家に帰り、鞄からアクリルスタンドを取り出す。この2体のアクリルスタンドをどうすべきか。
視線はぬいぐるみたちの並ぶ棚の上に移る。ここなら、飾っても変じゃないかもしれない。そっと、2人並べて置いてみる。周りにいるぬいぐるみの影響か、2人ともかわいさが5割増しで見える。
歩をかわいいと思う気持ちは正直よく分かる。天然で、喋り方もふわふわしていて、まっすぐな純粋無垢さ。
方向音痴も危なっかしいのも愛おしく思えるのがかわいいと言うならば、俺はそこそこ歩のことを可愛がっているのだと思う。
「かわゆし」は平安時代、不憫という意味だった。今の意味で使う言葉は「らうたし」という。らうたし、は、世話したくなるとか愛おしいだとか。まさに歩を体現する言葉のように思える。
対して「あざとい」は近年まで褒め言葉ですらなかった。
歩に「人と比べるな」と言っておいて、俺はできていない。
いや、普段ならそんなことはしないのに、歩の圧倒的な純真無垢さを見ていると、まるで自分が汚れた存在のように思えてしまう。
その光は圧倒的すぎて嫉妬の感情すら湧かない。
郁斗はただ、その光をずっと見ていられたらいいと思った。
単独ライブのコンセプトは「融合」に決まった。ファンの激増と共に新規と古参の論争、賛否両論の物議が醸される状況に魅せるコンセプトならこれ以外なかった。ソロとコンビで人気のある仲森、神田、西園寺に郁斗たち双子が融合することによって魅せられる世界とは何か。
このグループは一人ひとりの個性が異なりすぎている。歴もキャラクターも、何一つとして共通点がない。強いて言うなら「頑固さ」だろうか。このとっ散らかった状態で、誰一人として自分の世界観を譲ろうとしなかった。
残された道は、個性を残しつつ融合する道だ。個性が融合することで新しいものを魅せる、と。
ソロ曲をそれぞれ歌った後はコンビ、トリオのパフォーマンスをし、最終的に5人のパフォーマンスへと増えていく構成だ。
が、ここに来て仲森と神田が険悪ムードになっている。
「なんで、トリがダンスナンバーなんだよ。客はアイドルファンだぞ?」
「最後に息の合ったダンスで魅せるんだよ」
会議室の机の対角線上に座る2人が、無言でにらみ合う。先ほど、オープニング楽曲でも揉め、やっと決着が着いたと思っていたところに。
昔はこれ以上の諍いがあり、それに比べたら大したものではない。しかし年上2人の雰囲気が悪いのは良い事ではない。それでも2人はこのライブを良いものにするために真剣なのだから止めるのもまた違う。
「郁斗、歩。ちょっと外の空気吸おう」
頭を冷やすのはどちらかというと年上2人だが、この状態の2人を外に出すのはまずい。
「うん」
「分かったあ」
会議室を出てすぐにある、自販機とソファで出来た休憩スペースで3人横並びに座る。本来は2人掛けのようで、ちょっと狭い。と、思っていると、ふいに圧が緩んだ。見ると、西園寺がポケットに入れた財布を取り出して自販機へ行ったところだった。
「アイツら、語気が強いんだよな~」
「しゃーないやつらだよ」と言いながら、西園寺は自販機のボタンを押す。プシュ、とレモンサイダーの缶を開けゴクリと一口飲むと、鼻歌を歌いながら窓の外を眺めた。
「歩。アイツら、悪い奴じゃないから」
「うん。みんないい人」
「良いこと言うじゃねえか~。可愛い奴め」
上機嫌の西園寺がワシャワシャと子犬のように歩を撫でた。郁斗はそれが、なぜか気に入らなかった。
パシ、と西園寺の手首を掴んで制止させる。
「郁斗?」
「あ、いや、歩最近ヘアケア頑張ってるから、やめてあげな?」
咄嗟に50%の嘘が出てきた。
何故か、自分が今、とても怖い顔をしているような気がする。アイドルスマイル、アイドルスマイル。己に言い聞かせ、掴んでいた手を離す。掴んでいた手は、重力に従い座っているソファーの座面に落ちた。
「そうなのか。悪い、歩」
「ううん~?」
最近歩がヘアケアに精を出しているのは本当だ。夏のコンサートが終わってすぐ、「良いトリートメント教えて」と聞かれ、自分の愛用しているメーカーを教えた。自分のヘアオイルを買い足すついでに歩のものを買ってプレゼントした。
歩が「良い櫛買ったんだ」と見せてきた時は梳かし方を教えてやった。
この髪は、俺が作った自信があった。
——…………は?
