嘘つきメメントモリ

 その日の夜は、たこ焼きパーティーだった。みんなでわいわいとたこ焼きをつくるのは楽しかった。つぎは闇鍋パーティーをすることになったし、各自で食材を買いに行くことも決定済みだ。女子寮のみんなとの楽しみがあるから、頑張れる。

 つぎの日、わたしは昼ご飯を食べてから、制服に着替えて寮を出た。

 凪都がなにを思っているのかはわからない。だけどわたしは、このまま凪都を放っておきたくない。グランド脇を通って、陽射しの下、図書室につながる通路を目指す。

「あ」

 見覚えのある男子の姿を見つけた。わたしは迷ってから、おずおずと口を開く。

「あの……、諒さん、ですよね」

 向こうもわたしに気づいて、はっとした。

「柚さんだっけ? 凪都と一緒にいた」

 すこし明るい髪色の、長身の男子。凪都の幼なじみで、バスケ部の諒さん。今日も部活なのかもしれない。Tシャツと短パン姿だ。人懐っこそうなひとみに気まずさをにじませて、諒さんは首もとをかく。

「なんか、この前はすみません。変な空気に巻き込んじゃって」

 わたしもあわてて首をふる。

「いえ。むしろ、わたしが凪都のむかしの話を聞きたいって言って、あの状況になったので。謝るのはわたしのほうというか……」
「あ、そうなんだ……」

 沈黙。

 視線をさ迷わせる。声をかけたのはいいけど、友だちの知り合いって、ほとんど他人だ。どれくらいのテンション感で接するべきかわからない。迷っているうちに、諒さんが言った。

「柚さんって、何年生?」
「あ、二年です」
「同じだ。タメ口でいい?」
「どうぞ」
「柚さんもタメでいいよ。……あのさ、凪都、俺のことなんか言ってた?」

 ためらいながら、そう訊いてきた。そういえば体育館に行ったときも、ほかの部員は険しい顔だったけど、諒さんだけは気まずそうだったっけ。凪都の話だと、ふたりは喧嘩別れみたいな状況のはずだけど、いまの諒さんは怒っているわけじゃなさそうだ。

 それで、凪都がなんて言ってたか、って訊かれると……。ほかの部員はともかく、諒さんのことを悪く言ってはいなかった気がする。だけど、仲直りしたいとも言っていない。むしろこれ以上諒さんに関わる気はない、みたいな態度だった。

「……あー、ごめん! やっぱあいつ、俺のこと嫌ってるよな」

 わたしが答え方に困っていると、先に諒さんのほうが諦めてしまった。

「わかりきってることなのに、ごめんな。言いにくいこと訊いちゃって」
「え、あ、いや、そうじゃなくて」
「あんなことがあったんだし、嫌いになるのが当然だ。うん、大丈夫。わかってるから。ごめん」
「あ、だから、そうじゃないんだってば……!」

 わたしの声が、自然と大きくなった。諒さんはきょとんとわたしを見る。

「あの……、凪都は、諒さんのこと、悪く言ってなかったよ。真面目でいいやつだって、言ってたから」

 わたしの言葉に、諒さんは「え」と目をまたたく。驚いたって感情をそのまま外に発散するみたいな仕草だった。幼なじみって言うけど、いつも飄々としてる凪都とは全然タイプがちがう。

 お互いに黙り込んだ。蝉が鳴いて、汗が首筋を伝う。暑い。

 金縛りから解けた諒さんが、「あのさ」と言った。

「よかったらだけど、どっかで話さない?」

 諒さんは、わたしを体育館横の通路に連れていった。日陰になっているし、風が通り抜ける場所みたいで、結構涼しい。

「柚さんは、なんで凪都とむかしの話なんてしてたの」
「それは凪都が……、悩んでるみたいだったから。なにを悩んでるのか訊いたら、中学の部活のことを話してくれて」
「そっか……、そうなんだ。あいつ、悩んでたんだ」

 つぶやいてから、「あああー」と諒さんが深くため息をついてうなだれる。前かがみになって、それはもう深いため息だった。そのまま倒れちゃいそうだ。

「だ、大丈夫?」
「んー、ごめん。いや、やっぱ、俺のせいだよな。あー、もう、どうしよう」

 体勢をもどしたはいいけど、今度は頭を抱えてしまった。ひとつひとつの動作が大きい諒さんに、わたしはどう反応すればいいのかわからない。

「えっと……」
「俺さ、凪都にはずっと謝らなきゃって思ってるんだよ」

 ぴたり、と諒さんが動きをとめてつぶやく。

「え?」

 謝る? 怒るじゃなくて?

「凪都が部活で手を抜いてたって話は、聞いてるよね?」
「うん、まあ」
「俺、あのとき本当に腹が立って。凪都のやつ、やる気出せばもっとうまくなれるのに、なんで全力出さないんだって思ったし。手を抜いてるのが俺のためっていうのも、もう、なんか……、馬鹿にされてる気がして、イライラしてて」

 でも、と諒さんは言葉を止める。

「全力でやれよ、って思いながら、あいつに全力出されたら俺は負けるだろうなって怖くもなってた。だって凪都、なんでもできるだろ。イケメンだし、器用だし、俺が勝てるわけないな、あいつはずるい、って思ってた」
「そうなの……?」
「ああ。凪都に、全力を出してほしかった。だけど出してほしくなかった。自分でもなにがしたいのかわかんなくなっててさ。もう本当に頭ごちゃごちゃになって、結局俺は部活やめて逃げたんだ」

 諒さんは空を見上げた。ふっと息継ぎをしているすきに、わたしが言う。

「凪都は、諒さんが部活やめたのは自分のせいだ、って言ってたよ」
「ちがう」

 否定の言葉は早かった。

「俺のせい。俺がいろんな意味で、弱かったからだ」

 諒さんは苦しそうに眉を寄せて、さっきよりも言いにくそうに、ぽつぽつと話してくれる。

「ほんとは、部活やめた理由も、それだけじゃないし」
「え?」

 わたしが待っていると、諒さんはうつむいた。

「……仲のよかった部員にさ、凪都が手を抜いてるって、愚痴ったんだよ。そしたら噂が一気に広がって、凪都は悪者にされてた。そんなつもりじゃなかった。……俺が部活やめたのは、凪都の立場を悪くした罪悪感から逃げたかったって理由もあるんだ。最低だろ」

 噂を広めたの、諒さんだったんだ。

 それは、凪都の話を聞いただけじゃ、わからないことだった。だって凪都は、全部を自分のせいだって抱え込んでた。多分、諒さんがこんなふうに悩んでることを、凪都は知らないんじゃないのかな。

 わたしは目を閉じて考える。もし自分のせいで、友だちが悪く言われるようになったら……、苦しいはずだ。諒さんの気持ちも、わかる気がした。

「凪都に謝らなきゃと思ってるんだ、ずっと。でも、タイミングなくて……、あ、いや。その言い方はずるいな。俺がただ、逃げてただけなんだ。凪都と話すのが気まずくて、怖くて」

 諒さんはもっとうつむいて、黙ってしまった。

 ……なんだ。むかしのことを、しょうもないことだったって凪都は言ってた。本当に、しょうもないことじゃんか。凪都も諒さんも、ふたりして自分が悪いって思ってる。すこし話せば、お互いを楽にしてあげることも、仲直りすることもできたはずなのに。

 どうして凪都は、もう遅い、なんて言ったんだろう。

 もしかしたら、余計なおせっかいって凪都には言われるかもしれない。だけどわたしは、このまま放っておきたくない。だから、すこしだけわがままを言わせてほしい。

「諒さん。凪都と話してみてくれないかな?」
「え?」
「わたしは、ふたりの仲がこじれたままなんて嫌」

 凪都の瞳に、明るい光が灯ってほしいから。

 凪都が死にたいって思うのは、自分にも、むかしの部活仲間にも、それ以外のすべてのことにも、「もういいや」って面倒くさくなっているからだって言ってた。自分がいないほうがその面倒はないはずだから、生きていたくない、って。

 きっと、その価値観をひっくり返すのは、難しい。だけどひとつずつ、変えていきたい。凪都が生きたいって思えるように。自分の人生に期待ができるように。だから。

「お願いします」

 諒さんからしてみれば、突然出てきた他人が出しゃばっているように見えたと思う。だけどわたしは、真剣に頭を下げた。
 その日は、めずらしく凪都が図書室にいなかった。スマホでメッセージを送ると「今日は疲れたからパス。ごめん」と返事があった。こんなこと、はじめてだ。悩みを解決しようってわたしの言葉が、そこまで凪都に嫌な思いをさせたのかな。だったら、これからわたしがしようとしていることで、もっと凪都を困らせるかもしれない。

 だけど、わたしは凪都の悩みをなくしたい。もしその先に、なにかべつの悩みがあるのなら、それも解決してみせるから。おせっかいでごめんね。わたしはスマホにメッセージを打ち込んだ。

 つぎの日の早朝、わたしはジャージ姿で自転車を押して校門に向かった。

「凪都」
「わっ、柚……」

 気づいていなかったのか、凪都はびくりと肩を跳ねさせた。それから苦笑を浮かべる。

「柚も朝ランニングにはまった? また走りたいなんて、驚いたんだけど」
「ごめんね。走るの楽しかったから。……まあ、わたしは自転車だけど」
「今日は足で走ってみる?」
「遠慮します。絶対途中でばてるから。死んじゃう」

