昼休み、不在着信に気づいて折り返した。
見覚えのない固定電話番号だった。
「はい、××警察署刑事課です」
警察署からだった。
「犯人が逮捕されました」
聞くところによると、犯人が弁護人を通じてわたしと示談をしたいのだと言う。
弁護人に電話番号を伝えてもいいかという確認の電話だった。
わたしは犯人本人に電話番号を伝えないことを条件に承諾した。
すぐに知らない固定電話番号から電話がかかってくる。
仕事中だったが、部長には警察署からの電話内容を伝えてあったため、そのまま電話を取った。
電話の向こうで弁護人は
「示談金を30万円払うから、可能であれば、厳しい処罰は望まないという内容で示談してほしい」
と言った。
検討しますと伝えて電話を切る。
その申出を受けるべきか、30万円が妥当なのかも分からない。
ほかにも分からないことだらけだった。
部長に相談する。
「一度、弁護士に法律相談をしてみたらどう?」
そうすることにした。
数日後、予約を取った弁護士の事務所に行き、法律相談をした。
優しそうな弁護士さんは、わたしの話を真摯に聞いてくれ、助言をくれた。
「住居侵入と窃盗という2つの罪での30万円という示談金額は、盗まれたノートパソコンを白川さんが数年前に15万円で購入したことを踏まえても、犯人なりにかなり頑張って用意しているという印象を受けます。
その2つの罪では『慰謝料』が請求できないので、基本的には盗まれた物の金額で示談金を考えることになるんですよね。
白川さんがどうしたいかにもよると思いますが、相手の弁護人も『可能であれば』と言っているので、『厳しい処罰は望まない』という内容を外して示談に応じることはできる、と伝えてみても全然問題ないと思いますよ。
被害を受けて同じ家には住めなくなっているでしょうから、一切示談を受け入れないというよりも、その被害を弁償してもらった方がいいのではないかなと私は考えます。
その後、示談書なり合意書なりの書面にサインを求められると思いますが、そのときに書く住所は被害を受けたときの住所で大丈夫ですよ。
入金先の口座を教えたくないということであれば、向こうの弁護人の事務所に行って、書面にサインして直接現金を受け取ることも可能だと思います」
わたしが疑問に思っていたことすべてに回答してくれて、すっきりした気分で事務所を後にした。
犯罪被害者ということで、相談料が無料だったこともありがたかった。
その後、助言のとおりに「厳しい処罰は望まない」(弁護士さんによると、「宥恕(ゆうじょ)文言」というのだそうだ)という内容を外してもらい、示談金30万円を受け取って示談に応じた。
相手の弁護人も、直接会ったときに「この度はご迷惑をおかけして本当に申し訳ございません」と犯人の代わりに謝ってくれた。
終わった。
すべての始まりが、終わった。
相手の弁護人の事務所を出た後、わたしはふうっと大きな息を吐いた。
今日は10月31日。
わたしの43歳の誕生日である。
今日の夜は、部長が選んでくれたお店で外食することになっていた。
午前中、突然部長に会議室にひとり呼び出される。
きゅっと心臓が縮んだ。
あまりいい予感はしない。
会議室に入って、開口一番部長はこう言った。
「白川さん、正社員になる気はない?」
「え?」
「会社としては、来年一月から白川さんを正社員として登用したいと考えているの」
「はあっ?!」
変な声しか出せなかった。
「定年の近づいている私がまだ会社にいるうちに、白川さんに色々教え込みたいと思ったから」
部長が微笑みながら続ける。
信じられなかった。
気持ちが一気に急上昇して、ふわふわと落ち着かない。
「悪い話じゃないと思うから、少し考えてみて。
ただし、このことはまだ、他の人に口外しないようにね」
「分かりました」
何食わぬ顔で会議室を出る。
「白川さん、大丈夫だった?」
同じ課の人が心配して声をかけてくれたが、
「トイレに、行ってきます!」
大声でトイレに行くことを宣言してごまかすことしかできなかった。
トイレから帰ってきても浮遊感は消えなくて、気持ちは落ち着かないままだ。
正社員か……。
それに選ばれることがどんなに大変なことか、もちろん知っている。
なりたくてもホイホイ簡単になれるものではない。
