——やってしまった。やってしまった、やってしまった!
 俺は家の玄関を開けるなり、廊下を走って自室へ転がり込み、そのままベッドへ飛び込んだ。俯せになって枕に強く顔を押しつける。
 息は切れ、肩は激しく上下し、肺は懸命に酸素を求めている。けれど、どうしても顔が上げられない。自分の心臓の音がうるさくて、両手で耳を塞ぐ。頬も耳殻も驚くほど熱かった。
 いい加減、息が苦しくなって、ごろんと仰向けになる。電気のついていない天井は、カーテンから差し込む外の明かりにぼんやり光っている。月の光と、それからきっと道路にある街灯——さっき、御子柴と別れたところにあるものかもしれない。

 ——来週末、うち、誰もいないんだけど。泊まりにくる?

 うわああああああ、と心の中で叫ぶ。じっとしていられず、俺はベッドの上を右へ左へ転がった。何やってるんだ、馬鹿みたいだ。傍から見たら気でも触れたかと思われるに違いない。
 でも、だって。泊まりに行くだなんて、それは、つまり——
「——ハルく〜ん?」
 どんどん、と無遠慮にドアがノックされる。俺はびくっと全身を震わせ、無意味な体の動きを止めた。
「入るよ? ……あれ?」
 風呂上がりだろう、パジャマに濡れ髪姿の美海が、きょとんと首を傾げる。
「電気もつけずになにやってんの?」
「い、いや……ちょっと疲れて」
「あ、そっか。今日、池袋行ったんだよね? お兄ちゃ〜ん、お土産は?」
 甘えた声で言う美海に、俺はゆるゆると首を振った。
「何もないけど……」
「ハルくんのばかっ。かいしょなし!」
 大きな音を立てて、ドアが閉められる。再び暗く閉ざされた部屋で、俺はぐったり四肢をベッドに投げ出す。
 ああ、そうなんだよ、美海。お兄ちゃんには甲斐性がないんだ……。甲斐性が具体的に何かちょっとよく分かってないけど、でもそれぐらいは分かるんだ……
 やってしまった。逃げ出してしまった。
 持ち帰って検討させていただきます、なんて大人の方便みたいなことを言い残して、御子柴を置き去りにしてしまった。
 言いそびれていたから勢いで言う、と啖呵を切っていた。確かに実際、何度か御子柴はそのことを言い出そうとしていた。今となっては心当たりがある。それにいつもの余裕のある顔じゃなかった。眉間に思いっきり皺を寄せて、頬を少し引きつらせて。でも真摯に俺を見つめていた。
 それなのに、俺は。
 寂しいとか、離れたくないとか言っておきながら。いざそんな風に手を伸ばされると、尻込みしてしまうなんて最悪だ。
 でも、だって、突然そんなことを言われて——
「どうしたらいいんだよ……」
 うずくまって頭を抱える。たまらず掻き抱いた枕の柔らかい感触だけが、俺の頼りだった。


 月曜日が来なければいいのに、とこんなに強く願ったことはない。
 だが時の流れは絶え間なく、俺は濁流に呑み込まれるようにして、気がつけばあっという間にいつもの登校路を歩いていた。
 住宅街を抜けると、二車線の道路に面した歩道に出る。冬の冷たい空気をもろともせず、雀の群れが街路樹から街路樹へ渡っていった。
 前後には同じ高校へ通う制服姿の生徒が増えてきた。俺は天敵に怯える小動物のように肩を竦め、視線だけでちらちらと道行く生徒の背格好を確認していく。
 今のところ、見当たらない……かな。ほっと安堵の息をついてから、自分の身勝手さに気づき、自己嫌悪が胸を刺した。
「——よ。おはよ」
「うわあッ」
 背後からぽんと肩を叩かれ、その慣れた声を聞いた瞬間、俺は文字通り飛び上がった。
