「ごめん」
ふと気づくと、送橋さんの顔が目の前にあった。
『僕、もしかして気を失ってました?』
「リハーサルだったから電源切れって言われちゃって」
そんなことを言われただろうか。
あまりよく覚えていないが、送橋さんが言うならきっとそうなのだろう。
今日はライブハウスのスタッフもいるから、リハスタの時のように、僕がレクチャーする必要もない。
楽屋に置き去りにされたり、ホールに行けても薄暗かったりで、ただのスマホでしかない僕としてはかなり暇だった。
ミムラ主催のイベント出演者たちは素人の僕が聴いても実力派揃いで、リハーサルとは言え、多少なりとも聴きごたえがあったのがせめてもの救いだった。
ライブハウスの轟音に揺られながらぼうっとしていると、僕の意識はいつの間にか途切れていた。
「電池切れかと思いました」
「ごめん」
送橋さんはもう一度謝ると僕を脇の机に置き、ギターを構えた。
ここは最初に案内された控室だ。
壁は前面にわたってサインや写真、ビラで埋め尽くされている。
あの時はまだイベント出演者がそこここに島を作っていたのに、今ここにいるのは送橋さんただ一人だった。
『他の人はいないんですか?』
「今、本番中。次はもうわたしたちの番だよ」
わたしたち、と送橋さんは言った。
僕の妙な間で察したのか、送橋さんは僕のカメラをびしっと指差した。
「わたしときみ。二人でステージに立つんだって、わたしはそう思ってるから」
『そうですか』
何かに触れる感覚はもう二度と取り戻せないのに、むずがゆいような不思議な気持ちだった。
送橋さんの言葉が、僕の魂の柔らかい部分に触れたのかもしれない。
言葉とは不思議なものだ。
壁の向こう側からは、バンドの轟音が伝わってくる。
漏れ聞こえる歓声からも、フロアがかなり盛り上がっているのがわかる。
「歌ってさ」
『はい』
じゃらん、とゆるく鳴らした。
「歌でしかないよね」
『そうですね』
「歌はさ、歌を超えた何かになれるんじゃないかって思ってたことがあるの」
『歌を超えたもの?』
「たとえばさ、世界の仕組みを解き明かしたり、新しい理を創造したり、神様を下ろしたり」
『スピリチュアルですね』
「わたしね、きみのギターはそういうものだって思ってたんだよ。ギターなのに、ギターを超えた何かなんじゃないかって思ってた。同じ人間のすることなんだから、わたしにもできるんじゃないかって、思ったの。でも、そう簡単にはいかないよね」
同意を求められているのかもしれない。
だけど、このつぶやきに同意するのも、否定するのも、違うんじゃないかと思った。
僕はあくまでスマホの集音マイクを通じて空気の振動を捉えている。
映像だって同じだ。
感覚器官を人工物に頼っている僕が、極めて感覚的なものに対する評価をくだすことができるのか。
できたとしても、僕にその資格があるのだろうか。
「結局、歌は歌でしかなかったんだよね」
『セックスがセックスでしかないように』
「それな」
送橋さんは腹を抱え、くの字に身体を折って笑った。
数回小刻みに揺れた後、目尻を擦って起き上がった。
部屋の壁にかかったアナログ時計の針は、予定の出演時間をとうに超えている。
壁の向こうの轟音と歓声はまだ途切れそうにない。
『でも、わからないですよ』
「何が?」
『送橋さんが僕のギターをそういうものと感じたように、この世界のどこかにいる誰かさんにとっては、送橋さんの歌は人知を超えた何かなのかもしれない』
「いないよ、そんな人は」
『確かめたんですか? 世界中』
「それってさ、悪魔の証明ってやつじゃないの?」
『難しい言葉知ってますね』
「馬鹿にして」
「ある」ことは証明できたとしても、「ない」ことは証明できない。
世界の全てを見て回ることはできないからだ。
『僕が送橋さんと出会えたように、送橋さんも誰かと出会うのかもしれない』
送橋さんはしばらく瞑目し、
「わたしは、それがきみであればよかったんだけどな」
と言った。
『僕にとっての特別は送橋さんしかいませんよ』
嘘ではなかった。
しかし、絶対の自信もない。
意識に浮かび上がったのは父の姿だった。
つい先ほど思い出した。
最後に会った日、大曽根で、僕のギターを聴き続けた父。
あいつは今、何をしているのだろうか。
送橋さんは鼻で笑いながら「嘘」と言った。
『嘘じゃないです』
「わかりやすいよねきみは。そうなっちゃっても」
『そうでしょうか』
