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 仕事にやりがいがあるといっても、会社に行きたくて仕方がないのかと問われればそれはまた別の話だ。出社したくないと思うのは毎朝恒例のことだが、今日は特に強く拒否反応が出ている。その理由は至極単純だった。

「……はあー……行きますか!」

 口に出して気合いを表明しなければ足が重くて動かないくらい、苦手な職人のいる取引先を訪問する日だったからだ。

『ジャンティ』のオリジナルシューズは、新商品案が社内会議を通った後は外部に試作品製作を依頼する方針をとっている。職人が靴
を完成させたら、整形科の医師やシューフィッター、そして実際に履いてもらって感想と意見を伺う提携先の現場の人たちと一緒にフィッティングを行う。問題ないとすべての関係者からGOサインが出て初めて、生産に入るのだ。

 今日は取引先に依頼した靴を取りに行かなければならない日だ。営業に行くときの戦闘靴と決めている黒い牛革のオックスフォードシューズに履き替え、会社を出た。

 私は会社にスカートを履いてきた試しがない。私が女らしい格好をしないのは似合わないというのが一番の理由だが、他にもある。

 男女平等社会と謳われて、国が女性の社会進出のために色々と尽力しているのは知っている。一昔前に比べたら働きやすい世の中になったのは間違いないと、数少ない女の先輩たちは言う。

 それでも、職人の世界は今も昔も男のものであり、靴職人も例に漏れない。今から会う取引先の職人なんてまさに、男尊女卑の思考を持つ典型的な男だ。女だからと言って見くびられるわけにはいかない。

「こんにちはー! ジャンティの夏目(なつめ)です! 新村(にいむら)さーん! 入りますよー!」

 工房の扉付近で待っていてもその人が出てきてくれたことなど一度もなく、私の方から作業場まで出向くのが慣例となっていた。煙草の煙が充満された作業場に足を踏み入れると、靴職人――新村さんの動く背中が見えた。

 新村さんは木型にデザインを乗せて型紙(パターン)を設計していた。足を包む甲革(アッパー)の原型となる型紙は、木型とともに設計の要となる。重要な工程の最中に邪魔するわけにはいかないと思い、新村さんが作業を終えるのを大人しく待つことにした。

 長年の靴作りの勲章とも言える太く硬い指先が引く線は、正確無比で迷いがない。今まで様々な会社の靴職人を見てきたが新村さんの技術は本当に傑出していて、私はいつの間にかその動きに見入っていた。

 鉛筆を置いた新村さんが煙草に火を点けたタイミングで、私は丁寧に頭を下げた。

「お世話になっております。ジャンティの夏目です。先日依頼した靴を引き取りに伺いました」

 新村さんは挨拶を返すこともなく、作業台の隣に乱雑に積み重ねられた箱の上から二段目を引き抜き、中を確認して眉間に皺を寄せた。

「依頼通りに作ったけどよぉ、ハッ、こんな靴が売れるとは思えねえけどな。あれかい? 最近じゃあ男とか女とか意識しねえ靴が流行ってるっていうけど、お前の男みてえなナリもそういう流行りに乗ってるのか?」

 また始まった。脳内の私はすでにこの翁を拳一つでKO済みなわけだが、現実は社会人として笑顔を浮かべておくに留めた。

「性別を限定しない物品のことをユニセックスっていうんです。古い人間だからといって、新しいモノを拒否する固い頭は創作者としてどうかと思いますけど」

 だからと言って、嫌味に対して言い返すことを我慢するほど私は成熟していない。新村さんは煙草を燻らせながらニヤリと口角を上げた。

 新村幸助(にいむらこうすけ)。御年七十三歳のこの小柄な翁は、家族で営む小さな町工房で今もなお現役で働く靴職人だ。高度経済成長期からずっと靴職人として生計を立ててきた人で、国内に弟子を数多く持つ靴作りの第一人者であり、有名人でもある。

 しかしじいちゃんとは違って、おおらかさもユーモアもないとても気難しい老人だ。まあ、たった一人の孫娘の祖父という立場と、取引先にいる生意気な小娘の相手をしなければならない立場の違いを考えれば、私に対する態度に差は出て当然なんだけど。

