わたしのたまごだったセカイ

 LINEの着信音が鳴った。
 織屋先輩から、『もう部室に着いた』というメッセージ。
 すぐに演劇部の部室に向かうと、開口一番、雛田先輩の話が出た。

「休み時間にパイセンの教室まで様子見に行ったんだけどさー。なんかフツーだった」

 やっぱり雛田先輩の言っていた『二年のアイツ』は織屋先輩だったのか。

「そうですよね。わたしの時も『賞そのものにこだわっているわけじゃない』って言われました」
「ま、パイセンは強いからなぁ。ていうか即切り替えられるようなメンタルじゃなきゃ、劇作家だの役者だのできないだろうねぇ」

 織屋先輩が腕組みをながらうんうん頷く。
 わたしも納得はした、けど……。

(これも必要なかったかな……)

 ネットにつないだスマホを一瞥した。一瞬考えて、休み時間に検索した情報サイトのページはそのままにしておく。

「あ、そうそう。卒業式の花束さ、雛田パイセンにも渡そーと思うんだけど、いけるかな?」
「予算確認します。……それと先輩、実はこれ」

 ハンカチに包んだ万年筆を、先輩に見せた時だった。
 ガラッと部室の扉が開き、香西先輩が入ってきた。走ってきたみたいで、息が荒い。

「どしたんですか元部長。そんな息せき切って」
「ひ、雛田は?」
「今日はいないです」
「さっきニュースに気づいたんだけど……あいつ、連絡しても返信も折り返しもなくて……」

 香西先輩が大きく息をついて、机の上に置いた万年筆を見て目の色を変えた。

「それはどうしたの!」
「あの、壊れちゃったんです。雛田先輩は捨てとけって言ったんですけど、どうにか直せないかなって」
「捨てとけって……」

 香西先輩の顔色がさっと変わった。織屋先輩は慌てたように、

「あの、でもきっと大丈夫すよ! パイセン、業界にはよくあることだ、また別の道を模索するって言ってたし」

 わたしも何度も頷く。先輩は賞自体に執着はない。あくまでお祖母さんの生き方に憧れたのだ。
 けど香西先輩はゆるく頭を振った。

「……『すぐ切り替えられる人でも、いつでも切り替えられるってわけじゃない』って、そう言ったのは君だよ。織屋さん」

 沈痛な面持ちの香西先輩に、わたしも織屋先輩も二の句を失った。

「信じてもらえないかも知れないけど、雛田はね、元々はあんな人嫌いみたいな振る舞いはしなかった。愛想は確かによくないけど、クラスで孤立なんかしてなかったし、『俺は独りでも問題ない』なんていうやつじゃなかったんだよ」

 香西先輩がギュッと両手を握る。

「あんな風になってしまったのは、僕が……裏切ったせいなんだ」

 その強い言葉に、ギクリとする。

「裏切ったなんて……進路が変わったことはどうしようもないんじゃ」
「違う、そんなんじゃない。……僕は、その万年筆を盗んだんだ」
「えっ!?」
「未遂だけどね。去年の秋、進路を変えたことを雛田に言ったんだ。雛田は『そうか』って言っただけで、教室を出ていった。その反応に、僕はなんだか腹が立ったような、悲しいような……腹の底が焦れるような感じになった。雛田が置きっぱなしにした上着にその万年筆がささったのを見ているうちに、つい……なんであんなことをしたのか、今でも分からない」

 万年筆をゴミ箱に入れようとしたところで、雛田先輩が戻ってきたという。

「魔が差したんだ。演劇に未練があって、続けられる雛田が妬ましくて……。そんな卑怯な僕に、雛田は何も言わなかった。それからだよ。雛田が人を寄せつけなくなったのは。きっと友人の僕に裏切られて、不信感を持ってしまったんだろうな」

 ……『雛田を一人にしてしまったから』というのは、そういう意味だったのか。袂を分かつことになっただけじゃなくて。

(でも、先輩が香西先輩に不信感なんて……)

 根拠なく否定しようとしたけど、香西先輩が部室の扉に手をかけて、

「とにかく雛田を探してみる。靴はあったから、まだ校内にいると思うし」
「わたしも探します!」
「気持ちは嬉しいけど、今日は午後から雨が降るらしいよ。かなりの豪雨になるそうだから、早く帰った方がいい」

 こんな時まで気を遣う香西先輩が、もどかしい。

「そうだ、小山内さん。さっき廊下で喜多くんと南野さんを見かけたんだけど」
「えっ?」
(ふたりを? でも休みのはずじゃ)
「二人ともひどく顔色が悪くて……大丈夫かなって心配になったんだ」

