別れた後、わたしは文芸部の部室に向かった。織屋先輩と昼食をご一緒する約束していた。

「いらっしゃーい! 狭いとこだけど寛いでってね!」

 部室は狭くて暖房が置けない。でも今日は陽射しがあたたかいし、先輩の歓待っぷりもホットなので問題なし。
 古い長机の上に、付箋がついた文芸部の部誌が積み上がっていた。わたしが先輩に見せて欲しいと頼んだものだ。
 昼食を済ませ、わたしはカナコちゃん――阿妻叶子さんの作品を読んだ。

「えぇ……?」

 まさかの内容に、わたしは頭を捻った。
 阿妻叶子さんが書いたという短編小説は、なんと可愛らしい恋物語だった。
 主人公の女の子が道端に咲くたんぽぽをキッカケに、同じクラスの男の子を好きになるっていうド王道の少女小説。
 冊子の最後のページに後記があった。昔流行ったアニメのキャラのイラストが彩る紙面に、まるっこい手書き文字が踊っている。


【ブチョウ:やっと脱稿できました~!】
【ふくぶちょー:今回スランプで死ぬかと思ったヘロヘロ】
【アヅマ:みんな~! アヅマの作品、読んでくれてサンキュー! え? 誰も読んでないって?(笑)】


 部員たちの対談という形のそれは、初めから終わりまでテンションが高かった。SNSのリプ合戦みたいだ。ますます疑念が募る。

「どーよ、はづるん。カナコちゃんの作品その他を読んだ感想は」
「七不思議の呪いのモトになった人物だとは……思えません……」
「そう。私も、単なる一昔前のオタクやん! 全然謎の人物でも何でもないやん! ホラー映画とかだったらカナコちゃんは『スプラッター小説を好んで、最後に遺した作品は自分の血をインクにして書いた』みたいな設定が出てくるのにっ! ……的な惜しさを感じた」

 織屋先輩のクレーム(?)はなんとなく理解できる……けど、現実なんてこんなものかもしれない。

「んで、これがカナコちゃんの顔写真。図書室にある歴代のアルバムから、こっそり写してきた」

 先輩がスマホの画面を見せてきた。カナコちゃんはセミロングの眼鏡女子だった。取り立て美人ではないけど、白い歯を見せる笑い方が可愛い女の子。

 イメージと全然違う。
 こんな子が、本当に小説賞に落選したから自殺したっていうの?

 わたしがそう疑問を口にすると、

「うーん。もしかしたら、それだけが理由じゃないのかもねえ」
「え?」
「当時のカナコちゃん、三年生でしょ。進路とかで本気で悩む時期じゃん。色々としんどいことが重なって、カナコちゃんは慢性的に追い詰められてたんだよ」

 織屋先輩が別の部誌を差し出した。
 ごく短い掌編小説。病気の女の子が病室の窓から散る花を見て涙を落とすという――物語というより、一場面を掬い上げたような作品だった。
 作風が違うのは後記もだ。イラストがなくなった寂しい紙面に、かすれた文字が並ぶ。

【アヅマ:受験が本格化してきて、迷走中。ぶっちゃけしんどいです。小説書くのもしばらく休もうと思います。どんな時でも物語を綴ることだけはやめないと思ってたんだけどなぁ……】

 別の部誌では、散文的な詩が一篇だけ。後記にはこうあった。

【アヅマ:今回で部誌も発行中止になってしまいました……。でも、もうすぐ高校生限定小説賞の、一次選考の発表なんですよー。アヅマがずっと憧れてた賞です。大賞とりたいな。とれますように。そうすれば、また小説が書けるような気がします。】

 ——また、小説が書きたいな。

 そんな願いで締めくくられた。これがカナコちゃんの最後の作品だった。

「最後の拠り所だったんじゃないかな、その小説賞」

 わたしもそう思った。
 一縷の希望、細い蜘蛛の糸、心の拠り所。
 わたしにとって成実と就也がそうだったように、カナコちゃんにとってはその小説賞が日々の支えだったのだ。
 他人から見れば、くだらないと一蹴されるような気持ちかもしれないけど、
 わたしには分かった。頭じゃなくて心で理解できた。カナコちゃんの絶望が。まっくらな感情(もの)が。

「落選は……トドメでしかなかった……?」
「だね。――ほら、雛田パイセンも成実ちゃんについて言ってたじゃん。『魔が差した』ってやつ」

 確かにそう言った。雛田先輩は、成実が――本当は就也なんだけど――わたしの持ちものを盗んだのを、『魔が差した』と表現した。
 魔が差したから、普通では、普段では考えられないようなことをしたのだ。

「……『すぐ切り替えられる人がいつでも切り替えられるってわけじゃない』。織屋先輩、前に言ってましたよね? 香西先輩も」

 ――どんな前向きで強い人でも、後ろ向きになって弱くなることがある。

(そうだ……)

 カナコちゃんも、成実も、就也も一緒なのかも知れない。
 成実は確かにわたしに冷たい態度をとった。
 就也はわたしの物を盗んで、それを成実の仕業に見せかけた。
 けれど、それはただの行動だ。それは成実と就也のすべてじゃないし、本質じゃない。

 だってわたしは知っている。
 成実と就也の優しさと、懸命さを。

 だって、……ずっと一緒にいたんだから……

 視界が少し潤む。チクチクと胸が痛い。

「あるんですね、そういうの……どうしても、ダメになる瞬間が。暗い感情に負けちゃう時が」
「……だね。カナコちゃんはそのダメになる瞬間に魔が差して、自殺しちゃったのかもね」

 わたしにもそんな一瞬があった。
 ひとりきりの講堂で部活をしていた時、ギャラリーの高さが目に入った。指先にタオルが触れた。

 ……あ、このタオルをあの柵に繋いで、首をかけて飛び降りれば、死ねる……

 捨て鉢な気持ちでそう思った。それしか頭になかった。声優の夢も、オーディションも、両親のことも頭から吹っ飛んでいた。
 なんてバカなことを……そう言えるのは、わたしが死なずに済んで、冷静な頭で振り返っているからだ。
『その瞬間』は、真っ当な考えなんてできない。
 ゾクリとした。こんなのまるで、以前テレビで見た、鬱病の人の希死念慮……だっけ、自殺したくなる瞬間みたいじゃないか。

(……怖い)

 あの時に見えた、あの黒丸の影。
 あれの正体は、その『魔』というやつではないだろうか。
 それをカナコちゃんが――この際、呪いとか幽霊が実在すると仮定して――操っているとしたら……?

(でも待って。そうすると、影が……『魔』が成実や就也を巣食ったのは何故なの?)


 カナコちゃんに呪われるのは、
 夢が叶った生徒。
 カナコちゃんに呪われたら、
 ――持ちものが、なくなる。


 けど、実際に持ちものを盗んだのは生きている人間……就也や川添さんだ。

 ということは、〈カナコちゃんの呪い〉が作用するのは、『夢が叶った生徒』本人ではなくて、その周囲の人たち?
 その人たちの中にくすぶる怒りややるせなさ、嫉妬心をカナコちゃんは煽って、『物を盗む』ように仕向けるんじゃ……。