しかも、こちらから望んだわけではなくて、会社からの打診だったということがとりわけうれしかった。
もちろん、あえて契約社員を選んでいた理由はいくつかあったが、それでも自分がこれまで頑張っていたことが会社から認められたような気がして、その事実だけで心が満たされる。
思いがけず素晴らしい誕生日プレゼントをもらった気分だった。
昼休みに、この部署の契約社員が何人いるのか、ふと思いついて数えてみる。
片手では数え切れず、結局9人いることが分かった。
契約社員は全員女性だった。
課は違うが、どの人も顔と名前は分かるし、どんな仕事をしているのかもある程度は把握している。
その中で、正社員になりたいと言っている人がいたことも思い出した。
契約社員だけで飲み会をしたときのことだった。
その人は、この会社に入りたくて、でも新卒では採用試験に落ちて、一旦は別の会社に入ったがその間に家庭の事情で色々あり、中途採用も難しく、ようやく契約社員としてこの会社に何とか入ることができたのだということを言っていた。
部長からは聞いていないが、様子からしておそらく、この部署から正社員登用を打診されたのはわたしだけだろう。
わたしは正社員なんて、はなからなるつもりはなかった。
なりたくてこの会社に入ったわけでもないし、別の会社でもそんなことを考えたこともない。
正社員登用制度の有無を確認していないくらいだ。
継続した同じ場所での人間関係の煩わしさから、こちらから契約更新を断ったことも過去にはあった。
そんなわたしが正社員登用を打診されてそれを受けた場合、他のもっとなりたかった人が正社員になるチャンスを自分が奪ってしまうことになるのではないか。
その考えに至った途端、急に浮遊感が消え、逆に重しのような重さが身体にのしかかってきたように感じた。
部長と二人だけの誕生日会でも、気分が晴れない。
せっかくの誕生日なのに。
せっかく部長が選んでくれたお店なのに。
自分の心の中にだけ理由を留めて暗い顔を見せるよりも、部長にいっそぶちまけて理解してもらった方がいいかもしれないとわたしは考えた。
「部長、正社員登用の話ですけど」
「ええ、どうかしら?」
「本当によかったんでしょうか、わたしで。
この部署にもっと正社員になりたがっていた人もいたのになと思うと、心苦しくて」
部長は少し厳しい顔になって、こう言い放った。
「あのさ、それってあなたを選んだ私たちにセンスがなかったとか見る目がなかったとかそういうことを言いたいわけ?」
ハッとする。
自分を選んでくれた部長たちに、あまりにも失礼な態度だったと遅まきながら間違いに気づく。
「すみませんでした」
「もっと自分に自信を持ちなさい。
あなたは選ばれたの。
それは、あなたが頑張ってきた姿を周りが見ていたから。
もちろん、あなたに正社員登用を打診するにあたって、人事部とも部署の全課長とも上層部とも話し合って決めたことだし、他の候補者もいた。
私ひとりの独断で決めたわけでもない。
だから結局はあなた自身の成果なの。
降って湧いたように見えるけど、自分でたぐり寄せた幸せは責任を持ってきちんと受け取れる自分にならないとね」
部長の言葉が胸に響く。
自分に自信がなくて、なぜ選ばれたのかだけに囚われてしまっていた。
今、わたしが大事にするべきは、自分が主体的に関わったわけではない選考プロセスではなくて、選ばれたという結果だ。
その事実だけは動かない。
これまでは正社員という立場から自分で無意識に逃げて、本当は欲しいと思っているのに、わたしには受け取る価値がないからと、自己否定の気持ちから契約社員を選んでいたのかもしれない。
他人から否定され続けて苦しかった最初の会社の経験があったから。
でも、今の会社は違う。
わたしの表立っていない頑張りをこうやってきちんと評価してくれるような場所だ。
何より、部長の下で、もっと長くしっかり働きたい。
そんな場所でもう一度頑張れるチャンスをもらえたのだから、せっかくだし勇気を出して飛び出してみようかな。
ダメならダメでまた契約社員に戻ればいい。
失うものなんてない。
「わたしを選んでくださってありがとうございます」
心から感謝を述べた。
「じゃあ、打診を受ける決意は固められた?」
「はい、選んでいただいたことに誇りを持って、やってみたいと思います」
「そう、よかった!