 凪都はかすかに笑って、行くよ、と走り出した。わたしも自転車をこいで追いかける。

 この前と同じルートを、ふたりでたどっていった。思っていたよりは気まずい雰囲気にならなくて、ほっとした。本当は、またランニングしたいってメッセージを送ったときも、嫌だって言われるんじゃないかって不安だったんだ。

 まあ、前ほど明るい雰囲気じゃないのも、事実なんだけど。風にあおられて、キャップをかぶり直す。

「……また、海に行きたいな」

 海辺を走りながら、ちらりと浜辺に視線を送る。あのときみたいに、凪都の笑顔が見たい。嘲笑とか繕った笑顔じゃなくて、愉快で仕方ないって顔が。夏休みも中盤に入っている最近は、さすがにやりたいネタも尽きてきて、図書室でだらだらする日が多かった。決めた。また、海に来よう。

 となりを走る凪都の横顔を盗み見る。朝陽に照らされて、高い鼻や形のいいくちびるの輪郭が白っぽく輝いて見える。だけど前を見据える瞳は、どこか暗い。

 死なないで。消えないで。もっともっと、笑っていて――。

 海沿いから住宅街に入って、しばらく走る。わたしはこっそりと深呼吸をした。そろそろ公園が見えてくる。

「凪都、公園で休憩しよ」

 声をかければ、凪都はうなずいた。ゆっくりスピードを落として、最後は歩きながら公園に入ると、膝に手をついて息を整える。

「あー、つかれた。あっつ……」
「おつかれさま」

 わたしは自転車のカゴに入れていたタオルを手渡した。凪都は受け取って「気が利くマネージャーだ」と笑ってくれる。でしょ、とわたしも笑い返した。遊具脇にある木陰に入って、ふたりで息をつく。

「……おつかれ」

 そんな声が聞こえたのは、凪都の息が整ったあとのことだった。声を聞いたとたんに、凪都の肩がぴくりと跳ねるのが見えた。

「これ、ふたりとも、よかったら飲んでよ。スポドリ」
「……なんで、おまえがいるんだよ」

 凪都は声をかけてきた相手を、不審そうな目で見た。わたしはそんな凪都の横で、差し出されたペットボトルを受け取る。

「おはよう、諒さん。ありがとう」

 諒さんは、すこし気まずそうに笑った。諒さんが差し出すもう一本のペットボトルを凪都は受け取らない。すこしして、わたしに戸惑った視線を向けてくる。

「柚、俺のこと騙した? このためのランニングだったわけ?」

 わたしは首をふった。

「一緒にランニングをしたかったのは本当。ただ、ついでに諒さんを呼んだだけ」
「ついでって」
「ねえ、凪都。夏の間、わたしのしたいことを叶えてくれるんだよね」
「……そう、だけど」

 夏のはじまりの図書室で、わたしは決めたんだ。凪都の持ち出してきた「柚のしたいことを叶える」ってゲームを利用して、凪都の死にたがりをやめさせるんだって。だからいまから、すこしずるいことを言う。

「お願い。諒さんと、ちゃんと話して」

 わたしは、まっすぐに凪都の瞳を見つめた。ひりひりとした空気が流れる。凪都はなにも言わない。困ったような、しんどいような、不満があるような。全部ごちゃまぜにした、複雑な色をした瞳でわたしを見ていた。

 でもわたしは、凪都から目をそらさなかった。

 やがて、最後には凪都がため息をついて降参した。

「……それは、ずるいって、柚」

 凪都は、差し出されたままのペットボトルを諒さんの手からぱしんと奪い取ると、一気に半分くらいまで飲んだ。タオルで顔を拭いて、汗で濡れた髪をかきあげる。凪都はそうやって、覚悟を決める時間をつくったみたいだった。

「わかった、柚の頼みなら叶える」

 息を吸って、凪都が諒さんに視線を向ける。諒さんがきゅっとくちびるをかんだ。凪都は言葉を探しているのか、無言になる。諒さんもなにか言いたそうにしながら、言葉が出てこない。

 ごめんね。急だから、凪都も困るよね。それでもわたしは口出ししないことを決めた。だってこれは、ふたりの問題だ。お膳立てはできても、これ以上は本当のおせっかいだと思った。

「――諒、あのさ」

 長い沈黙のあとに、やっと凪都がつぶやいた。でも、それと同時に、

「凪都、ごめんな!」

 諒さんが勢いよく頭を下げた。

「……え」

 直角よりももっと深く頭を下げている諒さんに、凪都は目をまたたく。わたしも、ちょっとびっくりした。

 ふたりとも声を出したのは同じタイミングだったけど、諒さんの声がよく通るから、凪都の言葉はほとんどかき消されていた。思いっきり出鼻をくじかれて、凪都は固まっている。

 諒さんは頭を下げた状態のまま、話し出していた。

「中学のとき、俺が弱かっただけなのに、全部凪都のせいにした。まあ、手を抜いたのはいまも許してないけど……、でも凪都にそうさせたのは、弱かった俺のせいだもんな。だから、ごめん」
「……いや、あれは俺が」
「それに、凪都がみんなに責められたのも、俺が原因なんだ」

 凪都が、また目を見開いた。話の主導権は完全に諒さんがにぎっている。諒さんは顔を上げると、凪都に口を挟む暇を与えず――それくらい必死になりながら、わたしに教えてくれたことと同じ話を凪都に聞かせた。その間、凪都はずっと目をまたたいていたから、やっぱり諒さんの抱えていたことを知らなかったんだと思う。

「ごめんな、俺のせいで凪都は嫌な思い、いっぱいしただろ」

 この話を、凪都はどう受け取るんだろう。自分を追い込んだのが諒さんだったなんて、って怒るかな。それとも、自分だけが悪者じゃなかったんだって、ほっとするのかな。たぶん、どっちもちがう。凪都なら、きっと。

「……ちがう。なんで諒が謝るんだよ。もともと、俺が悪かったのに」

 凪都は、ぐしゃっと自分の髪をまぜた。なんて言えばいいのかわからないのか、困ったようにうつむく。

 いつも飄々として大人びている凪都なのに、その仕草は子どもっぽく見えた。相手が幼なじみだからかも。きっとこっちのほうが、凪都の素に近い顔なんだと思う。そんな凪都の表情を引き出せる諒さんが、ちょっとうらやましい。

 と、凪都が、わたしを見た。

「……見るな」
「うわっ」

 ぐいっとキャップのつばを下げられて、前が見えなくなる。

「急に諒と話せとか、なに言えばいいかわかんないし」

 ぼそっとそんな声が聞こえた。それがちょっとだけ面白くて、かわいくて、わたしは笑った。

 凪都の手をにぎってみる。ひんやりした凪都の手。この手に、わたしは何度も助けてもらった。すこしはわたしも、凪都の助けになれたらいいな。

「大丈夫だよ、凪都」

 ぎゅっと力を込めてにぎる。凪都が戸惑うような気配があったけど、すこしして、わたしの頭をキャップの上からぐりっと押しつけるみたいになでてきた。

「ありがと」

 小さく言うと、手が離れて、凪都は諒さんともう一度向き合った。

「――俺は、諒のバスケが好きだったよ」
「え?」

 諒さんがぱちぱちと目をまたたいた。調子を取りもどした凪都の、落ち着いた声がする。

「俺とはちがって楽しそうだから、すごいやつだなって思ってたし、うらやましかった。だから諒からバスケを奪ったこと、ずっと悪かったって思ってるんだ。ごめん」
「お、おまえのせいじゃないって! 部活やめたのは、俺が弱かったせいだし! それにおまえを見捨てて、俺は自分だけ逃げ出したんだ……、ごめん。そのせいで、凪都のことずっと悩ませてたんだよな」

 そこまでいって、ふたりとも無言になった。でもその無言は、相手と自分の気持ちを理解するために必要な時間だったんだと思う。その証拠に、すこしして、諒さんが小さく笑った。

「なんか、お互い謝ってばっかだな」

 ほんとに、そのとおりだ。自分が悪い、いいや自分が、って。そんなやりとりは、外から見ていたら仲よしにしか見えないのに。キャップの下で、わたしもばれないように笑った。

 だからね、凪都。もうそろそろ、いいと思うんだ。お互いを解放してあげても。

「ていうか凪都、俺のバスケ好きだったんだ? 凪都がそんなこと言うなんて、びっくりなんだけど」

 諒さんが目を細めれば、凪都もゆっくり身体から力を抜いた。呆れたように肩をすくめる。

「俺とはタイプがちがいすぎて、見てて面白いんだよ、おまえ」
「俺は凪都のバスケも好きだけどな。かっこいいし。なんでもそつなくできますよ、って感じが」
「それがむかつくって思うひと、多いらしいけど」
「いや、それはまあ、俺も悔しいと思ってたけどさ。でも、凪都はすごいよ」

