七月三日。朝八時半にCMの撮影現場にやってきた四人は緊張と期待を抱いた面持ちでいた。個人ではCMのキャラクターに就任したこともあったが、グループ全員でというのは初めてのことだった。

 なぜ四人になった途端にそのような話が舞い込んできたのかは分からない。でも、もし咲佑が抜けたことが理由の一つにあるのなら断るべきだったのかもしれないと、凉樹は撮影道具に目を向けながら一人考える。それは、咲佑は五人全員でCMに出演することを夢見ていたから。このことを知ったら咲佑はどう思うのだろう。でも、四人で出演することを喜んでくれないとは思えなかった。咲佑のことだから、きっとポジティブな言葉をかけてくれるだろう。だから断らない。撮影したものが咲佑に届けば、それでいいのだから。

「それでは撮影を始めます」

 四人は監督からの指示を受けてから撮影に臨んだ。休憩中には監督から凉樹に対して急なアドリブが要請されたが、凉樹はバラエティに出演して培ってきたお笑い力を存分に発揮し、対応。カットの声がかかると現場は笑いに包まれ、凉樹自身も手応えを感じていた。グループでのCM撮影は初めてだったのにも拘わらず、誰もミステイクすることなく、当初の予定時間よりも三十分も巻いて終わっていった。

「撮影は以上になります! お疲れ様でした!」

俺らはスタッフから受け取った小さな花束を抱え、いつものようにスタッフ一人一人に声をかけて楽屋へ戻る。

「終わったな」
「凉樹くん、アドリブ対応流石っすね」
「そんなことないよ。でもやっぱり夏生は演技が上手いな。近くで見てて感心した」
「そう言われると恥ずかしいです。ただ何回もやってると、桃凛みたいな初々しさは出せませんよ」
「えっ、僕そんなに初々しかったですかぁ?」
「うん。で、桃凛は撮影楽しめた?」
「はい! 常連の三人みたいには上手くできませんでしたけどねぇ」
「そんなことないよ。桃凛もよくやったと思う」
「ありがとうございますぅ」

 何気ない会話を交わしていると、正木がドアを開けるなり、「ふざけんなっ!」と、誰かに対して怒りを爆発させた。久しぶりに見る正木の一面に、明らかに引き気味の桃凛。夏生が「まさっきぃ・・・?」と疑問形で言うも、聞こえてないのか無視をしたのか分からないが、「何なんだよっ」と自分の拳を太腿にぶつける。

「まさっきぃ、もしかして俺が撮影で何かやらかした?」

正木の言動を訝って聞き質す。しかし正木は渋る。「いや、違う」
「じゃあもしかして、撮影で何か問題が・・・」

そう朱鳥が心配して聞いたことに対し、正木は怒り口調で答える。「撮影の問題じゃない」
「撮影じゃないって・・・、じゃあ何の」
「まさっきぃ、何かあったの?」

夏生と桃凛の発言に顔を(しか)めた正木。俺の背中を一筋の冷や汗が伝う。

「咲佑が、失踪した」
 正木が発する失踪の二文字。何かの間違いだろう。誰もがそう思った。「失踪なんてあり得ない」凉樹がそう言うも、正木は「失踪は事実だ」と声を荒らげる。その場の空気は険悪な雲行きになっていく。

失踪って、そもそもなんだ? 俺が知ってる失踪の意味で合ってるのか? 

 凉樹の思考は停止し、背筋が凍り始める。

「ねぇ、まさっきぃ。失踪したってどこ情報?」
「新しく咲佑についたマネージャーから聞いた。ソイツは和田って言うんだが、俺の大学の後輩なんだよ」
「そのマネージャーさんが嘘ついてるなんてことはないんすか? 凉樹くんも言ってたっすけど、あの咲佑くんが失踪するなんてあり得ないんすよ」

朱鳥の口調は呆れているというか、怒りの矛先が定まっていない感じだった。

「俺だって何度も疑って、何度も問い詰めたよ。でも和田は涙声になりながら『咲佑と全く連絡が取れない』としか言わなかった。困ってどうしようもなくて俺に連絡してきたんだよ。だから一応こっちからも電話してみた。でも、咲佑は出なかった」
「そんな」
「和田さん、咲佑くんの家に行ったりとかしたんですかね」
「行ったらしいが、家にもいなかったって。ついさっき連絡があった」
「どうやって確認したんですか? 中入れないですよね?」
「引っ越し先のアパートのオーナーに連絡して、鍵を開けてもらったんだとよ。だが家はもぬけの殻同然の状態だった、だってさ」

