疲れ果てた父をそのまま追い返すのも気が咎めたので、部屋の中に招き入れた。
 我ながら何もない部屋だ。
 ちゃぶ台の脇には座布団すらない。
 何も案内しないまま、膝から崩れ落ちるようにして、敷きっぱなしの布団に父は座った。

「何か飲む?」
「お前も、気を使えるようになったんだな」

 肩を小刻みに揺らす。
 落ち窪んだ目が、薄暗い部屋の中で煌々と光っていた。
 何も答えず、グラスに水道水を注いでちゃぶ台に置く。
 喉が渇いていたのか、一気に飲み干したかと思えば、すかさず機関銃を乱射するかのような咳をした。
 何か危機的なものを感じる咳だった。

「どうしたの、急に」
「いや、会わんといかんな、と思ってな」

 もう一杯くれと、震える手でグラスを差し出してきた。
 受け取るのが一秒遅ければ床に転がっていただろう。
 グラスを手放した手は、腕が落ちたのかと思うほど勢いよく布団に落ちた。
 グラスを持ち上げる力もないのかと思うほどだった。

「父さんが僕に会わなきゃいけないとか思うこと、あるんだ」

 言った自分の口が痛むように思えた。
 少なくとも、ここまでの敵意を誰かに向けたことは、今までの人生で一度もない。
 一秒でも父の顔を見ていたくなくて、蹴り飛ばすような勢いで流しに立った。
 爆発のような強さの水流を出し、勢いが良すぎて半分くらいしか入らなかった水を、べたべたに濡れた手でちゃぶ台に叩きつけた。
 跳ねた水が父の頬に飛んだが、それすら父は何も言わなかった。

 この部屋は西向きで、嫌になるほど西日が差し込む。
 父は暮れていく太陽に魂を奪われてしまったかのように、口を半開きにしている。
 放っておいたら涎でも垂れてきそうだ。

 様子が、おかしい。

 父はいつも、家族にすら弱みや隙を見せようとはしなかった。
 会社に住んでいるのかと思うほど帰ってこないし、帰ってきてもまともに話なんてしたことがない。
 だらけているところなんて見たことないし、いつも「妻や子どもよりも大切なものがある」という顔をしていた。
 今、目の前にいるのは、そんな父とは別の人間のようだった。
 力のない目をして、頬は痩せこけ、無精ひげを生やして、色落ちした着古しの上着を着ている。
 十分距離は取っているのに、父の身体からはすえた匂いが漂ってきて、ひどく気が滅入ってしまう。

 しかし――だ。
 もしも僕が送橋さんの手によって闇の淵の向こう側に行くとしたら、僕が父と会うのはこれが最後の機会ということになるのかもしれない。
 そういう思いは、確かにあった。

「……何か用なの」

 父はグラスの水が揺れるのを見ていた。
 水面のさざめきに合わせるように、瞳孔が小刻みに揺れている。

「用は、特にないんだ」
「なら、なんで来たの」
「会わなきゃいかんと思った」
「だから、それはなんでなのって」

 ちっとも進まない話に、内心ひどく苛立った。
 飲み干したグラスを投げつけてやろうかとも思った。
 しかし、投げつけたところで、その額でグラスが割れたとしても、ただぼうっと割れたグラスに視線を落とすだけなのだろうと思うと、怒りをぶつける気力も萎えてしまう。
 僕はこんなことをするために、この部屋に戻ってきたんじゃないのに。

 不意に部屋の隅に転がるギターケースに目をやった瞬間、「お」と少しだけ弾んだ声がした。

「まだやってたのか」

 意外そうな声に、また心がささくれ立った。

「……悪いかよ」

 苛立ちを隠すことすら面倒になってきた。
 目の前の男はゆるやかに首を振るだけで、まともに受け止めようとしているようには見えない。
 馬鹿にされているのかとすら思う。

「どうして悪いんだ? 俺は嬉しいよ、買ってやった甲斐があるってもんだ」

 へえ、と思った。

「……覚えてたんだな」
「まさかそんなもの欲しがるのかって、意外だったからな」
「あれは父さんに買ってもらったギターじゃない。壊れちゃったんだ」
「構わんよ。お前が音楽をやるきっかけになれただけでもよかった」

 あてつけのような言葉にも、父は怒らない。
 元々感情が見えにくい人だったが、こんな言葉にも薄く笑っていられるとは思わなかった。
 痛みを感じているのは、むしろ僕の方だ。