「昔ながらの気難しい職人さんだから、ペコペコ頭を下げていればいいんだ」と上司は言うけれど、私の負けず嫌いな性分がそうさせてくれない。そもそも、私だって好きでこんなに生意気な口を利いているわけでも、悪態をつきたいわけでもない。

 ただどうしても、私個人や女性全般を見下して自分の価値観を押しつけてくるこの頭の固い老人と話していると、反抗心がメラメラと燃え上がり抑えきれないのだ。

 結果、毎度吹っ掛けられた喧嘩を買ってしまって打ち合わせ時間を大幅にオーバーし、帰社後に上司に小言を言われるまでがデフォルトになっている。

「デザインしたのお前だろ? 女が作る靴なんて信用ならん。今からでも男に描き直させた方がいいんじゃねえのか?」

「だーかーらあ! 偏見はやめてくださいよ! 企画書をご覧のうえで製作にご了承いただいたものだと思っておりましたが?」

 企画書を見せたときにも散々こき下ろしてきたのに、まだ言うか。今日も帰りは遅くなってしまいそうだ。

「うるせえ若造が、黙ってろ。大体、お前んとこの会社はいつも見栄えばかりに気を取られて、靴の本質をわかってねえ。靴はあくまで足のサポートなんだよ。そんなこともわからねえから、いつまでたっても中小企業でお前の給料も上がんねえんだよ」

 だけど本質を突いてくるというか、肯定せざるを得ない発言もまた多いのが、新村さんをただの老害の一言で片付けさせてはくれない。

「ぐっ……ちなみに、私の給料は新村さんがもっとウチに納品してくれたら、確実に上がるんですけど」

「あ? 生意気な口利くなボケ。俺にとやかく言われたくなかったら、早く俺を認めさせる靴を持って来いってんだ」
 新村さんに白煙を顔に吹きつけられ、私のストレス値は最高潮に達した。



 帰社してからも、荒くれだった心の波はちっとも静まりそうになかった。

「……文句あるなら同行しろっつーんだよ、クソ上司……!」

「でも、新村さんは絶対に担当を変えろって言ってこないじゃないですか。夏目先輩は気に入られているんですよ」

 休憩室で爆発寸前の苛々をコーヒーと一緒に胃の中に流そうと躍起になっている私の隣で、ミルクティーを片手に相槌を打っているのは後輩の廣瀬(ひろせ)だ。

 身長が一七五センチある私とは違って小柄で童顔な廣瀬は、学生に間違われることも多い。男の比率が高いこの職場における数少ない同性の後輩であり、ずっと私を慕って懐いてくれる可愛いやつだ。

「新村さんに気に入られるだけで給料が上がるなら、私のストレスも少しは減るんだろうけど……あー、一度ストライキでも起こしてみるか……」

 余程渋い顔をしていたのか、廣瀬は苦笑いを浮かべていた。

「そんなこと言いながらも、先輩はいつもバリバリ仕事して男性陣よりもずっといい業績上げているじゃないですか。本当に格好良くて、憧れます。わたしも先輩みたいになれたらなって思いますもん」

「廣瀬が私みたいなガサツ女になったら、それこそ男たちの暴動が起こるよ」

 アイドル顔負けの器量の良さに庇護欲をそそる性格もあって、廣瀬は社内の男たちから圧倒的な人気がある。そんな彼女が私のように口が悪く、飲み会では誰よりも飲み食いし、会社で仮眠するときには涎を垂らして寝るような女になってしまったら、新卒から定年間際のおっさんまで阿鼻叫喚になるだろう。

