やがてふたりは高校を卒業した。熾烈な受験戦争で見事合格を勝ち取った智は第一志望の超難関私大に、ハルはコンピューターの専門学校へ通うことが決まった。
 うっかり告白してしまってからも、ふたりの関係が変わることはなく、卒業後一緒に暮らそうという約束も反故にはならなかったので、家賃の軽減、通学至便という点でそれぞれ親の承諾を得て、春からはふたりでルームシェアをすることが決まっている。互いの学校へ自転車で通える距離にある、2DKの部屋を借りた。
 卒業から引っ越しや入学式、履修登録などバタバタとごたついていたのがようやく一段落したら、もう四月も半ば。通うところも住まいも、何もかもが今までとは違う暮らしに緊張や疲弊が積もったが、見知った相手が同じ家に暮らしていることでほっとすることも多かった。
 ハルはというと、この頃にはもう明確に智のことを恋愛対象・性的対象として認識していた。本人がそんな風に思わないでいよう、友達で充分だ、と思い込もうとしたところで、心はそう簡単に都合良く動いてはくれないものだ。同性だからと無防備な智の一挙手一投足にどぎまぎすることもしばしばである。そんな相手と一つ屋根の下で寝食を共にしているだなんて、健全な若き男子にとって拷問にも近いものがあった。

「おかえり……って、どうしたのそれ?」
 ある夜ハルが帰宅すると、智が悲鳴にも近い声を上げた。
「気分転換っていうか」
 狭い玄関でブーツを脱ぐハルの髪はほとんど丸坊主に近いほどの長さになった上、金色になっていたのだ。
「ど、どうしたの」
「いやほんま気分転換。家寺やし似合うやろ?」
 中学高校と、うっすらと茶色にカラーリングすることすら許されない、校則の厳しい私立校に通っていたわけで、確かに気分転換にはなるであろう。しかし本音の部分ではそれだけではなかった。友に邪な感情を持ってしまったことへの反省と、今後変なことをしないようにという自戒。
「うん、確かに似合ってる。かっこいい」
 智の視線が驚きから羨望へ変わり、ハルは自分で言い出しておきながら照れてしまう。
「それにハリネズミみたいで可愛い。ね、触ってもいい?」
 返事も待たずに智の長い腕がハルの頭に伸びてきて、くりくりと撫で回す。
「わぁ~気持ちいい!」
 きゃっきゃと笑いながらいつまでも撫でくり回し続ける智の手を、ハルの手が掴んだ。
「もうええやろ」
 ハルの声がいつもより随分低かったので、智は慌てたように手を引っ込めた。
「ごめん」
「人の気も知らんと……」
 智に対して言ったわけではなく、咄嗟に出た独り言だったが、しっかり智に聞こえたようで、みるみる智の頬と耳が真っ赤に染まった。
「あ、あの、久慈くん」
「何」
「あの……前に僕のこと、す、好きだって、言ってくれたよね……?」
「はいッ?!」
 あまり蒸し返して欲しくない、忘れようとしている話題を振られてしまい、ハルが変な声を発した。
「……今は、どうなの……?」
「……どう、って」
「今も、変わらない……?」
 明らかに空気が変わり、この話題は智があの時答えた『好き』とは違う話なのだとハルにもわかる。共に暮らしだした以上、変にこじれない方がいいのだが、ハルの真っ直ぐな性格が自分を偽ることを許してはくれなかった。
「変わらん、っていうか……あの頃よりもっと、ずっと、好きやで」
 温白色のシーリングライトが煌々と照りつけ、何もかも全てを暴き明らかにしろと詰め寄られているかのようだ。これまでハルの顔が赤らむことを隠してくれた傘も暗闇も、今はない。
「そうなんだ……それって、いつから?」
「はっきりあの時から、とかこの日から、とかはわからへん、けど、今思ったら多分、初めて声かけた時から好きやったんやと思う」
