わたしのたまごだったセカイ

 下駄箱を開けると、そこに靴がなかった。

「あ、あれ?」

 意味もなくいったん閉めて、また開ける。結果は変わらない。

「どうした? 羽鶴」

 普通に下駄箱から外靴を出した就也が訊いた。

「わたしの靴……ないの」
「えっ? ……本当だ、ないな……」

 就也が確かめて、呆然と言った。
 どうしよう。これから演劇部の部活なのに。
 体育館兼講堂へはグラウンドを突っ切るのが早道だ。
 本来は渡り廊下を使うんだけど、時間がかかりすぎてしまう。上履きじゃ靴の裏が砂だらけになって、講堂の床が汚れちゃう。

「就也、羽鶴。なにグズグズしてんの」

 沈んだ気持ちになっていると、成実が呼んだ。剣呑さを含ませた声音が少し怖い。

 ……昨日のオーディションの結果発表から、成実はずっとこんな調子で接してくる。

 あの後、成実は無言で教室を出ていった。いつも一緒に下校するのに。

「ちょっと待てよ。羽鶴の外靴がないんだ」

 とうに靴を履き替え、昇降口のガラス扉に手をかける成実が鼻を鳴らした。

「へぇ。……呪われたんじゃない?」

 冷たい声で吐き捨て、成実はさっさと歩いていった。
 ガラス越しに、長い髪を揺らしてまっすぐに講堂に向かうのが見える。

 成実に、置いてかれた……。

 わたしがうつむくと、頭の上で就也が言った。

「しょうがないな、あいつ。羽鶴、気にするなよ」

 そう言ってわたしの頭を撫でる。就也の手は、あったかかった。

「今はちょっと、気持ちに整理がつかないだけだと思う。時間が経ったら、またいつもの成実に戻るさ」

 就也が、甘い笑顔と力強い声でわたしを元気づけてくれた。泣きそうになる。
 靴も一緒に探してくれると言ってくれた、けど。

「先に行ってて。ひとりで探すから」
「え、でも」
「いいから。わたしのことは気にしないで」

 就也は遠慮したけど、付き合わせて遅刻させるのは忍びない。
 最後までわたしを気にしてくれながら、就也は講堂に向かった。

(優しいなぁ、就也)

 胸の中があたたかいもので満ちる。少し心臓がドキドキしていた。
 勝手に頬が火照るのを感じながら靴を探す。
 もしかしたら間違えて持っていかれたんじゃないかと他の下駄箱も開けたけど、その様子はない。
 時間が経つにつれて、妙な焦りが生まれる。

 ――「呪われたんじゃない?」

 成実の言葉が思い浮かぶ。これは〈カナコちゃんの呪い〉のことだ。


 カナコちゃんに呪われるのは、
 夢が叶った生徒。
 カナコちゃんに呪われたら、
 ――持ちものが、なくなる。


 この話を聞いた時、なんてくだらない……というか、みみっちい呪いだろうって拍子抜けした。
 怪我をするとか死ぬとかならともかく、持ちものがなくなるなんて。「だから何なの?」って思った。
 でも、いざ自分の持ちものがなくなると結構困る。特にこういう時は。

(まあ、呪いのはずないよね)

 きっと何かの間違いだ。そう思って探し続けるけど、一向に見つからない。

 もしかして捨てられた?
 誰かのイタズラを疑って、下駄箱近くのゴミ箱をのぞいた。
 甘ったるい臭気が鼻を刺す。丸めたプリントやジュースの紙パック、ペットボトル……この下にあったりして。
 もっと深く探そうとした時だ。

「――そんなところにはない」

 背後から声が飛んできた。
 静かだけどハッキリ通る声音。聞き覚えがある。
 あの人だ。結果発表の日に見た、背の高い三年生の男子生徒。
 鞄の他にブックバンドでまとめた数冊の本を抱えて、胸ポケットにはあの万年筆がささっている。
 彼……と呼ぶと失礼かもだけど、彼はゆっくり近づいて、わたしが外したゴミ箱のフタを元に戻した。

(うわわ、近くで見ると肌白っ)

 頭の中に、いろんなアニメのクール系美青年キャラが次々と浮かぶ。
 モロにそんな雰囲気の彼は、わたしに「こっち」と短く命じると、昇降口とは逆方向に歩を進めた。
 ついていくと、校舎の裏庭に出るドアが見えてきた。彼は何のためらいもなく、上履きのまま外に出る。
 北風が頬をなぶり、身震いした。わたしが「寒っ!」と口にしても彼は無言だった。寒さなんか感じてないみたいに。
 常緑樹が並ぶ裏庭の一角。真っ黒な焼却炉がでんと構えていた。彼はやはり躊躇せず、そのフタを開ける。

 束ねた藁半紙や燃えるゴミの上に、ちょこんと靴が乗っかっていた。
 しかも二足。黒いスニーカーはわたしのだ。

 彼は、よく磨かれた革のローファーを拾い上げ、何の感慨もなさそうに靴を替える。
 ……そして特にわたしに何も言わず、校舎に戻ろうとした。
 つい、話しかけてしまった。

「あっ、あの、どうしてココにあるって分かったんですか?」

 彼は顔だけ向けた。妙に迫力がある。

「……みんな、考えることは一緒だからな」

 一月の空っ風によく合う、冷静沈着な答え、まなざし。
 わたしはしばらくの間、動けなかった。
 講堂に着くと、わたし以外の部員はみんな集まっていた。

(あれ? 三年の先輩たちもいる)

 受験のために夏休み前に引退した三年生たちもいて、いつもより賑やかだ。
 舞台下に可動式のホワイトボードを置いて、その前で体育座りをして各自おしゃべりに興じている。
 それでも人数は十五人にも満たない。二年生は十人近くいるけど、一年生なんてわたしと成実と就也の三人だけだ。

 そういえば今日は大事なミーティングだって言ってたっけ――そう考えた時、ふと、最前列に座る成実と目が合った。

 けれどすぐにそらされ、背を向けられる……いつもなら、笑って手招きしてくれるのに。
 胃がぎゅっと縮むのを感じた。

 仕方なくすみっこに座ると、近くにいた二年生の織屋先輩が、

「はづるん。成実ちゃんと何かあったの?」

 そう訊いてきた。
 わたしは曖昧にごまかすしかなかった。

「時間になったので始めるよー」

 部長の板山(いたやま)先輩が号令をかける。
 その隣には、三年生の香西(かさい)皐平(こうへい)先輩がいた。
 分厚い眼鏡をかけて少し神経質そうに見えるけど、人望の厚い元部長だ。舞台の監督や演出も兼任していた。

