「おまえ以外、いないのか」
見れば分かると思う。
先輩は周囲を見回すと、ため息をついて、あからさまな落胆の色を見せた。
「金曜日が活動日だって聞いたから来たんだが。本当にロクに練習しないつもりか。本気でどうしようもないな、ここは」
わたしは目を袖で拭いた。この人には涙を見せたくない。
「おまえも。――声優志望とか言ってるけど、どうせポーズなんだろ?」
「ポー……ズ?」
思いがけない言葉に、わたしは先輩の方へ振り返る。
「『夢がある』って言いたいだけなんだろ? 多いんだよ、そういうの。特に演劇関係はな。一生懸命夢に向かう自分を演出したくて、周囲から『えらいね』『頑張ってね』っていう承認が欲しいだけだ。『いいね』目的のインスタ映えと一緒」
「な……なんで、そんなの、先輩に分かるんですか」
声が勝手に震える。
「見れば分かるし、声を聞けば分かる。おまえたちの声は素人同然だ。口だけで行動しない典型的な輩だ。――どうせ本気じゃないくせに、気軽に『夢がある』とか言うな」
雛田先輩の声が、突き刺さる。
わたしは頭皮が粟立つのを感じた。
なんでこんな風に言われなきゃならないの――と思った瞬間、
無意識に、空気を吸い込んだ。
「――拙者!」
雛田先輩の前に立って、その凍えた瞳をまっすぐ見返して、背筋を伸ばして下っ腹に力を入れて、口を開く。
「親方と申すはお立ち会いの中にご存知のお方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて青物町を登りへおいでなさるれば」
これは、『外郎売』だ。
歌舞伎の演目の中に出てくる長科白で、声優が発声と滑舌の練習に使う教材としてもっとも有名なもの。これを詠んだことのない声優志望者はいない。
「な……何……」
雛田先輩の目がまるくなる。
それはそうだ。何の脈絡もなく、突然目の前の女が外郎売を暗唱しだしたら、普通驚く。
「御存知ない方には、正身の胡椒の丸呑み、白河夜船、さらば一粒食べかけて、その気見合いをお目にかけましょう」
自分でもなんでこんなことをしているのか分からなかった。
ただムカついた。好き勝手言う雛田先輩に。やるせなかった。わたしを突き放す成実の態度に。
「向こうの胡麻がらは、えのごまがらか、真胡麻殻か、あれこそほんの真胡麻殻。がらぴい、がらぴい、風車」
頭の中がぐちゃぐちゃで、ケーキをやけ食いするみたいにわたしは外郎売を延々続けた。
「五徳、鉄きゅう、かな熊童子に」
「分かった。分かったから、もういいから」
雛田先輩が諸手を挙げて、降参のポーズをとった。
でも、わたしはやめなかった。
「石熊、石持、虎熊、虎きす」
「俺が悪かったって……」
頭を掻く先輩を尻目に、外郎売を諳んじ続ける。
脳内には笑っていた成実と就也の顔、成実の刺すような視線、就也の困り顔がぐるぐる回る。
合格したのはわたしだけだと知った時の張り詰めた空気感、くだらない怪談、なくなったスニーカー、卒業式公演、既読スルー、自分の発言だらけのLINE画面、裸足の足先が寒くて痛い、叩き落とされた雑誌、拒絶――
腹の底から叫びたい気持ちを、最後の一節に込めた。
「ホホ敬って、ういろうは、いらっしゃりま、せ、ぬ、か――……!!」
膝から力抜けて、ガクンとその場に座り込む。
呼吸が荒い。途中、無茶をしたので喉が少し痛かった。
手をつくわたしの上に、パチパチと拍手が落ちてきた。
雛田先輩がわたしの前に膝をつき、無駄に整った顔を気まずげにゆがめる。
「まずは謝る。失礼なことを言ってすまなかった」
「いえ……」
――なんてことしちゃったんだ。
呼吸が落ち着くと同時に、猛烈な反省と羞恥心が怒濤のように押し寄せてきた。
外郎売の所要時間は約八分。
そんな長い間、先輩を拘束したとか……いくらキレてたからって……死ねる。
「お見苦しい……お聞き苦しい? とにかく、拙いもので、大変失礼しました……」
「そんなことはない。見事な外郎売だった。ちゃんと声の出し方知ってるんじゃないか。ボソボソしゃべるから誤解したぞ」