 休みのはずの成実と就也が学校に来ていること、
 雛田先輩と連絡がつかないこと。
 どっちを優先させればいいのか迷って、ひとまず鞄を取りに行くことにした。


 部室のある校舎から本校舎に戻ると、その薄暗さにギクリとした。空は分厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうだ。
 他のクラスの先生に「雨がひどくなりそうだから早く帰れよー」と注意され、おざなりに返す。
 雨がポツポツ降り始めたのと同時に、教室に到着した、けど……。

「えっ、うそ?」

 わたしのスクールバッグとトートバッグがない。
 席に置きっぱにしたはずなのに。

 教室中を見回した時だ。視界の端に、窓の外で何か黒いものが落下するのが映った。
 トサッという音。
 何だろう?
 窓に駈け寄って下を覗く。目を凝らすと、見覚えのあるキャンバス生地のトートバッグが校庭の隅に落ちていた。
 弾かれたように三階から校庭まで走る。
 排水溝の柵の上に落ちたそれは、間違いなく――わたしのトートバッグだった。
 どうして……と思う前に、肩に何かがかすった。
 足元に布製の筆箱が転がる。上から落ちてきたのだ――この、わたしの筆箱は。

 天を仰ぐと、屋上にふたつの人影があった。

 わたしはトートバッグと筆箱を拾って、校舎に戻り、階段を駆け上った。
 心臓が破裂しそうだ。足の筋肉が痙攣しそうになりながら必死で走った。
 屋上は一応立入禁止だけど、ボロボロの南京錠がただぶら下がっているだけで、出入りは容易だ。先生にバレたら内申書を減点されるからやらないだけだ。

 外に出ると、煙ったような雨の中、成実と就也がぼんやりと立っていた。

 わたしの教科書やノートを、今にも投げようとしている。
「成実、就也!」

 わたしが叫ぶと、ふたりがゆっくりと振り返った。呼吸が止まった。
 顔色が悪い、なんてものじゃない。成実と就也はゾンビみたいな様相だった。
 目の下の濃いクマに、コケた頬。何より瞳に色も光もない。
 まっくろだ。がらんどうだ。

(黒丸の影が……あんなに)

 最初に目にした時はいくつもなかったのに、今は砂糖に群がる蟻のように密集している。まるで真っ黒なマントだ。それに覆われて、成実と就也は案山子のように佇む。

 カサカサに乾いた唇で、成実が言った。

「どうして、あんたがオーディションに合格するの……」

 血走った目を見開いて。

「あたしが落ちたのに、なんであんたが……あんなに頑張ったのに……」

 前髪が乱れ、片目が隠れた就也が言った。

「どうして、おまえがオーディションに合格したんだ……」

 唇を噛み、血がひとすじ流れる。

「オレの方がよっぽどうまくジュニパーを演じられるのに……ジュニパーはオレの役だったのに……」

 地獄の底から響いてくるような声音で、成実と就也は――わたしの友達が、わたしへの恨み言を放ち続ける。
 耳を塞ぎたかった。いや、いっそ鼓膜を破りたかった。
 こんなの聞きたくない。友達なのに。ずっと一緒に夢を見てきた友達なのに。

「……っ!」

 こらえきれない涙が、土砂降りと化した雨と混ざり合う。

「あたしに譲ってよ、羽鶴。あたし、このままじゃ声優の夢を諦めなきゃなんないの。お金がないだけで、小さい頃からの夢を捨てなきゃなんないの……嫌、嫌よ。あたし声優になりたいの!!」
「オレに譲ってくれ、羽鶴。オレは本当にジュニパーが好きなんだ。羽鶴は少年声は苦手だって言ってたよな? 無理して身の丈に合わない役をすべきじゃない、それは後で絶対に苦しむことになる……」

 ふたりの手が、わたしに差し伸べられる。
 成実と就也がわたしに泣きながら訴える。
 それを振り払うなんてできない、したくない。
 でも、でも……

 ポケットの中の演技ノートが、ふいに重みを持つ。
 頭の中で残像が弾けた。
 真新しい専門学校の校舎。身近で見た声のプロの人たちの仕事。憧れの人の外郎売。ポップガードがついたマイク。未完成の絵が映ったモニター。赤いキューランプ――

 わたしは掴まれた手を振り払うことはしなかった。
 代わりに、ふたりの手を強く強く握った。

「できない」

 きっぱりと言い放つ。
 
「できないよ。だって、わたしに与えられたチャンスだから」

 掴んだ、と言えないのが我ながら情けない。
 でも本当にその通りなのだ。
 何の運命の悪戯か一生分の幸運か、わたしはオーディションに合格してしまった。夢への切符を手に入れてしまった。

