何かがひび割れたような音がした。
わたしが購買でミルクティーを買って教室に戻った時、成実と就也の表情は固まっていた。
壁の時計は、無機質な動きで夕方五時半をさしている。
「……? どしたの、ふたりとも」
先ほど遭遇した白昼夢みたいな出来事を話すのも忘れ、わたしは尋ねた。
ふたりは答えない。熱々のミルクティーの缶を握る手が、じんわりと汗をかく。
「羽鶴……」
成実が見開いた目でわたしを見ている。
色つきリップを塗った唇が震えて、まるでこの世にいるはずのない化け物を前にしているような。
「どしたのってば、成実。就也、何かあったの?」
就也が甘く整った顔を強ばらせて、無言でスマホの画面を見せてきた。
そこには、
【新世代声優育成企画・Arome CirCus(アロマサーカス)プロジェクト
オーディション結果発表
1.ラベンダー役:……
2.ローズマリー役:……
……
13.ジュニパー役:小山内羽鶴(長野県プリューム養成所)】
ゴトン、と勝手にミルクティーが手から離れて床に落ちた。
目の前のことが信じられなくて、口元が勝手に引きつった。
成実と就也は、依然わたしを見つめている。
その時に感じた、氷の針みたいに冷たい空気を。
その時に向けられた、成実と就也の視線を。
わたしはたぶん、一生忘れないだろう。
頭の中で、
何かがひび割れたような音が、
……した。
「ねぇ、知ってる? うちの高校の七不思議」
夕闇が迫った放課後。四時四十五分のことだった。
藪から棒に、真向かいに座る南野成実が言った。
成実はずっと握りしめていたスマホを机に置いて、マスクを外すと魔法瓶に入った飲み物を口にする。
ほっこりと湯気が立って、あったかそうでうらやましい。わたしのミルクティーのペットボトルはすっかり冷めていた。
わたしと成実、そして喜多就也の三人だけの教室は、上靴の足先がジンジンするほど寒い。まだ下校時刻になってないのに暖房を切るなんて、先生は無慈悲だ。
「ちょっと羽鶴、聞いてる?」
喉にやさしい特製はちみつレモンを飲む成実が、じぃっとねめつけてくる。
わたしは慌てて「ごめん」と言った。
「その『ごめん』は知らないってこと? それとも聞いてなかったってこと?」
「……聞いてなかった」
「もー羽鶴はこれだから! ――就也は?」
「知らないな」
就也はあっさり答えた。整った顔が夕陽に照らされて、就也の顔を見慣れてるわたしでもちょっとドキッとしてしまう。つい目線をそらした。
結露でくもった窓の向こうは思ったより明るい。一月も半ばになると、少しだけ日が長くなったように感じる。
就也は指折り数えてみせて、
「誰もいないはずなのに返事が来る花子さんのトイレ、放課後になると段がひとつ増える階段、笑うベートーヴェンの肖像画、動く模型の骸骨、死に顔が映る鏡、幽霊が出る講堂くらいしか知らない」
「めっちゃ詳しいじゃん!」
まったくつっかえずに明瞭な発音で七不思議をそらんじる就也に、成実がツッコんだ。
そしてチラッとスマホを一瞥して、
「じゃあ七つ目。――〈カナコちゃんの呪い〉は?」
初耳だ。
わたしは首を振るけど、就也は心当たりがあるようだった。
「聞いたことある気がする。確か、織屋先輩が言ってた気が」
「ああ、演劇部のやたらうるさいオタクの先輩ね。あたしは文芸部の友達に聞いたんだけど――うちの高校にね、昔自殺した女子がいたの。その子の名前がカナコちゃん。カナコちゃんには夢があって、その夢のためにずっと努力してたんだって」
「夢って?」
