わたしのたまごだったセカイ

 それがどういう意味なのか説明されることはなかった。

 固まった思考が解凍されるヒマもないまま、わたしたちは壇上に上がらされた。
 一列に並んで、ひとりずつ自己紹介をするよう促される。
 客席の方を見てドキッとした。いつの間にか数台のカメラが設置されて、わたしたちを撮影している。
 最初に名指しされたのは寧音ちゃん。所属事務所と名前を言って、「よろしくお願いします!」を放つ。

「――今の自己紹介を、東京のアクセントで言ってみてください」

 間髪入れずに寧音ちゃんにそう言ったのは、五十代くらいの痩せた男性だった。
 名前はパッと出てこないけど声は知っている。長年、報道番組のナレーションをしている人だ。
 寧音ちゃんがもう一度自己紹介をした。関西のアクセントが標準語のそれになる。わたしはすごいと思った、けど。

「それは本気でやってるのかな?」

 寧音ちゃんの肩が小さく跳ねた。ナレーターの……そうだ。青井(あおい)さんだ、青井さんが腕を組んで眇める。

「アクセント辞典は持ってる?」
「は、はい」
「今までに何回開いた?」
「……」
「毎日開いて、CDも最低一日数回聴いて、まずは模倣しなさい」
「はい!」

 寧音ちゃんの語尾が少し震えた。少し離れて聞いているだけのわたしも冷や汗をかく。
 次は、『サンダルウッド』役の色黒で筋肉質な体型の男の子。マッチョらしい野太い声だと感心したけれど。

「ちょっと鍛えすぎだね」

 声優と舞台俳優の二足のわらじで活躍する寿海星さんが指摘した。値踏みする目つきだ。

「特に首回り。鍛えすぎると、喉がうまく開かなくなるよ。もう少し考えてトレーニングした方がいい」

『サンダルウッド』の子の溌剌とした表情が一瞬で失せた。首を抑えて、「はい」と消え入りそうな声で答えた。
 次は『スペアミント』役の、ハデな格好の男の子。耳から腰まで全身にアクセサリーをつけている。
 彼が少々あからさまな、気取った作り声で挨拶すると、すぐに色取陽花里さんがため息をついた。

「君は失格。ここにいる資格ないわ」
「ハァ!?」
「そのブレスレットと腰のチェーンは何のつもり? アフレコの現場では音の出る服装やアクセサリーは厳禁。常識では?」
「いや、あの、今日は顔合わせだし、着替えもあるし……」
「だからジャラジャラうるさい格好でも許されると思ったの? 君は何のつもりでここに来たの。声優としての仕事をしに来たという意識が低すぎる」

『スペアミント』役の男の子はグッと言葉に詰まった。

(仕事……)
 そうだ。これは『仕事』なんだ。
 やっぱりわたしは甘い。その意識が完全に抜け落ちていた。

「申し訳ありませんでした。すぐ外します」

 頭を下げる彼はアクセサリーを全部外した。色取さんは大きくため息をついて、

「それで包むといいわ」

 と、生地の厚いタオルを渡した。
 彼はハッと顔を上げ、芯のある地声でお礼を言った。

 そして次は、――わたしだった。

「長野県、プリューム養成所、小山内羽鶴です。よろしくお願ぃします!」

 ああ、しまった。『い』が少しひっくり返ってしまった。失敗という単語が浮かぶわたしに、誰か近づいてきた。
 高遠さんだった。
 静かな森のようなブラウンの瞳が――毎日SNSの写真や動画、雑誌で目にする瞳が、わたしに向けられる。

「小山内さんは、何か得意なことはある?」

 柔らかいシフォンケーキみたいな、まるみを帯びた声。
 子どもの頃からずっと聞いてきた声。感激で泣きそうなのと緊張で泣きそうな気持ちがこんがらがる。
 わたしの得意なもの。
 そんなの無い。養成所で歌もダンスも一通りやったけど、プロの人たちに得意ですって言えるものなんて……
 パニックになった瞬間、何故かは分からないけれど、あの先輩の声がした。

 ――「そんなことはない。見事な」

 先々週の金曜日、部活の日。ヤケクソで披露した――

「外郎売です!」

 途端、横から失笑が起こった。
「外郎売って……」「そんなの初歩中の初歩だろ」という言葉が聞こえる。耳まで真っ赤になる。

「すっすみません! あの、わたし」
「どうして謝るの?」

 高遠さんがキョトンとして首を傾げる。

「すごいじゃない、外郎売が得意だなんて。あなたたちもどうして笑うの?」

 高遠さんがブラウンの瞳を向けると、笑った人たちが気まずげに顔をそらした。

「私ね、ひとの外郎売を聞くのが大好きなの。聞かせてもらえるかな?」

 舞台上どころか会場中の視線――カメラのレンズまでわたしに注目する。
 息が上がってうまく吸えない。頭がクラクラする。
 ゴクリと生唾を飲んで、両足を開いて両手を後ろに組んだ。
 重い空気を吸い込んで、おなじみの「拙者」の第一声を切った。
 でも次の行で、一瞬噛んだ。

「欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪致して」

(ああ、今の違う。『う』が立ってないし、『てえはつ』になってしまった)

「用ゆる時は一粒ずづ、冠の」

(『つ』が『づ』になった、ダメだ、落ち着け)

 自分に言い聞かせたけど焦りが加速する。なのにストップがかからない。
 トチっても終わらせてくれないという地獄。
 咳が出そうなのをこらえた時、また、……あの先輩の声が聞こえた。

 ――「見事な外郎売だった」

 雛田先輩からの唯一の褒め言葉。
 あの、正しいことと本当のこと、お世辞なんて死んでも言わなさそうな雛田先輩からの褒め言葉。

 先輩のことは苦手だ。

 でも、信用はできる。

 先輩の言葉だけは誰よりも信用できる!