 諒さんは、すこし表情を引き締めた。

「……凪都はもう、バスケやらないの?」
「やらない」

 凪都の答えはきっぱりとしていて、諒さんは「……そっか」と眉を下げる。また訪れる沈黙。

「凪都、ここでときどき、バスケしてるらしいけどね」

 たまらなくなって、わたしは言った。だって、見ていてもどかしかったんだ。凪都はこういうとき、言葉が足りないと思う。

 諒さんはわたしの言葉に、ぱっと表情を輝かせた。

「……柚、余計なこと言わないでくれない?」
「余計じゃないよ。本当のことでしょ」

 凪都は困ったように笑ってから、首もとをかく。諒さんが身を乗り出した。

「じゃあ、俺もここに来ていい? バスケ、また一緒にやりたい!」

 犬だったら、ぶんぶんしっぽをふっていそうだ。そんな諒さんの勢いに、凪都は「あー……」と斜め上を見る。広がるのは雲がひとつもない、きれいな空だった。

「……まあ、お遊び程度でいいなら、たまにくらいは」

 かわいくない返事だ。でも、諒さんは笑顔を濃くした。

「やった! ていうか今日、ボール持ってきてる! 久しぶりにやろうぜ!」
「え、いま?」
「いま!」

 諒さんの笑顔はすごく無邪気だ。最初、凪都は嫌そうな顔をしていたけど、結局は毒気が抜かれたみたいに肩をすくめて、コートに向かっていく。諒さんは、凪都を追い越してコートに走った。

 ふたりで向かい合う。

 わたしはコートのはしで、ふたりを見守って、笑った。

 ボールがぽん、と空に放られた。ゲームはじまりの合図は、きっとむかしから、それだったんだ。

 落ちてくるボールを奪うために、ふたりが空に手を伸ばす。凪都がボールを持って、ドリブルで駆ける。ふたりの走る音。くるくると動き回るふたりの影。ボールがネットを揺らす音……。

 諒さんが「やっぱ凪都、うまいし、むかつく!」と騒ぐ声。「よく言うよ」と冷静に言う凪都の声。

 最初のゴールは凪都が決めたけど、やっぱり部活をしている諒さんと、帰宅部でたまにしか練習しない凪都だと、諒さんのほうが強いみたいだった。つぎは諒さんが連続で二点を奪った。負けっぱなしは嫌みたいで、凪都もちょっとムキになって追いかけはじめる。

 なんか、かわいいな、凪都。そういう顔もするんだ。楽しそう。ふふっと、わたしが笑ったとき。

「柚」

 突然、凪都に呼ばれた。

「へっ? え、なに?」
「柚も来なよ」
「……わたしも?」
「ひとりだけ高みの見物とか、ずるいし」
 つかつかとこっちに来た凪都が、わたしの腕をつかんでコートへ引きずっていく。わたし、バスケなんて体育の授業でしかやったことないのに……!

 でも諒さんは笑顔でわたしを出迎えるし、凪都も「はい」と気軽にパスしてくる。

 どうしよう。バスケ経験者に挟まれてしまった。それに、久しぶりのふたりのゲームにわたしが入っていいのかな。

 そう思ったけど。

「柚さん、うまいうまい!」
「とか言いながら道ふさぐな。邪魔」
「いやだって、一応ゲームだし」
「はいはい、邪魔者をおさえとくから、柚はシュートしな」
「う、うん……!」

 どれだけ下手なドリブルをしても、シュートが外れても、ふたりとも嫌そうな顔をしなかった。すこしずつ、わたしも楽しくなって笑えてくる。

 それに輪の中に入ってみると、余計にわかるんだ。もう、喧嘩なんて雰囲気はどこにもない。これで、凪都の悩みをひとつ、解決できたかな。……死にたいって思う気持ち、ちょっとはなくなった?

「ほら、柚。もう一回」

 凪都からやわらかいパスが回される。

 ――凪都がこのまま……、たくさん笑ってくれるようになるといいな。

 思いながら、ゴールを見上げる。ぽん、と手の中のボールを放った。放物線を描いて、青い空を背景にボールが飛んでいく。がこん、とリングに当たった。行き場に困ったみたいに、その上をうろうろして。

 ボールは危なっかしくネットをくぐった。

「あ」

 ……入った。

「おー、柚さん、ナイス!」

 諒さんがまぶしい笑顔を向けてくる。それから、わたしのとなりで。

「あはは、ギリギリじゃん。でもナイス」

 凪都がおかしそうに笑っていた。それは、やわらかくて、まぶしくて――、楽しそうな笑顔だった。とくん、と胸が鳴る。じんわりと熱が身体の奥のほうで灯って、広がっていく。

 ――ああ、もう。本当に。

「柚?」

 好き、だ。

 そうやって笑っている凪都が、わたしは好き。楽しそうで、無邪気で、幸せそうで。そんな凪都のことが、好きなんだよ。だから。

「ずっと、笑っていてね」

 自然と言葉がこぼれていた。

「夏が終わっても――、文化祭とか、冬休みとか、まだまだ楽しいことたくさんあるから。笑っていて。わたしは、そういう凪都をずっと見ていたい」

 大好きだから。生きて、笑って、過ごしてほしい。

 わたしは凪都を見つめた。頬が熱い。「なにそれ、告白?」ってからかわれたっていい。いまのは、つき合ってください、とかそういう種類の言葉とはちょっとちがって、もっと切実な「願い」に近いものだったけど。でもべつに、告白だと思われたっていい。

 好きなのは、本当だし。

 だけど、凪都はからかうようなことをしなかった。だからって、わたしみたいに赤くなるわけでもない。凪都は――、すこし目を大きくさせて、固まっていた。

 わたしたちの間に、風が吹き抜けた。すこしして、つぶやく声が聞こえる。

「柚は……、結構つらいこと、言うよな」

 ゆっくりと、凪都の表情が変わっていった。眉を八の字にして、すこし泣きだしてしまいそうな笑顔を浮かべていた。さっきまで楽しそうだったのに。

「……凪都?」

 急に、世界の音が消えた。

 一瞬あとに、蝉の鳴き声だけが耳にうるさく響く。

 わたしは目の前にいる凪都を見つめた。

 ……悩みは、解決したんだよね? 諒さんと仲直りできたんだから。なのにどうして、いままで見た中で一番悲しそうな顔をしているんだろう。

「つらいことって、どういう意味?」

 空気が変わったのがわかったのか、諒さんがさりげなくわたしたちから距離を取るのが、視界のはしに映った。

「凪都、悩みは解決しなくていいって、前に言ってたよね。どうして? 諒さんと仲直りをしたら困ることが、なにかあるの? だったら、わたし、それも解決できるように手伝うよ。だから」
「ありがと。だけど無理なんだよね」

 凪都は首をふる。

「前にも言ったけど、もう全部遅いし」
「……仲直りはできたじゃん。なにが遅いの?」

 いよいよ困った顔を、凪都は浮かべた。わたしはふるえそうになる手を、ぎゅっとにぎる。凪都がなんの話をしているのかわからなくて、怖かった。

「わかんない。凪都の言ってること」
「だろうね。でもまだ、柚は知らなくていいよ」

 凪都はただ、微笑みを貼りつけていた。ちがうのに、わたしが見たいのは、そんな笑い方じゃないのに。

「柚の気持ちだけで、嬉しいよ。だからこれ以上は、なにもしなくていいから」

 なだめるみたいに、凪都がわたしの頭に手を乗せてくる。凪都のあたたかくて、ときどき冷たい不思議な手に、わたしはこの夏、何度も触れてきた。だからその感触を、想像できた。できた、はずだった。そのはずなのに。

 ――あれ。

 たしかに、わたしの頭に、凪都の手が乗っているはずだった。

 なのに、感覚が。

 想像していたはずのその感覚。触れる感覚。その、ぬくもりが。

 すこしもなかった。

 夏祭りの日。あの日、この公園で、同じようなことがあったことを思い出す。凪都の手をつかもうとしたのに、触れられなかった。空を切った。あのときはお姉ちゃんの話を聞いて怖くなっていたから、そんな勘違いをしたんだと思った。だけど。

 いま、目の前にいる凪都まで、わたしに手を伸ばしたまま、固まっていた。触れられないことに、驚いている顔だった。

 ……わたしの勘違い、じゃないの? でも、そんなはずは。

 わたしは、おそるおそる凪都に手を伸ばす。大丈夫、指先は凪都をつかまえる、はず。その手は、たしかに凪都の腕に触れる、そのはず。そのはずだった。

 なのにわたしの指先は、空を切る。凪都の腕をすり抜けて、なににも触れずに、わたしの、指先は。

「――ほら。もう、手遅れだ」

 凪都が、つぶやいた。わたしは呆然と、凪都を見つめる。

「なに、これ。なんで……」

 声がふるえるわたしを、凪都は自分のくちびるに人差し指を当てて制した。

「諒にはいまの、見えてないから」

 諒さんは凪都の後ろにいた。凪都の背中しか見えていない。黙っていたらばれないよ、と凪都が言った。だけど、わたしにはそんなこと関係なかった。

 だって、こんなの、ありえないのに。

「凪都」

 こんなの、まるで。

「凪都は、生きてる、よね?」

 ――幽霊みたいじゃんか。

 凪都は、わたしを見つめている。困った笑顔のまま、なにも答えずに。ただただ、凪都は微笑んでいた。
 わたしは寮の自分の部屋で、二段ベッドの下段に腰かけていた。柱にもたれて、もうどれくらいそうしているのかわからない。ぼんやりと瞳を閉じていた。

