猫みたいな君と、さよならばかりの夏休みを過ごす


 小樽旅行の日。昨日は考えすぎてあまり眠れなかった。身体がついムズムズとして動いてしまった。もし、メグルが今回も消えてしまうのだとしたら、俺は明日の朝一人で起きるんだろうか。答えは出ないけど、メグルを待ってる間中、考えてしまう。

 札幌駅の改札前は、多くの人が出ては、入ってを繰り返している。幸せそうなカップルも、何人も目に入って、メグルとの未来が、あの人たちのように来ればいいのにと願ってしまった。

「お、ま、た、せ!」

 どんっと背中に衝撃を受けて、振り返ればメグルが珍しく大きいリュックを背負っていた。短パンにTシャツというラフな格好ですら、可愛い。やっぱり、俺はどうかしてる。どんな姿でも、メグルだけ、他の人と違って輝いて見えてしまう。

「行こう?」

 当たり前のように、右手を差し出されて、恋人繋ぎのように指を絡める。それでも「消えないでくれ」と願う言葉は、口には出せなかった。

「小樽観光どこいきたい?」
「えー? 海、見る?」
「海、好きなの?」
「絵になる、かなぁって」

 俺と繋いだ手をブラブラと揺らしながら、メグルはキョロキョロ周りを見渡す。絵には、なるだろう。跳ね上がる水飛沫と、メグル。想像しただけで、絵が描けそうだった。

 改札を通り抜けて、小樽行きの快速エアポートのホームを探す。四番ホームの電光掲示板に小樽行きの文字を見つけて、メグルの手を引く。

「四番ホームだって」
「はいはーい」

 いつもと様子が違うのは、今日が最終日だって意識してるからだろうか。俺は、普通通りに笑えてる? メグルの不安を、増やしてない? 不安になりながらも、頭の中で考えを消す。考えないって決めたから。

 ホームに上がれば、電車はすでに停まっていた。エスカレーター付近はやっぱり混雑してるようで、座れそうな席はない。

「前の方行こうよ!」

 メグルの提案に頷いて、前の方へ向かえば二人で座れそうな席を見つけた。リュックを網棚の上に載せて、メグルがちょこんと座る。俺もその隣にリュックを置いて、メグルの横に座った。

「スケッチブック、書いてきた?」
「もちろん! ホテルに着いたら渡すよ」
「おう」

 ホテルは小樽築港駅から降りれば、すぐの商業複合施設の中に入ってると兄ちゃんが言っていた。荷物だけ先に預けて、近くの海まで歩く予定だ。

「小樽駅の方まで観光行く?」
「うーん、サトルはどうしたい?」

 こんな時まで俺のしたいことを確認するメグルに、少しだけもやっとする。最後くらい自分のやりたいこと、ワガママを言ってくれればいいのに。そんなに、俺は信用ないかと聞きたくなってしまった。

 メグルの顔を横から覗き込めば、違うことに気づく。メグルはもう何回も、繰り返してるからこそ俺の意見を聞きたいんだ。俺を振り回してるって自分で言っていたから……

「メグルがいいならいいよ。とりあえず海見てから考えよ」
「うん、そうしよー」

 発車の合図とともに、電車がゆっくりと進み出す。メグルはソワソワとして、振り返って大きな窓を見つめた。

「海、どれくらいで見えてくるかな」
「小樽は行ったことないの?」
「うん、行こうなんて思いつきもしなかった」
「水族館とかもあるのに?」

 不思議に思いながら問い掛ければ、メグルは小さく頷いて、照れたように目を伏せた。まっすぐな長いまつ毛を見つめてしまう。俺の視線に気付いたのか、両手でメグルは俺の眼を塞ぐ。

「見過ぎ! 溶けちゃう!」
「そんな見てないだろ」

 むくれて、窓の方に目を移せば、建物が通り過ぎていく。どんどん、どんどん、遠くに行くみたいで、寂しさが胸の中に広がった。

「札幌から出ようと思わなかったんだよね。だから札幌から出たらどうなるか、わかんないんだ」
「もう一人のメグルも札幌から出たことないってこと?」

 どうなるか、わからない。もし、予定よりも早く消えてしまったら。俺は、俺が軽率に誘ったせいでときっとずっと後悔する。不安が繋いだ手のひらから伝わってくるようで、背中がピリピリとした。だから、手を強く握りしめる。きっと大丈夫。消えることはない。

