢吹が。


だけど、その表情はとても柔らかく、やさしいまなざしで俺のことを見つめていた。


「『姫、目を覚ましてくださったのですね』」


そう言って矢吹はひざまずき、俺に手を差し伸べる。


何度も練習したシーンのはずなのに、なぜだかこのときばかりは、矢吹のその紳士的な振る舞いに思わずドキッとしてしまった。


その手にそっと手を添えると、一気に矢吹が俺の体を引っ張り上げる。

そして、気づいたときには俺は矢吹の腕の中にいた。


こんな動きは台本にはないし、練習でもしたことがない。

ここは、ただ白雪姫と王子が見つめ合うだけのシーンのはずなのに――。


「『姫。これから先、私があなたをお守りします」』


男の色気ムンムンの矢吹に抱きしめられ、それが矢吹の演技だと頭ではわかっていても、俺は顔が真っ赤になってしまった。


〈こうして白雪姫は王子様と結婚し、小人や森の動物たちといつまでも仲よく幸せに暮らすのでした〉


締めくくりのナレーションが流れ、ステージの幕が完全に降りきるまで、俺は矢吹に抱きしめられながら見つめ合うのだった。



「よかったよー!」


劇が終わった瞬間、舞台袖に控えていたクラスメイトたちから拍手が起こる。

その拍手に包まれながら、俺たちはみんなのもとへと戻った。


「最後、椎葉くんが練習とは違う感じで起きたときはびっくりしたけど!」

「ねっ。本当はもっとゆっくり起き上がるはずが、飛び起きてたよね?」

「あ…あれは、実は棺の中でガチ寝しちゃってたみたいで。たぶん自分でも夢か現実かわかってなくて、それでびっくりして起きたというか…」

「それで、矢吹とデコぶつけてるしな!」


やっぱり、あの『ゴンッ』という鈍い音は、俺と矢吹の額がぶつかった音だったのか。


「椎葉くん、劇本番にガチ寝なんてありえないよっ」


そう言って詰め寄ってきたのは、この劇の監督を務めたクラスメイトの女子。


「す、すみません…」


自分でも反省している。

白雪姫には暇だったシーンとはいえ、まさか本当に寝てしまうだなんて。


「だけどまあ、それで観客席からは笑いが起きたし、お客さんが楽しんでたくれたのならそれはそれでよかったけど」


という監督からの救いの言葉に、俺は胸が軽くなった。


「それに、とくに最後がよかったよ。王子様に抱きしめられて、顔を赤くするところ」

「…あっ、あれは――!」

「矢吹くんも突然アドリブで行動しだすからびっくりしたけど、本当のカップルみたいで思わずうっとりしちゃった!椎葉くん、あの表情どうやったの?チークでも塗った?」


いやいや、そんなわけない。

急に矢吹が抱きしめてくるから、とっさにそういう反応をしてしまっただけで…。



こうして、各学年すべての出し物が終わり、見事2年の最優秀賞クラスに輝いたのは――。


〈2年1組の『白雪姫』です〉


その瞬間、クラスメイトたちから歓声がわき起こった。

ハイタッチを交わしたり、監督なんて感極まって涙まで流している。


俺もそばにいた矢吹と顔を見合わせた。

そうしたら、なんだか胸の中からワァァァァアとなにかがあふれ出してきて――。


「やったな、矢吹!」


そう叫んで、俺は矢吹に飛びついた。

そんな俺を足が床に着く前に矢吹が空中でキャッチする。


劇が終わってすぐにいつもの地味男子モードに戻って見た目もやしな矢吹だけど、体を鍛えていることは知っていたから軽々と飛びついてきて俺を持ち上げる。


「…し、椎葉!引っつきすぎだろ…!」

「今くらいいいじゃん。うれしいんだから」

「でもっ、周りにみんながいるから…」

「関係ねぇってそんなこと!それにほら、周りだって――」


俺は、矢吹に辺りを見回すようにと視線を促す。

俺たちだけではなく、クラスメイトたちも男女関係なく抱き合って喜んでいる。


「俺たちだけじゃないだろ?だから、せっかくだしこうさせてよ」


じゃないと、俺の今のこの喜びをどこに発散すればいいというんだ。

すると、矢吹が気だるげにため息を漏らす。


「…しゃーねぇな。今だけ特別だからな」


面倒くさそうにそう話す矢吹だけど、瓶底メガネの奥の瞳が笑っているのが見えた。



その日の夜。


「「最優秀賞、おめでと〜!!」」


ソフトドリンクの入ったジョッキを持って、乾杯を交わす俺たち。


景品の3万円分のお食事券もゲットし、打ち上げでクラスのみんなと焼肉屋へきていた。

俺はキャストのみんなで集まって座っていて、右には愛奈ちゃん、左には矢吹が座っている。


「それにしても、矢吹くんの王子様…ほんとによかった!」

「そうそう!もともと演技はうまかったし、あとはビジュアルが〜…って思ってたら、蓋開けたらものすごいイケメンで」

「校長先生、大絶賛してたもんね!」


そう。

今回最優秀賞に選ばれたのは、劇の内容が評価されたということもあるが、矢吹の素顔のかっこよさが炸裂し、校長先生が持ち票5票をすべてうちのクラスに入れてくれたというのがデカかった。


文化祭のMVPは、間違いなく矢吹だ。

だから劇以降、クラスメイトたちの矢吹を見る目が変わった。


しかし、俺は知っている。

それは、矢吹が望んでいるわけではないということを。


「矢吹くん、なんで戻っちゃったの?あのままでいいじゃん」

「そうだよ!劇を見た他の学年からも反響大きかったし、せっかくのイケメンなのにもったいないよ〜」


クラスメイトの女子たちが矢吹の周りに集まってくる。

中学のときの矢吹もこんなふうな状況だったのだろうか。


常に女子に集まられていたら俺だって苦手になるかもしれないし、だれにも声をかけられず1人でのんびりしたいと思うかもしれない。

矢吹が地味男子を装う意味にも納得だ。


「椎葉くん、お肉焼けたよ。このお皿に置いてもいいかな?」

「う、うん。ありがとう」


右隣の愛奈ちゃんが俺に話しかけてくれるが、正直今は簡単な受け答えすらもあまりできない。

というのも、左隣に座っていて女子の質問攻めにあう矢吹のことが心配で。


「みんな、そろそろ自分の席に戻ったら?お肉、硬くなっちゃうから」

「お肉はあとで食べるから大丈夫!」


俺が席に戻るように女子たちを促しても、軽く受け流されてしまう。


一度イケメンだとバレてしまったら、今は地味な格好をしていてももはや無意味。

これまで、矢吹に対してとくになんの興味も示さなかった女子たちが、積極的に質問したり連絡先を聞こうとしている。


「今度の日曜日、いっしょに遊びにいかない?」

「え〜、ずるい!あたしも矢吹くんと遊びたいのに〜」


矢吹もやさしいやつだから、女子からのお誘いをはっきりと断れなくて困っている。

だったら、俺がなんとかしなくちゃ…!