「――只今はこの薬!」

 仕切り直すようにゆっくりめにはっきりと言うと、その後はいつもどおりにできた。毎日練習したのと、ほぼ変わらず。
 最後の一行を終えると、高遠さんから拍手を送られた。

「すごいね、小山内さん! 最初はちょい緊張しちゃったのに、きちんと持ち直した点がすごい。なかなか難しいですよね、先生方!」

 興奮した面持ちの高遠さんに、青井さんが頷く。

「そうですね。ちゃんと暗記してますし、養成所一年未満にしては及第点かと」

 桐月先生が口元に手を当てる。

「ですが、まだ早口言葉の練習や朗読の域を出てませんねぇ」
「同意します。君、もう少し『人に聞かせる』ということを意識した方がいいわ。これは単なる練習用文章ではなく、芝居のテキストなのだから――ってタカトーさん、何故アナタがメモってるの?」

 手のひらサイズのメモ帳に多色ボールペンを走らせる高遠さんの頭に、色取さんがチョップした。

「あはは、すみません。養成所時代からアドバイスをメモする癖が抜けなくて」
「いや、これは小山内さんへの助言だから……というか基本中の基本すぎて、タカトーさんには今更でしょ」
「あ、それもそっか。なら小山内さんにあげるね。ハイ」
「へっ!?」

 高遠さんがメモ帳をちぎり、差し出した。驚きすぎて思わず受け取る。
 高遠さんは合格者たちを見回して、明るく言った。

「皆さんも、こーいう表紙が固いタイプの小っちゃいメモ帳を持ち歩いた方がいいですよー。いつもポケットにメモ帳を!」
「ハードカバーって言うのよ、タカトーさん。でもメモは大事です。以上」

 色取さんが手を叩いた。
 わたしは手の中のメモを見る。
 青いインクで『外郎売 練習用文章× 芝居のテキスト○ 意識!』と書かれた、高遠さんの直筆メモ。
 すごいものを頂いてしまった。
 どうしたらいいの……とオロオロしかけた時だった。

「高遠さん。外郎売のお手本をお願いできますか?」

 桐月先生がにこやかに言った。胃がヒュッとなった。

「……分かりました!」

 高遠さんは快諾して、姿勢を正した。始める寸前、わたしを一瞥した気がした。

「――拙者親方と申すは」

 息も時間も止まった。
 おなじみの口上、そして動画サイトで何度も観て聴いた高遠さんの外郎売なのに、全然違った。
 (なま)だからとか近いからとかじゃない。

「……ふふっ」

 わたしの隣にいる子が可笑しそうに笑った。
 そうだ。笑えるのだ。この外郎売は、コメディになっているのだ。
 高遠さんの外郎売は、身振り手振りと声の調子の高低差が明瞭で、聴く側に飽きさせない工夫がされていた。
 けれど道化師みたいにただ楽しいだけではなく、どこか切実なものを感じさせた。
 お願い、話を聞いて、そしてできれば買ってと縋るような。
 ある種の必死さは笑いを生む。高遠さんは、それを狙っているのだ。実際、先生方も口元を隠して笑っていた。
 最後の一行が終わると、高遠さんは胸に手を当ててお辞儀をした。大きな拍手が起こった。

「さすがですね。久々に聴きましたけど、楽しめましたよ」
「ありがとうございます!」
「今のアレンジはコメディですよね。設定は?」
「『前日の晩に奥さんとケンカして、全部売るまではおうちに入れない外郎売』です!」

 先生方と高遠さんのやりとりを目にして、合格者たちが感嘆する声を耳にして、わたしは呆然と突っ立っていた。 
 レベルが違いすぎる。
 天と地どころじゃあない。外郎売にキャラクター設定をするなんて発想、思いつかなかった。ただ明瞭に読み上げればいいのだと思い込んでいた。
 恥ずかしい。特技だと言って披露したのが顔から火が出るほど恥ずかしい――でも。

(心臓……すごくうるさい)

 鼓動が、指先まで波打つ。
 手のひらに汗。足元が落ち着かない。
 何だろう、この気持ちは。これまでに感じたことのない熱で、耳たぶもおなかの底も熱くなった。

 ――何かがひび割れる音が、耳の奥でした。

 わたしが生まれて初めての感覚に混乱している間に、他の合格者たちも自己紹介後にヒヤッとするアドバイスをもらった。
 全員分が終わる頃には、皆、一様に顔が曇っていた。

 すると、桐月先生が客席のカメラマンに向かって手を振って、

「しばらく撮影を止めて頂けますか」

 と言った。
 そしてわたしたちに向き直る。

「気づいた方もいるでしょうが、今のあなたたちの自己紹介と諸先輩方のやりとりはすべて撮影されています。これは、アロサカプロジェクトの要、あなたたちの主役にしたドキュメンタリードラマのためです」

 ドキッとした。確かに、応募要項にそう書いてあった。『レッスンを受ける際にはカメラが入ります』と。

「まず今後のスケジュールを配布します。筆記用具を取ってきてください」

 全員が鞄を置いた客席へ走った。こういう時にタラタラと行動するのは厳禁だ。

「アニメの放送開始が来年の一月。同時期にあなたたちは声優グループとしてデビューしますが、顔出し自体は四月からです。先ほど言ったドキュメンタリードラマの配信という形で」

 すばやくメモする。どうしても文字が震えてしまう。

「御存知のとおり、アロサカのコンセプトは『次世代の声優を育てる』こと。養成所に通ってはいても新人以下でしかない若いあなたたちが、短期間で研鑽を積み、一大企画の声優にふさわしくなるのを視聴者に見てもらいます」

 わたしが生まれる前にあったテレビのバラエティ番組を思い出した。
 番組内のオーディションに合格した人が、有名ミュージシャンのプロデュースで国民的アーティストになったという話を聞いたことがある。

「単刀直入に言います。これからあなたたちは『商品』になると同時に、自営業者になります。声優という自己プロデュースの自営業者になるのです」

 青井さんが、ナレーターらしい平坦で一歩引いた声調で言った。

「ここは養成所や専門学校じゃない。お金を払うのではなく、お金をもらって仕事をするということを念頭に置きなさい。企画側が提示したスケジュールには絶対に従ってもらう」

 色取さんが言い切った。CDや動画で耳にする歌声の甘さは、微塵も感じられなかった。

 渡されたスケジュールによると、六月までは月に一回東京に来て、この専門学校でレッスンを受ける。七月からは毎週で、八月からいよいよアフレコが始まる。
 かなりの過密スケジュールです、と桐月先生が瞳を伏せた。

「学校生活やアルバイト、体調不良による休みは、ある程度までは考慮するそうですが、フォローはほぼありません。つまり自分が空けた穴は自分で埋め合わせしてください」

 寿さんが言った。一挙一動が絵になり、言葉の重みが伝わる。
「それからこれは、あまり言いたくないんですけど……」

 高遠さんが手を挙げた。のんびりとした癒やし系の声音が、ふいに鋭さを帯びる。

「あなたたちの代わりはいます」

 ボールペンの先が狂った。

「これから、養成所や専門学校と比べものにならないくらい厳しいレッスンと、高いレベルを要求されます。また、ドキュメンタリー番組に出ることで、不特定多数の目に晒されることになります。そうなると、あなたがたの元に批評や批判が容赦なく届きます。時に心無い中傷も。……経験者として言います。必ず心が折れかけます」

