登校日だからって、わたしは教室に行くつもりはなかった。行ったって仕方がない。でも、すこし気になってもいた。

 わたしの席は、どうなっているんだろう。みんな、どういう反応をするんだろう。……ちょっとだけ、行ってみるか。

 七緒を見送ったあとの寮の部屋で、制服に着替えた。髪は……、まあ、おろしたままでいいか。一応、キャップをかぶって校舎に向かう。でも寮ですれ違った春野さんはわたしに気づかなかったから、キャップも必要なかったかもしれない。

 登校時間は過ぎていて、そろそろホームルームがはじまる時間だった。玄関のあたりは静かだ。階段をのぼって、二年一組の教室を目指す。廊下を歩いていると、扉越しに生徒の賑やかな声が聞こえた。壁一枚隔てただけなのに、教室と廊下の空気は全然ちがう。

 夏休み前は毎日通っていた教室にたどり着く。閉まっている扉の前で、一度足を止めた。

 廊下の先から、担任の加藤先生が歩いてくるのが見えた。三十代の、化学を担当している男の先生。あんまり愛想はないけど、厳しすぎることもないから、評判はよくもなく悪くもなく。

 先生は、わたしに気づかなかった。一度深呼吸をした先生が、扉を開けて中に入っていく。

 その扉から、わたしもするりと教室に入った。だれもわたしを見ない教室の中を歩いて、自分の席に向かう。みんなが席についているのに、教室の真ん中にあるわたしの席だけが空っぽだった。

 凪都は窓際の後ろの席で、ぼんやりと外を見ている。七緒は、廊下側の真ん中あたりでとなりの女子と話していた。

「おはようございます。お久しぶりですね。ホームルームをはじめます」

 加藤先生の声で、おしゃべりしていた生徒も前を向く。わたしは中央に立っているのが落ち着かなくなって、教室の後ろに移動した。

「読書感想文を回収するので、後ろの席から回してください」

 列の後ろから前へ、紙の束が回っていく。空席になっているわたしの席を飛び越えるために、前後のクラスメイトが手を伸ばし合っていた。一番前の生徒から先生が回収して、教卓にまとめる。数人、持ってくるのを忘れている子がいて、先生に謝りに行った。先生は注意して、始業式には必ず提出するようにと言い渡した。

 そのあとも、いくつかの提出物が先生のもとまでリレーされていく。

「つぎにプリントを配ります」

 さっきとは逆に、先生から前の生徒、またその後ろの生徒へ、プリントが配られていく。ちらりと近くの子の手もとを覗けば、生活習慣の注意を促す内容だった。夏休みで乱れた生活を残り一週間で直しましょう、早寝早起きを心がけてください、みたいな。

 ほかにも三種類のプリントの配布が行われたあと、先生の話に移った。夏休み明けの始業式について。夏休みの課題のこと。時間割のこと。秋の文化祭のこと。

 全部、わたしには関係ない。虚しくて、ちょっと笑えた。

 必要なことを全部話し終わったのか、先生が一度言葉を止める。そうして、声の調子を変えた。

「最後に、皆さんにお知らせしておくことがあります」

 ぴんと張りつめたような声に、クラスの時間が一瞬、静止したような気がした。机の下でスマホをいじっていた生徒は視線を上げて、頬杖をついていた生徒は、手から顔を離す。

 七緒が、わたしの席を見た。

 凪都は、変わらずに外を見つめていた。

「今日、欠席をしている東坂さんですが」

 加藤先生が、いつもよりゆっくりと言葉をつなぐ。半分以上の生徒が、わたしの空席に視線を送った。

「夏休み前に、病気のため亡くなられました」

 みんな、しんとしていた。わたしがクラスの人気者だったら、みんなの反応も大きかったかもしれないな、とちょっとだけいたたまれなくなる。

 先生がわたしのことを、いい生徒だったって褒めてくれた。全員でこの一年を終えることができなくて残念だった、って惜しんでくれた。そのあともつづく先生の話を、わたしはぼんやりと聞いていた。みんなからも先生へ、「本当ですか」なんて質問が飛んで、先生はひとつひとつ答えていく。そのやりとりの中で、みんなの中に「東坂柚はもういない」って現実が染みわたっていくのを感じながら、わたしはうつむいた。

「混乱するひとも多いと思いますが、一度、黙とうをしたいと思います」

 先生が目を閉じる。それにつられて、困惑していたみんなもうつむいて目を閉じていく。わたしはみんなの姿を見回した。わたしのいない学校生活が、はじまっていく。わたしは、もう消えていくだけの存在だ。

 そのときだった。

 スマホが鳴った。

「あ、すみません……」

 窓際二番目の席の男子、浅田くんが、あわててポケットからスマホを取り出した。短い通知音だったけど、みんなが目を閉じて静まり返る教室の中だと目立った。マナーモードにしようと、浅田くんはスマホを操作する。

「……え」

 でも、スマホを持ったまま、固まってしまった。先生が注意するけど、浅田くんは困惑した顔で「いやでも」と言う。そのうち、ほかの席からも「なにこれ」と声が聞こえる。

「ねえ、これ」

 緊張していた空気が揺らいだ。数人が、自分のスマホを確認する。それにつられて、みんなスマホを取り出して、まわりの生徒と目を見合わせた。心地の悪いざわめきが広がっていく。

「みなさん、静かに」
「……あの、先生、これ」

 教卓のすぐ前の席に座る女子、野上さんが、怪訝そうにしている先生に自分のスマホの画面を見せた。

 なんだろう。

 わたしも、近くにいた子のスマホを見る。チャットアプリだった。二年一組連絡用の全員が入っているグループに、文章と写真が更新されていた。いまさっき、浅田くんの通知音を鳴らせたチャットだ。

『女子生徒を見殺しにした、最低なクラスメイト』

 文章は、そんな一文。

 添付された写真は夜に撮られたもので、暗かった。お祭りの屋台を背景にして映った、ひとりの男子。

 わたしは、まばたきも忘れて、その文章と写真を見る。

 クラスのみんなが首をめぐらせたり、身体ごと向きを変えたりして、一点を見た。窓際後方の席。そこに座る男子生徒。

 みんなが、凪都を見ていた。

 だって、写真に映っていたのが凪都だったから。

 凪都は外に向けていた視線を、ゆっくりと教室の中にもどした。憂鬱そうな死にたがりの瞳に、クラスのみんなの顔を映す。

「お、おい、三芝、これ……」

 凪都の前の席の横田くんが、凪都に言った。凪都は横田くんを見返して、おもむろに立ち上がる。がたん、と椅子を引く音が響いた。その音が、みんなの注目をもっと集める。

 立ち上がった凪都に、先生がうろたえた。

「みなさん、前を見て。静かに。三芝くんも座って」
「早退します」
「え」

 全員が困惑する中、凪都は我関せずの顔でひとり歩いて、教室後ろの扉を開けた。

「あと、それ。うそじゃないですよ」

 一度だけふり向いて言うと、教室を出ていってしまう。

 一瞬、沈黙が満ちた。だけど「え?」「なに?」とあちこちから不安や困惑の声が上がって、騒々しくなる。先生が必死になだめようとしているけど、落ち着く様子はない。

 わたしは、開けられたままだった扉から飛び出した。

 ……なにこれ。どうなってるの。