わたしがお母さんたちと仲直りするために、レターセットを用意してくれたのは凪都だ。準備をしているとき、凪都はなにを考えていたのかなって想像してみる。
たとえば、死んだ娘が実家に帰ってきたり、電話をかけてきたり……そんなことがあったら、お母さんたちは仲直りどころじゃなかったはずだ。でも手紙なら、死ぬ前に書いていたってことにすれば、無事にわたしの言葉が伝えられる可能性が高い。
あと、封筒を渡さなかったのは、わたしが変なことを書いていないか――夏休み中のエピソードが書いてあったとしたら、これもお母さんたちを混乱させたはずだし――を確認して、問題なさそうなら投函しようと思ったから、とか。
凪都が話さないから本当のところはわからないけど、きっとわたしが幽霊だってことを考えた上で、手紙って手段を選んでくれたんだと思う。
その日、わたしは凪都と一緒に電車に揺られて、高校から五駅離れた駅で降りた。ふたりとも制服姿だ。
「こっちだよ、凪都」
帰ってくるのは、春休み以来かな。わたしは久しぶりの実家へつづく道を歩き出す。海のすぐそばにあった高校の最寄り駅とはちがって、ここは内陸寄りだ。海の香りは感じない。住宅街が並ぶ道を、凪都と進む。
「結構近かったんだな、柚の家」
「うん。お姉ちゃんのことがあってから、わたしは家にいたくなくて。それで、寮暮らしにしたんだよ。……まさか、お姉ちゃんにつづいて、わたしまで死んじゃうとは思ってなかったけど」
そこまで言って、気づいた。
娘ふたりが死ぬって、お母さんたち、どんな気持ちなんだろう。
照りつける強い陽射しに、目がくらみそうになった。お姉ちゃんが死んだときの家の様子を思い出すと、踏み出そうとする足が重くなる。わたしのせいで、またお母さんたちは傷ついているのかな。
「柚、やめとく? 俺ひとりで行ってこようか」
凪都もとなりで立ち止まって、小さく眉を寄せながらわたしを見た。通行人が、そんな凪都を不思議そうな顔で見て素通りしていった。わたしの姿は、もう凪都や七緒たちにしか見えていない。だから実家に帰っても、わたしはお母さんたちとは話せない。
手紙は凪都に渡してあった。死ぬ前に書いたと思ってもらえるように気をつけたから、不審がられることはないはずだ。凪都の手で、お母さんたちに届けてもらえたら、それで済む。
でも。
「……ううん。行く」
わたしが行ってもどうしようもないけど、消える前に一度は家に帰りたかった。
「柚は、メンタル弱いんだか強いんだか、わからないな」
凪都は呆れたみたいに笑って、暑そうにシャツの胸もとをあおいだ。
「わたしは弱いと思うよ。いつも、みんなに助けてもらってるし」
「でもこういうところでは、逃げないだろ。俺にどれだけかわされたって、絡んでくるのやめないし。しつこいというか我慢強いというか」
「……それ、褒めてる?」
ちょっとむっとして言うと、凪都はなだめるみたいにうなずく。
「褒めてる褒めてる。ほら、道案内して」
「はいはい」
軽い態度の凪都に、ちょっとだけ身体から力が抜けて、わたしはまた歩きはじめた。
凪都はやっぱり、やさしい。夏休みに入ってから、わたしは凪都のことをたくさん知った。本当は知るはずのなかったことだった。去年の冬に出会ってからずっと凪都と話してはいたけど、ここまで打ち解けてはいなかったから。幽霊になった甲斐が、すこしはあったのかもしれない。
そこからは無言で歩いて、なんの変哲もない住宅街の中の一軒家の前で、足を止めた。ここが、わたしの家だ。
春野さんに頼んで、家には事前に連絡をしてもらった。「東坂さんの部屋を掃除していたら、ご両親宛ての手紙が見つかったので、届けに行っていいでしょうか」って。家の中で、お母さんとお父さんが待っているはずだ。
顔がこわばったわたしの頭を、凪都が一度、ぽんとなでた。ちゃんと、その重みを感じた。
「いくよ」
「……うん」
凪都がチャイムを押す。
返事があって、ドアが開いた。とたんに、わたしは、ぎょっとする。
「……柚の、同級生の方?」
「あ、はい。三芝といいます。柚さんの部屋で見つかった手紙を、届けにきました」
応える凪都も、ちょっと驚いたような、居心地が悪そうな声だった。
出迎えてくれたお母さんは、やつれていた。目の下のくまはすごいし、顔色も化粧でごまかせないくらいに悪い。わたしよりも、よっぽど死にそうな顔だった。そこに、無理やり笑顔を張り付ける。
「そうなの。同級生の子が来るって聞いて、てっきり女子寮の子が来ると思っていたから、びっくりしたわ。……どうぞ、入ってください」
お母さんが凪都を招く。凪都はほんのすこしためらったけど、頭を下げてリビングに向かった。お母さん、ひどい顔だ。それにやっぱり、わたしのことは見えていないみたい。
ほんのすこし、期待していた。家族なら、見えるんじゃないかって。わたしはうつむいて、凪都のうしろをついていく。
リビングにはお父さんもいて、ぎこちなく笑って凪都を迎えた。
家の中の様子は、家具の配置もなにもかも、わたしが覚えているものと変わらない。でもどこか、暗かった。
「お姉ちゃんが死んだときも、こんな感じだった」
凪都はすこしだけわたしに視線を向けてから、ダイニングテーブルの椅子に座った。お母さんがお茶とお菓子を用意する。凪都の向かいに、ふたりが座った。
「わざわざ来てくれてありがとう。柚とは、えっと、仲がよかったの?」
「はい。一年生の冬に会って、それからよく話していたので」
「そう……、あ、お茶、遠慮しないでね」
「どうも」
わたしは凪都のとなりで、やり取りを見守る。
もっと早く来ていれば、凪都にこんな面倒なことをさせずに済んだのかな。わたしがお母さんたちにも見えているときだったら、「死んだけど来たよ」って自分で伝えに来れたと思う。でもいま「幽霊の柚がいる」なんて言っても、ふたりとも信じてくれないだろうし。
とはいえ夏休み前半は、わたしの家の事情を、凪都も七緒も知らなかった。どうこうしようなんて、みんな思わなかったはずだ。だから実家に帰るのがこのタイミングになったのも、仕方ないことだった。
「これ、柚の部屋で見つけた手紙です」
三人でわたしの話をすこししたあと、凪都が鞄から手紙を取り出した。お母さんとお父さんが顔を見合わせる。お父さんがこくりとうなずいて、凪都から手紙を受け取った。
「届けてくれて、ありがとう」
じっと手紙を見つめるふたりは、いますぐにでも読みたいんだろうな、ってわかる雰囲気だった。
「俺のことは気にせず、読んでもらって構いませんよ」
凪都が言って、お茶を飲んだ。気づかって声をかけているにしては淡々とした、だけどなんとも思っていないにしてはあたたかい、いつもの凪都の声だった。
お父さんたちはすこし迷ってから、うなずいて、手紙の封を切った。便せんを取り出して、ふたりで覗き込む。どくどくと、わたしの心臓が鳴って、手に汗が浮かんだ。
……ちゃんと、伝えられるかな。わたしの思っていること。
机のかげに隠れるように、さりげなく、凪都がわたしの指をつかまえた。大丈夫、って言うみたいに指をぎゅっとにぎられる。
「……手紙にね、お姉ちゃんのこと、書いたんだよ。ふたりと一緒に受け止めることも悲しむこともしないで、寮に逃げてごめんね、って。お姉ちゃんが死んだのは、ふたりのせいじゃないよって。むしろわたしは、自分のせいだって思ってた。でもちょっとだけ、最近は自分のことを解放してあげられるようになったよって」
凪都のおかげだ。泣いてもいいんだって、思えた。はじめてお姉ちゃんを思って泣けた。わたしはすこし、楽になった。お母さんとお父さんも、そうなってくれたらいいな、って思ったんだ。
ふたりは、じっと便せんの上の文字を見つめていた。だんだん、お母さんが鼻を鳴らしはじめて、お父さんは目もとをこするようになった。そんなふたりを見ていると、わたしまで泣きそうになる。
もう、最近涙腺がおかしくなってる。あんなに泣くことが嫌だったはずなのに。これも凪都のせい……というか、凪都のおかげだ。
お母さんが、ハンカチで目もとをおさえた。
「ごめんなさいね、お客さまの前で恥ずかしい」
「いえ」
凪都は静かに座っている。こういうとき、凪都はひとの話を受け止める空気をつくるのがうまいと思う。さっきの声もだけど、すごく絶妙な距離感で寄り添ってくれる。だから泣いてる側は、つい言葉がこぼれていくんだ。わたしがそうだったのと同じように、お母さんもうつむいた。
「……もっと、あの子たちと真剣に向き合っていればよかった、って思うの」
ゆっくり話し出したけど、言葉が止まることはなかった。
「病院の先生がね、柚が倒れる前に、予兆があったはずだって、言ってて。頭が痛いとか、そういう話は聞いてなかったのかって……。でも、わたし、あの子と連絡を取ってなかったから。体調のことも、それ以外のことも、なにも知らなかったのよ」
お母さんの瞳から、涙があふれた。冷房の乾いた稼働音が鳴り響く。
「わたしが、ちゃんと話を聞いていたら、倒れる前になんとかできたはずなのに。それを、わたしは、わかってたはずだったのに……。だって、それで、一度失敗をしたんだから。それなのに結局同じことを繰り返して、娘をふたりとも死なせた。わたしの、せい」
となりにいるお父さんも、目を真っ赤にして口をぐっと結んでいた。お父さんはもともと口数がすくなかったけど、感情は表情に出やすいひとだった。わたしは、突きさされたみたいに、胸が痛んだ。お母さんに手をのばす。だけど、触れることはなくて、すり抜けた。
本当に……、死なんて大嫌いだ。心配も迷惑も、みんなにかけるだけかけて、いいことなんてひとつもない。なんで、わたしは死んじゃったんだろう。凪都には死なないでってずっと言いつづけていたくせに。死ぬのはだめだって、わかってたのに。
「ごめんね、ふたりを、悲しませたかったわけじゃないんだよ……」
この声は届かない。ふたりとも、すこしも気づいてくれない。それでも言いたくて、たまらない。