「柚。大丈夫?」

 談話室にいたはずの七緒が部屋にもどってくると、そっととなりに座った。

「なんかあった?」
「……ん」

 なにかは、あった。昨日、公園で。わたしは、凪都と諒さんが仲直りできるよう、すこしだけ手伝った。そこまではよかった。なのに、そのあとの出来事が、何回思い返しても意味がわからなかった。

 凪都に触れられなかった。触れてるはずなのに、指先に感触がなかった。でも、ひとの手をすり抜けるなんて、あるわけない。

 凪都はあのあと、なにも言わなかった。ただ「帰ろうか」とわたしの自転車を押して歩き出した。諒さんが心配していたけど、わたしは答えることもできずに、ただ凪都を追った。一日経っても、わたしにはあれがなんだったのか、わからない。わからない、けど。

「七緒」
「うん?」
「……夏休みの最初のほうにね、だれかが救急車で運ばれたって、噂を聞いて」

 七緒は無言になった。きっと、わたしが妙なことを言い出したから、困惑してる。

「そのひと、死んじゃった、って噂が、あるみたいで」
「……うん」
「七緒、それ、知ってる?」

 ううん、と七緒はゆっくり首をふった。その話がどうしたの、と訊いてくる。

「わたしにも、わかんないんだけどね」

 息を、吸う。

「凪都って……、ちゃんと、ここにいるよね?」

 七緒が、呼吸を止める気配があった。

「柚? それは……、えっと」
「わかってるよ。わたしだって、変なこと言ってるな、って思ってる。凪都はたしかに死にたがりだけど、そんなことあるはずないもん。だって死にたがりって、死にたいひとのことでしょ。死んでるひとのことじゃない。だから凪都は生きてる」
「柚」
「でも、思い出してみたら、凪都はずっと、自分の悩みのことを『もうどうでもいい』って言ってたんだよ。なんでって、ずっと思ってた。でももしかしたら、それって」
「柚、ちょっと、待って……!」

 七緒がわたしの腕をつかんだ。だけどわたしは、ぐるぐると考える。

『俺の悩みなんて、どうでもいいことだったから、気にしなくていい』
『知っても、どうにかしようとか思わなくていいから。もうどうでもいいことだし』

 もう遅いからって。虚しくなるだけだからって。凪都はそう言ってた。その意味が、わたしにはわからなかった。だって凪都は生きてるから、わたしとお姉ちゃんみたいに取り返しがつかないわけじゃない。いくらだって、どうにだってできるはずなのに。

 だけど凪都は、もう遅いって言うんだ。

 ……ううん、ちがう。そんなことない。

 凪都は死にたがりだけど、この夏、たしかにわたしと過ごしていた。一緒に生きていたはずだ。ときどき、凪都がすごく消えてしまいそうに見えて、怖かったけど。ずっと、わたしは不安だったけど。でもそんなの、凪都と出会ってからはいつものことだった。

 ああもう、頭が痛い。凪都と出会ったあの冬から、よく頭が痛む。

 凪都は生きてるはずだ。

 でも――、わたしは知っていた。三芝凪都は、うそつきだって。

 ……凪都の、なにが本当で、なにがうそなの?

「柚!」
「……あ、ごめん」

 わたしはびくりとして、七緒を見る。七緒は眉をさげていた。

「凪都は、生きてるよ」

 ゆっくりと七緒が言う。

「わたしも、凪都とこの前しゃべったし。凪都は生きてる、大丈夫」

 ぽんぽん、とわたしの肩を抱いて、七緒が言う。わたしは柱にもたれるのをやめて、七緒にもたれかかった。

「……ごめん、七緒。変なこと言って」

 凪都が幽霊かもなんて意味不明なことを聞かされて、七緒もすごく驚いているはずだ。それでも七緒は、わたしを馬鹿になんてしなかったし、適当にあしらおうともしなかった。

 ――でも、そうだよね。わたしたち、凪都としゃべってるもんね。

 自分に言い聞かせるみたいに、心の中で繰り返す。そうだ、何度も何度も、凪都と会って話してる。わたしだけじゃない。女子寮のみんなとも、諒さんとも、凪都は会って話していた。そんな凪都が死んでるわけない。

 ……じゃあ、あれはなんだったの? どうして触れられなかったの?

「柚、すこし眠りなよ。顔色悪いから」
「……うん」

 そんな気分じゃないけど、ベッドに横になる。七緒は静かに部屋を出ていった。
 凪都と会おうとは思えなかった。だってひとりでいるときにも、こんなに混乱してるんだ。凪都と会ったとき、どうすればいいかなんて、もっとわからなかった。そうやって無駄な数日が過ぎていく。だけど、ずっとこのままでいるわけにはいかないことも、わかっていた。

 わたしはその日、やっと制服に袖を通した。のろのろと支度するわたしを七緒が心配そうに見ている。なにがあったのかも知らないはずなのに、七緒はこの数日ずっとわたしを気づかってくれていた。そろそろ、七緒にも迷惑をかけないように、笑顔をつくらないと。

「柚、今日は髪おろしたままで行きなよ」
「え?」

 わたしは、七緒を見る。

「今日は涼しいからさ、たまにはそのままでもいいと思うよ」
「あ……、うん」
「はい、キャップだけかぶって。うん、ボブにキャップって、なんかいいよね」

 七緒は笑った。わたしもどうにか笑って、いってきますと部屋を出る。女子寮の玄関の扉を開けた瞬間に、蝉の鳴き声に耳を突き刺された。空はまっさらに晴れている。

 ――呆れられたのかな。

 昼間学校に行くときに、七緒がわたしの髪をいじらないのは、はじめてだった。わたしの面倒を見ることに疲れはじめているのかも……、しっかりしなきゃ。

 頬を叩いて、陽ざしの下を歩く。夏はぎらぎらしていて、いろんな場所から「生きている」って気配がする。それはひとだったり、虫だったり、植物だったり。だからなのかな。夏の終わりに、ひとが死ぬのは。生きてるって空気に満ちた季節が終わるのと同時に、自分も消えようとする。

 わたしたちの夏はどんどん終わりに近づいている。凪都は夏を越えてくれるのかな。それとももう、とっくのむかしに終わっていたのかな。

「……お姉ちゃん」

 頭の中で、柚のせいで、ってお姉ちゃんの声が響く。また、わたしは間違えた? また、大切なひとを失った? それはいつ? 死にたがりの凪都と出会って、今度こそって思ったのに。

 いや、まだだ。そうと決まったわけじゃない。わたしは首をふって、図書室を目指した。

 凪都はいつもと同じ窓際の席で、いつもと同じ表情で、本を読んでいた。紙のこすれる静かな音がする。

「……凪都」

 声をかけるけど、ぼんやりとしているのか、凪都は気づかない。もう一度声をかける。凪都がこっちを見た。

「おはよ。悪い、音楽聴いてた」

 その声は、やっぱりいつもと変わらない。耳からワイヤレスのイヤホンを外す凪都に、聞きたいことはたくさんあった。でもこうして顔をつき合わせてみると言葉が喉に引っかかって、結局無言で凪都のとなりに座ってしまう。凪都もまた本を読む作業にもどった。

 いま、ちゃんと会話ができているよね……。

 わたしは、ためらった。迷った。考えた。そうして、おそるおそる凪都に手をのばす。怖くて、指はふるえていたけど確かめたかった。そっと人差し指を凪都の頬に当ててみる。

「なに?」
「……ううん。なんでもない」

 凪都は「なにそれ」と喉を鳴らして、また本を読む。わたしの指は、ちゃんと凪都の頬に触れていた。やっぱり、この前のことは勘違い?

 そう思いたいのに、でも、それもちがう気がして、わたしはどうすればいいのかわからずに、じっと凪都がページをめくる音を聞いていた。すこしして、凪都が本を閉じる。

「海、行こうか」
「……え?」
「ランニングしたとき、柚、言ってたから。また海に行きたいって」

 そういえば、言った気がする。それどころじゃなくて忘れていた。

「いこ」

 凪都は本をリュックにしまうと、図書室を出ていく。わたしもあわててつづいた。前と同じで早い時間だから、海にはひとがそんなにいなかった。ざあああっと波が寄せては、引いていく。裸足になって海に入った。ひやりと冷たい水が足を洗っていく。

「今日は犬、いなさそうだな」
「そのほうがわたしは助かるよ」
「そう? 俺はあのとき面白かったから、来てほしいけど」

 ちょっと歩こうか、って凪都が言って、わたしたちは浅瀬を歩きはじめた。濡れた砂浜は思ったように進めなくて、よたよたと凪都についていくしかない。

「柚はさ、海に行く以外のやりたいこと、ないの?」
「……んー、もう結構、いろいろやったからなあ」
「欲がないな。そんなんじゃ、俺も張り合いがなくて困るんだけど」

 ぴちゃり、と水音を鳴らしてから、凪都が立ち止まる。

「家族と仲直りしたい、とか、そういうことは? 考えてない?」

 わたしも足を止めた。家族――お姉ちゃんがいなくなったあと、かみ合わなくなったわたしたち家族の関係を、どうにかしたいとは思っている。だけど、なかなか勇気が出せずにいた。

「……家に帰るのはまだ気まずくて」
「俺には、諒と仲直りしろって迫ったくせに」

 あ。たしかに、そのとおりだ。仲直りしなよって凪都に説教をしたわたしが、家族との関係を放置したままっていうのは、どうなんだろう。

「な、なんか、ごめん」
「べつに責めてるわけじゃないけどさ」

 あわてて言えば、凪都は呆れて肩をすくめた。

「でもまあ、早く仲直りしな」

 ……そうだよね。凪都は頑張ってくれたんだから、わたしだって。

「これ、あげる。お助けアイテム」

 凪都は背負っていたリュックの中身を、おもむろに漁りはじめた。お助け……?