「うーん、小樽は行ったことないだけで、千歳とか、東京とかは行ってたはずだけどね。夏休み中は、札幌を出てないんだよねぇ」

 怖いのか、メグルの肩が微かに震えていた。だから、繋いだ手を引っ張って、自分の近くに引き寄せる。大丈夫。繋いでるから、俺が思ってるから、メグルを見つめてるから。消えないよ。

「あはは、サトルの方が不安になってやんの」
「そんな言い方されたら怖くもなるだろ」
「きっと大丈夫。だって、サトルの心臓の音まで聞こえてるもん」

 耳をそっと俺の胸にくっつけて、メグルは目を閉じる。窓から注ぎ込む光を浴びて、メグルの頬がきらりっと光って見えた。

「次は、ほしみ、ほしみ」

 電車のアナウンスに、出入り口を見つめる。札幌の郊外に来たようで、降りる人も、乗る人もまばらだ。メグルと繋いでる手はまだ、感触がある。

「次あたりから海見えるかな!」

 メグルの言葉に、頷いてから窓の外を見つめた。どんどんと移り変わっていく景色が、海を映し始める。波が寄せては返す様子に、息を呑む。海沿いのカフェや、サーフボードの置いてある民家。様々なものに目を奪われていれば、隣のメグルがわあっとも、おぉっとも取れる声を出した。

「すごいね、海の街って感じ」
「もう小樽入ったみたいだぞ」
「札幌出れたんだぁ……知らなかったなぁ」
「海もキレイだな」

 後悔するような切ない声色だから、つい、言葉を被せてしまった。メグルは俺の気持ちを察したのか、むふっと口元を緩める。そして、また俺の胸に頭を預けて、小声で喋り始めた。

「海は直接見るまであとは、お預けにしとこっと」
「楽しみってことでいいか?」
「楽しみじゃないことある? だって、彼氏との初めてのお泊まりだよ」

 今更な言葉に、俺の体温が上がる。彼氏と明確に言葉にされたことも、初めてのお泊まりという言葉にも。どちらにも緊張してしまった。急にガチガチに固まって、前を見つめる俺に、胸元でメグルはすりすりと頭を擦り付ける。

「いきなり緊張し始めてるー」
「しょうがないだろ!」
「今まで、好きだった子とか、付き合ってた子とかいなかったの?」

 聞かれて、考えてみたけど思い当たる人は、いない。初恋すら、まだだった。初めての恋で、初めての彼女だった。それを答えようとすれば、メグルはぱっと起き上がって、俺と反対方向を見つめる。

「やっぱ、答えなくていい!」
「なんでだよ」
「聞きたくない、聞きたくなーい!」

 手を繋いだまま、耳を塞ぎ始める。そんな姿すら、可愛くて、ぎゅっと握りしめた手を下ろさせた。

「いません」

 耳元で答えれば、「へ?」と不思議そうな声を出して、俺の方を見上げる。隣り合う席に座ってしまったせいで、やっと目が合った。
 
「好きな子も?」
「好きな子も、付き合った子も、メグルだけ」
「なにそれ、私だけ? やだ、嬉しい、いや、嬉しがっちゃダメ?」

 一人で舞い上がって、いきなりしゅんとする。初めての恋だから、傷が大きくなるとでも不安になってんだろうな、と想像がついて、メグルとの時間の濃さを実感した。最初はメグルに振り回されて始まった、二人の時間。それでも、日を追うごとに、心は読めないにしてもメグルの考えはなんとなくわかるようになってきた。

「喜んでいいんじゃない?」

 きっと、俺にとっては一生の初恋だ。永遠にメグルが心の中に居ると思う。そう言ったら重いかもしれないから、口にはしない。でも、喜んでくれそうだなとも思ってしまう。そのあと、今後を考えて悲しそうな顔で、「新しい人見つけるんだよ」とかも言いそうだ。