「不相応なのは分かっている。でもわたしは、そのチャンスに応えられるわたしになりたい。ううん、なるから。なってみせるから!」

 だからお願い、許してほしい。
 わたしなんかが夢を叶えるチャンスを得たことを。
 応援も祝福もしなくていいから、ただ、認めてほしい。

 そう心底願った。けど、成実がわたしの腕に爪を立て、就也がわたしの腕を握る手に力を込めた。

 痛い、けど、絶対に引くものか。

「……押し退けるのか」
「羽鶴は、自分の夢のために……あたしたちを押し退けるの……?」

 ふたりの手の震えが、ダイレクトに伝わってくる。
 わたしは息を吸って、答えた。

「うん」

 たった一言、たった二文字なのに、わたしにとっては喉が焼かれるほど痛くて苦しい答えだった。

 ――ああ、何かがひび割れたような音がする。

 かろうじて残っていた最後の部分が崩壊した。
 これでもう完全に、絶対に元に戻れない。

「だって……次は成実と就也がわたしを押し退けるんでしょ?」

 ピクリとふたりの肩が動く。

「次にまた同じオーディションを受ける時は、成実も就也も、わたしから役を奪うんでしょう……?」

『奪う』という強くてむごい言葉を使ったのはわざとだ。『役を勝ち取る』ことは、そのまま他の誰かから『(チャンス)を奪う』ことに繋がる。
 ひとつの役に声優は一人しかいらない。
 たったひとつの役を、何人もの声優が奪い合う。
 声優に限ったことじゃないけど、他よりも熾烈な競争を強いられるだろう。

「声優になるって、きっとそういうことなんだよ……」

 あの高遠さんや偉大な先輩たちも、求めて挑んでもほとんど掴めないと言った。

 それを聞いた時から、
 わたしにはひとつの予感があった。

 次はきっと、わたしは選ばれない。
 選ばれるように頑張るけど、全力を尽くすけど、
 どんなに努力してもどんなに強く願ってもそんなの一切関係なく、
 選ばれない時は、選ばれないのだ。

「でも……選ばれなくても、わたしは『次』を目指すよ。『次の次』がダメでも、その『次』に向かいたい……苦しいと思うよ。つらいと思うよ。一生続くんだと思うよ。それでも……わたしは目指したい」

 いつか、
 憧れた人たちと、同じ所に行けるまで。
 思い描いた『わたし』になれるまで。

 ……凍えそうな寒雨の中、わたしたち三人は微動だにしなかった。降りしきる雨が髪も服もしとどに濡らしていく。
 ――やがて、

「……そうよ……」
 成実の手から力が抜けた。続いて、就也も。

「『次』は……あんたなんかに負けない」
「もっと頑張って、『次』こそは……オレが役を勝ち取ってやる」

 ふたりの目元に涙が浮かび、淡く笑う。
 成実と就也の目に、光が戻った。

「うん。……わたしも負けない」

 言いながら、またわたしの目から涙がこぼれた。
 手が離れた途端、成実と就也は膝を折った。激しく咳き込み、えずく。
 それと同時に、ふたりを覆ったまっくろな影が消え失せた。

「だ、大丈夫!?」

 とりあえず校舎内に連れていって、濡れた背中をさするわたしに、成実が呼んだ。

「ごめん。羽鶴、ごめん!」

 成実がわたしの腕に縋り、頭を下げた。

「ごめん……成実もごめん。オレ、最低なことをした……!!」

 悲痛な声で謝るふたりに、わたしは安堵のため息を漏らした。

「元に戻ったんだね……」

 成実が首を横に振る。

「元に……ってのは違うかもしれない。間違いなくあたしの本心だったもの。合格発表の日から、ずっと胸に得体の知れないまっくろなものがあって……押し潰されそうだった」
「羽鶴の合格を喜ばなきゃ、次に切り替えなきゃってのは自分でも思ってたんだけどな……」
「気づいたら、黒くてホコリみたいな……小さな影があたしの周りに漂ってたの。それが日毎に増えて……就也も?」
「ああ。だんだんそれに侵食されていくみたいな感じだった……」