「みんな久しぶり。元気だったかな?」

 香西部長……じゃなくて、香西先輩が明朗な調子で尋ねると、口々に返事が飛ぶ。

「今日は、三月にある卒業式公演の話をしにきたんだけど……覚えてた人、いる?」

 しーん、と静まりかえる。
 香西先輩は苦笑いした。

「まじかー。ゆるゆる部活でも覚えておいてほしかったな。一応、秋の文化祭公演と並んで、我が演劇部の二大イベントなんだけど」

(そこは全国大会とかじゃないんだ……)

 毎年夏に全国高等学校演劇大会というのがあるけど、この部は地区大会にすら出ようとしない。
 入部した直後に年間スケジュールを見た時、予定らしい予定がなくてすごくびっくりした。特に成実が。

「簡単に説明するよ。卒業式で、送辞と答辞の間に軽演劇をします。演目はオリジナル脚本の十分程度の短編。これはうちの伝統行事です」

 二年生のひとりが、手を上げた。

「伝統行事なんですか? 去年そんなのやった覚えがありませんけど」
「それは君たちが、一年生トリオと同じく今年度の四月から入部したから。やった覚えがないのは当然だね。そして去年の卒業式は人手が足りなくて中止になった」

 そういえば、そのあたりのことも最初の頃に聞いた。
 今の二年生は、全員内申書に『部活動経験あり』って書くためだけに入部したんだって。
 でも、この学校ではそういうのは珍しくなくて、むしろ純粋に演劇目的で入部したわたしたちのがレアなんだと香西先輩が言ってた。
 ――「だから歓迎するよ!」
 四月の桜散る頃。香西先輩が笑顔でわたしたちに言ってくれたことを思い出す。
 香西先輩は演劇が好きなんだなってよく分かった。

「でも今年は、声優志望の一年生トリオがいるからね。喜多くん、南野さん、小山内さん、よろしく頼むよ」

 急に話を振られて、焦った。
「はい!」と就也。
「……はい」と成実。
「は、はいっ」
 一拍遅れてから返事をする。少しどもっちゃった。
 就也はにこやかだけど、成実はふてくされた態度だった。

 成実は、この演劇部が嫌いだから。
 事あるごとに「超がっかり。っていうか裏切られた気分」「演劇の強豪校だって聞いたから、頑張って入学したのに」って愚痴る。
 ……何より、わたしのこともあるのだろう。
 またおなかがギュッとなった時、背後からドアが開く音がした。
 顧問の先生かなと思って振り向くと、

「あっ」

 講堂に入ってきたその人と、同時に声を上げる。
 スラリとした背格好、甘さの少ないシャープな顔立ち。ブレザーの胸ポケットの万年筆。
 さっき一緒に靴を探した、あの三年生の男子生徒だった。
 隣にいる織屋先輩が「うわっ、顔がいい」と息を呑み、女子からざわめきが起こる。

「小山内さん、雛田(ひなた)と知り合い?」
「えっ?」

 みんなが一斉にわたしに注目する。

「さっき、ふたりとも『あっ』って言ったよね」

 香西先輩めざとすぎっ。

「さっき、ちょっとな」

 低い声で、雛田と呼ばれた先輩が簡潔に言った。

「ふうん。――遅かったね。何かあった?」
「電話がかかってきた」
「へえ。ディレクターさんから?」

 聞き慣れない単語に、頭にハテナが浮かんだ時だった。

「うそっ、もしかして雛田(はやて)さん!?」

 成実が立ち上がって大声を上げた。わたしからは背中しか見えないけど、興奮しているのが分かった。

「テレビ夕陽(ゆうひ)の、シナリオ新人賞で大賞とった人ですよね! 帝都(ていと)チカヤ主演で映像化されるやつ!」

 誰もが知ってるテレビ局と男性アイドルの名前が出てきて、一気に場の空気がアツくなる。

「えぇええええ! まじ!?」
「チカやんがSNSで言ってたやつ!?」
「ネットで史上初の高校生受賞者って話題になってたけど、うちの高校のやつだったの!?」

 さっきまでこっそりスマホをいじっていた人も、居眠りしかけてた人も、みんな一様に驚いている。
 わたしは驚きすぎて声も上げられなかった。

(そんなすごい人だったの……?)

 チープな感想しか浮かばない。
 当の雛田先輩はうるさそうに耳を撫でた。こんなに歓声を浴びてるのに、どうでもいいみたいに。
 香西先輩が手を叩いて、場を鎮める。

「紹介する前にうっかりバレちゃったな。――改めて、こちらは雛田颯くん。うちの元部員で、南野さんの言うとおり、テレビ夕陽シナリオ新人賞の今年の大賞受賞者だよ」

 おおー、とざわめきが起こる。

「でも、できればこれはオフレコにしてほしいな。今は三年生が大事な時期だから、なるべく刺激しない方がいいって先生方の意見なんだ。雛田も卒業するまでは騒がれたくないって。そうだよね」
「まあな」

 雛田先輩が短く答える。
 ……言っちゃ悪いけど、無愛想な人だなぁ。さっきは親切だったのに、ちょっと怖いかも。

「だから演劇部以外の人には言わないでほしい。もちろんSNSに書き込むのもやめてやってね」

 隣の織屋先輩が、ギクッと身体をこわばらせるのが分かった。
 こそこそSNSのアプリを開いてるなと思ったら。そういえばこの先輩、ミーハー気質のオタクだった。
 成実が「分かりました」と答える。それでみんな、了承したようだ。

「ありがとう。――ほら、雛田もお礼言って」
「なんで俺が」
「礼儀は大切。演劇の基本だろ」
「……」

 雛田先輩はばつが悪そうに、「よろしく」と言った。お礼……ではないような。
 香西先輩は軽くため息をつくと、パッと切り替えた。

「さて本題。雛田は今年の答辞担当なんだ。だから劇との兼ね合いもあるから、ちょくちょく顔を合わせると思う」

「すごいね。答辞って学年主席がやるんでしょ?」

 織屋先輩がこっそり話しかけてきた。

「頭いいんですね……」

 シナリオの賞ってことは、脚本家? 高校生で?
 すごいなぁ。才能があって頭もよくて、おまけにあんなにかっこいいなんて。本気でアニメの中の人みたい。

(生きる世界が違うって感じ……)

 そして、香西先輩が卒業式当日の簡単な流れと、軽演劇の内容について説明する。
 台本も配られた。十ページほどのペラペラの台本は、内容も「みんなで夢を叶えよう」とペラペラだった。
 雛田先輩はずっと険しい表情で、何ひとつ口を挟まなかった。機嫌が悪そうに見える。

「ねー部長、練習ってどうなんの?」
「俺、バイトあるからさ、放課後居残りとか無理なんだけど」
「私も予備校が……」

 二年生から質問が飛ぶと、板山部長は両手を振った。

「大丈夫だよ! 見てのとおりの短い劇だから、特に練習はいらないよ。軽く読み合わせをして、動きを決めて、前日に通しでやるくらいだから!」

 そんな説明をされた後、成実の方を見ると……じっと床を見つめていた。
 明らかに不機嫌そうだ。二年生の態度と、「特に練習はいらない」が勘に障ったのだろう。

(あれ?)

