わたしのたまごだったセカイ

 講堂の鍵が開いていた。靴下ごと靴を脱いで、中に入る。
 すぐに見つかった。
 首にロープをかけて、今にもギャラリーから飛び降りそうな雛田先輩が。

「先輩!」

 わたしは叫んで、舞台裏からギャラリーに上がった。
 雛田先輩の引き締まった身体を、まっくろな影が呑み込もうとしている。
 わたしは先輩の腰にしがみつき、首のロープを外そうとした。

「先輩、ダメです! それは先輩の本心じゃないです! 死にたい気分なだけで、本当は死にたいなんて先輩は思ってない、正気に戻って!」

 カクンと先輩の首が落ちる。
 まっくろな瞳。絶望の瞳。こんな表情の先輩、初めてだ。
 端正な顔立ちも相まって、綺麗すぎる人形みたいだ。

「邪魔……するな……」

 その声は先輩のものだけど、先輩の言葉じゃない。
 先輩に取り憑くカナコちゃんの声だ。
 わたしはキッと睨んで、声を張り上げた。

「もうやめて! 先輩はあなたとは違う! 雛田先輩はいつもまっすぐで、独りででも夢に立ち向かえる強い人なんだ! 無理やり惑わせないで!」
「邪魔……するな……」

 壊れたレコードみたいに、同じ言葉を繰り返す。ダメだ。先輩が力ずくでわたしの手を捻り上げようとする。

 ――そうだ!
 わたしはそれをかわし、スマホを取り出して開いたままだったウェブサイトを画面に表示させた。

「全日本シナリオ大賞! 劇団ひととせ脚本賞! ラジオドラマの募集、アニメ制作会社のシナリオライターの募集!」

 片っ端から読み上げたのは、公募のサイトに掲載された脚本家募集のタイトルだ。
 ついつい調べて、でも、『次』の応募先なんて先輩には必要ないかと思い直したけど!

「先輩、『次』があります! 言ったじゃないですか、切り替えろ、ひとつにこだわるなって! 先輩の目標はお祖母さんのようになることでしょう、だったら他にも道はあります『次』はいくらでもあります、でも!」

 先輩の頭をつかみ、無理やり目を合わせる。

「死んじゃったら、『次』がないんですよ……!!」

 腹の底から声を絞り出す。届け届けわたしの声!
『次』を捨てないでと祈るように、願うように「先輩!」と何度も呼んだ。

「……無闇に叫ぶな」

 至近距離で見つめた先輩の目が、ゆっくりと瞬く。

「大事な喉だろ」

 雛田先輩が、そう言った。

 その瞳には光が戻って、ほんの少し微笑んでいた。こんな時になんだけど、……綺麗だと思った。

「せんぱ……」

 泣きそうになりながら呼びかけて、詰まった。

 まっくろな影が、ギャラリーの柵の向こう――空中に浮いていた。
 シルエットで、セミロングの女の子だと分かった。うつむきの姿勢なのに、わたしたちを凝視していると感じた。

「カナコちゃ……阿妻叶子さん……?」

 カナコちゃんは、
 泣いているようだった。


〝どうして……
 わたしの小説は、
 選ばれなかったの……?〟


 胸に迫る、心からの嘆き。
 自分と違って夢を叶えた生徒に対する嫉妬心や怒りは、微塵も感じ取れない。
 ただ、どうして自分は選ばれなかったのか――果てしない疑問とやるせなさと、絶望がそこに在った。

 わたしは答えられなかった。
 すると、雛田先輩がわたしを庇うように前に出た。

「面白くなかったからだよ」
「!?」

(今それ言いますか!?)

 幽霊相手に、たった今殺されかかったんですよね!?
 雛田先輩のブレなさに、さっきとはまた別の恐怖がわいた。

「おまえの作品、部誌にあったものはすべて読んだ。冒頭が退屈で、展開が遅いしオチも予想できる。遊び心のつもりか余計な描写も多いしな。応募したものがあれと似たようなクオリティなら、一次落選はやむなしだ」
「……」

 もう何も言えない、と思った。この先輩、やっぱり住む世界が違う……
 頭がクラクラしたけど、先輩は「でも」と反語を使った。

「文章は好感が持てた。丁寧な言葉選びで、すんなりとした読み心地がいい。最後の掌編は、寂しさで寂しさを癒やすような話だったな。……あれは面白かったよ。俺は、好きだと思った」

 雛田先輩がカナコちゃんに言葉を贈る。
 同じ物語を綴る者として。
 ほんの少しだけ目元に悲哀をにじませて。

「おまえの作品、もっと読みたかったのに。なんで死んじまったんだよ。バカ」

 先輩は、そう告げた。

 ……かつて、
 自分を祟り殺そうとした幽霊相手に、『バカ』と言ってのける人はいただろうか……。

 ああ、でも。

(雛田先輩らしい……)

 わたしはカナコちゃんに視線を戻した。
 その時だ。

 講堂の窓から、光が差し込んだ。いつの間にか雨がやみ、曇り空が晴れたらしい。
 ……虹の橋だ、と思った。
 講堂の窓から差し込むそれは、一瞬で辺りを明るく照らした。
 光が影を消したのか、カナコちゃんは、瞬きした間に消えた。
 跡形もなく。
 すべて夢幻(ゆめまぼろし)だったかのように。

「消えた……」
 惚けたように先輩がつぶやいた。
「成仏、ってやつをしたのか……? 初めて幽霊を見たから分からん」

 それはわたしもだけど、「たぶん」と答えた。

「だってカナコちゃん、消える寸前、言ってましたよ」

 最後、微かに聞こえた女の子の声が、耳の奥でこだまする。

「――『死ぬんじゃなかった』って」

 雛田先輩が微かに目を見開く。
 つらい、言葉だ。
 もしかしたらカナコちゃんは、命が消える寸前、その選択を後悔したのかもしれない。
 ……きっと、したのだろう。
 アニメや漫画の成仏シーンのような晴れやかさはない。けれど空気はひどく爽やかで、なんだか皮肉で、心に残るものがあった。

 雛田先輩とギャラリーから下りた。織屋先輩たちに連絡しようとポケットに手を入れて、「あっ」と声を上げた。

「先輩、これ」

 ハンカチに包んだ万年筆だ。あいにく壊れたまま、けれど雨あとの空のような清々しい色は決して変わらない。
 いつかのように、先輩に万年筆を渡す。

「……ありがとう」

 小声だけどよく通る先輩の声に、柔らかさと微糖程度の甘さが混じっていた。