僕――そう表現していいものかは若干の躊躇いもあるが――は、ダッシュボードの、スマホ固定用のホルダーに取り付けられていた。
 ここからなら、助手席に置かれるよりもはっきりと送橋さんの表情を見ることができる。

 送橋さんは僕――それはもはや僕ではないのだが――枯野最果の死体を埋め終えると、僕を持って車に戻り、その場から逃げるように山道を走り始めた。
 深夜の山道に人の気配はない。
 蛇の背中のようにうねる道を、送橋さんの軽ワゴンは時折左右にふられながら不器用になぞり続ける。
 普段よりも荒れ気味だった彼女の運転も、時間が経つにつれて少しずつ落ち着きを取り戻していった。

「何か喋ってよ」

 送橋さんの声で、ふと我に返った。

『ぼうっとしてました』
「あんま黙んないでよね。不安になる。わたしの頭がおかしくなったんじゃないかって」
『じゃあ、なるべく黙らないようにします』
「まあ、無理することないけど」

 ふっと小さく息を吐く。
 送橋さんは唇の端だけでかすかに笑んで見せたが、それはやはり引きつっていた。

 送橋さんは肩ぐらいまでの髪を一つにまとめていた。
 運転する時、彼女はいつもそうする。
 運転にそこまでの力は不要なんじゃないかと思うくらいにハンドルをぎゅっと握り、肩をいからせている。
 初めて彼女を目にした時の、何倍もの重力に疲れ果てたような空気は薄らいでいて、今は幾ばくかの柔らかさがあった。
 僕がこんな風になってしまっても、僕と送橋さんが過ごしてきた時間の意味が変質してしまわないのだとしたら、こんなに幸せなことはないのかもしれない。
 たとえ、僕らが志向していたものが何だったとしても。

「ねえ、少し止まっていい?」
『僕に断る必要はないと思います』
「……止まるね」

 山道の待避所に停車し、送橋さんは僕をホルダーから外した。
 送橋さんの親指が二回、表面を叩くと、送橋さんの顔が闇の中にぼうっと浮かび上がった。

「どんな感じ? 触られるの」
『何も感じません。なんていうか、〈部屋〉の壁をノックされてる感じ。ノックされてることはわかりますけど、その振動が僕に直接伝わるわけじゃないんです』

 言いながら、この場合の僕とは何を指しているのだろう、と考えた。
 送橋さんのスマホという〈部屋〉のことなのか、その中に納められた枯野最果の魂のことなのか。
 『僕』とは、果たしてどちらのことを指すのだろうか。

 送橋さんは「そっか」とだけ言い、僕を右手から左手に持ち替えた。
 僕の表面で、送橋さんの人差し指が踊っている。
 しばらくそうしていた後、送橋さんはほうっと小さく息を吐いた。

「とりあえず、何か通話アプリみたいなものが動いてるわけじゃないみたい」
『そうなんですか?』
「だってそうでしょ? 枯野くんの魂がスマホに乗り移ったなんて与太話よりは、ライン通話の向こうで誰かがわたしをからかおうとしてる、って話の方がよっぽど信じられる」
『僕は、枯野最果を装う詐欺師ってわけですね』
「そういうこと」

 送橋さんが笑うので、つられて僕も笑った。
 だけど、僕は彼女をからかおうとしている第三者ではないし、僕の身体はつい先ほど山奥に埋められたばかりだ。
 生きていた時には必ず内側にあった鼓動だってもうどこにも感じない。

「せっかくスマホになったんならさ、何かできたりしないの?」
『何かって?』
「たとえば、Bluetoothで音楽流したりとか、動画流したり、わたしの代わりにライン返してくれたりとか」
『どうすればいいかわかりませんが、ちょっとやってみます』