 ふたりともあれに……『魔』に気づいてたんだ。
 予想は的中した。〈カナコちゃんの呪い〉は、やっぱり夢が叶った人の周囲に及ぶんだ。

「あんな態度取りたくなかったし、ひどい言葉も言いたくなかった、でも……」

 どうしても自分をコントロールできなかった。
 ふたりはそう告げると、いっそう謝った。わたしは〈カナコちゃんの呪い〉をかいつまんで説明する。

「だから大丈夫。ちゃんと分かってるよ」

 そう言ったけど、成実も就也も頷かなかった。

「たとえ呪いで増幅されたとしても……あれがあたしの本音だった」
「あの卑怯さが、オレの正体だったんだな……」

 ひどくショックを受けるふたりは、「もっと怒れ、殴ってもいい」と言ったけれど、わたしは拒否した。

「怒るのも殴るのもわたしには向かないよ。それに……わたしがふたりの立場だったら、きっと同じようになってた」

 今回はたまたま、わたしが妬まないで済む立場だった。ただそれだけの違いだ。
 成実も就也も納得がいかないようだけど、わたしは意見を変えなかった。

「わたし、雛田先輩を探さなきゃならないの。ごめんね、もう行くね」

 階段を駆け下りる寸前、成実に呼ばれた。

「羽鶴。雛田先輩は、たぶん『あいつ』と一緒にいるよ」
「あいつ……カナコちゃんのこと?」
「ずっと取り憑かれていたせいかな。なんとなく分かるんだ……」

 就也も同意するように頷いた。

「分かった」

 立ち上がって、階段を下りる寸前、わたしは鞄とトートバッグの持ち手を持って、

「これ、お願い!」

 と、ふたりの友達に託した。


 廊下を急ぎながら、スマホで織屋先輩に電話を掛ける。すぐに出てくれた。

「雛田先輩、見つかりましたか!?」
『まだ。連絡もつかない。パイセンの家に電話しようかと思ったんだけど、香西先輩も家電は知らないっていうから、いま先生に頼んでる最中!』
「そうですか……」

 どこにいるんだろう、雛田先輩は。
〈カナコちゃんの呪い〉の目的が、呪いの対象を孤立させて絶望させて、自ら命を絶たせることなら、先輩は危ない。
 賞自体にこだわりはないとしても、先輩はシナリオに本気でぶつかり続けた。
 それが評価されたのなら喜んだだろうし、夢を叶える切符を手に入れた万能感も普通にあっただろう。

 わたしがもし、アロサカの企画が白紙になりました、あなたはもう要りませんと言われたら――絶望する。
 あんなに頑張ったのに、もう二度と無いチャンスなのにと落ち込む。
 本気であればあるほど、すぐに切り替えることなんかできない。

 雛田先輩は強い人だ。
 でも、いつでも強い人なんているわけない。
 呪いは、その隙をついて、人を死に誘うんじゃないのだろうか……

「織屋先輩、あの、カナコちゃんの話なんですけど」
『えっ、なに突然?』
「その、文芸部とか教室以外で、カナコちゃんに繋がりそうな場所って分かりませんか? あの、その、たとえば死んだ場所とか!」

 織屋先輩の返答は、『分からない』だった。
 それもそうか。なんとなく学校で亡くなったイメージだったけど、七不思議のひとつだからって舞台が学校とは限らないわけで……。

 ……七不思議?

(そういえば、……就也が言ってた)

 合格発表の前の他愛ない雑談。就也がこの学校の七不思議を諳んじた中に、

「『幽霊が出る講堂』……」
『え? はづるん、何?』

 織屋先輩が戸惑ったけど、わたしは通話を切った。そして、再び校舎の外に出た。 

 講堂だ。

 そう思ったのは、単にイメージの問題だった。
 階段、鏡、肖像画は無機物。トイレにいるのは花子さん、理科室は模型、幽霊の正体が曖昧なのは講堂だけ。
 だから、講堂に出るという幽霊こそがカナコちゃんなのではないか、と直感した。
 アニメのキャラみたいに霊感や超能力なんて持ってない。けど、それ以外に思い当たらない!
 いつものように、講堂を目指してグラウンドを横切る。砂がぬかるんで走りにくい。
 雨足がどんどん強くなる。真っ昼間なのに逢魔が時以上の薄暗さだ。これから起こる恐ろしいことを予感させるような――まるで舞台の演出だ。

 起こらない。恐ろしいことなんて、起こらせるもんか!
 講堂の鍵が開いていた。靴下ごと靴を脱いで、中に入る。
 すぐに見つかった。
 首にロープをかけて、今にもギャラリーから飛び降りそうな雛田先輩が。

「先輩!」

 わたしは叫んで、舞台裏からギャラリーに上がった。
 雛田先輩の引き締まった身体を、まっくろな影が呑み込もうとしている。
 わたしは先輩の腰にしがみつき、首のロープを外そうとした。