「それってあの、あじさいの?」
「ん」
「……」
 智は目を丸くして、口がぽかんと開いたままになっている。智が驚いたときによくする表情だ。
「いやいや! ちゃうねん、最初から下心ありありでずっと友達ヅラしてたとかそういうんではないねん、でも途中からはそう思われてもしゃあないよな、ごめんほんまごめん、騙してたみたいでごめん」
「ふふ、そんなに謝らないでよ」
 智はハルに言葉を向けながら、困ったような、それでいて柔らかい笑みを浮かべた。
「怒ってないよ。ただすごくびっくりして、出会ってから何年経つのか数えてたんだ」
「八年」
「だね」
 智のまんまるだった目が細まり、細くて長い指がそっとハルの節くれ立った指に重なった。
「そんなに長い間、大事に思ってくれてたんだね。ありがとう」
 耳からの情報よりも触覚が勝るもので、初めて触れる智の手指の感触に、ハルの鼓動は早鐘を打ち、顔じゅうが熱く火照り、口の中がカラカラに乾いた。
「触ってもいけるん?」
 ハルが尋ねると一瞬智は驚いたようだったが、すぐにあははと笑い出した。
「気づいてたの? さすがだねえ」
 ハルの読み通り智は接触恐怖症で、他人との身体的接触に対して恐怖や不快感を抱いてしまうのだという。そのことを話してもいないのに勘づいていたハルを、智はさすがだと言ったのだ。
「ん、それがなかったらとっくに襲ってたかもな」
 冗談とわかるトーンでいたずらっぽく笑いながらハルが舌を出すと、智も少し笑ったが、ハルの手を握る智の手の力が強まった。
「さ、わってみて、くれる?」
「ええの?」
「久慈くんだったら、どこまでなら触られても大丈夫なのかな、って」
 ハルは握られていた手を握り返し、指の間に指を絡ませてみた。
「無理なったら言うてな」
 智の様子を見ながら、掌や手の甲を撫でたり、肩を抱いたり、腰に手を回したりしてみるが、固くなってきちんと姿勢良く座ったまま、されるがままの智に拒否反応は見られない。逆にだんだんとハルのほうが限界になってくる。
「大丈夫やったな、よかったよかった」
 これ以上続けたら本当に歯止めが利かなくなりそうで、めでたしめでたし、と陽気におさわり試験を切り上げようとする。ハルが智から離れようとすると、智が縋るように抱きついてきた。
「まだやめないで、もっとして」
「え……?」
「触れても大丈夫だった……こうして触れられることも久慈くんに触れてもらえたことも、嬉しくて」
「永倉……」
「キス、も、大丈夫かなあ」
「……やってみよか?」
 互いの心臓の音が相手に聞こえそうなほどに緊張が走る。どちらもこういったことは初めてで、どちらからもごくり、と喉が鳴った。そしてゆっくりと、こわごわ、掠める程度に唇と唇が触れた。たった一瞬の出来事だったが、ハルにとって智の唇は、今まで唇に触れたどんなものよりも柔らかく温かで、甘やかだった。
「大丈夫?」
「うん」
「よかったな。完全克服ちゃう?」
 今度こそ智から身を離そうとするが、またも手を引っ張られた。その拍子に智の上に覆い被さるような姿勢となってしまう。
「もうこんなこと続けるの、嫌?」
「いや、嫌っていうか……」
「久慈くん……勃ってる?」
 身体が重なった時に、すでに硬くなってしまった股間が智に触れてしまった。すぐさま姿勢を変えたが、智には気づかれていたらしい。
「ん、やから、もうやめとかなあかんねんって!」
 身を起こし、前屈みになって赤面しながら言うハルだったが、智の次の言葉に仰天することになる。
「僕、もっと進んでもいいよ……?」
「っ、こら! 何言うてんねん!」
「久慈くんは、僕とそういうことするの、嫌なの?」