「噂だと、小説家だったか漫画家だったか。……でも、どうしても叶わなかったから自殺したの」
就也が「へえ」と返す。
でも目線は、手の中のスマホに注がれていた。
「で、それ以来、この学校にいる『夢が叶った生徒』をカナコちゃんは呪うんだって」
「え、嫉妬ってこと?」
迷惑な話だ、と思った。
「まあ、そうなるよね」
「呪うって、具体的には? 殺したり怪我させたり?」
就也が無意味にスマホの手帳型ケースをパタパタさせながら訊いた。
「ううん、そうじゃなくて――」
〈カナコちゃんの呪い〉の具体的な内容に、思わず力が抜ける。
「ショボいな」
就也に同意。あまりにもくだらない『呪い』だった。
「でも、カナコちゃんに呪われた人は最後には死ぬんだって」
なんでそうなるの、と言おうとしたところで、ふいに成実が眉根を寄せた。
「でも、もしこの噂が本当だったらさ、――今日の結果次第じゃ、あたしたちも呪われるかもね」
そう言って、スマホの画面を見せてきた。ゴシックでレトロポップなデザインのロゴが目に入る。
【新世代声優育成企画・Arome CirCusプロジェクト オーディション結果発表】
ああ。成実ってば、せっかく話題をそらそうとしていたのにね。
「そうだな」
同じくスマホを気にしないようにしていた就也も、観念してそのウェブページにアクセスする。
わたしはブレザーのポケットのスマホをそろりと撫でた。
壁の時計を見ると、午後四時五十七分。
「あと、三分切ったね」
そう二人に確認すると、成実は眉根を寄せた。
「羽鶴、なんでそんな冷静でいられるの?」
「なんでって言われても」
「このオーディションの結果次第では、あたしたちの未来が左右されんのよ?」
「おーげさだなぁ」
「全っ然おおげさじゃないわよ! 声優としての輝かしい未来かどん底の将来か、生きるか死ぬかの問題なのよ!」
成実がどこまでも真剣に言った。
さっきの「夢が叶ったら呪われるかも」発言は、成実の頭から抜けちゃったみたいだ。まあ呪いなんてこの世に無いしね。
わたしたち――成実、就也、そしてわたし・小山内羽鶴の三人は、声優志望だ。
就也は小学校から、成実は中学校からの付き合い。去年の春、高校進学と同時に同じ声優養成所に入所した。
部活もそろって演劇部――といっても、うちの高校は進学の方に力を入れているから、週に二度だけのゆるふわ活動なんだけど。
「成実、羽鶴にあたるなよ。……ま、気持ちは分かるけどな。『アロサカ』は近年まれに見るビッグプロジェクトってやつだから」
「そーよっ、なんとしてでもモノにしたいの!」
去年の秋の終わり。わたしたちは高速バスに乗って、長野から東京にオーディションを受けに行った。
【Arome CirCusプロジェクト】。
通称アロサカは、いわゆる『中の人』が高校生限定というコンセプトの制作される大型企画だ。
しかも芸歴はいっさい関係なし。純粋にオーディションで決める、という趣旨。
「養成所に入ってないまったく初心者でもOKなんて、思い切ったこと考えるよねぇ……」
わたしは何度も目にしたサイトの紹介ページを見て、ぼやく。
「企画全体のコンセプトが『若い声優を育てる』だからな。オーディションに受かって役をモノにしたら、デビューはもちろん、アロサカ企画主宰のレッスンに費用免除で通えるんだから」
「それが最高! ぶっちゃけソレ目当てで受けた子がほとんどっしょ」
「そーなの?」
「そーよっ!」
お金がかかるのよ、と成実は強調した。
「毎月のローン支払いが大変なんだから……って、羽鶴には分かんないかぁ。オジョーサマだもんね」