「…いや、オレはそういうのは――」

「あれ?もしかして、彼女に怒られるとか?」

「え!矢吹くん、彼女いるの!?」


矢吹を助けようとしたはずなのに、つい俺も同じく聞き返しそうになった。

これまでルームメイトとしていっしょにいたが、彼女がいるような素振りは見受けられなかったから。


でもそういえば、だいぶ前に矢吹が話していたのを思い出した。


『いいんじゃね?無意識に好きな人を目で追うのは、仕方のないことだと思うし。オレもそうだからわかる』


あの言い方からすると、矢吹にはおそらく――。


「彼女はいないけど、好きな人なら…いる」


矢吹のその言葉に、それまで群がったいた女子たちが一瞬静まり返る。


「だ、だから、いろいろと誘ってくれてうれしいんだけど…。オレ…、好きな人以外とは2人きりで遊ぶつもりはないというか。その人に誤解されたらいやだから…」


これが、矢吹なりの最大限の丁寧な断り方なんだと俺は感じた。


イケメンだからと来るもの拒まずではなく、矢吹の中でこの人1人だけと決めた人がいる。

つまり、それ以外はどれだけ矢吹に近づこうとしてもだめなんだ。


矢吹はずっと一途にその人だけのことを想っている。


「だから、…なんかごめん」


そう言って、矢吹は女子たちに対してぎこちなく頭を下げた。

すると、矢吹のその姿をぽかんとしながら見ていた女子たちから声が漏れた。


「…かっこいいっ」

「矢吹くん、一途すぎじゃない!?」

「うわー、矢吹くんに想われてるその人がうらやましい」


断られた女子たちは逆上してヒートアップするのではと心配したが、意外にも落ち着いて矢吹の話を聞いていた。

その人を想う矢吹の想いの強さに圧倒されたというか、矢吹の目にはその人しか映っていないのだと認めざるを得なかったというか。


「矢吹くんは、そのコとは進展なし?」

「進展なしっていうか、その人にはすでに好きな人がいるし。だから、オレは見ているだけでいいから」

「てことはさ、矢吹くんの好きな人って、意外と身近にいるってこと?」


確信を突いた質問に、矢吹は一瞬言葉に詰まった。

それが、すでに答えのようなもの。


「あ〜、図星だ〜!」

「でも、イケメンでも恋に苦労するんだね」


それに対して、矢吹は苦笑いを見せる。


「いいんだよ。もともと両想いになれるとも思ってないから」


女子が苦手なはずの矢吹が、普通に女子と話している。

輪の中にも溶け込んでいるようで、クラスのやつらとあんなふうに笑う矢吹は初めて見る。


前髪をかき上げながら「笑いすぎて涙が出てきた」とか言って、涙を指で払うときに素顔を隠している伊達メガネを取って。


それを見て、なぜだか俺の胸がだれかに鷲づかみにされたようにギュッと痛かった。

矢吹の楽しそうな笑顔を見るたび、どんどん胸が痛く苦しくなった。



焼肉屋での打ち上げを終え、俺たち2年1組はみんなで少し歩いたところにある墓地の前にきていた。

食事中、だれかが「このあと肝試したい!」と言い出して、急遽この墓地ですることになった。


「こんな時期にって感じだけど、肝試し久々だから楽しみ」

「ね!ただもう10月だから、肝試ししなくたってすでに夜は肌寒いけどね」


みんなはなんだかんだ言いながら、ペア決めをする。

そうして俺は、偶然にも矢吹とペアになった。


「…よ、よろしく矢吹」

「おう」


ルールは2人1組ずつのペアで出発し、墓地の一番奥にある祠で折り返して戻ってくるという簡単なもの。

前のペアが帰ってきたら、次のペアが行く。


急遽決まった肝試しのため、コース途中におどかすための準備はなにもされていない。

ペアといっしょに暗い墓地を行って帰ってくるだけだ。


しかし、この墓地にはある噂がある。


それは、暑さが和らぎ涼しい風が吹く季節になる頃――。

真夜中に、墓地の中をさまよう白い着物を着た女の幽霊が目撃されている。


しかも、一度や二度ではない。


この辺りではわりと有名な話で、だからこそこの墓地が肝試しの定番の心霊スポットとなっている。


「椎葉、…大丈夫か?」

「だ、だ、だだだだだ…大丈夫っ」


順番待ちで横並びする矢吹に俺は笑ってみせる。

が、全然大丈夫などではなかった。


というのも、俺はオバケや幽霊がとてつもなく苦手…!

今でも、恐怖で足が小刻みに震えている。


それに、幽霊目撃の噂の時期と今の時期がピッタリだから、余計に俺の中で怖さが増す。


「無理だったら、べつに今からやめても――」

「…ほんとに大丈夫だから!」


だって、周りのやつらは全然ビビってない。

それに、高田さんとペアだった愛奈ちゃんも、さっき「楽しかった〜」なんて言って帰ってきたところだし。


俺だけ、「こわいからやっぱり行きたくない」とはこの場で言えるわけがなかった。


「それにもし途中でなにかあったとしても、矢吹、お前なら助けてくれるもんな…!」


なんてったって、俺のペアは不良でも蹴散らしてしまう最強の矢吹。

そんな矢吹といっしょにまわるなら、オバケなんてこわくない!