 気のせいかな……雛田先輩も、眉間の皺が深くなった気がする。
 雛田先輩の隣でずっとニコニコしてる香西先輩が、板山部長の肩を叩いた。

「うちの演劇部、今はこんなゆるふわだけど、昔は全国大会常連の強豪校だったんだよ。面目躍如、頑張ってくれよ」
「不安……しかないです」

 板山部長は完全な『名前だけ』部長だ。文化祭の公演も、香西先輩が仕切った。既に引退していたのに。
 大丈夫大丈夫、と香西先輩が優しく繰り返して、板山部長が顔を上げた時だった。

「――そう思うんならやめろ」
 氷の針みたいな、冷たい声がした。
 雛田先輩だった。その声に違わず冷たい目線を板山部長に向けている。

「ロクに練習する気もない、真剣に舞台を作り上げる気もない。だったらやらない方が遥かにマシだ」

 雛田先輩がわたしたちを見下ろす。
 その瞳の色は言葉に代えると――『軽蔑』だった。

「雛田!」

 香西先輩が諫めるけど、雛田先輩はなおも続ける。

「去年みたいに中止にすればいいんじゃないのか。こんなやつらと、俺は関わりたくない」

 言い捨てると、さっさと講堂から出ていった。
 しばらくの間、沈黙。そして、

「何よ、あれっ!」
「クッソ性格悪い! ふつーヒトをこんなやつら呼ばわりするか!?」
「調子こきすぎじゃね!?」

 一気に雛田先輩への不満を爆発させた。織屋先輩だけ、「顔はいいのになぁ……」と残念がった。

 胸がドキドキしてる。ときめきじゃなくてプチ恐怖で。
 確かにこの演劇部はゆるくてぬるい。真剣さに欠けるし、不真面目と言ってもいい。
 でも、それを正面切って言う人、初めて見た。
 成実ですら口に出さないのに。場の雰囲気が悪くなることが分かりきっているからだ。

(わたしには逆立ちしたって無理……)

 さっきとは別の意味で、『生きる世界が違う』、と感じた。

「みんな、ごめんね」

 香西先輩が謝ると、口々に「先輩は悪くないですー!」という声が上がる。

「でも困りました……雛田さんに台本渡してないし、連絡係も必要だし。まさか本当に中止にするわけにはいかないし」

 板山部長がしょぼんとつぶやくと、成実が手を上げた。

「連絡係、羽鶴に任せたらどうですか?」

 突然の提案に、心臓が飛び出るほど驚く。

「小山内さん? なんで?」
「たぶん気が合うと思うんですよ。雛田先輩も羽鶴も、『選ばれた側』だから。ね、羽鶴」

(成実……?)
 織屋先輩が「選ばれた側ってどゆこと?」と尋ねると、成実が答えた。

「羽鶴、オーディションに受かったんですよ。前に言ってたアニメにレギュラーで出演するんです」

 成実の声は明るかった。けれどその表情は、その目の色は、薄暗かった。
 そんな成実を見るのは初めてで、わたしは冷たい手で首筋を触られたような寒々しさを感じた。
 またもや講堂が驚きに満ちる。二年生の先輩たちがわたしを取り囲んだ。

「すごいじゃん、羽鶴ちゃん!」
「出演てことは、プロってこと? 高校生で!?」
「うわー今のうちサインもらっとこうかな!?」

 キラキラした目と歓声を浴びせてくる、けど。

「よかったね、羽鶴」

 それを横目で見ていた成実が、薄笑みを浮かべた。
 ちっともよさそうな顔じゃない。就也は居心地悪そうにしている。

「じゃあ小山内さんに頼もうかな。はい、台本」
「あ、あの、部長、わたしっ」

 無理です、とは言えなかった。

「雛田は一見とっつきにくそうだけど、中身はいいやつだよ。小山内さんにとってもいい刺激になると思う」

 香西先輩がにっこり笑って、わたしは……。
 押しに弱い自分を呪いたくなった。



 薄い台本を片手に、講堂を出て、雛田先輩の足取りを追う。
 もう下校しちゃってるかもしれない。
 いやむしろ、その方がいい。あんな怖い人と関わるのは遠慮したい。

(成実……)
 スマホを取り出し、LINEを開く。
 今朝成実に送った「おはよう」は既読スルーされていた。いつもなら「おはよう」なりスタンプなり返すのに。
 教室では返事してくれたけど、すごく素っ気なかった。
 成実がああなった原因は、考えるまでもない。
 わたしだけオーディションに受かったからだ。

(わたしなんかじゃ……そりゃムカつくよね……)

 仕方ないこととはいえ、憂鬱だ。
 どんどん重くなる足取りで、ひとけのない廊下を進む。すると雛田先輩の後ろ姿を見つけてしまった。

(え……?)

 声をかけようとして、喉が詰まった。
 廊下を歩く雛田先輩。背筋がピンと伸びて堂々としている。

 そのまっすぐな背中の周りに、何か奇妙なものがふわふわ浮いていた。

 黒い球体。でもその輪郭はぼんやりとしていて、黒カビのような……そうだ、『となりのトトロ』に出てくるまっくろくろすけに似ている。
 そんな黒丸の影が、たくさん、雛田先輩の周囲を漂って……スゥ、とその肩に、鳥みたいに止まろうとした。

「あっ」

 知らず、声に出していた。雛田先輩が振り返る。すると黒丸の影はパッと消えた。

(何、今の……)
 見間違い? 幻覚?
 静かに混乱するわたしに、雛田先輩が怪訝そうにねめつける。

「何か用か」

 不機嫌さを隠そうともしない態度に、さっきの混乱は恐怖に塗り替えられてしまう。

「あ、あの、これ、台本……です」

 びくびくと台本を差し出す。
 雛田先輩は渋々といった様子で受け取り、パラパラと中身を確認した。

「……つまんねぇ脚本(ほん)