 足を止めて振り返ると、目を丸くした御子柴がいた。突然大声を上げた俺を、周囲にいた生徒達が横目で見てくる。いたたまれなくなって俺はそそくさと歩き出した。御子柴も当然のように隣に並ぶ。
「なんでそんな驚いた?」
「い、いや……ぼーっとしてて」
「ふーん。ところで兼藤ティーチャーの小論文やった?」
 兼藤先生は英語を担当している、中年の男性教師だ。日本語と英語が半分ずつほど混じる独特な喋り方とその個性からか、生徒の間ではもっぱら『兼藤ティーチャー』の愛称で呼ばれている。
 俺は足元にうろうろと視線を彷徨わせながら、返した。
「えっと、それ、今日だっけ?」
「いや、今日だよ。思いっきり今日だよ。みんなひーひー言ってたじゃん」
「マジか。してない……」
「一個も?」
「うん……」
「お前なー、もうちょっと焦ったら?」
「あ、焦ってるよ」
 だが今の俺を追い立てるのは、決して英語の小論文ではなかった。
 呆れ顔でこちらを見つめてくる御子柴に、俺は意を決して言った。
「この前の……」
「ん?」
「いや、その、土曜日のこと。——ごめん」
 すると御子柴がふっと苦笑した。
「なんだそれか。何、思い詰めてんのかと思った。別に気にしてねーよ」
 俺は今朝、初めて御子柴を見上げた。
「ほんとに?」
「まぁ、急に言い出した俺も悪かったし」
「怒ってない?」
「ない」
「そっか。ごめん、俺、傷つけたかと思って……」
「そんなにヤワじゃありません。ピアニストのメンタル舐めんなよ」
 そう、なのかな。なら、どうして御子柴はあんな別れる間際になるまで、言い出さなかったのだろう。一抹の不安と共に御子柴の表情を伺うも、そこにはいつもと変わらない綺麗な微笑みがあるだけだ。
 俺は御子柴の真意を測りかねたまま、慌てて付け足した。
「あの、土日、行くから……」
 ふと御子柴の口元から笑みが消えた。
 校門をくぐって昇降口に入る。御子柴はスニーカーを脱いで、上履きに履き替えながら、淡々と言った。
「別にそんな急がなくてもいいんじゃね」
「え?」
「返事。まだ一週間あるんだし、その間に何か予定が入るかもだろ」
「いや、でも……」
「それにこれが最初で最後ってわけでもなし。んな焦る必要ねーよ」
 御子柴は戸惑う俺を置いて、さっさと昇降口を抜けていってしまう。そして肩越しに振り返った。
「職員室に用事あるから。また、後でな」
 軽く手を挙げて、御子柴は廊下を曲がっていく。俺は突然親鳥に見放された雛のように、呆然とその背中を見送った。


 英語の小論文が終わっていなかったのは、幸いなことに俺だけではなかった。予想はできたが高牧である。兼藤ティーチャーは俺と高牧に居残りを申しつけ、小論文を是が非でも完成させることを誓わせた。
 そんな嵐の一時間目が過ぎ、今は二時間目の倫理の授業中である。主要教科でないのをいいことに、俺は真っ白なノートを見つめながら、悶々と考え込んでいた。
 俺の頭を悩ませるのは、もちろん前の席に座る男である。黒板を見れば嫌でも目に入るため、こうして俯いているしかないのだった。
 今朝の御子柴の言動が、脳裏で幾度も繰り返される。行く、と言ったのに。どうして御子柴は頷いてくれなかったんだろう。やっぱり怒っているとか? それとも一度逃げ出した俺に呆れ返っているのか。
 ……嫌われた、だろうか。
 思考がぐるぐると螺旋を描いて、底の見えない暗がりに落ちていく。
 そんな負のスパイラルを遮ったのは、鋭い声音だった。
「——水無瀬」
 はっと顔を上げると、銀縁眼鏡の向こうから、厳しい視線が送られていた。教壇に立っている倫理の石田先生だ。細面に吊り上がった目、そして神経質な表情が俺を見ている。俺は慌てて立ち上がった。