「そうだよ。わたしにとっての特別は、もうきみだけなのにさ」
一際大きい歓声や拍手とともに、どやどやと前の出演者たちが楽屋に戻ってきた。
送橋さんの肩が少しだけ揺れると、まず最初に僕をつかんだ。
「由宇さん。出番です」
呼びに来たスタッフに返した「はい」は、まるで揺れていなかった。
送橋さんはギターのネックを掴んでステージへと続く扉をくぐる。
ステージは真っ暗だった。
転換用のBGMと客席のざわめきがうるさいくらいに転がっている。
ステージを横切る時に客席の方がちらっと見えたが、送橋さんの手によってすぐに隠されてしまった。
送橋さんは僕を譜面台に置いた。
背面は譜面台で遮られていてわからないが、ここからなら送橋さんの表情はよく見える。
ギターとマイクのセッティングが終わると、モニタースピーカーから「声とギターください」と呼びかけられた。
ギターをピックで鳴らし、「あ、あ」とマイクに向かって言うと、フロア後方のコンソール前にいるスタッフが両手で大きく丸を作った。
「OKです。自分のタイミングで手を上げてください」
「わかりました」
送橋さんは暗転したステージで目を瞑り、大きく息を吸って吐いた。
――二人でステージに立つんだって。
――わたしはそう思ってるから。
送橋さんはそう言ったが、その言葉とは裏腹に、ステージで目を瞑っている送橋さんはどうしょうもなく一人きりだった。
幕が上がってしまえば、僕だって、ミムラだって、手出しはできない。
そのステージで起こる全てのことの責任を、送橋さんは一人で負わなければならない。
それは、途方もない孤独なんじゃないだろうか。
「見ててね」
『え?』
どこを見るでもなく、送橋さんがつぶやいた。
その時、送橋さんが泣いているように、僕には思えた。
涙が流れているわけでもないし、肩が震えているわけでもない。
何を悲しんでいるのかも、僕にはわからない。
こんなに近くにいるのに、こんなにも遠い。
もう一度、送橋さんの口が開いた。
「見ててね、枯野くん。見ててね」
『はい……はい!』
僕の声は、きっと届かなかっただろう。
送橋さんは右手を高々と上げた。
流れていたBGMがゆっくりとフェードアウトし、客席が暗転する。
さっきまでの喧騒が嘘のような、身を刺すような緊張感を孕んだ静寂がフロアを満たす。
客席のかすかな息遣いまでも聞こえてくるような気がした。
ステージに光が満ちるまでの、ごくわずかな間にある鼓動、息遣い。
どれも、もう僕が持ち得ないものばかりだ。
生きている。
彼らは。
彼女らは。
そして、送橋さんは。
僕も、ああだったのだろうか。
スポットライトが灯るまでの少しの間、僕はそんなことを考えていた。
送橋さんが指でじゃらんと鳴らした数秒後、スポットライトはゆっくりと灯り、送橋さんを暗闇の中に浮かび上がらせた。
譜面台にいる僕は、まるで光の爆発に巻き込まれたかのようだった。
目も眩みそうなほどの光の中、送橋さんはいつもとまるで変わらずに、ゆったりとギターを奏でた。
何度も指の皮をめくっているうちに、覚えたてのスリーフィンガーも馴染んだ味を出すようになってきていた。
やはり、違う。
送橋さんは僕の曲を使ってはいるけど、僕が出していた音と、送橋さんが出している音は決定的に違っていた。
何が、とは言い表せない。
ただ、闇の淵へどこまでも沈んでいくのが僕の音だとしたら、送橋さんの音はその境界線上でゆらゆらと揺蕩っているようだ。
不安定で、不確実で、不穏で。
だけど、その揺らぎにこそ、人の心は吸い寄せられる。
ここ数か月、大曽根で歌う送橋さんと、それを見る通行人たちの顔を見ていて、そう思った。
僕の音楽は、本質的に聴き手を必要とはしていない。
どこまでも深く潜るためだけのもので、通行人のざわめきは、あくまでその媒介物に過ぎない。
だけど、送橋さんはその影響をもろに受ける。
通行人からの反応が良くなければ、演奏にも良くない影響が出てしまう。
不安定と言ってしまえばそれまでだが、違う言い方をすれば、送橋さんの演奏は聴き手との関わりによって作られているとも言える。
関わり合っている、とも。
僕は送橋さんを見た。
送橋さんの目は真っ直ぐに客席の方へ向いている。
送橋さんは誰かのために弾いているんじゃないか、と思った。
客席にいる、誰かのために。
そう直感した。
だとすれば、誰のためなのだろうか。
――見ててね、枯野くん。
――見ててね。
僕?