「そうだな。椎葉はオレが守るから」


頼り甲斐のある矢吹の言葉に俺は大きくうなずいた。


そして、ついに俺たちに順番がまわってきた。


「椎葉くん、がんばって〜!」

「う…うん!行ってくる!」


ビビっていると悟られないように、俺は満面の笑みで愛奈ちゃんに返事をした。


おどかし役がいるわけでもないから、ただただ墓地をまっすぐに歩いていくだけ。

しかし、進むにつれて徐々にひんやりとした空気に変わっていく。


「あ〜、涼しい」という爽快なものではなく、いやに体にまとわりつくというか。

まるで、冷え切った手で体をなでられているみたいだった。


この嫌な雰囲気をどうにかしたくて、俺は文化祭の話題を振る。


「そ、それにしても今日の文化祭、まさか最優秀賞を取れるとは思わなかったな」


こうしていたら気も紛れる。


「そうだな。でも、みんな演技うまかったし」

「それもあるかもだけど、とにかく矢吹が大絶賛だったじゃん」

「ん〜…。オレ、そんな評価されるようなことしてないと思うけど」

「いやいや、とくに最後!審査員の先生たちみんな言ってたじゃん。本当にキスしたみたいでリアルって――」


と言いかけた俺だったが、あのときのことを思い出したら突然胸がすごい速さでドキドキしてきた。


…そうだ。

本当にキスしたみたいとかじゃなくて、棺の中で眠る俺の頬に柔らかくてあたたかいものが触れた――。


ような気がしただけで、実際はどうだったのだろう。


正直…、あのときの俺はガチ寝していた。

だから、なにが触れたのかもわかっていないし、本当はなにも触れてないのかもしれない。


寝起きで記憶もうろ覚えだし、あのときの真相を知っているのは矢吹だけ。


「…なあ、矢吹。劇の最後、白雪姫にキスするところって、…あの…その。俺の頬にキスしたりなんか――」

「してねぇよ」


俺が言い終わる前に、俺に背中を向けたままの矢吹が言った。

表情はわかるないが、迷いのないその口調に俺はそれ以上は聞けなかった。


やっぱり、そうだよな。

俺の思い過ごしだよな。


…でも、どうしてだろう。

がっかりと少し落ち込んでいる自分がいるのは。


矢吹はすでに俺が怖がりなのをわかっているようで、常に俺の一歩前を歩いてくれる。

その矢吹の頼もしい後ろ姿といったら。


ところがここで、俺は見てはいけないものを見つけてしまう。


…なんと、矢吹の背中の向こう側にある木の上に、白いヒラヒラとしたなにかがなびいていた。

まるで、俺たちを出迎えるようにヒラリヒラリと波打っていて――。


「や…やややややや…矢吹っ」

「…どうした、椎葉?」

「あ、あれ…」

「あれ?」


プルプルと震える手で俺が指さすほうへ矢吹もゆっくりと顔を向ける。

そして、矢吹も見つけてしまったようだ。


「椎葉、もしかしてあれって…」

「…間違いねぇよ!白い着物を着た女の幽霊だ…!!」


自分の声にもさらに驚き、恐怖がピークの俺は失神寸前。

そんな俺の手を矢吹が握った。


と思ったら、突然ものすごい速さで無言で走り出した。

俺は足をもつれさせながら、そのスピードになんとかついていくので必死。


あっという間に祠にたどり着き、一気に折り返した。

さっきの白いヒラヒラを見た木のそばも一目散に通り過ぎ、気づいたときには向こうのほうにクラスメイトたちが待っているのが暗がりでも見えるところまで戻ってきていた。


そこでスタミナが切れ、呼吸を整えるためにその場に座り込む。


「はあ…、はあ…、はあ…」


あんなにガチで走ったのは久々で、深呼吸しても呼吸の乱れが治まらない。


「し…椎葉、大丈夫か?」

「あ…、ああ。…なんとか」


俺に背を向ける矢吹も肩で息をしているのがわかる。


「…それにしても、なんでいきなり?もしかして、ビビる俺のために早く通り過ぎようと――」

「違ぇよ」


暗闇に響く矢吹の低い声。

そして、ぎこちなく振り返った矢吹がこう言った。


「オレも、…幽霊とか苦手なんだよ」


その言葉に、俺はキョトンとする。


「…へ?」

「だ…、だからぁ。オバケとか幽霊とか、そういう類の話とかスポットとかが、めっっちゃくちゃ苦手なんだよ…!」


…ええええーーー!!!!!

ケンカが強くて、不良相手にもバチバチにやっちゃうあの矢吹が――。


まさかの、オバケが苦手…!?


「で、でも、全然そんなふうには…」

「だって、ずっと痩せ我慢してたから」

「…痩せ我慢?なんで?」

「決まってんだろ。怖がってる椎葉に、『実はオレもすっげー怖くて』なんて言えるわけねぇだろ」


そう…だったんだ。

ビビる俺をさらに怖がらせないために、矢吹は平気なフリをしてくれて。


なんだよこいつ、どこまでいいやつなんだよ。


「今だから言うけど、足は震えないように我慢してるけど、本当はずっと歯は震えてるからな」

「…マジ?」

「大マジ。それに、さっきの白いヒラヒラのせいで心臓なんて今でもバックバク」

「いやいや、俺でもさすがに落ち着いてきたっていうのに、それは言いす――」

「ほら」


そう言って、俺の手を取った矢吹が自分の胸へと導いた。

矢吹のドキンドキンという心臓の鼓動が、俺の手のひらを通じて伝わってくる。


「…ほんとだ」

「だから言ったろ」


矢吹は口を尖らし、恥ずかしそうに顔を背ける。

その仕草がなんだかかわいく見えて、矢吹の顔を間近に見つめる俺は思わず頬が赤くなった。


「でも、あんなに強い矢吹が幽霊が苦手だっとは…」

「だって、幽霊にパンチもキックも効かねぇだろ?対処の仕様がねぇものと、どうやってやり合えっていうんだよ」

「それは…たしかに」


とつぶやいて、ここであることに気づいた。

いつの間にか、矢吹の顔から伊達メガネがなくなっていた。


「矢吹、メガネは?」

「ん?…ああ、もしかしたらさっき爆走したときに落としたのかもな」


あのダサい瓶底メガネはなく、思いきり走ったせいで風で前髪がかき上げられ、今の矢吹は本当の姿のダウナー系になっている。


「メガネ落としたこと、全然気づかなかったわ」


そう言って笑う矢吹を見て、また胸がギュッと苦しくなった。

この感覚は、さっきの焼肉屋で矢吹が女子たちといっしょに話しているときと同じだ。


べつに、なに女子にチヤホヤされたんだよとか、そういう嫉妬などではない。

矢吹がクラスメイト、とくに苦手だったはずの女子と仲よくしている姿を見て、よかったなと素直に思った。


ただ、無意識に矢吹は本当の自分が出ていた。

矢吹にとっても、他の人に対して素の自分が出せることはいいことなんだろうけど――。


『だから…。オレの秘密、みんなには内緒な』


矢吹の秘密は、俺だけのものだったのに。


今日でみんなに知られた。

もう、“俺だけ”の矢吹じゃなくなってしまう。


矢吹の笑った顔も、怒った顔も、恥ずかしそうに頰を赤くする顔も、全部全部俺しか知らない矢吹だったのに――。


でも、矢吹がオバケが苦手だということは俺だけの秘密。


矢吹が見せる初めての顔は、全部最初は俺がいい。

もっともっと俺が知らない矢吹を知りたい。


そして、他のやつらには知られたくない。

矢吹は、俺だけの矢吹なんだから。



…って、あれ?