それはあなたが怖かったからです、とは言えなかった。
「途中一回もつっかえなかったし、交互に来る鼻濁音と濁音の区別もしっかりしてた」
「詳しいんですね……?」
「中学までは劇団にいたから」
ああ、なるほど……それで人前に立つことに慣れていたのか。
雛田先輩が手を差し出した。少しためらったけど、わたしはその手を取って、立ち上がる。
外郎売の暗唱は、わたしの唯一の特技だ。
去年の今頃、養成所に合格して、三人でいろいろ自主トレの方法を調べた時に知った。
動画サイトでプロの練習動画を探したら、高遠さんのがあった。それを何度も見て練習に励んだ。
誰がいちばん早く暗唱できるようになるか競争だな、と就也が言った。
成実は負けないからねって笑った。
わたしは二人に置いてかれないように、家で何度も読み上げた。
一年以上、毎日欠かさずに。
「全然見事じゃないです、わたしなんて」
「謙遜するな。卑屈に見える」
「ほんとのことです。ふたりに比べたら全然なのに、それなのに、どうして、……わたしだけ合格しちゃったんだろう……?」
疑問だった。『甚だ』がつくほどの。
なんでわたしが? ロクな技術もないし、声だって可愛くも特徴的でもない。
「意味分かんない……こんないきなり夢が叶っちゃうなんて……」
心からの声だった。雛田先輩に答えは求めていなかった。
なのに先輩は、思いもよらない返しをした。
「オーディションに受かるのが、叶えたい夢だったのか?」
「え……?」
ふっと吐息を落とすと、先輩は肩に鞄をかけて講堂を出ていった。
今のどういう意味だろう、と考えていたら、「あっ」と先輩が叫ぶのが聞こえた。
入り口に駆けつけると、先輩が頭を抱えていた。
「またやられた……」
何が、と問わなくても分かった。
入り口の傘立ての脇に置いてあったであろう先輩の靴がなくなっているのだ。
何故それが分かったのか。
……わたしの上靴も、なくなっていたからだ。
見れば分かると思う。
先輩は周囲を見回すと、ため息をついて、あからさまな落胆の色を見せた。
「金曜日が活動日だって聞いたから来たんだが。本当にロクに練習しないつもりか。本気でどうしようもないな、ここは」
わたしは目を袖で拭いた。この人には涙を見せたくない。
「おまえも。――声優志望とか言ってるけど、どうせポーズなんだろ?」
「ポー……ズ?」
思いがけない言葉に、わたしは先輩の方へ振り返る。
「『夢がある』って言いたいだけなんだろ? 多いんだよ、そういうの。特に演劇関係はな。一生懸命夢に向かう自分を演出したくて、周囲から『えらいね』『頑張ってね』っていう承認が欲しいだけだ。『いいね』目的のインスタ映えと一緒」
「な……なんで、そんなの、先輩に分かるんですか」
声が勝手に震える。
「見れば分かるし、声を聞けば分かる。おまえたちの声は素人同然だ。口だけで行動しない典型的な輩だ。――どうせ本気じゃないくせに、気軽に『夢がある』とか言うな」
雛田先輩の声が、突き刺さる。
わたしは頭皮が粟立つのを感じた。
なんでこんな風に言われなきゃならないの――と思った瞬間、
無意識に、空気を吸い込んだ。
「――拙者!」
雛田先輩の前に立って、その凍えた瞳をまっすぐ見返して、背筋を伸ばして下っ腹に力を入れて、口を開く。
「親方と申すはお立ち会いの中にご存知のお方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて青物町を登りへおいでなさるれば」
これは、『外郎売』だ。
歌舞伎の演目の中に出てくる長科白で、声優が発声と滑舌の練習に使う教材としてもっとも有名なもの。これを詠んだことのない声優志望者はいない。
「な……何……」
雛田先輩の目がまるくなる。
それはそうだ。何の脈絡もなく、突然目の前の女が外郎売を暗唱しだしたら、普通驚く。
「御存知ない方には、正身の胡椒の丸呑み、白河夜船、さらば一粒食べかけて、その気見合いをお目にかけましょう」