そうかもしれない。
だけど、違うのかもしれない。
送橋さんの歌は生きている人のための歌だと思う。
生きていない人たちのための歌なんてあり得ないのだから、当たり前なのだけれど。
生きている人たちのための歌を歌っている送橋さんが、僕のためなんかに歌うのだろうか。
なぜかしっくりこなかった。
送橋さんが言う『枯野くん』は僕ではない僕なのかもしれない。
僕ではない僕。
死んではいない僕。
生きていた時の、僕?
送橋さんの歌は、普段以上に迫力があった。
鬼気迫る、と言ってもいいくらい。
ライブハウスの空気がそうさせるのだろうか。
このイベントに詰めかけた観客の後押しが、送橋さんを飛躍させているだろうか。
いずれにしても、スマホの中に閉じこもっていることしかできない僕には、何もできない。
何一つ、送橋さんに伝えられない。
拍手どころか、感嘆のため息をつくことすら、僕にはできないのだ。
立て続けに四曲歌って、送橋さんはようやく長い間を取った。
MCらしき言葉は、ここまでただの一言も発していない。
ふう――と、このライブで初めて歌以外のものがマイクに乗った。
「告白をさせてください」
スポットライトの中にあって、送橋さんの表情は僕の位置からはよく見えなかった。
笑ってもいないし、泣いてもいない。
ただ淡々と事実だけを話そうとしている。
そんな声色だった。
「わたしは、ある人を殺しました」
息を飲んだ観衆の動揺が、こちらまで伝わってくるみたいだった。
「比喩では、ありません」と、送橋さんは笑う。
液体窒素をふきかけて瞬間冷凍させたようなフロアに向かって、送橋さんは語り掛ける。
「わたしは死ぬことが恐ろしかった。この意識がなくなることが怖くてたまらなかった。怖くて、恐ろしすぎて、夜も眠れないほど。自ら死を選ぶ人の気持ちが、わたしにはわかりません。そんなことをしなくても、いつか必ずその意識は消えてなくなるというのに。そんな、恐ろしい死の谷を、好き好んで見に行こうとしていた人と、わたしは出会いました。彼の名前を、仮に『K』とします」
K――枯野。
「わたしはKと……親密な関係になりました。わたしはKの空虚を知り、Kはわたしの恐怖を理解しました。Kはわたしの全てを受け入れ、わたしの代わりに死の向こう側を見に行ってくれると言いました。わたしがKを殺したのは、そのためです」
フロアのざわめきが徐々に大きくなっていた。
ライブの演出なのか、それともガチなのか。
量りかねている囁きが、そこら中から聞こえてくる。
「Kはわたしに魂の存在を証明すると言って死にました。Kは、約束を果たしました。魂だけの存在になった彼は、今もわたしの傍にいます。わたしに魂の存在を――永遠を証明し続けてくれています。みなさんはきっとこんな荒唐無稽な話、到底信じられないと思いますけど」
送橋さんは微かに笑った。
その微笑から何を読み取ったのか、観客のざわめきが少しだけ静まった。
「わたしは、わたしに全てを捧げてくれたKに対して何かをしなくてはならないと感じています。だけど、それを考えるのはとても難しいことです。何せ、Kはもうこの世のものではないのですから。ディナーを奢ることも、海外旅行に連れて行くことも、Kにとっては喜ばしいことではありません。じゃあ、わたしは彼に何をしてあげられるだろう」
送橋さんはあるコード進行を弾いた。
〈旅に出ない理由〉だ。
あの日、僕が最後に弾いてほしいとお願いした曲。
イントロの、一つのシークエンスだけを弾いて、送橋さんは止まった。
「たどり着いたのは、歌でした。魂だけになった彼にも言葉は届きます。それはきっと、わたしたちの魂とは、言葉だからです」
それを聞いた瞬間、僕の筐体の中で、カランと何かが音を立てたような気がした。
何かの部品が脱落したのかもしれないけど、そんなものは見当たらなかった。
それが何だったのか、僕は探らなくてはならないように思えたのだ。
この身体になって、僕は動揺とは無縁になった。