「自信」ってなんだ。「俺が」って、なんだ。
「オンジー!ちょっと来てくれ」
会議室の扉が開いて、顔だけ出した神田が西園寺を呼んだ。
「おう。2人は待ってろ」
西園寺が会議室へと消えると、辺りは途端にシンとなる。
「郁斗くん」
「……ん?どした、歩」
世にも不思議な己の胸中を悟られまいと、なんでもないことのように返す。この胸中は知られてはいけないと思った。
「撫でて?」
——は?
またしても、上目遣い。あざといのは一体どっちなのだろうか。
「なんで」
かろうじて言葉が出たが、酸素が薄くなったみたいに呼吸がし辛いし、心臓の動悸もおかしい。この子は一体、何を考えているのだろうか。
「何でって、撫でてほしいから」
「何か変?」というような目で見られると、自分がおかしいのではなかと思えてくるが、撫でてほしいと言うのはまるで………甘えられているみたいじゃないか。
いや。単に西園寺の手を止めてしまったのが気に入らないのかもしれない。
「また翔太にやってもらったらいいでしょ?ごめんね、止めちゃって」
なんでそんな拗ねたみたいな言い方をしているんだ、俺は。
先ほどから心も身体も言葉も、全てに違う人間が宿ったかのように統一性がない。脳だけがずっと困惑している。
歩から視線を逸らすと、郁斗の手首に歩の手が触れた。冷たい手が。
そのまま手首ごと引き寄せられて、歩の髪に指の甲が触れた。歩は手を離した。
郁斗の手は歩の髪に触れたままだった。
ギコギコと効果音が鳴りそうなほどにぎこちない手つきで歩の頭を撫でる。決して気持ち良くなんかないだろうに、歩は気を許した小動物のように安らかな笑みを浮かべて目を閉じた。
「なんか兎みたいだね……」
「うさぎ?」
「そう。白の兎」
真っ白な雪原を奔放に走る白い毛皮の兎。うん。ぴったりだ。
「じゃあ、郁斗くんは何色のうさぎ?」
「俺?そりゃあピンクでしょ」
なんてったってメンバーカラー。そして現実には存在しないピンクの兎。
「白うさぎの毛皮と赤い目を合わせたら、ピンクになるね」
そう言うと歩はパチリと目を開け、視線が絡み合う。
歩の瞳の色は真っ黒だった。
結局最後の曲はダンスナンバーになった。仲森くんの希望曲はアンコールに。一度決定すれば、禍根は残さず、スッキリしたものだった。2人の関係性は本当によく分からない。
決まったセットリストを元に、それぞれの歌割りを考える。そしてダンスの振り付けも。歌割りは仲森が、振り付けは神田が担当した。その間に西園寺は衣装をデザインし、郁斗はステージ構成を決め、歩のボイトレとダンスレッスンに付き添った。
そうしている内に10月に入り、単独コンサート決定の情報解禁日がやってきた。
予想通り、出来たばかりのグループが10回も公演をすることに『SN―SKY』ファンを超えて物議が醸された。郁斗は徹底的に歩の視界からSNSを消し去るようにした。
評価も意見も、全て終わってから見ればいい。意見を見ることも時には大事だが、それでパフォーマンスに支障をきたしたり、心身を壊したりしては意味がない。この結論に至るまで、郁斗は何年もかかってしまった。出来ることなら早く知っておいた方が良い。
単独コンサートを知らせるアルタイル・エンタープライズ公式動画配信の撮影の時、そんなことを言っていると、西園寺に「過保護だろ」と言われた。けれど、郁斗には、歩を傷つけるくらいなら過保護でもいいじゃないかとすら思えた。
新星と言われるほどの才能なのだから。
12月22日。大阪。ライブツアー始まりの地である。
早朝、広い会場ではステージが組みあがっていた。スタッフはまばらで、冷たい風が郁斗の頬を掠めた。歩も神田も、まだホテルで眠っている頃だろう。
郁斗と歩、神田は昨日の夜に大阪入りし、仲森と西園寺は今日朝一番の新幹線で現地入りする。それまで、あと数時間はある。集合時間はもっと後だ。朝食も食べずに、気づいたらここに来ていた。
今日の夜、全国から沢山のファンが来て、この会場を埋めにやってくる。