 高遠さんの目がふいに遠くなった。
 そういえば、高遠さんはSNSを始めてすぐにやめたんだった。ファンを名乗る人の誹謗中傷がひどすぎて。

「具体的に言うと、男子は『キモい』『ナルシスト』、女子は『ブス』とその他セクハラ発言は必ずぶちかまされるわね」
「同じ人間だと思ってないんでしょうねぇ」

 色取さんと寿さんがさりげなく追加する。ゾッとした。高遠さんが頷く。

「先ほどのあなたたちの姿……私たちに怒られ、指摘され、言葉に詰まる姿は多くの人に晒されます。それは視聴者に楽しんでもらうためです」

 あなたたちは、
 声優のいう名の『コンテンツ』になるのです。

 高遠さんは本当に言いにくそうだった。

 桐月先生が一歩出て、慈愛すら含ませた瞳を向けた。

「その扱いを『苦しい』と思う方は、辞めて頂いて結構です。ご自身を守るためにも。――実はアロサカの合格者には『補欠』がいます。もしも第一合格者が辞退した場合、その人が入れ替わることになります」

 あなたたちの、
 代わりは、
 いくらでもいます。

 もう一度、念を押すように、桐月先生が言い含めた。

「すべてはあなたたちの努力と資質と――運次第です。理不尽と思うやもしれません。けれど声優、ひいては『人と違う生き方』というのは、真っ当ではないのです」

 メモをする手が完全に止まった。
 わたしの足は、今どこに立っているのだろう。

「さて、今日のレッスンを始めましょう。五分で支度してきてください。そして最後は、たぶん皆さんが未経験であろうアフレコを体験してもらいます」
「!」

 驚いた。アフレコは、養成所でも二年近く経たないと学ばさせてもらえないのだ。

「本来なら年単位で修行を積ませてからが望ましいのですが、何せ急ピッチですからね。芸の道にもスピードを求める、なんとも生き急いだ時代です」

 はあ、と桐月先生がため息をついた。
 声優志望なら誰でも待ち遠しいマイク前に立てる。
 でも嬉しさなんか皆無だ。
 ただ、……とんでもない場所に来たと、呆然とした。
 また、何かがひび割れた音がした。そんな感覚を味わう間もなく、次は薄い脚本を渡された。

「そのアフレコ体験で読んでもらうセリフです。掛け合いです」

 わたしの担当する『ジュニパー』は、寧音ちゃんの『ラベンダー』との会話シーンだ。
 旅人のジュニパーは、サーカスに入団するようラベンダーに説得される。
 けれどジュニパーは頑なで、首を縦に振ろうとしない。

【ジュニパー:「僕は、一人でいいんだ」】

 そう言って、ジュニパーはラベンダーから去って行く……そんな場面だ。

(ひとりで、いい……?)

 どうしてそんなことが言えるの。
 独りでいいんだなんて。わたしには言えない。絶対に言えない。

 どうしよう。

 ジュニパーの気持ちが、分からない。
 着替えてからのレッスンは、養成所でやっていることとほぼ同じだった。
 表情筋を鍛えるトレーニング、腹式呼吸、ストレッチ、発声と滑舌の練習。
 お昼休憩を挟んで、一時間ずつボーカルとダンスレッスンを受ける。

「初日だからスタンダードなものばかりだけど、日舞や空手、さらに変わり種としてポージングやメイクレッスンも受けるそうですよーうらやましいなぁ」

 高遠さんがほのぼの言ったけど、わたしは目の前をこなすこと、みんなについていくことで一杯一杯だった。
 なので、『ジュニパー』の役作りが全然捗らなかった。
 休憩時間に、渡された資料を読み込む。わたしだけじゃなくて全員が。

 ジュニパーのキャラデザインは、旅人らしい格好だった。
 アロサカのキャラは、イメージカラーが珍しく、パステル系やスモーキー系のふんわりした色が使われる。心身が疲れて癒やしを求める人は、強く訴える色は好まない、という理由らしい。今の流行りだからいいかもしれない。
 ジュニパーはスモーキーグリーン。ぴょこんと外にハネた髪型に、イメージカラーの外套。目はいわゆるジト目で、立てた襟で口元を隠している。表情が読み取りづらい系の外見だ。
 長らく一人旅をしてきたという流浪の旅人。
 一体どんなキッカケでサーカス団に出会って、どんな関わりと会話を経て、入団を誘われたのだろう。
 そこの過程はまだプロット段階だというから泣きたい。自由に考えろと言われたけど。

(せっかく仲間ができるチャンスなのに、「僕はひとりでいい」なんて)

 孤独を愛するジュニパー。差し出された手を取らない男の子。
 ……そういえば、似たようなことを言っていた人がいたな。

「強い……んだろうな」

 わたしには無い強さだ。
 今もなお成実と就也に、「傍にいてほしい」「話を聞いてほしい」と願うような弱いわたしには。
 難しすぎる……。
 迷子の子どもの気分だ。今すぐLINEを送りたい。
 でも誰に……そもそもスマホはロッカーに預けたから無理だけど。

 体育座りで顔を伏せる。
 この休憩が終わったらアフレコ授業だ。とにかく、どんな口調で行くのかだけ決めて……

「羽鶴ちゃん。いま話しかけてええ?」

 寧音ちゃんが正面に立って、遠慮がちに尋ねた。
 わたしは顔を上げて、慌てて「大丈夫」と答えた。
 寧音ちゃんが隣に座る。

「アフレコ練習の前に、ちょおーっとだけ読み合わせせぇへん?」

 お願い、と寧音ちゃんは言うけど、こちらこそ願ってもないことだ。

「じゃあ、始めるで」

 スゥッと息を吸ったのが合図だ。

「『ジュニパー、どうしても行くの?』」

 ラベンダーはサーカスの団長で、面倒見のよいしっかり者。寧音ちゃんが大人びた声で、年長者らしいラベンダーを作り上げた。
 でも寧音ちゃん本人は訛りが気になるらしく、何度も言い直してわたしに確認した。わたしも地方出身だから正しい発音は自信がなくて、拙くて申し訳ないけど気になる部分を指摘した。
 ジュニパーのセリフはふたつ。「ああ」と「ひとりでいい」の下りだけ。
 わたしは男の子らしい声音で、

「『僕は、一人でいいんだ』」

 そう言った、んだけど……

(……?)