「……夏目先輩、あの……少しお時間いただけますか? 相談したいことがあって……」

 何か言いたそうにモジモジする廣瀬を見て、私は腕時計を一瞥した。

「ん、いいよ。ただし、休憩時間は残り七分しかないから五分以内ね」

 こうやって制限時間を設けるのには理由がある。廣瀬が「相談」と言ったときの九割は話を聞いてほしいだけの愚痴なので、長引く傾向にあるからだ。

「わたし、午前中に林田(はやしだ)さんの営業に同行したんです……訪問したアーク社の担当者、すごく物腰の柔らかい良い人だったんですけど……林田さんとばかり話して、わたしとは一切打ち合わせをしようとはしなかったんです。これって、内心でわたしのこと使えないお飾り女だって思っているってことですよね?」

「なんでそんなにネガティブなの。アーク社の営業担当は林田さんなんだから、先方が林田さんと打ち合わせを進めるのは当たり前だって。廣瀬のことは『新人が勉強してるんだな』くらいにしか思ってないよ」

 私の言葉は届いていないのだろうか、廣瀬は大きな溜息を吐いて俯いた。

「はあ……元々ない自信が、ゼロになりました。きっとわたし、この仕事向いていないんですよ」

「そんなに落ち込むなって~。入社して一年目のペーペーが一丁前に弱音を吐くなんて、百年早いからね?」

 デザインセンスがあると評され、どんな仕事も器用にこなす廣瀬は将来有望な新卒だと思うのだが、自分に自信がない超ネガティブ人間で扱いが面倒臭いのが難点だった。

「そう言われましても……わたしは先輩みたいに強くないんですよ。はあ……先輩はどうしてそんなに頑張れるんですか?」

 廣瀬はそう言うけれど、私だって決して強い人間ではない。わりと頻繁に落ち込むし、挫けそうになるし、会社を辞めたいと思った回数は両手では到底数えきれないし、今だって廣瀬の言葉に苛立ちを覚えなかったと言えば嘘になる。

 だけど、強い人間であろうとする努力はしているつもりだ。

 好機や幸運はいつだって、前向きに正しい努力をしている人間のところにやって来ると信じているから。

「どうしてって……私は靴が好きだし、いい靴を作りたいからね。それ以外に理由なんてないよ」

 ありきたりな回答がお気に召さなかったのか、廣瀬は唇を尖らせていた。まあこれは建前で、理想の靴を自分の手で作りたいからという本当の理由は、恥ずかしいので社内の人間に言うつもりはない。

「それより廣瀬、昨日の会議も極力目立たないようにしてたでしょ。もっと積極的に声を上げていかないと、どんどん窓際に追いやられて本当にお飾りだけの存在になるからね? 廣瀬、女物の看板商品を作りたいって言ってたじゃん。発言力を高めるには出世しないと」

「でも……わたしなんかが意見しても、しょうがないですから」

 私はさっきの廣瀬よりも大きな溜息を吐き、頭頂部にチョップをかましてやった。

「何度も言ってるけど、『なんか』と『どうせ』は、私の前ではNGワードだから」

「……はい……す、すみません……」

 優しく慰めることもできない私はいつモラハラで訴えられるか懸念しているのだが、廣瀬は文句を言わないどころか慕ってくれるから本当に不思議だ。

「廣瀬はもっと自信持って! この間だって『なんていうかさあ、女性ならではの意見が欲しいんだよねえ』とか言って、ふんわりした無茶売りかましてきた部長の期待に応えて評価上げたわけだしさ」

 同じ会議に参加していた私は「女性ならではってなんだよ! っていうか企画書に承認のサインをするのはどうせオッサン連中なんだから良し悪しがわかるわけないだろ!」と胸中で悪態をついていたが、廣瀬は新しいアイデアをその場で発言して部長を満足させた。

 夏に素足でもローファーを履けるように裏側に通気性のいい馬の素上げ革を使うなんて、私にはない発想だった。

「は、はい! ありがとうございます!」

 慰めの言葉なんてかけられない私でも、正しいと思う言葉を吐いている自信はある。私の本心が廣瀬に届いてやる気に繋がってくれるなら嬉しい。

「じゃあ、先に戻るね。お疲れ様」

 飲み干したコーヒーの紙コップを捨てて休憩室を出た。時刻はまだ十五時過ぎだ。仕事はまだ山ほど残っている。

 凝り固まった肩を回しながら、私は再び戦場へと戻った。