「ちがうんだよ、お母さん。わたしが、弱かったから。みんなに迷惑かけたくなくて、こんな頭痛くらい平気だって軽く見てたから。それがいけなかっただけ」
お母さんのせいじゃないんだよ。
うつむいて、くちびるをかんだ。この声が伝えられるうちに、どうして、会いに来なかったんだろう。どうして。どうして。
「――柚が、言ってました」
ふたりのすすり泣きが響く静かな部屋に、凪都の声がした。はっとする。わたしは凪都を見た。凪都はただ前に座るふたりを見つめていた。
「柚は、まわりに迷惑をかけたくないから無理をすることがあるって、言ってたんです。自分が弱いから、そうなるんだって」
え、とお母さんが顔を上げた。
「頭痛も、実際していたみたいです。だけど柚は、これくらいなんともないって言ってた。そういう無茶をする自分のことを、柚もよくないことだってわかっていたのに、無茶をしつづけて、死んだ。そんな柚だから、自分が死んだことをふたりのせいになんてしませんよ」
そこまできて、やっと気づいた。凪都が、わたしの言葉を伝えてくれているんだ。わたしが届けられない言葉を、凪都が代わりに話してくれている。凪都はさりげなくわたしを見た。ゆず、って口だけを動かして、わたしを励ます。ほかに言いたいことはないのか、って。
わたしは、必死に考えた。言いたいこと、伝えたいことを、必死に。
「……わたし。わたし、もっとお母さんともお父さんとも話しておけばよかったって、思ってる。お姉ちゃんのことも、ほかのことも、いっぱい、いっぱい……。連絡しなくて、ごめん」
声がふるえるわたしの指先を、凪都はしっかりにぎってくれていた。わたしの言葉を違和感がないようにすこしだけ変えて、ふたりに話してくれる。わたしは、つっかえながら、どうにか話しつづける。
「ふたりを怨んでないし、嫌いでもない。ふたりのせいだって思うことも、ないよ」
お母さんが肩を小刻みに揺らしながら、ハンカチから顔を上げなくなった。お父さんは、涙を拭くことも忘れたみたいに、すこしも動かずにうつむいている。
「わたしの、ことで……、自分を責めないでほしい。わたしはそんなこと、望んでない、から……っ」
胸が痛くてたまらない。視界がにじんで、ぼやけてしまう。声がひっくり返る。それでも精一杯、わたしはふたりに伝えた。わたしが言えることを、全部。だってせっかく、ここに来たんだ。死んだあと、たったひと夏だけ幽霊になることを許された。言えること全部言わなきゃ、わたしはもう、二度とふたりと話すことができなくなる。
これが、最後の機会だ。
だから。
「わたしは、お母さんとお父さんのこと、お姉ちゃんのことも、大好きだった」
必死になって、話していた。話し終わったときには、肩で息をしていた。伝えられたかな。お母さんにもお父さんにも、届いたかな。ぐいっと、目もとを拭う。
「ありがとう、凪都。これで、もう言い残したことはないよ」
凪都も口をつぐんだ。
どうかわたしの言葉で、ふたりの悲しみを減らすことができていますように。
「――おふたりが」
黙ったはずの凪都が、もう一度口を開いた。
「おふたりが、自分を責める必要は、ないですよ」
静かに強く、言い切った。その言葉は、わたしの言葉を通訳したものじゃなかった。凪都自身の感情もこもっている言葉だった。……凪都はやさしいから、心からそう思ってくれたのかもしれない。
お母さんもお父さんも、もうなにかを言う余裕もなくて、ただただ泣いていた。わたしよりもずっと大人のふたりが、こんなに泣いているところを見るのははじめてだった。
わたし、大切にされてたんだなあ。胸がきゅっと締めつけられながら、ちょっとだけ笑う。
大丈夫。泣いたら、気持ちが軽くなるよ。いっぱい泣いて、笑えるようになってね。わたしがいなくなったあとも、ずっと――。
また落ちた涙を、わたしは拭う。
消えるまでにしたいこと、ひとつ、クリアだ。
お母さんとお父さんはずっと泣いていたけど、「お客さまがいるのに、いつまでもこうしていちゃ失礼だから」と、無理やり涙を引っ込めた。凪都が帰ったあとにまた泣くんだろうなってわかる顔だったけど。
そんなふたりに、凪都が「そういえば」と切り出す。
「柚のお姉さんのスマホって、まだありますか」
え?
言われたふたりも、わたしも、きょとんとする。
「お姉さんが最期にSNSを更新していたんですよね。でも柚は怖くてその内容を見ることができなかったって言っていたので、気になっていて。よければ、見せてもらえませんか」
「それは……、ええ、残ってはいるんだけど」
「柚の代わりって言ったらすこし変ですけど、柚ができなかったこと、俺がしておきたいんです。お願いします」
お母さんは困惑したみたいだ。だけど、すっかり凪都には気を許したみたいで、リビングを出ていくとお姉ちゃんの部屋からスマホを持ってきた。まだ処分してなかったんだ。
「データもそのまま残っているから、充電すれば見られると思うわ」
「ありがとうございます」
それから、凪都はもうひとつ、お母さんに頼みごとをした。
「充電する間、柚の部屋にいても構いませんか」
「え? あの子の部屋?」
さすがに、娘の部屋に勝手にひとを上げるのは、ってふたりは渋っていた。だけど凪都が頭を下げると、ゆっくりうなずいた。
「わかりました。部屋は二階だから、どうぞ。柚に、あなたみたいな仲良しの男の子がいたのね」
……もしかしたら、わたしと凪都が恋人だとでも思ったのかもしれない。恋人の想い出に浸りたいんだろうな、なら拒むのも悪いか、みたいな。ちょっと恥ずかしい。
お姉ちゃんのスマホと充電器を持って、凪都はわたしの部屋に向かった。お母さんたちは「帰るときには声をかけて」と、凪都を残して部屋を出ていく。扉を閉めた凪都に、わたしは言った。
「お姉ちゃんのSNSのこと覚えてたんだね。ありがとう、頼んでくれて」
「おせっかいだった?」
扉を閉めたとはいえ、お母さんたちに聞こえないように、凪都は抑えた声で言った。
「ううん。見たかったから、助かる」
お姉ちゃんが死ぬ直前にしていたSNSへの投稿は、自殺を否定するような内容だったって聞いている。だけどそれを見たら、わたしは罪悪感に耐えられないだろうなって思って、いままで目をそらしてきた。
死ぬ気のなかったお姉ちゃんを死なせてしまった、その怖さは、いまもある。だけどお姉ちゃんのことを知らないまま、消えたくなかった。
充電器にスマホを差しても、すぐには起動しない。わたしは部屋を見回した。凪都もわたしの視線を追う。
「シンプルな部屋だな」
「ものがあっても、落ち着かなくて。いろいろ捨てちゃったんだ」
最低限の机やベッド以外のものを置いていない、殺風景な部屋だった。お姉ちゃんが死んでから、なにも考えずに引きこもっていたかったわたしには、家具も柄物も色も、うるさく感じて仕方なかった。
「寮の部屋も、そろそろ片付けないとだね。あ、そういえば、寮をあのままにしてくれたのも、凪都たちなんでしょ? ありがと」
「それに関しては、女子寮のメンバーに感謝しな。俺はなにもしてないから」
本当は、お母さんたちが夏休み中に寮の荷物を片づけることになっていたみたいだ。だけど七緒たちが「すぐに片付けるなんて寂しいから、いまはこのままにして。夏休みが終われば、女子寮のみんなで片付ける」って言ってくれたらしい。おかげで、わたしは夏休みも普通に過ごせた。
せめて片付けくらいは、わたしがしなきゃ。
お姉ちゃんのスマホが小さくふるえた。起動、したみたいだ。わたしは一度目をそらす。さっきより心がしぼんでいた。やっぱりちょっと、見るのは勇気がいる。
「……お母さんたち、大丈夫かな。わたしのことも、お姉ちゃんのことも、乗り越えられるかな」
「柚の言いたいことは、伝わったと思うよ」
凪都がそっと声をかけてくる。そうだと、いいな。
深呼吸する。
「……嫌なら、無理に見る必要もないと思うけど」
「ううん、見る。見たい」
「そ。じゃあ、はい」
凪都がスマホを持ち上げる。わたしは、そっと受け取って、パスワードを入力した。お姉ちゃんの誕生日。ロックは問題なく解除された。壁紙は犬のイラストだった。お姉ちゃんが好きだったキャラクター。SNSアプリのアイコンをタッチする。ログインの状態が保たれていて、タイムラインが表示された。お姉ちゃんの投稿が並ぶホーム画面に移動する。
一度、目を閉じた。
お姉ちゃんの最後の投稿は、死ぬ直前のもの。わたしに怒って家を飛び出して、暗い夜の道を歩いたお姉ちゃん。階段をのぼって小さな神社に行って、そこから落ちてしまう直前の、お姉ちゃん。
目を開く。
連投をしていたみたいだ。同じ時間帯の投稿が並んでいた。視線で文字を追う。それは思っていたよりも、あっさりとした言葉だった。
『あー、もう、わたしのばか』
『親と妹とケンカした。でも、わがまま言ってるのはわたしだってわかってるんだよ』
『妹に結構きついこと言っちゃった』
『家、帰らなきゃだよね』
『謝って、仲直りしなきゃ。あー……、うん、よし、帰るか!』
あっけらかんとしたお姉ちゃんの声で、その文章が頭の中に響いた。あっと思うまもなく、わたしの目から涙がこぼれた。
「……もっと、深刻な文章でも書いてあるのかと思ってた」
だけど、この文章のどこにも死ぬ気配なんてない。ちょっと喧嘩したから気まずいけど、帰って仲直りしなきゃって、それだけの文章だ。お姉ちゃんは、自分が家に帰ることを疑ってなかった。それなのに、足を踏み外して死んだ。生きようとしていたはずなのに。自分の未来はつづいていくって思っていたはずなのに。
ぽたぽたと、頬を涙が伝って落ちた。
「どうして、死んじゃったんだろう」
帰ろうって言っているお姉ちゃんは、階段から落ちていく瞬間、なにを思ったんだろう。どれだけ驚いて、どれだけ悔しかっただろう。
「わたしが……、あの日、お姉ちゃんを引き留めていられたら。わたしが、もっと元気でみんなに心配をかけずにいられる妹だったら、お姉ちゃんは、こんなことには、ならなかったのに」