「嫌なわけないやろ! 好きやて言うてんのに!」
「じゃどうして」
「今までみたいに、っていうか、今まで以上に大事にしたいの! ずっと一緒におりたいから!」
 勘弁してくれという思いがハルをヒートアップさせ、声を荒げてしまった。智はようやく黙ったが、おちょぼ口をぎゅっと結び、みるみる瞳が潤ってきた。
「え? ちょ、あ、ごめん、そんなキツい言い方せんでええやんな、なっ」
 平謝りすると、智は首をふるふると横に振った。
「違う、嬉しかったんだ、久慈くんの気持ち」
「……そう」
 ハルはほっとして、智の髪を優しく撫でた。
「久慈くんにばかり言わせてごめんね、僕もきっとずっと前から久慈くんのこと好きだったんだと思う、久慈くんと同じ気持ちで。だけど僕こんなだから、好きな人と付き合うことなんか出来ないって思ってて」
 こんなだから、とは接触恐怖症のことだろう。好きな人が出来ても、付き合うことができても、触れあうことが出来ないと悲観していたのだろうと思うと、ハルの胸も痛んだ。
「そうやったんや。めっちゃ嬉しいわ、ありがとうな」
 ハルは智にもう一度口づけた。今度は掠るようなのではなく、やや唇を押しつけ、やわやわと智の弾力ある唇を食んだ。ますます例のものが元気になってくるが、もうなるようになれ、という思いで。
「でね久慈くん、もしいつかその……そういうことをすることがあったら、久慈くんとがいいって、ずっと思ってた」
 熱っぽく潤んだ瞳を真っ直ぐに向けられ、こんなことを言われてしまえば、ここまで頑張ってきたハルの理性も股間の元気も限界突破である。
「ほんまに先進むで? 途中で止めてって言うても無理かもしれへん」
「うん、久慈くんの好きにして」
 おそらく無自覚にさらっと殺し文句を言ってのけたことはさておき、ハルが要求を出す。
「それから、名字呼びすんのやめへん?」
「えっ……」
「せっかく友達やなくなってんから」
「ん、でも……」
「俺はずっと、智って呼びたかってんけど……嫌か?」
 初めて名前で呼ばれ、智の頬はみるみる紅潮した。そしてぶんぶんと首を振った。
「じゃあ……ハル、くん」
「呼び捨てでええやん」
「呼び捨て、あまり得意じゃなくて」
「え、ごめん! 俺ずっと呼び捨てにしてたやん! ほならこれから智くんて呼んだほうがええ?」
「呼ばれる方は平気だよ。まして久慈……ハルくんからなら」
 ふたりは照れくさそうに笑いながら、三度目の口づけを交わした。そしてハルはそっと、壊れ物を扱うように智を横たえ、その上からゆっくりと覆い被さった。
「初めてやし、嬉しすぎてめっちゃ緊張してて、上手いことできひんかもしれんけど」
「うん、僕もおんなじだから……。ハルくんでも緊張することあるんだね」
「あ、あるわい!」
 しかし思い返せば、緊張したことといったら智に関することばかりだった。初めて声を掛けたとき、日焼け止めを塗ってやったとき――
 重なり合えば、互いの胸の高鳴りを確かめ合うことが出来た。どちらの鼓動も負けず劣らずのスピードを打ち鳴らしている。
 その後のことについて、ハルの記憶はおぼろげだ。こんなに長い年数を、こんなに近くで一緒に過ごしてきたというのに、初めて目に・耳にすることばかりだった。何度も想像していたよりもずっと細くしなやかで洗練されたからだや、普段の年齢よりも幼さの残る言動からは想像もつかない扇情的な表情(かお)と、何度も「ハルくん」と甘えたように呼ぶ声。上手くやろうだとかかっこつけようだとかそんな気持ちは早々にどこかへ放り投げてしまって、無我夢中でがむしゃらに腰を振ったことしか憶えていない。そんな状況ゆえに、ハルが達するのはあっという間だった。