「は、はい」
「質問は聞いていたな? 答えろ」
 まるで記憶がない。石田先生はそれを見越しているようだった。一時間目のみならず、次の授業までもつるし上げられて、小心者の心臓は早鐘を打つしかない。答えに窮していると、石田先生は聞こえよがしな溜息をついた。やばい、これは相当怒ってる……
 そこへ、とんとん、と軽い音がした。俺にしか聞こえないような小さな音だ。見ると、前の席から教科書の端が覗いていた。御子柴がシャーペンで哲学者の自画像と名前を差し示している。俺はとっさに答えた。
「ピコ・デラ・ミランドラ、です」
「なんだ、聞いてたんじゃないか」
 石田先生は少し残念そうな声で言った。うう、絶対サディストだ、この人……
 なにはともあれ許された俺は、すごすごと椅子に腰掛けた。
 前の席をちらりと見やる。石田先生が板書に戻った隙に、お礼の意味を込めて御子柴の背中を突くと、返事の代わりにシャーペンが左右に振られた。
 胸の真ん中がきゅっと引き絞られる。何故か泣きたくなるのを、俺は懸命に堪えた。


 昼休みになるや否や、いつものように御子柴がくるりとこちらを向いた。その手にはすでに購買の袋が握られている。
「メシ行こうぜ」
「あ、うん」
「あと英語の辞書とノート」
「へ?」
「昼休み中に仕上げれば居残りしなくていいだろ。手伝ってやるから」
 御子柴が白い歯を零す。その優しい声音が、俺の心を再び掻き乱した。伝えたいことが確かにあるのに、それがどうしても言葉になって出てこない。
 もどかしげに唇を擦り合わせていると、突然、教室に大きな声が響き渡った。
「オイッ、御子柴! いんだろ、出てこい!」
 やや高めだが、男子の声だった。御子柴は教室の出入り口を振り返り、ぎょっと顔を引きつらせた。
「げっ……!」
 御子柴を呼んでいるのは、見慣れない生徒だった。背が低くて、童顔で、まるで中学生みたいだ。それなのに視線はぎろっと鋭く、教室内を見回している。そして御子柴の居場所に気づくが早いか、ずかずかとこちらに歩み寄ってくる。御子柴は引きつった笑みを浮かべた。
「春日井先輩……。何か用っすか?」
「何か用じゃねーよ。てめー、何呑気に昼飯食おうとしてんだ? あ?」
 小さい体に似合わず、かなりガラが悪い。だがそれはどうみても年下が精一杯虚勢を張っているようにしか見えなかった。
「まさか、自分が選管委員なの忘れてねーよな?」
 選挙管理委員会はクラスに一人割り当てられる、委員の一つだ。その名の通り、生徒会の選挙を管理する委員会で、御子柴は確かそれに立候補していた。というのも、中学からの知り合いの先輩がいて、スケジュールにかなり融通を利かせてくれるという話を聞いたことがある。
「いやいや、俺なんてただのしがない幽霊委員ですから……」
「そういうのいいんだよ。いいからツラ貸せや」
「はあ?」
「はあ、じゃねー。集計ぐらい手伝えってんだよ」
 そういえば次期生徒会の選挙がこの前あった。といっても、全体朝礼の後に立候補者の短い演説を聴いて、あとは各自配られたプリントに名前を書くだけだ。俺は適当に一番最初の候補者に票を入れた。関係ない者にとってはその程度のことだが、選挙管理委員会は全校生徒の票を集計しなければならない。きっと今が一番忙しい時期なのだろう。
「今週は昼休みと放課後、委員会室に集合な」
「嘘でしょ?」
「てめー、いい加減ブン殴るぞ」
 顔を引きつらせる御子柴と、俺はある意味同じ気持ちだった。今週はずっと昼休みも放課後も御子柴と話ができない? じゃあ、例の件はいつ話をしたらいい?