「まじか」朱鳥は小さく呟いた。桃凛は頭を抱えている。

「つまりは、現状誰も咲佑くんの行方を知らないってことですか?」

夏生はいつも通り、一歩引いたところから出来事に向き合おうとしている。冷静さを装っているものの、身体は嘘をつけないみたいで、膝下から震えていた。

「あぁ。だからお前ら四人に頼みがある。咲佑に電話をかけてくれないか」
「いいですけど、全員から連絡していいんですか? 色んな人から電話がかかってきたら、電源切られるかもしれませんよ」

「はあ」正木は大きく息を吐く。

「夏生くんの言ってること、僕は正しいと思いますぅ。咲佑君が今どんな状況にあるか分からなくて、気になって何度も電話かけたくなるかもしれないですけどぉ、時間を空けて連絡したほうが良いんじゃないですかねぇ」
「そうか」
「まさっきぃの頼みだから聞くけど、俺も夏生と桃凛の意見に賛成だから」
「分かった。ありがとな」

納得しているのか、していないのか分からない感じで言う正木に、凉樹は言いたい言葉を飲み込んだ。

「で、誰から連絡するんすか?」
「まずは桃凛だな。それで反応がなければ朱鳥。それでも駄目なら夏生。しかも、個人のやり取りじゃなくて、咲佑も込みのグループがまだ残ってるから、そこでのやり取りにして欲しい。しかも、普段通りに。詰めすぎも、空けすぎもNGな」
「分かりました。でも、凉樹くんはいつ連絡するんすか?」
「俺は三人の様子をみて適宜個人的な連絡を入れる」
「はい」

夏生が頷いたところで、正木が申し訳なさそうに口を開く。「四人とも巻き込んで悪いな」
「いいよ。今はメンバーじゃなくても、咲佑は俺らにとって大切な仲間なんだから」
「そうですよ。だから、大丈夫です」

夏生が頷くと、それに応じて朱鳥と桃凛も優しく頷いた。

「そっか。俺はあとで和田に連絡して―」

正木が言いかけている途中で、タイミング悪く着信音が鳴り始めたスマホ。正木は画面を見て「悪い。ちょっと出てくる」と言ったあとに息を吐き、「お疲れ様です。正木です」と声のトーンを上げて電話に出る。オンとオフの切り替えの激しさに驚きつつも、四人は再びあの会話を繰り広げた。

「咲佑くん、本当に失踪したんすかね」
「さあな」
「僕は和田って人が嘘ついてるんじゃないかって思うんですけど」
「そう思いたくなるよな。俺だって信じたくないからさ、夏生の気持ちは充分わかるよ。でも多分、本当に咲佑は失踪してるんだと思う」
「どうしてそう思うんすか?」
「咲佑は自分から連絡を絶って失踪するような奴じゃない」
「じゃあ…、もしかして」

桃凛の額には汗が滲んでいる。廊下の照明によってキラリと光った。

「考えたくはないけど、巻き込まれたのかもしれない」

 朝の晴れ間から一転、バケツをひっくり返したような雨が降る外。梅雨になったばかりの空模様は、今の凉樹の心模様を表しているかのように安定しない。明日以降も雨が予想されている。脳裏にはあの時の出来事が閃光のごとくよぎった。
 電話を終えてからスマホを握ったまま、足早に楽屋へ戻った凉樹。中には正木しかいなかった。

「あれ、朱鳥は?」
「自販機見に行った。もう少しで呼ばれるのに、呑気だよな」
「だな」

朱鳥がこの空間にいないことは俺にとったら好都合だ。知られなくて済む。今のうちに正木に伝えなければ。

衝動に駆られるように俺は衣装のトップスを脱ぐ。その様子を見て「おい、何やってんだよ」と慌てて聞いてくる正木。

衣装の半袖Tシャツの上から、ハンガーにかけている私服のアウターを羽織る。「まさっきぃ」
「なんだ?」
「俺、ちょっと今から出てくる」
「出てくるって、どこに?」
「それは」