マネージャーの話によれば、想定以上の応募が来て、かなりの倍率だったそうだ。その内の何割がピンク色のペンライトを灯すのだろうか。夏のコンサートから、どれだけファンは増えたのだろうか。
窓から差し込む朝焼けの光だけが頼りの会場は、少しの作業する音だけが聞こえ閑散としていたが、確かな熱気が籠っていた。郁斗たち演者だけでなく、数多の人間がこのコンサートを作り上げている。そんな熱気が。
できることは全部やった。
郁斗の「揺らいだあざとかわいいキャラ」はファンの様子を見るに、「本当は男らしいけど、あざと可愛くいたいキャラ」という微妙な路線変更をした。本音をどの程度零すかという悩みも、やっていけば安定していくもののようだった。
これでいいのか、と思う反面「演じてる感がなくなって良い」「侑真と兄弟っぽい」という好感触なので、続行中だ。神田のお兄ちゃんキャラも見つかってきている。
それでも、このコンサートでは夢かわいいソロ曲を披露するつもりだし、歩と共に双子アピールも続けるつもりだ。2人で歌う曲もセットリスト入りしている。
この広い会場で、俺はどこまで自分のキャラが届けられるのか。
それを思うと緊張で全てを吐き出しそうになる。それでも湧き出てくる圧倒的な情熱と闘争心に、郁斗は突き動かされていた。
「あっ、郁斗くん!いたあ~!」
背後からよく響く声に振り返ると、歩が目に涙を湛えて会場の入口に立っていた。
「歩?」
「部屋からいなくなってたから……運転手さんに聞いたらここって……」
このコンサートツアーの宿泊は歩と同室だった。昨夜の歩は何やらアタフタとしていて、いつもの何倍も世話が焼けたものだ。
「まだ寝てて良かったのに。そんなに心配しなくても……」
そう言うと、歩は頬を膨らませてこちらにズカズカとやって来た。
「歩?」
どうしたの、と言う前にギュッと抱きしめられた。
「そんな訳にいかないでしょ。心配するし、郁斗くんいなくなったらやだよ」
グスン、と鼻を啜る音が胸の中でした。
「歩……ごめんね」
強く強く抱きしめてくる歩の背後に手を回し、背中をそっと摩った。冬の寒さも相まって、歩の体温がカイロのように郁斗を温める。
——俺はここにいるよ、歩
歩が泣くと、郁斗は心が痛い。
泣かないで、と思いながら郁斗は歩をそっと抱き締めた。
そうしていたのは、ほんの数分であるはずなのに郁斗には何時間もそうしていたように思えた。
「わあ、すっごいね!」
郁斗から離れ、落ち着いた歩は会場のステージに気が付いたようで、その場でくるくると回り目を丸く輝かせた。
「これ、全部郁斗くんが考えたの!?」
「うん。って言っても、侑真くんに手伝ってもらいながらだけど」
その言葉を聞いてか聞かずか、歩は客席の間を通ってステージに駆け寄り、傍にある階段を上ってステージのセンターに立った。
「郁斗くん見て見て~!」
「はいはい」
歩を追いかけ、一番前中央の客席に座って歩を見上げる。彼はおもむろにスマートフォンを取り出し、音源を流し始めた。曲は『ピチカート!』。コンサートの一番最初に踊る楽曲だ。郁斗と歩はしばらくスケジュールが合わず、練習が離れていた。
——さて、練習の成果は……
顔を上げたまま、郁斗は動けなくなった。
しなやかに動く身体。マイクは通していないけれど音程のとれた歌声、表情。そして、圧倒的なオーラ。その全てが郁斗の視線も、身体の自由も、全て奪った。
今、この時間。歩がソロコンサートをやっていると言っても過言ではない。
衣装も照明も、ヘアメイクもしていないのに。会場の窓から差し込む朝日と、舞う埃すらも綺麗に見えた。歩がふとこちらに目を向け、指ハートとウィンクを飛ばした。郁斗が教えたファンサの1つだ。
自然を笑みが零れる。
この瞬間をいつまでも、死んだ後だって、ずっとずっと覚えていたいと思った。
「皆さんこんにちはー!『SN―SKY』です!!出来立てホヤホヤのグループということで、まずは自己紹介からしていきたいと思います。まずは僕、西園寺翔太です!よろしくお願いしまーす!今、ティオールさんのメンズフレグランスと、ゴールデン製菓さんのゴールドサンドクッキーのCMに出演しています。また、観光大使もしていますのでよろしくお願いします!次は、賢くーん!」