 ぼそっと毒づき、わたしに突っ返した。

「あ、あの、受け取って頂かないと困りま」
「おまえ、一年生か」

 依然目も合わせられないわたしに、先輩が遮った。
 そうです、と恐る恐る答えた。

「香西から訊いた。声優志望なのか」

 ギクリとした。即座にイエスと答えられる質問のはずなのに。
 声優志望。
 その何度も使った言葉が、急に重くて、大きくて、……さっきの黒丸の影みたいに得体の知れないもののように感じた。
 喉がつっかえる。見えない手に首を絞められているような感じがする。

「……そ、そう、です」

 そう答えるとほぼ同時に、先輩の冷たくて固い声が降ってきた。

「嘘つけ」

 一瞬、頭が真っ白になる。

 ……今、何て。
 顔を上げると、先輩が冷ややかにわたしを見下ろし……違う。見下していた。

「そんな声で、どこが声優志望だ」
 
 そう吐き捨てると、雛田先輩は背中を向けてわたしの前から去っていった。
 呆然と立ち尽くす。指先が冷えているのを感じる。外で強い風が吹いたのか、窓ガラスが震えた。
 二日空いても、成実からLINEの返信は来なかった。

 それどころか、ますます頑なになってしまった。

「成実、昨日帰りに『声優道』買ったんだ。ほら、高遠(たかとお)さんの独占インタビューが載ってて、絶対読まなきゃって言ってたやつ!」

 昼休み。買ったばかりの雑誌を成実に見せて、わたしは努めて明るく、いつもと同じように言った。
『声優道』は声優志望者のための専門誌。少し値は張るけど、そのぶん為になる情報が多い。

「早く読みたくて学校まで持ってきちゃった!」

 毎月、わたしが買ったのを養成所で一緒に読むのが習慣だ。
 しかもわたしたち憧れの声優さんが表紙とあれば、絶対に乗ってくると思ったのに。

「……。あっそ」

 マスク越しに、成実がくぐもった返事をする。
 突き放すようにそれだけ言うと、別のグループの子たちに話しかける。笑顔で。楽しげに。
 そんな成実に、それ以上何も言えるわけなかった。
 ぽつんと取り残されていると、クラスメイトのアニメ好きの女子たちが雑誌に食いついてきた。言われるまま雑誌を渡す。

「タカトーさん、いま超売れっ子だよね」
「デビュー当初は、いかにもアイドル声優って感じですぐ消えるって言われたのに、今や実力派だもんね」
「すごいよね、声優なんて狭き門なのにさ」

 大好きな高遠さんが誉められて、いつもなら嬉しくなっただろう。
 でも、そんなことを感じる余裕はなかった。
 向けられた成実の背中が、ひたすら寂しかった。


「羽鶴。そろそろ行くか?」

 就也が、教室のゴミ箱にパンの袋を捨てながら呼びかけてきた。

「え?」
「ほら。昨日の……雛田先輩だっけ? 脚本渡しそびれたって言ってたじゃん」

 ああ、そうだった……あの後、講堂に戻った時、追いつけなくて脚本を渡せなかったと嘘をついてしまったのだ。
 でも嫌だな。あまりあの人とは会いたくない……と気後れしていると、

「オレもついていくから、一緒に三年生の教室に行こう。香西先輩と同じ六組だって」

 就也が肩を叩いてきた。一緒なら……と重い腰を上げた。
 三年生は、自宅学習期間だ。登校日以外は学校に来ても来なくてもいいわけだけど、香西先輩によると「雛田は高頻度で登校している」らしい。
 ともかくサッと渡して逃げよう……と計画したのだけど、雛田先輩は三年六組の教室にいなかった。
 代わりに数人の三年生が机にかじりついて勉強していた。そういえば担任の先生が、まだ進路が未決定の生徒が自習しに来ることが多いから、無闇に三年生の教室に近寄るなと言っていたっけ。
 入り口に近い席の、大きな体格で顔色があまりよくない男子生徒が答えた。

「雛田ならたぶん図書室。学校に来ても教室にはほとんど近寄らねーよ」
「え、どうしてですか?」
「やっぱり、俺らみたいなのとは一緒にいたくねーんだろ。格が違うから」

 吐き捨てるような言葉の後に、ボソリと誰かが――雛田先輩のクラスメイトの一人がつぶやいた。

「あいつ、なんで学校に来るわけ……?」
 
 それに呼応するように、次から次へと昏い声が生まれる。

「自分は推薦でさっさと有名大学に決まったからって余裕ぶっこいてんじゃないわよ」
「オマケにテレビ局の賞もらったって……順風満帆で結構なことだよ」
「マジで目障り」

 シャーペンを走らせる音と、声を押し殺した陰口。
 ふたつの異なる音声が重なって、広がって、教室内は異様な雰囲気だった。


(怖い……)

 以前、保健室の先生が言ったことを思い出す。
 うちは中途半端な進学校で、成績や志望校のランクで他者(ひと)を上に見たり下に見たりするって。
 一年生のあなたたちはそうならないよう気をつけてね、と憂いを含ませた声音で言われた。

「羽鶴、行こう」

 就也に手を引かれ、わたしはその場から離れた。
 ……なんだか、あの教室の中だけ昼なのにやたら暗く感じる。
 電灯はついているのに、カーテンがぴっちり引かれてあるからかな。

「びっくりした……雛田先輩って、クラスで嫌われてるのかな……」

 怖いけど、あれだけカッコよくて才能に溢れた人ならクラスの人気者でいそうなのに。

「嫌われてる……とは少し違うんじゃないのかな。きっと……妬まれてるんだよ」

 就也がどこか遠くを見ながら、そう言った。
 図書室は、本校舎から少し離れた特別校舎の一階の隅にある。
 広くて静かで、自習にはうってつけなんだけど、行き来が不便なのでひとけは少なかった。
 中に入ると、貸出カウンターに『司書教諭は不在です』とプレートが出ていた。
 就也と奥を覗いた時、怒号が弾けた。

「――バカにしてるのか!」

 図書室の利用者が一斉にそちらに注目する。
 見ると、最奥の窓際の席にふたりの男子が対立するように向かい合っている。
 ひとりは雛田先輩。もうひとりはガリガリに痩せて、分厚い眼鏡をかけた男子生徒だ。
 雛田先輩が軽くため息をつき、上目遣いで相手をねめつける。

「先に絡んできたのはそっちだろう。さっきから『意識高い』だの『さすが有名な賞を取った未来の大先生は違う』だの、クソうるせぇんだよ」
「それはオマエが図書室で、これみよがしにシナリオ書いてるからだ……っ!」

 雛田先輩が座っていただろう席には、山積みの本と筆記用具があった。すべて演劇や脚本関連の書籍だ。

「どうせ落選したボクへのあてつけだろう? オマエみたいなイヤミ野郎の作品が何故受賞したのか、不思議でならないよ」
「何の話だ。……そもそも、おまえ誰だよ」

 雛田先輩の言葉に、男子生徒がカッと激昂し、机の上にある先輩のものを手で払い落とした。シャーペンやカラーペン、それと数枚の名刺大のカードがバラバラになって落ちる。
 雛田先輩は受け流す態度を変えず、呆れたような顔でそれらを拾う。
 けれど、余計に火に油を注いだようだ。

「オマエなんか実力で選ばれたんじゃない! メディア受けする容姿と、単なる七光りだ。雛田芙宇子(ふうこ)の孫だから考慮されただけだ!」

(七光り? 孫?)