 違和感がひどい。なんか違う気がする。どこがどうってわけじゃないけど。
 ジュニパーはラベンダーの誘いをきっぱりと断っている。たぶん他のメンバーにも引き留められただろう。
 けれど自分の意見を貫き通す。つまり自分の意志が強い子なんだ。
 そう思ったのに、この違和感は何?
 寧音ちゃんも居心地の悪さのようなものを感じたらしく、頭を掻いて首を傾げていた。

「お二人とも、移動しますよ」

『レモングラス』役の小柄な女の子がわたしたちを呼んだ。
 すぐさま立ち上がる。考える余裕なんてなかった。

 レコーディングスタジオは、養成所にあるものよりずっと広かった。
 マイクとモニターがあるレコーディングブースと、録音した音声を編集する機械があるコントロールルームに分かれる。
 ほぅ、と合格者の面々からため息が漏れた。正面には四つの大きなモニターと等間隔に並んだ四つのマイク。足元のカーペットが足音を吸い込む。

「広くて、いい金魚鉢ですねぇ」
「はい。空調も静かだし、環境がいい」

 背後で高遠さんと寿さんが言った。『金魚鉢』はレコーディングブースのことだと養成所で習った。
 すると、コントロールルームにいる音響スタッフさんが声をかけた。

「アフレコレッスンを始めます。まずは色取さん、寿さん、高遠さんで見本を見せてもらいます」

 ドキッと心臓が跳ね上がった。

「といっても、アロサカの画(え)は何もないので、既存の作品になりますが。『桜もののふ』一期の四話です」

 心臓が止まった。
 高遠さんが頬を赤らませる。

「うわ、なんか恥ずかしいなぁ。(べに)ちゃん久しぶりすぎて自信ないよ、色取さーん」
「プロならやる! タカトーさんのキャラ以外は私と寿さんで担当するから」
「一人三役ですね。分かりました」

 高遠さんは自信なさげだったけど。
 すぐにそんなのは謙遜だと分かった。思い知った。

(うわぁ……!!)

『桜もののふ』の世界、だ。
 たぶんモニターのアニメ映像がなくても、声だけで、わたしは子どもの頃大好きだったあの世界にトリップできただろう。
 キャラクターの表情が見える。景色が見える。画面を彩る桜吹雪が見える。
 本当にそこにいるみたいだった。
 ずっと大好きなキャラクターが、世界が、確かにそこにあった。
 レコーディングブースの外にいるのに、呼吸をすることさえ憚れた。

(きれい……)

 マイクの前に立つ高遠さんは、まっすぐだった。

 背筋や立ち姿だけじゃない。凜々しいとか美しいとか、こういう時に使う言葉なんだろう。
 鼓動が、ドクンと大きく鳴った。


「はい、ありがとうございましたー。どうですか、皆さん。実際は十人以上ブースに入るので、マイクの前に立つのは入れ替わり立ち替わりになります。この交代のタイミングがとても難しいのですが、今日は時間が押してるのでマイクの前に立ち、声を吹き込むことだけしてもらいます。モニターに映される画もラフ画です」

 緊張が走る。
 わたしの出番は一番最後。寧音ちゃんは最初と最後で、二回出番があった。
 いわゆる『リテイク』はなかった。逆に怖い。終わった人たちの顔に爽快感なんてなくて、みんな一様に顔面蒼白だった。お化け屋敷に入った後のような。

(ジュニパーは、どんな子だろう)

 役作りもできてないのに、役として話すなんて無理だ。
 どうしたらいいの……。

 その時、もらった資料を収納したファイルがこぼれた。
 雛田先輩がセロハンテープで繋ぎ合わせたプリントが床に落ちる。
 ……指先で拾った時、何故か少し笑ってしまった。

(先輩、どんな顔でこれを作ったんだろう)

 想像するとなんだか可笑しい。
 あの時は大変だった。プリントが破られて、成実と言い合って、就也に泣きついて、先輩に叱咤されて……

 ……ん?

 ふいに閃いた。ふたつの考えが、脳内でぶつかり合う。
(そんな……でも)

 アフレコとは別のことで混乱しかけたけど、わたしは頭を振った。
 まずは、目の前のことに集中しよう。それ以外は考えるな。
 ボールペンで、思いついたことを脚本に書き込む。そうして他の人のアフレコを聴く合間に、少しずつ考えを整えた。
 二十分後、わたしの出番が来た。名前を呼ばれて、薄いメッシュ生地でできた金魚すくいの網みたいなもの――ポップガードに守られたマイクの前に立つ。
 寧音ちゃんと「よろしくお願いします」と言って、シナリオ片手にマイクに臨む。

「行きます、キュー」

 モニターの上のキューランプと呼ばれる四角いランプが赤く灯る。録音開始の合図だ。

「『ジュニパー、どうしても行くの?』」

 寧音ちゃんが先ほどより耳触りの柔らかい声を出した。
 自然体に近い。面倒見のよいキャラクターだからって、無理して大人びた声を出す必要はないのかもしれない。

「『ああ』」

 わたしも『男の子の声』を意識せずに言った。
 わたしがいま演じるのは『男の子』ではない。
『ジュニパー』だ。
 でも素っ気ない口調は、あの先輩をイメージした。

「『ずっと一人だったんでしょう? 寂しくはないの?』」
「——『僕は、一人でいいんだ』」

 そう言った瞬間、

「『嘘だ……』」

 ラベンダーが――寧音ちゃんが言った。シナリオに無いセリフを。
 わたしは驚いたけど、息を呑むのは我慢した。余計な音が入ってはいけない。

「はい、終了です。えー、ラベンダー。いま何故アドリブを入れたのですか?」

 音響監督さんに言われ、寧音ちゃんが頭を下げた。

「も、申し訳ありません!」
「謝らなくていいですよ。理由をお願いします」
「や、なんか……」

 寧音ちゃんはわたしをチラッと見た。

「断るジュニパーが、すごい寂しそうに聞こえたんです。だからつい『嘘でしょう』て思って。……おかしいですね。別に泣きそうな声でもあれへんかったのに」

 シーンと静まり返る。
 緊張と恐怖で頭皮が粟立つ。まさかわたしの演技で他の人に影響があるなんて。

「ではジュニパー、どうして今の演技に行き着いたのか理由を教えてください」

 わたしは落ち着いて、うまく伝わるように言葉を選んだ。

「ジュニパーは意志の強いキャラクターだと思ったからです」
「だったらもっと、拒絶するように言ってもいいのでは?」
「それだと意志の強さよりも頑なさが強くなるような気がして……それに、気を遣ってくれるラベンダーを拒絶するのはなんか違うなって、思いました。だ、だから、本当は『ひとりでいい』わけではないけど、ジュニパーにはジュニパーの考えがあって、『ひとりでいい』と言ったのでは、と……」