動揺とは、肉体に由来する情動であり、生きた身体を持たない僕には無いものだからだ。
どこまでも平らになっていく自分を感じずにはいられなかった。
生きていたこと自体が、嘘だったかのように。
だけど、送橋さんの言う通り、僕の魂が言葉でできているのだとしたら、僕は今の僕を肯定できるような気がする。
今の僕には涙はないけど、僕は今泣くことができているんじゃないか。
そんな幸せな錯覚があった。
送橋さんはそれ以上話さず、タイトルも言わずに歌に入った。
〈旅に出ない理由〉。
元から送橋さんの歌を聴いていた人にしかわからないタイトル。
旅に出ない理由を探しているとうそぶいて、結局何もしようとしない、怠惰な自分を肯定するかのような歌だ。
いつもは気だるげに歌うだけだったのに、今日の送橋さんからは胸に迫ってくるような迫力を感じた。
旅に出ない理由――それがただの言い訳でしかないように、人間たちがこうして生きていることにも、きっと意味なんてないんだろう。
人間は言葉を交わし続け、魂を削り合うのだろう。
それはきっと幸せなことなのだと思う。
魂が言葉なのだとしたら、それを削って磨き上げていくのもまた言葉だからだ。
魂と魂が擦れ合って、幸せでないはずがない。
ふと、僕の首に食い込む送橋さんの指を感じた。
僕にはもう首はないのに、送橋さんの声を聞くだけで、鮮明にその感触を思い出すことができた。
あの瞬間は確かにあった。
あの時、僕の魂は身体の中に留まることをやめ、言葉だけの存在となった。
あの瞬間を思い出せるうちは、僕は僕に絶望しない。
言葉だけの存在となって、送橋さんの傍にいることができる。
ずっと。
歌い終わっても送橋さんへの拍手はなかった。
異様な空気がフロアを満たしている。
送橋さんは「ありがとう」すら言わず、ギターと僕を掴んでさっさとステージを後にした。
視界の隅で、タイミングをつかみ損ねた照明が、間抜けに暗転した。
ステージの方から、またフロアに転換用のBGMが流れ始めたのが聞こえてくる。
始まった時よりも大きなざわめきがそこらに転がっている。
送橋さんは乱雑にギターを片付けると、僕だけを握って楽屋を飛び出した。
まるで一秒でもここにはいたくないとでも言うかのように。
楽屋の出口ですれ違ったミムラが怪物を見るような目で送橋さんを一瞥したのも気づいていないみたいだった。
転がるように楽屋から出て、階段を駆け上がる。
半地下にあるライブハウスの楽屋出口と、一般客の出入り口は近接している。
その出口から出てきた人とぶつかりそうになって、送橋さんは大きくよろけた。
「おっと」
その人は倒れそうになった送橋さんの腕を掴んだ。
「送橋さん」
その男は確かに彼女をそう呼んだ。
妙に心をぐらつかせるような声だった。
しばらく僕の視界が激しく揺れ、やがて定まる。
大きく息を吸って、吐いて――そんな送橋さんの呼吸音とともに、僕の背面カメラがその男の顔を確かに捉えた。
「枯野くん」
枯野最果が、そこにはいた。
ふと気づくと、送橋さんの顔が目の前にあった。
『僕、もしかして気を失ってました?』
「リハーサルだったから電源切れって言われちゃって」
そんなことを言われただろうか。
あまりよく覚えていないが、送橋さんが言うならきっとそうなのだろう。
今日はライブハウスのスタッフもいるから、リハスタの時のように、僕がレクチャーする必要もない。
楽屋に置き去りにされたり、ホールに行けても薄暗かったりで、ただのスマホでしかない僕としてはかなり暇だった。
ミムラ主催のイベント出演者たちは素人の僕が聴いても実力派揃いで、リハーサルとは言え、多少なりとも聴きごたえがあったのがせめてもの救いだった。
ライブハウスの轟音に揺られながらぼうっとしていると、僕の意識はいつの間にか途切れていた。
「電池切れかと思いました」
「ごめん」
送橋さんはもう一度謝ると僕を脇の机に置き、ギターを構えた。