 わたしが疑問に思う間もなく、途端に先輩の目の色が変わった。
 拾ったペンを乱暴に置き、ギロリと睨みつける。それはまったく関係ないわたしでも尻込みするほどの迫力で、男子生徒は狼を前にした鹿みたいに竦み上がった。

「……バアさんは関係ない」

 短く言い捨てると、男子生徒を見下ろして言った。

「おまえもあの賞に応募してたってわけか。……おまえの作品が落ちた理由、教えてやろうか」

 後ずさりをする男子生徒に向かって、雛田先輩は一切の躊躇も容赦も斟酌もなく、言い切った。

「面白くなかったからだよ」

 ズキッ――と何故かわたしの胸が痛くなった。
 それだけ鋭く、人の心の柔らかい場所を射貫く力を持った言葉だった。
 すっかり戦意を失った男子生徒の表情が真っ白になる。

「結果に納得いってないのなら、んなトコでグダグダ言ってる場合か」

 男子生徒は言い返せなかった。当然だ。一切の隙もない正論だったから。
 男子生徒は何事か呻いて、その場を去った。
 周囲の興味は失せ、何事も無かったような静けさが戻った。

「……何をジロジロ見てる」

 床に落とされたものをすべて拾い上げた先輩が、ぼけっと突っ立つわたしたちに言った。
 その先輩の指先には、シェイクスピアの戯曲本や演劇メソッドの本があった……特に、私物らしいハリウッド映画の脚本の指南書が目を引く。表紙は端っこが破けて付箋だらけで、相当読み込んだのだと見て取れた。
 硬直するわたしに代わって、就也が前に出て演劇部からの脚本を渡す。
 先輩が眉をひそめて、また突き返されるかと思ったけど、押し問答が面倒だったのか受け取った。

「羽鶴、行こう」

 就也がわたしの背中を押してくる。雛田先輩は窓の外に顔を向けていた。
 先輩が胸ポケットから万年筆を出した。
 わたしが拾った、空色の綺麗な万年筆。
 それのキャップを外して填める、外して填める。カチ、カチ、という音が妙に耳に残った。

 なんとなく早歩きで廊下を歩き、スマホをいじる就也に、

「本当にびっくりした……怖かった……」
「まあ普通言えないよな。賞に落ちた人に、面白くなかったから、なんてさ」

 それはわたしたちで言うと、オーディションに落ちた人に対して『おまえの実力不足だ』と指をさすのと同じだ。
 絶対にできないし、したくない。
 雛田先輩は別世界の住人どころか、生き物としての種類が異なるような気さえする……

「へえ、すごいな。羽鶴、これ見て」

 就也のスマホ画面には、テレビ夕陽のシナリオ新人賞のサイトが表示されていた。
 受賞作品の粗筋と、授賞式の様子を写した画像、雛田先輩の略歴があった。

「雛田先輩、脚本家の雛田芙宇子の孫なんだって。主に映画やドラマで活躍した」
「へえ……」

 といっても、わたしはアニメ以外の脚本家さんにはあまり詳しくない。血は争えないんだな、という感想しか浮かばなかった。
 授賞式の写真が表示される。芸能界にいる華やかな人たちに囲まれて、きっちりしたスーツを着た雛田先輩がいた。

「すごいな。雛田先輩、あの帝都チカヤと並んでもまったく見劣りしてない。姿の良さもだけど、人前に出るのが堂に入ってるな」

 声優以外の芸能人にも明るくないけど、人気アイドルと肩を並べても遜色ないことがどれだけすごいのかは分かる。

 なんでこんな人がいるんだろう。

 本当に『選ばれた』側の人って、ああいうのを言うんだろう。
 わたしは単なる紛い物だ。何かの間違いでオーディションに受かっただけの。
 そう成実に言いたかった。

「SNSでも、めちゃくちゃ話題になってたんだな。まあ脚本家が高校生でしかもあんなイケメンなら当然か。仮にさっき怒鳴ってた人の作品と雛田先輩の作品が同じクオリティなら、まず間違いなく雛田先輩が通るだろうね」
「脚本家なのに……外見が優れているとか関係あるの?」
「まあ作品に顔写真はつかないけど、もし何かの理由で作者の顔が知れたら、より優れた方が選ばれるだろうね。声優とおんなじ。声も実力も同程度なら、決め手は外見になる。それはその方が価値が高いからだ」

 なんか……嫌だな、そんなの。
 顔やスタイルですべて決められるみたいだ。
 人前に出たくないから声優に、作家に、と考えて志す人は少なくない。なのに結局は見た目を重視されるのだから皮肉な話だ。

「現在は作家ですら目を引く要素……タレント性を求められる時代だからね。昔みたいに、作品だけで勝負ってわけにはいかないんだ」

 就也が苦笑いをする。
 ……就也なら、外見はきっと問題ないんだろうな。

 階段の踊り場にある大きな鏡の前を通る時、わたしは目をそらしながら、そんな風に考えた。
 放課後になった。
 今日は金曜日なので部活だ。
 だけど、またわたしのスニーカーが消えた。

「何なの、もう……!」

 早くしないと練習が始まる。といっても二年生の先輩たちは来ないから、わたしと成実と就也、三人だけの自主練だ。
「何も学ぶものはないけど、場所は有用しなくちゃね」と成実が率先して練習内容を決める。
 成実はわたしに何も言わず、教室を出ていった。就也は先に鍵を取りに行った。たぶんふたりはもう講堂にいる。

(どうしよう、練習始まっちゃう……)

 心臓がドクドクいってる。涙がにじみそうになった。
 遅刻はだめだ。
 成実は遅刻を絶対に許さない。
「声優になるからには、時間管理をしっかりしないと」って豪語して、一度、遊びの待ち合わせに一分遅れた時は、一時間ほど口を利いてくれなかった。