「先輩、ダメです! それは先輩の本心じゃないです! 死にたい気分なだけで、本当は死にたいなんて先輩は思ってない、正気に戻って!」

 カクンと先輩の首が落ちる。
 まっくろな瞳。絶望の瞳。こんな表情の先輩、初めてだ。
 端正な顔立ちも相まって、綺麗すぎる人形みたいだ。

「邪魔……するな……」

 その声は先輩のものだけど、先輩の言葉じゃない。
 先輩に取り憑くカナコちゃんの声だ。
 わたしはキッと睨んで、声を張り上げた。

「もうやめて! 先輩はあなたとは違う! 雛田先輩はいつもまっすぐで、独りででも夢に立ち向かえる強い人なんだ! 無理やり惑わせないで!」
「邪魔……するな……」

 壊れたレコードみたいに、同じ言葉を繰り返す。ダメだ。先輩が力ずくでわたしの手を捻り上げようとする。

 ――そうだ!
 わたしはそれをかわし、スマホを取り出して開いたままだったウェブサイトを画面に表示させた。

「全日本シナリオ大賞! 劇団ひととせ脚本賞! ラジオドラマの募集、アニメ制作会社のシナリオライターの募集!」

 片っ端から読み上げたのは、公募のサイトに掲載された脚本家募集のタイトルだ。
 ついつい調べて、でも、『次』の応募先なんて先輩には必要ないかと思い直したけど!

「先輩、『次』があります! 言ったじゃないですか、切り替えろ、ひとつにこだわるなって! 先輩の目標はお祖母さんのようになることでしょう、だったら他にも道はあります『次』はいくらでもあります、でも!」

 先輩の頭をつかみ、無理やり目を合わせる。

「死んじゃったら、『次』がないんですよ……!!」

 腹の底から声を絞り出す。届け届けわたしの声!
『次』を捨てないでと祈るように、願うように「先輩!」と何度も呼んだ。

「……無闇に叫ぶな」

 至近距離で見つめた先輩の目が、ゆっくりと瞬く。

「大事な喉だろ」

 雛田先輩が、そう言った。

 その瞳には光が戻って、ほんの少し微笑んでいた。こんな時になんだけど、……綺麗だと思った。

「せんぱ……」

 泣きそうになりながら呼びかけて、詰まった。

 まっくろな影が、ギャラリーの柵の向こう――空中に浮いていた。
 シルエットで、セミロングの女の子だと分かった。うつむきの姿勢なのに、わたしたちを凝視していると感じた。

「カナコちゃ……阿妻叶子さん……?」

 カナコちゃんは、
 泣いているようだった。


〝どうして……
 わたしの小説は、
 選ばれなかったの……?〟


 胸に迫る、心からの嘆き。
 自分と違って夢を叶えた生徒に対する嫉妬心や怒りは、微塵も感じ取れない。
 ただ、どうして自分は選ばれなかったのか――果てしない疑問とやるせなさと、絶望がそこに在った。

 わたしは答えられなかった。
 すると、雛田先輩がわたしを庇うように前に出た。

「面白くなかったからだよ」
「!?」

(今それ言いますか!?)

 幽霊相手に、たった今殺されかかったんですよね!?
 雛田先輩のブレなさに、さっきとはまた別の恐怖がわいた。

「おまえの作品、部誌にあったものはすべて読んだ。冒頭が退屈で、展開が遅いしオチも予想できる。遊び心のつもりか余計な描写も多いしな。応募したものがあれと似たようなクオリティなら、一次落選はやむなしだ」
「……」

 もう何も言えない、と思った。この先輩、やっぱり住む世界が違う……
 頭がクラクラしたけど、先輩は「でも」と反語を使った。

「文章は好感が持てた。丁寧な言葉選びで、すんなりとした読み心地がいい。最後の掌編は、寂しさで寂しさを癒やすような話だったな。……あれは面白かったよ。俺は、好きだと思った」

 雛田先輩がカナコちゃんに言葉を贈る。
 同じ物語を綴る者として。
 ほんの少しだけ目元に悲哀をにじませて。

「おまえの作品、もっと読みたかったのに。なんで死んじまったんだよ。バカ」

 先輩は、そう告げた。

 ……かつて、
 自分を祟り殺そうとした幽霊相手に、『バカ』と言ってのける人はいただろうか……。

 ああ、でも。

(雛田先輩らしい……)

 わたしはカナコちゃんに視線を戻した。
 その時だ。

 講堂の窓から、光が差し込んだ。いつの間にか雨がやみ、曇り空が晴れたらしい。
 ……虹の橋だ、と思った。
 講堂の窓から差し込むそれは、一瞬で辺りを明るく照らした。
 光が影を消したのか、カナコちゃんは、瞬きした間に消えた。
 跡形もなく。
 すべて夢幻(ゆめまぼろし)だったかのように。