成実がわざとらしくため息をつく。
(お嬢様じゃないってば。うちはふつーの中流家庭だってば)
――なんて、ちょっとムッとしたのに、
「……思いっきり声優の勉強ができて、仕事までさせてもらうなんて、夢みたいなことだよね」
成実がそうつぶやいた。少しだけ影がさすその瞳に、ムッとした気持ちが消える。
「だからあたしは、絶ーっ対、オーディション受かりたい。そのために死ぬほど頑張った」
「……うん」
知ってるよ、と返事する。
去年の秋のオーディション。
会場には、たぶん日本中の声優志望の高校生が集まった。
わたしたちはお互いの手を握りしめて、応援の言葉をかけ合って、オーディションに挑んだ。
その日を迎えるまで、成実がどれだけ努力をしたか、わたしは知ってる。
「……わたしは成実が、いちばん合格に近いと思う」
「えぇ? お世辞やめてよー」
「お世辞なんか言わないよ。成実がいちばん実力あるし。アニメのアフレコ経験だってあるじゃん」
「単なるモブよー。あたし以外にもいっぱいいたし!」
「でも、音響監督さんに誉められたんでしょ? それって見込みあるってことじゃん!」
「うん、オレも。オレたちの中で、成実がいちばん夢を掴みかけてると思う」
就也もそう言うと、成実が寄せていた眉根を開いた。
「……えへへっ、そうかなぁ?」
成実が照れくさそうに、つやつやのロングヘアを指先に絡めて笑った。
ここ一年で、成実はすごく可愛くなった。養成所の先生に「今の声優は外見も重要だ」と言われてから、成実は五キロ痩せて髪を伸ばした。
(もしも成実が合格しても、笑っておめでとうって言えそう)
もちろん、就也が合格しても。
ふんわりした髪型で、垂れ目で垂れ眉、優しい面立ちの就也は、声もすごくかっこいい。甘い低音で中学校時代もよく後輩をメロメロにしたし、養成所の同期の女子をドキドキさせてる。
(ふたりが合格して、ひとりだけ置いてかれても、わたしは納得できるぞ)
だってわたしなんて、ふたりの足元にも及ばない。
実力はもちろん、外見や声質も。
特にアレンジしていないそのままのボブカット、子どもっぽい顔立ちのわたしは、声も取り立て目立つところはない。養成所の先生に、「小山内には個性がない」とハッキリ言われちゃうくらいに。
そんなことを言うと、
「羽鶴だって、ちゃんと頑張ってるだろ」
「超マイペースだけどね」
ふたりがフォローしてくれた。胸のあたりがあったかくなる。
「――ね、三人とも、合格してたらいいね」
成実の言葉が、柔らかく心に沁みる。
そして迎えた午後五時。
けれど、更新してもページが切り替わらない。たくさんの人が一斉にアクセスしてるらしく、サーバーが重いのだ。
「何なのよ、もうっ!」
成実が、液晶画面に浮かんだ読み込みマークをにらむ。
「時間置いてからアクセスするしかないよ。――わたし、ちょっとあったかいもの買ってくる。ふたりはどうする?」
「……あたしいらない。水筒あるもん」
「俺も大丈夫。ていうか羽鶴、さっき買ったミルクティー、もう飲んだのか?」
「まだ残ってるけど、冷めちゃったから新しいの欲しいの」
そう言うと、成実が「さすがオジョーサマ」と言ってきた。トゲのある言い方。
(成実、かなりイラついてるな……)
こういう時の成実は苦手だ。
わたしはさっさと廊下から出た。教室より寒さが増してて、薄暗い。
冷たい空気が沈む廊下を歩いて、自販機のある購買へ向かう。階段を下りて下駄箱が並ぶ昇降口へ――すると、
(何やってるんだろ、あの人?)