安心したわ」
ほっとしたような部長の表情を見て、わたしも心が緩む。
「大丈夫よ、これから馬車場のように働いてもらうから、期待してる」
「えーっ、それは!」
部長は慌てるわたしを見て、笑いながら赤ワインの入ったグラスに口をつけた。
家に帰ると、初めてニイちゃんがわたしの目の前に姿を見せてくれた。
「ニイちゃんだ!」
駆け寄ると瞬時に逃げられ、どこに行ったのか分からなくなった。
「ニイも、白川さんの誕生日と正社員登用をお祝いしてくれたのかもね」
「ありがとう、ニイちゃん」
ハッピーバースデイ、わたし。
おめでとう、わたし。
わたしは、欲しいものを欲しい形で受け取っていい。
わたしには推しがいる。
MIKE(ミケ)さんだ。
ちょうど部長と同じくらいの年齢の女性(見た目が若すぎるので、本当に部長と同じぐらいなのかは分からない)で、知ったのはボイスメディアの音声コンテンツを聞いたのがきっかけだった。
わたしは音楽を聴くのが好きだけど、作業用音声としてラジオなどを聴くことも好きで、ながら聴きできるようなものを探していてその無料アプリをダウンロードし、色んなパーソナリティの音声を試し聴きしている途中でMIKEさんにたどり着いた。
MIKEさんは作家やメンタルコーチをしている人で、考え方を変えることで自分の外側の声に翻弄されることなく本当の自分で生きられるように導くガイドのような役割をしているそう人なのだそうだ。
怪しげなスピリチュアルや壺とか高額商品を買わせようとする宗教のように聞こえるかもしれないけど、MIKEさんは壺は売っていないので安心してほしい(もちろん高額商品も)。
むしろ音声コンテンツを聴いて、MIKEさんの発信内容は、彼女の経歴にもあるメンタルコーチングに近いと思った。
メンタルコーチングというのは、心の状態や思考パターンを心理学や言語学の知識を用いて客観的に分析し、目標や課題に向き合うためのスキルや方法を学ぶもので、昔少しだけ学んだことがある(挫折したけど)。
スポーツ選手や経営者などがメンタルを鍛えるために利用しているイメージだろうか。
それをさらにMIKEさん流に進化させて、広く一般人向けにしたものだと考えると分かりやすいかもしれない。
だからわたしも抵抗感なく受け入れることができた。
MIKEさんの音声コンテンツを聴いて、考え方を変えたり思考パターンの分析をしたりして実践を進めるうちに、生きるのが確実に楽になった瞬間があった。
そこから彼女に直接会ってもっと深い講義を受けてみたいという気持ちが大きくなり、MIKE塾長期講座というのに申し込んだ。
奇跡的にMIKEさんを含めた全員が独身女性で、講座はとても楽しかった。
講座生18期のひとりとして濃密な3か月の講座を終えてしばらくしてから、久しぶりに講座生の同期たちとMIKEさんとで同窓会を開くことになった。
有志で出雲大社に参拝するという一泊二日の出雲旅行というのがそれだった。
わたしは意気揚々と日程を合わせ、有給を取った。
「部長、行ってきまーす!」
「行ってらっしゃーい」
抱いているイッちゃんの手を持ってフリフリお手振りをさせる部長に見送られながら、出発した。
12月のことだった。
今回の参加メンバーはMIKEさんを除いて13人で、福水(ふくみ)ちゃん、マチルダさん、あいかさん、林野(はやしの)さん、ミライコさん、池さん、仁和希(にわき)さん、ナツさん、マキさん、多香奈(たかな)さん、りささん、ふみのさん、そしてわたしだった。
神無月に神様が集まるように、わたしたちも全国から出雲に集合する。
東海地方から九州地方まで居住地は様々で、年齢もバラバラだった。
最年少は福水ちゃんの27歳だ。
最高齢は知らない、本当に。
今回、わたしの住んでいる場所からは交通の便があまりよくなかったこともあり、出雲へ行くルートが直前になっても定まらず、どうしようどうしようと迷っているうちにあっという間に2週間前になってしまい、慌てて様々なチケットを取ったらとんでもない金額を支払う結果になって、自分のミスに落ち込んだ。
でもここは、MIKEさんの教えを実践する。
まず、ミスに落ち込む自分をただそのまま受け入れるのだ。
ああ、自分のミスで旅費が高くなったことを落ち込んでいるのねー、と。
そして自分の心の状態をさらに掘り下げていく。
わたしは何に落ち込んでいるんだろう?