 俺の想像は、正解だったようで。

「でも、私が消えたら。早く新しい人見つけるんだよ」
「流石に怒るぞ」
「だって、恋の傷は恋で埋めるっていうでしょ」

 メグルの言葉に、ムッとして目を吊り上げる。しゅんっとした頭に、耳が一瞬見えた。犬系だと思うという言葉も、あながち間違いじゃない気がする。

「今は俺の彼女はメグルさんなんですが?」
「うっ、ごめんなさい」
「恋人としてデートしてるんですけど?」
「ごめんってば」
「もう言わない?」

 できるだけ優しい言葉で問い掛ければ、いつもの表情に戻る。猫みたいに気ままで、まんまるな目で、可愛い笑顔で。

「気をつけまーす」
「よろしい」
「ふふ、なんだかんだ、私に甘いよね」
「好きだからな」
「すぐそういうこと言う!」
「俺のこと好きじゃないの?」

 シュンっとしたふりをしてみれば、メグルは慌てたように口をあわあわと動かす。そんな姿に、意地悪心が少しだけ湧き上がった。

「好き、ですよ」

 掠れた裏返った声すら愛しくて、この一瞬を俺は、一生忘れないでいたいと思った。あとで、絵に描き残しておこう。メグルは、もしかしたら嫌がるかもしれないけど。

 記憶から消えないで、一生、俺の中に残ってくれればいい。そう願うほどに、残酷にも、時間の有限さを実感してしまう。

「あ、次、小樽築港駅だって」

 メグルは先ほどの言葉を掻き消すように、わざとらしく指さして呟く。俺は噛み締めたまま、メグルの手を引っ張った。

「海、見れるね」
「うん、荷物だけ、先に預けちゃおうか」
「そうしようか。リュック重い?」

 持とうかという意味で問い掛ければ、メグルは首を横に振る。強がってる様子もないから、俺は自分のリュックを片手に、メグルと繋いだ手は離さずに電車を降りた。

 ホームは潮風の匂いがして、海に来たことを実感させる。夏だと言うのに強い風が吹きつけて、顔を掠めていく。

「海の匂い」
「しょっぱいな」

 ふざければ、メグルはまんまるの目で、俺を見つめる。ふざせただけなのに。

「確かにしょっぱい気もする」

 頷いてくれるから、そんなことすら可愛くて胸がじんっとする。二人で駅の改札を抜ければ、大きな観覧車の横を通り抜けて、連絡通路がつながっている。どうやら、建物の外に出ることなく、ホテルに辿り着けるようだ。

 商業施設の中は、夏休みだからか子ども達の活気で賑わっていた。わーきゃーとはしゃぐ子どもにぶつからないように、まっすぐ進む。

 途中には、お寿司のパックや、焼き立てワッフルなど、おいしそうなメニューが並んでいた。甘いメイプルシロップの香りにつられて、メグルがフラフラと寄っていく。

「おいしそー」
「荷物置いたら、買いに来よっか」
「そうする! 早く行こ!」

 焦るように、急に走り出したメグルの後ろ姿を追いかける。今までのように生き急いでる走り方ではなく、純粋に待ちきれないと言う表情だった。走ることだけで不安になっていた、自分を恥じながら、足を早める。

 メガネ売り場の横に、ホテルの案内を見つけた。曲がって入れば、広い空間にキラキラと輝く照明。想像していたよりもしっかりとしたホテルの内装に、少しだけビビってしまう。兄ちゃんがプレゼントしてくれたとはいえ、高いホテルなんじゃないんだろうか。

 フロントに近寄れば、「いらっしゃいませ」と静かな声が空間にこだました。メグルと繋いでいた手を離して、兄ちゃんからもらった紙を渡す。

「ご予約の原田さまでございますね。お待ちしておりました」

 丁寧な言葉遣いに、どきんっと胸が脈打つ。ふぅっと深い息を吐き出してから、向き合えば優しい表情。

「荷物を先に預かってほしくて」
「かしこまりました。そのままお部屋の方にお持ちいたします。受付をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「お願いします」

 出された用紙に名前を記入していけば、受付のお姉さんは小さい番号が振られたプレートを手渡してくれた。受け取れば、メグルがちょこちょこと近づいてくる。

「私のもお願いします」
「承りました。お部屋のカギは十四時以降のお渡しとなりますので、近くの従業員にお声がけくださいませ」
「はい」

 軽くなった身体で、大きく頷けば、「いってらっしゃいませ」と爽やかな声が背中を押す。メグルが一瞬俺を見て、「行こう!」と手を引く。

 海に、メグルが気になってたワッフルに、色々楽しまなくちゃ。最後の日だと言うことは、今だけは忘れて。

 ホテルを出て、先ほどのワッフルの店へと戻る。メグルはショーケースの前で、どれにしようか悩み始めた。

「サトルはどれにするー?」
「メグルが食べたいやつ二つ選んでよ。半分こずつしよ」
「えー、じゃあイチゴと、クッキークリーム」

 店員さんが、にっこりと笑顔で二つ手渡してくれる。大事に両手で、持ちながらメグルは嬉しそうに飛び跳ねた。

「おいしそうだねー! せっかくだから、海見ながら食べよ? ダメ?」
「ダメなわけないだろ」

 それに……そんな可愛いお願いを断るわけないだろ。口にはできず、こくこくとただ頷いて、メグルと外に出る。すぐ目の前には、真っ青な海が広がっていた。近くにある公園が目に入る。