ここは最初に案内された控室だ。
壁は前面にわたってサインや写真、ビラで埋め尽くされている。
あの時はまだイベント出演者がそこここに島を作っていたのに、今ここにいるのは送橋さんただ一人だった。
『他の人はいないんですか?』
「今、本番中。次はもうわたしたちの番だよ」
わたしたち、と送橋さんは言った。
僕の妙な間で察したのか、送橋さんは僕のカメラをびしっと指差した。
「わたしときみ。二人でステージに立つんだって、わたしはそう思ってるから」
『そうですか』
何かに触れる感覚はもう二度と取り戻せないのに、むずがゆいような不思議な気持ちだった。
送橋さんの言葉が、僕の魂の柔らかい部分に触れたのかもしれない。
言葉とは不思議なものだ。
壁の向こう側からは、バンドの轟音が伝わってくる。
漏れ聞こえる歓声からも、フロアがかなり盛り上がっているのがわかる。
「歌ってさ」
『はい』
じゃらん、とゆるく鳴らした。
「歌でしかないよね」
『そうですね』
「歌はさ、歌を超えた何かになれるんじゃないかって思ってたことがあるの」
『歌を超えたもの?』
「たとえばさ、世界の仕組みを解き明かしたり、新しい理を創造したり、神様を下ろしたり」
『スピリチュアルですね』
「わたしね、きみのギターはそういうものだって思ってたんだよ。ギターなのに、ギターを超えた何かなんじゃないかって思ってた。同じ人間のすることなんだから、わたしにもできるんじゃないかって、思ったの。でも、そう簡単にはいかないよね」
同意を求められているのかもしれない。
だけど、このつぶやきに同意するのも、否定するのも、違うんじゃないかと思った。
僕はあくまでスマホの集音マイクを通じて空気の振動を捉えている。
映像だって同じだ。
感覚器官を人工物に頼っている僕が、極めて感覚的なものに対する評価をくだすことができるのか。
できたとしても、僕にその資格があるのだろうか。
「結局、歌は歌でしかなかったんだよね」
『セックスがセックスでしかないように』
「それな」
送橋さんは腹を抱え、くの字に身体を折って笑った。
数回小刻みに揺れた後、目尻を擦って起き上がった。
部屋の壁にかかったアナログ時計の針は、予定の出演時間をとうに超えている。
壁の向こうの轟音と歓声はまだ途切れそうにない。
『でも、わからないですよ』
「何が?」
『送橋さんが僕のギターをそういうものと感じたように、この世界のどこかにいる誰かさんにとっては、送橋さんの歌は人知を超えた何かなのかもしれない』
「いないよ、そんな人は」
『確かめたんですか? 世界中』
「それってさ、悪魔の証明ってやつじゃないの?」
『難しい言葉知ってますね』
「馬鹿にして」
「ある」ことは証明できたとしても、「ない」ことは証明できない。
世界の全てを見て回ることはできないからだ。
『僕が送橋さんと出会えたように、送橋さんも誰かと出会うのかもしれない』
送橋さんはしばらく瞑目し、
「わたしは、それがきみであればよかったんだけどな」
と言った。
『僕にとっての特別は送橋さんしかいませんよ』
嘘ではなかった。
しかし、絶対の自信もない。
意識に浮かび上がったのは父の姿だった。
つい先ほど思い出した。
最後に会った日、大曽根で、僕のギターを聴き続けた父。
あいつは今、何をしているのだろうか。
送橋さんは鼻で笑いながら「嘘」と言った。
『嘘じゃないです』
「わかりやすいよねきみは。そうなっちゃっても」
『そうでしょうか』
「そうだよ。わたしにとっての特別は、もうきみだけなのにさ」
一際大きい歓声や拍手とともに、どやどやと前の出演者たちが楽屋に戻ってきた。
送橋さんの肩が少しだけ揺れると、まず最初に僕をつかんだ。
「由宇さん。出番です」
呼びに来たスタッフに返した「はい」は、まるで揺れていなかった。
送橋さんはギターのネックを掴んでステージへと続く扉をくぐる。
ステージは真っ暗だった。
転換用のBGMと客席のざわめきがうるさいくらいに転がっている。