俺の表情からまるですべてを読み取ったかのように納得した様子の正木。腕を組み、頷いた。

「まぁいい。事情は俺から話しておく。だから行ってこい」
「ありがと。行ってくる」
「おう」
「あ、衣装さんに伝えといて。今日の衣装は全部買い取るって」
「分かった。だからって無茶するなよ」
「分かってる。じゃ」

 凉樹はソファに置いていた斜め掛けのバッグをガッと掴み、エレベーターへと続く廊下を走る。息を整えながら到着を待つが、エレベーターは凉樹の気持ちを弄ぶかのように来ない。やっと来たと思えば、中は満員。乗ることを諦め、近くにある階段で一階まで全力で駆け下りた。

誰かのために仕事を投げ捨て、鞄が乱暴に背中へ攻撃してくることを全く気にせず、学校帰りのひと時の青春みたいに商店街を走り抜けて、大切な人の元へ行く。仕事を直前に投げ出すなんて、俺は何やってんだろ。いや、投げ出してよかったんだ。これでよかったんだ。仕事よりも大事なのは咲佑の存在なんだから。逸る心を落ち着かせるために、そう何度も反芻するしかなかった。
 テレビ局を出て三十分。自宅近くの芝生公園に仰向けになっている咲佑を見つけた。そのすぐ横にある電話ボックスの扉は半開きの状態で、その床には黒く丸い染みができていた。

咲佑に近づこうと、灼熱のアスファルトの上を歩く。そこには、間隔も定まらず、不規則な形と大きさで付着している黒い染みがあった。この辺には野良猫もいるから、きっと怪我でも負った子が歩いただけだろう。そうだよ、きっと。

芝生の上を、わざと音を鳴らして歩く。少しでも早く俺の存在に気付いて欲しいから。でも、どれだけ俺が近付いても、全く目を開けようとしない咲佑。もしかしたら太陽と芝生の陽気に誘われて眠ってしまったのかもしれない。

 「咲佑」俺はそっと耳元で呼びかける。開かない目。もう少し大きい声で…。身体を揺らして起こそうと芝生の上に手を付いたとき、掌に何かが付着した。

俺はその場で腰を抜かした。寝ころんでいる芝生は赤く染まり、咲佑が着ている黒Tシャツの腰骨付近は、ぱっと見じゃ分からないけれど色が濃くなっていたる。電話ボックスの床、アスファルトの上、俺が見てきた染みは見ず知らずの人のものでも、野良猫のものでもない。咲佑のもの。

 凉樹は自身から血の気が引いていくのを感じていた。凉樹は血が怖く、ちょっとした傷口から出る自分の血ですら、幼い頃から恐怖心を覚えていた。そんな凉樹に対し「大人になれば怖くなくなるよ」と優しく慰めてくれた母親。それを信じきっていた幼かった凉樹。二十歳を超えた今でも血は怖い。やはり治らなかった。でも今はそんなこと言ってられない。血が怖いからってこの場から逃げ出すことは許されない。今までの自分に打ち勝つために、俺は咲佑の血なら、触れる。

「咲佑! 起きろ! なぁ、起きろよ……。起きろってば!」

俺はその場にいる人目も憚らず、大声で咲佑に呼びかけ続ける。周りはただ心配そうに見ていたり、俺らの存在に気付いたのかスマホを向けて撮影していたりする。俺も咲佑も芸能人。今目の前で起きていることをSNSで拡散されたっていい。このことに対して何を言われても構わない。そんなことをいちいち気にしてたら負ける。

「俺にはお前が必要なんだよ! だから頼む、目を覚ましてくれ!」

 咲佑は目を覚ますことなく、群衆の中の誰かが呼んだ救急車で病院に運ばれ、治療を受けることになった。俺は付添人として同行することになったが、その間まったくと言っていいほど生きた心地がしなかった。大切な誰かがこんな事件に巻き込まれるなんて現実からかけ離れ過ぎていて、昏夢でも見ているんじゃないかと疑いもした。でも、俺は寝ていない。意識もハッキリしている。だから、咲佑が電話してきたあの時から今の今まで、起きたこと、見たこと全てが現実だ。
 俺は徐にポケットからスマホを取り出し、履歴から正木の文字を探してタップする。コール音がしばらく鳴り続けたあとに、渋い声で相手は「凉樹」と俺の名前を呼んだ。