 滑り台の遊具や東屋もあるようで、ゆっくりと食べるにはぴったりだった。二人で道路を渡って、東屋のベンチに腰掛ける。

「まずはイチゴー!」

 嬉しそうにハムっと食べる姿は、猫というよりもハムスターみたいだ。クッキークリームは俺に渡してくれたけど、今は食べるよりもメグルを見つめていたかった。

 口の横にストロベリーソースをつけたまま、メグルは「ふぁに」と不満そうに口にする。慌ててクッキークリームを食べれば、甘いクリームとクッキーのジャリジャリ感が口の中に広がった。

「お返し!」

 そう言いながら、俺の唇を見つめる。気まずくて、顔を逸らせば「ほらぁ」と勝ち誇った声が聞こえた。勝ち誇るように言われても、嬉しくなってしまうのは、もうどうにもならない。

 一挙一動が、全てが、愛おしい。

「一口ちょーだい」
「はい」

 メグルの方を見ないようにしたまま、差し出せば、手をぐいっと引っ張られる。近い距離で目があって、身体全てが心臓になったみたいに、バクバクと脈打った。

「クッキークリームもおいしいね! はい、いちご!」

 口元までずいっとワッフルを近づけられて、一口。当たり前のようになってきた一口が、今どれだけ嬉しいか、メグルは知らない。

「おいしいでしょ?」
「うん、うまい」
「へへへ、私センスある!」

 本当にあるよ。あると思う。メグルが選んだものに、ハズレは今までひとつもなかった。俺は、全部好きだった。だから、感覚が近いんだよ。

 そこまで考えて、一人でメグルのことばかり考えている自分に、おかしくなった。頭がおかしくなったみたいだ。こんなに誰かを好きになって、脳みそを焼かれるくらい、誰かのことばかりを考えるようになるなんて。あの時の俺は、思いもしなかったな。

 ぺろりと平らげたメグルは、海の遠くをじっと見つめる。そして、「あっ」と声をあげて紙袋を取り出した。

「はい、写真撮って! あ、あと、一個だけお願いしてもいい?」

 唐突な提案に、驚きながらも頷く。メグルのお願いはなんでも叶えたかった。俺ができることであれば。波が寄せる音が響いて、潮風が前髪を吹き上げる。

「目の前で一枚だけ描いて欲しい」
「え?」
「ダメ、かな?」

 メグルは紙袋の中から、新しいスケッチブックを取り出して、一緒にえんぴつも並べた。

「これに。あ、写真は私が撮っておくから、スマホ貸してよ」

 いいとも、ダメとも答えていないのに、もう決まってることになったようだ。ダメと答えるつもりは元からなかったけど。

 新品のスケッチブックかと思えば、一番最初のページに犬とも猫とも、見える小さい動物が描かれている。横に「にゃあ」と書かれているから、多分猫だけど。

「あ、それは見ないで!」

 両手でパッとメグルが隠す。メグルの味のある絵が、素直に可愛い、と思った。

「可愛くていいじゃん」
「恥ずかしいから、早く次のページにして」
「えー?」
「あとスマホ、早く貸してよ」

 スケッチブックを一枚べらりとめくってから、俺に片手を突き出す。スマホのロックを解除して渡せば、カシャ、カシャと音を立てながら俺があげたスケッチブックの写真を撮り始めた。

「描かないの?」
「何を描くんだよ」

 答えてから、あの電車の中のメグルの照れた表情にしよう、と勝手に考える。残したい景色は全部、メグルだから。

 せっかくなら、海をバックに描こう。そう思った瞬間に、手は勝手に動き出す。シャッシャッとえんぴつが走る音と、波のざざんっという音だけが、重なり合う。

「見てて楽しいなぁ。ずっと、見ていたい」

 メグルの言葉が聞こえて、顔を上げたくなった。それでも、完成させる方を優先して手を動かす。いつもよりも筆が走るのは、実際にメグルが隣にいるからだろうか。

 