 スニーカーを探し回った。
 ゴミ箱、無い。
 雛田先輩から教わった焼却炉、無い。
 校舎周りも探す、無い。

 息が苦しい。必死に探しても見つからない。わたしは仕方なく、上靴のまま運動場を突っ切って講堂に向かった。
 入り口で上靴を脱いで、滑るから靴下も脱いだ。講堂の床はスケートリンクみたいに冷たい。足先が一瞬で痛くなる。

「あめんぼあかいな、ア、イ、ウ、エ、オ」

 成実と就也の声だ。ストレッチが終わって『五十音』が始まっている。
 わたしは更衣室代わりにしている隣の小部屋ですばやく練習着に着替えて、最低限の荷物を持って中に入った。

「失礼します!」

 中に入ったけど、ふたりは中断しない。それは当たり前だ。でも勝手に心が焦って、ストレッチをしても充分に伸ばせなかった。
「植木屋、井戸換へ、お祭りだ」が終わると、就也がこっちを向いた。

「羽鶴、遅かったじゃないか」
「ごめん、……あの」

 また外靴がなくなったことを言おうか迷っていると、成実がふんと鼻を鳴らした。

「どうせ部活の練習なんか出てらんないんでしょ。オーディション合格者サマはさ」
「!」
「成実!」

 就也が鋭く咎めるけど、成実は腕組みをする。

「だってそうでしょ、集合時間に十分も遅れてんのよ。養成所なら電車の遅延とか事故とか考えられるけど、校内なのよ?」
「……ごめんなさい。でも、わざとじゃない……です」

 理由を話そうとしたけど、それでも遅刻は遅刻だ。

「だとしたら羽鶴さぁ、気合い足りてないんじゃない? 合格したからって気が抜けちゃった?」
「そんなこと、ない……」
「現場に行ったらヒンシュクものよ?」

 成実の言うことは正しい。遅刻、欠席は厳禁だ。作品には多くの人が関わっていて、周囲に迷惑がかかる。
 再度謝るわたしに、成実はプイッと顔を背けて、隅に移動して鞄から水筒を出した。
 わたしはふと思いついて、成実を追うと、荷物から出した『声優道』を差し出した。

「あ、あのね成実。これ。雑誌」
「……」
「わたしと一緒に読みたくないんなら、これ貸す……ううん、あげるから、読んで!」

 成実が目を見開く。わたしはなんとか興味を持ってもらおうと、

「高遠さんのね、インタビューすごく為になったの。デビューしてすぐの下積み時代の苦労とか、効果的な筋トレ方法とか、あと」

 ――バシッ!

 成実が早口でまくしたてるわたしの手から雑誌を叩き落とした。
 雑誌が床に落ちる……たいして大きくない落下音が、わたしの耳の奥でひどく響く。
 成実は眉間に皺を寄せて、怒っているような、笑っているような、泣きそうな……今まで見たことのない表情をわたしに向けた。

「羽鶴ってさ……あたしのこと、バカにしてるよね」

 その言葉が瞬時に飲み込めなくて、わたしの表情筋が固まった。たぶん薄笑いみたいな顔になったと思う。

「ヘラヘラしてんなよっ!」

 成実に思いっきり肩を押されて、わたしの身体が壁にぶつかる。成実はそのまま走って、講堂を出ていった。
 就也が「成実!」と呼んでも振り返らない。

「羽鶴、気にするな……って言う方が無理か。俺が話をするから、ここで待ってて。大丈夫だから」

 就也が「大丈夫」をもう一度くりかえして、成実の後を追った。
 わたしはほとんど無意識に、床に落ちた雑誌を拾う。
 落ち方が悪かったのかな。
 表紙が折れて、写真の高遠さんの笑顔がゆがんでいる……

(あ、違う。これ、わたしが泣いてる、んだ……)

 鼻の奥がツンとして、涙がこぼれそうになった時、入り口から物音がした。
 戻ってきたのかと期待して振り返ったけど、成実でも就也でもなかった。

 雛田先輩だった。

 ……最悪だ……
「おまえ以外、いないのか」

 見れば分かると思う。
 先輩は周囲を見回すと、ため息をついて、あからさまな落胆の色を見せた。

「金曜日が活動日だって聞いたから来たんだが。本当にロクに練習しないつもりか。本気でどうしようもないな、ここは」

 わたしは目を袖で拭いた。この人には涙を見せたくない。

「おまえも。――声優志望とか言ってるけど、どうせポーズなんだろ?」
「ポー……ズ?」

 思いがけない言葉に、わたしは先輩の方へ振り返る。

「『夢がある』って言いたいだけなんだろ? 多いんだよ、そういうの。特に演劇関係はな。一生懸命夢に向かう自分を演出したくて、周囲から『えらいね』『頑張ってね』っていう承認が欲しいだけだ。『いいね』目的のインスタ映えと一緒」
「な……なんで、そんなの、先輩に分かるんですか」

 声が勝手に震える。

「見れば分かるし、声を聞けば分かる。おまえたちの声は素人同然だ。口だけで行動しない典型的な輩だ。――どうせ本気じゃないくせに、気軽に『夢がある』とか言うな」

 雛田先輩の声が、突き刺さる。
 わたしは頭皮が粟立つのを感じた。
 なんでこんな風に言われなきゃならないの――と思った瞬間、
 無意識に、空気を吸い込んだ。

「――拙者!」

 雛田先輩の前に立って、その凍えた瞳をまっすぐ見返して、背筋を伸ばして下っ腹に力を入れて、口を開く。

「親方と申すはお立ち会いの中にご存知のお方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて青物町を登りへおいでなさるれば」

 これは、『外郎売』だ。
 歌舞伎の演目の中に出てくる長科白で、声優が発声と滑舌の練習に使う教材としてもっとも有名なもの。これを詠んだことのない声優志望者はいない。

「な……何……」

 雛田先輩の目がまるくなる。
 それはそうだ。何の脈絡もなく、突然目の前の女が外郎売を暗唱しだしたら、普通驚く。

「御存知ない方には、正身の胡椒の丸呑み、白河夜船、さらば一粒食べかけて、その気見合いをお目にかけましょう」

 自分でもなんでこんなことをしているのか分からなかった。
 ただムカついた。好き勝手言う雛田先輩に。やるせなかった。わたしを突き放す成実の態度に。

「向こうの胡麻がらは、えのごまがらか、真胡麻殻か、あれこそほんの真胡麻殻。がらぴい、がらぴい、風車」

 頭の中がぐちゃぐちゃで、ケーキをやけ食いするみたいにわたしは外郎売を延々続けた。

「五徳、鉄きゅう、かな熊童子に」
「分かった。分かったから、もういいから」

 雛田先輩が諸手を挙げて、降参のポーズをとった。
 でも、わたしはやめなかった。

「石熊、石持、虎熊、虎きす」
「俺が悪かったって……」

 頭を掻く先輩を尻目に、外郎売を諳んじ続ける。
 脳内には笑っていた成実と就也の顔、成実の刺すような視線、就也の困り顔がぐるぐる回る。
 合格したのはわたしだけだと知った時の張り詰めた空気感、くだらない怪談、なくなったスニーカー、卒業式公演、既読スルー、自分の発言だらけのLINE画面、裸足の足先が寒くて痛い、叩き落とされた雑誌、拒絶――