 取り出したのは、マリンカラーのレターセットだった。凪都が持つにしてはかわいらしいデザインで、ちょっと驚く。

「なにこれ」
「手紙、書いたらどうかなって」
「お母さんたちに?」
「実家に帰るのはハードル高いだろうなって思ったし、電話も緊張するだろ。だからってスマホのメッセージじゃ味気ない。なら、手紙がいいかな、と思って買ってきたんだけど……、的外れだった?」

 凪都がちょっとだけ気まずそうに首をかいた。そんな凪都を、わたしはじっと見つめてしまう。

「わざわざ凪都が買ってきたの?」
「レターセットなんて、俺が持ってると思う? しかもこんな女子力高いやつ」
「……わたしのために買ってきたってこと?」
「だから、そうだって」

 いちいち聞くな、って言いたそうに凪都が顔をしかめた。それから、わたしがかぶっていたキャップのつばをぐいと下げる。

「なんか、むかつく顔してる。なんで笑ってんの、柚」
「えええ? 笑ってないよ」
「笑ってる」

 わたしは自分の頬に手を当てる。……たしかに、笑ってるかも。だってこれって凪都が、わたしとお母さんたちの仲直りのために、あれこれ考えてくれた、ってことだよね? こんな可愛いレターセットまで、わざわざ買ってきてくれて。

「ありがとう。凪都が自分からなにかしてくれるのってめずらしいから、びっくりしただけだよ。いままで、わたしがお願いをして聞いてもらうって流ればっかりだったし」
「まあ、諒との仲を取り持ってくれた柚には、礼くらいしないと失礼だからさ」

 凪都がちょっとふてくされたみたいな声で言う。

 お礼、か。

「……凪都は、嬉しかったの? 諒さんと仲直りできたこと」

 だって凪都はあの日、「もう遅いのに」って言っていたから。喜んでいるようには、とても見えなくて。

 指先が、なにもつかまえられなかったときの感覚を、また思い出す。それに気づいたのか、凪都が言った。

「諒と話せたこと自体は、感謝してる。これは本当」
「そうなの? じゃあ、なにが」

 なにが手遅れなの?

 そう言いたいのに、答えを聞くのが怖い思いもあって、言葉は喉で詰まってしまう。

「柚」

 波の音が、耳を満たす。わたしは、そっと顔を上げた。凪都が、困ったように笑ってる。

「もうすこししたら、ちゃんと話すから。あとすこしだけ、なにも知らないふりして、俺につきあって」
「……え?」
「いつか、ちゃんと、話すから」

 鼓膜を揺らす凪都の声は潮騒にまぎれて消えてしまいそうだった。強い朝陽を浴びる凪都の身体も、まぶしさにわたしが目をまたたくうちに、ふっとかき消えてしまいそうで――。

 凪都の話を聞きたい。だけど聞くのが怖い。宙ぶらりんの状態で、わたしは頷くしかなかった。

 そのあとわたしたちは海から出て、学校にもどった。寮の前で、凪都はわたしにレターセットから便せんだけを取り出して渡した。

「書き終わったら、持ってきて。そのときに封筒も渡す」
「え」
「せっかく関わったんだから、ポスト入れるまでつきあうよ」

 わたしはきょとんと目を丸めた。

「律儀だね。というか、おせっかい?」
「それ、柚には言われたくないな」

 凪都はすこし顔をしかめた。でもわざとつくった顔だったみたいで、すぐに表情をゆるめて、じゃあ、と手をあげた。

 わたしは便せんを持って、自分の部屋にもどった。マリンカラーのかわいい便せんに綴ることになるはずの言葉たちを思い描く。それは暗くて重たくて、ペンを持つ指先はなかなか動きそうにないなと思う。だけど、せっかく凪都が手伝ってくれたんだから、お母さんともお父さんとも向き合うべきだ。この機会を逃したら、もうそれができないような気もした。

 机に向かって、ゆっくりとペンを走らせていく。

 だけど、凪都のことが頭から消えることもなかった。
 わたしが両親に書いている手紙は、三日が過ぎてもなかなか完成しなかった。書き進めてはいるけど、のろのろと亀みたいなスピードだ。この三日、わたしは図書室で、凪都のとなりで文面を考えた。その間に凪都と話もしたけど、凪都はこれまでと変わらずに飄々としていた。悩んでいるのは、わたしだけみたいだ。

 ……と、最初のうちは、そう思っていた。でも、よくよく見てみればちがうと気づく。

 凪都の瞳は――残念なことに、相変わらずの死にたがりの瞳だった。だけどその中に、もっといろいろな感情が混ざるようになっていた。それは苦悩で、痛みで、悲しみで、切なさで……、言葉にするにはとらえどころがないのに、たしかに暗い色が増えていることがわかってしまうようなもの。

 凪都が抱えた悩みのひとつを、わたしはたしかに解決したはずだった。なのに、前よりも凪都は苦しんでいるように見える。その理由を思い描くと、わたしは呼吸が苦しくなった。

 ありえないと思う、その予想。だけどそれしかないんじゃないかと思う、その絶望。

 もうすこししたら、ちゃんと話してくれるって、凪都は言った。わたしも、一度は待つと決めた。だけど、不安がお腹の中にどんどんたまっていく。

「柚、どうー? 用意できた?」
「うん。もう行けるよ、七緒」
「よーし、じゃあ出発! ちょうど映画の時間につけそうだね」

 七緒が楽しそうに言って、部屋を出ていく。わたしも追いかけた。今日は七緒と映画を観に行く予定だった。目的地は、電車で一時間くらい揺られた先にある繁華街。ふたりとも、いつもより気合いの入った私服姿で、駅まで歩いて電車に乗り込む。涼しい車内でとなり合って座った。

 七緒が、車窓の奥にある海を見つめる。

「夏休みって過ぎるの早いよね。あと一か月くらい延長してほしいなあ」
「そうだね。ほんとに」
「柚とも、もっと遊んでおかなきゃ。今年の夏は、柚といちゃいちゃする年だからね! 後半戦も遊びつくすよ!」

 ぐっと親指を立てる七緒は笑顔だ。だけど……、ちょっとだけ距離があるような気がするのは、気のせいかな。

 凪都のことを相談してから、七緒との間にもほんのすこし、壁を感じるようになった。壁、というか、七緒がわたしを気づかって、腫れ物に触るみたいに慎重になっている、みたいな。その微妙な距離感を感じるたびに、わたしは自分の頬を叩きたくなる。心配をかけちゃだめだ。笑顔、笑顔。

 駅につくと、本当にちょうどいい時間帯で、そのまま映画館に入った。七緒が好きな俳優が出ている恋愛映画は、なんというかベタな展開で、わたしにはちょっと退屈だった。

 画面に俳優の顔が映る。七緒が好きな、若槻くん、通称わっくん。きれいな顔だけど、わたしはとくに興味がない。結局、気分が乗らないまま映画が終わってしまった。

 でも七緒は楽しんだはずだ。いい感じの感想を言い合って、七緒が楽しい気分のままでいられるようにしてあげたい。映画の褒めポイントをあれこれと考えてみる。うーん、どうしようかな。

 エンディングも流れ終わって、会場が明るくなった。七緒が腕を組んでうなる。

「なんかさ、わっくんの顔はよかったけど、展開は微妙だったよねー」
「え」
「ん? なに?」

 ……なんだ、せっかくいい感じの感想を考えたのに、必要なかったみたいだ。気が抜けて、笑えてきた。

「そうだね、ちょっとベタだったかな」
「だよねー。え、ていうか柚、あんま楽しくなかったんじゃない? ごめんね、わたしにつきあわせて!」
「いいよ、七緒がわっくんを堪能できたなら、なによりです」
「わあ、さすが柚、心の友、いい子! でも申し訳ないからポテトおごっちゃう!」

 そのあとはファストフード店で七緒にポテトをおごられて、ゲームセンターに移動してプリクラを撮った。服屋もめぐって、小腹が空いたらクレープも食べて。

 楽しかった。七緒の元気さが、わたしは好きだ。

「うーん、遊んだ遊んだ! 行きたいとこはほぼ回ったかなあ。柚は?」
「わたしも満足だよ。……あ」

 CDショップの前を通りかかったとき、覚えのあるメロディが流れて、足を止めた。

「これ、凪都が好きな曲だ」

 はじめて夜の散歩をしたときに、凪都が教えてくれた曲だった。ポップを見てみれば、歌っているのは新人アーティストみたいで、この歌で最近人気が出てきているらしい。へえ、知らなかった。