 カシャっという音がしなくなった頃、海の前で好きだと呟くメグルの絵は完成した。

「やっぱ、サトルの絵は優しいよ」
「優しい?」
「幸せな雰囲気がしてる」

 嬉しそうに、指でそっと撫でるから。背中がむずむずとしてきた。メグルとのデートをしにきたはずなのに、つい描くことに夢中になってしまった。ぐううと主張するお腹が、時間経過を責めたていている。

「ごはん、何食べよっか? やっぱ海鮮かな」
「メグルは海鮮好きなの?」
「大好き! マグロもエビも、ホタテも美味しいよね。サトルはあんまり海鮮って言わないけど」

 そりゃあそうだ。好きでも嫌いでもない。どちらかといえば、肉の方が嬉しい、くらいの位置付けだ。でも、メグルが好きだというのなら、今日からきっと好きになる。

 俺の選んできたものが、だんだんメグル基準になってきてることに気づいて、一人で嘲笑してしまう。恋にうつつを抜かしてバカみたいだ。でも、それが心地よい。

「写真は全部撮ったから……見るなら私がいない時にしてね!」
「なんでだよ」
「恥ずかしいから」

 きゃっとふざけたように、顔を手で覆う。それでも、本当にそれを望んでるのはわかったから、仕方なく頷いた。いない時。それは、メグルが消えた後、ということだろう。

 わかっているのに、ズキズキと胸の真ん中が痛む。一生、今日だったらいいのに。終わらなければいいのに。ずっと、手を繋いでいれたらいいのに。

「海鮮丼、食べに行こ!」

 メグルは俺の気持ちに気づいてか、気づいていないか、わからないけど、ぐいっと手を引っ張って立ち上がる。そして、大切そうに先ほどのスケッチブックと、えんぴつを紙袋にしまいこんだ。

 二人で先ほどの商業施設に戻れば、メグルはスマホで飲食店を調べる。たくさんの海鮮のお店が出てきたけど、何個も同じ名前だった。

 一番近い店に二人で向かえば、黒っぽい門がお出迎えをしてくれた。店の前のメニューには、うなぎや、そばとのセット、お寿司や、天丼まである。

「迷っちゃうねぇ」

 そういう割に、目は海鮮丼に釘付けだった。俺も、そんな横顔に目を奪われているけど。二人で入れば、食事をするには少し遅い時間になっていたらしい。人はまばらで、店内では微かな話し声だけが聞こえた。

 メニューをペラペラとめくりながらも、何度もメグルは海鮮丼のページに戻る。

「何と悩んでるの?」
「んー? 悩んでないよ、サトルはどれにするかな、って予想してた」
「そっちか!」

 ふふっと微笑んで、メグルは何度もメニューを行ったり来たりしている。俺の選ぶものなんて、もう決まっているんだけど。心が読めなくなったメグルは当てられるんだろうか?

 気になりつつも、黙って答えを待つ。

「せーので、指さそ!」
「いいよ」
「じゃあ、せーの!」

 メグルが開いたのは天丼のページで。俺は、海鮮丼とそばのセットを指さした。

「えっ、うっそぉ」

 メグルが二種類で悩んでるなら、もう片方を選ぶつもりだった。そうじゃないなら、同じものを味わいたかった。驚きながらも、メグルは「そっかぁ」と肩を落とす。もしかしたら、天丼も食べたかったのか?

「外しちゃったぁ」

 そっちに落ち込んでいたのかよ。

 どうしようもないやりとりなはずなのに、楽しくて仕方ないのは、相手がメグルだからだろう。店員さんに同じメニューを注文すれば「仲良しだね」というように、目配せをされた。

 仲良し、だよな。何十年と一緒にいる。

 メグルは、メニューを見るのを飽きたのか、ごくごくと水を飲み干し始める。喉が動く姿すら、目に焼き付けたいのは、もう変態くさい。自分でも、こんな自分にドン引きだ。

「サトルは海鮮食べないと思ったんだけどなぁ」
「せっかくだから、同じ味を味わってみたかったんだよ」
「そういうことね、今まで、同じもの注文したことないよね、私たち」

 好みの違いをキッパリと口にされたようで、胸が軋む。同じ好みだといいなと思ってるよ。誰よりもメグルに近い人でありたいから。でも、俺とメグルは育ってきた環境も、生きてきた日々も違う。

