この声は香西先輩だ。
 すぐに騒がしい足音がして、ふたりの男子生徒が姿を見せた。
 香西先輩と、……雛田先輩だ。

「あれっ、小山内さん。そんなところでどうしたの?」

 香西先輩がわたしを仰いだ。

「え……っと、た、タオルが飛んで行っちゃって!」

 言い訳にもならない言い訳だ。でも、先輩たちはそれ以上詮索しなかった。
 ギャラリーから下りて先輩の元へ急ぐ。

「こんにちは、小山内さん」

 香西先輩は優しく笑った。眼鏡のせいかうちのお父さんを彷彿させる。

(今の……見られてないよね……?)

 ビクビクしながら「こんにちは」を返すわたしに、先輩が笑顔のままで雛田先輩の腕を力尽くで引っ張った。

「はい、雛田も挨拶」
「……」

 渋る雛田先輩に、香西先輩が「業界の基本」と短く言う。

「……お疲れ様です」

(なんで敬語……?)

 不思議に思いつつ挨拶を返そうとしたら、またもや出入り口で足音。やってきたのは織屋先輩だった。

「はづるん、元気ー? あっ、パイセンと元部長お疲れさまでーす!」

 コンビニの袋を提げて、織屋先輩が入ってきた。
 雛田先輩が少し嫌そうな顔になったけど、完全スルーだ。

「パイセンは今日も今日とて顔がいいですね。あとで元部長のツーショット撮らせてください。学業とチケット当選祈願に!」
「あっはっは。雛田はともかく、僕の顔なんて何のご利益もないよ?」
「何をおっしゃる、そんな和菓子のごとく和やかな癒し系フェイスで!」

 喩えがおかしい織屋先輩と動じない香西先輩。
 のほほんとした会話に苦笑いすると、雛田先輩が近づいてきた。失礼だけどつい身構えてしまう。

「……火曜日は悪かった」

 わたしの顔を見ずに、雛田先輩が謝る。
 返事をしようとしたけど、うまく言葉が出てこない。

「あの後、香西に言われた。あの状況では適切な物言いじゃないと」

 その物言いにこそ引っかかった。香西先輩に注意されたから謝ったと言うんだろうか……と思っていたら、

「ひーなーた、また誤解を招く言葉の選び方になってる!」

 さっきまでニコニコしていた香西先輩が眦を吊り上げた。

「違うんだよ、小山内さん。確かに僕は、『傷ついたばかりの人に対する態度じゃない』と雛田に言ったけどね。でも……ごめん、少し待っててくれる?」

 香西先輩が一旦講堂から出た。
 そして半透明のクリアファイルを片手に戻ってきて、わたしに差し出した。

「これは、雛田が自分でやったことだから」

 中を見ると、アロサカプロジェクトから送られた顔合わせの概要のプリントだった。
 あの日、ビリビリに破かれて校舎の三階からバラまかれたもの。紙片が丁寧にセロハンテープで貼り合わせてある。

「ばっ……香西!」
「このプリント、小部屋の扉の隙間に挟もうとしていたんだよ。直接渡せばいいのに」
「……俺の顔なんてもう見たくないだろ、こいつは」
「勝手に他者(ひと)の気持ちを決めつけるな。それもおまえの悪い癖だよ」

 ばつが悪そうな雛田先輩と、所々抜けているけど読めるようになったプリントを見比べる。
 あの後、裏庭まで戻って、地面に散らばった紙を拾って、ひとつずつ貼り合わせた……?

(……わざわざ……)

 胸が熱い。目頭も熱い。
 昨日の織屋先輩といい、どうしてわたしの周りの人はこんなにいい人ばっかりなんだろう。
 わたしは最低なのに。
 鈍感で、自分のことしか考えてない……周りが見えてない人間なのに。
 親友の悩みも苦しみも気づこうとしなかったのに。
 プリントを強く握り、唇を噛みしめた。泣くな、堪えろ。

「おーさなーいさん、雛田を怒りたいなら怒ってもいいんだよ?」

 香西先輩がわざとイタズラっぽく言うと、雛田先輩がギョッとした。なんだか可笑しかった。
 わたしは顔を上げる。

「怒るわけない、です。雛田先輩の言うことは……ほんとに正しかったから」

 今からわたしは、物凄く恥ずかしいことを告白する。
 雛田先輩に反発心を抱いた理由は、怖いからとかそういうのだけじゃない。
 全部、事実だったからだ。

「わたし、本当に……成実の言うとおり、本気で声優になろうとしてなかったんです」

 先輩方が真顔になった。落ちかけた沈黙を破ったのは、織屋先輩だった。

「なんか込み入った話になりそうなので、――とりあえず、お茶にでもしましょっか?」

 四人で車座になると、織屋先輩が次々とコンビニ袋から飲み物を出した。

「はい、はづるんはミルクティー。パイセンと元部長は、コーヒーといちごオレと豚汁、どれがいいですか?」
「選択肢がおかしくないか?」
「やー、はづるんの好みは知ってるんですけど、就也くんと成実ちゃんは分からなくて。特に成実ちゃんはおいそれと話しかけられないんですよー、我々二年のこと親の仇扱いしてますからねー」

 織屋先輩はあっけらかんと言ったけど、わたしは身が縮まる思いがした。

「すみません」
「いやぁ謝ることじゃないよ。仕方ないって、私含めて二年生全員、不真面目だからなー」
「本当にな」

 雛田先輩が同意しつつコーヒーに手を伸ばしたけど、織屋先輩がサッと豚汁に変えた。
 雛田先輩が眉をひそめても、織屋先輩ははりついた笑顔を崩さない。
「今のも雛田がよくない」と、香西先輩が渡されたコーヒーを開けた。

「……すみません。成実はほんとに自分にも他人にも厳しいんです。真面目で一本気で、声優になる夢にも真摯に向き合って……中学時代からずっとそうでした」

 じっと見つめていたミルクティーの白と青のラベルがぼやける。

 中学一年生の教室の光景が頭に浮かんだ。