「消えた……」
 惚けたように先輩がつぶやいた。
「成仏、ってやつをしたのか……? 初めて幽霊を見たから分からん」

 それはわたしもだけど、「たぶん」と答えた。

「だってカナコちゃん、消える寸前、言ってましたよ」

 最後、微かに聞こえた女の子の声が、耳の奥でこだまする。

「――『死ぬんじゃなかった』って」

 雛田先輩が微かに目を見開く。
 つらい、言葉だ。
 もしかしたらカナコちゃんは、命が消える寸前、その選択を後悔したのかもしれない。
 ……きっと、したのだろう。
 アニメや漫画の成仏シーンのような晴れやかさはない。けれど空気はひどく爽やかで、なんだか皮肉で、心に残るものがあった。

 雛田先輩とギャラリーから下りた。織屋先輩たちに連絡しようとポケットに手を入れて、「あっ」と声を上げた。

「先輩、これ」

 ハンカチに包んだ万年筆だ。あいにく壊れたまま、けれど雨あとの空のような清々しい色は決して変わらない。
 いつかのように、先輩に万年筆を渡す。

「……ありがとう」

 小声だけどよく通る先輩の声に、柔らかさと微糖程度の甘さが混じっていた。
 あっという間に卒業式を迎えた。

 桃が散り始め、桜のつぼみが膨らみ、越冬した鳥が飛んだ日に、講堂でしめやかに催された。
 部活の時はだだっ広く感じたけど、全校生徒プラスアルファだと狭いものなんだな、なんて舞台袖で思った。
 卒業生代表の雛田先輩の答辞の前に、わたしたち演劇部渾身の軽演劇が始まる。

 クリーム色のローブに身を包んだ板山部長が、わたしに言う。

「友よ。それでも行くのか? ここにいれば、あたたかい食事もゆっくり眠れる家も、君を愛する家族や友人もいる。それを捨てても、まだ見ぬ景色とやらのために、独りで旅に出るのか?」

 緊張気味だけど、雛田先輩と香西先輩の容赦ないしごきのおかげで、板山部長はなかなか堂に入っていた。
 わたしは織屋先輩と作った空色の外套を翻し、堂々と声を張る。

「ああ。私はすべてを捨てていくよ。そうしなければならないのだ」

 ひとつひとつの台詞を、噛みしめるように言う。

「再会の約束はできない。帰る場所があると甘えていたら、たどり着けない場所を目指すのだ。最後に心よりの礼を、愛してくれたすべてのものに残そう。そしてそれは――」

 その刹那、わたしは板山部長から視線を移動させた。
 一年生の席に成実がいる。
 少し離れて就也がいる。
 そして壇上には、わたしたちを見つめる雛田先輩がいる。

 雛田先輩が書いた言葉を、わたしの声で、観客に伝えた。

 劇が終わり、拍手の後、先輩の答辞が始まった。

 定型文の季語の挨拶から入り、感謝の言葉を述べ、思い出、学んだこと、今後の決意とつつがなく読む先輩が、最後の部分で少し言葉を詰まらせた。
 けれどすぐに元に戻り、聞きよい声音で続ける。

「やがて大人になった私たちは、自分がいかに狭い世界にいたか思い知るのでしょう。そして、その世界にどれだけ守られていたか、頭ではなく心で識るのだと予感しています。この三年間の月日は、そのまま青春と言い換えることができます。その真ん中にいた私たちにとって、青春は美しくなんてありませんでした。ガラスのカケラのように、遠くから見れば美しいけれど、実際に触れると怪我をし、痛みが生まれ、血も涙も流す――そんな日々でした」

 いつか振り返った時、この苦しかった日々を愛おしく思えることを、
 今は、願ってやみません。

 ……最後にもう一度、感謝の言葉を贈って、雛田先輩の答辞は幕を下ろした。
 わたしの頬は濡れていた。

(……わたしもいつか、『今』を、穏やかな気持ちで振り返れるかな……)

 膝に置いた手を、ぎゅっと握る。
 卒業生が退場する。精一杯の拍手で見送った。
 先輩が所属する三年六組の生徒たちが、ひどく泣いていた。

 在校生が会場の片付けをして、ホームルームが終わると、ほとんどが校門前に向かった。卒業生との最後のお別れをしに。

 春日和の陽射しの中、校門前には人だかり。あちらこちらで、泣き声や写真を撮る音。
 わたしは花束を持って、二年生の先輩たちと合流した。
 板山部長が香西先輩に花束を渡す。雛田先輩には、織屋先輩が渡した。

「フゥ! 花とイケメン! さすが雛田パイセン、最後まで顔の良さがたっぷり!」

 大はしゃぎでカメラを構えるけど、織屋先輩が選んだという花束は本当にセンスがよかった。
 雛田先輩は青、香西先輩は緑のイメージでまとめたそうだ。雛田先輩も今日はおとなしく好きなように写真を撮らせていた。
 その様子を香西先輩と遠巻きで見守る。すると、先輩が話してくれた。

