着替えてからのレッスンは、養成所でやっていることとほぼ同じだった。
 表情筋を鍛えるトレーニング、腹式呼吸、ストレッチ、発声と滑舌の練習。
 お昼休憩を挟んで、一時間ずつボーカルとダンスレッスンを受ける。

「初日だからスタンダードなものばかりだけど、日舞や空手、さらに変わり種としてポージングやメイクレッスンも受けるそうですよーうらやましいなぁ」

 高遠さんがほのぼの言ったけど、わたしは目の前をこなすこと、みんなについていくことで一杯一杯だった。
 なので、『ジュニパー』の役作りが全然捗らなかった。
 休憩時間に、渡された資料を読み込む。わたしだけじゃなくて全員が。

 ジュニパーのキャラデザインは、旅人らしい格好だった。
 アロサカのキャラは、イメージカラーが珍しく、パステル系やスモーキー系のふんわりした色が使われる。心身が疲れて癒やしを求める人は、強く訴える色は好まない、という理由らしい。今の流行りだからいいかもしれない。
 ジュニパーはスモーキーグリーン。ぴょこんと外にハネた髪型に、イメージカラーの外套。目はいわゆるジト目で、立てた襟で口元を隠している。表情が読み取りづらい系の外見だ。
 長らく一人旅をしてきたという流浪の旅人。
 一体どんなキッカケでサーカス団に出会って、どんな関わりと会話を経て、入団を誘われたのだろう。
 そこの過程はまだプロット段階だというから泣きたい。自由に考えろと言われたけど。

(せっかく仲間ができるチャンスなのに、「僕はひとりでいい」なんて)

 孤独を愛するジュニパー。差し出された手を取らない男の子。
 ……そういえば、似たようなことを言っていた人がいたな。

「強い……んだろうな」

 わたしには無い強さだ。
 今もなお成実と就也に、「傍にいてほしい」「話を聞いてほしい」と願うような弱いわたしには。
 難しすぎる……。
 迷子の子どもの気分だ。今すぐLINEを送りたい。
 でも誰に……そもそもスマホはロッカーに預けたから無理だけど。

 体育座りで顔を伏せる。
 この休憩が終わったらアフレコ授業だ。とにかく、どんな口調で行くのかだけ決めて……

「羽鶴ちゃん。いま話しかけてええ?」

 寧音ちゃんが正面に立って、遠慮がちに尋ねた。
 わたしは顔を上げて、慌てて「大丈夫」と答えた。
 寧音ちゃんが隣に座る。

「アフレコ練習の前に、ちょおーっとだけ読み合わせせぇへん?」

 お願い、と寧音ちゃんは言うけど、こちらこそ願ってもないことだ。

「じゃあ、始めるで」

 スゥッと息を吸ったのが合図だ。

「『ジュニパー、どうしても行くの?』」

 ラベンダーはサーカスの団長で、面倒見のよいしっかり者。寧音ちゃんが大人びた声で、年長者らしいラベンダーを作り上げた。
 でも寧音ちゃん本人は訛りが気になるらしく、何度も言い直してわたしに確認した。わたしも地方出身だから正しい発音は自信がなくて、拙くて申し訳ないけど気になる部分を指摘した。
 ジュニパーのセリフはふたつ。「ああ」と「ひとりでいい」の下りだけ。
 わたしは男の子らしい声音で、

「『僕は、一人でいいんだ』」

 そう言った、んだけど……

(……?)

 違和感がひどい。なんか違う気がする。どこがどうってわけじゃないけど。
 ジュニパーはラベンダーの誘いをきっぱりと断っている。たぶん他のメンバーにも引き留められただろう。
 けれど自分の意見を貫き通す。つまり自分の意志が強い子なんだ。
 そう思ったのに、この違和感は何?
 寧音ちゃんも居心地の悪さのようなものを感じたらしく、頭を掻いて首を傾げていた。

「お二人とも、移動しますよ」

『レモングラス』役の小柄な女の子がわたしたちを呼んだ。
 すぐさま立ち上がる。考える余裕なんてなかった。

 レコーディングスタジオは、養成所にあるものよりずっと広かった。
 マイクとモニターがあるレコーディングブースと、録音した音声を編集する機械があるコントロールルームに分かれる。
 ほぅ、と合格者の面々からため息が漏れた。正面には四つの大きなモニターと等間隔に並んだ四つのマイク。足元のカーペットが足音を吸い込む。

「広くて、いい金魚鉢ですねぇ」
「はい。空調も静かだし、環境がいい」

 背後で高遠さんと寿さんが言った。『金魚鉢』はレコーディングブースのことだと養成所で習った。
 すると、コントロールルームにいる音響スタッフさんが声をかけた。

「アフレコレッスンを始めます。まずは色取さん、寿さん、高遠さんで見本を見せてもらいます」

 ドキッと心臓が跳ね上がった。

「といっても、アロサカの画(え)は何もないので、既存の作品になりますが。『桜もののふ』一期の四話です」

 心臓が止まった。
 高遠さんが頬を赤らませる。

「うわ、なんか恥ずかしいなぁ。(べに)ちゃん久しぶりすぎて自信ないよ、色取さーん」
「プロならやる! タカトーさんのキャラ以外は私と寿さんで担当するから」
「一人三役ですね。分かりました」

 高遠さんは自信なさげだったけど。
 すぐにそんなのは謙遜だと分かった。思い知った。

(うわぁ……!!)

『桜もののふ』の世界、だ。
 たぶんモニターのアニメ映像がなくても、声だけで、わたしは子どもの頃大好きだったあの世界にトリップできただろう。
 キャラクターの表情が見える。景色が見える。画面を彩る桜吹雪が見える。
 本当にそこにいるみたいだった。
 ずっと大好きなキャラクターが、世界が、確かにそこにあった。
 レコーディングブースの外にいるのに、呼吸をすることさえ憚れた。

(きれい……)

 マイクの前に立つ高遠さんは、まっすぐだった。

 背筋や立ち姿だけじゃない。凜々しいとか美しいとか、こういう時に使う言葉なんだろう。
 鼓動が、ドクンと大きく鳴った。


「はい、ありがとうございましたー。どうですか、皆さん。実際は十人以上ブースに入るので、マイクの前に立つのは入れ替わり立ち替わりになります。この交代のタイミングがとても難しいのですが、今日は時間が押してるのでマイクの前に立ち、声を吹き込むことだけしてもらいます。モニターに映される画もラフ画です」

 緊張が走る。
 わたしの出番は一番最後。寧音ちゃんは最初と最後で、二回出番があった。
 いわゆる『リテイク』はなかった。逆に怖い。終わった人たちの顔に爽快感なんてなくて、みんな一様に顔面蒼白だった。お化け屋敷に入った後のような。

(ジュニパーは、どんな子だろう)

 役作りもできてないのに、役として話すなんて無理だ。
 どうしたらいいの……。

 その時、もらった資料を収納したファイルがこぼれた。
 雛田先輩がセロハンテープで繋ぎ合わせたプリントが床に落ちる。
 ……指先で拾った時、何故か少し笑ってしまった。

(先輩、どんな顔でこれを作ったんだろう)

 想像するとなんだか可笑しい。
 あの時は大変だった。プリントが破られて、成実と言い合って、就也に泣きついて、先輩に叱咤されて……

 ……ん?

 ふいに閃いた。ふたつの考えが、脳内でぶつかり合う。