ステージを横切る時に客席の方がちらっと見えたが、送橋さんの手によってすぐに隠されてしまった。
送橋さんは僕を譜面台に置いた。
背面は譜面台で遮られていてわからないが、ここからなら送橋さんの表情はよく見える。
ギターとマイクのセッティングが終わると、モニタースピーカーから「声とギターください」と呼びかけられた。
ギターをピックで鳴らし、「あ、あ」とマイクに向かって言うと、フロア後方のコンソール前にいるスタッフが両手で大きく丸を作った。
「OKです。自分のタイミングで手を上げてください」
「わかりました」
送橋さんは暗転したステージで目を瞑り、大きく息を吸って吐いた。
――二人でステージに立つんだって。
――わたしはそう思ってるから。
送橋さんはそう言ったが、その言葉とは裏腹に、ステージで目を瞑っている送橋さんはどうしょうもなく一人きりだった。
幕が上がってしまえば、僕だって、ミムラだって、手出しはできない。
そのステージで起こる全てのことの責任を、送橋さんは一人で負わなければならない。
それは、途方もない孤独なんじゃないだろうか。
「見ててね」
『え?』
どこを見るでもなく、送橋さんがつぶやいた。
その時、送橋さんが泣いているように、僕には思えた。
涙が流れているわけでもないし、肩が震えているわけでもない。
何を悲しんでいるのかも、僕にはわからない。
こんなに近くにいるのに、こんなにも遠い。
もう一度、送橋さんの口が開いた。
「見ててね、枯野くん。見ててね」
『はい……はい!』
僕の声は、きっと届かなかっただろう。
送橋さんは右手を高々と上げた。
流れていたBGMがゆっくりとフェードアウトし、客席が暗転する。
さっきまでの喧騒が嘘のような、身を刺すような緊張感を孕んだ静寂がフロアを満たす。
客席のかすかな息遣いまでも聞こえてくるような気がした。
ステージに光が満ちるまでの、ごくわずかな間にある鼓動、息遣い。
どれも、もう僕が持ち得ないものばかりだ。
生きている。
彼らは。
彼女らは。
そして、送橋さんは。
僕も、ああだったのだろうか。
スポットライトが灯るまでの少しの間、僕はそんなことを考えていた。
送橋さんが指でじゃらんと鳴らした数秒後、スポットライトはゆっくりと灯り、送橋さんを暗闇の中に浮かび上がらせた。
譜面台にいる僕は、まるで光の爆発に巻き込まれたかのようだった。
目も眩みそうなほどの光の中、送橋さんはいつもとまるで変わらずに、ゆったりとギターを奏でた。
何度も指の皮をめくっているうちに、覚えたてのスリーフィンガーも馴染んだ味を出すようになってきていた。
やはり、違う。
送橋さんは僕の曲を使ってはいるけど、僕が出していた音と、送橋さんが出している音は決定的に違っていた。
何が、とは言い表せない。
ただ、闇の淵へどこまでも沈んでいくのが僕の音だとしたら、送橋さんの音はその境界線上でゆらゆらと揺蕩っているようだ。
不安定で、不確実で、不穏で。
だけど、その揺らぎにこそ、人の心は吸い寄せられる。
ここ数か月、大曽根で歌う送橋さんと、それを見る通行人たちの顔を見ていて、そう思った。
僕の音楽は、本質的に聴き手を必要とはしていない。
どこまでも深く潜るためだけのもので、通行人のざわめきは、あくまでその媒介物に過ぎない。
だけど、送橋さんはその影響をもろに受ける。
通行人からの反応が良くなければ、演奏にも良くない影響が出てしまう。
不安定と言ってしまえばそれまでだが、違う言い方をすれば、送橋さんの演奏は聴き手との関わりによって作られているとも言える。
関わり合っている、とも。
僕は送橋さんを見た。
送橋さんの目は真っ直ぐに客席の方へ向いている。
送橋さんは誰かのために弾いているんじゃないか、と思った。
客席にいる、誰かのために。
そう直感した。
だとすれば、誰のためなのだろうか。
――見ててね、枯野くん。
――見ててね。
僕?