この気持ちって、いったい――。
文化祭から3週間。


実は矢吹がイケメンだったという噂はまたたく間に広まったが、あれからも矢吹は地味男子モードを徹底し続けた。

そのため、あの劇で見たイケメンは幻だったのではといった感じで、矢吹に集まる女子たちは日に日に減っていき大きな混乱には至らなかった。


矢吹の本当の顔がバレたときはどうなることかと思ったが、今では以前と変わらない平凡な日々を過ごしている。


――と言いたいところだが、実際はそうでもない。

俺が。


「なあ、椎葉。ちょっといいか――」

「…うぉわあぁぁ!な、なんだよ、矢吹!」


休み時間、矢吹が俺に話しかけにちょっと俺の肩をたたいただけで、俺は変なリアクションを取ってしまった。


「どうした?ごめん、脅かすつもりじゃなかったんだけど」

「…いや、俺もそんなつもりじゃなかったんだけど。なんか…」


なんか、矢吹に話しかけられると心臓がビクッと跳ねる。

しかも、ボディタッチ付きだと余計に。


“あの夜”以降、なぜだかまともに矢吹の顔を見れなくなった。


“あの夜”というのは、文化祭があった日の夜だ。

みんなで打ち上げで焼肉屋へ行き、そのあと肝試しをしに墓地へ。


そこで、女の幽霊が着ている白い着物のようなものを目撃してしまった俺たちは、手を繋いで一目散に逃げた。

あとからあれは、風で飛ばされて木に引っかかっていた白いタオルだったことをクラスメイトから聞かされたが、あのときの俺たちはマジで幽霊だと思っていた。


幽霊が苦手な俺と、俺と同じくらい…いや、それ以上かもしれない矢吹は、本当は自分も怖いことを隠して俺のそばに寄り添ってくれていた。

そんな健気でやさしい矢吹に、あのときの俺は正直ドキッとした。


それに、俺しか知らなかった矢吹の本当の顔を他のやつにも知られたという嫉妬も相まって、そのときからやたらと矢吹のことを意識するようになった。


こんな感覚…、自分でも不思議だけど。


でも、なんだか懐かしいような気もする。

そういえば、前にもこんな感じがあった。


――そう。

あれは、小学1年生のときだ。


初恋の相手、桜ちゃんを見て想ったあの初々しい気持ちと同じ。


愛奈ちゃんを好きだったときの気持ちとも似ているけど、矢吹を見たらドキッとするこの気持ちは、どちらかというと桜ちゃんへの気持ちに近い。


矢吹と同じ部屋だったとしても、矢吹がいないときは今なにしてるのかななんて、ふとしたときに矢吹のことを考えている。

そのくせ、矢吹が戻ってきたら胸がドキドキしだして、まともに矢吹の顔も見ることができなくなってしまうから困りものだ。


前みたいに、なにも考えずに矢吹と話せたらいいのに――。

今はそれができない。


そして、矢吹がたまに話しかけてくれるものなら、内心めちゃくちゃ喜んでいる。

 
でも、俺に向けてくれるその笑顔も俺だけのものじゃないと思うと…やっぱり切なくなる。


『彼女はいないけど、好きな人なら…いる』


打ち上げのときにこう話していた矢吹。


その人には好きな人がいるようで、矢吹はその人のことを想っているからこそ、あえて気持ちを伝えるつもりはないのだそう。


しょせん俺は、ただのルームメイト。

よくても、かわいい弟くらいにしか思われていないだろう。



そんなある日。


「椎葉。今度の日曜日、遊園地行かね?」


まさかの矢吹からお誘いがあった。

しかも、遊園地デート。


驚いた俺は、目を丸くして矢吹を凝視した。


「…あ、ごめん。言い忘れてたけど、べつにオレと2人きりってわけじゃなくて」


慌てて訂正し直した矢吹だったけど、それを聞いて内心ショックだった。


…なんだ、矢吹と2人じゃないのか。


てっきりクラスの男子たちとでも行くのかと思っていると――。


「高田さんと森さんといっしょなんだよな」

「え?あ…、そうなの?」


意外な名前が出てきて、俺はすぐに返事ができなかった。

そんな俺の顔を矢吹が覗き込む。


「もしかして、用事あった?それなら、違う日に――」

「ううん、ちょうど空いてる」

「マジ?よかった。じゃあ、そういうことでよろしく」


そう言って、矢吹は白い歯を見せて教室から出ていった。


高田さんと…、愛奈ちゃんもいっしょなんだ。

きっと前までの俺なら、飛び跳ねて喜んだことだろう。


それなのに、愛奈ちゃんに対してのあれだけ高ぶっていた気持ちが、文化祭以降不思議と落ち着いていた。

愛奈ちゃんにしか目が行っていなかったのに、ふと気づいたときに俺がいつも目で追っているのは矢吹だった。



そして、日曜日。


「……ば。し…ば」


未だに夢の中にいる俺の耳に、だれかの声が響く。


「…椎葉、椎葉」


ようやく俺の名前が呼ばれていることに気づいて、はっとして目を開けた。

すぐそばに顔を向けると、俺のベッドに頬杖をついて俺を見下ろす矢吹のドアップの顔があった。


「や、矢吹…!」

「おはよ、椎葉」


目が覚めたら矢吹の顔が視界いっぱいに映って驚く俺に、矢吹はマイペースにあいさつをする。


「椎葉、今日みんなで遊園地って覚えてるか?そろそろ起きたほうがいいぞ」

「あ…ああ」


どうやら矢吹は、2階のロフトにいる俺をお越しにきてくれたみたいだった。


「えっ、もうこんな時間!?」

「そうだよ。椎葉、アラーム鳴ってるのに何回も自分で消して寝てたから」

「…そ、そっか」

「あまりにも気持ちよさそうに寝てるから、本当は起こしたくはなかったけど」


そう言って、矢吹は穏やかに微笑んだ。

その顔が、寝起きの俺にとっては朝からまぶしく見える。


「早く準備しないと遅れるぞ。いいのか?初っ端から森さんにかっこ悪いところ見られても」


矢吹は、俺の歯ブラシに歯磨き粉をつけて渡してくれた。


愛奈ちゃんにかっこ悪いところ…か。


今の俺にとっては、愛奈ちゃんにどう思われるかなんてたいしたことでもないんだけどな。


歯磨きをする俺の隣で、髪をセットする矢吹が鏡に映った。

伊達メガネは外して、普段はあえてボサボサにしている髪をワックスで整えて。


「あれ?愛奈ちゃんや高田さんもいっしょなのに、いつもの格好じゃなくていいのか?」

「まあ、せっかく出かけるしな。それに、文化祭のときにオレの顔は一度みんなに見られてるし」


だから今日は、ダウナー系矢吹で行くのだそう。


正直、意外だった。

俺と2人で遊ぶときならわかるけど、そうでないのに矢吹がオシャレをするだなんて。


それに、いくら女子への苦手意識が徐々になくなってきたとはいえ、2対2で遊びにいくだろうか。

しかも、デートスポットの定番である遊園地なんかに。


これはもはや、いわゆるWデートというやつだ。


でも、Wデートというと…どういう組み合わせになる?

俺と高田さん、矢吹と愛奈ちゃん…はちょっとおかしいよな。


だとすると、俺と愛奈ちゃん、矢吹と高田さんってことか。


アトラクションで、もし俺が愛奈ちゃんと2人きりになることがあってもそれはそれでべつにいいんだけど、矢吹は高田さんと2人きりになっても平気なのだろうか?

1年のときも同じクラスとはいえ、2人で仲よさそうに話してるところはあんまり見たことがないけど。


そんな状況になるかもしれないということくらい、きっと矢吹だってわかっているはずだ。

だけど、それでも4人で遊園地に行くことを決めた。


……まさか。


ここで、あることが俺の脳裏をよぎった。


そういえば、この前の打ち上げのとき――。


『進展なしっていうか、その人にはすでに好きな人がいるし。だから、オレは見ているだけでいいから』

『いいんだよ。もともと両想いになれるとも思ってないから』


どうやら、矢吹は叶わない恋をしているということがわかった。


ハナから諦めているということは、おそらく矢吹の好きな人は『彼氏持ち』。

彼氏という絶対的な存在がいるから、自分なんて入り込む隙間もない。


きっと矢吹はそう思っているんだ。


そして、彼氏持ちで一応矢吹の一番身近にいる女子といったら――。

それが、高田さん!


この推理で俺は、矢吹の好きな人は高田さんだという答えを導きだした。

そうなると、これまでの矢吹の言動にも納得がいく。


しかも、高田さんはつい最近俺たちが水族館で見かけた彼氏と別れたと愚痴をこぼしていた。

それをチャンスに思って、矢吹は今回4人で遊園地に行くことを決めたに違いない。


だから、高田さんに本当の自分をすべて見せるために、こんなにも念入りに服装やヘアスタイルをセットして――。


4人だろうと、俺は矢吹と遊園地に行けることを楽しみにしていたけど、…違った。

矢吹は、高田さんとのデートを楽しむつもりだったんだ。


愛奈ちゃんには悪いけど、俺たちはいっしょに行くことになっただけのただのモブ。

今日の主役は、矢吹と高田さんなんだ。


俺と矢吹は寮を出て、待ち合わせ場所の駅へと向かった。


「あっ!椎葉く〜ん、矢吹く〜ん!」


駅の改札前で、俺たちに向かって手を振る愛奈ちゃんを見つけた。

その隣には高田さんの姿も。


「おはよう。今日はよろしくね」

「うん!楽しもうね」


そう話す俺たちの横で、矢吹と高田さんはなにも言わずにアイコンタクトを交わす。

それが、なんだか意味深に感じた。



開園時間ピッタリに目的の遊園地に到着。


まず初めに、4人でコーヒーカップに乗った。

ハンドルを思いきり回してはしゃぐ愛奈ちゃんは見ていてかわいいのだが、それよりも俺は隣に座る矢吹と、その隣に座る高田さんのことが気になって仕方がなかった。


…だって。

なんか2人、座る距離近くね…?


と思ったり。


そのあと、ゴーカートに乗ったりジェットコースターに乗ったりと、遊園地にあるアトラクションをすべて乗る勢いでまわった。

休憩を挟んでいなかったため、昼メシを食べに入ったフードコートのベンチでようやくひと息つく。


「午前のうちにけっこう乗れたよな」

「そうだね。お昼食べたら、まだ行けてないあっちのエリア行こうよ」


そう言いながら、愛奈ちゃんはテーブルに三つ折りになっていた遊園地のマップを広げる。


「愛奈、椎葉くん。お昼、なに食べる?あたしと矢吹で買ってくるからさ」


…え、矢吹と高田さんが2人で?