常にカメラ目線。大きなモニターに西園寺の顔がアップで映されると、会場が歓声に揺れた。
「仲森賢矢です!みんな、今日は来てくれてありがとう!会えるの楽しみすぎて、昨日は本当に眠れなかった……え?みんなも?それは嬉しいな。今日はよろしくね!あ、『夜明けの王家』絶賛上映中でーす!」
優しい口調と笑顔。しかし仲森の力強さは、会場に覇気をもたらす。仲森のファンを越え、全ての人間に元気を与えていくその様は経験が織りなすものだ。
「神田侑真です。朝寝坊しかけてマジヤバかったっス。『キャンパス笑劇場』、毎週水曜25時からレギュラーで出てますんで、よろしければ」
サラッとした挨拶に、シンプルな動きとクールな佇まい。しかし最後にはカメラ目線でニコリと笑う。会場中が釘付けになる魅力がそこにあった。
「みなさーん!こんにちは!!あざとかわいいで世界を包みたい、メンバーカラーがサクラ色の桜木郁斗です。あ、ピンクのペンライト振ってくれてありがとうー!実は俺、侑真くんの先輩なんです!びっくりした?名前だけでも覚えて帰ってくださーい!サクラ色の桜木郁斗です!!」
アイドルスイッチ、全開!
自己紹介は、計算されつくした郁斗のキャラクターが光るところである。コミカルな動きに加え、カメラの画角と会場の視線を意識した目線。全てが郁斗のものだ。
「こんにちは、結城歩です。郁斗くんと同じ年、同じ誕生日です!皆さんに一日でも早く、新しい景色を見せられるよう日々頑張っています!今日は俺のことを少しでも見ていてください。離せなくします!よろしくお願いします!」
真っ直ぐに会場を見つめ、真っ直ぐな歩らしい自己紹介。天然が目立つ歩の、新たな一面を魅せられた会場が息をのむのがよく分かった。
それぞれのソロパフォーマンスとユニット歌唱が終わった後のMC。自己紹介をしつつ、近況の話に移る。
「この前さあ、2人バチバチの時あったじゃん?あれは痺れたわー!」
どよめく会場に、水分補給をしていた当該の2人は慌ててペットボトルを置いてブンブンと手を振る。
「いやいや、あの、喧嘩とかじゃなくてね?」
「そうそう、ちょっと熱くなっちまってな」
神田が従来のアイドルファンとは違う層から人気を獲得し始め、研修生の中でも存在感を出し始めていた頃。2人の仲は、それはもうすこぶる悪かった。
今の郁斗と同程度に闘争心を燃やしていた2人は互いの存在が目障りで、気に食わないのと同時に、焦りがそれに拍車をかけていた。
しかしそんな時期に限って2人は一緒に仕事をするようになってしまった。その時期から2人を推しているファンたちは、2人の仲にとても敏感なのだ。
「いや、あれはホントにすごかったよ。2人の眼光がもう、こんな」
お茶目な西園寺は笑いながらカメラに向かって鋭い視線を放つ。が、ファンにとってはご褒美だったようで、大きな悲鳴があがる。
「オンジー、しれっとビジュアピすんな?ずるくね、顔でなんでも解決しやがって。なあ郁斗?」
「ほんとー。良いなあ翔太。ま、俺も負けてないけどねー?」
郁斗も負けじと近くのカメラに向かって顔ハートを作る。観客席からは「かわいー!」という歓声があがった。
——よしよし、あざといあざとい。
カメラの傍に目をやると、ニコニコとみんなの話を聞いている歩が目に入った。どうせなら、彼にも何か喋ってほしい。ついでに最近需要が高まっている双子アピールでもしてみようか。
歩の後ろから手を回し、スッと彼を引き寄せた。バニラの香りのする耳元に顔を近づけて聞いてみる。ざわめく会場の様子に、郁斗の心は踊った。
「歩はどーお?俺も負けてないよねえ」
これで双子ショットは完璧だ。モニターを見つつそんなことを考えたのもつかの間。
引き寄せた手は解かれ、歩の身体が離れたかと思うと彼は振り返って前から俺のことを抱きしめ返してきた。ふわっと、かすかな音がした。
「大優勝だよお」
一瞬の静寂の後。
この日一番の大歓声が会場を揺らした。
——え?な、なになになに、え?