 父さんは震えながら立ち上がり、ひょこひょことギターケースの傍に寄った。
 しゃがみこみ、ケースの表面の凹凸を撫でる。
 その指についた脂が、ケースでぬらりと光っている。

「よかったら、一度弾いて見せてくれないか?」



 家で弾くわけにもいかないので、結局大曽根に来た。
 もう日は暮れてしまっていて、家路へ急ぐ群衆が駅構内を埋め尽くしている。
 一番目立つ場所を通り過ぎ、いつもの高架下のコンクリートに腰を下ろした。
 父は、僕から少し離れた場所に座った。
 その風体は、どこからどう見ても浮浪者だった。

「もっと目立つ場所でやらなくていいのか?」
「いいんだよ、ここで」
「誰かに聞いてもらうためにやってるんだろう?」

 そうじゃない。
 そう言うのは簡単だったが、伝えたところで理解されるはずもない。

 僕がここでギターを弾いているのは、誰かに聞いてもらうためじゃない。
 わかってくれたのは送橋さんだけだ。
 送橋さんは僕の全てを理解してくれた。
 そんな人は、この世界にはもう一人もいないはずだ。

 僕はそれを証明しなければならない。

 無言のままケースからギターを取り出した。
 群衆の中で、いつも僕は一人だ。
 それは、隣に座っているのがたった一人の肉親であったとしても、同じだ。

 初めの一音を鳴らした瞬間、カクンと首が落ちた。
 視界の隅で、疲れ果てた父が目を瞑っていた。
 眠っているのではないのだろう。
 そのぐらいは雰囲気でわかる。
 ただ全身を、僕の出す音に傾けている。
 そう感じた瞬間、言いようのない苛立ちが僕を満たした。

 この人は、一度だって僕に意識を振り向けたことはなかった。
 いつだって僕や母さんを蔑ろにして、自分勝手に生きて。
 なのに、今さらになって。

 ――よかったら、一度弾いて見せてくれないか。

 そんなこと、今まで一度だって言ったことなかったじゃないか。
 本当に――本当に、今さらだ。

 僕はもう将来を決めてしまっている。
 僕を理解してくれて、傍にいてくれて、僕に最後をくれる送橋さんに全てを委ねる。
 今さら父から何かを言われたところで、僕の決意は揺らがないし、将来だって変わらない。
 父が僕や母さんを蔑ろにした過去だって覆すことはできない。

 何も変わらないんだ――そう思い定めて、意識から隣の父を消した。
 ともすれば、今日が最後の演奏になるかもしれない。
 そんな時に、後悔なんて残したくはない。
 だけど、そう簡単に意識をコントロールできれば苦労はしない。

 僕はただギターを弾き続けた。
 父は目を瞑ったまま、身じろぎすらしなかった。
 二時間が過ぎ、三時間が過ぎてもそのままだった。
 駅構内の灯りが落ち、人影もまばらになった頃、僕はようやくギターを置いた。
 父はゆっくりと顔を上げた。
 先に音を上げたのは僕の方だった。
 勝負でもなんでもないのに負けたような気持ちになった。

「よくわかったよ」
「何が?」
「お前がどういう気持ちで生きてきたのか」

 知ったようなこと、言うな。

「すまなかった」

 心臓を冷えた手が掴んだ。
 振り向くと、父は深々と頭を下げていた。
 頭を下げている父の姿に動揺して、持っていたピックを数枚取り落としてしまう。
 慌てて拾うと、父はようやく頭を上げた。
 その目尻には、照明に照らされて光る何かが伝っていた。

「俺の仕事、知ってるか」
「……新聞、記者」
「そうだ。社会で起こる様々な事柄について、新聞に掲載する文章を書く仕事だ。寝ても覚めても、俺の中にあるのはそれだけだった」
「さぞ、やり甲斐のある仕事なんだろうね」

 僕の心は、全力で防御態勢を取った。
 ここで絆されたらおしまいだと思った。
 一人で生きるため、積み上げてきた防壁を失ったら、もう生きていけない。
 壊されるくらいなら、否定しなければならない。

「お前にどう思われても、仕方ないと今は思ってるよ。それくらい俺はクズで、生きてる価値のない人間だ。人に伝えるための文章を書いてきたのに、他人のことなんか、本質的にはどうでもいいんだと思う。母さんが死んだ時だって、涙の一つも流れやしなかった。お前が轢かれた時だって、仕事に行ったんだ、俺は」
「知ってたよ」