これまで乗ったアトラクションでも、2人1組で乗るものはすべて俺と愛奈ちゃん、矢吹と高田さんペアで乗った。

本当は矢吹と2人で乗りたいとも思ったが、なんだか自然なふうに毎回そうなった。


それなのに、お昼も2人いっしょに買いにいくのか…?


「高田さん!2人に任せるのは悪いから、俺も行くよ!」

「大丈夫、大丈夫!それにここも混んできたから、愛奈と椎葉くんで場所取りよろしくね」

「ちゃんと椎葉の分も買ってくるから安心しろよ」


俺に向かってフッと笑ってみせる矢吹。


…べつにそんなことを心配しているわけじゃない。

今日の矢吹と高田さん、…やっぱりいつもより距離が近いよな?


俺は、そのことを気にしてんだよ。


「じゃあ、希子。わたしはハンバーガーのAセットでお願い。ドリンクはリンゴジュースで」

「オッケー。椎葉くんは?」

「じゃ…じゃあ、ホットドッグのBセットで。ドリンクは適当で」

「はいはーい。じゃあ矢吹、行こっか」

「ああ」


そう言って、2人は人混みの中へと消えていった。

この場に残されたのは、俺と愛奈ちゃん。


「あの2人、なんだかお似合いだと思わない?」


2人の行方を目で追っていた俺に愛奈ちゃんが話しかけてきた。


「…えっ、そ…そう?」

「うん、そうだよ。希子も矢吹くんも背が高いし、スタイルもいいし」


そう言われてみたらそうだ。

園内でも2人が並んで歩く姿は、まるでモデルのようにどこか様になっていた。


「希子、前の彼氏に浮気されちゃって別れたんだよね」


あの水族館のときの彼氏か。

けっこう長く付き合ってたみたいだけど、…そうだったんだ。


「しばらく彼氏は作る気ないとは言ってるけど、もし次付き合うことがあれば、わたしは矢吹くんみたいなやさしい人がいいなって思ってるの。希子の親友としてね」


愛奈ちゃんのやさしげな表情を見ると、本当に高田さんのことを大切に思っているんだなということが伝わってくる。

同時に、俺の中でモヤモヤしていたことが確信へと変わった。


愛奈ちゃんの話からして、やっぱり今日の遊園地は高田さんと矢吹の距離を縮めるためのものだったんだ。


おそらく愛奈ちゃんが計画して、高田さんと矢吹を誘い――。

男1人はいやだからとかなんとか言った矢吹が、人数合わせのために俺を誘ったのだろう。


「でも、矢吹くんって好きな人がいるとかだったよね?だから、今すぐ希子とどうなってほしいとかじゃないんだけど…」

「いいんじゃない?たぶん、遅かれ早かれそうなるんじゃないかな」


俺は力なく吐き捨てた。


矢吹の好きな人は高田さん。

愛奈ちゃんも高田さんのことを応援するのなら、俺も…矢吹のことを応援してやらなきゃいけないよな。


本当はそんなのいやだし、悔しいけど…。

矢吹が長年想っている人といい感じになれるのなら、俺が協力しないでどうすんだよ。


そう自分に無理やり言い聞かせる。



「お待たせー」


少しすると、全員分の注文した商品を買った高田さんと矢吹が戻ってきた。


「はいっ。これ、愛奈の分のセットね」

「ありがとう。お金、あとで返すね」


俺の正面に並んで座る愛奈ちゃんと高田さん。

俺の隣には矢吹が座った。


「矢吹はなに買ったんだ?」

「椎葉といっしょ。ホットドッグのBセット」


矢吹がテーブルに置いたトレイの上には、ホットドッグとフライドポテトと容器に入ったドリンクがそれぞれ2つずつのっていた。

同じものを頼むことはべつに不思議でもなんでもないが、なんだか矢吹とお揃いみたいで俺は少しだけうれしかった。


「ドリンクだけど、適当って言ったからオレが勝手に決めたけど、コーラかジンジャーエールどっちがいい?」


矢吹は俺の前に、どっちものドリンクを置く。


「椎葉、炭酸好きだろ?でもなにが飲みたいのかまではわからなかったから、とりあえずどっちも炭酸にしたけど」


矢吹、俺が炭酸好きなこと知ってくれていたんだ。

それで、俺がどっちを選んでもいいように2種類の炭酸ジュースを買ってくれた。


「椎葉が選んで。オレはどっちでもいいから」


やさしすぎるだろ、矢吹。


俺はうれしさを噛みしめながら、片方のドリンクにそっと手を伸ばした。


「…じゃあ、コーラで」

「やっぱり。オレも椎葉はなんかそっちを選ぶ気してた」


なに笑ってんだよ、矢吹。

俺のことを知り尽くしてるみたいな言い方されると、やたらと心臓がドキドキするからやめろって…!



昼メシを食べ、午後からは愛奈ちゃんが言っていたまだ行っていないエリアへと向かった。

ここでも、ペアになるようなアトラクションは俺は積極的に愛奈ちゃんと乗るようにした。


本当は、矢吹と高田さんが2人きりではしゃぐ姿なんて見たくもない。

見たくもないけど…、矢吹のためなら仕方ない。


「高田さん、次あれいっしょに乗ろ」

「いいよ!行こ行こ!」


ほら、矢吹から高田さんを誘ってる。

やっぱり、“そういうこと”なんだよな。


楽しむ場であるから表情には出さなかったか、本当は泣きたいくらいにつらかった。


「次は、あれ行ってみない?」


ふと、足を止めて指さす愛奈ちゃん。

その指の先にあったのは、ぱっと見ても不気味な雰囲気が漂う建物があった。


そう。

それは、お化け屋敷。


そういえば、愛奈ちゃんと高田さんは怖いものが好きなようで、この前の肝試しだって楽しそうにしていた。


そんな2人とは違い、俺と矢吹は苦手…!

しかも、こんななんでも得意そうなダウナー系男子の姿の矢吹が、実はめちゃくちゃ怖がりということを高田さんに知られたら――。


ほら、矢吹だって笑ってはいるが俺にはわかる。

実は顔が引きつっていることくらい。


矢吹のためにも、ここは俺がどうにかしないと…!