廊下に設置されているゴミ箱をのぞく、怪しい人がいた。
男子生徒だ。背がスラリと高い。真っ黒な短髪が夕焼けの赤を吸い込んでる……そう思ったところで、その人と目が合ってしまった。
思わず、見惚れてしまった。
理知的な切れ長の目に、キリッとした口元。就也とはまた違ったタイプのかっこよさ。まぎれもなくイケメンだ。
「……」
その人はふいと顔を背け、踵を返して去ろうとする。わたしはその足元に何かが落ちていることに気づいた。
万年筆だ。
晴れ渡った夏空みたいな、綺麗な青色の。
わたしは駈け寄って、万年筆を拾って、そのほっそりとした背中に声をかけた。
「あの、これ!」
落としましたよ、と言う前に、その人が振り返る。ブレザーの胸ポケットに手をやり、さっと顔色を変えた。
すぐにわたしの目の前まで来て、差し出した万年筆を受け取る。
……うわぁ、近くで見るとますます綺麗な顔だな。胸元の校章で、三年生だと分かった。
「……ありがとう」
小声だけどよく通る声。腹筋がしっかりしてるんだな、とか思ってしまった。
うたた寝で夢を見たような心地で、わたしはなんとなく早歩きで自販機まで行き、熱いミルクティーを買って教室に戻った。
「ねー聞いてよ。さっきね――」
わたしの能天気な声に、ふたりがゆっくりと振り向いた。
成実も就也も、大きく目を見開いてる。わたしを見てる。じぃっと。
「ど、どしたの?」
就也が無言で、スマホの液晶画面を見せた。
(あ、アロサカのウェブページ、つながったんだ)
オーディションの合格者が発表されている。
知らない名前が十二人分並ぶなか、
最後の名前、
十三人目のキャラクター・『ジュニパー』の欄に。
【ジュニパー:小山内羽鶴(長野県プリューム養成所)】
わたしの名前があった。
合格者一覧の名前に、三人の中でわたしの名前だけがあった。
「……うそ……」
その言葉はわたしが発したのか、
それとも成実か就也が発したものだったのか。
視界の端に、足元に転がるミルクティーの缶が映っていた。
下駄箱を開けると、そこに靴がなかった。
「あ、あれ?」
意味もなくいったん閉めて、また開ける。結果は変わらない。
「どうした? 羽鶴」
普通に下駄箱から外靴を出した就也が訊いた。
「わたしの靴……ないの」
「えっ? ……本当だ、ないな……」
就也が確かめて、呆然と言った。
どうしよう。これから演劇部の部活なのに。
体育館兼講堂へはグラウンドを突っ切るのが早道だ。
本来は渡り廊下を使うんだけど、時間がかかりすぎてしまう。上履きじゃ靴の裏が砂だらけになって、講堂の床が汚れちゃう。
「就也、羽鶴。なにグズグズしてんの」
沈んだ気持ちになっていると、成実が呼んだ。剣呑さを含ませた声音が少し怖い。
……昨日のオーディションの結果発表から、成実はずっとこんな調子で接してくる。
あの後、成実は無言で教室を出ていった。いつも一緒に下校するのに。
「ちょっと待てよ。羽鶴の外靴がないんだ」
とうに靴を履き替え、昇降口のガラス扉に手をかける成実が鼻を鳴らした。
「へぇ。……呪われたんじゃない?」
冷たい声で吐き捨て、成実はさっさと歩いていった。
ガラス越しに、長い髪を揺らしてまっすぐに講堂に向かうのが見える。
成実に、置いてかれた……。
わたしがうつむくと、頭の上で就也が言った。
「しょうがないな、あいつ。羽鶴、気にするなよ」
そう言ってわたしの頭を撫でる。就也の手は、あったかかった。
「今はちょっと、気持ちに整理がつかないだけだと思う。時間が経ったら、またいつもの成実に戻るさ」
就也が、甘い笑顔と力強い声でわたしを元気づけてくれた。泣きそうになる。
靴も一緒に探してくれると言ってくれた、けど。
「先に行ってて。ひとりで探すから」
「え、でも」
「いいから。わたしのことは気にしないで」
就也は遠慮したけど、付き合わせて遅刻させるのは忍びない。
最後までわたしを気にしてくれながら、就也は講堂に向かった。
(優しいなぁ、就也)
胸の中があたたかいもので満ちる。少し心臓がドキドキしていた。
勝手に頬が火照るのを感じながら靴を探す。
もしかしたら間違えて持っていかれたんじゃないかと他の下駄箱も開けたけど、その様子はない。
時間が経つにつれて、妙な焦りが生まれる。
――「呪われたんじゃない?」
成実の言葉が思い浮かぶ。これは〈カナコちゃんの呪い〉のことだ。
カナコちゃんに呪われるのは、
夢が叶った生徒。
カナコちゃんに呪われたら、
――持ちものが、なくなる。
この話を聞いた時、なんてくだらない……というか、みみっちい呪いだろうって拍子抜けした。
怪我をするとか死ぬとかならともかく、持ちものがなくなるなんて。「だから何なの?」って思った。
でも、いざ自分の持ちものがなくなると結構困る。特にこういう時は。
(まあ、呪いのはずないよね)
きっと何かの間違いだ。そう思って探し続けるけど、一向に見つからない。
もしかして捨てられた?