「まさっきぃ」
「どうした? 今どこにいる?」

まだ収録が終わってないのだろう。焦りながらも小声で聞いてきた正木。遠くからは芸能人たちが収録を盛り上げている歓声が聞こえてきた。俺はそのガヤに負けない、でも周りに迷惑が掛からない声量で言う。「病院だよ」
「病院? なんでまた」
「咲佑が、事件に巻き込まれた」
「は? 何かの間違いじゃ―」
「間違いじゃない。収録前、俺に電話がかかってきただろ? あれ咲佑からだったんだ。俺らが住んでる自宅近くの電話ボックスから直接かけてきた。スマホが壊されたから、って」
「もしかして、それで」
「そうだよ。しかも、誰かに殴られたって言ったから俺は仕事を放棄して咲佑のところに向かった」

正木は声にならない息を吐いた。

「近くの芝生の上で仰向けになってる咲佑がいた。それで―」

電話越しに聞こえる呼吸音。何も言わず、ただ俺が淡々としゃべる内容を聞いているだけのようだった。

「そういう経緯で今病院に」

まだ芸能人たちが番組を盛り上げようとして、わざとらしく笑い合う声が聞こえてくる。

「それで、咲佑は?」
「治療受けてる」
「そうか」

溜息交じりの息を吐く正木。電話越しじゃ感情が読み取れない。

「まさっきぃに頼みがある」
「なんだ?」
「今話したこと、朱鳥と夏生、桃凛にはまだ伝えないで欲しいんだ」
「どうして」
「朱鳥は収録中だし、夏生も仕事してる。桃凛は大学がある。それぞれの大事な時期に邪魔はできない。それに、咲佑だってみんなに心配かけたくないと思うからさ」
「そうだな。分かった」

苦し紛れの返事だった。

「治療終わってひと段落着いたらまた連絡する。それに、後日ちゃんと番組関係者に謝罪しに行く。だから、そのことも伝えといて欲しい」
「分かった。今は収録のこと心配しなくていい。とりあえず咲佑の無事だけを祈れ」
「ありがとな」
「じゃ、そろそろ収録終わるから切るぞ」
「おう。また」

 正木が電話を切ったのを確認すると同時に表示された着信履歴。咲佑から電話がかかってきてから三時間が経とうとしている。ここまできたら、汗が滲む手を合わせて吉報を待つしかなかった。

 掌や指の腹にある皺と、切ったばかりの爪の隙間に深く染み込んでいる赤黒い血。
でもそれを汚いとか、除けたいとか、嫌悪感を抱くことは一切なかった。むしろ、ずっと付いていてもいいと思えた。お守りみたいに肌身離さずつけていたかった。不思議だ。自分の血ですら付着していることが許せないのに。
 凉樹は自分でもどれぐらいこの場にいるのか分からなくなっていた。心配からか力を入れていた脚はビリビリと痺れを感じる。ストレッチをしようとソファから腰を上げたとき、目の前にあるドアがゆっくりと開いた。その中から出てきたのは咲佑ではなく、どういう治療をするかという説明をしてくれた医者だった。

「あの、咲佑は……?」

俺はどういう表情を浮かべていたのだろう。医者は俺の肩に優しく手を置き、こう言ってきた。「彼ならもう大丈夫だ。安心しなさい」

安心感からか膝下から崩れ落ちた。むせび泣く声にならない声が薄明りの空間に響いていく。こんなはずじゃなかったのに。泣くつもりなんてなかったのに。涙よ、止まってくれと何度も自分に指示を出す。なのに涙は溢れていく。まるで壊れた蛇口みたいに。

 咲佑は経過観察のためにしばらく入院することになった。幸い刺された傷は致命傷にならなかった。そのことが唯一の救いだったらしい。とても厳しい状態だったのにタクシーに乗り、電話をかけ、助けが来るのを待ったというのは、生きたいという欲があって、誰かを想ってじゃないと到底できることじゃない。もしあのまま放置されていたり、生きることを諦めていたら死んでいたかもしれないとも言われた。つまり咲佑は自ら生きるという道を選んだ。

看護師に案内された一人部屋。ベッドの上で寝ているか弱い咲佑の姿があった。殴られた痕には絆創膏が貼られる処置がされている。見るのは痛々しいが、これは生きることを選んだ咲佑の勲章なのかもしれない。