そうすると、旅費が高くなって大きなお金が出て行ってしまうことで、お金が減ることに不安を覚えている自分がいた。
そうか、お金が減ることに不安になっている自分がいるのねー、とこれもそのままを受け入れる。
落ち込んでいたり、不安になっている自分に同調せず、そんな自分とは距離を取りつつも、ただ眺める。
ベンチに座って、行きかう人をぼーっと眺めるように。
不思議なことに、ただ眺めるだけで、落ち込んだり不安になっていた自分は徐々に落ち着いてくるのだ。
大きな音に驚いて泣き出した赤ちゃんが落ち着いて静かになっていくように。
ここまで来たら後は仕上げだ。
自分はどうしたいのか、どうなりたいのか?を心に問いかけ、出てきた答えのとおりに自分の未来を決める。
わたしの場合は、お金が出て行くことで落ち込む自分を変えたい、という気持ちが出てきたので、こう決めた。
お金を出すことを喜べる自分になる。
よし、これでOK。
すっきりした気持ちで飛行機の搭乗口に歩みを進めた。
今回、予定された旅程は以下のようなものだった。
一日目、昼に集合してランチを食べ、旅館にチェックイン。
出雲大社を散策後に稲佐の浜で砂を取り、旅館で夕食を取る。
その後、MIKEさんの部屋に集まって歓談する。
二日目、出雲大社に早朝参拝し、旅館に戻って朝食を取った後、日御碕神社に参拝し、旅館をチェックアウト。
その後、本格的に出雲大社を参拝し、北島國造館などを参拝して、ランチで出雲そばを食べて解散。
この旅程は講座生の同期が計画してくれた。
同期の中にパワースポット巡りを趣味にしているマチルダさんがいて、MIKEさんとの連絡役の池さんとで二人で幹事を引き受けてくれている。
MIKEさんとの日程調整から参加人数を取りまとめて旅館への一斉予約、ランチのお店の予約まで、至れり尽くせりだ。
わたしは神社にも詳しくなく、MIKEさんとも普段はあまりやり取りをしないので、幹事の二人には感謝してもしきれない。
とにかく二人の足をひっぱらないように意識し続けてこの日を迎えた。
出雲空港に着いたら、メッセージアプリの同窓会参加メンバーのグループにメッセージが入っていた。
ミライコさんと池さんが、時間を間違えて飛行機に乗れず、新幹線で出雲に向かうらしい。
その結果、二人はランチに間に合わないとのことだった。
他人のことながら、どきりと緊張する。
わたしも昔、ギリギリ搭乗には間に合ったけど、空港到着時間の計算を間違え、保安検査場を航空会社のグランドスタッフと一緒に爆走して駆け抜けた経験が何度かある。
しかも航空券は安くない。
もちろん新幹線も安くない。
さらに、飛行機と新幹線ではかかる時間が違うので、予定が大幅に変わる。
それでも3時間遅れで到着できるらしく、そのこと自体は不幸中の幸いだった。
ミライコさんと池さんは、きっとこっちに向かう途中で、教えをスムーズに実践しながら自責の念を落ち着かせ、笑って合流するだろう。
だから大丈夫だと信じることができた。
想像どおり、ミライコさんと池さんは出雲大社散策に余裕を持って間に合い、笑顔でやってきた。
出雲大社には、有名な注連縄がある神楽殿のすぐそばに日の丸旗が掲げられている。
これがとにかく大きくて、遠めに見ても異常な大きさが目立っていた。
そして、その日の丸旗の大きさが畳75畳分あるらしいことを、行きのタクシーの運転手が教えてくれたとミライコさんが言っていた。
「飛行機に乗り遅れたからこそ、その情報を知ることができたよね」
ミライコさんがサラッとそう言うから、やっぱすごいわこの人……と感心せずにいられなかった。
おそらくネットで調べたら、その情報自体はすぐに出てきただろう。
しかし、ここで重要だったのはその事実ではなくて、ミライコさんの言葉どおり、起きた現象に違う意味づけをできたかどうかなのだ。
その訓練を繰り返して、もっと大きく感情が揺さぶられるようなことが起こったときにも同じような対応ができることをわたしたちは目指している。
稲佐の浜に私たちがたどり着いたのは、日の入り直前の時間だった。
水色とオレンジ色のグラデーションの空の下で、藍色の冬の海は、波が寄せては引いていくのを繰り返していた。
