一年後 ──。



「氷織様!」


 遠くに手を振る女性が見えて、手を振り返す。私たちが歩いて行くと、黒い髪を後頭部の下の方で結んだ女性は深々と頭を下げた。


「遠路はるばる、ありがとうございます」
「いえ、やっと来ることができてよかったです」
「岳も元気そうでよかった」
「姉さんも」


「姉さん」と呼ばれた女性は白い歯を見せて笑う。
 岳の姉である千鶴さんは、私と父が対峙してから数日後に旦那さんと共に国を発った。今は老湯守の弟子が管理している温泉で、仲居として働いているそうだ。


「変わらないな、ここは」
「きれいな場所ですね」


 蒼玄は懐かしそうに目を細める。
 ここ「桜雲の郷」は、山々に囲まれた盆地に位置する温泉街だ。その名の通り、春になると町全体が桜の花で覆われ、桃色の雲が地上に降り立ったかのような幻想的な光景をつくり出している。

 郷の中心には川が流れ、その両岸には見事な桜並木が並んでいる。桜の近くには歴史ある旅館や老舗の商店が軒を連ねていた。

 蒼玄から話を聞いていた老湯守が、生涯大切にしていた温泉がある場所。ずっと来てみたいと思っていた場所にようやく来れたのだと、感慨深い気持ちになる。


「ご案内しますね」


 千鶴さんはそう言って、郷の方向へと歩き出す。高鳴る気持ちを抑えながら、彼女の背中を追いかけた。

 郷は活気に満ちあふれていた。
 大通りでは老舗の店先に、着物姿の湯治客や旅人が群がっている。どうやら商人たちが珍しい品々を広げて売り込んでいるようだ。
「冷やかすか」と悪戯めいた笑みを浮かべる蒼玄と共に商品を覗き込めば、そこには絹織物や漆器、薬草など様々な分野の商品が、無秩序に置かれていた。


「あの薬草をあの値段で売るのは流石にぼったくりだな……」


 蒼玄のぼそりとした呟きに苦笑する。

 通りの一角では、旅の芸人が三味線と太鼓を奏で、即興の歌を披露している。周りには人々が輪をつくって聞き入っており、時折笑い声が沸き起こった。
 旅芸人が奏でる音色を楽しんでいると、店先の女主人に声をかけられる。


「お嬢さん! この郷で人気の『桜まんじゅう』だ! どうだい!?」


 彼女の声かけに、私と蒼玄は顔を見合わせて、同時に吹き出した。


「それ、四つ」
「まいど!」


 桜まんじゅうが蒸し上がるのを待つ間、蒼玄は小声で囁く。


「前もこんなことがあったな」
「そうですね」


 くすくすと笑う。螢泉郷で「蛍まんじゅう」を食べたときのことを思いだし、可笑しくなってしまった。同時に胸が温まるような心地になる。
 こんな風に思い出を共有し、互いに笑い合えること。それはとても幸せなことだと感じたのだ。

 淡い桜色に染まったまんじゅうを食べながら、私たちは郷を散策する。
 千鶴さんの説明に頷きながら、最後に辿り着いたのは、彼女が働く旅館「桜霞亭」だった。
 この旅館の歴史は数百年以上にもさかのぼる。かつて傷ついた武将がこの地で湯治をし、奇跡的に回復したという言い伝えがあるそうだ。
 二階建ての風格ある旅館で、深い軒下には細やかな彫刻の欄間が施されていた。

 格子戸を開け、千鶴さんは旅館の中へと案内してくれる。すれ違う仲居たちはにこやかに頭を下げ、女将は蒼玄の顔を見て「まぁまぁ蒼玄さん!」と嬉しそうに笑った。
 年月を経て磨き上げられた床板が軋む音を聞きながら歩いて行く。廊下からは手入れの行き届いた庭園が見えた。池や石灯籠、そして見事な枝ぶりの桜が咲き誇っていた。