後悔したってもう遅い。なのに後悔が止まらない。
「ごめんね、お姉ちゃん……っ」
しゃくりあげる音だけが、鼓膜を揺らした。
「柚とお姉さん、似てるな」
「……え?」
そっと、顔を上げた。凪都は静かにスマホの画面を見ていた。
「お姉さん、自分が死んだことを柚のせいなんて、思ってないんじゃない?」
凪都も視線を上げて、わたしを見る。
「仲直りをしたがってたくらいなんだから。むしろ、柚が自分を責めるの、お姉さんは嫌がるんじゃないの」
「嫌がる……?」
凪都がうなずいて、わたしの目じりにたまった涙を指先ですくう。
「柚がそんな態度だから、まだふたりは仲直りできてないままだろ。俺だったら、喧嘩した相手がいつまでも俺のことを怖がってたら、困る」
「わ、わたし、べつにお姉ちゃんを怖がってるわけじゃ!」
……でも、お姉ちゃんに責められる夢を何度も見ていた。わたしは申し訳なくて、ずっとお姉ちゃんから目をそらしてきたんだ。きっとお姉ちゃんはわたしを怨んでいるんだろうなって。
だけどお姉ちゃんは、仲直りしたいって思ってくれていた――。
「柚、自分を責めるのは、もうやめなよ。で、仲直りしたかったっていうお姉さんの願い、叶えてあげな」
「……お姉ちゃんは、わたしが苦しむこと、望まないのかな」
「それを望むひとだったわけ?」
ううん、と首をふる。
「お姉ちゃんは、やさしかった。そんなこと、望まない」
「なら、それが答えだろ」
気づいたら、また涙が流れていた。ああ、そっか。
「わたし、馬鹿だったなあ……」
今度の涙は、あふれてあふれて、どうやっても止められなかった。息が苦しくて、肩が跳ねる。
「ほんとに、なんで、わたしは」
凪都の肩に額を押しつけると、凪都は拒まずに、わたしの頭をなでてくれた。そのあたたかさが感じられて、もっと泣けてくるんだ。
ごめんね、お姉ちゃん。ずっとお姉ちゃんの思いを無視していて。わたしも仲直りしたいんだよ。お姉ちゃんのこと、大好きだから。
「もっと、もっと早く、気づいていればよかったなぁ……っ」
そうすれば、お母さんやお父さんと、お姉ちゃんの話をして一緒に泣くことができたはずだ。きっとお姉ちゃんも、それを望んでいたはずなのに。なのに、わたしは気づかなくて。わたしは死んじゃって。いま知っても、もうわたしに、未来はないのに。
「なんで、わたし、死んじゃったんだろう」
目の前がちかちかと光った。頭の中の血管が切れそうなくらい、感情が止まらない。
「わたし、……死にたく、なかった!」
みんなと、もっと生きていたかった。凪都と、七緒と、女子寮のみんなと、お母さんとお父さんと、生きたかった。
「せっかく、お姉ちゃんのこと、わかったのに。今日からは、お姉ちゃんのこと大切に抱えて、生きていけそうなのに。なんで、わたしは」
悔しくて、悲しくて。わたしは凪都の服をつかんだ。なんでわたしは、消えなきゃいけないの。嫌、だ。
「死にたくない。消えたくない」
わたしは。
「もっと、生きたい……っ!」
そのときだった。
「――そうだよな」
耳もとで、凪都のふるえた声がした。ぴたりと、わたしの思考が止まった。
「柚は、死にたくなんて、なかったよな」
感情を押し殺すような、それでもふるえてしまう、凪都の声。ぴりりと、空気に緊張が走ったのが、肌でわかった。
「凪都……?」
わたしは、ゆっくりと身体を離した。見上げた凪都は、ひどく傷ついた顔をしていた。いまにも泣いてしまいそうな、そんな顔。驚いて、わたしの涙が止まる。
今度は凪都が、わたしの肩にもたれかかった。頬に、凪都の髪が当たる。かすかに息を吸う音が、耳もとでした。
「ねえ柚。俺、死んじゃ、だめ?」
――え?
凪都がずるずると座り込む。支えられなくて、わたしも床に膝をついた。
「柚と一緒に、死にたい」
抱きしめられて、その腕の力に苦しくなる。一瞬の無音が部屋を満たした。わたしの心臓が強く打つ。はちきれそうな緊張に、こめかみのあたりでも脈打っているのを感じた。
「どう、したの……、凪都」
凪都がもっと腕に力をこめた。
「もう、生きたくない」
どうしてそんなことを言い出したのか、全然わからなかった。だけど、その言葉に、脳が揺さぶられた。呼吸が止まりそうになった。
「なんで……、死ぬのはだめだって、わたし、言ってるじゃんか! やめてよ!」
とっさに叫んでいた。だってわたしは、こんなに生きたいのに。生きてる凪都がうらやましいのに。
「なんでそういうこと言うの!」
「柚は残された側の気持ちも、わかってるだろ!」
凪都の語気も荒くなった。わたしは思わず、口をつぐむ。一度息をついて、凪都がまた力をなくしたように、小さくつぶやいた。
「……ひとが死んだとき、どれだけまわりが苦しむか、柚が一番わかってるくせに」
「それは……、わかってるよ」
この世界からだれかが消える怖さを、わたしは知っている。だけど、ちがうんだよ。
「……だめだよ。生きて。死なないで」
凪都はなにも言わずに、首をふる。そうだ。最近、わたしは自分のことで精一杯だったから、忘れていた。三芝凪都は、死にたがりだ。熱くなっていた身体が一気に冷えた。血が、全部外に流れたみたいに。
「だめ、生きてよ。凪都の悩み、わたしがなんとかするから。諒さんと仲直りしたでしょ。ほかには? あとはなにを悩んでるの? 全部なんとかするから、生きてよ」
重たい沈黙と、かすかな凪都の息づかいだけが部屋を満たした。
「だったら、一緒に生きるか、一緒に死んで」
やっとこぼした凪都の言葉。でもそれは。
「……無理だよ」
わたしだって、一緒に生きたかったけど、もう無理なんだ。
「ごめんね、凪都。ごめん。だけど、わたしがいなくても、凪都は生きて」
「なんで」
「なんでって……、わたしが……、凪都に笑っていてほしいから」
抱きしめる力がすこしだけ弱まって、身体が離れた。凪都は泣いていなかった。だけど苦しそうで、見ているわたしのほうが泣きたくなった。
「笑っていてほしいんだよ。そこに、わたしがいなかったとしても」
だって、わたしは――。
凪都の瞳に、わたしが映る。きれいな瞳だ。そこに、暗い影がなかったら、もっと好きだ。憂鬱そうなんかじゃない、楽しそうな笑顔を浮かべてくれたら、もっともっと、好きなんだ。
「わたしは、凪都のことが」
好きだから。大好きだから、生きてほしい。笑ってほしい。だから、お願い。
そう言おうとした、わたしを。
青くなった凪都が、さえぎった。
わたしの口は、凪都の手におおわれていた。伝えたかった言葉は、わたしの喉のあたりでつっかえて、行き場をなくした。凪都は怯えているみたいな目でわたしを見て、肩で息をした。数秒、時が止まったみたいに、わたしたちは動かなかった。
「――ごめん。柚」
ゆっくりと手が離れる。身体ごと、凪都が身を引く。
「それを聞く資格なんて、俺にはないよ」
うつむく凪都の瞳を、黒い髪が隠す。
「ごめん、ごめん……」
ひたすら謝罪をくりかえしている、その意味がわたしにはわからなかった。
わたしはまだ、三芝凪都というひとを、理解できていないのかもしれなかった。
あれから、二日が過ぎた。
「やっほー、凪都。ほんとに早起きなんだね。あ、諒もやっほ」
ジャージ姿の七緒が、ひらひらと手をふってふたりに声をかける。
「はよー。いやー、さすがに眠いわ」
諒さんは苦笑して、あくびをする。そんなふたりを見て、凪都は肩をすくめた。
「眠いなら寝てればいいのに」
「んなこと言うなって。せっかく柚さんと七緒さんが誘ってくれたんだから、俺も走りたいし」
「そうそう。みんないたほうが楽しいよ。ってことで早朝ランニング出発! 柚ー、いるよね? 後ろ乗って」
七緒が自転車にまたがって、きょろきょろと辺りを見回した。その瞳が、わたしを見ることはなさそうだ。今朝は、ここにいる三人のだれとも目が合わない。
わたしは荷台にまたがって、七緒の腰に腕を回す。二人乗りはだめだってわかってるけど、どうせだれにもわたしの姿は見えないから。
「柚、乗った? こぐよー」
「うん。いいよ」
七緒のこぐ自転車が校門を出て、海につながる坂道をくだっていく。
「ちょっ、七緒さん、速い! 自分で走る組のことも考えて!」
「大丈夫、いけるいける、ふたりともファイト!」
「……柚より鬼だな」
ぐんぐんスピードを上げる七緒を、諒さんと凪都があせって追いかける。それが面白くて、ちょっと笑えてきた。それからすこし、寂しくなった。みんなには、わたしが見えていないんだもんね。一緒にいるはずなのに、わたしだけ、仲間はずれみたいだ。
坂道を抜けて、海が見えてくる。わたしたちは海沿いの道に沿って走った。潮風が吹きつけて、わたしの髪が揺れる。きらきらとまぶしい海面に負けないくらい、七緒が楽しそうな笑い声を上げていた。
首をめぐらせて、うしろを確認する。凪都の髪が、朝陽に照らされて白っぽく輝いている。
「頑張れ、凪都」
と、そこで、ぐらっと自転車が傾いた。「うわあっ」っと七緒が叫んで、どうにか倒れずに踏ん張ってから、自転車を停めた。
「びっくりしたぁ……。あ、よかった柚、ちゃんと乗ってた。おはよ!」
七緒がわたしを見たから、ちょっと驚く。いまは見えるんだ。
「おはよ。ごめんね、急に体重かかった?」
「うん。ちょっとびっくりした」
どういう理屈なのかはわからないけど、わたしが見えていない間は体重もかからなくて、見えるようになったら体重がもどってきたらしい。まあ理屈なんて考えても仕方ない。幽霊になっていることが、そもそも理屈で説明できないんだし。
「わたし降りようか?」
「えー、いいよ、このまま二人乗りしよ」
七緒がそう言うから、わたしはもう一度、七緒の腰に抱きついた。
「ふっふっふー、夏休み、可愛い女の子に抱きつかれながら二人乗りをする。どうだ、男子、うらやましいか!」