「でも、分け合えてよかったよね。それも」
「それも、そうだな」

 メグルの言葉に、ハッとする。俺らはだから毎回、一口交換をできていた。違う好みだからこそ、そんな楽しみがあったのか。実感していなかったけど……重ねてきた二人の時間を感じて、軋んだ胸は、和らいだ。

「お待たせいたしました」

 店員さんの言葉で目の前に、海鮮丼が並べられる。頭のついたエビ、マグロ、卵、カニやイカまで入ってた。豪華な海鮮丼に、メグルは目をキラキラとさせて両手を合わせる。

「いただきます!」

 嬉しそうに大きな口で頬張るから、つられて俺も「いただきます」と言ってから、海鮮丼に手をつけた。

 エビも、マグロも、あんまり好きじゃないと思っていた。それでも、エビは甘くて美味しいし、マグロはとろっととろけるようだ。メグルと同じ空間で食べているから、なのかもしれないが。この世で一番美味しい海鮮丼だと思った。

 そばつゆもほんのり甘くて、ネギの辛味と相まって美味しい。メグルは頬をゆるゆるにさせながら、一口一口味わっていた。俺もつられて、頬が緩む。

 同じ味を美味しく食べられてる、その事実だけで、胸がいっぱいだった。


 ご飯を食べ終わり、ホテルに戻れば準備が終わっていたようだ。用意されていたのはダブルベットの部屋で、さすがに兄ちゃんにやりすぎだよと言いたくなった。

 メグルはためらいなく、ベッドにダイビングする。そして、俺の方を振り返って、隣をトントンっと叩いた。

「気持ちいいよ?」

 湧き上がってきた邪な気持ちを抑えながら、少しだけ離れて寝転がる。ふわふわの布団に、厚めの枕。確かに、気持ちいいベッドだ。

 メグルがごろんっと転がって、太ももが触れた。冷たい感触に、涙が出そうになるのを堪える。メグルが本当に、この後消えてしまうことを……まるで俺に伝えてるみたいで、悔しかった。

 真っ白な天井を見上げて、涙を飲み込めば、お腹の上にメグルが頭を乗せてくる。

「二人でお泊まりとかドキドキしちゃうね!」
「ドキドキしちゃう子が、そんな行動取るか!」

 頭をぐりぐりと撫でれば、「えへへ」と声に出しながらメグルは笑う。メグルの重みに、ここにメグルがいることを実感する。そっと手を伸ばせば、メグルはハグだと思ったのか、上に登ってきて俺の腕の中に収まった。

 ぎゅっと抱きしめれば、抱きしめ返される。

「サトルは、あったかいね」
「そうだな」
「心臓バクバクしてるよ?」

 俺の胸に耳を当てて、メグルは小さく呼吸をする。心臓の音に合わせるように、俺の胸を小さく、トントンっと叩く。メグルの小さな手に、眠気が襲ってきた。

「眠くなった?」
「お腹いっぱいになったから、かな」

 うとうととすれば、メグルはますます寝かしつけようと布団を引っ張って俺の上にかける。そして横で、何度も胸をトントンっと叩いた。懐かしい、親に寝かしつけてもらっていた小さい頃の、気持ちを思い出した。

「おやすみ、サトル」

 まだ、寝たくない。話したいことも、見ていたいことも、たくさんあるはずなのに。昨日眠れなかったせいか、あまりにも眠すぎて、抗えない。こんなことなら、昨日ちゃんと寝ておけばよかったのに。

 落ちていく世界の中で、メグルの優しい声だけが、脳に響いていた。

 * * *

 窓からは夜が、入り込んでいる。ハッとしてスマホの時計を見れば、まだ時間は今日だった。でも、メグルがどこにもいない。リュックはあるのに、あの紙袋も、いつも持っているポシェットも。

 カードキーをポケットに突っ込んで、部屋を飛び出す。どこに向かえばいいかなんて、見当もつかなかった。

 外に出て、お昼に訪れた公園に足が向く。どうしてだか、メグルは海にいるような予感がした。そして、正解だったらしい。

 ざぶんっという海の音の前で、メグルはまっすぐに地平線を見つめている。

「風邪引くよ」

 近づいて声を掛ければ、メグルは一瞬息を飲み込んだ。そして、ふふっと笑う。

「起きちゃったんだ」
「起きちゃったね、残念ながら」

 二人でコンクリートの上に腰掛けて、寄せては返す波を見つめる。後少しで、メグルは消えてしまう。それは、あの日に戻るのか、本当に消えてしまうのか。俺には、分かりようがないけど。