「まさに『桜霞亭』ですね」
「あれはジジイが気に入っていた桜だった」


 蒼玄が懐かしそうに説明してくれる。
 客室に入ると、焚かれた香の匂いが鼻腔をくすぐった。畳は香り高い新しいものが敷かれている。障子や襖には繊細な桜の模様が描かれており、この郷の人がどれほど桜を愛しているかが見て取れた。


「さっそく温泉を見に行くか」


 部屋について一息つく間もなく、蒼玄は鞄を持って立ち上がった。
 岳は呆れ顔を見せ、私はくすくす笑う。千鶴さんは両手を合わせて言った。


「じゃあ私も行こうかしら」
「姉さん、仕事じゃないのか?」
「今日はお休みをもらったのよ」


 そう説明して、私の顔を見た。「一緒にいかがでしょうか?」と問われ、私は微笑んで頷く。

 入浴の準備をして、温泉へと向かう。岳と蒼玄と分かれ、女湯の脱衣所で着物を脱ぐ。小さな手ぬぐいを持って浴場に足を踏み入れ、私は感嘆の声をあげた。
 広々とした浴場には檜の香りが満ちていた。天井は高く、梁には古い木材が使われており、歴史を感じさせた。湯船の中には透明度の高い、乳白色の湯が満ちていた。
 体を清めて、ゆっくりと湯船の中に身を沈めていく。少しぬるめの湯が足先から体全体へと広がっていくのを感じ、私は思わず小さな息を漏らした。


「この温泉は四季によって色合いや効能が変わるんですよ」


 千鶴さんは説明しながら、私の近くに座った。「そうなんですか」と相づちを打てば、彼女はこくりと頷く。


「えぇ、代々この温泉を守ってきた人たちの書記を参考にして、素材を調合しているんです。蒼玄様が考えた温泉になってからは、特に評判がいいんですよ」


 旅の道中、素材と睨めっこしていた蒼玄を思いだす。そして湯をすくって、乳白色の湯を見つめた。この湯には代々守ってきた人がいて、繋いでいった人がいるのだ。


「今はどんな効能なんですか?」
「体の調子を整える湯だと聞いています。普段の湯より少しぬるめにすることで、のぼせにくく、体への負担を少なくしているそうです」
「湯治客に人気が出そうですね」
「あとは女性にも人気が高いですね。子宝に恵まれたという人が後を絶たないんですよ」


「子宝」という単語に、ここずっと悩んでいたことを思い出してしまい、私はうつむいた。雰囲気が変わったのを察したのか、千鶴さんはそっと尋ねてきた。


「……何か蒼玄様とあったのですか?」
「え、っと……」


 思わず口ごもってしまう。
 極上の温泉ができたとき、私は蒼玄に想いを伝えた。彼は一瞬驚き、優しい微笑みを浮かべてくれた。そして私の体を抱きしめ、想いを受け入れてくれた。あの日のことを思い出すと、まるで心の中に満開の花が咲くような心地になる。

 あの日から一年。私たちは抱擁以上の行為をすることはなかった。

 彼の抱擁に幸福を感じつつも、もどかしさも同時に感じてしまう日々。
 私からお願いした方がいいのか。しかし彼に拒否されてしまったら。そう考えると、言葉に出すことができなかった。

 岳以外の異性とは関わりがなかった私に、正解など分からなかった。相談できる人もいなく、ここ最近ずっと悩んでいたのだ。
 私はこちらを不安げに見つめる千鶴さんの顔を見た。先ほど郷を回ったときも、蒼玄と手を繋いだり、恋人のような距離感で話したりしていた。千鶴さんも私たちがそういう関係だと悟ってはいるだろう。

 勇気を振り絞り、私は相談内容を口にした。すべてを話し終えると、彼女は神妙な顔で頷く。


「なるほど……」
「すみません。こんなお話を」
「いえ。相談していただけて嬉しいです」


 千鶴さんの言葉に胸をなで下ろす。彼女は遠くの方を見つめ考えた素振りを見せたあと、真剣な表情で言った。


「ありきたりなことしか言えませんが、やはりお話するのが一番かと」
「ただこんなことをお話していいのか。もし拒否されてしまったら……」


 想像するだけで、じわりと涙が浮かんでくる。すると千鶴さんはきょとんとした顔で言った。


「私は蒼玄様のことをよく存じ上げませんので、はっきりとは言えませんが……」
「……はい」
「氷織様の話を否定される方なのですか?」


 そう言われ、私ははっとする。そのあと全身を襲ったのは、羞恥だった。顔が熱くなり、水面を見つめることしかできない。
 彼に拒否されると決めつけて、話し合おうともしなかった自分。恥ずかしさで居たたまれなくなる。