「今から昼飯食いながら票数えんぞ、さっさと立てオラ」
「えー……」
 春日井先輩に追い立てられるようにして、御子柴は渋々腰を浮かせた。思わず縋るように御子柴を見つめると、手を立てられて謝られる。反射的に首を振ると、それきり御子柴は振り返ることなく教室を出て行く。
「にしても、先輩、また背ぇ縮みました?」
「縮んでねーよ、アホが! てめーが無駄にでけえだけだろ!」
「痛って。蹴ることないじゃん」
「じゃあ、次は顔に一発入れてやるよ」
「えー? 届くかなー?」
「マジ殴る!」
 ぶんぶんと腕を振り回す春日井先輩の額を抑えながら、御子柴が楽しげに笑っている。二人の姿はやがて廊下の向こうに消えていった。
 俺はしばらく目を瞬かせていたが、何故か自然と眉根が寄り、口を真一文字に結んだ。
 ……なんか、妙に、仲良さそうだな。
「あーらら、振られちゃったの、水無瀬きゅん?」
 俺の肩に腕を回してきたのは、高牧だった。高牧は顔を寄せて、ウインクしてくる。
「一人だけ御子柴の力借りて小論文完成させようだなんて、ずるいぞう?」
「聞いてたのかよ」
「はい。いつ仲間に入れてもらおうか、ずっとスタンバってました」
 どっちみち御子柴と二人にはなれなかったようだ。勝手に御子柴の席に座る高牧に、俺は観念したように言った。
「とりあえず、頑張る?」
「おう、よろしくだぜ、水無瀬先生」
「いや、俺、英語苦手だし……」
 購買のビニール袋からサンドウィッチを取り出しつつ、俺は気の進まない手つきで英語のノートを広げた。


 結果、俺と高牧は昼休み中に、なんとか小論文を完成させた。
 全ては大天使・天野さんのおかげである。
 外交官の父を持つ天野さんは英語の成績はトップクラス、かつ英検準一級を持つ強者だ。兼藤ティーチャーに怒られた俺達を心配して、昼飯が終わった後、残りの時間、つきっきりで教えてくれたのだ。
 何かお礼をすると言うと、いつもの人好きのする笑顔で「いいよぉ」と慎ましく遠慮し、麗しい天使は福音だけを残して去って行った。
「俺、一生、天野ちゃん推す……」
 涙ながらにそう語る高牧に、俺は魂の底から同意した。
 そして予鈴ギリギリで帰ってきた御子柴は、疲れた様子で席に戻ってきた。しきりに首を左右に伸ばしていた御子柴だったが、椅子に座るなり眉を顰めた。
「なんか生暖かい……」
「高牧が座ってたから」
「はあ?」
 思いっきり顔を顰めた御子柴に、俺はぱたぱたと手を振る。
「いや、その、小論文するためにさ」
「できたの?」
「うん、天野さんが手伝ってくれて」
「あ、そう……」
 そこで本鈴が鳴り、次の国語の教師が入ってくる。御子柴はつまらなさそうに口を尖らせていた。

「御子柴ぁ! 帰ってねーだろーな!?」
 放課後になると、昼休みと同じく春日井先輩の怒鳴り声が教室中に木霊した。御子柴は溜息を吐きつつも、春日井先輩にへらりと笑ってついていく。
 ちなみに次の日の火曜日も、水曜日も、昼と放課後には同じ光景が繰り返された。お決まりのように、御子柴が春日井先輩の身長をいじっては、先輩がきーきー怒るという構図も一緒だ。
「なんかあの二人、漫才師みたいだよな。いんじゃん、今流行ってる凸凹コンビ。なんつったかなー」
 当然のように御子柴の席を陣取って、高牧が弁当を広げながら言う。曰く、御子柴に捨てられた俺に同情してくれているらしい。大きなお世話だ。
 そして俺の右隣には、たまには一緒に昼飯を食べようと誘ってくれた設楽がいる。今日はたまたま部活の昼練がないとか。
「ああ、俺も見たことあるよ。確か若い夫婦の漫才師だよな」
「ふ、ふうふ?」
 BLTサンドをかじり損ねる。設楽はのんびりと頷いた。
「うん。蚤の夫婦って言うんだっけ、ああいうの。奥さんが背高くて、旦那さんが背低いんだよ」
「あ、そ、そうなんだ……」
 胸の中に黒いもやが溜まっていくのを感じる。なんだこれ。なんか気持ち悪い。サンドウィッチを呑み込んでも、カフェオレを流し込んでも、それは一向に消化される気配はなかった。
 そんなとりとめもない話をしているうちに、御子柴が帰ってきた。とりあえず高牧をどかして、どっかと席に座る。眉間に皺の寄った、仏頂面だ。高牧が慇懃に頭を下げた。