 とりあえず、Bluetoothでカーステレオから音楽を流そうと、意識を集中する。流れろ、流れろ、流れろと念じてみる。念じるだけなら、身体がなくても可能だ。

『どうですか?』
「だめみたい。Spotifyも立ち上がらなかったよ」

 その後も色々やろうとしてみたが、動画を立ち上げることも、ライン上でメッセージを送信することもできそうになかった。

「まとめると、こういうことだね。きみはわたしのスマホに乗り移ってしまったけど、スマホを中から操作したりすることはできない。できるのは周りの景色を見ること、音を聞くこと、話すこと」
『役立たずですね』
「そんなことないよ。たとえば……」
『たとえば?』

 送橋さんは窓の外を見やって、「んー」と低く唸った。

「話し相手になることができる、わたしの」
『それじゃあ、前とあまり変わらない気がします』
「そうかも。ちなみに、これは見えてる?」

 送橋さんは僕をフリック、タップした。見える景色は何も変わらない。

『見えないです』
「ちなみに今表示してるのは、最近わたしが読んでる漫画」
『へえ、何読んでるんです?』
「秘密。ちょっとえっちなの」
『なるほど。でも、よかったです』
「どうして?」
『だって、何を見ても全部僕に筒抜けだったら、送橋さんだっていい気分はしないでしょう? プライバシーは大切です』
「確かに。でも、結局そういうの読んでる時の顔は、全部見られちゃうんだよね」
『そういう時は空気を読んで、なるべく見ないようにしますから大丈夫です』
「よく言うよ。読めないものを、さも読めるみたいに言わない」

 送橋さんはまた小さく肩を揺すった。
 僕を左手で持ったまま、右手の薬指でそっと目元を拭う。
 その指にほんの少しの雫が乗っていたのを、僕は見てしまう。
 笑った拍子に出てしまったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 魂だけの存在になっても、送橋さんのことは結局わからない。

『僕は……枯野最果は死んでしまった。でも僕は、僕の意識は、確かにここにある』

 魂がスマホに乗り移った――奇しくも、送橋さんがさっきそう言った通りだ。
 僕の身体は確かにその機能を停止した。
 しかし、僕の意識とも呼べるものはこうして、送橋さんのスマホの中に、確かに存在している。
 今ここにある、この僕の思考や意識は、魂と呼んでも差し支えないものなのではないだろうか。

『魂って、本当にあったんですね』

 さっきと同じことを言った。
 魂は、目には見えないから、その存在を証明することはできない。
 けど、だからこそ空想や妄想はどこまでも膨らんでいく。
 思えば僕はこれまで、送橋さんとそういう話ばかりをしてきたような気がする。
 いい大人が熱中していい話題とは言い難い。
 でも、僕は彼女とそういう益体もない話をしながら眠れない夜を明かすのが何より大好きだった。

「きみは、魂だけの存在なのかな」
『どうなんでしょう。自分ではよくわからないです』
「気分はどう?」
『悪くはないですが、良くもないです。この〈部屋〉が振動したりするのはわかりますが、それだけです。痛くもないし、苦しくもない。暑かったり、寒かったりも』
「楽そうだね」
『確かに、わずらわしさはありません』

 代わりに、気持ちいいこともなさそうに思えた。
 例えば、この道には月の光が降り注いでいるが、その光を浴びたら気持ちよさそうだなあなどとは思わない。
 昼間よりも少し肌寒い風に吹かれたいとも思えない。
 それらは、僕が生きていた時に感じた情報を元にしているからそう思うだけで、スマホのカメラを通して見る景色は、どこまで行ってもただの景色でしかなかった。
 それが命を失うということなのだと言われたら、思わず納得してしまいそうになるほど、味気のない視界だった。