 すんすんとすすり泣く声がして、賢者タイムでふわふわしていたハルの意識が瞬時に呼び起こされた。我に返れば、確かに智は達していなかったし、ずいぶんと自分勝手な性行為をしてしまったのだろう。
「どっどないしたん?! 痛かった? やっぱ無理させたんちゃう?」
 まだ汗だくのハルの、不格好なまでの慌てぶりを見て、智は泣きながらくすくすと笑っている。
「どこも痛くない、大丈夫だよ」
「ほんならどうしたん……」
 深刻に眉根を寄せ、ハルが親指でそっと智の涙を拭った。
「好きな人から触れてもらうことがこんなに幸せで、気持ちいいなんて、知らなかったなあって……。教えてくれてありがとう、ハルくん」
 濡れそぼる瞳でそう言われ、ハルの中でなにかがぷつんと切れた。
「ハルくん?!」
 今度はハルの切れ長の瞳から、涙が溢れた。これまでの長い長い片想いが実ったこと、初めての体験を大好きな人と為しえたこと、そして今までよりずっとずっと、智を愛しいと思う気持ち。感情の洪水が心の奥から溢れるように、絶え間なく頬を伝い、抗うことができない。
「ハルくん、大丈夫? 僕何か変なこと言ったかな」
 かっこ悪くて恥ずかしくて、そして何よりも隣であせあせと困っている智のためにも、早く涙を止めたいのに、止まらない。焦れば焦るほど、嗚咽が漏れるほどに、身体じゅうの水分がなくなってしまうのではないかと思うほどに。それだけ積もりに積もったものが、ハルの心にはあるのだ。
「いや、大丈夫……びっくりしたやろ、ごめんな。あーカッコ悪」
「ううん……」
 智はまだ心配そうな眼差しでハルを見つめながらそっと手を重ね、長い指がハルの握りしめた拳を覆った。
「あーダサ。でもこれから、今までよりもっといっぱいかっこ悪いとこ見せてまうかもしれへんな」
 ハルは真っ赤になった鼻を隠すように顔を背け、もう片方の手でごしごしと目を擦って乱暴に涙を拭く。
「かっこ悪いところなんて見たことないよ」
「嘘つけ」
「ハルくんはいつだって超カッコいいもん」
「ないわー」
「ほんとだって! ハルくんはずぅっと、僕にとってヒーローで、魔法使いなんだ」
「なんやねんそれ」
「僕、ハルくんがいなかったら乗り越えられなかったこと、たくさんあるよ」
「何なに? どんなこと」
「ひとつずつ話してもいい? 今夜眠れないかもしれないよ」
「そんなにあるんかい」
 漫才のようなやりとりをするふたりの瞳からはすっかり涙は消えて、いつもの調子に戻っていた。

「はあ……それにしても坊主にした意味なかったわ」
「え? 気分転換じゃなかった?」
「ほんまは……智に変な気起こさへんようにって戒めの意味やってんやん……」
 決まり悪そうに語尾が小さくなると、智が声を上げて笑った。
「でも、『変な気』じゃないでしょ、ね?」
「ん、んん?」
「一時の気の迷いとかだったら許さないけど?」
「それはない! そんなわけないやろ! 八年ごしの片想いやっちゅうねん」
「うん……ありがとう」
「今度は髪、切らんとこかな」
「え~、ハルくんのロン毛、想像つかないなあ」
 冗談めかして智が短い髪をつまんでくるが、ハルの決意は真剣なものだった。
「俺がとっとと就職して、仕送りとかに頼らんと智を養えるようになって、ルームシェアやなく同棲出来るまで。結婚、やないけど、そういう意味で一緒に暮らせるようになるまで。髪切らんとこ」

 繋いだ手には、これまで八年分の絆。
 視線の先は、共に在る同じ未来。
 出会った日と同じぐらい忘れられない日となった今日という日を、二人は抱き合ったまま静かに見送った。そしてこれまでとは違う明日を迎えるために、共に眠るのだった。