俺はベッドの横に置かれた小さな椅子に腰かけ、咲佑の寝顔を見つめる。今にも目覚めそうなのに、どれだけ俺が近付いても目を開けずに眠り続けていた。

病室は二人きりの空間。今この誰もいないこの場なら、俺は咲佑にどんなことだってできるような気がした。

 病室に案内されてから二時間後に咲佑は忽然と目覚めた。咲佑は今どこにいるのか分からないといった様子で辺りを見渡す。

俺はどさくさに紛れて咲佑の手を握り、「よかった」と伝える。咲佑は薄目の状態で、俺に視線を合わせる。

「よっ」

目覚めてからの第一声は思いのほか軽かった。逆にそれぐらいラフなほうが良かったのかもしれない。重すぎたら耐えられなかったかもしれないから。

「よっ、咲佑」

だから俺も咲佑のように軽いノリで手を挙げて答える。彼は口元を少しだけ緩めた。

「ここ、どこだ?」
「病院」

そう言うと、咲佑は肘を付き、顔を顰めながらゆっくりと上体を起こし、手の甲に貼られた絆創膏を不思議そうに眺める。虚ろな目で。「俺…、どうしてここに?」
「咲佑が俺に電話してきただろ? 事件に巻き込まれたって」
「そうだっけ…?」
「憶えてないのか?」

俺がそう咲佑に問うと、しばらく考えたのち、ボソッとした声で「憶えてないな」と答えた。俺は身勝手に、目覚めたばかりで頭の中がまだ整理できていないだけだろうと、安易な発想でいた。だが、咲佑は腕に巻かれた包帯を色んな角度から眺めたり、顔に貼られた絆創膏に触れてみたりしている。そんな姿を見て、本当に咲佑は自分が事件に巻き込まれたことを憶えていないのかもしれないと思い始めた。

「なぁ凉樹」
「何だ?」
「仕事、あったんじゃないのか?」
「あぁ、まぁな」
「じゃあ、どうやって」
「仕事は朱鳥に任せて駆けてきたんだよ」
「何でだよ」

咲佑の口調は疑問形とも呆れているとも取れるもので、俺は返答に一瞬だけ困った。

「そりゃあ、咲佑のことが心配だからに決まってんだろ?」
「凉樹…」
「俺は、咲佑が助けを呼んだならいつでも駆けつける。仕事中だろうが、休みのときだろうが。まぁ地方にいるときはすぐって訳にはいかないけどな。でも、それだけ俺は咲佑を大事にできる」

     「俺は咲佑のことが好きだから」
 あれから怒涛に過ぎて行った一週間。咲佑にも了承を得たうえで、晴天に恵まれた今日、俺は仕事の合間を縫って三人に事件のことを話した。三人とも事が現実として受け止められないといった表情を浮かべ、俺の話を食い入るように聞いていた。

「でもぉ、咲佑くんに大きな怪我がなくてよかったですねぇ」
「うん。でも咲佑くんは何で事件に巻き込まれたんですかね」
「確かに、気になるよな。凉樹くん、何か知ってそうっすね」

あのときの俺は正常値から大きくはみ出していたのかもしれない。いや、きっとそうだ。傷ついた咲佑を目の前にした俺はただ単に正常を取り乱していただけだ。あのときと全く同じ状況に置かれても、今の俺はきっとあんなことを咲佑にしないはず。言わないはず……。

「凉樹くん、咲佑くんに―」
「は? えっ、いやっ、俺なんも疚《やま》しいことしてないから!」

一刹那の出来事だった。朱鳥が「え」と素の感情を露呈した。

「あぁ、悪い。今の聞いてないことにしてくれ」
「凉樹くんのためにそうしたいところですけどぉ、めっちゃ気になります。咲佑くんに何かしたんですかぁ?」
「俺も気になります。凉樹くん教えてください」
「二人から頼まれても断る。夏生が聞きたくないかもしれないだろ?」
「あのー、凉樹くんには申し訳ないですけど、僕も本音を言えば内容が凄く気になります。なので教えてもらいたいです」
「そういうことっす。凉樹くん、教えてくださいよ! 何をしたんですかっ」

差し出した拳をマイクに見立て、インタビュアーのような態度を取る朱鳥。夏生と桃凛は悪戯っ子のような目をしている。三人のやり取りに耳を傾けず、自分の世界に入り込んでいたことを、今になって後悔する。