「ほほう、柚はやっぱり、凪都のことが好きなんだねえ」

 となりで七緒が言った。

「え、いや、そういうわけじゃ……!」

 言いかけて、七緒がからかうわけじゃなくて、やさしい笑顔を浮かべているのに気づいた。

「好きなんでしょ?」

 七緒の言葉に、わたしは考える。

「……うん」

 好きだ。凪都のことが。

「最近ぎくしゃくしてるみたいだけど、仲直りした?」
「まだ、かな」
「そっか。それはつらいね」

 七緒の声はあったかくて、ぽわんとわたしを包み込んでくるみたいだった。さすが七緒、心の友だ。今度ポテトをおごり返そう。そんなことを考えながら、ちょっとだけ涙腺がゆるみそうになった。

「柚。わたしには、ふたりの関係がどうなってるのかは、よくわかんないけどさ。わたしは柚のこと応援してるからね。なにがあっても、絶対に」
「……うん、ありがとう」
「いえいえ。ふたりが幸せになることを、わたしは願っているぞ」

 最後はちょっと冗談めかして、七緒が笑う。七緒はいい子だ。

 そのあともふらふらと遊んでいたから、寮に帰ってきたのは夕方だった。わたしは校門から寮まで歩きながら、ちらりと図書室を見上げる。まだ凪都は、あそこにいるのかな。

「行ってきたら?」

 七緒が、わたしの心を読んだみたいに言った。なんかもう本当に……。

「心の友だね、七緒。ポテトおごるから、また遊びに行こう」
「お、やった! 期待してるね」

 わたしは部屋にもどると、私服から制服に着替えた。制服着用のルールはこういうときに面倒くさい。するっと胸もとでリボンを結んで、あわただしく寮を出る。

 閉室時間まであとすこし。
 グラウンドからは、最後のひと踏ん張りみたいな運動部のかけ声が聞こえてくる。それを素通りして、わたしは階段をのぼって図書室に向かった。

「凪都」

 凪都はやっぱり、窓際の席にいた。イヤホンをつけていた凪都は一拍遅れて、読んでいた小説から顔をあげた。すこし驚いた顔で首をかしげる。

「柚。なんだ、今日は来ないのかと思った」
「ごめん、七緒と遊びに行ってて」
「べつに謝ることじゃないけど。楽しかった?」
「うん」
「そ。よかったじゃん」

 ぺら、と凪都が本をめくる。その小説の表紙に、見覚えがあった。太宰治の本だ。前に凪都から借りて、結局、ほとんど読まないまま凪都に返してしまった。

「……その本、面白い?」

 今日の凪都は、すこしぼんやりしている。いや、聞こえがいいように言えば、ぼんやり。悪く言えば、憂鬱な死にたがりの雰囲気。胸がざわりと波立った。

「さあ。前にも言ったけど、俺は熱心な読書家じゃないから、面白さはさっぱり」

 凪都の指が、静かにページを送る。

「でも好き、なんだよね?」
「一応ね。――太宰は、すこしうらやましいし」

 外では、だんだんと陽射しが弱まってきている。そのせいか、なんとなく音まで遠のいていくような感覚があった。
「うらやましい?」

 この図書室だけが、世界から切り離されていくみたいな、そんな感覚。凪都は、ぱたんと本を閉じた。夕暮れの図書室で、凪都の黒い瞳に、わたしが映る。

「ねえ、柚」

 本当に静かな呼びかけだった。わたしは、ちょっと嫌な予感を覚えながら、首をかしげる。そうしたら、凪都が言った。

「心中しようよ」

 ひと言。

 たったのそのひと言に、わたしの心臓が動きを止める。言われていることの意味がわからなかった。凪都はわたしをじっと見ている。暗さを増した瞳で。

 太宰治は、心中で死んだんだっけ……。思い出して、いますぐ本を取り上げたくなった。だけどそれより先に、わたしは喉から声をしぼり出した。

「嫌だよ。わたしは生きる」

 死ぬ、なんて嫌いだ。みんなに迷惑をかけて、悲しい思いをさせる。わたしの大嫌いなものだ。

「そういうこと言わないで、凪都」
「……ごめん。冗談」

 ふっと、小さく笑って、凪都は話をごまかそうとする。

 ――うそつき。

 冗談じゃないんでしょう。死にたいんだよね、凪都は。それとも。

 もう、死んでるの?

「死ぬより」

 必死に喉から声を押し出す。

「一緒に死ぬより、わたしは凪都と一緒に生きたい」

 死んで愛情を表現されるより、一緒に生きるほうが、ずっといい。だから、凪都にもそれを望んでほしかった。凪都はわたしを見つめて、かすかな笑みを口もとに浮かべた。

「それは無理」

 一瞬、時が止まった。

 無理……、って、なんなの?

「どういう意味?」
「そのままだけど」
「……わかんないよ、それだけじゃ!」

 自分で思っているよりも、大きな声が出た。凪都もすこしだけ目を丸めている。冷静にならなきゃと思う。だけど、腹の奥からあふれる熱いものが止まらなくて、思考するより先に、言葉が口から飛び出していた。

「わたし、たくさん考えたし、いろいろ思い出してみたけど、この状況がなんなのか、なにもわかんないの。凪都、いつになったら教えてくれるの? このまま待つなんて、無理だよ……!」

 本当は、凪都が話すまで待とうと思っていた。だけどやっぱり、つらいんだ。だって、もしかしたら、凪都はもうこの世にいないかもしれないんでしょ? そんなの……。

「ねえ、凪都はなにを隠してるの? お願いだから、教えて」

 そのとき、図書室にだれかが入ってきた。女子生徒がふたり、しゃべりながらわたしたちのいる奥の席に歩いてくる。凪都はそのふたりを見て、ぼそりと言った。

「柚、図書室では静かにしないと」

 正論だ。だけどわたしは、かっとなる。いまは他人のことより、わたしだけを見ていてほしい。

「そんなこと、わかってるよ! だけど、でも……」

 ぎりぎりのところで、言葉が出てこない。口を開閉させて迷った。だけど、いま言わないと、はぐらかされる気がする。溺れているときに息継ぎをするみたいに、わたしはどうにか呼吸した。

「……凪都は、ここに、いるんだよね」
「うん」
「幽霊なんかじゃ、ないんだよね」
「うん」
「だって、見えてるし、話してるもんね」
「うん。俺はここにいるよ。ちゃんと」
「だったら、なんで……」

 わたしたちの空気を変に思ったのか、女子生徒ふたりは顔を見合わせてこそこそと離れていった。図書室から去っていく音がする。それでもわたしは、気にしている余裕がない。

「凪都は、なにを抱えてるの?」
「……まだ、待って」
「いつまで? いつになったら教えてくれる?」

 今度は、凪都がきゅっと口を引き結んだ。

「できればずっと、柚には知らないままでいてほしい」

 やっと答えた凪都の言葉は、わたしを突き放すものだった。このままなんて……、そんなの、無理だ。瞳の奥が熱くなって、じわりと涙が浮かぶ。生きているのか、死んでいるのか、はっきりさせて。

 凪都が戸惑う気配がしたから、わたしは目もとをこすった。あともうひと押ししたら、凪都の反応は変わるかもしれない。あと、もうすこし――。

「……ちょっと、ジュース買ってくるね。ごめん」

 わたしは、逃げるみたいに図書室を出た。……ああもう、どれだけ臆病なんだろう、わたしは。凪都が「それ以上言うな」って顔をするから、怖気づいて逃げ出すなんて、意気地なし。勢いのままに訊いちゃえばよかったのに。

 涙がこぼれて、また目もとをこすりながら、階段をおりる。わたしはどうしたらいいんだろう。

「ねえ、さっきのひと、やばくない?」

 はっとした。中庭の自販機に向かう途中、外通路の先に、さっき図書室に来ていた女子生徒のふたりがいた。

「わかる。ちょっと怖かったよね」

 彼女たちは声をひそめて話している。……わたしが、騒いでいたからかな。気まずくなって、目を伏せた。嫌なところを見られた。普段あの図書室にはほとんどひとがいないのに、なんであのタイミングで。このまま消えたいくらいに恥ずかしかった。だけど凪都のもとにもどるのには、まだ落ち着きが足りない。引き返すよりは、このまま彼女たちを素通りするほうが、まだましかも。

 彼女たちに近づく。

「ひとりでしゃべってるとか、やばすぎでしょ」

 足が止まった。彼女たちは、わたしに気づかない。固まるわたしの前で、会話がつづく。

「ねえ、ほら。夏休み前にさ、死んだ生徒がいたって噂、あるじゃん?」
「あるある。幽霊が出る、とかっていうのも聞いたよ」
「さっきのひと、幽霊としゃべってたんじゃない? こわっ!」

 にげよにげよ、と彼女たちは去っていく。

 わたしは止まったまま、一歩も動けなかった。心臓が一度冷え切って、そのあとで、どくどくと鼓動を打ち鳴らす。彼女たちの声を頭の中で繰り返す。

 ひとりで、しゃべっていた?