「あ、愛奈ちゃん!あのお化け屋敷、混んでるみたいだよ!?」

「え?でも、だれも並んでないよ?」

「入口に待ち時間が表示されてるけど、3時間待ちだって!」

「待ち時間…?でも、これまでのアトラクションには、入口にそんな表示あったかな」

「あれだけ特別なんじゃないかな!?」


とにかく俺は、お化け屋敷から遠ざけることに必死。


「この距離からじゃ、わたしには3時間待ちっていう表示も見えないけど…。矢吹くん、目いいんだね!」

「そう!それが取り柄だから!」


ほんとはウソ。

普通の視力しかない。


「せっかくきたんだし、あまり並ばずに乗れるものにしようよ!」

「そうだね」


お化け屋敷が混んでいるというのも、待ち時間が表示されているというのもすべてが嘘だけど、なんとか愛奈ちゃんの足を別に向かわせることに成功した。


「じゃあ、あれはどうかな?」

「いいね!」


やってきたのは、これまたお化け屋敷のような箱型の建物。

しかし、さっきとは違って飾りもないシンプルな造りだ。


「『リアル脱出ゲーム』だってさ。おもしろそう!ねっ、矢吹」

「そうだな」


高田さんと矢吹も乗り気なようだ。


さっそく中に入ると、係員さんがゲートの前に立っていた。


「ようこそ、リアル脱出ゲームへ!ここでは2人1組になって、数々の謎を問いてゴールを目指してもらいます」


ここも、2人1組か。

――だったら。


「行こう、愛奈ちゃん」

「えっ…!」


俺は自ら愛奈ちゃんの手を取った。

なぜか、愛奈ちゃんの頬がぽっと赤くなったような気がするのは気のせいだろうか。


矢吹、お前は高田さんと2人で仲よくやれよ。


俺は背中で矢吹に語りかけると、振り返ることなく愛奈ちゃんと入口のゲートをくぐった。


お化け屋敷と違って、怖いものはなかった。

ただ、ちょっと頭を使うくらい。


意外と順調に進んでいき、最後の部屋の問題を問いていた。


「椎葉くん、…わかる?」

「うん、ちょっと待って。あと少しで解けそう」


俺は暗号を解読していき、そしてついに答えを導き出す。


「…『サクラ』!扉を開けるパスワードは、『サクラ』だ!」


それを聞いた愛奈ちゃんがパネルに『サクラ』の文字を入力すると、ようやく最後の扉が開いた。

西の空に傾いたオレンジ色の太陽の光が差し込んできて、俺は思わず顔を背けた。


ゴールの出口は、建物の入口の真裏に繋がっていた。


「希子たちはまだかな?」

「う〜ん…、そうみたいだね」


辺りを見回したが、矢吹と高田さんの姿はなかった。

俺たちは2人が出てきたらすぐにわかるようにと、出口が見えるベンチに座って待っていた。


「それにしても、椎葉くんすごいね!ほとんど1人で問いちゃうんだもん」

「…ごめんね。俺ばっかりで、愛奈ちゃんはつまらなかったよね」

「ううん、そんなことないよ!それに、最後の答えの『サクラ』は、難しすぎてわたしには絶対に解けなかったよ」


暇なときに、スマホのアプリの謎解きゲームをよくしているから、そのおかげかもしれない。


「希子と矢吹くん、遅いね」

「うん。苦戦してるのかな」


そうつぶやきながら、出口から矢吹が出てくるのを待っている俺の肩を愛奈ちゃんがたたいた。


「ねぇねぇ!最後のパスワードの『サクラ』で思い出したんだけど、矢吹くんの前の名字って『桜』だったらしいね」

「…桜?そうなの?」

「うん。さっきたまたま聞いて」


矢吹の前の名字があるなんて知らなかった。

矢吹は矢吹だと思っていたから。


「椎葉くんはジュースを買いにいってていなかったときけど、園内を走っていく女の子を後ろからそのお父さんが呼んだの。『サクラ』って」


その『サクラ』というのは女の子の名前だったようだが、同時になぜか矢吹も振り返ったんだそう。


「聞いたら、両親が離婚する前の名字が『桜』だったって話してくれて。それで、反射的に自分が呼ばれたのかと思って体が反応しちゃったんだって」


たしか、矢吹の下の名前は『千冬』だったよな?

ということは、小学生のときの名前は『桜千冬』。


桜…、千冬――。


その瞬間、俺の頭の中をまるで電流が流れるかのようになにかが駆け巡った。

そして思い出されるのは、小学1年生のときの俺の記憶。


手を繋いで俺の隣をいっしょになって駆けているのは、美しい黒い髪を風になびかせる…桜ちゃん。


まさか、俺の初恋の“桜ちゃん”って――。


「お待たせ〜!」


そこへ、リアル脱出ゲームからようやく出てきた高田さんと矢吹がやってきた。


「お疲れさま。けっこう時間かかったね」

「そうなの。あたしも矢吹も暗号系苦手だからさ」


高田さんが矢吹のほうを振り返り、それに応えるように苦笑いを浮かべる矢吹。


「思ったよりも難しかったけど、森さんと椎葉は早かったんだ」

「うん。って言っても、ほとんど椎葉くんが問いてくれたんだけど。ねっ、椎葉くん」

「あ…、う…うん」


愛奈ちゃんが俺の顔を覗き込んでくるが、それに対して俺は適当な相づちしか打てなかった。

なぜなら、今は矢吹のことしか見えていないから。


「それにしても、出てきたらもう日が暮れかけててびっくりしちゃった」


矢吹と高田さんを待っている間に太陽はほぼ西の山に隠れ、空は夜の装いへと変わっていく。

チカチカと色とりどりのイルミネーションも灯り始め、園内は幻想的な風景に。


「寒くなってきたことだし、最後に1つだけ乗って帰ろっか」


高田さんの提案に俺たちはうなずく。


「あたし、どうしても乗りたいやつがあるんだよね。いいかな!?」

「うん、いいよ」


今日は、高田さんのためにあるようなもの。

最後に高田さんが好きなものを乗ろう。


絶叫系が好きらしいから、初めのほうに乗った一番人気のジェットコースターをもう1回乗りたいとかかな?


そう思いながら、愛奈ちゃんの手を引いて先を歩く高田さんの後ろ姿を眺めていた。


「今日1日でいろいろ乗ったけど、ほんと高田さんって元気だよな。見てて飽きない」


俺と同じように高田さんを見つめていた矢吹が言った。


「…そうだな」


俺はきゅっと唇を噛みしめる。


やっぱり矢吹は、高田さんのことが――。


「お〜い、2人とも!こっちこっち〜!」


そう言って、高田さんが向こうのほうで大きく手を振っている。


てっきり、人気アトラクションが並ぶエリアかと思ったが、やってきたのは雑踏から離れた静かな湖畔。

同じ園内とは思えないほど、ここだけゆったりとした時間が流れているように感じる。


夜空が湖に映り、星が散らばっているかのように見える水面(みなも)をいくつものボートが滑っていく。

聞こえるのは、オールで水をかく柔らかな水音だけ。


「高田さんがどうしても乗りたいやつって、このボート?」

「うん、そう」


意外な返事に少しだけ驚いた。


桟橋から暗がりの中見渡すが、ボートに乗っているのはもれなくカップルばかり。

俺たちのような友達同士で乗っているボートはひとつとも見当たらない。


でも、最後にこういうのもアリかもしれない。


船着き場へ行くと、係員さんが待機していた。


「ボートには4人までいっしょに乗ることができますし、2人ずつでも乗れます。どうしますか?」


それを聞いて、高田さんは大きく手を挙げた。


「それじゃあ、4人でお願いします!」


それを聞いて、俺は高田さんを二度見した。

雰囲気からして、ここでも2人ずつに分かれて乗ると思っていたから。


だけど、そうとなると矢吹ともいっしょに乗ることができる…!