「絶対誰にも言うなよ」
「はい」
「実は俺、咲佑にキスした」
「……」
「…っえ! 咲佑くんにキスですか⁉」

桃凛がここ最近で一番の大声を響かせる。俺らは焦って周りを見渡したが、誰もこちら側を見ていなかった。

「ばかっ、桃凛大きい声出すなよ!」
「すいません、つい…」

夏生に注意され小さく謝る桃凛。一方の朱鳥はまるで恋バナ中の男子高校生のようなテンションで俺にこう聞いた。「凉樹くん、いつキスしたんすか?」
「咲佑が目覚める前」
「どこにしたんすか?」

もう言い逃れはできそうにない。

「左頬に。そっと、ばれないようにな」
「で、ばれなかったんすか?」
「いや、キスして、俺が小さな声で咲佑って名前呼んだ瞬間に、ゆっくり目を開けた。そのことに関して何も言ってこなかったけど、多分気付かれてると思う」
「まるで白雪姫みたいっすね。あぁー、咲佑くんにとったら最高の目覚めだったんだろうなあ」
「んな馬鹿な。そんなんで目覚めたって嬉しくないだろ?」
「えぇ、そんなことないと思いますよぉ。例えば、僕は朱鳥くんにキスされて目覚められるなら、最高に嬉しい気持ちになりますよぉ」

さらっと桃凛は爆弾発言をしたが、冗談的な意味合いで言ったのだろうとその場で誰も突っ込まず、そのまま流した。

「それで、咲佑くんが何で事件に巻き込まれたとか、そういうことは聞いてないんすか?」
「うん。詳しいことは聞けてない。事件のことを全然は無そうとしなかったからね。それに、あんまり思い出したくなさそうだったからさ、俺も聞くのを躊躇った」
「そうですか・・・」
「多分、記憶が混在してるんじゃないかな。唐突のことだったし、仕方ないよ」
「辛いですね・・・」

咲佑が事件のことを憶えていないと言っていることについて、今は言葉を濁すことしかできない。

「まぁ、でも大事に至らなくて本当に良かったですね」
「そうだな」

夏生がその場の空気を察知し、話を平和にまとめる。夏生がいなければ、この空気がひび割れていたかもしれない。

「僕、今度咲佑くんに会いに行こうと思います」
「あ、それいいな。夏生、そのときは俺も誘ってくれよ」
「二人とも僕を置いていくなんてずるいですよぉ。僕も連れてってくださいぃ!」
「うん。分かった」
「三人が会いに行ってくれたら、咲佑もきっと喜ぶと思う」
「はい」

 三人が楽しそうにしている、それだけで凉樹の心は救われた。三人の存在は今までで一番大きく感じられる。今まで年上という立場で三人のことを引っ張ってきていたのに、いつの間にか凉樹は年下三人に助けられるようになっていた。これからはもう少しメンバーのことを頼ってもいいのかもしれない。
 夏の昼下がりの公園は、人通りも少なかった。そもそも汗ばむ陽気のときに公園で過ごそうなんて人はいない。見かけるのはベンチの上に寝っ転がって上半身を焼いている人とか、買い物袋を両手に下げている人とか、そんなぐらいだった。だから逆に今伝えることができてよかったと思う。夕方になれば学校や仕事帰りのタイミングで、ここを行き来する人は増える。それに、夏生はこのあと仕事があると聞いているから、このあたりで解散しておかなければ。

「そろそろ帰るか」
「はい。僕、そろそろ仕事行かないといけないんで」
「僕も、大学の友達と一緒にやることがあるのでぇ」
「そっか。二人とも気を付けてな」
「はい」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

夏生は下ろしていたバッグを背負い、桃凛はパソコンが入ったトートバッグを肩にかけ直し、それぞれの目的地へと軽快な足取りで向かっていく。その背中をぼんやりと眺めながら、朱鳥が口を開いた。

「凉樹くん、俺から相談したいことがあるんですけど」
「どうした?」
「凉樹くんって、誰かを好きになったことってありますか?」

 唐突の質問に驚き、手に持っていた炭酸飲料のペットボトルを地面に落とす。動揺が隠し切れない凉樹を余所に、それをすんなりと拾い上げる朱鳥。ペットボトルの中では炭酸がパチパチと弾けている。

