「目の前で一枚だけ描いて欲しい」
「え?」
「ダメ、かな?」

 メグルは紙袋の中から、新しいスケッチブックを取り出して、一緒にえんぴつも並べた。

「これに。あ、写真は私が撮っておくから、スマホ貸してよ」

 いいとも、ダメとも答えていないのに、もう決まってることになったようだ。ダメと答えるつもりは元からなかったけど。

 新品のスケッチブックかと思えば、一番最初のページに犬とも猫とも、見える小さい動物が描かれている。横に「にゃあ」と書かれているから、多分猫だけど。

「あ、それは見ないで!」

 両手でパッとメグルが隠す。メグルの味のある絵が、素直に可愛い、と思った。

「可愛くていいじゃん」
「恥ずかしいから、早く次のページにして」
「えー?」
「あとスマホ、早く貸してよ」

 スケッチブックを一枚べらりとめくってから、俺に片手を突き出す。スマホのロックを解除して渡せば、カシャ、カシャと音を立てながら俺があげたスケッチブックの写真を撮り始めた。

「描かないの?」
「何を描くんだよ」

 答えてから、あの電車の中のメグルの照れた表情にしよう、と勝手に考える。残したい景色は全部、メグルだから。

 せっかくなら、海をバックに描こう。そう思った瞬間に、手は勝手に動き出す。シャッシャッとえんぴつが走る音と、波のざざんっという音だけが、重なり合う。

「見てて楽しいなぁ。ずっと、見ていたい」

 メグルの言葉が聞こえて、顔を上げたくなった。それでも、完成させる方を優先して手を動かす。いつもよりも筆が走るのは、実際にメグルが隣にいるからだろうか。

 

 カシャっという音がしなくなった頃、海の前で好きだと呟くメグルの絵は完成した。

「やっぱ、サトルの絵は優しいよ」
「優しい?」
「幸せな雰囲気がしてる」

 嬉しそうに、指でそっと撫でるから。背中がむずむずとしてきた。メグルとのデートをしにきたはずなのに、つい描くことに夢中になってしまった。ぐううと主張するお腹が、時間経過を責めたていている。

「ごはん、何食べよっか? やっぱ海鮮かな」
「メグルは海鮮好きなの?」
「大好き! マグロもエビも、ホタテも美味しいよね。サトルはあんまり海鮮って言わないけど」

 そりゃあそうだ。好きでも嫌いでもない。どちらかといえば、肉の方が嬉しい、くらいの位置付けだ。でも、メグルが好きだというのなら、今日からきっと好きになる。

 俺の選んできたものが、だんだんメグル基準になってきてることに気づいて、一人で嘲笑してしまう。恋にうつつを抜かしてバカみたいだ。でも、それが心地よい。

「写真は全部撮ったから……見るなら私がいない時にしてね!」
「なんでだよ」
「恥ずかしいから」

 きゃっとふざけたように、顔を手で覆う。それでも、本当にそれを望んでるのはわかったから、仕方なく頷いた。いない時。それは、メグルが消えた後、ということだろう。

 わかっているのに、ズキズキと胸の真ん中が痛む。一生、今日だったらいいのに。終わらなければいいのに。ずっと、手を繋いでいれたらいいのに。

「海鮮丼、食べに行こ!」

 メグルは俺の気持ちに気づいてか、気づいていないか、わからないけど、ぐいっと手を引っ張って立ち上がる。そして、大切そうに先ほどのスケッチブックと、えんぴつを紙袋にしまいこんだ。

 二人で先ほどの商業施設に戻れば、メグルはスマホで飲食店を調べる。たくさんの海鮮のお店が出てきたけど、何個も同じ名前だった。

 一番近い店に二人で向かえば、黒っぽい門がお出迎えをしてくれた。店の前のメニューには、うなぎや、そばとのセット、お寿司や、天丼まである。

「迷っちゃうねぇ」

 そういう割に、目は海鮮丼に釘付けだった。俺も、そんな横顔に目を奪われているけど。二人で入れば、食事をするには少し遅い時間になっていたらしい。人はまばらで、店内では微かな話し声だけが聞こえた。

 メニューをペラペラとめくりながらも、何度もメグルは海鮮丼のページに戻る。

「何と悩んでるの?」
「んー? 悩んでないよ、サトルはどれにするかな、って予想してた」
「そっちか!」

 ふふっと微笑んで、メグルは何度もメニューを行ったり来たりしている。俺の選ぶものなんて、もう決まっているんだけど。心が読めなくなったメグルは当てられるんだろうか?

 気になりつつも、黙って答えを待つ。

「せーので、指さそ!」
「いいよ」
「じゃあ、せーの!」

 メグルが開いたのは天丼のページで。俺は、海鮮丼とそばのセットを指さした。

「えっ、うっそぉ」

 メグルが二種類で悩んでるなら、もう片方を選ぶつもりだった。そうじゃないなら、同じものを味わいたかった。驚きながらも、メグルは「そっかぁ」と肩を落とす。もしかしたら、天丼も食べたかったのか?

「外しちゃったぁ」

 そっちに落ち込んでいたのかよ。

 どうしようもないやりとりなはずなのに、楽しくて仕方ないのは、相手がメグルだからだろう。店員さんに同じメニューを注文すれば「仲良しだね」というように、目配せをされた。

 仲良し、だよな。何十年と一緒にいる。

 メグルは、メニューを見るのを飽きたのか、ごくごくと水を飲み干し始める。喉が動く姿すら、目に焼き付けたいのは、もう変態くさい。自分でも、こんな自分にドン引きだ。

「サトルは海鮮食べないと思ったんだけどなぁ」
「せっかくだから、同じ味を味わってみたかったんだよ」
「そういうことね、今まで、同じもの注文したことないよね、私たち」

 好みの違いをキッパリと口にされたようで、胸が軋む。同じ好みだといいなと思ってるよ。誰よりもメグルに近い人でありたいから。でも、俺とメグルは育ってきた環境も、生きてきた日々も違う。

「でも、分け合えてよかったよね。それも」
「それも、そうだな」

 メグルの言葉に、ハッとする。俺らはだから毎回、一口交換をできていた。違う好みだからこそ、そんな楽しみがあったのか。実感していなかったけど……重ねてきた二人の時間を感じて、軋んだ胸は、和らいだ。

「お待たせいたしました」

 店員さんの言葉で目の前に、海鮮丼が並べられる。頭のついたエビ、マグロ、卵、カニやイカまで入ってた。豪華な海鮮丼に、メグルは目をキラキラとさせて両手を合わせる。

「いただきます!」

 嬉しそうに大きな口で頬張るから、つられて俺も「いただきます」と言ってから、海鮮丼に手をつけた。

 エビも、マグロも、あんまり好きじゃないと思っていた。それでも、エビは甘くて美味しいし、マグロはとろっととろけるようだ。メグルと同じ空間で食べているから、なのかもしれないが。この世で一番美味しい海鮮丼だと思った。

 そばつゆもほんのり甘くて、ネギの辛味と相まって美味しい。メグルは頬をゆるゆるにさせながら、一口一口味わっていた。俺もつられて、頬が緩む。

 同じ味を美味しく食べられてる、その事実だけで、胸がいっぱいだった。