「殿、温めておきました」
「よし、打ち首」
「なんでだよ! お前がいない間、代わりに水無瀬を可愛がってやってたんだぜ?」
 俺に抱きついて頬ずりしてくる高牧の脳天を、御子柴は無言で三回叩いた。しかも結構いい音がした。それを見た設楽が肩を小刻みに揺らして笑う。
 今日も今日とて俺の周囲は平和そのもので大変結構だが、件のタイムリミットは刻一刻と迫っている。もう木曜日だ。いい加減、ちゃんと話をしなくては。
 高牧と設楽が去った後、俺は小声で御子柴に言った。
「……今日、放課後待ってる」
「え? いや、別にいいよ。時間かかるし」
「でも、待ってる」
 念押しすると、御子柴はふと思案顔を浮かべた。そこへ五時間目の化学の教師がやってきて、授業が始まってしまう。
 返事はついぞ聞けず終いだった。


 廊下の窓から差す茜色の西日を背負って、その小柄な人影は今日もやってきた。
「オラ、行くぞ、御子柴ぁ」
 月曜日から数えて四日目ともなると、うちのクラスの連中も慣れたもので、春日井先輩に見向きもしない。呼ばれた御子柴だけが溜息とともに、重い腰を上げるだけだ。
 俺はというと、不退転の覚悟で自席に根を下ろしていた。どれだけ時間がかかるかは聞けなかったが、関係ない。御子柴が戻ってくるまで座して待つのみだ。
 御子柴はちらりと視線を動かし、俺と春日井先輩を見比べていた。
 そして業を煮やした先輩がずかずかやってくるのを見計らって、唐突に俺を指差した。
「先輩、今日は助っ人呼びません?」
「は?」
「こいつ、水無瀬っていうんです。細かい作業とか得意だし、役に立つかと」
 いきなり名指しされた俺は「え?」と思わず声を上げる。
 春日井先輩の眼光が俺を過り、ついで御子柴を睨み付けた。
「てめー、最低か。関係ねえ奴、巻き込んでんじゃねーよ」
 それはおそらく普通に聞くと、俺を気遣ってくれた言葉なのだろう。
 けど、今の俺にとっては引っかかる単語があった。
 ……関係ねえ奴?
 がたっと椅子が鳴る。気がつくと俺は立ち上がっていた。
「——関係なくないです」
 地を這うような声色に、自分でも驚いた。もちろん御子柴と春日井先輩も目を丸くしている。
「水無瀬?」
「は? どういう意味?」
 春日井先輩が首を傾げて、腕を組む。改めてそう問われると冷静になり、俺はさっきの自分の言動を取り繕い始めた。
「いや……えっと、今日、御子柴と放課後用事があって……。どうせ待ってようかなって思ってたんで。やることないし、俺に出来ることなら手伝います」
 春日井先輩は俺を値踏みするように見ていたが、やがて首を横に振った。
「一応、学校の生徒会っつっても選挙は選挙だ。委員以外のやつを入れるわけにはいかねー」
 い、意外と真面目だな、この先輩……。突っぱねられて俺が弱り果てていると、御子柴が横から援護した。
「集計以外の作業ならいいじゃないっすか。書類の整理とかまだ残ってるって言ってたし」
「まぁ、そりゃそうだが」
「ほら先輩、いっつも猫の手も借りてーって言ってんじゃん。あれ、ほんとに言う人初めて見たけど」
「お前はいちいちうっせーな!」
「痛いって」
 春日井先輩は御子柴の脇腹にパンチを入れる。……なんでこの人、こんなに暴力的なんだ。御子柴が怒らないと高を括っているんだろうか?
 自分の目が再び据わり始めたのを感じていたその時、春日井先輩は後ろ頭を掻きながら俺に言った。
「あーまぁ、そういうことだから。手伝うってんなら入れてやってもいいぜ。ただし茶と菓子ぐらいしか出ねーぞ」
「分かりました」
 三人で連れ立って教室を出る。大股でのしのしと先を歩く春日井先輩から離れ、御子柴は俺にそっと耳打ちしてきた。
「勝手に言ってごめんな」
「いいよ、暇つぶしになるし」
 これで御子柴の仕事が早く終わるなら、俺にとっても僥倖だ。しかも御子柴と一緒にいられる。と、そこまで考えて、俺はとっさに俯いた。いやいや、何恥ずいこと言ってんだ、バカ。
「オイ、御子柴、てめーはこっちだ。逃げられたら困るからな!」
「はいはい」
 春日井先輩に呼ばれ、御子柴は小走りに駆け寄ってその隣に並んだ。