「急にどうしたんだよ?」
「いや、その…」
「朱鳥。もしかして好きな人ができたか?」

俺が核心に迫る質問をした途端、朱鳥は絵に描いたように慌てふためく。図星だ。

「いや、そうじゃないって言うか…。そうじゃないって言うのも変なんですけど…」
「違うのか?」
「違うっていうのも違うんですけど、なんていうか……、その…、気になる人が、できたんすよ」
「おぉ。それで?」

朱鳥の恋愛に段々と興味が湧いてきて、自然と前のめりの姿勢になる。メンバーの恋愛対象が女であることを願っているのか、それとも違ってくれたほうがいいのか、どっちがいいのか分からなくなっていた。咲佑と同じ類だと世間からまた非難されるだろうし、違ったら違ったで素直に喜ぶこともできそうにない。今の俺にできることは、ありのままを答えること。

 朱鳥は凉樹が前のめりになる一方で、何か後ろめたいことでもあるのかと思えるほど、視線は下を向いていた。が、意を決したのか、突然朱鳥は誰かが憑依したかのように姿勢を正し、凉樹の瞳を捉えてこう言った。

「その人の性別が、男だって言ったら驚くっすよね」

朱鳥は笑っていた。不自然なほどに。そして朱鳥はさらに言葉を紡いだ。

「今はまだ信じたくないんですけど、どうやら俺も咲佑くんとお仲間みたいっす」
「そうか」

ありのままに任せた結果、凉樹の口から出たのはこの三文字だった。それを聞いた朱鳥は目を真ん丸とさせる。

「え、凉樹くん、聞いて驚かないんすか?」
「え、逆に何で驚かないといけないんだ?」
「いやいや、恍けないでくださいよー。驚くっしょ、ふつうは」
「そうなのか?」
「どうして驚かないんすか?」

 朱鳥は凉樹のことを、まるで水族館で泳ぐ魚に釘付けになる子供のような目をして聞いてきた。

そんな目をされたら、思ったこと、感じたことを素直に伝えてあげたほうが、今の朱鳥のためになるかもしれない。

「慣れたって言うのも変だけどさ、咲佑のことがあって、色んな恋愛観があっていいんだよなって思い始めて。だからメンバーが誰のことを好きになろうが、どんな性別の人を好きになろうが関係ないって言うか。あ、そう言ったらなんかアレだな。メンバーに興味ないって言ってるみたいだな」

冗談っぽく言って笑ってみる。朱鳥は優し気な笑みを浮かべた。そのとき俺はこう思った。朱鳥のことを守れるのは俺しかいない、と。

「言いたいことはそういうんじゃなくてさ、なんていうか、リーダーとしてグループを引っ張ってきて思うのは、メンバーには楽しく過ごしてもらいたいってこと。今まで五人のグループ活動に終わりを迎えることなんてあり得ないって思ってたけど、咲佑が抜けて、NATUralezaは俺たちメンバーにとっても、応援してくれるファンにとっても、もっと自由に過ごせる居場所であり続けたほうが良いのかなってな。そりゃあさ、咲佑が抜けたとはいえ、同じグループに世間一般が思ってきた恋愛観とは違う見方をする人がいるって言うのは中々受け入れてもらえないかもしれないけど、俺たちはいつだって自由なんだ。同性を好きになることは決しておかしなことじゃない。今はまだ否定的に思われるだろうけどさ、いつかは認められる日が来るだろうから、その日まで止まらないで欲しい。朱鳥には、朱鳥にしかできない恋愛もある。だから俺は朱鳥が気になる人と一緒に暮らせる未来が訪れることを、今はただ願うよ」

朱鳥は吐息のように俺の名前を呟く。

「咲佑のこともあったから色々不安に感じてることも多いと思う。でも大丈夫。俺が朱鳥のこと守ってやるから。だから心配すんな。朱鳥はそのままでいい。どんな人を好きになったって、朱鳥っていう一人の人物に代わりはいないんだからさ」
「…、そうっすね」
「咲佑が抜けてまだ二か月しか経ってない。これから先どんな壁が与えられたとしても、俺たち自身で乗り越えていくしか道は残ってないと思うんだ。だから今こそ力を合わせて頑張ろうぜ。四人のNATUralezaを一緒に守っていこうぜ」