「椎葉くん、先に乗ってよ」

「うん、わかった」


高田さんに促され、俺は一番にボートに乗り込んた。


「次に愛奈ね」


高田さんに肩をぽんっとたたかれた愛奈ちゃんが、桟橋からボートへ足を伸ばす。


「愛奈ちゃん、こっち。少しボートが揺れるから気をつけて」

「ありがとう、椎葉くん」


俺は愛奈ちゃんが転けないようにと、とっさに手を差し伸べた。

その俺の手を取った愛奈ちゃんが無事にボートへ乗り込む。


「じゃあ、次は高田さんね」


そう言って、俺が愛奈ちゃんのときと同様に高田さんに手を伸ばしたら、なぜか高田さんはニンマリと笑った。


「あとはお2人でごゆっくり〜♪」


そして、俺たちが乗っているボートを遠くへ押し出したのだった。


「…えっ!?まだ2人とも乗ってな――」

「あたしと矢吹は先に帰るから〜!楽しんできて〜」


高田さんは、今日一番の笑顔見せて手を振ると、隣に突っ立っている矢吹の服の袖を引っ張った。

まるで、「行こう」と言っているかのようだ。


そんな矢吹は、俺たちのボートにずっと視線を向けている。

その表情がなぜか切なそうに見えるのは、暗がりだからそんなふうに感じるだけだろうか。


そうして、高田さんと矢吹は本当に帰ってしまったのだった。


「ま、待って…!どういうこと!?」


俺は2人のあとを追おうとするが、ここがボートの上だということを忘れていた。

バランスを崩し、危うく湖に落ちそうになったところを愛奈ちゃんが引っ張って助けてくれた。


「椎葉くん、大丈夫…?」

「うん…、なんとか」


まったく今の状況が理解できず、すぐさまオールを握り桟橋へ戻ろうとした。

だけど、オールの使い方も不慣れでなかなか思いどおりにボートを操れない。


そうこうしているうちに、ドーン!と心臓に響くような大きな音が聞こえたかと思ったら、夜空に明るい花が咲いた。

遊園地の花火イベントだ。


「うわぁ、きれい〜!ここからだと、ちょうどよく見えるね」


この湖は花火を眺めるには絶好の場所で、愛奈ちゃんはうっとりとした表情で空を見上げる。

だから、せっかくだししばらくの間ボートに乗ることにした。


その間に、俺は少しずつだがボートの漕ぎ方がわかるようになってきた。


「花火、きれいだったね」

「うん。こんな時期に花火もいいね」


15分ほどで花火は終わり、俺は桟橋に向かって漕ぐ。


「それにしても高田さん、どういうつもりなんだろう。自分からボートに乗りたいって言っておいて、俺たちだけ置いてけぼりにするなんて」


矢吹と2人きりになりたかったのなら、初めから2人ずつでボートに乗ろうと言ってくれたら俺も協力したのに。


「…違うの」


すると、向かい合わせで座る愛奈ちゃんがぽつりとつぶやいた。


「わたしが希子に、最後に椎葉くんと2人にさせてほしいって頼んだの」

「え、愛奈ちゃんが?どうして?」

「それは…。今日の遊園地の最後に、椎葉くんに告白しようって決めてたから」


それを聞いて、オールを漕ぐ俺の手が止まった。


「…へ?こ…、告白?」


告白って…なんだっけ?


予想もしていなかった展開に、告白の意味すら理解できないほどに俺の頭の中は混乱していた。


「1年のときから椎葉くんってやさしくていい人だなって思ってたんだけど、2年になって同じクラスになって、ますます椎葉くんのことが気になって――」


…ま、待って。

嘘…だろ?


入学式で一目惚れして、それからずっと好きだった愛奈ちゃんが――。


「椎葉くんのことが好きです。わたしと付き合ってください」


まさか、俺のことを好きでいてくれていたなんて。


星空の下、穏やかな水面に浮かぶ2人だけのボートの上で告白。

こんなロマンチックなシチュエーション、どう考えたって成功フラグしか立たない。


俺がここでひと言「はい」と言えば、晴れて俺は愛奈ちゃんとカップルに。

思い描いていたとおりの、好きな女の子と付き合えて青春キラッキラの学校生活が待っている。


そう。

たったひと言、「はい」と言えばいいものの――。


「…愛奈ちゃん、ごめん」


気づいたら俺は、まったく違う返事を愛奈ちゃんにしていた。


驚いて、言葉に詰まる愛奈ちゃん。

その瞳が涙で潤んでいるように見える。


本当は、愛奈ちゃんにこんな顔はさせたくなかった。


――だけど、愛奈ちゃんに告白されてようやく気づいた。

俺の中の本当の気持ちに。


「俺、好きな人がいるんだ」


だから、自分に嘘はつけない。


あんなに愛奈ちゃんのことが好きだったのに、それをも上回る人に出会ってしまったから。


そいつに、高田さんという好きな人がいるのはわかっている。

この恋は実らないだろうけど、それでも俺はあいつのことが好きなんだ。


だって、おそらく矢吹は俺の初恋の――。


「そう…なんだ……。それなら…、しょうがないね」


そう言って、愛奈ちゃんは微笑んだ。

今にも泣き出しそうな顔をしていたけど、愛奈ちゃんは最後まで涙は流さなかった。


そのとき、コンッと音がしてボートが少し揺れた。

振り返ると、いつの間にかボートが桟橋まで流れついていた。


「おかえりなさい。足元お気をつけくださいね」


係員さんに誘導され、俺と愛奈ちゃんは桟橋へと降りた。


「希子に、ここのシチュエーションなら絶対大丈夫だよって言われてがんばって告白してみたんだけど…。残念っ」


愛奈ちゃんはおどけたように舌をペロッと出す。

いつもと同じように振る舞おうとしてくれる愛奈ちゃんに俺は心が救われた。


「…ほんとごめんね。でもまさか、愛奈ちゃんから告白されるなんて思わなかったよ。だって今日って、そもそも高田さんと矢吹をいい感じにするための企画だよね?」


俺と愛奈ちゃんは、そんな2人の見届人くらいにしか思っていなかったから。


すると、愛奈ちゃんはキョトンとして首をかしげた。


「希子と矢吹くんを…いい感じに?」


その愛奈ちゃんの言葉を聞いて、俺の胸の中がざわつきだす。

とんでもない勘違いをしてしまっていたような――。


「椎葉くん、なんか勘違いしてるよね?2人は、わたしに協力してくれただけだよ」


そしてついに、胸のざわつきが確信へと変わった。


「椎葉くんといっしょに遊んでみたくて希子に相談したら、椎葉くんと仲がいい矢吹くんに聞いてくれて。それで4人で遊ぼうって話になったんだよ」


…なっ。

なんだそれ!?!?


思わず、声を大にして叫びそうになった。


「いやいや、だって…!高田さん最近彼氏と別れたから、それで矢吹を…。矢吹の好きな人っていうのも高田さんだから――」

「希子、今はべつに彼氏を作る気はまったくないらしいよ?矢吹くんの好きな人がだれかは知らないけど、2人の様子を見ていても、その相手が希子じゃないってことは断言できるかな」


そう…なの?

俺は、すでに2人がそういう関係だと思って、今日1日中ずっとモヤモヤしていたというのに。


今日何度も矢吹と高田さんがペアになってアトラクションを乗るところを見てきたけど、それは2人がいっしょに乗りたいというわけではなく、俺と愛奈ちゃんをいっしょにするため――。

度々見かけた矢吹と高田さんのアイコンタクトや妙なやり取りは、そのための合図だったのか。


すると、隣を歩いていた愛奈ちゃんが足を止めた。


「椎葉くん、ここでいいよ」

「え?でも、出口はまだ――」

「希子ね、帰るフリして園内で待っててくれてるの。だから、一番に報告しなくちゃ」


…そっか。

高田さんが、親友の愛奈ちゃんを置いて帰るわけないよな。


俺が愛奈ちゃんの隣にいたところでどうにもならない。

ここは、高田さんが一番適任だろう。


「わかった。それじゃあ、俺は行くね」

「うん、ありがとう」


愛奈ちゃんはずっと笑顔を絶やさない。


「明日からもよろしくね。クラスメイトとして」


そう言って手を振る愛奈ちゃんに、俺は大きくうなずいた。


そして、愛奈ちゃんに背中を向けて歩いていこうとしたとき――。


「椎葉くん!」


突然、愛奈ちゃんに呼び止められた。

すぐに振り返ると、愛奈ちゃんが駆け寄ってきた。


「お節介かもしれないけど、椎葉くんも好きな人にちゃんと気持ち伝えたほうがいいよ」

「…え、でも…俺は――」

「わたし、けっこう前から椎葉くんのことが好きだったんだ。けど、結局勇気が出なくて今になって。もしもっと早くに告白してたら結果は違ってたのかなって、今すごく後悔してるから」


愛奈ちゃんの言うとおり、もしもっと前に愛奈ちゃんに告白されていたら、きっと俺は二つ返事をしただろう。

だけど、それからお互いの状況が変わり今に至った。


「ずっと気持ちを伝えないままのほうが苦しくない…?わたしは、今ちょっとスッキリしてる」


その言葉に、俺は心が動かされた。

俺としたことが、なにチキってたんだろう。


視界を覆い尽くしていた霧が晴れたような。

そんな気がした。


「愛奈ちゃん、ありがとう。俺、行ってくる」


なにかに吹っ切れたような俺の表情を見て、愛奈ちゃんは笑ってうなずいた。


そして、俺は“あいつ”のところへと向かった。


俺は、あいつに話さなきゃいけないことがある。

帰ってからでいいやではなく、今伝えたいんだ…!