 右手を掴めば、ひんやりと冷えた感触に、物悲しさが迫り上がってきた。

「初めて海が見れたの。このまま目に焼き付けたいと思って、気づいたら、ここにいた」
「初めて、だったの?」
「本物の私の記憶はあるよ、海に行った記憶。でも、私は、初めての海」

 しっとりとした声で、ただ、海を見つめたままメグルは呟く。

「私はどこまで行っても、本物の未練でしかないんだぁ。サトルと離れたくないなぁって、このまま時間が止まればいいなぁって願ってしまった、未練なの」

 ぐっと喉を詰まらせて、メグルが言葉にするから。抱きしめたくなった。未練だろうとなんだろうと、俺は目の前のメグルが好きだ。二人の時間が一生止まればいい。メグル一人で消えさせるくらいなら、俺も一緒に消えればいい。

 でも、きっとそうはならない。

 わかってるから、何も答えられなくて、ただ、抱きしめた。

「サトルはいっつも、あったかいね」
「そうだな」

 俺の影だけが、伸びて、メグルの足元には何もない。今まで、当たり前のことに気づけなかった。それでも、そんなことどうでもよかった。

「でもね、サトルが覚えててくれたこと、嬉しかったの。いつも、思い出してって必死に記憶をなぞって、今のサトルは前のサトルじゃないから無理かって諦めてた」
「待たせて、ごめん」
「謝らせたいわけじゃないんだよなぁ」

 震える声に、抱き寄せる力を強めた。メグルのループは、これで終わってしまうんだろうか。メグルは、どちらの方が幸せだったんだろう。俺が思い出さないまま、何度も、メグルのことを知らない俺と出会いを繰り返す。その方が幸せだった?

「サトルと出会えて、覚えててくれて、本当の恋人みたいになって、幸せだったよ」
「これからも、幸せになれるよ」
「またそんな、奇跡を願ってるの?」

 メグルは、小さく笑って涙を一粒、砂浜に溢れ落とした。メグルが眠ってるなら、俺が起こす。童話の王子様にはきっとなれないけど、メグルともう一度会えるならなんだってできるから。

「あとちょっとかぁ。楽しい夏休みだったね」
「メグルは、終わらない方が良かった?」
「さぁ、どっちだろうね」

 星が瞬いて、あまりの眩しさに視界がぼやけた。メグルが消えてしまうことに、痛む胸を押さえつけて、気づかないふりをする。

「ね、サトルは楽しかった?」
「めっちゃ、楽しかったよ」
「したっけさ、忘れないよね」
「忘れるわけないべ」

 当たり前だ。メグルは俺の中で一生で一度の恋人だから。俺の未来で隣に居るのも、メグルだ。何をしても、メグルがいない未来を俺は覆す。

「そろそろ、時間かな。夏休みだけでも、幸せだったよ」

 ぽつり、とこぼすように呟いてメグルが立ち上がる。海にそのまま入っていってしまう気がして、右手を引っ張った。よろめくメグルを抱きとめれば、頬がぶつかりそうなくらい近づく。

 そのまま、キスをすればメグルは目を見開いてから、ちっちゃく笑った。

「初めてなんだけど?」
「忘れられないだろ、さすがに」
「忘れられなくなっちゃった」

 くすくすと笑ってるくせに、瞳からはポロポロと涙をこぼす。そして、俺をドンっと突き放して、走り出す。

 追いかけたかった。それでも、メグルは消えていくのを見られたくないから、俺から逃げたのがわかったから立ち上がれない。

 ただ、夜の海を目に映して、涙を飲み込む。気が狂いそうなくらい好きだ。メグルのことが、好きで好きでたまらないよ。

 朝日を浴びながら、一人で電車に乗り込む。メグルとのやりとりは全て消えたし、メッセージの友だち欄にも居なくなった。

 本当に消えるんだな、跡形もなく。そう思いながら、電車の中でカメラロールを開いた。メグルが写真に残していた俺の絵には、たくさんメグルの思い出が綴られている。

 一枚、一枚、記憶をなぞるようにスクロールしていく。一番最後の写真は、俺の絵ではなかった。メグルの下手くそな自画像。

 つい口元が緩んで、拡大してしまう。細かな文字で、俺への感謝の言葉が綴られていた。

――出会ってくれて、ありがとう。サトルが覚えていてくれたから、もう、私は消えるタイミングだったんだと思う。何十年と繰り返した夏休み、すっごく楽しかった!