誰かのイタズラを疑って、下駄箱近くのゴミ箱をのぞいた。
甘ったるい臭気が鼻を刺す。丸めたプリントやジュースの紙パック、ペットボトル……この下にあったりして。
もっと深く探そうとした時だ。
「――そんなところにはない」
背後から声が飛んできた。
静かだけどハッキリ通る声音。聞き覚えがある。
あの人だ。結果発表の日に見た、背の高い三年生の男子生徒。
鞄の他にブックバンドでまとめた数冊の本を抱えて、胸ポケットにはあの万年筆がささっている。
彼……と呼ぶと失礼かもだけど、彼はゆっくり近づいて、わたしが外したゴミ箱のフタを元に戻した。
(うわわ、近くで見ると肌白っ)
頭の中に、いろんなアニメのクール系美青年キャラが次々と浮かぶ。
モロにそんな雰囲気の彼は、わたしに「こっち」と短く命じると、昇降口とは逆方向に歩を進めた。
ついていくと、校舎の裏庭に出るドアが見えてきた。彼は何のためらいもなく、上履きのまま外に出る。
北風が頬をなぶり、身震いした。わたしが「寒っ!」と口にしても彼は無言だった。寒さなんか感じてないみたいに。
常緑樹が並ぶ裏庭の一角。真っ黒な焼却炉がでんと構えていた。彼はやはり躊躇せず、そのフタを開ける。
束ねた藁半紙や燃えるゴミの上に、ちょこんと靴が乗っかっていた。
しかも二足。黒いスニーカーはわたしのだ。
彼は、よく磨かれた革のローファーを拾い上げ、何の感慨もなさそうに靴を替える。
……そして特にわたしに何も言わず、校舎に戻ろうとした。
つい、話しかけてしまった。
「あっ、あの、どうしてココにあるって分かったんですか?」
彼は顔だけ向けた。妙に迫力がある。
「……みんな、考えることは一緒だからな」
一月の空っ風によく合う、冷静沈着な答え、まなざし。
わたしはしばらくの間、動けなかった。
講堂に着くと、わたし以外の部員はみんな集まっていた。
(あれ? 三年の先輩たちもいる)
受験のために夏休み前に引退した三年生たちもいて、いつもより賑やかだ。
舞台下に可動式のホワイトボードを置いて、その前で体育座りをして各自おしゃべりに興じている。
それでも人数は十五人にも満たない。二年生は十人近くいるけど、一年生なんてわたしと成実と就也の三人だけだ。
そういえば今日は大事なミーティングだって言ってたっけ――そう考えた時、ふと、最前列に座る成実と目が合った。
けれどすぐにそらされ、背を向けられる……いつもなら、笑って手招きしてくれるのに。
胃がぎゅっと縮むのを感じた。
仕方なくすみっこに座ると、近くにいた二年生の織屋先輩が、
「はづるん。成実ちゃんと何かあったの?」
そう訊いてきた。
わたしは曖昧にごまかすしかなかった。
「時間になったので始めるよー」
部長の板山(いたやま)先輩が号令をかける。
その隣には、三年生の香西皐平先輩がいた。
分厚い眼鏡をかけて少し神経質そうに見えるけど、人望の厚い元部長だ。舞台の監督や演出も兼任していた。
「みんな久しぶり。元気だったかな?」
香西部長……じゃなくて、香西先輩が明朗な調子で尋ねると、口々に返事が飛ぶ。
「今日は、三月にある卒業式公演の話をしにきたんだけど……覚えてた人、いる?」
しーん、と静まりかえる。
香西先輩は苦笑いした。
「まじかー。ゆるゆる部活でも覚えておいてほしかったな。一応、秋の文化祭公演と並んで、我が演劇部の二大イベントなんだけど」