七緒が高らかに言いながら、また自転車を走らせる。わたしは苦笑して、七緒に抱きつく力を強めた。……見えている間に、触れておきたい。七緒たちですら、わたしを見てくれる時間がすくなくなってきている。もういつ自分が消えてもおかしくないような気がするんだ。だから毎回、これが最後かもって怖くなる。
「柚さーん、俺のことも応援してー」
後ろから、諒さんが情けない声をあげた。わたしがふり向くと、凪都が言う。
「いいよ、柚。諒のことは無視しな」
「なんでだよ! いいだろ、応援くらいしてもらっても」
「現役バスケ部なんだから、これくらい楽に走れよ」
「現役だってきついのはきついって!」
そんなやり取りに、つい笑ってしまう。
「頑張って、諒さん」
「お、さすが、柚さんやさしい!」
やさしいのは諒さんのほうだ。わたしの事情を、諒さんは凪都から聞いたらしい。ほとんどつき合いもないのに、諒さんはわたしが幽霊だってことを怖がらずに受け入れてくれたし、いまもこうやって、わたしのわがままを聞いてくれている。
「柚、ちゃんとつかまっててね。スピードあげるよ」
「え、まだあげるの? そろそろ後ろのふたり、倒れるよ?」
「まだいけるっしょ」
七緒が意地悪く笑って、ペダルを踏み込んだ。案の定、男子ふたりから抗議の声が飛んできたけど、七緒は走りつづける。無茶苦茶だなあ、面白いけど。
「いいね。賑やかで」
わたしは、七緒の背中に顔を押しつけて、すこし笑った。
「……柚、大丈夫。凪都のことは、わたしたちに任せなよ」
男子に聞こえないように、七緒がささやく。
「うん。ありがとう」
凪都は、うそつきだ。
わたしが実家に帰った日、なぜか凪都はわたしに謝罪をくりかえしていたくせに、つぎの日には、いつもの静かな表情にもどっていた。あのやり取りが丸ごとなかったみたいに、普通の顔をして過ごすんだ。でも確実に、凪都の心はすり切れている気がする。黒い瞳が、どんどん濁っていくように見えた。
もうすぐ、夏休みが終わるのに。あと一週間だ。自殺者が増える、夏の終わりが来る。
どうしよう。わたしは、凪都になにをしてあげられるのかな。昨日もそうやって悩んでいたら、七緒がわたしに声をかけてきたんだ。
『凪都のことが心配なの? じゃあ、わたしも凪都のことを見ておくよ。任せて』
だから、と七緒は微笑んだ。すこしだけ悲しそうに。
『柚は、なにも心配しなくていいからね』
すこし後ろから、凪都と諒さんが必死に追いかけつつ「もっとゆっくり!」って助けを求める声をあげた。七緒が「まだいけるぞー!」と笑い飛ばす。みんなではしゃぐ、この時間が楽しい。そう思うのと同時に、どうしようもなく泣きたくなる。
わたしは自分が消えたときのための準備を進めている。寮の部屋も片づけているし、凪都のことだって七緒に託した。わたしが消える日のことを見据えて、わたしもみんなも、終わりに向かって進んでいる。
――まだ、わたしは、ここにいたいのにな。
海沿いからはずれて、住宅街に進む。わたしたちは休憩のために、いつもの公園に寄った。倒れそうな男子ふたりのために、七緒が自販機でスポドリを買う。諒さんは木陰に座り込んで動かない。……だいぶ、きつそう。凪都も、諒さんに比べたら平気な顔をしてるけど、限界ぎりぎりって感じだ。
「凪都、大丈夫?」
「ん」
平気、って伝えたいのか凪都がひらひらと手をふって笑った。だけどその笑顔は、やっぱり、うそっぽかった。ひびが入ったガラスを前にしているみたいな緊張感が、そこにはあった。触れれば、割れてしまいそうで、手をのばすことも躊躇してしまうような。
なにをそんなに悩んでいるんだろう。ごめん、ってどういう意味だったの。もうすぐ夏が終わっちゃうんだから、教えてよ。
だけど凪都は「聞かないで」って壁をつくりつづけていた。
「あ、ねえ、明日ってなんか持ち物いるんだっけ?」
「読書感想文は明日提出じゃなかった? あーあ、登校日ってだるいよなー」
七緒が言って、息が整ってきた諒さんがため息をついた。
明日は午前中だけの登校日だ。まだ夏休みは終わっていないのに、なぜだかホームルームのためだけに登校しなきゃいけない、面倒な日。
わたしが死んだ噂は、先生たちが校内に広めないようにしているらしい。でもさすがに登校日にわたしがいないことを、教室のみんなは気にするはずだ。同じクラスの子くらいには、死んだことを知らせるのかな。ちょっと憂鬱だ。
明日のことを話している七緒たちを見ながら、凪都が小さく息をついた。
「夏休み、もう終わるんだな」
わたしの心臓が跳ねる。
「……そうだね、終わっちゃうね」
蝉の声が、うるさいくらいに頭に響いた。
つぎの日、登校日が予定どおりにやってきた。
そうしてわたしは、凪都の言った「ごめん」の意味を知った。
登校日だからって、わたしは教室に行くつもりはなかった。行ったって仕方がない。でも、すこし気になってもいた。
わたしの席は、どうなっているんだろう。みんな、どういう反応をするんだろう。……ちょっとだけ、行ってみるか。
七緒を見送ったあとの寮の部屋で、制服に着替えた。髪は……、まあ、おろしたままでいいか。一応、キャップをかぶって校舎に向かう。でも寮ですれ違った春野さんはわたしに気づかなかったから、キャップも必要なかったかもしれない。
登校時間は過ぎていて、そろそろホームルームがはじまる時間だった。玄関のあたりは静かだ。階段をのぼって、二年一組の教室を目指す。廊下を歩いていると、扉越しに生徒の賑やかな声が聞こえた。壁一枚隔てただけなのに、教室と廊下の空気は全然ちがう。
夏休み前は毎日通っていた教室にたどり着く。閉まっている扉の前で、一度足を止めた。
廊下の先から、担任の加藤先生が歩いてくるのが見えた。三十代の、化学を担当している男の先生。あんまり愛想はないけど、厳しすぎることもないから、評判はよくもなく悪くもなく。
先生は、わたしに気づかなかった。一度深呼吸をした先生が、扉を開けて中に入っていく。
その扉から、わたしもするりと教室に入った。だれもわたしを見ない教室の中を歩いて、自分の席に向かう。みんなが席についているのに、教室の真ん中にあるわたしの席だけが空っぽだった。
凪都は窓際の後ろの席で、ぼんやりと外を見ている。七緒は、廊下側の真ん中あたりでとなりの女子と話していた。
「おはようございます。お久しぶりですね。ホームルームをはじめます」
加藤先生の声で、おしゃべりしていた生徒も前を向く。わたしは中央に立っているのが落ち着かなくなって、教室の後ろに移動した。
「読書感想文を回収するので、後ろの席から回してください」
列の後ろから前へ、紙の束が回っていく。空席になっているわたしの席を飛び越えるために、前後のクラスメイトが手を伸ばし合っていた。一番前の生徒から先生が回収して、教卓にまとめる。数人、持ってくるのを忘れている子がいて、先生に謝りに行った。先生は注意して、始業式には必ず提出するようにと言い渡した。
そのあとも、いくつかの提出物が先生のもとまでリレーされていく。
「つぎにプリントを配ります」
さっきとは逆に、先生から前の生徒、またその後ろの生徒へ、プリントが配られていく。ちらりと近くの子の手もとを覗けば、生活習慣の注意を促す内容だった。夏休みで乱れた生活を残り一週間で直しましょう、早寝早起きを心がけてください、みたいな。
ほかにも三種類のプリントの配布が行われたあと、先生の話に移った。夏休み明けの始業式について。夏休みの課題のこと。時間割のこと。秋の文化祭のこと。
全部、わたしには関係ない。虚しくて、ちょっと笑えた。
必要なことを全部話し終わったのか、先生が一度言葉を止める。そうして、声の調子を変えた。
「最後に、皆さんにお知らせしておくことがあります」
ぴんと張りつめたような声に、クラスの時間が一瞬、静止したような気がした。机の下でスマホをいじっていた生徒は視線を上げて、頬杖をついていた生徒は、手から顔を離す。
七緒が、わたしの席を見た。
凪都は、変わらずに外を見つめていた。
「今日、欠席をしている東坂さんですが」
加藤先生が、いつもよりゆっくりと言葉をつなぐ。半分以上の生徒が、わたしの空席に視線を送った。
「夏休み前に、病気のため亡くなられました」
みんな、しんとしていた。わたしがクラスの人気者だったら、みんなの反応も大きかったかもしれないな、とちょっとだけいたたまれなくなる。
先生がわたしのことを、いい生徒だったって褒めてくれた。全員でこの一年を終えることができなくて残念だった、って惜しんでくれた。そのあともつづく先生の話を、わたしはぼんやりと聞いていた。みんなからも先生へ、「本当ですか」なんて質問が飛んで、先生はひとつひとつ答えていく。そのやりとりの中で、みんなの中に「東坂柚はもういない」って現実が染みわたっていくのを感じながら、わたしはうつむいた。
「混乱するひとも多いと思いますが、一度、黙とうをしたいと思います」
先生が目を閉じる。それにつられて、困惑していたみんなもうつむいて目を閉じていく。わたしはみんなの姿を見回した。わたしのいない学校生活が、はじまっていく。わたしは、もう消えていくだけの存在だ。
そのときだった。
スマホが鳴った。
「あ、すみません……」
窓際二番目の席の男子、浅田くんが、あわててポケットからスマホを取り出した。短い通知音だったけど、みんなが目を閉じて静まり返る教室の中だと目立った。マナーモードにしようと、浅田くんはスマホを操作する。
「……え」
でも、スマホを持ったまま、固まってしまった。先生が注意するけど、浅田くんは困惑した顔で「いやでも」と言う。そのうち、ほかの席からも「なにこれ」と声が聞こえる。
「ねえ、これ」
緊張していた空気が揺らいだ。数人が、自分のスマホを確認する。それにつられて、みんなスマホを取り出して、まわりの生徒と目を見合わせた。心地の悪いざわめきが広がっていく。
「みなさん、静かに」
「……あの、先生、これ」
教卓のすぐ前の席に座る女子、野上さんが、怪訝そうにしている先生に自分のスマホの画面を見せた。