そうかもしれない。
だけど、違うのかもしれない。
送橋さんの歌は生きている人のための歌だと思う。
生きていない人たちのための歌なんてあり得ないのだから、当たり前なのだけれど。
生きている人たちのための歌を歌っている送橋さんが、僕のためなんかに歌うのだろうか。
なぜかしっくりこなかった。
送橋さんが言う『枯野くん』は僕ではない僕なのかもしれない。
僕ではない僕。
死んではいない僕。
生きていた時の、僕?
送橋さんの歌は、普段以上に迫力があった。
鬼気迫る、と言ってもいいくらい。
ライブハウスの空気がそうさせるのだろうか。
このイベントに詰めかけた観客の後押しが、送橋さんを飛躍させているだろうか。
いずれにしても、スマホの中に閉じこもっていることしかできない僕には、何もできない。
何一つ、送橋さんに伝えられない。
拍手どころか、感嘆のため息をつくことすら、僕にはできないのだ。
立て続けに四曲歌って、送橋さんはようやく長い間を取った。
MCらしき言葉は、ここまでただの一言も発していない。
ふう――と、このライブで初めて歌以外のものがマイクに乗った。
「告白をさせてください」
スポットライトの中にあって、送橋さんの表情は僕の位置からはよく見えなかった。
笑ってもいないし、泣いてもいない。
ただ淡々と事実だけを話そうとしている。
そんな声色だった。
「わたしは、ある人を殺しました」
息を飲んだ観衆の動揺が、こちらまで伝わってくるみたいだった。
「比喩では、ありません」と、送橋さんは笑う。
液体窒素をふきかけて瞬間冷凍させたようなフロアに向かって、送橋さんは語り掛ける。
「わたしは死ぬことが恐ろしかった。この意識がなくなることが怖くてたまらなかった。怖くて、恐ろしすぎて、夜も眠れないほど。自ら死を選ぶ人の気持ちが、わたしにはわかりません。そんなことをしなくても、いつか必ずその意識は消えてなくなるというのに。そんな、恐ろしい死の谷を、好き好んで見に行こうとしていた人と、わたしは出会いました。彼の名前を、仮に『K』とします」
K――枯野。
「わたしはKと……親密な関係になりました。わたしはKの空虚を知り、Kはわたしの恐怖を理解しました。Kはわたしの全てを受け入れ、わたしの代わりに死の向こう側を見に行ってくれると言いました。わたしがKを殺したのは、そのためです」
フロアのざわめきが徐々に大きくなっていた。
ライブの演出なのか、それともガチなのか。
量りかねている囁きが、そこら中から聞こえてくる。
「Kはわたしに魂の存在を証明すると言って死にました。Kは、約束を果たしました。魂だけの存在になった彼は、今もわたしの傍にいます。わたしに魂の存在を――永遠を証明し続けてくれています。みなさんはきっとこんな荒唐無稽な話、到底信じられないと思いますけど」
送橋さんは微かに笑った。
その微笑から何を読み取ったのか、観客のざわめきが少しだけ静まった。
「わたしは、わたしに全てを捧げてくれたKに対して何かをしなくてはならないと感じています。だけど、それを考えるのはとても難しいことです。何せ、Kはもうこの世のものではないのですから。ディナーを奢ることも、海外旅行に連れて行くことも、Kにとっては喜ばしいことではありません。じゃあ、わたしは彼に何をしてあげられるだろう」
送橋さんはあるコード進行を弾いた。
〈旅に出ない理由〉だ。
あの日、僕が最後に弾いてほしいとお願いした曲。
イントロの、一つのシークエンスだけを弾いて、送橋さんは止まった。