 ダメだ。うまくまとめられない。
 謝罪すると、音響監督さんは「分かりました」で終わらせた。
 失敗したかも知れない。

 でも、わたしは思ったのだ。

 人は一面だけじゃないって。
 表面的な言葉だけで受け取るのはダメだって。
 あの怖くて厳しい雛田先輩が、プリントを直してくれた。
「顔がいい」ばっかりだと思っていた織屋先輩は、わたしの落ち込みを見抜いてコーンポタージュをごちそうしてくれた。「ごはんだけは食べなよ」を言葉ではなく態度で示してくれたのだ。

 そして成実。

 一生懸命さの裏にあった悩みや苦しみ。それを見過ごしたからこそ、わたしは成実を傷つけたんだ。
 成実をあそこまで追い詰めたのは、わたしだ。
 香西先輩や就也にだって、きっとわたしには見えない一面があるのだろう。

(就也……)
 あの優しい笑顔と声が浮かんだけれど、すぐに思考の底に沈ませた。
 最初のホールに戻ると、桐月先生が待っていた。

「皆さん、お疲れ様でした。本日のレッスンはこれで終了です。どうでしたか?」

 疲れました、と『サンダルウッド』役の子が言った。

「大変だったでしょう。特にアフレコ授業。キャラクターのラフ画と一言二言の設定だけで、キャラとしてしゃべれなんて無茶ぶりもいいところです。企業で言うところの圧迫面接に近いですね。こんな初回になってしまって、申し訳ありません」

 桐月先生が軽く頭を下げる。

「ですが、現場に出たら似たようなことはいくらでもあります。高い対応力、何よりギリギリまで考え続ける粘り強さを要求されます。これから短期間で、それらを培い、伸ばし、よい声優になって頂ければと思います。そのために私は、講師として全力であなたがたにぶつかりましょう」

 どうぞよろしく――桐月先生のお辞儀に、わたしたちは姿勢を正し、「よろしくお願いします」を返した。
 他の臨時講師の方々も、言葉を送ってくれた。

 まずは青井さん。
「はい。お疲れ様です。臨時講師として厳しくするよう要求されたので、遠慮なく行かせていただきました。もう皆さん、最初にあった考えは跡形もなく消えているでしょう? 自分は合格したのだから大丈夫――という『勘違い』です」

 寧音ちゃんがこっそり「はい……」と返事した。

 次は寿さんだ。
「声優、そして役者というのは本当に奇怪な商売です。僕はこれを職業とは絶対に言えません。なにせ安定しない。はっきり言いましょう。僕たちは日雇い労働者です」

 色取さんが継いだ。
「寿さんの言うとおりです。声優はレギュラーアニメが終わると、仕事がなくなります。定期的に、数ヶ月ごとに無職になる生業です。私が昨日も今日も明日も一週間後もスケジュールが埋まっているのは奇跡に近い」

 奇跡なのか。武道館でライブをし、リリースしたCDがオリコンに入るほどの人気がある色取さんなのに、『奇跡』なのか。

「自分をコンテンツ化して、時に多くの人々から人間として扱われないことを甘受しているのに、骨折や病気のひとつもすれば一瞬で路頭に迷う。そんな仕事です」

 怖いでしょう、と問いかける色取さんに、ゾクリとした。

「実を言いますと、私は昨日新しいアニメのオーディションに落ちました」

(!?)
 合格者が全員目を剥く。

「あ、色取さんもですか。私もですー」
「僕もです。舞台と合わせると不合格記録が十に届きそうです」

 高遠さんと寿さんはあっけらかんと言うけど、俄に信じられなかった。けれど、他の先生方も「同じく」と手を挙げる。

「生半可な気持ちなら、ここで引くのも手です。それはあなたがたの自由。それだけは覚えておいてください」

 色取さんが手持ちマイクを下ろした。
 最後に、高遠さん。

「先輩方が色々怖いことを言っちゃいましたね。皆さんは今、すごーく怖くなってると思います。でも」

 高遠さんは声も目の色も、深くて、優しかった。

「怖いだけ、ですか? 他にも別の感情が生まれませんでしたか? 胸に手を当ててください。もし熱かったら、――そうですね、嬉しいです。声優の先輩として」

 桐月先生も、他の皆さんがうんうん頷く。微笑みさえ浮かべていた。

「いつか同じ現場で会えることを、私は楽しみにしています。それまで私も生き残れるよう頑張りますね!」

 高遠さんからのメッセージに、自然と拍手が出た。
 手が熱い。
 わたしの胸も熱い。
 何かが――灯ったみたいに。

 課題をもらって、挨拶をして、解散した。更衣室で着替えると、ロビーに合格者の面々が揃った。

 寧音ちゃんが言った。

「うち、恥ずかしいわ。無意識でナメとった。オーディションに合格したんだから自分はやれるってまさしく『勘違い』しとった」
「同じく、です。やっぱりプロはすごい」
「ワタシたち、あの領域まで行けるんでしょうか……」

『サンダルウッド』役のマッチョ男子と、『レモングラス』役の小柄な女子がため息をつくと、わたしの隣にいる美少女が言った。『イランイラン』役の子だ。

「アタシ、辞退しようと思う」
「え!?」
「声優になるのが嫌なんじゃない。ドキュメンタリーが……アタシが傷ついたり苦しむ姿をたくさんの人に見られるのは……嫌」
「おれも、自信ない……」

『スペアミント』役の男子が眉をゆがませる。アクセサリーは外したままだった。

 みんな、何も言えなかった。そんな余裕が無かった。
 別れの挨拶もそこそこに、わたしたちは解散した。
 外に出ると、真っ赤な夕陽が空いっぱいに広がっていた。
 冷たい空気が火照った頬に心地いい。

「じゃあな、羽鶴ちゃん」
「うん。今日はありがとう」
「なあ、……来月、来る?」

 他のメンバーが来ないかもしれないと知った今、寧音ちゃんが不安になるのも分かる。

 でも、わたしは、

「もちろんだよ」

 きっぱりと言った。
 ああ、わたし、こんな気持ちの良い声で返事ができるんだ。

 寧音ちゃんは笑って、「またなー!」と手を振って別方向の駅に向かった。
 わたしはゆっくり歩いたけど、そのうち走り出した。
 息が上がる。身体はヘトヘトだ。けれどわたしは、おなかの底から湧き上がるものがせっつくまま駆けた。

 胸が熱い。
 体中の血液が循環している。
 頭が冴える。
 興奮している。
 今すぐ叫び出したい!