――走って、走って、走って。

そして、ようやく見つけた。


今まさに遊園地のゲートをくぐり外に出ようとする、“あいつ”の姿を。


「矢吹!」


俺が後ろから叫ぶと、驚いたように矢吹が振り返った。

そして、一目散に矢吹のもとへ向かうと、俺はコートのポケットに突っ込んでいた矢吹の手を取った。


「ちょっとこっちにこいよ」


そう言って、矢吹を引っ張ってきたの観覧車のそば。

2人きりで話せる場が思いつかなくて、目についたここにやってきた。


空いていたから、すぐにゴンドラに乗ることができた。


「いきなりなんだよ!?…ていうか、なんで観覧車?しかも、森さんは?」

「ごめん、急に。でも、どうしても矢吹と話したくて。あと、愛奈ちゃんには告られたけど振っちゃった」

「はっ!?振った!?…なんで!?」


向かいに座る矢吹が噛みつくように迫ってくる。


「それは…、愛奈ちゃんのことは…好きじゃなかったから」

「好きじゃないって…。そもそも、オレと森さんとを間違って告白してきたやつがなに言ってだよ」

「あのときのことは…ごめん。たしかに愛奈ちゃんのことは好きだったけど、その…、他に好きな人ができたというか…」


俺がそう漏らすと、鋭い視線で矢吹が睨みつけてきた。


「他に好きな人ができただと?…ふざけんなっ!今日だって、オレがどんな思いをして引き受けて――って…いいや、オレの話は」


矢吹は苛立ちを見せながら、ため息をついて足を組む。


「本当によかったのかよ。あんなに好きだったんだろ?森さんこと」

「うん。でも、もう俺の気持ちは愛奈ちゃんじゃないから」

「だったら、だれだっていうんだよ。正直、森さんよりもいい人なんて、他には考えられ――」

「お前だよ」


ゴンドラの中に静かに響く俺の声。

ふてくされたように頬杖をついて外を眺めていた矢吹が、目を丸くしてゆっくりと俺に顔を向けた。


「…は?」


矢吹の開いた口が塞がらない。


「聞こえなかったか?俺が好きなのは、矢吹…お前だって言ってんだよ」


俺のまなざしはまっすぐに矢吹へと向けられる。

それでなにかを読み取った矢吹は崩していた足を戻して座り直す。


「な、なんの冗談だよ」

「冗談じゃねーよ。本気だよ」

「本気…っつったって、どうしてオレなんかを――」

「知らねーよ!気づいたら、矢吹のことが好きになってたんだから!つーか、そもそも俺の初恋はお前なんだよ!だから、また好きになったってなにもおかしくねぇじゃねーか!」


俺は、狭いゴンドラの中でなにを叫んでいるのだろうと思う。


だけど、次から次へと気持ちがあふれ出して――。

自分でもこの感情をどうしたらいいのかわからなかった。


「お前に好きなやつがいるのはわかってる。その恋を邪魔するつもりもない。でも、どうしても俺の気持ちを伝えたかったから――」


その瞬間、俺は強い力で引き寄せられた。

気づいたときには、俺は矢吹の腕の中にいた。


「バカ野郎」


そうつぶやく矢吹の声が耳元に響く。


「…オレに好きなやつ?いるよ。それがお前のことだよ、椎葉」


心臓が震えた。

今までに感じたこともない速さで心臓がドクンドクンと暴れだす。


「てか。さっきの、初恋がオレって話…本当?」

「本当だよ。…好きだったのに、なんで気づかなかったんだろう。なっ、“桜ちゃん”」


俺がそう呼ぶと、はっとしたように矢吹が目を見開けた。

そして、目を潤ませて細くする。


「やっと思い出してくれたんだ…、“がっくん”」


久々に聞く呼び名に、俺は思わずはにかんだ。


俺の下の名前が『岳』ということで、小学生のときは『がっくん』と呼ばれていた。

しかし、その呼び名で呼んでいたのは――ただの1人だけ。


それこそ、黒髪ロングのストレートヘアが美しい桜ちゃんだった。

今そのわけを矢吹に聞くと、病気のおじいちゃんのためにヘアドネーションで髪を伸ばしていたのだそう。


当時の矢吹の見た目や、“桜”というのが名字ということも忘れて“桜ちゃん”と呼んでいたという記憶で、俺の中で勝手に桜ちゃんは“女の子”だと長年思い込んできた。

しかしそれは、当時『桜千冬』という名の矢吹のことだった。


ただ言えるのは、どちらにしてもその頃の俺は桜ちゃんのことが好きで、今の俺は矢吹のことが好き。

名前は違っても、今も昔も俺の好きな人は矢吹だったんだ。


「見た目に偏見なくオレにやさしく接してくれた椎葉のことが忘れられなくて、転校してからもずっとお前のことが好きだった」

「もしかして、矢吹の初恋も…俺?」

「当たり前だろ。オレ、初めからお前しか見てねぇよ」


矢吹には好きな人がいるものだと思い込んでいた。


『その人にはすでに好きな人がいるし。だから、オレは見ているだけでいいから』


あのときの言葉は、愛奈ちゃんのことを好きな俺のことを意味していた。


たしかに、矢吹との始まりは愛奈ちゃんと間違って告白したところから始まって――。

2年になって同じクラス、同じ部屋で俺のことを見てきたんだから、俺が愛奈ちゃんを想ってるってことは痛いくらいにわかってたよな。


「今日だって高田さんに頼まれて協力してたけど、正直…森さんと2人でいる椎葉は見たくなかった」


…矢吹もそんなことを。

実は俺と同じ気持ちだったんだ。


「でも、オレにとっては椎葉といっしょに出かけることには変わりないから。地味なオレじゃなくて素のオレで行きたかった」


そうだったんだ。

てっきり高田さんのためにオシャレをしてるのかと思っていたけど、本当は俺のためだったなんて。


「だけど、椎葉もオレを好きでいてくれたとか…。未だに信じらんねぇ」

「俺だってそうだよ。てか、お前じゃなきゃダメなんだよ」


矢吹以外のやつなんて、もう考えらんねー。


「ただ両想いとか経験ないから…、どうしたらいいのか困ってる」


うれしさはもちろんあるが、同時に戸惑いと緊張もあって勝手に手が震える。

そんな俺の手をそっと矢吹が自分の手で包み込んだ。


「いいんじゃね?これまで通り、フツーで」

「…いいのか?そんなので」

「いいんだよ。オレはありのままの椎葉が好きだから」

「そんなのずりーよ!俺だって今の矢吹が好きだし、でもでも、地味系矢吹もちゃんと好きだし!」


必死に説明する俺を見て、矢吹が笑みをこぼす。


「ハハッ、なんの張り合いだよ」

「なんだろな?相手のこと、どれだけ好きか選手権?」

「それなら、優勝はオレだな」

「…なっ!俺だって負けるつもりはねーよ!」


自分でもなにを言っているのだろうと思う。

だけど、矢吹とじゃれ合うこのゴンドラの中は、おそらく今この瞬間の地球上において最もハッピーな空間であることは間違いない。



俺の青春、思っていたのとなんか違ったけど――。


好きな人と両想いになれたんだから、終わりよければすべてよし。

でいいよな。



Fin.

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