なんだろう。
わたしも、近くにいた子のスマホを見る。チャットアプリだった。二年一組連絡用の全員が入っているグループに、文章と写真が更新されていた。いまさっき、浅田くんの通知音を鳴らせたチャットだ。
『女子生徒を見殺しにした、最低なクラスメイト』
文章は、そんな一文。
添付された写真は夜に撮られたもので、暗かった。お祭りの屋台を背景にして映った、ひとりの男子。
わたしは、まばたきも忘れて、その文章と写真を見る。
クラスのみんなが首をめぐらせたり、身体ごと向きを変えたりして、一点を見た。窓際後方の席。そこに座る男子生徒。
みんなが、凪都を見ていた。
だって、写真に映っていたのが凪都だったから。
凪都は外に向けていた視線を、ゆっくりと教室の中にもどした。憂鬱そうな死にたがりの瞳に、クラスのみんなの顔を映す。
「お、おい、三芝、これ……」
凪都の前の席の横田くんが、凪都に言った。凪都は横田くんを見返して、おもむろに立ち上がる。がたん、と椅子を引く音が響いた。その音が、みんなの注目をもっと集める。
立ち上がった凪都に、先生がうろたえた。
「みなさん、前を見て。静かに。三芝くんも座って」
「早退します」
「え」
全員が困惑する中、凪都は我関せずの顔でひとり歩いて、教室後ろの扉を開けた。
「あと、それ。うそじゃないですよ」
一度だけふり向いて言うと、教室を出ていってしまう。
一瞬、沈黙が満ちた。だけど「え?」「なに?」とあちこちから不安や困惑の声が上がって、騒々しくなる。先生が必死になだめようとしているけど、落ち着く様子はない。
わたしは、開けられたままだった扉から飛び出した。
……なにこれ。どうなってるの。
「凪都!」
凪都は廊下を歩いていく。わたしの声は届かない。
「凪都、ねえ、待って!」
腕をつかまえようとする。だけど触れられない。
「なんなの、あれ。凪都ってば!」
女子生徒を、凪都が見殺しにした? 意味がわからない。この状況で、死んだ女子生徒といえば、わたしのことが真っ先に頭に浮かんだけど。でも。
凪都が階段を降りていく。わたしの声に、一度もふり向かない。その冷たい背中に怖くなって、手に汗が浮かんだ。玄関を通って靴を履き替え、凪都は中庭を進んでいく。
「……凪都っ!」
声がかすれるくらい、全力で叫んだ。ふと、凪都が足を止めた。ゆっくりとした動作で、凪都がふり返る。
「柚」
声、届いた。
「ねえ、なんなの! さっきの、意味わかんないんだけど!」
「ああ……、なんだ。教室にいたんだ」
凪都は口もとを小さく笑みの形にした。目も細める。うそつきの笑顔だ。
「見てたなら、わかるだろ。チャットの文章のままだよ」
「わ、わかんないよ、そんなんじゃ、全然」
「だから俺はそんなに、出来たやつじゃないってこと。むしろ、最低な人間なんだ」
「……どういうことなの」
凪都は瞳にわたしを映して、くしゃりと笑う。
「柚を殺したのは、俺だから」
静かな凪都の声が、頭の奥にへばりつく。その意味を理解しようとして、頭が痛くなるくらいに思考を働かせようとした。だけど、全然だめだ。わからなくてあせる。あせればあせるほど、言葉の意味がわからなくなる。
「わたしは、病死だから、凪都は関係ないよ」
「あるんだ、本当は」
「なんで」
「発作で倒れた柚を、最初に見つけたのが俺だから」
凪都が人差し指をどこかに向けた。
「あっちの、寮に向かう道で。柚は俺の前で倒れた」
呆然と、凪都が指さす方向に視線を送った。校舎から寮につながる、いつも使っている道だ。
「あの日も、柚は図書室まで俺に会いにきた。で、閉室時間になって、柚が先に寮にもどって、俺もすこししてから図書室を出た。そのとき、柚が倒れるのを見た」
心臓が全力疾走したあとみたいに速く打っていて、気持ちが悪い。
「わたしが死んだとき、凪都がそこにいたの……?」
「そう。いた」
わたしは目を見開くことしかできない。凪都は痛そうな笑顔を見せて、自分の髪をかきあげた。
「柚は、頭押さえて倒れて。すぐ呼吸がおかしくなった。意識もほとんどなかった。なんの知識のない俺でも異常だってわかるくらい、様子がおかしかったんだ。そんな柚を見て……、俺は、いいな、って思ったんだ」
「え?」
わたしから逃げるみたいに、凪都が目をそらす。凪都の声がふるえて、聞き取りづらくなった。それでも、凪都は止まることなくわたしに聞かせる。うそつきな凪都の、本当の話を。
「俺は、ずっと死にたかった。生きてても面白いことより面倒なことのほうが多いし。やりたいことも夢もないし。諒とは喧嘩するし、まわりの連中にはにらまれるし。そういうことばっかりだった。ずっと、ぼんやり生きて、これ以上生きたいとも思ってなくて。でも死ねたらいいのにとは思うけど、自殺するほどでもない。事故か病気とかで、適当に死ねたら楽なのにって、そんなことばっかり考えてた」
去年の冬、橋の上で凪都に出会ったときのことを思い出す。そうだ、たしかあのときも、似たようなことを言っていた。だれにも迷惑をかけずに、病気で死にたいって。
「だから、うらやましかったんだ、柚のこと」
凪都は、眉を寄せて、それでも笑っていた。
ふと、頭に浮かぶ声があった。
『死ぬの?』
感情のない、冷淡な声。
『なんで?』
ぼやけた視界の中で、わたしを見下ろしているような凪都の顔が浮かぶ。
『俺に死ぬなって言う柚が、俺の理想の死に方するの、ずるいだろ』
そんな、声が。わたしに背を向けて、どこかに行ってしまう人影の映像が。頭の裏にべったりと張り付いていた。
なんなのこれ。これが記憶なのか、ただの想像なのか、わからない。でも、もしこれが本当のことなら、わたしはあのとき――、凪都に置いていかれたってこと?
「俺は、柚を助けなかった」
目の前にいる凪都は、笑っている。
「見つけたのが俺じゃなかったら、柚は死ななかったかもしれない」
凪都が一度、息を吸う。
「夏休み、最初に柚に会ったとき、心臓が止まるかと思った。柚を見捨てた俺のことを怨んで化けてでたのかと思ったから。でも、柚は自分が死んだことを忘れてた」
図書室にいた凪都を思い出す。わたしを見て、驚いていた凪都を。
「覚えてないなら、それでいいと思った。責められたくなかったし。なにも知らないまま成仏してくれたほうが楽だと思って、柚の願いを叶えるなんて言った」
なにも言えないわたしに、凪都は笑いかける。
「ごめん。最低な人間で。殺して、ごめん。うそついて、ごめん」
凪都は笑みを崩さない。
「怨んでよ。責めて、蔑んで、罵って。俺は柚に好かれる資格なんてないから」
だれかが駆けてくる音が、後ろでした。
「凪都! ちょっと、なんなのあれ! 説明してよ!」
七緒が顔を赤くしながら走ってくるのが見えた。怒っているような、泣いているような、混乱して精一杯って顔。凪都は一度だけ七緒を見て、すぐに目をそらした。
「ごめん」
気づいたときには、凪都はわたしに背を向けていた。わたしは動けなくて、いなくなる凪都をただ呆然と見ていた。
七緒は中庭を駆け抜けようとして、近くまで来たところでやっとわたしの存在に気づいたみたいだ。あっと目を見開いて、足を止めた。
「柚……、教室、来てたの?」
「うん」
「凪都となにか話した?」
わたしは口を開いたけど、結局なにも言えなかった。
凪都が、わたしを見殺しにした。
死んだときのことをまだ完全に思い出したわけじゃない。だけど断片的に頭に浮かぶ場面があった。想像にしてはリアルなそれは、きっと、記憶なんだ。わたしが倒れたとき、たしかに凪都が近くにいて、わたしを見下ろしていた。それで凪都が、わたしから目をそらして、どこかに行ってしまって。
「置いて、いかれた」
わたしは見捨てられた。見殺しにされた。離れていく凪都の記憶が、たしかにあった。めまいがして気持ち悪くて、口を手で押さえた。血液が逆流しているみたいだ。身体が熱くて、痛くて、倒れそうだった。
「ああ、もう。最悪」
七緒が忌々しそうに言って、校舎を見上げた。視線を追いかければ、窓からこっちを見ている生徒たちが何人かいるのが見えた。七緒のさっきの声が注意を引いたみたいだった。
「……いこ、柚」
七緒がわたしの腕を引こうとする。だけど、その指先はわたしをすり抜けた。ぎゅっと眉を寄せた七緒は、もう一度「行こう」と言って歩き出す。わたしもうなずいて、七緒についていく。
校舎の喧騒から逃げるみたいに、だれもいない寮の方角へ向かう。わたしが倒れた道を目指していた。
「教室にいたなら知ってると思うけど、グループチャットが更新されてた。匿名のアカウントが知らない間にグループに追加されてて、文章と写真をアップしてたの。……でもあの写真、夏祭りのでしょ」
七緒が荒い歩幅で歩いていく。
チャットに送られていた写真は、夏祭りの日の凪都だった。わたしも見覚えがある。たしか、七緒が撮って、みんなに共有した写真だ。写真を持っているのは、わたしと凪都と女子寮のみんなだけ。
「凪都、自分であのチャットを送ったんじゃないかな」
七緒がそう言って、頭を乱暴にかく。
「それに、チャットだけじゃなかった」
「え?」
「SNSにも同じような投稿がされてた。病気で倒れた女子生徒がいて、それを見捨てた生徒がいたって。写真と、凪都の名前つき。……ありえないでしょ、SNSに個人情報載せたら、すぐに消せないよ。しかも炎上しそうな内容だし。拡散されたら、どうなるか。ほんと、なにやってんの、あいつ」
ねえ、と七緒がわたしを見る。
「なんで凪都、こんなことしたの。書いてあること、本当? なに話してたの」
「それは……、わたしにも、わかんないよ」
さっきの凪都の様子を思い出す。笑っていた。でも泣きそうだった。苦しそうだった。
わたしを助けようとしなかったのは本当……だと思う。じゃあわたしは、凪都のせいで死んだってこと? 凪都があのとき、わたしに背を向けなかったら、わたしはまだ生きていられたかもしれない――、そういうことになるの?