「たどり着いたのは、歌でした。魂だけになった彼にも言葉は届きます。それはきっと、わたしたちの魂とは、言葉だからです」
それを聞いた瞬間、僕の筐体の中で、カランと何かが音を立てたような気がした。
何かの部品が脱落したのかもしれないけど、そんなものは見当たらなかった。
それが何だったのか、僕は探らなくてはならないように思えたのだ。
この身体になって、僕は動揺とは無縁になった。
動揺とは、肉体に由来する情動であり、生きた身体を持たない僕には無いものだからだ。
どこまでも平らになっていく自分を感じずにはいられなかった。
生きていたこと自体が、嘘だったかのように。
だけど、送橋さんの言う通り、僕の魂が言葉でできているのだとしたら、僕は今の僕を肯定できるような気がする。
今の僕には涙はないけど、僕は今泣くことができているんじゃないか。
そんな幸せな錯覚があった。
送橋さんはそれ以上話さず、タイトルも言わずに歌に入った。
〈旅に出ない理由〉。
元から送橋さんの歌を聴いていた人にしかわからないタイトル。
旅に出ない理由を探しているとうそぶいて、結局何もしようとしない、怠惰な自分を肯定するかのような歌だ。
いつもは気だるげに歌うだけだったのに、今日の送橋さんからは胸に迫ってくるような迫力を感じた。
旅に出ない理由――それがただの言い訳でしかないように、人間たちがこうして生きていることにも、きっと意味なんてないんだろう。
人間は言葉を交わし続け、魂を削り合うのだろう。
それはきっと幸せなことなのだと思う。
魂が言葉なのだとしたら、それを削って磨き上げていくのもまた言葉だからだ。
魂と魂が擦れ合って、幸せでないはずがない。
ふと、僕の首に食い込む送橋さんの指を感じた。
僕にはもう首はないのに、送橋さんの声を聞くだけで、鮮明にその感触を思い出すことができた。
あの瞬間は確かにあった。
あの時、僕の魂は身体の中に留まることをやめ、言葉だけの存在となった。
あの瞬間を思い出せるうちは、僕は僕に絶望しない。
言葉だけの存在となって、送橋さんの傍にいることができる。
ずっと。
歌い終わっても送橋さんへの拍手はなかった。
異様な空気がフロアを満たしている。
送橋さんは「ありがとう」すら言わず、ギターと僕を掴んでさっさとステージを後にした。
視界の隅で、タイミングをつかみ損ねた照明が、間抜けに暗転した。
ステージの方から、またフロアに転換用のBGMが流れ始めたのが聞こえてくる。
始まった時よりも大きなざわめきがそこらに転がっている。
送橋さんは乱雑にギターを片付けると、僕だけを握って楽屋を飛び出した。
まるで一秒でもここにはいたくないとでも言うかのように。
楽屋の出口ですれ違ったミムラが怪物を見るような目で送橋さんを一瞥したのも気づいていないみたいだった。
転がるように楽屋から出て、階段を駆け上がる。
半地下にあるライブハウスの楽屋出口と、一般客の出入り口は近接している。
その出口から出てきた人とぶつかりそうになって、送橋さんは大きくよろけた。
「おっと」
その人は倒れそうになった送橋さんの腕を掴んだ。
「送橋さん」
その男は確かに彼女をそう呼んだ。
妙に心をぐらつかせるような声だった。
しばらく僕の視界が激しく揺れ、やがて定まる。
大きく息を吸って、吐いて――そんな送橋さんの呼吸音とともに、僕の背面カメラがその男の顔を確かに捉えた。
「枯野くん」
枯野最果が、そこにはいた。