「今更逃げねっすよ。ただ先輩を気づかずに、通り越しちゃうことはあるかもだけど」
「俺が小さくて見えねえって言いたいのか? あ?」
「自分で言っちゃってんじゃん」
「てめー、マジで一回シメる」
 高牧と設楽が言っていた、背が凸凹の夫婦漫才師のことを思い出す。委員会室に着くまでの間、なんのかんのと言葉の応酬を繰り広げている二人の背中を、俺はじいっと眺めていた。


 選挙管理委員会の部屋は教室の半分ほどの広さだった。いつもは生徒会室で、そこを選挙の間だけ間借りするというシステムらしい。壁一面にキャビネットが置かれていて、中には本や書類やファイルが敷き詰められている。
 長机をいくつも並べて作った広い作業スペースに、クラスから一人選出された委員が張り付いて作業をしている。今は集計した投票結果をもう一度チェックしている段階らしく、ところどころから溜息が聞こえてきた。
「副会長候補の東条さんの結果、また合いません〜」
「書記ってもうダントツだし、数えなくてもよくないっすか?」
「あー、もうやだー、この紙見飽きた〜」
「——うるせえ、つべこべ言わず作業しろ!」
 文句だらだらの委員の面々を、春日井先輩が一喝する。この先輩、やけに責任感に溢れていると思ったら、委員長らしい。
「相変わらず暑苦しい男だよねえ」
 一人離れた座席に座っている俺に声をかけてきたのは、副委員長の嶋村瞳子先輩だった。肩より少し長いセミロングの黒髪に、細い赤縁眼鏡がよく映えている。
 嶋村先輩は俺の向かいに座ると、一緒に書類のファイリングを手伝ってくれた。
「君、春日井が連れてきたんだって? 悪いね、委員でもないのに」
「あ、いえ。御子柴を待ってるついでなので……」
「あぁ、みこっしーのクラスメートなんだっけ」
 どこかのゆるキャラみたいな呼ばれ方をしているのに、思わず苦笑する。嶋村先輩は眼鏡の奥からちらりと作業スペースを見やった。つられて俺も首を巡らせると、隣り合った席でやいのやいのと言い合っている御子柴と春日井先輩がいた。
「オイ、御子柴、カッター取れ」
「いいっすよ、俺、手足長いんで」
「届かねえんじゃねえよ!」
「えー、じゃあ自分で取ったらいいじゃん」
「てめえに頼んだ俺が馬鹿だったよ。……っ、——っっ!」
「はい、どーぞ」
「にやにやすんな、ぶっ飛ばすぞ!」
 俺は軽く後悔を覚えながら、書類を綴じる作業に戻った。一方の嶋村先輩は肩をくつくつと震わせている。
「あの二人、見てて飽きないんだよねえ」
「……確か、中学の先輩後輩なんでしたっけ」
「そうそう。前からあんな調子だったのかなぁ」
 中学時代——それは俺が知らない、そしてこれからも知りようがない御子柴だ。詮無い思考から逃れるように、俺は作業に集中する。
 そこへガタガタと音が聞こえてきた。見れば、春日井先輩が脚立を物置のロッカーから引っ張り出してくるところだった。お目当てはキャビネットの上にある段ボールらしい。
 脚立は年代物で、遠目から見ても足場が安定しておらず、いかにも危なっかしい。それに目聡く気づいた御子柴が立ち上がった。
「取りましょうか?」
「もうてめえには頼らねえよ」
「俺なら脚立なしでも届くのに」
「うるっせえな、いいからちょっと押さえてろ」
 渋い顔をして脚立に登る春日井先輩を、俺は白い目で見つめた。
 どうせ脚立を押さえさせるなら、御子柴に取って貰った方が早いし確実だ。そんなこと分かりきっているのに、苦笑しながら春日井先輩の言いつけ通りにする御子柴も御子柴である。
「なんか面白いことにならないかな」
 嶋村先輩の期待は現実のものとなった。
 脚立の上で精一杯背伸びして、ようやく段ボールに手が届いた春日井先輩が、ふいにバランスを崩したのだ。
「——うおっ!?」
 段ボールとその中身が宙に舞う。ファイリングされていない書類の雨の中、春日井先輩がゆっくりと後ろに倒れ込んでいく。
 その場にいた全員が息を呑んだ。
 しかし、
「っ、と」
 ぽすっと軽い音を立てて、春日井先輩が収まったのは、御子柴の腕の中だった。天井に向けて腕を伸ばした状態で、横抱きにされている春日井先輩。その図に委員の女子達がきゃあきゃあと歓声を上げた。