目の前が白く光って、身体がぐらついた。
わたしは生きたかった。凪都と一緒に、生きていたかった。なのにあのとき凪都は、わたしを見捨てた。わたしのことなんて、どうでもよかったのかな。そんなの……。
「東坂さん!」
女子寮から、春野さんが駆け出してきた。わたしの姿も見えているみたいだ。手にはスマホがあって、あせっているのか顔色は白かった。
「いま、宮さんから連絡があって。三芝くんのことで」
「宮先輩? もうそんなに話が広まってるんですか?」
七緒が顔をゆがめた。春野さんがこくこくとうなずいてから訊く。
「三芝くんは?」
「……さっき、どこかに行っちゃって」
わたしはうつむいた。いまにも泣いてしまいそうで、顔を隠したかった。
だけど。
「東坂さん、聞いて! あの日、救急車を呼んだのは、わたしなの」
「え?」
春野さんが、いつもの穏やかな話し方じゃなくて、早口で言った。余裕がないみたいで、目を見開くわたしと七緒には構わず、必死に話しつづける。
「あのとき、たしかに三芝くんもいた。倒れた東坂さんを最初に見つけたのは、彼だった。だけどね、三芝くんは――」
きゅっと眉を寄せて泣きそうになりながら、わたしが死んだ日のことを話す春野さんの話を全部聞き終わったとき、わたしはまた混乱した。
凪都の話すこと、春野さんが話すこと、わたしの覚えていること。頭の中をぐるぐるとかき混ぜられているみたいで、思考がまとまらない。胸で、こめかみで、耳もとで、鼓動が鳴りつづけていた。わからないことばかりで、苦しいことばかりで、意味がわからない。
だけど、ふっと思い出した。
『ねえ柚。俺、死んじゃ、だめ?』
わたしの部屋で、すがりついてきた凪都の弱さが、頭をよぎった。
「あ、柚……!」
足は、自然と動いていた。
そうだ、三芝凪都は、死にたがりでうそつきだ。わけがわからない状況だけど、ひとつだけ、確信があった。
暗い瞳で笑っていた凪都はきっと、いま、死のうとしている。
わたしは、お姉ちゃんが死んだあの日、死が嫌いになった。ひとりが死ぬだけで、まわりのひとがどれだけ悲しむのか、知ってしまった。お姉ちゃんが死んだのは、わたしのせいだと思っていた。ひとの死の責任を負うことの重さや苦しさも、わたしは知っていた。
「いっ……」
寮から校門へ向かう途中の階段で、足を踏み外した。ひざをすりむいて、足首に激痛が走った。それでも気にせず立ち上がって、また走る。運動が得意なわけでもない身体は、すこし走っただけで全身ひりついて、内臓がねじ曲がりそうな痛みを訴えた。全身が心臓になったみたいに鼓動を打っている。
凪都はどこにいる? 多分、学校からは出たはずだ。とにかく、走る。凪都のもとへ。早く。
この夏休み、凪都はどんな気持ちで、わたしと一緒にいたんだろう。自分のせいで死んだのかもしれない相手の願いを、どんな思いで叶えていたんだろう。
わたしが幽霊になって声をかけたとき、どれだけ驚いたのか。
海に行って、夏祭りに行って。
わたしの悩みを聞いて、凪都の悩みを話して。
夜の散歩をして、朝のランニングをして。
わたしが死にたくないって言ったとき、凪都はなにを思ったの?
お腹の奥から、胸へ、喉へ、熱と痛みが突き抜けて、涙があふれた。手の甲で乱暴に拭っても、あとからあとからこぼれ出てくる。制服のスカートがはためいて邪魔くさい。陽射しが強くて目がくらむ。早く、早く。
さっき、一度スマホで凪都に呼びかけた。当たり前みたいに無視された。ばか、と心の中で叫ぶ。本人に言ってやらないと気が済まない。
頭にいろいろなことが浮かぶ。笑っている凪都も、泣きそうな凪都も。きっと凪都はこの夏、毎日死にそうになるくらい苦しかったんだ。わたしに会うたびに、心がふるえて、胸が痛んで、叫び出したかったはずだ。
道がふたつに分かれていた。どっち。
そのとき、頭に浮かぶものがあった。……左!
最後の力を使って、走り抜ける。かすかな水音が聞こえてきた。川がある。橋がある。去年の冬、凪都に出会った橋がある。あのとき欄干に腰かけて死のうとしていた凪都を思い出す。わたしは必死に凪都を止めた。出会いから最悪だった。死にたがりなんて、わたしが大嫌いなものだ。
なのにいつから、凪都のことを好きだと思ったんだろう。凪都の笑顔を見たいと思うようになったんだろう。
走って乱れる呼吸と、泣いているせいで乱れる呼吸。まともに息ができなくて、世界がちかちかと光る。
「……なぎ、と」
去年と同じ場所に――、凪都は座っていた。
黒い瞳は足もとを流れる川を見つめている。そこに、消えようとしている。凪都の身体が、すこし傾く。わたしは息が止まった。
だめ。
地面を蹴りつけて、手をのばす。
涙が視界の邪魔をする。
それでも凪都へ、手をのばして。
「死なないで!」
やっと、凪都の腕をつかまえた。
ふり返る凪都のお腹に抱きつく。どこにも行かないように、抱きしめた。
「……柚」
「ばか!」
生まれてからこんなに声を張ったことがなくて、ふるえてしまう。
「死なないでって、何回わたしに言わせる気! ふざけないで!」
「なんで、ここに」
「なんではこっちの台詞だよ! ほんとばか! あほ! 死にたがり! うそつき! 凪都のばか……ばか、ばかっ!」
涙が声の邪魔をする。
もう、本当に。
「……凪都は、うそつき、だよ」
腕に力をこめて、凪都の胸に顔を押しつけた。まだ生きている、凪都のぬくもりを感じる。
「わたし、覚えてるよ。わたしが倒れたとき、凪都がいたこと」
抱きしめる凪都の身体がふるえるのがわかった。
さっき、春野さんから話を聞いて思い出した。倒れたときは視界がぼやけていたし、ほとんど意識もなかったから、頼りない記憶ではあるけど。それでもちゃんと覚えてるんだ。
「倒れているわたしを、凪都は見下ろしてた。冷たい声で、なんでって言ってた」
「……だから、俺は柚のこと、見捨てたから」
「ちがう!」
わたしの声に、また凪都の身体が揺れた。
「あのあと、凪都は泣きそうになってた。それで、わたしに背を向けて、どこかに行った。――春野さんを呼びに行ったんでしょ」
急に、抱きしめていた感覚がふっと消えた。……わたしはまた、触れられない幽霊にもどったみたいだ。凪都のぬくもりを感じなくなった。
「聞いて、凪都」
大丈夫、まだ声は届いてる。
わたしは、凪都から身体を離す。凪都は感情をこらえようとして、でも苦しさをにじむのが止められない顔で、わたしを見ていた。黒い瞳が揺れている。陽射しを浴びて、顔に影が濃く落ちていた。
「あのとき、春野さんが近くを歩いてた。でも、わたしたちには気づいてなかった。凪都が走って、春野さんを呼んで、わたしのところまで連れてきてくれた。だから春野さんは救急車を呼んでくれた」
凪都の顔は必死だったって、春野さんが言ってた。
「わたしを、助けようとしてくれたじゃんか。なんで、うそつくの」
「……うそじゃない」
凪都が顔をゆがめて、うつむいた。
「最初、助けようなんて思わなかった、本当に」
ふるえる手で、凪都は顔をおおった。欄干に座ったまま頭をさげて、わたしを拒絶する。橋の上を風が滑って、凪都の髪があおられた。こんな凪都は、はじめてだった。
「……俺は、どれくらい、柚を放置したのか覚えてない。でも柚の意識がなくなって、本当に死ぬかもしれないって思ったとき……、なにやってるんだろうって怖くなった。俺は自分が消えたいだけで、柚に消えてほしいわけじゃなかった。なのに柚を助けようとしない自分が、怖くて気持ち悪くて、心底軽蔑した」
「でも、春野さんを呼んでくれたんでしょ」
「だめだったんだよ! もう遅かった!」
声が膨らんで、弾けた。驚くわたしに、凪都が手をのばす。頬に触れようとする指先は、空気をつかむだけだ。なにも感じない。凪都がくしゃりと顔をゆがめた。
「……柚は、もう、死んだ。全部、遅かった」
肩で息をして、凪都はまた小さなつぶやきにもどる。
「あの時間がなかったら、柚はまだ生きてたかもしれないのに」
消え入りそうな声に、わたしの胸がにぎり潰されたみたいに痛む。俺のせいで死んだって、凪都は言う。わたしのせいでお姉ちゃんは死んだって、わたしも言った。凪都は、わたしと同じことで苦しんでいる。
「夏休みに図書室に来たとき、責めてくれたらよかったんだ。でも柚は、そんなことしなかった。むしろ、俺のことを心配してた。なんで、って思った」
どんな気持ちだったんだろう。罪悪感か、やるせなさか、後悔か。とにかく、凪都は苦しんでいた。それでも、わたしと夏を過ごした。わたしは、自分が死んだことを思い出した。死にたくなかった、って思った。――きっとそれが、凪都を一番苦しめた。
「生きたいと思う柚を殺したのは、俺だった」
「……凪都のせいじゃないよ」
「ちがう」
凪都が声をあげて、うつむいた。前髪がかかって、表情が見えなくなる。
「俺は、柚に笑いかけてもらう資格なんてなかったんだ。なのに」
苦しげに息をして、つぎの言葉はなかなか出てこなかった。
「――柚と一緒にいて楽しいなんて思った」
わたしは、息を止めた。
「柚が会いに来てくれることが、嬉しいなんて思って。そんなの、許されないのに。どれだけ俺は、自分勝手なんだって、思ったんだ。……ごめん、柚。こんな俺が、柚のそばにいて、ごめん。ごめん」
うつむく凪都の姿が、とても小さく見えた。何度も何度も、凪都は謝った。わたしは、なにも言えなくなった。
死にたくなかった。わたしは生きたかった。でもわたしは、凪都に苦しんでほしいわけじゃない。凪都は自分を責めて、自分で自分に罰を与えようとして、今日を迎えたんだと思う。でも、そんなの嫌だ。わたしは、そんなこと望んでない。
凪都の頬にそっと手をのばした。触れられないけど、凪都は気づいて顔を上げた。その頬に、涙は流れていない。でも泣きそうな顔だ。きっと凪都は、ずっと泣いていた。