朱鳥は知らず知らずのうちに目に光るものを浮かべていた。朱鳥がどんな気持ちで俺の発言を聞いていたか知ることはできない。でも朱鳥の涙を見て、言葉にできない何かを感じることができた。吐露するか悩んだであろうこのことに、答えが出せる日はそう遠くないのかもしれない。

「凉樹くん、ありがとうございました」
「感謝されるほど、俺は何も言ってないよ」
「そんなことないっすよ。やっぱり凉樹くんに相談して正解でした」
「そうか?」
「はい。咲佑くんにもいい報告ができるように、気になる人にアプローチしてみようと思います」
「そうか。頑張れよ」
「はい。ありがとうございます」

 ペットボトルの中で炭酸は落ち着きを見せていた。二人のことを照らし続ける太陽。上昇していく気温。炭酸がぬるくなる前に中身を一気に飲み干す。そのとき見た空は、子供が描く青空みたいに、雲一つない綺麗な空が広がっていた。
 夏休みシーズン真っ只中の八月。各地で猛暑日が記録され続けているというニュースが流れてくる。外を歩けば公園で水遊びをする子供や、エアコンの効いた室内で課題に取り組む学生の姿など、夏休みをそれぞれ謳歌する人たちをみて、凉樹は仕事へのギアを一段と上げていた。

 咲佑が事件に巻き込まれたという話をしたあの日から、四人は個人仕事で忙しく動いていた。そのことを機に、正木以外に新たに一人、福本というマネージャーが付き始め、主に正木が凉樹と朱鳥を、福本が夏生と桃凛を担当するという流れに変わった。凉樹含めメンバーたちは、グループとマネージャーで共有しているスケジュールアプリでしか互いの動向を把握しておらず、メンバー間の連絡も自然と途絶えている。

  *

 八月四日。この日も昼前から猛暑日を観測する暑さだった。

久しぶりにできた二連休。といってもやることが特になく、俺は家でのんびりと映画を観ていた。面白くない内容に飽きてきたと同時に、最近の睡眠不足からか睡魔が襲い始めてきていたそんな時、テーブルの上に置いていたスマホが音を立てながら振動し始めた。画面には正木の文字が表示されていた。

「もしもし?」
「せっかくの連休中に悪いな」
「いいよ、別に。家にいるだけだから」

俺が半笑いの状態で答えると、向こうは慣れた感じで「そうか」と言う。

「で、どうしたの? 何かあった?」
「凉樹に新しい仕事獲ってきた」
「どんな?」
「十月から始まる新しいバラエティ番組。旅系のやつ」
「へぇ、面白そう」
「しかも、聞いて驚くなよ」
「え、何」
「ゲストじゃなくて、レギュラーだ」

 リモコンを操作して映画を一時停止させる。止めたタイミングが悪く、主演俳優は瞬きの途中で白目になっている。

「え? レギュラー?」
「そうだ。詳細はまた後日連絡するから」
「分かった。ありがとな」
「じゃあ、お休み中に失礼しました」
「はいよ。またな」

 正木との通話を終え、ソファの上で一人喜びをかみしめる。でも、この喜びを共有したい。そう思い立ったとき、抱いていたスマホを操作し、あの男に連絡する。

「もしもし?」
「咲佑、今暇か?」

咲佑は電話の向こうで笑いながら答えた。「あぁ。いつでも暇だよ」と。こう聞くこと自体、愚問だ。だが、後戻りできそうになく、そのまま話を続けることにした。

「あのさ、今から会えないか?」
「急だなぁ」
「俺が会いたいんだよ。駄目か?」
「え」

まるで息を吐くように言う咲佑。一瞬だけ心が揺らぐ。

「咲佑に言いたいことがあってさ」
「え、何だよ。今教えろよ」
「嫌だよ。直接会って話がしたいんだからさ。な、いいだろ?」
「しょうがねぇなぁ。会ってやるよ」
「ありがとな。じゃあいつものカフェに十四時で」
「分かった」
「じゃあな」

 電話を切ってすぐ、出かける準備に取り掛かった。止めていた映画を音楽代わりに聞き流しながら、クローゼットの中からお気に入りの服を取り出し、着用する。そして寝ぐせのままだった髪型を洗面所で整えた。現場に行くよりも丁寧に。好きな人とデートに行くような、浮かれた気分で。

涙の決戦日

を読み込んでいます