 腹の底から叫びたい気持ちを、最後の一節に込めた。

「ホホ敬って、ういろうは、いらっしゃりま、せ、ぬ、か――……!!」


 膝から力抜けて、ガクンとその場に座り込む。
 呼吸が荒い。途中、無茶をしたので喉が少し痛かった。
 手をつくわたしの上に、パチパチと拍手が落ちてきた。
 雛田先輩がわたしの前に膝をつき、無駄に整った顔を気まずげにゆがめる。

「まずは謝る。失礼なことを言ってすまなかった」
「いえ……」

 ――なんてことしちゃったんだ。

 呼吸が落ち着くと同時に、猛烈な反省と羞恥心が怒濤のように押し寄せてきた。
 外郎売の所要時間は約八分。
 そんな長い間、先輩を拘束したとか……いくらキレてたからって……死ねる。

「お見苦しい……お聞き苦しい? とにかく、拙いもので、大変失礼しました……」
「そんなことはない。見事な外郎売だった。ちゃんと声の出し方知ってるんじゃないか。ボソボソしゃべるから誤解したぞ」

 それはあなたが怖かったからです、とは言えなかった。

「途中一回もつっかえなかったし、交互に来る鼻濁音と濁音の区別もしっかりしてた」
「詳しいんですね……?」
「中学までは劇団にいたから」

 ああ、なるほど……それで人前に立つことに慣れていたのか。
 雛田先輩が手を差し出した。少しためらったけど、わたしはその手を取って、立ち上がる。

 外郎売の暗唱は、わたしの唯一の特技だ。

 去年の今頃、養成所に合格して、三人でいろいろ自主トレの方法を調べた時に知った。
 動画サイトでプロの練習動画を探したら、高遠さんのがあった。それを何度も見て練習に励んだ。
 誰がいちばん早く暗唱できるようになるか競争だな、と就也が言った。
 成実は負けないからねって笑った。
 わたしは二人に置いてかれないように、家で何度も読み上げた。
 一年以上、毎日欠かさずに。

「全然見事じゃないです、わたしなんて」
「謙遜するな。卑屈に見える」
「ほんとのことです。ふたりに比べたら全然なのに、それなのに、どうして、……わたしだけ合格しちゃったんだろう……?」

 疑問だった。『甚だ』がつくほどの。
 なんでわたしが? ロクな技術もないし、声だって可愛くも特徴的でもない。

「意味分かんない……こんないきなり夢が叶っちゃうなんて……」

 心からの声だった。雛田先輩に答えは求めていなかった。
 なのに先輩は、思いもよらない返しをした。

「オーディションに受かるのが、叶えたい夢だったのか?」
「え……?」

 ふっと吐息を落とすと、先輩は肩に鞄をかけて講堂を出ていった。
 今のどういう意味だろう、と考えていたら、「あっ」と先輩が叫ぶのが聞こえた。
 入り口に駆けつけると、先輩が頭を抱えていた。

「またやられた……」

 何が、と問わなくても分かった。
 入り口の傘立ての脇に置いてあったであろう先輩の靴がなくなっているのだ。
 何故それが分かったのか。

 ……わたしの上靴も、なくなっていたからだ。
 翌日の土曜日は、養成所のレッスン日。
 電車の中で、成実にLINEを送るためにアプリを開く。

【おはよう。昨日はごめんね】
【成実の気に障ったなら謝るよ】
【今日帰りに、気になってたコラボカフェ寄らない?】

 ……打っては消し、打っては消す。送信するのが怖い。
 胃がねじ切れられるような思いで『おはよう』だけ送る。迷った末、絵文字もスタンプもつけなかった。
 数分後、ピコンと着信音がした。成実かと思ったけど、単なる広告で……苛立ちと焦りで吐きそうになる。

(やっぱり返信くれない……)

 その事実を何度も食らって、だんだん成実に対して腹が立ってきた。でもすぐに「仕方ないよね」と思い直す。ずっとそのくりかえしで、もういい加減にしてほしい。
 また着信音がした。お母さんからだった。

【レストランの予約とれた】
【羽鶴の合格祝いだから、奮発しちゃった。お父さんにはナイショね】

 そんなお母さんにも苛立ちが募った。

「……人の気も知らないで……っ」

 思わずそうつぶやいて、即反省する。
 最低だ、わたし。
 お母さんたちがせっかくわたしのためにお祝いしてくれるっていうのに。
 罪悪感で吐きそうだ。養成所に行きたくない。でも行かないと。成実に会わないと。会いたくないけど。

(なんでこんな気持ちにならなきゃいけないんだろ……)

 先週までこんなことになるなんて思いもよらなかった。
 どうしてこんなことになったんだっけ……。

(こんなことなら、いっそ……)

 気持ちがまっくらになった時だった。

「羽鶴!」
 隣の車両から就也がやってきた。軽くセットした髪に、さわやかなブルーのコート。今日もイケメンくんだ。

「おはよう。昨日はごめんな。成実、連れて戻れなくて」

 ほんとにそうだよ、と思ってしまいそうになる自分がさらに嫌になる。八つ当たりなんて最低なのに。
「就也のせいじゃないよ」とだけ返した。


 養成所に着いた。更衣室で着替えて、レッスン室に入る。
 開始時間まで三十分以上余裕があるけど、レッスン生はほぼ全員そろっていて、ストレッチや先週出た課題のおさらいをしていた。
 そんな中、成実の姿を見つける。傍に寄ろうとしたけど、できなかった。
 わたしに気づいた成実が、ひどく睨みつけたからだ。「こっちに来るな」と全身で拒否されている。蛇に睨まれた蛙みたいにわたしは動けなくなった。
 ストレッチすらできないまま、講師の志倉(しくら)先生が来た。わたしはなるべく成実の視界に入らないように端に座る。

「レッスンに入る前に、ひとつ報告です。『アロサカ』のオーディションに、小山内羽鶴さんが合格しました」

 広いレッスン室の隅から隅へ届くような声で、志倉先生が言った。
 その刹那、みんなが振り返り、全員の視線がわたしに集中した。
 ――ピリッ、と音がしそうなくらい張り詰める空気。
 演劇部の先輩たちの反応とは全然違う、わたしを見つめる目、目、目。
 そのどれもが「信じられない」と言いたげだった。