「……ごめんね、凪都」
「なんで……、柚が謝るんだよ」
「わたしが死んだのは、凪都のせいじゃないよ。わたしが倒れているのを凪都が見つけて、春野さんを呼んできてくれるまで、そんなに時間はかかってなかった」
おぼろげだけど、そう覚えてる。凪都が動かなかった時間をなくしたとしても、わたしはきっと助からなかった。
「そもそも、わたしが無理したせいで倒れたんだよ。凪都は悪くない」
凪都を見つめた。陽射しに負けて消えてしまいそうなそのすがたを。
どうして、わたしは死んじゃったんだろう。でも幽霊になってよかった。こうして話ができる時間ができて、よかった。
「ねえ、凪都。わたしのお願い、なんでも叶えてくれるんだよね」
凪都がゆっくりと目をまたたいた。そんな凪都に、わたしは笑いかける。
「これが最後のお願い。――生きて」
「え」
「凪都は生きて。たくさん幸せになって」
「柚……」
「わたしはね、楽しかったよ。凪都のおかげで、お姉ちゃんのこと受け入れて、泣けて、夏休みにしたいことをたくさんできた。この夏が、一番楽しかった。幸せだった。全部、凪都のおかげだよ」
この夏が、わたしは大好きだ。
「わたしが幽霊になったのは、凪都を死なせないためだったんだよ。だってわたしの最後に残ってる記憶は、凪都の苦しそうな顔だったから。わたしのせいで、そんな顔をしないでほしかった」
だからわたしは、いま、ここにいる。凪都が死んだら、わたしがここにいる意味がない。
「わたしの願い、叶えてよ」
「……柚が、もういなくなるのに。俺だけ生きたって、仕方ない」
「でも、凪都は生きるの」
「無理だ」
「無理じゃない」
死ぬことは、残酷だ。わたしは死が大嫌い。凪都を苦しめて、お母さんとお父さんを悲しませて、七緒たちを泣かせて。本当に、最悪だ。どうしてわたしは、無茶をしたんだろう。ごめんね、死んで。涙があふれそうになって、ぎゅっと目を閉じた。
でも、だからこそ、凪都は死なせない。わたしが嫌いな死を、凪都に与えてなんてあげない。
凪都はなにかを言いたそうに、小さく口を開閉させた。でも言葉がうまく出てこない。長い時間をかけて、ささやく。
「……俺は」
「うん」
「柚と、一緒に、生きたかった」
一語一語、必死につむがれた言葉。そのときはじめて、凪都の頬に透明な雫が落ちた。わたしは目をまたたく。
「もっと、笑ってほしかった。話したいことも、たくさんあった」
それははじめて聞く、凪都の言葉で。
「秋も、冬も、春も。もっと一緒に、いたかった」
凪都がわたしに手をのばす。だけど触れられない。凪都は息を吸い込んで、ぐっとくちびるをかんだ。
「気づくのが、遅かった。もっと早く、知りたかった」
わたしは凪都の指をつかむ。触れられないけど、たしかにつかんだ。わたしの頬も濡れていた。
「あのとき、柚を助けようとしなかった自分が、許せない。なんで、俺は、あんなこと考えたんだろう。いま、柚に生きててほしいって、こんなに思うのに、なんで」
きっとその一瞬を、凪都はずっと後悔しつづける。
「ごめんね、凪都。――でも、ありがとう」
「……なんで、笑ってるわけ?」
凪都が、すこし眉をひそめた。わたしは泣きながら笑っていた。
「だって、そこまで生きててほしいって思ってもらえるのは、嬉しいよ」
「だからって、笑うとこじゃ、ない」
「でも嬉しい。死にたがりの凪都が、生きたかったって、言ってくれるなんて」
そんなの、嬉しいに決まってる。
それから、悲しいに決まってる。
――生きたかったなあ。
わたしも、凪都と、もっとたくさん生きていたかった。ずっと。ずっと。でもわたしは、もうすぐ消える。
「ねえ、死んじゃだめだよ、凪都。せっかく生きたいって、思えたんでしょ」
「柚がいたからだ。柚がいないと、意味ない」
「そんなことないよ」
首をふった。
「凪都はずっと死にたいって思ってて、一生面倒なことばっかりの人生だって嫌になってたんだよね。でもわたしと会って、生きたいって思えたんでしょ?」
一生退屈とか、一生嫌な人生とか、そんなもの、きっとない。ほんのちょっとの出会いで、どれだけでも変わっていけるから。
「きっと、これからもあるんだよ。凪都にとってのいい出会いが、たくさん。きっとまた、生きたいって思えるようになる」
「……柚以外、ないよ、そんなの」
「あるよ。だって、もうはじまってる」
凪都が目をまたたいた。わたしは橋の先に視線を向けて、全力で走ってくるふたつの人影をたしかめた。
「この、あほ凪都……っ!」
「おまえ、なにやってんだよ、馬鹿!」
七緒と諒さんが、駆けつけてくるなり、欄干から凪都を引きずり降ろす。驚きで呆然とする凪都が、目を見開いて橋の上に座り込んだ。ふたりは凪都を見下ろして、怒鳴りつける。
「っとに、なにやってんの! ばかなの! ばかでしょ! 危なっかしいなこいつとは思ってたし、柚からなんとなく聞いてもいたけど、もうほんとにさあ!」
「学校結構な騒ぎになってるぞ! 悩みあんなら、言えよ! せっかく仲直りしたのに、こんなんじゃ意味ないだろ!」
必死の顔で言いつのるふたりに、わたしはやっぱりちょっと笑ってしまう。
「ほらね。凪都の愉快な生活は、もうはじまってるよ」
ふたりにはいま、わたしが見えていないみたいだ。それはちょっと残念だけど。
呆けている凪都に、とにかく帰るぞ、って諒さんが手を差し出す。その手に、わたしの手を重ねさせてもらった。
「……柚」
「大丈夫。わたしと凪都の友だちは、みんな強いし明るいしいい子だよ。まだまだ、たくさん楽しいこと、ありそうでしょ?」
ごめんね。そこに、わたしはもういられないけど。
「凪都はきっと、これからも笑っていられるよ。だから生きなきゃだめ」
凪都は、わたしを見上げていた。涙はまだ、止まらない。
「生きて。笑って。幸せになって」
怨んだりしないし、蔑んだりしない。
「わたし、凪都と夏を過ごせてよかったよ。ありがとう」
微笑みかけると、凪都はうつむいて肩をふるわせた。かすかな嗚咽がこぼれる。苦しかったよね、いままで。でももういいんだよ。
「凪都」
生きるのは、苦しい。ひとりだけ置いていかれるのは、つらい。わたしはそれを知っているから、簡単に「生きて」なんて言えない。だけど、言うんだ。だって、その苦しさやつらさを乗り越えて生きていけることも、知っているから。
凪都が、すこしだけ顔を上げる。髪のすきまから、凪都の瞳が見える。わたしはその瞳をじっと見つめた。
凪都が息を吸い込む。ぎゅっと目を閉じて、開いて、ふるえながら伸ばされた手が、わたしと諒さんの手に重なった。わたしたちは、凪都を引っ張り上げる。
七緒と諒さんがわたしに気づく。わたしはふたりにうなずいた。
「柚」
凪都がわたしを呼ぶ。
「うん」
「ごめん」
「もういいよ。謝罪なんていらない。だから顔上げて。前を見て」
凪都がわたしを救ってくれたみたいに、凪都にも、わたしやみんながいるから。
「ほら、帰ろう、凪都」
背を叩き合って、腕を引いて、前へ歩こう。泣いたっていい。泣いていたら、わたしが手を差し出すから。わたしがいなくなったとしても、みんながいるから。
「わたしね、凪都が死ぬことが一番怖かった。だけどもう、大丈夫だね」
三芝凪都は、死んだりしない。わたしたちが死なせない。
凪都はわたしを見つめて、泣きながら、それでも小さくうなずいた。そんな凪都を、わたしは忘れないように目に焼きつける。
「大丈夫。生きるのは、楽しいよ」
その言葉が、この夏を過ごしたわたしのすべてだった。
*
その日を境にわたしは、みんなの目に映らなくなった。
八月三十一日。夕暮れの波打ち際で、三人が笑っていた。
「さっきのわんちゃん、めっちゃかわいかったね」
「大型犬っていいよなあ! 俺も飼いたい!」
「諒が大型犬みたいなもんだろ」
七緒がはしゃいで、諒さんが目を輝かせて、凪都が呆れて。
「……犬は、ちょっと勘弁だなあ」
わたしはみんなの後ろで、苦笑した。
夏休みがもう終わる。わたしの姿は、みんなには見えていない。あの日、登校日が終わってから、わたしの姿はだれにも見えなくなった。七緒にも、凪都にも。あと一週間はみんなといられると思ったのにな……。
みんなには見えないし、ひとにもものにも触れられない。わたしはお風呂にも入れないし、制服姿のままで一週間過ごす羽目になってしまって、だいぶ困った。
一番の心残りだった凪都への不安が消えたから、もうわたしがここにいる意味がなくなったってことなのかもしれない。
登校日のあの騒動は、チャットもSNSも、自分に罰を与えるために凪都がしたことだった。学校に帰ってから、凪都は先生にひどく怒られていた。名前も写真もSNSで拡散されてしまったから、簡単には消せない。それでも凪都は、全部を背負って生きると決めた。わたしが死んだことも、罪悪感も、全部抱えて、それでも生きるって。
七緒も諒さんも、そんな凪都のそばにいてくれている。……くれている、っていうのは、おかしいかな。ふたりとも、そうしたいからしているだけなんだと思う。うん。やっぱり、わたしたちの友だちは最高だ。
「じゃ、そろそろ帰ろうか。柚も帰るよー」
七緒が言って、みんなが寮にもどろうとする。みんな、わたしが見えないのに、わたしがいるようにふる舞っていてくれた。でもそれも、今日で終わりだ。
わたしたちは海から上がって、学校への坂道をのぼりはじめる。
「あーあ、明日から面倒くさいなあ」
「でもほら、秋は文化祭あるよ。七緒さんたちのクラス、なにやんの?」
「クレープ屋! 凪都を客寄せにしたら、女子の客増えると思うんだよね」
「嫌だけど。接客面倒だから。俺は裏方」
みんなの後ろを、わたしはついていく。いいな、文化祭。凪都の接客は愛想がなさそうだけど、見てみたい。
空の色が橙に染まっていく。今日はみんな、いつもより遅くまで遊んでいた。みんなの後ろ姿が、夕陽に染められて輪郭を輝かせる。
