三年生の秋、いよいよ本格的な受験シーズン到来である。受験勉強一色の生活となった智は毎日のように予備校へ通い、ハルと下校を共にすることはできなくなっていた。ハルは当然寂しかったが、登校だけはまだ一緒にしていたので、毎日顔を合わせることは変わりなかった。
「顔色悪ない? 大丈夫か?」
 寝不足がたたってか、智にあまり元気のない日が続いていた。少しの電車の揺れにも耐えきれず、ぐらついた智を慌ててハルが支えてやることもあった。
「頑張るのはええけど、体調も気にせんと」
「わかってるよ」
 身体的疲れと過度のプレッシャーで、智はぴりぴりしているようだ。たまにハルへのあたりが強い時がある。想像もつかない壮絶な世界なのだろうな、と、受験と無関係のハルは思い遣った。智の家は親が敷いた、しかも相当ハイレベルなレールを踏み外すことは許されない家庭だから。そこもハルにとっては未知の領域であった。ハルの親はハルに興味関心がないのかと勘ぐってしまうぐらいに放任だった。もちろんそうではなく、好きなようにやりたいことをやればいいと一任してくれているのだが。
「これ、よかったら」
「ありがと……何、これ?」
 ハルが智に手渡したのは、グラノーラを溶かしたチョコレートに絡ませて冷やした後、バー状にカットして一本ずつラップに巻いたもの。
「予備校ででも食って。腹持ちええし集中力も上がると思う、勉強しながらでもエネルギー補給ちゃんとしてな」
 ハルの優しさをきっかけに、智は己の態度を振り返ったようだ。
「ありがとう……それからごめんね、カリカリしちゃって」
「カルシウム不足や」
「はは、ほんとだね」
「栄養と睡眠もちゃんととらなあかんで、またひょろひょろなったんちゃうか」
「うん、絶対合格しなくちゃ、って思って、無理しすぎてたみたい」
 笑顔にも覇気がなく、いつもの眩しかった笑顔とは全く別物である。我が子をこんなに苦しめてまで合格させなければならないのか? と智の両親に軽く怒りを覚えていたら、
「受からないと、久慈くんと一緒に暮らせないもんね」
 翳りのある憂いを帯びた横顔からつぶやかれた言葉が、ハルの胸を打った。今の智は親に言われてしぶしぶ受験に立ち向かっているわけではないのだ。ハルとの暮らし、という手に入れたいものを、自分の手で勝ち取るために努力しているのだ、と気づかされた一瞬だった。と同時に、一緒にいる時間が減って若干ぶーたれた気持ちになっていた己を省みた。
「せやな! 頑張ってな、俺も応援してるからな、なんもできひんけど。気晴らししたかったらいつでも付き合うで」
「ありがとう」
 智の笑顔に少しだけ輝きが戻ったように、ハルには見えた。
 ――だったのに。

『今日一緒に帰れる?』
 昼休みに智からそんなメッセージが来て、ハルは舞い上がる反面、何だか不穏な予感がした。最近めっきり下校は別々だったので、嬉しい気持ちはもちろんある。だが、何故かよくわからない胸騒ぎがするのだった。午後の授業はてんで身が入らず、早く智の顔を見て安心したかった。
 チャイムが鳴るやいなや校舎を飛び出し門を出て、いつも待ち合わせしている場所に走って行くと、智はもうそこにいた。ハルの姿を認めると少しだけ微笑んだが、ひどく無理に作った笑顔に見えた。
「どないしたん? 今日は予備校行かんでええん?」
 嬉しくて弾む心を落ち着かせながらハルが話しかけると、みるみる智の目に涙が溢れてきた。
「ちょ?! ながく、」
 智は俯き、顔を手で覆ってしまった。肩が震えており、おそらく泣いているのだろう、と予想させる。駅に近いこの場所は他校生やその他の人目がありすぎる。少し離れたところにあるベンチまで智を誘導しながら移動し、座らせた。
「ん」
 一体どうしたんだ、と問い詰めたい気持ちをぐっとこらえて、智を落ち着かせることが先決だ、と自販機で買った缶ジュースを渡す。
「……ありがと」
 こんな状況で鼻声であっても、きちんと礼を言って受け取るのが智である。その後ハルは智の隣に座って、黙ってジュースを飲んでいた。智から話し出すのを待つつもりだ。
「……告白、されたんだ」
 ぽつり、とようやく口を開いた智の一言が予想以上に衝撃的すぎて、ハルはジュースを盛大に噴いた。どんな奴に? 返事はなんて? 何故泣いている? 矢継ぎ早に訊きたいことが溢れてくるが、グッと飲み込んだ。
「そうか、ほんで?」
「……男子、だったんだけど」
 またも衝撃的な内容だったが、ハルがジュースを噴くことはもうなかった。ただただ心臓が爆発しそうなだけである。
「……返事は?」
「こっ、断ったに決まってるだろ!」
「決まってる、ってなんでやねん。相手が男やからか?」
「違うよ、そうじゃない、けど」