あまりにも空が綺麗で、私たちは砂を取るのもそこそこに、思い思いにスマホで写真を撮ることに夢中になる。
池さんが写真を撮っている後ろに位置どっていたら、海から風がふんわりと吹いてきて、池さんの着ていたコートとスカートの裾をほんの少し膨らませるように揺らしていった。
そのすべてが計算されたかのように美しいバランスで、わたしはこっそり池さんの後ろ姿と空のコンビネーションを写真に収めた。
りささんはカメラが趣味らしく、コンパクトなミラーレス一眼のカメラでスマホでは撮れないような写真をたくさん撮っていたので、後で写真ちょうだいとお願いしておいた。
旅館ではフロントの近くにお土産が売っていた。
「猫グッズないかなー?」
MIKEさんがすぐさま売り場で猫グッズを探し始める。
MIKEさんは猫グッズを集めるのが趣味なのだが、猫自体はアレルギーのために飼っていない。
そして好きな猫の種類は、三毛猫と思わせておいてロシアンブルーらしい。
「『MIKE』って名前は猫が好きだからつけたわけじゃなくて、本名からつけただけ」
らしいのだが、紛らわしいなと密かに思っている。
現にMIKEさんの元には、猫好きを知っているファンから、三毛猫グッズばかりプレゼントされるのだそうだ。
「あー、ロシアンブルーの猫グッズはなかった」
心底がっかりした声でMIKEさんが言う。
それは結構なレアグッズでしょうとわたしなんかはすぐ考えてしまうのだが、やはり本家は違う。
「私はね、ロシアンブルーの猫グッズに囲まれて嬉しい気持ちで毎日を過ごすって決めてるんでね、大丈夫。
そこに至るまでの過程は考えないから」
これがMIKE流の未来の決め方なのである。
夕飯は大変豪華で、蟹あり、海老あり、蕎麦あり、のどぐろあり、島根和牛ありの、海の幸山の幸何でも尽くしだった。
ひとつひとつのメニューを噛みしめながら食べる。
ご飯を食べながら、ひとりずつ近況報告をすることになった。
わたしは、空き巣が入ったことから始まり、部長の家に居候することになり、結果的に正社員登用が決まったことを報告する。
打診があったとき、自信がなくてすぐには返事ができなかったことも含めて。
MIKEさんがわたしの話にコメントしてくれた。
「いいものとかご縁とか自分が願っていたものを受け取っていいと自分に許可できているのって、すごく大事な土台なんですよ。
それができていないと、いくら願ってても叶わないし、せっかくやってきた現実を手放さないといけなくなってしまうから。
だから、けろっこちゃんは素敵な部長さんがそばにいてくれてよかったですよね」
同期のメンバーの現状報告は続き、ナツさんは祖母が認知症になって自分のことが分からなくなったことをまだ受け止めきれずにショックを受けて泣いていたし、りささんは突然無職になったけど頑張ってこの同窓会に参加したようだった。
その中で、あいかさんが泣きながら現状報告した内容はとても短かったが、わたしの胸を強く打つものだった。
「私は、性同一性障害で、性転換手術を受けて女性になりました。
このことを今日どうしてもみんなに伝えたくて、この同窓会に参加しました」
あいかさんは、外資系の会社で働いていて、日本語はもちろん、10か国語を自在に操れるバリキャリウーマンだった。
カミングアウトを受けるまでまったく気づかなかった。
でも、あいかさんはあいかさんだ。
わたしの知っているあいかさんは、長期講座でもハキハキと物怖じせず発言して、人見知りをせずにぐいぐい色んな人と仲良くなっていく、そんな人だった。
わたしはそんなあいかさんが大好きだし、もちろん他のメンバーのことも大好きだ。
ただそれだけだった。
この講座生のメンバーは、わたしの中で友達という簡単な言葉では括れないような存在だった。
ある程度長い期間付き合いのあるような親友とも違うし、まさしく同志と呼ぶのにふさわしいのかもしれない。
講座中の3か月は濃密だったけど、すべてのメンバーと深く交流できていたわけではない。
今日参加できなかったメンバーの中にも、顔と名前が一致しない人がひとりだけではなかった。
