わたしは寮の自分の部屋で、二段ベッドの下段に腰かけていた。柱にもたれて、もうどれくらいそうしているのかわからない。ぼんやりと瞳を閉じていた。

「柚。大丈夫?」

 談話室にいたはずの七緒が部屋にもどってくると、そっととなりに座った。

「なんかあった?」
「……ん」

 なにかは、あった。昨日、公園で。わたしは、凪都と諒さんが仲直りできるよう、すこしだけ手伝った。そこまではよかった。なのに、そのあとの出来事が、何回思い返しても意味がわからなかった。

 凪都に触れられなかった。触れてるはずなのに、指先に感触がなかった。でも、ひとの手をすり抜けるなんて、あるわけない。

 凪都はあのあと、なにも言わなかった。ただ「帰ろうか」とわたしの自転車を押して歩き出した。諒さんが心配していたけど、わたしは答えることもできずに、ただ凪都を追った。一日経っても、わたしにはあれがなんだったのか、わからない。わからない、けど。

「七緒」
「うん?」
「……夏休みの最初のほうにね、だれかが救急車で運ばれたって、噂を聞いて」

 七緒は無言になった。きっと、わたしが妙なことを言い出したから、困惑してる。

「そのひと、死んじゃった、って噂が、あるみたいで」
「……うん」
「七緒、それ、知ってる?」

 ううん、と七緒はゆっくり首をふった。その話がどうしたの、と訊いてくる。

「わたしにも、わかんないんだけどね」

 息を、吸う。

「凪都って……、ちゃんと、ここにいるよね?」

 七緒が、呼吸を止める気配があった。

「柚? それは……、えっと」
「わかってるよ。わたしだって、変なこと言ってるな、って思ってる。凪都はたしかに死にたがりだけど、そんなことあるはずないもん。だって死にたがりって、死にたいひとのことでしょ。死んでるひとのことじゃない。だから凪都は生きてる」
「柚」
「でも、思い出してみたら、凪都はずっと、自分の悩みのことを『もうどうでもいい』って言ってたんだよ。なんでって、ずっと思ってた。でももしかしたら、それって」
「柚、ちょっと、待って……!」

 七緒がわたしの腕をつかんだ。だけどわたしは、ぐるぐると考える。

『俺の悩みなんて、どうでもいいことだったから、気にしなくていい』
『知っても、どうにかしようとか思わなくていいから。もうどうでもいいことだし』

 もう遅いからって。虚しくなるだけだからって。凪都はそう言ってた。その意味が、わたしにはわからなかった。だって凪都は生きてるから、わたしとお姉ちゃんみたいに取り返しがつかないわけじゃない。いくらだって、どうにだってできるはずなのに。

 だけど凪都は、もう遅いって言うんだ。

 ……ううん、ちがう。そんなことない。

 凪都は死にたがりだけど、この夏、たしかにわたしと過ごしていた。一緒に生きていたはずだ。ときどき、凪都がすごく消えてしまいそうに見えて、怖かったけど。ずっと、わたしは不安だったけど。でもそんなの、凪都と出会ってからはいつものことだった。

 ああもう、頭が痛い。凪都と出会ったあの冬から、よく頭が痛む。

 凪都は生きてるはずだ。

 でも――、わたしは知っていた。三芝凪都は、うそつきだって。

 ……凪都の、なにが本当で、なにがうそなの?

「柚!」
「……あ、ごめん」

 わたしはびくりとして、七緒を見る。七緒は眉をさげていた。

「凪都は、生きてるよ」

 ゆっくりと七緒が言う。

「わたしも、凪都とこの前しゃべったし。凪都は生きてる、大丈夫」

 ぽんぽん、とわたしの肩を抱いて、七緒が言う。わたしは柱にもたれるのをやめて、七緒にもたれかかった。

「……ごめん、七緒。変なこと言って」

 凪都が幽霊かもなんて意味不明なことを聞かされて、七緒もすごく驚いているはずだ。それでも七緒は、わたしを馬鹿になんてしなかったし、適当にあしらおうともしなかった。

 ――でも、そうだよね。わたしたち、凪都としゃべってるもんね。

 自分に言い聞かせるみたいに、心の中で繰り返す。そうだ、何度も何度も、凪都と会って話してる。わたしだけじゃない。女子寮のみんなとも、諒さんとも、凪都は会って話していた。そんな凪都が死んでるわけない。

 ……じゃあ、あれはなんだったの? どうして触れられなかったの?

「柚、すこし眠りなよ。顔色悪いから」
「……うん」

 そんな気分じゃないけど、ベッドに横になる。七緒は静かに部屋を出ていった。