(そこは全国大会とかじゃないんだ……)
毎年夏に全国高等学校演劇大会というのがあるけど、この部は地区大会にすら出ようとしない。
入部した直後に年間スケジュールを見た時、予定らしい予定がなくてすごくびっくりした。特に成実が。
「簡単に説明するよ。卒業式で、送辞と答辞の間に軽演劇をします。演目はオリジナル脚本の十分程度の短編。これはうちの伝統行事です」
二年生のひとりが、手を上げた。
「伝統行事なんですか? 去年そんなのやった覚えがありませんけど」
「それは君たちが、一年生トリオと同じく今年度の四月から入部したから。やった覚えがないのは当然だね。そして去年の卒業式は人手が足りなくて中止になった」
そういえば、そのあたりのことも最初の頃に聞いた。
今の二年生は、全員内申書に『部活動経験あり』って書くためだけに入部したんだって。
でも、この学校ではそういうのは珍しくなくて、むしろ純粋に演劇目的で入部したわたしたちのがレアなんだと香西先輩が言ってた。
――「だから歓迎するよ!」
四月の桜散る頃。香西先輩が笑顔でわたしたちに言ってくれたことを思い出す。
香西先輩は演劇が好きなんだなってよく分かった。
「でも今年は、声優志望の一年生トリオがいるからね。喜多くん、南野さん、小山内さん、よろしく頼むよ」
急に話を振られて、焦った。
「はい!」と就也。
「……はい」と成実。
「は、はいっ」
一拍遅れてから返事をする。少しどもっちゃった。
就也はにこやかだけど、成実はふてくされた態度だった。
成実は、この演劇部が嫌いだから。
事あるごとに「超がっかり。っていうか裏切られた気分」「演劇の強豪校だって聞いたから、頑張って入学したのに」って愚痴る。
……何より、わたしのこともあるのだろう。
またおなかがギュッとなった時、背後からドアが開く音がした。
顧問の先生かなと思って振り向くと、
「あっ」
講堂に入ってきたその人と、同時に声を上げる。
スラリとした背格好、甘さの少ないシャープな顔立ち。ブレザーの胸ポケットの万年筆。
さっき一緒に靴を探した、あの三年生の男子生徒だった。
隣にいる織屋先輩が「うわっ、顔がいい」と息を呑み、女子からざわめきが起こる。
「小山内さん、雛田と知り合い?」
「えっ?」
みんなが一斉にわたしに注目する。
「さっき、ふたりとも『あっ』って言ったよね」
香西先輩めざとすぎっ。
「さっき、ちょっとな」
低い声で、雛田と呼ばれた先輩が簡潔に言った。
「ふうん。――遅かったね。何かあった?」
「電話がかかってきた」
「へえ。ディレクターさんから?」
聞き慣れない単語に、頭にハテナが浮かんだ時だった。
「うそっ、もしかして雛田颯さん!?」
成実が立ち上がって大声を上げた。わたしからは背中しか見えないけど、興奮しているのが分かった。
「テレビ夕陽の、シナリオ新人賞で大賞とった人ですよね! 帝都チカヤ主演で映像化されるやつ!」
誰もが知ってるテレビ局と男性アイドルの名前が出てきて、一気に場の空気がアツくなる。
「えぇええええ! まじ!?」
「チカやんがSNSで言ってたやつ!?」
「ネットで史上初の高校生受賞者って話題になってたけど、うちの高校のやつだったの!?」
さっきまでこっそりスマホをいじっていた人も、居眠りしかけてた人も、みんな一様に驚いている。
わたしは驚きすぎて声も上げられなかった。
(そんなすごい人だったの……?)