「なあ凪都。体育の選択競技、なにする?」
諒さんが首をかしげる。体育は二クラス合同で受けていて、わたしたちと諒さんのクラスが同じ時間割だった。各自で競技を選択できるから、結構自由な雰囲気だ。
「よかったらだけど、バスケ、一緒にやらね?」
「無理。遊びならいいけど、真面目にやりたくない」
「お前、嫌だ、無理、ばっかじゃん」
諒さんがむっと眉を寄せて、それを七緒が笑っている。わたしはそれを、見つめている。
凪都は相変わらず憂鬱そうだった。そんなにすぐ立ち直れるわけじゃないんだと思う。だけどうそつきだから、なんでもないような顔をして過ごす。そのうそが、いつか本当になればいい。きっと、なる。大丈夫。だって凪都のまわりにはみんながいる。凪都だってもう、死にたがりをやめたから。
みんなの話がつづいている。背後では、夕陽が海に沈んでいこうとしていた。もうすぐ、一日が終わる。夏が終わる。
さっき通り過ぎた踏切が鳴った。すこしして、電車が通り過ぎていく音がする。カンカンカン……、と音が尾を引いて消えたあと、わたしの耳に、潮騒が届いた。海のにおいが、鼻をくすぐる。
はっとして、ふり返った。いま、なつかしい声に、呼ばれた気がした。
「……お姉ちゃん?」
足を止めて、海を見つめる。誘うような、やさしい波の音が耳に心地よく響いた。寄せては返す波の音。わたしを誘う、波の音。自然と心が、海に向かう。ああそうか、って気づく。これが、わたしの終わりだ。
みんなの声が、遠のいていく。わたしはみんなの背中を見つめる。
「凪都」
声は届かない。
「七緒。諒さん」
みんな、わたしを置いて、歩いていく。
――わかってた。その時が、きただけだ。
立ち止まったわたしと、歩いていくみんなの距離が広がっていく。
寮の荷物は全部まとめてあった。きっと春野さんが、お母さんとお父さんに届けてくれる。春野さんには朝、頭を下げてきた。
宮先輩、由香ちゃん、未央ちゃんは今朝、海に行く七緒を見て「じゃあ柚ちゃんもそっちに行くだろうね」「先輩、いってらっしゃい」「楽しんでくださいね、柚先輩」って送り出してくれた。わたしも「いってきます」って伝えてきた。
大丈夫。やりたいことは、たくさんやった。息を吸い込む。
「ありがとう」
もう、満足だ。歩きつづける三人の背中に、微笑みかける。
「ばいばい」
わたしは、三人に背を向けた。いま来たばかりの道をもどる。夕陽を受けてやわらかな橙に染まった海を目指す。それはとてもきれいで、わたしが来るのを歓迎しているみたいだった。
楽しかった。なんてぜいたくな、死んでからの一か月だったんだろう。みんな、すごくやさしかった。幸せだった。大好きだった。みんなのこと、すごく、大好きだった。
歩きながら、視界がぼやけた。手の甲で目もとを拭う。
海の香りが強くなる。
「もう、満足だよ」
踏切を越える。やさしい海が広がっている。砂浜を歩いて、波に足を踏み出す。冷たくはなかった。だけど、心地よかった。一歩、二歩と踏み出す。そのたびに、わたしは海に溶けていくような気分になる。
――好きだって、言えなかったな。
凪都に伝えられなかった。わたしの部屋で言いかけたけど、凪都に「それを聞く資格はない」って途中で止められたから。ひどいな、言わせてくれたらよかったのに。
満足。……だけど、やっぱりそれは伝えておきたかった。
「凪都のばか」
涙がこぼれた。
あとすこしだけ、凪都と話したかった。あともうすこし、一緒にいたかった。ほんのすこしの時間でもいいから、凪都の瞳にわたしを映してほしかった。あともうすこしだけ、一緒に、生きたかった。涙がぽろぽろと、波にこぼれていく。
夕空を見上げて、目を閉じた。さすがに、もうこれ以上を望むのはわがまますぎる。仕方がない。これでもすごく、神さまはわたしにやさしくしてくれた。
うん、そうだね。これで、よかったんだ。
目を開く。やわらかな夕陽と潮騒に包まれる。夢みたいな世界だった。
――さようなら。ありがとう。大好きだった。
そうしてわたしは、海の彼方へ踏み出していく。消えるための一歩を踏み出す。
そのとき、だった。
腕をつかまれて、うしろに引かれた。わ、とバランスを崩して、後ろにいたひとの胸に収まる。
「待って」
耳にふれる声に、わたしは目を見開く。
「……凪都?」
おそるおそるふり向いて、見上げて、息が止まるかと思った。凪都が、立っていた。その瞳に、わたしが映っていた。
「なん、で……」
凪都が泣きそうな顔で、すこしだけ笑う。
「柚が、泣いてる気がしたから」
「え?」
「ひとりで泣かせないって、言った。なんで、勝手にどっか行こうとするんだよ」
夢じゃなくて、幻でもない。凪都だ。ほんとに、凪都がいる。あともうすこし、が叶ったんだ。本当に、ぜいたくだなあ、この夏は。さっきよりももっと涙が落ちて、凪都の指先がわたしの頬をなでた。
「……わたし、登校日にね」
しゃくりあげながら、わたしは言う。
「泣いたんだよ。凪都が学校から出ていったあと。あのとき、ひとりで泣いてた。あのときは凪都、来てくれなかった。むしろわたしが凪都に会いに行った」
「……そういうこと言う?」
凪都がちょっと笑う。
「言うよ。根に持ってるから」
わたしも笑う。
「でも今日は来てくれたから、許すね」
見上げた凪都の頬を、両手で包む。あたたかさを感じるのも、もうこの時間で終わりなんだ。指先で、凪都をたしかめる。
夕陽に照らされて縁が橙に輝くやわらかな黒髪も。静かな色の黒い瞳も。薄いくちびるも。平淡に聞こえて、あたたかい声も。全部。全部がね、わたしは。
「凪都」
「なに」
好き、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。もうすぐ消えるわたしのそんな言葉は、迷惑にならないかな。さっきは言いたかったって思ったのに、やっぱり、わたしは臆病だ。すごく好き、なんだけどな。やっぱり、やめておこうかな。
すぐ近くにある凪都を見つめて、曖昧に笑った。
ふと、頭の後ろを支えられて、引き寄せられた。え、と思う暇もなかった。ほんの一瞬。ささやかな感覚が、くちびるに触れた。その一瞬が、永遠だった。
「――好きだよ」
そのまま抱きしめられて、耳もとに凪都のやさしい声がする。
「会いに来てくれて、ありがとう、柚。生きてって言ってくれて、許してくれて、そばにいてくれて、ありがとう。……ごめん、ずっと言えなくて。本当に俺は、遅れて気づくことばっかりだ」
ぬくもりに包まれて、わたしはまた、泣いてしまう。
「……わたしがいて、つらくなかった?」
「つらかった。でも、会えてよかった」
腕の力が強まる。
「海でさ、犬におびえてる柚は、面白かったよ。夏祭りの浴衣、似合ってた。諒と仲直りさせてくれて、嬉しかった。俺の悩みをなくしたいって言ってくれて、どこまでやさしいんだろうって思った。夜の散歩もランニングもひとりでいいと思ってたのに、柚がいると楽しかったんだ」
「……凪都が笑ってるところ、わたし、大好きだったから。嬉しいな」
わたしも、凪都の背中に手を回す。もう迷うことはなかった。
「凪都が好きだよ」
すこしずつ自分が消えていくのが、わかった。足が、腕が、輪郭を失っていく。潮騒にまぎれて消えていく。でも、あともうすこしだけ、話をさせて。消えないように、凪都にすがりつく。あともうすこしだから。
「凪都がいたから、お姉ちゃんのこと、乗り越えられたよ。お母さんとお父さんも、きっと前を向けた。ありがとう。凪都は幸せになってね。いつか、わたしを忘れてもいいから」
「……忘れないよ」
「え」
わたしはちょっと黙り込む。
「……うーん、そっか、どうしよう」
「なんで、そこで微妙な反応」
「いや、凪都が一生独身になっちゃいそうで、かわいそうだなって」
「独身って。先の話すぎる」
ふたりして、ちょっと笑った。
「でも、いつかは来る未来だよ。ちょっと寂しいけど、凪都が幸せになるなら、どんな未来だっていいんだよ。そのためなら、わたしのこと忘れてもいいからね。あ、いやでも、ちょっとは覚えててほしいんだけど。頭のかたすみ程度に」
「どっち」
「どっちの思いもあるの」
「わがまま」
「いいでしょ、こんなときくらい」
「うん。いいよ。ちゃんとずっと、忘れないから」
凪都の腕の中で、自分が消えていくことを感じる。眠い。休みの日にまどろむみたいな、そんな心地よさ。身体の感覚が消えていく。一秒一秒、たしかにわたしは、世界から消えていくんだ。
「凪都」
「なに」
「好きだよ」
「……知ってる」
「そっかぁ、よかった」
それが伝えられたなら、もう思い残すことはない。……本当のところ、まだ生きたいと思うけど、でも、これでいいんだ。
凪都がささやく。
「柚。ありがとう」
ごめんじゃなくて、ありがとう。それが、とても嬉しい。嬉しくて、泣いてしまう。
目の前の世界がかすんで、色彩が淡くなっていく。聞こえるのは、静かな波の音だけ。それはわたしを包み込むような、やさしい音。とても幸せな、わたしの一生。とても幸せな、わたしの終わり。
この夏のことを思い出す。最初から最後まで、凪都にいろいろとふり回されたなあ、って笑えてくる。でもそれも、全部報われたんだ。凪都が生きてくれるなら、それでいい。これからの凪都の未来が、幸せでありますように。
わたしと凪都のつながりも、いま、静かにほどけようとしていた。意識が潮騒にまぎれて、わたしは透明になり、海にとけていく。
「ばいばい。凪都」
静かに、海へとけていく。
遠くで、凪都の声が聞こえた。
「……好きだよ、柚」
知ってるよ。ちゃんと、知ってる。
――ありがとう。
短くて長かった、すこしいびつな今年の夏が、わたしは大好きだった。とてもとても、大好きだった。
思い出を抱きしめながら微笑んで、わたしはゆっくりと眠りについた。