「今すぐは無理だけど、生活が落ち着いたらまた演劇を再開しようかなって。留学から帰ったら、いつでも雛田と作品を作れるようにね」

 晴れ晴れとした笑顔で。やっぱり香西先輩は、お父さんに似てると思った。

「元部長ーぉ! パイセンがクラスに戻りましょうってー!」

 散々写真を撮って満足したらしい織屋先輩が手を振る。
 香西先輩が、雛田先輩の元に何のためらいもなく向かった。

「はー眼福眼福……うぉっ!」

 スマホをウキウキ眺める織屋先輩が、急に横に避けた。

「あっぶな、鳥のフンが落ちてきた……あ! 見てはづるん、燕が巣を作ってる!」

 校門近くの駐輪場の軒先に、燕の巣があった。ここからじゃ見えないけど、もしかしたらあそこに卵があるのかもしれない。

「春って感じだねー。数週間後にはピヨピヨさえずるヒナが見れるかな?」
「楽しみですね」
「私も次は三年か……はづるん! 先輩後輩じゃなくなっても、私のこと忘れないでね!」

 ひしっと抱きついてくる。
 それは無用な心配というものだ。こんな先輩、忘れようにも記憶から消えない。

「演劇部がなくなっても、先輩は先輩ですよ」

 演劇部は廃部になった。二年生が受験を控え、わたしを含めて一年生が全員退部したからだ。
 わたしは四月になったら声優の仕事……いまだにこの単語に慣れない……が本格的に始まる。

 成実は部活も養成所も辞めて、バイトに励みつつ、今度劇団に入るらしい。
 就也も退所して――今は、声優の夢を追い続けるかどうか迷っている、と聞いた。

 すべて、人づてに聞いた話だ。
 わたしたちはあれ以来、ほとんど話していない。
 いつかの予感に違わず、わたしたちの仲は元に戻らなかった。何度も聞こえたひび割れた音が示すとおりに。

 燕の巣にあるかもしれない卵に見やる。あの音は、きっと……

「ねーはづるん。ちょい真面目な話していい?」

 織屋先輩がいつになく真剣に言った。

「私さ。今まで、あんまり夢らしい夢ってなかったのね。演劇部に入ったのも、推しピの観劇が生き甲斐だから、言っちゃえば単なる好奇心だったのさ。ずっと私は『演劇を楽しむ側』だったんだけど」
「けど……?」
「今回の卒業式公演で、準備したり練習したりして、『提供する側』も楽しいんだなーって初めて知ったよ。はづるんのおかげ!」

 織屋先輩が「ありがとね!」と大輪のひまわりみたいな笑顔をくれた。
 少しびっくりして、徐々に嬉しさがこみ上げる。

「わたしの方こそ、ありがとうございます」

 明るくて、楽しくて、でもそれだけじゃない先輩。
 この人を一言で言うと、『懐がでっかい』だと思う。わたしもこんな風になれたらな、と憧れた。
 そしてもう一人、わたしの先輩に最後の挨拶に向かった。

 雛田先輩は同級生に囲まれていた。
 先輩を妬んで陰口を叩いた人、万年筆を踏みつけた男子生徒、そして川添さんが順番に雛田先輩に何事か告げる。そして深く(こうべ)を垂れた。
 それに対して先輩がどう答えたのか分からない。けれどそのやりとりの後、声を上げて笑った。先輩の笑い声を、初めて聞いた。
 やがて人の波が引いた頃、わたしはその背中に呼びかけた。

「先輩!」

 先輩たちが振り返る。ネクタイとブレザーのボタンが全部ないのが可笑しかった。
 香西先輩が微笑んで、「先に行ってる」とその場を後にした。
 葉っぱが目立つ桃の木の下、雛田先輩と並んで立つ。

「これからどうするんですか?」

 受賞も映像化も白紙になった。先輩いわく、以前から予感があったそうだ。
 企画側から連絡が滞り、問い合わせても返信が来ず、……それで様子が変だったのか、と今更気づいた。

「フツーに大学に通いながら、演劇サークルに参加して、バアさんの知り合いの脚本家の先生に毎週作品を送ることになった。で、よかったら連絡するってよ」

 なかなか厳しい。けど先輩の横顔には隠しきれないワクワク感があった。

「武者修行ですね。それと、香西先輩のこと、よかったですね」
「あいつは俺に気を遣いすぎだ。『一人にした』なんて言ったけど、ガキじゃあるまいし。バカバカしい」

 先輩はそう憎まれ口を叩くけど、声のトーンに喜びが表れてます、と言ってやりたい。
 ふと思った。
 もしかしたら、あの『俺は独りでも問題ない』は香西先輩に心配かけないように選んだ言葉だったんじゃないだろうか。
 だってこの人が香西先輩に不信感なんて抱くわけない。こんなに嬉しそうなのに。