 この感情を言葉にするとしたら、たったひとつだ。
 駅に着いた。今から新幹線に乗ることを伝えようと家に電話をかける。
「どうだった?」というお母さんの質問に、わたしははっきり答えた。

「――楽しかった!」
 放課後の講堂に、わたしの声が響く。
 跳ね返ってくるそれをなるべく客観的に聴こうとしながら、わたしは最後の一行を「これで仕舞いです」の意を込めて放った。

「ホホ敬って、ういろうは、いらっしゃりませぬかーあ!」

 仕上げに手を合わせて深くお辞儀する。
 さてこの試みはどうだろうか、と、わたしは就也と――雛田先輩を窺った。
 顔合わせの日から九日経って、火曜日。部活の日。

「どうでしたか!」

 意見を促すと、就也が軽く拍手をする。
 就也は先週まで家の用事があったそうで、今日は久々の参加だ。

「うん。いいと思うよ。外郎売に設定をつけて読み上げるって、今まで無かった発想だったけど、面白いね」

 笑顔の就也とは対称的に、どっしりと胡座をかく雛田先輩は、しかつめらしい表情のままだ。

「今のは『家族が作った借金のせいでとにかく金が欲しい外郎売』でいいのか?」
「は、はい!」

 わたしは手早く足元に置いてあった小さめのリングノートを拾い上げる。

「必死さが足りない。金がなければ一家離散か一家心中の崖っぷちまでに追い込まれた人間にしては、緊張感が少なかった。あと設定に引っ張られるあまり、せっかく出来ていた鼻濁音と濁音の区別が曖昧になった。気をつけろ」
「はい!」

 必死にメモを取る。先輩は二度は言わないので、聞き漏らせない。

「個人的には先週金曜日の『実は詐欺師で眉唾物を売ろうとする外郎売』の方が面白かった。以上だ」
「はい、ありがとうございます!」

 大きく一礼する。
 就也がポカンと口を開けた。

「どしたの、就也?」
「や、羽鶴と雛田先輩、いつの間にそんな仲良く……距離が近くなったんだ?」
「仲良くなってねぇよ。こいつが部活の時間になったら俺がいる図書室まで来て、引っ張っていくんだよ」
「羽鶴がですか!?」
「誤解だよ、引っ張ってなんかない! ただ、練習を見てくださいってお願いしてる……だけで……」
「羽鶴が……?」

 就也が信じられないと言いたげな顔になるのも分かる。
 こんな積極的な行動、少し前のわたしなら考えられない。
 けれど、……手段は選んでいられないのだ。

「図書室とはいえ衆人環視の中、後輩の女子に頭下げられて断れるわけないだろ」
「迷惑だったらすみません。でも……先輩ならお世辞とか気遣いとか無縁だから、バシッと言ってくれて有難いんです」
「前から思ってたけど、おまえ結構失礼だな?」
「えっ!? そうですか!?」
「そうだよ。ついでに図々しい。東京に行く前の練習の日、俺のバアさんの話も聞き出そうとしただろ。直前にあそこまでボロクソ言われたのに、萎縮するだろフツーは」
「――しかしそんな後輩を、雛田颯は憎からず思っていたのだった」

 某まるこちゃんのナレーション口調で間に入ってきたのは、織屋先輩だった。

「ですよね、パイセン! 心の中でははづるんのこと可愛い後輩って思ってますよね!」

 グッとサムズアップして、織屋先輩が雛田先輩の顔を覗き込む。

「勝手に言ってろ、妄想女」

 と憎まれ口を叩く雛田先輩。その様子に、遅れて入ってきた香西先輩が苦笑する。
 織屋先輩は挫けない。

「えーでも、可愛い後輩だと思ってなきゃ何ゆえここにいるんですか。三年生はいま自由登校でしょ?」
「基本毎日登校してんだよ。図書室で勉強と執筆するためにな」
「えっ、新作書いてるんですか? ていうか家で書けばいーのに」

 ご尤もな疑問に、代わりに香西先輩が答える。

「もうすぐ卒業だからね、僕たちは」

 それを聞いて、織屋先輩が思い出したように頷いた。

「……ああ、そうですね」

 もう二月も半ば。
 あと数週間もすれば、雛田先輩も香西先輩も卒業だ。
 学校にいたい理由はなんだか分かる気がする。

「小山内さん。あんなこと言ってるけどね、雛田は練習に付き合うの嫌じゃないんだよ。元々面倒見もいい方だし、昔、一方的に練習日を減らした先輩と大喧嘩して部活やめたけど、演劇部自体は好きなんだよ。だからドンドン利用するといいよ」

 それを聞いて「はい」とは答えられない。

「利用っつったか今?」

 当の先輩が睨む。けど香西先輩はどこ吹く風だ。

「あ、もちろん喜多くんもね!」
「はあ……」

 就也も曖昧にしか頷けない。
 わたしは気を取り直して、就也に言った。

「待たせてごめんね、就也。他の人の外郎売も聞きたかったんだ」

 途端に、就也表情を曇らせた。

「ごめん。実はさっきの休憩で家から電話が入って……早めに帰らなきゃなんないんだ」

 手の先がピリッと痺れた。
 就也は何度も謝って、わたしは笑顔を作って、「仕方ないよー」と見送る。
 帰っていく就也が背中に、胸が痛くなった。

(就也……)
 気持ちが勝手に沈む。
 すると織屋先輩がわたしの顔を覗き込んだ。

「はづるんさ、なんか可愛くなった?」
「うえっ?」

 藪から棒にそんなことを言われた。

「あ、僕もそれ思った。髪型が少し変わったし、メイクもちょっとしてるよね」
「ですよねー。先週はあまり気づかなかったけど、可愛くなってる。雛田パイセンもそう思うっしょ?」
「……?」
「あ、ダメっすわ。これ全然分かってない顔っすわ。パイセン、顔だけなら学園もののイケメンヒーローでいかにも『面白れー女』とか言いそうなのに、何故そんなびみょーに残念なんですか?」
「何故と言われる方が何故なんだが。つまりこいつが外見を磨いたってことか?」

 もう少し言いようがあると思う。

「声優は外見も重要だと聞いたので……今更なんですけど。先週、初めて眉毛を描いて登校したら濃すぎて。クラスメイトに爆笑されて先生に呼び出されました……」
「あはは、あるあるー。でもいいことじゃん。やっぱり顔だよ顔! 顔がよければ八割よし!」
「すべてって言わないところが意外と冷静だよね、織屋さんは」

 ははは、とふたりの先輩の笑い声。
 先週の失敗を思い出し、苦々しく思っていると、

「……東京行って、何かに目覚めたってわけか」

 雛田先輩の問いに、わたしは迷いなく「はい」と答えた。
「先々週の日曜日、プロの声優さん……いえ、先輩方の技術を目にして、初めてアフレコをしました。ずっと震えてました。先輩方が偉大すぎて、声優の世界の果てしなさが少しだけ見えて……怖いと思うこともありました。でもそれ以上に、なんかこう、わーっとなって、ひゃーっとなって、かーっとなって、今に至ります。……えと、分かりますか?」
「分っかんねぇよ!」