「俺らの弟は仲いいなぁ」
「いや、オンジーは1つしか変わんないじゃん」
「ははは。俺にとっては神田も弟みたいなもんだよ」
混乱し続ける郁斗をよそに、年上3人はほのぼのと話を続ける。観客はというと、ただひたすら悲鳴をあげている。
郁斗は歩の肩を軽く叩いて離した。
「いや、『キャー』じゃないのよ。しかもそっちは何で普通に話続けてんのさ」
——……あ
「お、郁斗Ver.サバサバ出たぞ~。お嬢さん方気を付けて」
「ええ~なんのことかなあ?侑真くん、みんな?」
アイドルスマイルを戻して観客席の方を見る。ファンたちはクスクスと微笑ましそうな視線を向けた。中身はサバサバしていて、それがバレていてもあざとかわいい言動をする白々しさが面白いのだろう。
当初考えていたキャラ路線とは若干違えたが、磨き続けたビジュアルも、あざとかわいい視線や話し方、表情も無駄にはなっていないのだから、これはこれで良いのかもしれない。複雑ながらもこの時初めて、そう思えた気がした。
大阪2日目。
その昼公演と夜公演の間、約2時間の休憩時間。
仲森は来月から撮影が始まるドラマの台本を読み込み、神田は会場を散歩しに行き、西園寺は夜公演の髪型をどうするか思案している。
郁斗は寝ることにした。緊張と寝坊が怖くて眠りが浅くなり、コンサート期間中、いつもこの時間帯は眠気がマックスになるのだ。
一刻も早く眠りたいのに、郁斗は眠れずにいた。使う予定のソファーベッドに歩が座っていたので。しかも、こんなことを言い出した。
「ねえ、郁斗くん。……一緒に寝てくれない?」
無垢な瞳の、上目遣い。ざわめき出す心臓に、つっかえそうな言葉をどうにか引き出す。
「なんでよ、暑いじゃん」
「1人だと寝れる気がしなくて」
ステージに堂々と立っていた歩の顔色が良くない。今日の昼公演で、歩は歌唱の音程を大きく外した箇所があった。動揺からか、その後のダンスの振りに少しミスがあった。歌唱はともかく、ダンスはそれを言われるまで気づかなかったし、今日はテレビ関係のカメラもなかった。だから、それほど気にするほどのことでもないのだが。
けれど、過去自分も同じことをして、同じように落ち込んだ身からすれば「気にするな」と言った所で意味がないこともよく分かっていた。
「しゃーないなぁ。いいよ」
ソファーベッドの背もたれを倒し、その半分に寝ころんで空いたスペースをトントン、と叩く。
「ありがと、郁斗くん」
隣に寝る歩に背を向ける。少し窮屈だが、寝られない訳じゃない。寝がえりは打てないかもしれないけれど、そこまで深く眠るつもりはなかった。だから、どんな体勢で寝ようと問題はなかった。筈だった。
「え、ちょっと」
背後から腰を抱かれた。疑問を口にする前に歩の頭も、胴も、足の先に至るまで郁斗にピタリとくっついた。
「んー?」
「いや、何、この体勢?」
「ふふ……」
背中に歩の呼吸が触れる。半分眠っているようなその声に、何故か心臓がゾクリと痛んだ。
「郁斗くん、あったかいから」
郁斗をホールドしたままそう零す歩の手に触れると、氷のように冷たい。冬だからという理由では、決してないだろう。少し躊躇ってから歩の手を彼が眠るまで摩り続けた。
時折、2人の間から聞こえる衣擦れの音と歩の寝息が、妙に郁斗の耳に残った。
郁斗は珍しく、ぐっすりと眠ることができた。
後日、神田によっていつのまにか撮られたその映像がファンクラブコンテンツに上げられ、ドッキリ動画以上に反響があったのは言うまでもない。
夜公演は無事に終わり、大阪での公演はこれで終わりだ。
もっと、厳しい視線を向けられるものだと郁斗は思っていた。SNSでの苦言や中傷など嘘のように、ファンが向ける目は優しかった。SNSの呟きなど、全体のごく少数だと分かっていても、それを理解するのは容易くなかった。
歩も同じことを思えていたらいいな、と、同じ部屋の隣のベッドですやすやと眠る彼の寝顔を見ていて思った。