 蒼玄はいつも私の味方でいてくれた。瑞穂城から追い出され、雪山に捨てられたときも。心が凍りつき、人形のようになっている私を見たときも。無力な人間だと、私の足が動かなくなっているときも。彼は常に傍にいてくれた。「氷織の味方だ」と励ましてくれた。

 首を大きく横に振る。


「ちがい、ます」
「それだったら、お話ししてみましょう。きっと何か事情があるんですよ」


 千鶴さんの言葉に、悩んでいた心が軽くなっていくのを感じる。
 すると彼女は力強い光を目にたたえ、胸を軽く叩いた。


「岳のことはお任せください。明日まで一歩たりとも二人の部屋には入らせませんので」
「そ、そこまでしてただかなくても」
「いいえ! 今日を逃したら、岳も一緒に旅を続けるでしょう? 二人で話し合う機会はしばらく来ないでしょうから」


 それもそうかと頷く。「よ、よろしくお願いします」とおずおずと頭を下げれば、千鶴さんは楽しそうに笑った。
 その後、温泉からあがり部屋へ戻ると、蒼玄と岳は既にもう戻っていた。


「どうだった?」
「す、すごく気持ちよかったです」


 蒼玄と話し合おうと決めたからか、なんだか彼の顔を直視できない。うつむきながら答える。私の様子が変だと気づいたのか蒼玄は口を開こうとしたが、千鶴さんが遮るようにして言った。


「そういえば蒼玄様。今晩、岳を借りていってもいいですか? 宿の修繕をしたいのですが男手が足りなくて」
「疲れているから休みたいんだが……」
「あぁ、いいぞ」
「俺の話を聞け!」


 怒っている岳をよそに話が決まっていく。
 千鶴さんは男性二人から見えないように、「がんばってください」と唇だけで動かした。彼女の気遣いに勇気づけられ、私は頷く。

 そして夜。引きずられるようにして岳は千鶴さんに連れて行かれ、部屋には蒼玄と二人きりになった。「修繕が終わったら、宴に参加させます。今晩は部屋に帰りません」という彼女の言葉を思い出し、顔に熱が集まっていった。蒼玄と二人きりで朝まで一緒にいるのは初めてのことだ。

 部屋には縁側があり、蒼玄はぼんやりと空を眺めながら座っていた。私も隣に座り、空を眺める。今日は満月だった。そっと彼の方へ視線を向ければ、やわらかな月の光が、彼の横顔に陰影をつけていた。

 どのように話を切り出そうかと悩んでいると、蒼玄の背中が目に入った。
 人里ではしまっていたが、部屋の中では翼を広げている。しかし右側の翼は華怜の手によって切断され、大部分が失われていた。あの戦いのあとも、彼の翼が蘇ることはなかった。

 痛みが波のように押し上げてくる。すると蒼玄は私の視線に気づいたのか、「あぁ」と頷いた。


「戻らなかったなァ」
「ごめんなさい……」
「氷織のせいじゃないさ」


「頑張れば少しは飛べるしな」とおどけたように言う。
 彼の優しさに胸が締め付けられる。私は勇気を振り絞り、名を呼んだ。


「蒼玄」
「ん?」


 朱色の瞳が私の姿を捉えて、優しく細められた。


「もっと、触れてほしい」


 耳辺りがかっと熱くなる。女性からこんなことを言うなんて、はしたないと思われただろうか。蒼玄は目を丸くしたあと、苦しそうな顔を浮かべた。そんな顔をさせてしまったことに胸が痛む。
 涙がじわりと浮かび、逃げ出したくなってしまう。否定の言葉を聞くのが怖い。