 吐き捨てるように、僕は言った。
 あの入院中、大部屋の隅で同室にいた高齢の男性同士が楽しそうに笑いながら話しているのを聞いた。

 ――新聞記者なんて偉そうな仕事してても、人間としては失格だねえ。

 僕がその人たちに対して何かを言うことはなかった。
 人の不出来や不幸を笑うのはとても楽しいことだし、その人たちの見解は何一つ付け加えることもないほどに正当だったからだ。

「あんたには大事なものがあったんだろ、僕や母さんより。それはいいよ。仕方ないもんな、誰にだって優先順位くらいはある。僕にだって、あんたにだって」

 何を言いに来たんだ、この人は。
 もう帰ってほしかった。
 二度と顔を合わせないまま、すれ違ったままで終わりにしたかった。
 こんなこと、言いたくなかった。
 こんな感情、向き合いたくなんてなかったのに。

「違う。優先順位なんかじゃない。俺には大事なものなんてなかったんだ。伝えたかったことだってなかったのかもしれない。わからなかったんだ。俺のくだらない人生で、何が大事だったのか。何を守らなきゃいけなかったのか」
「わかった、もうわかったから、消えてくれよ。僕の人生から。もう十分だろ。必要ないだろ、もう」
「ああ、消えるよ。すぐに。どうせもう時間なんてないんだ、俺には」

 何か引っかかる物言いだった。
 後になって思い返すと、それは父の未練だったんだろう。
 未練で、底汚く、醜い感情が父の奥底にあったからこそ、父は僕の前に姿を表したんだと思う。
 よせばいいのに、僕は訊いてしまう。

「どういう意味だ」

 父は透明な笑みを浮かべてこう言った。

「膵臓癌だ。残りは一か月なんだと」

 吐息は全て飲み込んだ。
 その音すら聞こえてしまいそうなほど、深夜の大曽根は水を打ったような静けさの中にあった。

「謝りたかった。お前に。最後に。それさえ叶えばもうよかったんだ。お前のギターまで聞けるなんて、俺みたいな人間には出来すぎた最後だ」
「勝手だ! あんたは!」

 立ち上がり、ギターケースを思い切り殴りつけた。
 ごっ、と鈍い音がして、傷ついたのは僕の右拳の方だった。

「消えるなら勝手に一人で消えろよ! どうして今さら会いに来るんだよ! 僕のことなんてどうでもいいんだろうが! 勝手に生きて、勝手に死ねよ! 死んじまえ!」

 父は身じろぎすらしなかった。
 僕を見上げて、愛おしそうに笑う。
 その笑みは消え入ってしまいそうなほどに透き通っていて、母が超えた闇の淵の向こう側に、もう片足を踏み入れているみたいだった。

「こうなってみて初めてわかったんだ。最果、お前はずっとこれを見てたんだな。お前一人で、ずっと。お前の音楽はそのためのものなんだって、今日初めてわかった。こうならなければ、俺には一生わからなかっただろう。だから、こうなって良かったんだ、俺は。お前のことがわかってよかった。それで、十分なんだ」

 消え入りそうな声なのに、胸にずんと響いて、思わず倒れ込みそうだった。
 わかったなんて――理解したなんてでまかせだ。
 嘘っぱちだ。
 最後が迫った人間の感傷が、ありもしない幻影を見せているだけなんだ。
 だってそんなの、あり得るはずがない。

 僕を理解できるのは世界でただ一人、送橋さんだけなのだから。

「お前がいてよかった。お前がいてくれるから、くだらない俺の人生にも、少しは意味があったって思える」
「うるさい、消えろ、消えろよ……」

 がすがすと、ギターケースを殴り続ける。
 子熊が親にじゃれついているみたいだと、自分で自分を笑いたくなった。

「安心しろ、これが最後だ。俺がお前の人生に登場することは、もう二度とないよ。ありがとう。お前に会えて、よかった」

 父は震えながら立ち上がり、駅の方へと消えて行った。
 もう終電は終わってしまっている。
 あいつはどこに行こうとしているのだろうか。
 たった一人で。
 どこにも行けないような足どりで。

「……っ!」

 身体の底から湧き上がってくる衝動を、奥歯を噛み締め必死に抑えた。
 何があろうと認めたくない気持ちだった。
 言葉にするのも、してしまいそうな自分も嫌で、荒ぶる感情を叫びに乗せて空へと放った。