チープな感想しか浮かばない。
当の雛田先輩はうるさそうに耳を撫でた。こんなに歓声を浴びてるのに、どうでもいいみたいに。
香西先輩が手を叩いて、場を鎮める。
「紹介する前にうっかりバレちゃったな。――改めて、こちらは雛田颯くん。うちの元部員で、南野さんの言うとおり、テレビ夕陽シナリオ新人賞の今年の大賞受賞者だよ」
おおー、とざわめきが起こる。
「でも、できればこれはオフレコにしてほしいな。今は三年生が大事な時期だから、なるべく刺激しない方がいいって先生方の意見なんだ。雛田も卒業するまでは騒がれたくないって。そうだよね」
「まあな」
雛田先輩が短く答える。
……言っちゃ悪いけど、無愛想な人だなぁ。さっきは親切だったのに、ちょっと怖いかも。
「だから演劇部以外の人には言わないでほしい。もちろんSNSに書き込むのもやめてやってね」
隣の織屋先輩が、ギクッと身体をこわばらせるのが分かった。
こそこそSNSのアプリを開いてるなと思ったら。そういえばこの先輩、ミーハー気質のオタクだった。
成実が「分かりました」と答える。それでみんな、了承したようだ。
「ありがとう。――ほら、雛田もお礼言って」
「なんで俺が」
「礼儀は大切。演劇の基本だろ」
「……」
雛田先輩はばつが悪そうに、「よろしく」と言った。お礼……ではないような。
香西先輩は軽くため息をつくと、パッと切り替えた。
「さて本題。雛田は今年の答辞担当なんだ。だから劇との兼ね合いもあるから、ちょくちょく顔を合わせると思う」
「すごいね。答辞って学年主席がやるんでしょ?」
織屋先輩がこっそり話しかけてきた。
「頭いいんですね……」
シナリオの賞ってことは、脚本家? 高校生で?
すごいなぁ。才能があって頭もよくて、おまけにあんなにかっこいいなんて。本気でアニメの中の人みたい。
(生きる世界が違うって感じ……)
そして、香西先輩が卒業式当日の簡単な流れと、軽演劇の内容について説明する。
台本も配られた。十ページほどのペラペラの台本は、内容も「みんなで夢を叶えよう」とペラペラだった。
雛田先輩はずっと険しい表情で、何ひとつ口を挟まなかった。機嫌が悪そうに見える。
「ねー部長、練習ってどうなんの?」
「俺、バイトあるからさ、放課後居残りとか無理なんだけど」
「私も予備校が……」
二年生から質問が飛ぶと、板山部長は両手を振った。
「大丈夫だよ! 見てのとおりの短い劇だから、特に練習はいらないよ。軽く読み合わせをして、動きを決めて、前日に通しでやるくらいだから!」
そんな説明をされた後、成実の方を見ると……じっと床を見つめていた。
明らかに不機嫌そうだ。二年生の態度と、「特に練習はいらない」が勘に障ったのだろう。
(あれ?)
気のせいかな……雛田先輩も、眉間の皺が深くなった気がする。
雛田先輩の隣でずっとニコニコしてる香西先輩が、板山部長の肩を叩いた。
「うちの演劇部、今はこんなゆるふわだけど、昔は全国大会常連の強豪校だったんだよ。面目躍如、頑張ってくれよ」
「不安……しかないです」
板山部長は完全な『名前だけ』部長だ。文化祭の公演も、香西先輩が仕切った。既に引退していたのに。
大丈夫大丈夫、と香西先輩が優しく繰り返して、板山部長が顔を上げた時だった。
「――そう思うんならやめろ」