それでも、同じ価値観というか、同じものの考え方ができるというだけで、こんなにものびのびと自由でいられる関係性が今のわたしにあるということが、雲間から射す一筋の光のように、心を照らす。
MIKEさんの部屋での懇談は、みんながそれぞれの地方から持ち寄ったお土産をシェアしたり、全員にメッセージ付きのプチプレゼントを準備してきてくれた人もいたり、アクセサリー作りを得意とする人がMIKEさんにアクセサリーをプレゼントしたりと、自由に過ごした。
介護職についている多香奈さんは、祖母の認知症で泣いていたナツさんに
「手を握ってあげるといいよ。
触覚って五感の中で一番最後まで感覚が残るらしいから」
と助言してあげていた。
林野さんとマキさんは同じアイドルが好きだということが発覚して、コアな話を二人で延々としている。
ふみのさんと福水ちゃんは、MIKEさんが持参したカードを使って勝手にカードリーディングをしながら、出たカードの内容について考察をしている。
この懇談に限らず、MIKEさんと話をすることだけが目的ではなくて、メンバーのみんなと話をするのがとにかく楽しい。
それはわたしだけではないようで、MIKEさんをひとりぼっちにしてメンバー同士で話し込んでいる状況がまさに今この瞬間に発生していた。
「あー、うん、私、いない人として扱われているね……?」
ぼやいているMIKEさんが少し寂しそうだった。
MIKEさんが懇談時間の最後で、みんなに向けて言っていた。
「楽に生きる、と決めてください。
人はみんないつか死にます。
自分を含めてね。
だからこそ、生きているだけで価値があるというところを超えて、生きているだけで世の中に必要とされるお金や労働力や時間や様々なものすべてを生み出せるすごい存在である、というように自分の存在意義を高く設定してその事実を受け入れてください。
自己否定は殺人と一緒ですよ」
部屋割りは二人一組となっていて、わたしは仁和希さんと一緒だった。
講座中はあまり話す機会がなかったが、同じ業種の会社で働いていることが分かり、話が大いに盛り上がる。
部屋の電気を消して布団にもぐりこんだ後も、業界あるあるを話したり同じような悩みにうんうん頷いたりしていたら、目が冴えてまったく眠れなくなり、2時間しか眠れなかった。
早朝参拝は朝6時15分に旅館の玄関に集合することになっていた。
12月という時期にしては、昨日は気温がだいぶ高かったが、やはり早朝ともなると山陰の寒さは厳しい。
わたしは収納袋にしまって持ってきた軽いダウンコートを羽織る。
仁和希さんと一緒に玄関に行くと、福水ちゃんが寒いと言って震えていたので、これも持ってきていたふわふわネックウォーマーを貸してあげた。
ダウンコートがスタンドカラーになっていて、首元にネックウォーマーがなくても意外と寒くなかったからだ。
「神や……あったかい……」とつぶやく、ふんわりした雰囲気の福水ちゃんによく似合っていた。
外に出ると、少し明るくなり始めてはいたが、真っ暗な夜というほどでもなく、顔が見えるような見づらいような薄暗さだった。
見上げると細い三日月が遠慮がちに光っている。
空の色が濃紺から紫、そしてピンク色のグラデーションに染まっている誰彼時(かわたれどき)が美しい。
わたしは神社やパワースポットに詳しくなく、初詣くらいしか神社に行かないタイプなのだが、こういう神社参拝をよくしている人は、神社にあるすべての祠に参拝するらしい。
今回も、出雲大社の入り口にある大鳥居を抜けたすぐのところにある祓社(はらえのやしろ)という祠から参拝することになった。
参拝初心者にとっては、こんな小さな祠にまで参拝するんだという驚きから始まる。
マチルダさんは、小さいときから神社参拝に慣れているようで、ここでは祝詞をあげてくれた。
すごい、神主さんみたいだなあと思いながら祝詞を聴く。
きんと張った冬の空気の中で聴いたマチルダさんの祝詞は崇高な響きを持っていて、祝詞をあげる彼女の横顔がかっこよかった。
すべての祠を参拝して有名な注連縄の神楽殿まで来たとき、空はすっかり明るくなっていて、すでに日が昇りきっていた。
早朝なので、入り口の大鳥居まで戻っても、車も人もほとんどいない。