「ご、ごめんなさい、」
「違う……!」


 手首を掴まれた。目の前の瞳は焦りながらも、真っ直ぐに私を見つめていた。
 私の目から一粒、涙が落ちた。すると彼はさらに苦しそうな顔をする。そして私の手首から手を離し、顔を覆った。


「俺の方こそ、すまない」


 絞り出すような声だった。

「きっと何か事情があるんですよ」

 千鶴さんの助言が脳裏に浮かぶ。私は蒼玄に身を寄せ、頬に手を伸ばした。


「一人で抱え込まないで、蒼玄」


 その言葉で、彼はゆっくりと顔から手を離した。その瞳は夕日に染まる紅葉のように美しく、同時に深い悲しみを滲ませていた。


「……怖いんだ」
「怖い?」
「氷織に近づきすぎるのが。また災いが降りかかるのではないかと、」


 閃光のような鋭い痛みが体を貫いた。
 頭に浮かんだのは、狭間の洞窟で見た蒼玄の過去だった。人間とあやかしの子どもに産まれたが故、村人から村八分に遭い、酷い差別を受けた。人間の惨さを受け、母の病死と父の自死を経験した。
 きっとその過去は、未だ彼を縛り付けているのだろう。

 いつも頼りになる彼が、今は子どものようだった。彼の懺悔のような言葉は続く。


「氷織に想いを告げられたとき、嬉しくて、これ以上の幸福はないと思った。だが同時に怖くなった。怖くなったのに……拒否することもできなかった」


 彼は一呼吸置き、拳を強く握った。


「情けない」


 自分を責めるように言う。
 彼の心の奥底にある深い傷を垣間見た気がした。蒼玄の声は震え、普段の飄々とした様子はどこにもない。彼の言葉の一つ一つが、長年抱え続けてきた苦しみを物語っているようだった。
 それ以上、自分を責めないで欲しいと祈りながら、頬をゆっくりと撫でる。


「そんなことないわ」
「……」
「蒼玄」


 私が呼びかける。彼の瞳を見つめながら言った。


「私は人と人の子どもに産まれたけど、色んな人に差別されてきたわ。
 ……きっと、どんな生まれでも耐えがたい重荷を背負わされる人がいる」


 思い出すだけで、喉が締め付けられるように苦しくなる。孤独で、寒くて、誰からも愛されない日々。私は唇をぐっと噛んだあと、言葉を紡いだ。
 言葉が震えないようしながら、彼の手にそっと手を重ねた。


「私たちは、その重荷を背負う辛さを知っているわ」
「……!」
「私たちなら、災いが起きてもきっと乗り越えられる。大切な人たちを守ることができる──そう、思うの」


 彼の瞳を覗き込めば、朱色の目には薄い膜が張っていた。蒼玄は両腕を伸ばし、私の体を抱き寄せた。肩に顔をうずめ、嗚咽をかみ殺している。
 私は髪の毛を撫でながら、心の中で語りかけた。

(やさしい人、やさしい人、どうか苦しまないで)

 世界には確かに耐えがたい苦しみがある。でも苦しみを乗り越えた先に、人を思いやる優しさが生まれる。人の痛みに寄り添いあうことができる。

(そのことを教えてくれたのは、)

(あなたなのよ、蒼玄)

 どれくらい抱き合っていたのだろう。彼の体が離れ、私の頬に触れた。かさついた手のひらと温もりに、甘い緊張が全身を包んでいくのを感じる。

 そして、唇にそっと口づけを落とされた。


「……んっ」


 やわらかな唇の感触と、彼の体温、そしてお互いの心臓の鼓動が私のすべてを占めていた。永遠のような一瞬のような時間のあと、唇が離れる。蒼玄の瞳と目が合った。


「ありがとう、氷織」
「い、え……」
「氷織と出会えて、よかった」


 その言葉に私は見開く。ぽろりと目から涙が落ちる。
 彼は指で涙を優しく拭ったあと、もう一度、私に口づけをした。