 雛田先輩が床に置いた鞄をパンと叩く。

「パイセン、考えるな感じろですよ!」
「つまり、とんでもなく感動したんだね。今までの小山内さんを塗り替えるほど、強く深く」

 香西先輩の翻訳に助けられた。

「――はい」

 レッスンの最中は、追いかけるだけで精一杯だった。
 なのに最後のアフレコで、ジュニパーに初めて触れて、ジュニパーとしてしゃべって――出来はきっと良くないのだろうけど、とにかくわたしは、

 楽しかったのだ。
 もっとあの感覚を味わいたいと、望んでしまうくらいに。

 そしてあの日から、四字熟語で言うと『一念発起』の状態が続いている。
 帰宅するや否や、今まで養成所でもらった課題を見直した。
 昔読んだ声優になるための本を読み直し、積ん読だった本も読んだ。動画サイトで声優に関する動画も見始めた。
 しばらくして、アニメの見方が変わった。分析的に見るようになって、「ああ、ここはこういう状況でこういう背景と心境があるからこういう言い方になるんだな」みたいな感じ方になった。 
 漫画も映画も、インプットの面が強くなる。そうすると今まで何でもなかった表現がすごく心に刺さって、感動することが多くなる。
 世界の見え方が、少し変わった。
 十二色しかないと思ってきたのに、実は二五六色くらいあることに気づいた、ような。

 つまり、今のわたしは、燃料を大量投入された暴走列車状態だ。

 美容に気を遣うのも、雛田先輩を引っ張り出すのもその一環……なわけだけど。いまいち効果が出ているのか分からない。
 早く養成所の日になればいい。
 志倉先生に質問したいことが山ほどあるし、他の人たちに聞きたいことがある。それに他の人の演技も見たい。

「……その様子じゃ、あの友達のことは吹っ切れたようだな」

 雛田先輩が尋ねた。
 成実のことは、今でもつらい。
 けれど、そのことを考える余裕がない――というのが正直な感想だ。
 自分がすごく薄情な人間に思える。
 けれど、時間が無いのだ。次のアロサカのレッスン日まで一ヶ月もない。

「今は前だけ見てたい……って感じです」

 正直に言うと、雛田先輩は「そうか」とだけ答えた。
 次は何をしようかと考えていると、講堂の出入り口が騒がしい。

「お、来た来た」
 織屋先輩がそう言うと同時に、数人の生徒が入ってきた。
「二年の……先輩方!? 板山部長も」
 背後で香西先輩が「おっ」と感心した声を漏らし、雛田先輩が「げっ」と嫌がる声が聞こえた。

「はづるんの頑張りを話したら、見てみたいってさ。それに卒業式公演もあるし」
「あ!」

 すっかり忘れていた。卒業式公演のこと。
 雛田先輩が周囲を一瞥して、

「丁度いい。おまえ、あいつらの前で設定つき外郎売をもう一度やってみろ」
「! は、はい!」
「ただし、さっき言った点は改善しろよ。俺のアドバイスを無駄にするな」
「はい! ……その前に、タオルとってきていいですか?」

 返事の代わりに雛田先輩が手をひらひらさせる。
 素速く立ち上がって、隅に置いたトートバッグの元に行くと、中を探る手が止まった。

 タオルがない。
 ここに入れたはずのタオルがない。

 冷たい指先でうなじを撫でられたような感覚がした。鳥肌が立つのを抑えられなかった。
 けれど、

「よろしくお願いします!」

 騒ぐことはしなかった。わたしは動揺を抑え込んで、六人に増えた先輩たちの前に立った。
 翌日の水曜日。教室に入ると、違うグループの子に手招きされた。

「小山内ちゃん。これ、昨日言ってた美容リップ。これマジうるつやになるよ。」
「わ、ありがとう!」

 その子は美容や化粧品に詳しくて、進学せずにメイクの専門学校に行くらしい。
 今まで関わりはなかったけど、先週、勇気を出して話しかけた。

「いいって。それと眉の整え方なんだけど」

 その子と話し込んでいると、成実が教室に入ってきた。パチッと目が合う。
 けれど成実は、もうわたしを睨んではこなかった。その代わり、一切話しかけなくなった。クラスのみんなも察したのか、特に何も言わない。

(成実、ちょっと痩せた……)

 そう考えながらも、わたしはクラスメイトから聞いた内容をひたすらメモした。

 放課後になり、慌ただしく教室を出た。
 今日は図書室で本を返した後、帰りに履歴書を買って記入しないといけない。
 図書室の窓際の席に、雛田先輩がいた。
 数冊の本を積んだ横で、ノートを広げている。新作の執筆だろうか。
 本はシェイクスピアの戯曲が数冊。『ロミオとジュリエット』を読むのがなんだか意外だ。
 万年筆のキャップをいじりつつ、時折、遠くを見る目をする。そんな先輩を見るのは初めてで、ドキリとした。

 あそこだけ、空気が光っている気がする。

 周囲にいる女子も先輩をチラ見して頬を赤らめる。そんな先輩を見ていると、わたしは胸の中が熱くなった。

 昇降口に行くと、足が止まった。成実がわたしの靴箱を閉めていたのだ。
 成実はすぐにわたしに気づいた。

「羽鶴……」

 成実は虚を突かれたような顔をしたけど、すぐに鼻を鳴らした。
 けれど不遜な雰囲気はない。目の下のクマが濃いせいか、萎れた花みたいだった。

「そのノート……最近、頻繁にメモとってるよね」

 成実がわたしの手にあるノートを指す。

「あ、うん。癖づけようと思って」

 高遠さんのアドバイスを受けたからだ。
 東京駅の雑貨屋さんで新幹線を待つ間に買った。メモ帳じゃなくてリングノートなのは、書くことがたくさんあるから。表紙はファイルになっていて、高遠さんからもらったメモを挟んである。

「部活、頑張ってるみたいね。先輩方まで引っ張ってさ」
「う、うん」
「なんか自分磨きも始めたみたいじゃない。あたしがダイエットする傍で、カロリーバカ高いミルクティーをガブガブ飲んでたのに」
「そう、だね」

 今は常温の水か、ポットに入れたはちみつ入りのジンジャーティーを飲むようにしている。

「……ようやく本気になったってわけ?」

 成実の冷たい目線と声音が、わたしの心臓を鷲掴みにする。

「だとしたら、遅すぎなんじゃない?」

 冷笑が、いばらみたいにわたしの心を絡めて刺す。けれど、

「確かに……今更って思われるかも知れない。わたし、この一年近く、養成所に通う以上のことをしてこなかった」

 それを思うと、羞恥も自分への怒りも覚えるけれど、

「無駄な時間を過ごしたってすごく後悔してる。でも、反省もしてる。だから遅すぎだとしても、今からでも出来ることは全部やりたいの!」

 成実の顔を、久しぶりに正面から見た。
 本当に痩せた。一週間前、やっと登校した成実はクラスメイトに挨拶もしなくなった。昼休みも教室から姿を消す。ごはんはちゃんと食べているんだろうか。

「あっそ」

 力の無い返事だった。暗い笑顔を向けて、成実が「ねえ羽鶴」と呼んだ。

「……アンタの靴とかお弁当がなくなったことだけど」
「分かってるよ」

 わたしは成実の言葉を遮った。

「全部分かってるから」

 そう繰り返すと、成実はバツの悪そうな顔をして、踵を返して去って行った――

(……え?)