自分でもなんでこんなことをしているのか分からなかった。
ただムカついた。好き勝手言う雛田先輩に。やるせなかった。わたしを突き放す成実の態度に。
「向こうの胡麻がらは、えのごまがらか、真胡麻殻か、あれこそほんの真胡麻殻。がらぴい、がらぴい、風車」
頭の中がぐちゃぐちゃで、ケーキをやけ食いするみたいにわたしは外郎売を延々続けた。
「五徳、鉄きゅう、かな熊童子に」
「分かった。分かったから、もういいから」
雛田先輩が諸手を挙げて、降参のポーズをとった。
でも、わたしはやめなかった。
「石熊、石持、虎熊、虎きす」
「俺が悪かったって……」
頭を掻く先輩を尻目に、外郎売を諳んじ続ける。
脳内には笑っていた成実と就也の顔、成実の刺すような視線、就也の困り顔がぐるぐる回る。
合格したのはわたしだけだと知った時の張り詰めた空気感、くだらない怪談、なくなったスニーカー、卒業式公演、既読スルー、自分の発言だらけのLINE画面、裸足の足先が寒くて痛い、叩き落とされた雑誌、拒絶――
腹の底から叫びたい気持ちを、最後の一節に込めた。
「ホホ敬って、ういろうは、いらっしゃりま、せ、ぬ、か――……!!」
膝から力抜けて、ガクンとその場に座り込む。
呼吸が荒い。途中、無茶をしたので喉が少し痛かった。
手をつくわたしの上に、パチパチと拍手が落ちてきた。
雛田先輩がわたしの前に膝をつき、無駄に整った顔を気まずげにゆがめる。
「まずは謝る。失礼なことを言ってすまなかった」
「いえ……」
――なんてことしちゃったんだ。
呼吸が落ち着くと同時に、猛烈な反省と羞恥心が怒濤のように押し寄せてきた。
外郎売の所要時間は約八分。
そんな長い間、先輩を拘束したとか……いくらキレてたからって……死ねる。
「お見苦しい……お聞き苦しい? とにかく、拙いもので、大変失礼しました……」
「そんなことはない。見事な外郎売だった。ちゃんと声の出し方知ってるんじゃないか。ボソボソしゃべるから誤解したぞ」
それはあなたが怖かったからです、とは言えなかった。
「途中一回もつっかえなかったし、交互に来る鼻濁音と濁音の区別もしっかりしてた」
「詳しいんですね……?」
「中学までは劇団にいたから」
ああ、なるほど……それで人前に立つことに慣れていたのか。
雛田先輩が手を差し出した。少しためらったけど、わたしはその手を取って、立ち上がる。
外郎売の暗唱は、わたしの唯一の特技だ。
去年の今頃、養成所に合格して、三人でいろいろ自主トレの方法を調べた時に知った。
動画サイトでプロの練習動画を探したら、高遠さんのがあった。それを何度も見て練習に励んだ。
誰がいちばん早く暗唱できるようになるか競争だな、と就也が言った。
成実は負けないからねって笑った。
わたしは二人に置いてかれないように、家で何度も読み上げた。
一年以上、毎日欠かさずに。
「全然見事じゃないです、わたしなんて」
「謙遜するな。卑屈に見える」
「ほんとのことです。ふたりに比べたら全然なのに、それなのに、どうして、……わたしだけ合格しちゃったんだろう……?」
疑問だった。『甚だ』がつくほどの。
なんでわたしが? ロクな技術もないし、声だって可愛くも特徴的でもない。
「意味分かんない……こんないきなり夢が叶っちゃうなんて……」
心からの声だった。雛田先輩に答えは求めていなかった。
なのに先輩は、思いもよらない返しをした。
「オーディションに受かるのが、叶えたい夢だったのか?」
「え……?」
ふっと吐息を落とすと、先輩は肩に鞄をかけて講堂を出ていった。
今のどういう意味だろう、と考えていたら、「あっ」と先輩が叫ぶのが聞こえた。
入り口に駆けつけると、先輩が頭を抱えていた。
「またやられた……」
何が、と問わなくても分かった。
入り口の傘立ての脇に置いてあったであろう先輩の靴がなくなっているのだ。
何故それが分かったのか。
……わたしの上靴も、なくなっていたからだ。