 ふと気づくと、じっとりとした視線が向けられていることに気づいた。
 どうやらまた僕は、黙り込んでしまったらしい。

『……すみません』
「いいよ。そういう、周りを気にせず考え込むところは今まで通りだから、安心する」
『ありがたいです』

 彼女の優しさにはいつも救われている。それが本当に優しさなのかは、よくわからなかったけど。

「本当に、今のきみみたいになれるのなら、一回くらい死んでみてもいいのかもね」

 そろそろ行こうかと、送橋さんはエンジンスタートのボタンに触れた。
 ぶぶんと音を立て、車がかすかに振動を始める。

「さっきと同じ場所にいる? それとも助手席?」
『ダッシュボードの方がいいです。安定してますし、外もよく見えます』
「きみがいいなら、じゃあそこで」

 僕をばねで締める型のホルダーに納める送橋さんは、なぜか少し寂しそうだった。
 もし助手席にいてほしいならそう言ってくれればいいのにと思ったけど、今さら外してもらうのも悪くて、僕はそのままスマホの居場所にいることにする。

 送橋さんの人差し指がすいすいすいと僕の表面を撫で、『一般道を通るルートです』とナビアプリが喋り出した。

「あ、枯野くんがナビってくれるならそれでもいいけど」
『無理なので、ナビアプリ使ってください』

 何度も通った道なので、道順はそこそこ覚えていたが、ナビアプリのようにこなれたナビを提供するのは到底無理だ。
 大人しくホルダーに収まっていることにする。

 送橋さんは音楽もラジオもかけなかった。
 何もない山道を走り続ける。
 木々の隙間から時折顔をのぞかせる月が、車内にさあっと光を零してまた隠れる。
 送橋さんは何も喋らないから、必然的に僕も黙ってしまう。
 送橋さんは喋れと僕に言ったけど、僕らは元より沈黙があまり気にならないタイプの人間だった。
 互いの間に流れる沈黙が気にならなかったからこそ、僕らは一緒にいられたのだ。
 送橋さんの肩はまだ強張っていた。その表情は、注ぎ込んで数日が経過したコンクリートのように既に固まってしまっている。



 送橋さんの家に着いた時にはもう四時近かった。
 夜明け前の階段を、足音を殺して歩き、部屋に滑り込むと、送橋さんはようやく深く息をついた。

「ようやく着いたね」
『お疲れさまでした』
「ほんとだよ。疲れた。身体もバッキバキ。とりあえず寝るね」
『明日、仕事ですよね。何時に起きるんですか?』
「休みにする。今決めた。ライン、送っとく」
『明日っていうか、もう今日ですけど』

 送橋さんは僕をぐりぐり操作すると、枕の横に置いた。
 重力に負けたその身体はベッドに倒れ込む。
 ぜんまいの切れた人形のように、ぴくりとも動く様子がない。

「起きたら、ちょっと付き合ってくれない?」
『どこに行くんですか?』
「きみの部屋」

 その言葉だけで、彼女が何を言わんとしているのかはすぐにわかった。
 こうなった今、あれが僕の部屋にある意味は一つもない。

『了解です』
「……構わない?」
『もちろん』
「……ごめんね」
『何がです?』
「殺しちゃって」

 何と答えればいいのかわからなくて、しばらく黙り込んでしまった。
 息を飲むことも、頬をぽりぽり掻いてごまかすことも、もう僕にはできない。

『いつかはこうなるって、思ってましたから』

 長い時間をかけて答えた時にはもう、送橋さんは眠りに落ちてしまっていた。
 眠りとは、いずれ訪れる死を受け入れるための予行練習だとどこかで聞いたことがある。
 もう死んでしまっている僕にも、眠りは訪れるのだろうか。
 僕にはわからなかった。

 ――いつかはこうなるかもって、思ってましたから。

 その言葉通りだ。
 いずれこうなるだろうと思っていた。
 その瞬間が訪れるのが早いか、それとも遅いか。
 少なくとも僕はそう思っていたし、送橋さんもそれは同じだったと思う。

 部屋の外ですずめが鳴き始めていた。
 レースのカーテン越しの朝日が部屋に差す。
 今日は暖かくなるだろうか。
 少しずつ高くなっていく太陽をベットから眺めながら、僕はまた送橋さんのことを思い出していた。