 覚悟を決めていたことを、そんな文字で知りたくなかった。人目も気にせず、こぼれ落ちる涙をそのままに、文字を目で追う。メグルが残した言葉を、無くしたくなかった。いつか、この文字も消えてしまうんだろうか。

 それは、嫌だなと思った。

――サトルの記憶に残っていられたら、私はサトルの中で生きているからそれでもいいと、思えたの。ちゃんと、夢を追いかけてね。やっと、やっと、サトルの夢を応援できる。夢を追いかけてるサトルは離れていくのではなくて、私を心に住ませてくれて、一緒に進んでいくってわかったから。

 メグルの言葉に、喉の奥がぐわりっと締め付けられた。俺はいつだってメグルを描くよ。それが、どんな形であろうと、未来に残ればいい。そして、もう一人のメグルが……思い出して、メグルが起きたら、一番良いと思った。

 そんな奇跡を起こせるなら、他には何もいらない。俺は、メグルのために奇跡を起こすよ。何をしても。

 カバンに忍ばせていたメモ帳に、ボールペンで海を眺めるメグルを描き残す。そして、スマホで写真に撮って、SNSに上げた。

「猫みたいな君と、さよならばかりの夏休みだった」

 そんなタイトルをつけて。

 *  *  *

 夏休みが終わっても、周りは変わらない。でも、少しずつクラスメイトと会話をできるようになったし、同じように絵を描いてる友人もできた。

 メグルの制服が、もう一人のメグルの名残だとしたら。きっと、駅で会えるような予感がしてる。そんな、日々の中だった。

「じゃあ、また明日なー!」

 そんな挨拶もできるような知り合いも、増えた。手を振ってお互いのホームに、歩いていく。あの日もこんな暑い日だった。九月に入ったというのに、残暑は厳しく、あの日を思い出させる暑さだ。

 電車を待つためにベンチに座れば、ホームをあの日のみたらし色した猫が、トタトタと歩いているのが目に入った。電車が好きな猫なのかもしれない。

 毎回、ここを歩いてるとは。

 危ないからと、手を伸ばせば、細い白い手が重なった。俺より、ちょっとだけ早く猫を掴み上げたその人は、聞き覚えのある声で猫に話しかける。

「危ないにゃあ、って、あっ」
「そいつ、電車好きの猫みたいで」
「そう、なんですね」

 ためらいがちに、目を伏せた仕草に、胸が激しく脈打つ。

「原田サトルです。覚えてると書いて、サトル。君の名前は?」
「え、私は……」
「ごめんごめん、良かったら猫の話でもしない? 猫が繋いだ縁、ってことで」

 困ったように、まんまるな目を見開いて、少しだけ口元を緩める。

「上月巡子、でも、ジュンコって、古くてあまり好きじゃないの。友だちは、メグル、とか、メグちゃんって呼んでます」

 そっか。君の本名は、メグルじゃなかったのか。今更知ったけど。でも、メグルがちゃんと居る。そこに、メグルが居る。

「メグル、って呼ぼうかな。甘いもの、好き? オススメのカフェでもあるんだけど、時間があれば、付き合ってくれない?」
「えっと」
「猫抱えたまま、電車も乗れないし。一回、出ようよ」

 畳み掛けるように口にすれば、メグルは小さく頷く。起きてよ、メグル。早く、起きて。思い出して、俺のこと。

 こんな日々をメグルは、繰り返していたのか。気が遠くなるほど、何回も、何回も。今度は俺が思い出すまで、繰り返そう。

「実は俺心が読めてさ、きっと、メグルは……アイスキャラメルマキアートとか、好きでしょ?」
「確かに、好きだけど」
「あとは、猫が好きで、パンケーキとか、はちみつが好き」

 こくん、こくんと首を縦に振る。心が読めるんだって、メグルと同じ言葉が勝手に口からこぼれ出た。俺が描いた絵が、奇跡を起こしたらいいな。そしたらすぐ、おはようって言うんだ。思い出した? って。

 時間はまだまだある。急がなくてもいい。

 戸惑うメグルの手を引いて、光で照らされる階段をゆっくりと降りた。

<了>

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