「また全然知らんヤツやったん?」
「いや、ちょっとは知ってる、同じ学校の子だから。……っ」
 思い出して、また辛そうな顔をする。こんなとき恋人なら、ぎゅっと抱きしめてあげられるのに、とハルは歯噛みした。
「ほんで、何があったん」
「断って、話を切り上げようとしたとき、……っ手を、握られて、怖くて、気持ち悪くて、っ」
 智の呼吸が浅くなり、手が震え、額に汗が滲みだした。やはり人に触れられることがだめなのだ、とハルは改めて認識する。こんなときこそ、優しくハグして癒してあげたい、無理ならせめて背中をさするぐらいはしてあげたいのに、それも叶わないということだ。落胆すると同時に、智を苦しめた相手へ憤りの炎が激しく燃えさかる。
「しんどかったんやな」
 努めて優しく、ゆっくりと声を掛けると、智はゆっくりとハルと視線を合わせた。すると思い詰めたような虚ろだった瞳に、輝きが戻ってきた。
「久慈くん……」
「大丈夫か。俺に出来ることやったら何でもするから、言うて」
「うんっ、もう大丈夫」
「ホンマかいな」
「うん。久慈くんの顔見たら、平気になった」
「なんやそれ」
「ふふっ、なんだろうねえ。久慈くん魔法使いか何かなの?」
 屈託のない笑顔が戻ってきた。喜びと同時に、この笑顔を他の誰のものにもしたくない気持ちが湧き上がる。智を落ち着かせるという最優先ミッションがクリアされ、次に気になるのは、ついに男からも告白されてしまったという事実と、相手の存在だ。男子校だからとおちおち油断していられないという焦り、自分以外にも智の魅力に気づく男が現れたことへの苛立ち、そしてさきほどの智の様子。精神的に瀕死だった状況から、ハルに会えたことで元気を取り戻した様を思い出すと、自惚れてしまいそうになる。
 もう、言ってしまいたい、誰かにとられる前に。ほんの少しの勝算も手伝って、ハルの『この恋は墓場まで持って行く』という決意が今、最大限に揺れ動いていた。けれども智に怖い思いをさせはしないか、これまでの関係も全て失ってしまうのではないか、と考えると、リスクが高すぎて二の足を踏んでしまう。やはり今の「一番近しい存在」に甘んじるのが得策なのだろう、とも思う。なのに。
「永倉は好きな子おらんの?」
「え、ん、いない、よ」
 さっ、と目を逸らされ、歯切れの悪い答え。
「俺は、永倉のこと好きやで」
 ――言ってしまった。
「言うてもた」の五文字で脳内は完全に支配されてしまった。後悔はしていないが言って良かったとも思えない。一度発してしまった言葉は元には戻らず、智の反応を待つよりほかない。
「ありがと。僕も大好きだよ!」
 智の反応は無邪気なもので、きっとこれはハルの『好き』とは種類が違う。ここで終わっておけば幸い、友達同士の『好き』なのだということでごまかせておけるのに、ハルはなぜだか誤解されたままでいたくなくなってしまった。
「いや、そういう意味やのうて」
「?」
「そういう『好き』やないねん……ごめん、永倉のこと、その……付き合いたいとか、そういう目で見てた」
 智からは返答がない。おそるおそる顔を上げると、智はもともとまんまるな目をさらに丸く大きく見開き、何か言わなきゃ、と焦っているかのように唇が震えている。
 懸命に言葉を紡ごうとしているようだが、視線の先は地面に落ちてしまった。
「……あ、えっと、」
 ようやく智の口から出た声は、ひどく掠れていた。狼狽しているのがありありと感じ取られ、ハルは余計なことを言ってしまったとあらためて後悔した。困らせたくて言ったわけではないのだ。冗談だったと笑い飛ばすべきか、と思ったとき。
「んと、ね、……うまく言えないし、僕の気持ちもよくわからないんだけど」
「うん」
「ぼ、くは、……」
 天を仰いだと思えば、また視線はつま先に。何度も何度も繰り返す。何度も言葉に詰まり、途切れ途切れになりながら、絞り出すように紡がれる智の言葉を、一語たりとも聞き逃すまいと、ハルは全身全霊を傾けて聴き入った。
「僕は……久慈くんと同じ気持ちかどうか、はわからない、でも……今まで通り、で、いたいとは思う……」
 ハルにとっては充分だった。今まで通りでいたい、とはある意味この上なく幸せな返事ではないか。これからも、智の一番近い場所で、壊れることのない『友達』という関係の最上位に君臨していられればいい、この先もずっと喜んで飼い殺され続けよう、とハルは腹を括った。
「ありがとう。ごめんな、困らして」
「ううん……僕こそ、なんだか煮え切らなくってごめんね。でも好きって言ってもらえたの、嬉しかったよ」
「……そっか」
 智のその一言で、充分過ぎるぐらい、身の丈に合わないほどの幸せを得た気持ちになった。