「ああああああ――――――――――――――――ッ!!!」

 僕を振り返る人間は、この大曽根には誰もいなかった。

 唯一振り返ったかもしれない相手は、ついさっきにいなくなってしまった。
 それを悲しいなんて、思いたくなかった。
 悲しんではいけない。
 元々この手になかったはずのものなのだから。
 認めてしまえば、僕の魂は腐り落ちてしまう。
 送橋さんとの約束を、果たせなくなる。

 その後、どうやって家に帰ったか、はっきりとは覚えていない。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、時折道端で叫びながら、まるで気が触れてしまったかのように歩いた。
 警察のご厄介にならなかったのは奇跡だったと思う。
 部屋に戻って、ギターを放り出して、布団に身体を投げ出し泥のように眠った。
 登ってきた太陽に鼻っ面を叩かれ目が覚めて、昨日のことが全て夢であったらいいのにと願った。
 もう一度眠れば夢になるかもしれないと思って、また寝た。

 目が覚めたら、脇には送橋さんがいた。

「何かあった?」
「何もないですよ」
「嘘」

 送橋さんの指が僕の頬を撫でた。
 頬は糊を塗りたくったかのような粘着力を持っていて、送橋さんの指を吸い付かせた。

「幽霊に会いました」
「誰の幽霊?」
「さあ、誰でしょう」

 はぐらかしたのではなく、本当にわからなかったんだ。
 僕が会ったのは誰だったのか?
 父か?
 母さんか?
 それとも――

「生きるのってさ、しんどいよね」
「はい」
「やめてしまえたらどんなに楽だろうって思う。でも、本当にやめてしまったら、もう二度と始められないんだよね」

 僕が確かめたいのは、まさにそれだった。
 確かめるためには、全てを捨てなければならない。
 覚悟はとっくの昔に終えたはずだったのに。

「行こっか」

 もはや頷きすら必要なかった。
 僕たちは無言で部屋を出て、鍵をかけ、郵便受けの裏側にあるいつもの場所に鍵を戻した。
 もう二度と戻ってくることはないのに、律儀にルーチンを守る自分が滑稽だった。
 だけど、一人でここに戻ってくるだろう送橋さんのために、僕はいつも通りを守らなければならない。

 送橋さんの車はアパートの前に止まっていた。
 乗り込むと、車は空回りしそうな勢いで走り始めた。
 ナゴヤドームを横目に、砂田橋を超えて環状線へ。
 この景色もこれで見納めかと思うと、さして綺麗でもない街すらほのかに輝いて見えた。

 何もないところからこの宇宙が生まれて、その片隅の星にちっぽけな命が生まれて、宇宙の恒星だけが持ち得る光の粒子を独力で生み出しているのだと思うと、なぜだか無性にこの世界が不思議に思えた。
 当たり前のものなのに、当たり前じゃない。
 那由多ではきかない数の奇跡を重ねて、僕と送橋さんは今ここにいる。

 何も起こらない。
 だけど、何が起きても不思議じゃないと思う。

 送橋さんは、僕に終わりの向こう側にあるものを確かめてほしいと言うけど、心の底の底の底では、きっとそれを信じてはいないのだと思う。
 脳みそに血液が供給されなければ人は死に、それ以上はないのだと送橋さんは考えている。
 でも、何もないところからはこの宇宙が生まれるくらいなのだから、僕ら人間の想像を超えるようなことが起きるのかもしれない。
 闇の向こうに〈無〉しかないとは限らない。

「もう、いいの?」

 僕と送橋さんはあの洞穴の中にいて、送橋さんの手は僕の首にかかっていた。
 送橋さんの手の下の、薄皮一枚挟んだところを、僕の生命が流れている。
 送橋さんはただその流れをせき止めればいい。
 導かれたこの運命に、身を委ねるだけでよかった。

「もう――」
「いいですよ、もう」

 僕は一度だけ、小さく頷いた。

「終わったら、僕はこのままここに埋めてください」

 送橋さんは頷いた。
 瞳から大粒の涙が落ちて、僕の胸にいくつかの染みを作った。
 その熱が、冷たさが、他の何よりも気持ちよかった。

「必ず、教えますから。境界の向こうに何があるのか。送橋さんに、必ず教えます」

 ちくりと胸を刺す痛みがあった。
 それが、この世で感じる最後の感覚だと、僕は思った。