「あらぁ、すごいじゃないの」
「驚いたよ。意外とやるんだねえ」

 祖父母と同年代の人たちが笑顔を向けてくる。
 このクラスは青年部で、十五歳以上なら誰でも所属できる。でも、お祝いを述べてくれたのはこの人たちだけで、他は……二十代以下の人からは怪訝な表情をされた。
 特にわたしと同じ高校生組からは、あからさまな嫌悪感を示された。

 ――なんでアイツが?
 音にならなくても届く『声』が、わたしの鼓膜ではなく脳に突き刺さる。

「はい、静かに。合格したからと言って声優になれるわけじゃないけど、それでも合格は合格。おめでとうございます」

 形だけの拍手を送られ、わたしは謝意を絞り出した。どうしても口元がゆがんでしまう。
 その日のレッスンを終えると志倉先生に講師室に呼び出された。

「レッスンに入る前に、ひとつ報告です。『アロサカ』のオーディションに、小山内羽鶴さんが合格しました」

 広いレッスン室の隅から隅へ届くような声で、志倉先生が言った。
 その刹那、みんなが振り返り、全員の視線がわたしに集中した。
 ――ピリッ、と音がしそうなくらい張り詰める空気。
 演劇部の先輩たちの反応とは全然違う。わたしを見つめる目、目、目。そのどれもが「信じられない」と言いたげだった。

「あらぁ、すごいじゃないの」
「驚いたよ。意外とやるんだねえ」
 祖父母と同年代の人たちが笑顔を向けてくる。
 このクラスは青年部で、十五歳以上なら誰でも所属できる。でも、お祝いを述べてくれたのはこの人たちだけで、他は……二十代以下の人からは怪訝な表情をされた。
 特にわたしと同じ高校生組からは、あからさまな嫌悪感を示された。
 ――なんでアイツが?
 音にならなくても届く『声』が、わたしの鼓膜ではなく脳に突き刺さる。

「はい、静かに。合格したからと言って声優になれるわけじゃないけど、それでも合格は合格。おめでとうございます」

 形だけの拍手を送られ、わたしは「ありがとう」を絞り出した。どうしても口元がゆがんでしまう。



 その日のレッスンを終えると志倉先生に講師室に呼び出された。

「まずはオーディション合格、おめでとう……浮かない顔ね?」

 見透かすような先生の瞳から逃れたくて、ついうつむきがちになる。
 実を言うと、成実のことで頭がいっぱいだった。
 きっと先に帰ってるだろう。でも、もしかしたら……そんな不安と期待で先生の話に集中しきれないでいた。

「――誰かにイヤミでも言われた?」

 ギクリとする。
 確かに休憩時間に、いろんな言葉をぶつけられた。お祝いに見せかけたイヤミがほとんどで、でもそんなのどうでもよかった。

「まあ、そういうものだと諦めることね」

 先生は、モロに他人事といった物言いだ。

「先生、いつもわたしに『声に個性が無い』って言ってますよね」
「『個性が無い』、よ。『声』とは一度も言ってない」

 どう違うって言うんだろう。

「なのになんで、わたしは受かったんですか……?」

 わたしは縋るような気持ちで問うた。先生の目がまるくなる。
 けれど先生は、すぐに真顔に戻って、

「分からない」

 一刀両断した。
 突き放されたのかと思ったら、「本当に分からない」と重ねられた。

「私も曲がりなりにもプロとして、二十年ほど業界にいるけれど、受かる理由なんて分からないものなのよ。隠れた才能を見出されたか、担当するキャラに奇跡的に合致していたのか。ただ縁は確実にあった。今はそれで充分なんじゃない?」

 先生は冷静に意見を述べる。結局何も分からない。

「自分が選ばれた理由よりも、小山内さん自身はどうなの」
「どう、って」

 思いがけない問いかけに、少し怯んだ。

「別にいいのよ。合格を辞退しても。それはアナタの自由で、権利だから」
「……」

 そんなこと考えたことなかった……先生の吊り目がちな瞳が、わたしをまっすぐ見つめる。

「ただ、あえて今、改めて訊くわね。――小山内さんは、どうして声優を志したの?」

 わたしはその質問に答えられなかった。


 講師室を後にして、トイレの個室に入る。どこか狭い場所でひとりになりたかった。

 ……声優を目指す人の志望動機といえば、『幼い頃、自分が観ていたアニメに憧れて』が圧倒的に多い。
 わたしだってそうだ。うちは両親ともにアニメ好きで、小さい頃から色んなアニメをおやつ感覚で摂取してきた。アニメの中の世界に入りたくてたまらなかった。
 養成所の入所試験の面接でも、そう自己PRした。

(『(さくら)もののふ』が好きだって語ったっけ)

 十年前、わたしが幼稚園児の頃に放送された女児向けアニメ。魔法少女と戦隊ものを掛け合わせて和風で彩った名作だ。
 尊敬する高遠さんのデビュー作でもある。
 当時、高遠さんは二十歳の若さで主役の『紅色』に抜擢された。

(よく声真似して遊んだな……)
 アニメが好きなら、誰でも一度は声優を夢見る。
 マイクの前に立ち、キャラクターに生命を吹き込む姿を妄想する。けれどほとんどは、成長するに従って夢想のままで終わる。

 わたしもそのつもりだった。

 ふいに記憶がよみがえった。
 中学一年生の時の教室の光景がまぶたの裏に浮かぶ。
 放課後、友達数人との雑談。
 机に広げたアニメ雑誌と漫画。友達の笑い声。作り笑いをしかけたわたし。あの頃、わたしと成実はまだ単なるクラスメイトで――

「――羽鶴が合格なんて、絶対におかしいよね」

 突然名前を出されて、内臓が竦み上がった。同じクラスのレッスン生の子だと、すぐに分かった。

「ハッキリ言って劣等生じゃん。いっつも積極性に欠けるって注意されてるし」
「声もフツーだし、顔も平凡だし」
「裏金でも使ったんじゃないの?」

 キャハハハ、と甲高い笑い声。
 聞きたくなくて、耳をふさごうとしたけど、

「ね、成実もそう思うよね?」

 成実もいるの?
 驚く前に、成実の声が届いた。

「……そうね」

 たった三文字の肯定に、冷水を被せられた気持ちになった。

(成実……)

 暗いトイレの個室で、わたしは手を噛んで声を殺した。嗚咽が外に漏れないように。