夜明け前、朝5時。連日の早起きのせいか、目覚ましの1時間半も早くに起きてしまった。カーテンをそっと開けて外の景色を望む。12月だからか、日はまだ昇っておらず車通りも少ない。
東京とあまり変わらない乱立するビル群を見ていると、その窓の数だけ人々の生活が存在することを思う。そして、この窓の数だけの人々を振り向かせるという決意を、燃え滾らせずにはいられない。
アイドルはきっと、人々の生活や人生を照らす存在だと、郁斗は思っている。どんな辛い日も、何もない日も、自分たちアイドルを見て笑顔になる人を拡げていくのだ、と。
「んー……郁斗くん?」
歩がベッドの中で身を捩らせ、頭まで被っていた寝具から顔を出した。ふわふわとした寝ぐせをつけたまま。微睡みの中にいても、綿毛がふわりと舞っていた。
「歩。まだ寝てて良いよ。疲れちゃうよ」
「うん……」
歩は再びベッドに埋もれていった。その姿が穴に入っていく兎のようで、かわいいと、思った。
無意識のうちに噛んでいた唇を解放し、部屋を無意味に見渡して気を紛らわした後、ベッドに戻った。
今日は午前中にチェックアウトを済ませたら、夕方に東京へと戻る。年上3人は別の仕事で早々に発ってしまうが、マネージャーの計らいで2人は観光する時間を設けてもらった。歩は当然のように郁斗を誘った。
どこに行くとも、まだ決めていない。舞台などで大阪に来たことは何度かあり、大体の観光地には行ってしまった。歩に案内しろと言われれば、してやれないこともない。
——結局、面倒みてやるんだから俺は……
目を閉じて深呼吸すると、いとも簡単に眠りにつけた。
良く晴れたお出かけ日和。賑わう街がよく見える。
「一度行ってみたかったんだよねえ」と連れてこられたのは108メートルの大阪のシンボルタワーだった。
賑やかな商店が並ぶ中にそびえ立ち、最近では新しいアトラクションが始まったらしく、賑やかさは劣るところを知らない。
「歩はココ来たことなかったの?」
「うん。俺んちはあんまり旅行とかしないから。中学の修学旅行は北海道だったし。わっ、すごい、願い叶えてくれるんだって」
金色に輝く神様の置物にいそいそと駆け寄った歩は、置物の足裏を丁寧に撫でる。その姿は真剣そのものだった。
「郁斗くんは?願わないの?」
「俺は前来た時に願ったからいいの」
郁斗はさっさと先を進み始めた。歩は慌てて追いかけてくる。
「え、何なに?何願ったの?」
「ナイショ~」
郁斗はその時願ったことを忘れたことはなかった。
——俺の存在で沢山の人が幸せになりますようにって
その願いは今、叶っているのだろうか。そしてこれからもずっと叶え続けられるのか。あまりにも他者にしか判断できない願いに、つくづくアイドルなのだと郁斗は思った。
歩のことだから「動物園に行きたい」と言い出すかと思ったが、そんなことはなかった。日本で2番目に高いビルの展望台行きチケットカウンターはスルーしてカフェで一息つくと、歩は機嫌よさそうにカプチーノを飲んでいる。
先ほど行ったシンボルタワーより遥かに高い所だが、歩はそれでいいのだろうか。高い所が好きなのか、そうでもないのか。この子はやっぱりよく分からない。
カフェの看板メニューのサンドイッチを頬張る歩。 口いっぱい頬張る歩は、さながらハムスターのようだった。郁斗は自分の皿に載ったショートケーキの、真ん中に居座るイチゴをフォークで刺した。
そのまま歩の前にイチゴを差し出す。
「ん」
「え?」
「あげる」
早く食え、と言う風にもう一度イチゴを近づけると、イチゴは歩の唇に触れ。歩は耳を赤らめ、視線を逸らした。
——……何で、そんな照れてんの?
言いかけて、止まった。フォークとイチゴ越しに伝わる唇の感触が、柔らかくて。
おずおずと開いた口から見えた歩の舌に、今度は郁斗が視線を逸らす。
何故か、郁斗は歩と同じような顔をしているような気がした。
それを確かめる勇気はなかったけれど。