 成実の背中に、黒い染みがある。いや、違う。影だ。黒くてまるい影が成実の周囲に漂っている。
 最近は見なくなって、ただの勘違いだったと思えたのに、また現れた。
 あれは何なんだろう。
 そう考えて、浮かぶ言葉はたったひとつだ。

「〈カナコちゃんの呪い〉……」

 刹那、ざわっと、空気が変容した気がした。
 窓の外の木々が風になぶられて騒がしい。

 ……コトン

 靴箱をひとつ隔てた向こうから、物音が聞こえた。そのすぐ後に、靴箱の影から一人の男子生徒が早歩きで飛び出してきた。
 その男子生徒は胸に何かを抱えていた。あれは……ローファーの靴? あの人は上靴を履いたままなのに?
 靴箱の戸がひとつだけ開いている。名札には『雛田颯』とあった。

(あれ、雛田先輩の靴!?)

 男子生徒は早歩きで廊下の奥へ向かう。どこを目指しているのか直感で分かった。奥には裏庭に続く扉があり、そこには焼却炉がある。
 走って追いかけ、扉を思いっきり開ける。案の定、男子生徒は焼却炉に靴を入れようとしていた。

「やめて!」

 わたしが叫ぶと、男子生徒が振り返った。
 見知った顔だ。図書室と文芸部の部室で見た――川添さん。雛田先輩に突っかかった人だ。
 川添さんは怯えを露わにし、「何だよ!」と言った。

「そっ、その靴、雛田先輩のですよね?」
「か、関係ないだろ、そっちには!」
「返してください!」

 この人だったのか。何度も先輩の持ちものを盗んだのは。
 やっぱり七不思議の呪いなんかじゃなかった……とこっそり安堵する。

「もう、雛田先輩のものを隠すのはやめてください」
「……後輩の女子に庇われるなんてな。やっぱりイケメンは得だな」
「そんな話はしてません! 返してください。さもないと」

 一瞬詰まった。勢いで言ったけど、脅しなんてしたことないから続きが思いつかない。

「おっ、大声を出します!」
「はあ? 出せるものなら出してみろよ」

 完全に舐められてる……当然か。
 ならば、とわたしは息を吸い込んだ、けど。

「無闇に大声を出すんじゃない。大事な喉が潰れるぞ」

 いつの間にか背後にいた雛田先輩に止められた。
 わたしはびっくりして、吸い込んだ空気を呑み込んでしまった。

「雛田……っ!」
「誰かと思えば川添か。何のつもりだ。嫌味を言うだけじゃ飽き足りなくなったか」
「……っ!」

 川添さんが唇を噛む。悔しそうに声を絞り出した。

「だって……納得いかない! ぼくのは落選して、君なんかが受賞するなんて、絶対にありえな」
「おまえの作品が面白くなかった。前にも言ったが、それだけだ」

(雛田先輩……!?)

 やばい。この人、歯に衣を着せるという概念が無い。分かっていたつもりだったけど!

「何だと!?」
「おまえ、文芸部だろ。こないだ部室に寄った時、一昨年の文化祭の部誌に載せた作品を読んだ。まったく面白くなかった」

 川添さんは今にも白目を剥いて卒倒しそうだ。横で聞くわたしすら耳を塞ぎたくなる。

「――だが、去年のは面白かった」
「へ……?」

 間の抜けた声は、わたしと川添さん両方のものだ。

「タイムトラベルネタのSFだったな。地味だけど、伏線回収は見事だった。――面白くない作品は確かに存在する。だが、面白い作品を作れない人間はいない」

 受け売りだけど、と雛田先輩が続ける。誰からなのかは訊かなくても分かった。

「次の作品が書けたら、また読ませてほしい」

 雛田先輩の言葉には、靴を盗んだ川添さんに対する怒りもなじりも、カケラも無かった。
 川添さんは戸惑いがちに頷いて、靴を先輩に返した。そして走って行く。その目に涙が浮かんで、キラリと光った。
 それを見届けた後、わたしは靴のホコリを払う先輩に言った。

「先輩って……すごく口下手なんですね」

 今更だけど、なんとなく理解できた。先輩という人を。

「……口がうまかったら、物語なんか作らねぇよ」

 なるほど。――理由はよく分からないけど納得した。
 それと同時に、先輩がすごく身近に感じて嬉しかった。それから『大事な喉』と言われたことも。
 ふふっと笑ってると、

「――何だこれ?」
 と先輩が言って、振り返る。
 開けっぱなしの焼却炉の蓋を閉めようとした先輩が、淡いレモン色のタオルをつまみ上げた。

「タオル? でも新しいな」
「それ……」

 無意識に声が出たことを、わたしは直後に悔いた。
 しまったと思った時にはもう遅い。

「おまえのか……?」

 先輩が言い当てた。外見の変化には疎いのに、こういう時は勘が鋭い……。

「まだ物を盗まれてるのか」
「そうです、けど。大したものじゃないです。靴は持ち歩いてますし」

 それは本当だ。タオルの他に、ハンカチやティッシュ、消しゴム……その程度のもの。
 前回と違うのは、戻ってこない点だ。やっぱり捨てられていたのか。

「もう教師に言え。窃盗だ」
「せ、先輩だって放っておいたじゃないですか」
「俺はいいんだよ。というか教師は気づいている。受験真っ只中の時期だから大事(おおごと)にするなと言われた」
「そんな……」
「別にいい。テレビ局からも、言動には最大限に注意しろって言われているんだ。今の時代、SNSですぐ拡散されるからな。主演アイドルのイメージもあるし」

 何なんだ、それは――と思いかけたけど、思い直した。

 そうか、雛田先輩も同じなのか。
 先輩も『商品』で『コンテンツ』になっているのか。

「誰の仕業か、分かってるのか?」

 わたしは答えない。

「……誰にも言わないでください。お願いします」

 そう頭を下げると、先輩はもう何も言わなかった。