「すっごーい、少女マンガみたい!」
「お姫様抱っこって初めて見た〜」
「プリンセスじゃん、春日井。あっはっは!」
「——うるせえええッ!」
 春日井先輩は御子柴から飛び降り、顔を真っ赤にして地団駄を踏んでいる。
 ——不意に、手元でバリッという音がした。
 はっと我に返ると、ファイルに綴じたはずの書類が穴から破けていた。紙の端に強く握りしめたような皺が寄っている。
 腹を抱えて笑っていた嶋村先輩が、涙を拭いながら言う。
「あはは、驚いて力入っちゃった?」
「い、いえその、はい。すみません……」
「大丈夫、穴を補強するシールあるから。取ってくんね」
 嶋村先輩が椅子を引いて立ち上がる。作業スペースでは未だ歓声や笑い声が響いている。俺は破ってしまった書類を、親の仇のようにじっと睨んでいた。


 すっかり夜の帳が落ちた道を、御子柴と並んで帰る。等間隔に立てられた外灯が、歩道のアスファルトに水たまりのような光を落としていた。
「ありがとな、こんな時間まで手伝ってくれて。おかげで明日にはちゃんと終わりそうだって」
「そっか……」
 柔和な笑みを向けてくる御子柴に、しかし俺は気のない返事しかできなかった。慣れない人達に囲まれて疲れたのだろうか、うまく思考がまとまらない。それを知ってか知らずか、御子柴は明るい口調で続けた。
「春日井先輩、お前のこと褒めてたしな。あの人、滅多にあんなこと言わねーよ?」
 俺と嶋村先輩で書類整理を終えたと報告した時のことを思い出す。春日井先輩は満足げな表情で俺に言っていた。
「見上げた根性だな、誰かさんと違って」
「先輩、いっつも見上げてますもんね」
「てめー、今にガチでボコるかんな」
 付属的に思い出されるのは、春日井先輩と御子柴の会話だ。俺はぎゅっと鞄の持ち手を握りしめる。
「……褒められても、嬉しくない」
「え? 何て?」
「いや、なんでも」
 軽く首を振って、とっさに出た小さな呟きを振り払う。外灯が一瞬だけ頭上を照らす。俺は今、どんな表情をしているのだろうか。それが暴かれていないことだけを祈った。
「うまくいけば水無瀬と一緒に作業できると思ったんだけどな。先輩、全然放してくんねーから」
「あの先輩、付き合い長いの?」
「中学の頃、おんなじようなことしてただけ。幽霊部員にしてもらったり。ま、面倒見はいい人なんだよな。ちょっと口うるさいけど」
「ふうん」
「でもからかいがいがあって楽しいぜ? きゃんきゃん吼えてるの、子犬みてーじゃね? うちの犬、大型犬だからそういうのなくってさ。なんか新鮮っていうか可愛いっていうか」
「ふううううん」
「……どした?」
「別に」
 そっけなく返した俺に、御子柴は微苦笑を返した。
「水無瀬はああいう人、あんま得意じゃなさそうだもんな」
「そういうわけじゃないけど。ちょっと……御子柴に甘えすぎなんじゃって思っただけ」
「それはねえよ、逆はあるけど」
 なんで、春日井先輩の肩持つんだよ。そんな風に文句を言いそうになったのを、すんでのところで呑み込む。
 それにどの口が言うんだ。
 いつだって——今日だって授業で当てられた時、散々甘えておいて。
 あの日、逃げ出したくせに、ずっと許されておいて。
「……ごめん」
「何が?」
 いつもの別れ道に差し掛かる。
 俺は立ち止まって俯いた。土日の件について話さなければならない。でも感情が散り散りに乱れていて、どうしたらいいか分からない。
「その……」
 何か言わなければ。そう思うのに、もごもごと口ごもってばかりの俺の肩を、御子柴が軽く叩いた。
「送ってくわ、手伝ってくれたお礼」
「え、でも」
「いいからいいから」
 さっさと歩き出す御子柴の背を小走りに追いかける。
 俺にとっては気まずい沈黙がしばらく続く。ただ御子柴はその限りではないようで、不意に肩を揺らして小さく吹き出した。俺は思わず首を傾げる。
「なんだよ?」
「いや、勘違いだったら恥ずいんだけど。——もしかして妬いてる?」
「んなっ」
 脳天に雷が落ちたように俺は動けなくなった。ぎくりと歩みを止めてしまった俺に、御子柴は堪えきれないとばかりに笑い始めた。