 わたしはちゃんと、凪都と話していた。図書室にはわたしと凪都のふたりがいたのに。それなのに、ひとり? 彼女たちには……、見えていなかったの?

 やっぱり、そういうことなの?
 世界がくらりと揺れた。その視界に、男子生徒が映る。こっちに歩いてくる姿は、諒さんだった。

「……諒さん!」

 とっさに声をかけると、諒さんは「わっ」と大きく肩を跳ねさせた。

「え、あ……、柚さんじゃん。どうしたの? なんか顔色悪くない?」
「あの、凪都……! 凪都、はっ」

 生きてるよね。

 そう訊きたいのに、怖くなる。真実を知ったら、もう取り返しがつかなくなるんじゃないかって。本当に、わたしは臆病だ。諒さんは困惑した顔でわたしを見ている。

「……諒さん。夏休みの最初のほうに、生徒のだれかが死んだって噂、知ってる?」
「あー、うん、あれね」

 心臓がどくん、とひと際大きく鳴った。

「知ってるの?」
「うん。ていうか、その日、俺も部活で学校残ってたから。救急車のサイレンも聞いた。近くにいたわけじゃないし、現場を見たわけでもないけどさ、空気がぴりついてたのは覚えてるよ」

 諒さんが眉を下げて言った。

「まあ実際は夏休みの最初じゃなくて、夏休み前のことだけど。終業式の日。それがどうかした?」

 わたしは、ごくんと喉を鳴らして、おそるおそる口を開く。

「死んじゃった、って本当なの?」
「らしいよ」

 諒さんはわたしを心配そうに見ながらも、うなずいた。

「先生たちが騒動にならないようにって、噂を広めないようにしてるらしいけど。それだけ先生がマジになるってことは、本当なんじゃないかな」

 目の前が真っ暗になりそうだった。それでも、どうにか会話をつづける。もうすこしで、知りたかったことにたどり着く。そんな期待と恐怖で、さっきから頭痛がひどい。

「諒さんは、その生徒のこと……、くわしく知ってる?」
「二年生だってさ。でも俺とはべつのクラスの子だったから、よく知らないんだけど」
「その子?」

 他人行儀な言い方だった。諒さんはそのひとのことをよく知らないんだ。だったら……死んだのは、凪都じゃないってこと?

 それだけで、わたしはほっとして座り込みそうになった。まだ不安なことはたくさん残っているけど、ひとまず安心した。

 でも、二年生のだれかが、死んだ。わたしと同じ学年の、だれかが。

「その子、何組なの?」

 切羽詰まっているわたしのことを気にしているのか、諒さんはさっきからずっと眉をさげている。その顔のまま、斜め上を見上げて思い出そうとしていた。

「えーっと、たしか……、一組だったかな」

 また心臓が嫌な音を立てる。……うちのクラスだ。凪都じゃなくても、わたしのクラスのだれかが、死んだ。

「……だれ、が」

 諒さんは、ちょっと待って、と目を閉じた。名前聞いた気がするから、と考え込む。その時間がとても長く感じられた。やがて、諒さんが「あ」と目を開けて、言った。

「東坂さん、だったかな」

「え……?」

 目を見開いたわたしに、もう一度、諒さんが言う。

「東坂さんって、女子だったよ」

 東坂。二年一組の、女子――?

 耳もとを、湿った風が抜けていった。

「柚っ!」

 声がした。ふり向けば、凪都がいた。いつのまに、そこにいたんだろう。凪都は、くしゃりと顔を歪めていた。なに、その顔。苦しそうな、顔。

「諒! 余計なこと言うな!」

 声を荒げる凪都を、わたしは、はじめて見る。だから、わたしも諒さんも、これが普通じゃない、よくないことだってわかった。

「え、あ、ごめん……! もしかして東坂さんって、柚さんの友だちだった?」

 諒さんも戸惑って、なさけない顔になっておろおろとする。でも。ちがう。そうじゃない。東坂は、クラスにひとりしかいなくて、その名字は。

「柚、聞かなくていいから!」

 凪都が、わたしの腕をつかむ。ちがう。つかもうとした。だけど、凪都の指先は空を切って、わたしに触れられない。凪都がもっと顔を歪めた。諒さんが目を丸くする。

「え、なんで、いま……」

 ――ああ、なんだ。

 わたしは、やっと答えにたどり着いた。それはわたしの予想とは全然ちがったものだったけど。

「そっか、わたし」

 苦しそうな凪都を、わたしは、ぼんやりと見つめた。

 いままで何度かあった、指が空を切る感覚。わたしは、凪都に触れられなくて、不安になっていた。さっきの女子生徒は、図書室にひとりでしゃべっている生徒の話をしていた。彼女たちに凪都が見えていなかったんじゃないかって、怖くなった。

 ちがう。そうじゃなかった。

 わたしが凪都に触れられなかったんじゃない。彼女たちは、凪都が見えていなかったんじゃない。

 ――言われてみれば。

 わたしの声が届いていないと思うことがあった。一度の呼びかけで気づいてもらえなくて、凪都や七緒や女子寮のみんなに、わたしは何度か声をかけないといけなかった。さっきも、諒さんはわたしが声をかけるまで、気づいてくれなかった。

 見えなくなっていたのは、声を届けられなくなっていたのは、凪都じゃない。

 言われてみれば。

 夏休みの最初の記憶が、わたしにはない。気づけば、夏休みが一週間過ぎていて、わたしは図書室で凪都に声をかけていた。それ以前に、わたしはなにをしていたんだっけ。思い出せない。覚えていない。そもそも、その一週間が、わたしにはなかった。

 言われてみれば。

 言われて、みれば……?

「東坂は、わたし」

 東坂柚。二年一組の、女子生徒。

 わたしは、凪都を見る。本当にめずらしく、泣いてしまいそうな凪都を。

「死んだのは、わたしのほうだったんだね」
 わたしは、夏休みがはじまる前に死んでいた。

 ずっと頭が痛かった。凪都と出会った去年の冬から、頭痛がひどくて痛み止めを飲んでいた。死にたがりの凪都に会って、お姉ちゃんのことを思い出したせいだと思っていたけど、ちがったみたいだ。

 もともと、わたしは頭に爆弾を抱えていた。小さいときからそう言われて、無理をしないようにと釘を刺されていた。小学生のころ手術をして、治ったはずだった。

 だけどこの歳になって再発した、らしい――。

 頭痛は、その予兆だったみたいだ。わたしは、自分の身体が鳴らす警報を全部無視していた。わたしが弱かったせいで、お姉ちゃんは怒って家出して死んだ。だからまた、みんなに迷惑や心配をかけたくなかった。それで、ただの頭痛だって言い聞かせていたんだ。気にすることじゃない、すぐ治るから大丈夫って。

 病院に行けば助かったかもしれないのに、わたしはそうしなかったし、だれにも不調を相談しなかった。その結果、死んだ。死ぬことをだれよりも嫌っていたくせに。

 ……そっか、そうなんだ。

「わたし、死んじゃったんだ」

 ぽつりと言うわたしのとなりで、凪都は無言で座っていた。

 中庭のベンチに座るわたしたちのまわりに、音はない。グラウンドから聞こえる運動部の声はいつのまにか消えていた。部活を終えて、帰る時間なんだ。諒さんも、もう帰ったのかな。

 さっき、諒さんはとてもうろたえていた。そんな諒さんを、凪都が「頼むから、なにも聞かないで帰ってくれ」と追い払った。申し訳なかったな、と思う。諒さんはきっといまごろ、混乱してなにもできない状態になってるんじゃないかな。

 幽霊を、見ちゃったんだもんね。

「……幽霊なんだね、わたし」

 空に手をかざす。昼間の青さをなくして暗く沈んでいこうとする空に、わたしの手がのびる。

「普通の手に見えるのにな。半透明なんかじゃないし。凪都には、どう見えてるの?」
「……基本的には、普通。でもときどき、透けて見える」
「あ、そうなんだ」
「たまに、見えないこともあった。声も聞こえなくて」
「へえ」
「だれもいないと思ったのに、まばたきしたら、急に柚が目の前にいて、みたいな」
「うわ、なんか、ごめんね。めちゃくちゃびっくりするよね、それ」

 凪都はうなずいた。いつもよりもずっと静かな凪都のとなりで、わたしは気まずく視線をさまよわせる。

「そっかあ、死んでたんだね。実感ないなあ」

 となりで、凪都がぽつりと言った。

「……柚は、倒れたときのこと、覚えてる?」
「ううん。全然」

 死んだときの記憶はない。凪都が言うには、わたしは夏休み直前に、校舎から寮に向かう道で倒れて病院に運ばれたけど、死んでしまったそうだ。実感も現実味も、いまのわたしにはなかった。この夏休み、普通に生きてきたわけだし。

 でもきっと、うそじゃないんだ。だって凪都が、こんなに苦しそうな顔をしてる。

「夏休みに入ってからわたしが凪都に声をかけたとき、驚かせちゃったよね。ごめん」

 死んでいるはずのわたしが、普通の顔をして声をかけてきたんだから、驚かないはずがない。……いや、どうだったかな。あのときの凪都、そこまで変な態度は取っていなかった気がする。

