翌日、学校を休むことはしなかった。

 いつもどおり――といっても十日くらい前からの習慣だけど、朝早く起きて、体力作りとダイエットのためにウォーキングして、ストレッチをした。
 最初は河原で発声練習もしようかと思ったけど、寧音ちゃんとのLINEで「起き抜けは喉が開かないからやめた方がええよー」とアドバイスをもらったので、やめた。

 昨日借りた雛田先輩のハンカチを、可愛いラッピング袋に入れる。
 手洗いして部屋干しして、アイロンもかけた。
 シワひとつない白いハンカチは雛田先輩にぴったりだ――なんて、ナチュラルに考える自分に苦笑する。
 あんなに怖いと畏れたのに。

 忘れずに鞄に入れて、出かけに鏡を見る。
 動画を見て練習した編み込み、いい感じにできてよかった。昨日散々泣いたけど、目を冷やしたおかげで腫れも少ない。

「今日も早いわね。まだ七時なのに」
 と、お母さんがお弁当を渡す。

「うん。ごめんね。お弁当急かしちゃって」
「いいのよ。どうせお父さんも七時前には出るんだから。ね、今日も遅くなる?」
「うん。帰りに面接なんだ」
「ああ、そうだったわね。……ね、羽鶴。大丈夫? 無理してない?」

 お母さんの心配げな顔に、ギョッとした。

「羽鶴がすごーく頑張ってるのすごーく分かるんだけど、お母さんとしてはちょびっとだけ心配なの。お願いだから身体だけは気をつけてね」

 困ったように笑い、お母さんが手を握る。
 そのぬくもりを感じながら、わたしは頷いて「いってきます」と出かけた。

(でもね、お母さん。わたしにはもう……)

 空を見上げた。
 とても久々に、空の青さと雲の白さ、太陽のまぶしさを感じた気がする。
 近所のおうちの庭に植わる梅が綻びかけている。薄紅の花のつぼみが春を告げる。
 この冬が明けて春になった時、わたしはどうなっているんだろう……
 なおも生まれようとする不安を打ち消したくて、わたしは通学路を駆けだした。

 一番乗りの教室で、図書館で借りた演劇論の本を読んでいると、続々とクラスメイトが入室してきた。
 紙面の文字を追いつつ、教室の喧噪――クラスメイトたちの何気ない会話に耳をそばだてる。
 これは使えると思った会話は演技ノートに書き留めた。いつかアフレコの現場で、『学校の教室』と指定された場面でガヤをすることになった際、きっと役立つと思ったからだ。
 全部、本や動画で知ったことの真似だ。けど、今は片っ端から試したい。

 成実と就也は、ショートホームルームが始まるギリギリに登校した。ふたりともわたしを見ようとしない。
 そんなわたしたちを、クラスメイトは遠巻きに見てヒソヒソ話をする。居心地が悪かった。
 昼休みになると、逃げるように手荷物を持って教室を出た。行き先は図書室。目当ての人はすぐ見つかった。

「ハンカチ、ありがとうございました」

 窓際の席を陣取る雛田先輩に、小声でお礼を言う。
 先輩は頬杖をついたまま、片手で受け取った。
 今日も先輩のそばには本の山。
 愛読書らしい脚本の指南書の横には、名刺大のカードが並んでいた。走り書きで『出会い① 学校の廊下。薄暗い夕方。少しの驚き』とか『対立② 練習場。夕方。負けん気。ミッドポイント』とか書いてある。

「これは何ですか?」
「イベントカード。……今日は休むかと思ったんだが」

 先輩はハンカチを無造作に鞄に仕舞った。わたしは軽く頭を振る。

「立ち止まってる余裕、無い……ですから」

 笑ったつもりだけど、うまくいかなかった。
 本心ではあるけど、背伸びした答えだった。
 やっぱり素っ気ない先輩の返事。邪魔しちゃ悪いからすぐに去ろうとした、けど。

 ふいに足が止まり、また衝動のままに、その理知的な横顔に問うた。

「先輩は、どんな作品を書くんですか?」
「……は?」

 それは急激な、そして唐突な興味だった。

「聞いたことなかったな、と思って……。賞を獲ったのはサスペンスものですよね。女性刑事主人公で、劇場型殺人鬼を追うっていう粗筋だけ見ました」

 わたしは怖い系の作品があまり得意じゃない。
 就也に教えられた時は「絶対に観たくない」と思ったものだけど。

「ジャンルは、まあ何でも。サスペンスも恋愛も青春も、コメディも……巧くはないが、好きだな。最近は漫画原作の舞台の脚本にも興味あるかな」

 指折り数えて淡々としゃべる先輩に、もっと話を聞きたいと思ってしまった。けど。

「で、それがどうかしたのか?」

 秒で会話が終了した。……うーん。

「映像化、楽しみにしてます。シナリオブックとか出たら嬉しいです」

 今更だけど、先輩がどんな物語を書くのか興味が芽生えた。
 これはわたしが最近、他の人の演技をよく観察するになったのと同じ現象かな。インプットの一環かな。
 なんて考えつつ先輩を見ると、ギクリとした。

「そうか……」

 そう答える先輩の声に、珍しく張りがない。
 また遠い目をして、先輩は万年筆をカチカチさせた。
 どうしたんだろう、何かマズいこと言っただろうか、と思う間もなく、香西先輩が来た。

「雛田、僕はもう帰るけど、今日も下校時刻までいるつもり?」
「まあな」
「毎日よく続くね。織屋さんじゃないけど、新作の草案もシナリオの勉強も家でやればいいのに」
「……家にいると、余計なことばっか考えちまうからな」

 余計なことって何だろ、と思った。

「あと単純にきょうだいがうるさい」
「! 先輩、きょうだいいるんですか?」
「五人きょうだいの真ん中なんだよ。意外だろ?」

 香西先輩がいたずらっぽく笑う。
 確かに意外だ。個室も勉強机もないので、学校の方が集中できるそうだ。
 雛田先輩がイヤホンをつけたので、わたしたちは図書室から出た。
 わたしが文芸部の部室に行くことを告げると、香西先輩がためらいがちに言った。

「明日は演劇部の集まりだよね? 雛田は顔出すって言ってた?」
「いえ。先輩、卒業公演で使う脚本を『つまらない』って言ってたし、難しいかもです」
「ああ、そうだったね……悪いけど小山内さん、雛田を連れてってくれないかな。僕は明日、外せない用事があって」

 思いがけない頼み事に、「へっ!?」と声が出た。

「難しいかな。でも、あまり雛田を一人にしたくないんだ。あいつ、最近少し様子がおかしくてね」
(香西先輩も気づいたんだ……)
「自分でも、心配しすぎだと思うけどね。どうしてもほっとけないだ。僕は……雛田をひとりにしたから……」

 香西先輩は卒業後、シンガポールに留学する。
 将来はお父さんの仕事を継ぐつもりで、その勉強のためだ。
 ――「卒業したら演劇をやめる」
 そう言った時の、悲しそうな寂しそうな香西先輩の微笑。それを思い出して、少し切なくなった。

 香西先輩が留学を決めたのは去年の秋だそうだ。

 それまでは地元の大学に進学し、雛田先輩と演劇を続けるつもりだったけど諦めた。きっと断腸の思いだったんだろう。
 そんな仕方がないことに対して、「雛田を一人にした」と自分を責める言葉を使う香西先輩は、やっぱり優しい人だ。
 わたしが「一応、言ってみます」と言うと、香西先輩が柔らかい笑顔を見せてくれた。