「そっちはどうなんだ。これから」
「……今週末に、また東京に行きます。死ぬほど扱かれてきます」
「そうか」

 ピー、チチチッ、と、どこかで燕のさえずり。
 空には飛行機雲がかかり、のどかだ。

「あと、来週からバイトを始めます。やっぱり上京は必須なので。資金稼ぎと、世間の荒波に揉まれてきます」
「そうか……」

 素っ気ないようで、実はきちんと聞いてくれている。
 最初は畏れた低い声も、今は眠気を誘うくらいに心地よい。

 けれど、全部、今日で最後だ。

「どこまで行けるか分かりません。十年後、自分はどこにいるかも分からない。だけど行けるところまで行って、出来るところまでやってみます」

 表情を引き締めて宣言すると、

「そういうのは、俺じゃなくて両親に言え」

 という返事が返ってきた。ああ、やっぱり雛田先輩は雛田先輩だ。 
 それが嬉しくて、わたしは笑顔で「そうですねっ」と返す。

 改めて先輩に向き直り、その意志の強さを映した瞳を、まっすぐ見上げた。

「ご卒業、おめでとうございます。たくさんお世話になりました!」

 声を張り上げ、頭を下げる。
 本当の本当に、この人と出会えてよかった。
 顔を上げろ、と先輩が短く命じる。言うとおりにすると先輩が右手を差し出す。

「こっちこそ、色々世話になった……」

 先輩が口ごもり、首を傾げた。
 えっ、まさか。

「先輩、もしかしてわたしの名前、知らないんですか……?」

 だいぶショックを受けると、ふいに、否、不意打ちで先輩が破顔した。

「冗談だ」

 先輩が笑って、軽く謝る。満面に広がった無邪気で幼げな笑顔に、わたしは怒ることも失念する。

(このひと、冗談とか言うの……?)

 戸惑っていると、先輩が改めて手を差し出した。

「ありがとう。――小山内羽鶴さん」

 先輩の笑顔を目にしたのも、
 先輩に名前を呼ばれたのも、
 これが初めてだったのだと、後で気づいた。

 握手した先輩の手は少し冷たくて、意外と柔らかくて、胸がいっぱいになった。

 一陣の疾風が吹いて、残り少なかった桃の花が、すべて散った。
 先生に下校するように言われ、場が解散する。別れの瞬間は儚いものだった。
 校門を出た雛田先輩の背中が、どんどん遠くなる。
 軸がしっかりした、ブレが一切ない歩き方。やっぱり憧れずにはいられない。

 ……わたしは先輩の連絡先を知らない。

 だからもう、会うことはできない。何かの縁がない限り。
 わたしが胸を張れるような声優……役者だったら、「いつか先輩の書いた脚本を、もう一度演じたい」と言えたかもしれない。
 けれど今のわたしでは、それを言う資格は無い。
 だから、再会の約束はできない。
 それが悔しくて、でも自業自得で、虚しくて、涙も出なかった。

 ふう、と吐息を落とす。
 今週末は二回目のレッスンがある。
 来月にはドキュメンタリードラマが配信されて、わたしは声優として大勢の前に立つ。

 成実もいない。就也もいない。寧音ちゃんや他の仲間はいても、
 わたしはたった独りで、この(げんじつ)に立ち向かわなければならない。
 油断するとすぐ崩れそうになる足元を、踏み固めるように力を入れた。

 飛び交う燕が、また目に入る。

 わたしは、今までいた世界に、思いを馳せた。
 そこはとてもあたたかい世界だった。
 外敵――あらゆる悪意や敵意から守られ、柔らかい毛布のように包まれ、まどろむように生きてきた。
 わたしは燕のヒナと同じ、〈たまご〉の中にいたのだ。
 あのひび割れたような音は、孵化の音だったのだ。
 外の世界に出る時期が来て、少しずつ殻が割れ、最後は自分のくちばしで突っつき、自ら壊した。

〈たまご〉は跡形もなく壊れ、
 わたしは今、独りとなった。

 卒業式公演で口にした、雛田先輩が書いた台詞を、
 鳥が飛び立つにふさわしい、どこまでも広がる青空に思い描いた。

『最後に心よりの礼を。愛してくれたすべてのものに残そう。そしてそれは――決別の言葉となる』

 ありがとう。そして、さようなら。
 わたしの、たまごだったセカイ。


【了】

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