「柚に、なんでここにいるのって訊いたこと、覚えてる?」

 そういえば、そんな会話をしたかもしれない。

『凪都がここにいるかな、と思って』

 わたしはそう答えて、凪都は呆れたみたいに笑ったはずだ。

『俺に会いに来たってこと?』
『まあ、そんなところ。まだ……、ちゃんと生きているかな、って。夏休み、楽しめてるかな、って――』
『……なにそれ。柚はほんとおせっかい』

 いま、となりにいる凪都も、同じような笑みを浮かべた。

「死んでるのは柚のくせに、俺が死なないかどうかの心配をして幽霊になってもどってきたのかって、呆れた。どれだけおせっかいなんだろうって」
「……ほんとだ。幽霊がなに言ってるんだって話だね」

 思い返すと、恥ずかしい。

 でもあのときは、凪都のことしか頭になかった。凪都が死んじゃわないか、本気で心配だった。ううん、あのときだけじゃない。この夏、わたしは凪都のことばかり考えていた。死にたがりの凪都が死なないことを見届けたくて、わたしは幽霊になった……のかもしれない。

「柚がここにいられるのは、この夏の間だけ、って思うんだ」

 凪都が遠い目をして、つぶやいた。空と同じで、暗く沈んだ瞳。

「どういうこと?」
「俺が夏を過ごせるか。柚は、それだけを心配してるみたいに見えたから」
「あー、うん、それはそう」
「夏の終わりを見届けたら、柚はいなくなるんじゃないかって、思った」

 凪都はすこし眉を寄せて、わたしを見つめた。その瞳に、いまはわたしが映っている。だけど、本当ならそこにわたしは映らないはずなんだ。死んでいるから。

「それに、夏休みのはじめより、どんどん柚が消えていってる気がする」
「……たしかに。最近は、みんなに無視されることが増えてたかも。声かけても気づいてくれないこと、多くなってた」

 そっか、夏が終われば、わたしは消えちゃうのか。やっぱり実感はなくて、わたしは「そうなんだねえ」と中身のこもっていない言葉をこぼす。理解はできるけど、自分のことだとは思えない。だから、妙にのんびりとした声になってしまう。

「ねえ、凪都」
「ん?」
「わたしの願いを叶えるってゲーム、わたしのために提案してくれたの?」

 凪都は無言になった。すこし考えて、ため息をつく。

「まあ……、そんなとこ。俺のために化けて出てきた柚に、なにかしてあげてもいいかなって思ったんだ。せめて、柚が夏を楽しんで、後悔を残さないようにしてあげられたらって」

 凪都にとってメリットのないゲームをはじめた理由が、やっとわかった。それはきっと、死んだわたしへの情けで、凪都のやさしさだった。

 パズルのピースがはまって絵が浮かび上がるみたいに、この夏休みの疑問が解けて、凪都の行動にも納得ができるようになってきた。

「七緒たちは? 女子寮のみんなは、わたしが死んでること、知らないの?」
「いや、みんな知ってる」
「凪都と七緒たちは、グルだったってこと?」
「言い方」

 ほんのすこし、凪都は呆れたように笑った。

「でもまあ、そういうことになるかな。……柚は、自分が死んだことに気づいてなかっただろ。だったら、知らないままでいいと思ったんだ。知らないまま、夏休みを楽しめばいい……って。それで、俺から七緒さんに相談した」

 幽霊のわたしとはじめて会った日。凪都がジュースを買いに行くって図書室を出ていったあと、七緒とわたしのことを話していたらしい。そういえば、帰ってくるのが遅いなあって思った気がする。柚が幽霊になって化けて出た、なんて話をするなら、そりゃあ時間がかかるよね。

「七緒は、すぐに信じたの?」
「いや。からかうなって怒られた。柚と自分を馬鹿にしてるのかって」
「ああー、まあ、そうなるよね」
「でも図書室の窓辺に柚がいるのが、外から見えて。それで七緒さんもわかってくれた。そのあとは、七緒さんから女子寮のメンバーにも相談してもらって、俺と、女子寮の居残り組の全員で、柚に夏休みを満喫させるってことになった」
「……みんなが今年の夏は妙に張り切ってたのって、わたしのためだったんだ」

 夏祭りに行ったり、まくら投げしたり、タコパをしたり。ほかにも、たくさん。

「彼氏と喧嘩した七緒のためって言ってたのに。あれ、うそだったんだ」

 きっと、わたしが自分の死を思い出さないように、みんな気をつかってくれていたし、わたしのためにたくさん夏休み満喫計画を考えてくれていたんだね。わたし、なにも知らなかった。

「なんか、ごめんね。みんなに迷惑かけちゃったかな」

 言いながら、凪都の最近の態度を思い返す。一番引っかかっていたのは、諒さんと仲直りをしたときのこと。

『夏が終わっても――、文化祭とか、冬休みとか、まだまだ楽しいことたくさんあるから。笑っていて。わたしは、そういう凪都をずっと見ていたい』

 あのとき凪都は、もう手遅れだって言った。すこし泣きそうな顔をして。死んでいるわたしが、ずっと凪都と一緒にいることはできないんだって、そう言いたかったのかもしれない。死んでる人間が未来を望んでも、それは叶えてあげられないよ、って。

「わたし、死んでるのは凪都なんじゃないかって、思ってたんだよ」

 ひどい勘違いだ。情けなくて、笑いがこぼれる。

「……でもよかった、凪都じゃなくて」

 凪都が小さく目をまたたく。ずっと不安だったんだ。凪都がもう死んでいたら、わたしはどうすればいいんだろうって。

「凪都が生きててくれて、よかった」
「……よくない」

 わたしは首をかしげた。

「柚が死ぬことが、いいわけないだろ」

 驚いて凪都を見つめると、彼は眉をひそめて、うつむいていた。たくさん言いたいことを抱えて、どうにか我慢しているみたいな顔だった。

 ――わたし、思っていたよりも凪都に好きになってもらえていたのかな。

 この夏の時間を全部わたしに使おうとしてくれたり、わたしが死んでいることを悲しんでくれたり……。きゅっと胸がしめつけられた。申し訳なくて、――こんなこと思っちゃだめだけど、ほんのちょっと嬉しくて。それを越えるくらい、とてつもない後悔が押し寄せて。わたしも目を伏せた。

「凪都がそこまで言ってくれるなんて、思わなかった」
「……俺だって、こんなつもりじゃなかった」

 凪都が、わたしとは反対方向に視線を逃がす。

「夏の間ずっと一緒にいたせいだ」

 ため息をついて、凪都はまた空をあおぐ。

「柚はもっと生きてたほうがよかったのに、って思った。こんなはずじゃなかった。柚といるのがこんな、きつくなるなんて、思わなかった」
「……そっか」

 そう思ってもらえるくらいに、凪都もこの夏を楽しんでいてくれたのかもしれない。それを知っちゃうと、悲しくて、でもやっぱりほんのすこし嬉しくて、もっともっと悲しくて。わたしは自分の心がわからなくなった。凪都と仲よくなれたって、わたしはもう死んでいるから、意味なんてないんだ。

「凪都、ごめんね」

 凪都は黙っていたけど、すこしして立ち上がる。わたしを見た凪都の顔は、いつもと同じ表情にもどりかけていた。でも瞳には、暗い感情が見え隠れする。

「悪い、取り乱した。明日になったら、いままでどおりにもどるから」

 凪都はうそつきだ。自分の感情にも、うそをついて平気なふりができる。

「柚の願いは、全部叶える。柚はなにも考えずに、夏休みを楽しめばいいよ」

 この夏が終われば、わたしは消える。せめて最期にいい思いをさせてあげよう、ってことだよね。

 終わっちゃうのか、あとちょっとで。夏休みは、残り二週間もない。

 心がざわりと騒ぐ。

 寮に帰ろう、って凪都がわたしに手を伸ばした。わたしはためらったあと、おそるおそるその手を取った。ちゃんと凪都の手に触れて、ほっとする。そのまま、手をつないで寮にもどると、七緒がいた。

「あ、おかえりー、柚! 遅いから、様子みにいこうと思ってた」

 七緒はいつもの笑顔で出迎えてくれる。でも、わたしと凪都が手をつないでいるのを見てはっとすると、悪だくみをするみたいな顔になる。

「え、もしかして、ふたり、なんかあったの?」
「七緒さん、柚に全部話したから」

 凪都が、七緒を遮るように言った。

「え?」

 ぽかんとする七緒に、わたしはなんて言えばいいかわからなくて、曖昧に笑う。

「……ごめんね、七緒。いままで、ずっと迷惑かけちゃったみたいで」

 七緒は、ゆっくりとわたしと凪都の顔を見比べる。凪都が一度だけうなずいた。

 そのとたん、だった。七緒の顔から笑顔が消えた。わたしはその豹変に驚いて、固まってしまう。いつのまにか七緒に抱きしめられていた。

「柚……!」
「な、七緒? どうしたの?」
「なんで」
「え?」

 きつくわたしを抱きしめて。

「なんで、死んじゃったの……っ!」

 きっと、ずっと言えなかったことを叫んで、七緒は泣いた。

 苦しい。その苦しさを、わたしは感じている。だけど七緒は、わたしの死を悲しんで泣いている。

 ああ、死んじゃったんだなあ、と、わたしはぼんやり思った。