「ぶっ——あははは、ごめんごめん。お前がそんな風に考えるなんて思わなくて。先輩のこと可愛いとか言っちゃったわ」
「べ、べつに、別にっ……!」
「あー、あとあれ、お姫様抱っこはまずかったよな。とっさに手が出ちゃったっていうか。怒ってる? ごめんな?」
「うるさいばかっ!」
 やけに弾んだ声で形式的に謝ってくる御子柴を振り払うように、俺は大股で住宅街を先へと進んだ。それなりの早足だったのだが、リーチの差なのか、御子柴は悠々と追いついてくる。
 いよいよ俺の家のマンションが近づいてきたところで、御子柴は苦笑交じりに言った。
「んな心配しなくても、俺はお前のもんだよ」
 マンションの入り口の前で立ち止まる。俺は耳まで赤いのを自覚しながら、表情を隠すように俯いた。
 視線だけでちらりと御子柴を見やると、柔らかく細められた目と目が合う。
 俺は一度強く拳を握ると、ほどいたその手で御子柴の腕を掴んだ。
「何?」
「こっち」
 エントランスの脇を通り過ぎ、地下駐車場への入り口を目指す。洞窟のように暗い駐車場には幸いなことに人影は見当たらなかった。
 コンクリートで塗り固められた太い柱の陰まで、御子柴を連れて行く。
 きょとんとしている御子柴を正面から見つめ、俺は言った。
「——土日、行く」
 形の良い眉が少し困ったように下がる。
「勢いで言ってね?」
「お前だって勢いで言ってたろ」
「そうだけど。でも、俺は言うのを迷ってただけで」
「もう決めたんだ」
 ……どうして、俺なんだろう。
 俺はお前のもんだよ、そう言われた時——いや、きっとそれよりもずっと前からそう思っていた。
 具体的に聞いたことはない。俺がそうであるように、さしもの御子柴にだってきっと簡単に言葉で表せるものではないと思ったからだ。
 それなのにどうしてなんだろう、こんなにも心が揺らぐのは。足元がいつも覚束ないのは。そう易々と形にできないと分かっているのに、いや、だからこそ少しでもその輪郭が知りたい。
「今の関係は居心地がいいよ。でもずっとそれじゃ嫌だ」
 恐る恐る、御子柴の手を握る。けどそれじゃ遠すぎる気がして、俺は自然と自分の心臓の上にその手の平を導いた。

「——お前が俺のもんだっていうなら、俺もちゃんとお前のもんにして欲しい」

 暗がりの中、非常用扉の光にうっすらと照らされた御子柴の表情から色が抜け落ちる。
 大きく見開かれた瞳に、一瞬きらりと光が過る。
 それはまるで暗い夜空に輝く、一条の白い流れ星のようだった。
 不意に、胸の上から手が離れた。かと思うと、御子柴はずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。
「いや……マジ、どこでそんな言葉覚えてくんの、お前……」
「じ、自分で考えたよ、ちゃんと」
「なお悪いわ」
 御子柴は心底疲れたように深々と溜息を吐いた。そうして諸々を吹っ切るように勢いよく立ち上がると、ずいっと俺に顔を近づけた。
「言っとくけど、こればっかりは取り消したら泣くからな」
「と、取り消さねーよ」
「……ん、分かった」
 ようやく俺から身を離すと、御子柴は柔らかく微笑んだ。
 ふわりと漂ってくるような、紛れもない幸福の匂いがする。こっちが恥ずかしくなってきて、俺は反射的に俯いた。
「しゃーねーから、明日も集計頑張るか。これもあのチビ先輩のおかげだしな」
 ここでその名前を出すか。じとっと御子柴を睨むと、全て見透かしたように頭を撫でられた。
「嘘だって、怒るなって。水無瀬が一番可愛いよ」
「嬉しくない」
 ぺしっと頭の上の手を払う。俺のつっけんどんな態度を一向に意に介さず、御子柴はへらへらと口元を緩めっぱなしだった。
 駐車場を出て、エントランスの前まで戻り、御子柴を見送る。
「じゃ、また明日。んで、週末な」
「うん」
 小さく手を振り返す。住宅街の角を曲がっていく背を見送っていると、御子柴がちらりと肩越しにもう一度、手を振ってきた。
 改めて一人きりになり、俺はゆっくりと頭上を仰いだ。住宅街の明かりと電線越しに見上げた夜空に、さっき御子柴の瞳の中にあったような、白い彗星を探すように。