大鳥居から最寄りの出雲大社前駅までの一本道は神門通りと呼ばれるらしいのだが、その通りをわたしたちだけで独占しているかのような気分になった。
人のいない神門通りを写真に撮っているMIKEさんの後ろ姿をミライコさんが撮っていた。
旅館の朝ご飯はこれまた豪華だった。
その中のメニューで初めて知ったけど、甘味のぜんざいというのは、出雲の神在月が由来で、神在と書いてじんざいと読んだところから来ているらしい。
出雲神在はあっさりしていて、朝から余裕で楽しめた。
朝食後、陰の出雲大社と呼ばれる日御碕神社にバスを使って移動し、参拝する。
日御碕神社はすべての建造物が朱色で彩られており、神社って境内がこんなに鮮やかだったっけと思ってしまったくらいだった。
マキさんの着ているおしゃれで真っ赤なコートが景色に馴染んでいる。
旅館に戻ってチェックアウトをしているとき、先に会計を済ませていたMIKEさんが声を上げた。
「ほら、やっぱり!」
手に持っているのは、なんとロシアンブルーの猫グッズ(箸置き)だ。
昨日行ってなかったはずの旅館のお土産屋に、今日は確かに売っていた。
「決めたゴールに必要な願いは、当たり前のように叶ってしまうんですよ。
これくらいの速さでね」
そう言ってMIKEさんは嬉々として猫グッズを購入した。
ようやく出雲大社に正式参拝する。
早朝にマチルダさんが祝詞をあげた祓社(はらえのやしろ)には、多くの人が集まっていて人だかりができていたので、わたしたちは軽く拝んで通り過ぎた。
神社参拝初心者のわたしは、小さな祠から全部参拝する人がこんなにもたくさんいるんだという事実をその目で確認してやはり目を丸くするしかない。
昨日の散策から数えるともう三度目なので正直慣れてしまったが、北島國造館まで来たとき、結婚式を挙げている人達に出会ったのが三回目だということに気づいた。
神社参拝しているときに結婚式を目にするのは、参拝を神社から祝福されているという意味があるらしい。
そうすると、わたしたちは出雲大社から大歓迎を受けたということになるのかもしれない。
何にせよ、大変うれしい。
稲佐の浜で集めた砂は、素鵞社(そがのやしろ)という祠の両側と後ろの部分に砂の入った箱があるので、そこに自分が持って来た砂を入れて元からある乾いた砂をいただくのだが、人がずらりと並んでいて、その並んだ人がどんどん箱に持って来た砂をいれるもんだから、元からある乾いた砂がどこからどこまでというのがいまいち分からない。
「これって、下手したら今日誰かが持って来た砂を、すぐに自分が持って帰ることになるよね?」
などとみんなで言いながら、できるだけ下の方の砂をいただいた。
ランチを終えて大鳥居まで戻ってきたとき、近くにある宝くじ売り場に行列ができていた。
そろそろ解散かなと思っていたら、ナツさんが見当たらない。
「あれ、ナツさんがいないね」
MIKEさんも気がついたらしく、誰かがナツさんに連絡したのだが返事が来ない。
しばらく待って、ようやくナツさんがどこかから戻ってきたので行先を尋ねると、どうやら宝くじ売り場に並んで宝くじを買っていたらしかった。
「どうせ買うならご利益がありそうだからここで買おうと思って、行列見た瞬間に並んでた」
優しく柔らかな空気をいつもまとっているナツさんと、思いついて即行動に移したその迅速さのギャップがおかしくて、みんなで声を上げて笑った。
解散してそれぞれが帰路についたが、わたしはこの後まっすぐ帰るかどこかに寄るか思案していて、バスを待っている福水ちゃんと最後まで大鳥居の場所に留まり、とりとめない話をしていた。
「さあ、これからのけろっこさんはどうなっていきたい?」
福水ちゃんの質問に、虚を突かれる。
これからの自分がどうなりたいかなんて、全然考えていなかった。
そうだなあ。
わたしは少し考えて、こう答えた。
「不安だけど、最後にはいつも大丈夫になる!」
「いいね!」
福水ちゃんが元気よく肯定してくれる。
生きてく中で不安や心配がなくなることはないけれど、それすら丸ごと受け入れて大丈夫で終われるわたしへ変わるんだ。
この同志たちと一緒に、わたしは新しい世界に行く。