暗いうちから出発したというのに、太陽はもう真上近くに位置している。道のりを進めば進むほど緑が目に眩しいほど色濃くなってきて、山道を自転車で進む二人を陽射しは容赦なく照らし、アスファルトに濃い影を落とす。
「ちょっと休ませて」
「またか~? 日ィ暮れてまうで」
 長い間水泳を続けていたハルと勉強しかしてこなかった智、体力差は歴然である。
 道ばたに自転車を停め、その傍らに腰を下ろす。アスファルトに直に座ると、尻が焼けそうだ。ぐびぐびと、汗をかいたペットボトルから水を飲む智をじっと見つめる。飲むたびに大きな喉仏が上下に動いて、かわいらしく見えても自分と同じ男なんだな、と改めて感じた。どうして同性を好きになったのだろう、と疑問に思ったし、決してかなわない恋に落ちたことを落胆したこともあったが、今はもうそんなことどうでもよくなった。ただ、好きになったのが、智だった。ただ、それだけ。
「ごめんね、行こうか」
 正面を向いた智の鼻は真っ赤で、ハルは思わず吹きだしてしまった。ハルが前、智が後ろと並んで走っていたので気づかなかったが、智はとんでもなく日焼けしていたのだ。
「な、何だよ?」
「日焼け止めとか塗ってこんかったん?」
「え、うん」
「あかんやん、鼻真っ赤やで」
 話の流れで冗談ぽくつん、と鼻をつついてしまった直後、しまった、と思った。忘れていたが智はたぶん、他人に触れられるのが怖いのだった。
 ――?
 どんな反応をされるかビクビクしていたが、智は照れたように笑っていた。
「うっかりしてたなあ。久慈くんは塗ってきた?」
 触れられたことに大して反応は見られず、ハルは胸を撫で下ろした。
「当然。今更かもしらんけど、ほら」
 持ってきた日焼け止めクリームを渡すと、智は喜んで顔に塗りたくっていたが、よく見ると無防備すぎる肩や腕も真っ赤である。
「首のうしろとかもえらいことなってるけど…………塗ったろか?」
「えっ? あ、んっと…………じゃあ、お願いしようかな」
 かなりの迷いが感じ取れる返事までの妙な間が気になったが、お願いされたことだし、とハルはクリームをチューブから指先に出し、掌全体にのばした。そして智のうなじから頸椎にかけて、掌全体を使ってクリームをなじませていった。熱く火照った肌にはじっとりと汗が滲んでおり、その上をクリームが滑っていく。掌から伝わる智の熱に、ハルはどんなエロ動画を観ている時よりも興奮してしまって、身体の一部に変化の兆しが――
「な、なあ! ところで今授業ってどこまで進んでる?」
 あえて全く関係のないこと、あえて全く興味のないことを話題にして気を紛らそうという作戦に出た。
「今、って……今夏休みだよ? それになんの授業のこと? 現代文? 数学?」
「いや……やっぱなんもない」
 智の冷静な突っ込みのおかげで、心身共にスンとなったハルは無事クリーム塗りの仕事を終え、二人は再び自転車に跨がった。

 そんなこんなでキャンプ場に着いたのが夕方近く。まだまだ陽は高いが、木陰を吹く風は昼間より随分涼しげで爽やかだ。手続きを済ませて、自分たちに割り振られたテントへ。常設ウッドデッキの上にテントが張られている。二人用の最低予算で申し込んだため、思ったよりも小さかった。
 共同の炊事場を使って下ごしらえを済ませた後は、テントの横の飯ごうでご飯を炊き、カレーを煮込んだ。
「キャンプいうたらやっぱカレーやなあ」
「美味しくできたね! 全部久慈くんにやってもらったけど」
 はふはふとふたりで出来上がったカレーに舌鼓を打つ。ご飯のおこげも全部きれいに食べ尽くした。
「ほんと久慈くんって何でも出来るよね。すごいなあ」
「勉強は全然できひんけどな」
「勉強だけできてもねえ」
「それ嫌味なん?」
 太陽が傾いてきた。空がオレンジ、ピンク、そして群青色のグラデーションを描く。
「見て! すごい」
「きれいな夕焼けやなあ。明日もよう晴れるわ」
 キャンプ場は山手にあるため、空がより一層近くに見えるし、眼下には平野が一望できる。この景色を見ただけで、来て良かったと思えるほどである。
「シャワー行ってきたら?」
「うん、そうする」
 食事の後片付けが済んで、交代で共用のシャワーに向かう。一人はテント番だ。智を先に行かせた後、ハルは一人テントの中で寝ころがった。思えば今日一日、ずっと気を張っていた。キャンプもサイクリングも初めての智をきちんとアシストしなければ、という責任感、カッコいいところを見せたいという気持ち、一緒に非日常を過ごす高揚感。それら全部が心地よい疲労となって、気を抜いた拍子に一斉にハルめがけて押し寄せた。
「んぁっ」
 うたた寝をしてしまっていたらしい、すっかりあたりは真っ暗である。遠くから虫の鳴き声や夜の生物たちの声が聞こえ、山ならではの肌寒いぐらいに涼しい風が吹いている。
「起きた?」
 ハルの叫びを聞きつけ、外から智がひょっこりとテントに顔を突っ込んできた。
「あ、ああ、寝てもてたんか」
「疲れたもんねえ。ご飯も作ってくれたし」
「何してたん?」
「見てみて!」
 智に手招きされ外に出てみると、頭上には周囲に明かりがなく真っ暗であるのと山の澄んだ大気とによって、驚くほどの星が椀状に散らばっていた。そして眼下には普段生活している街並みの、夜の顔。平野一体の夜景を見渡すことが出来た。
「うわあ! これ見とったん?」
「うん、星って『瞬く』って言うけど、本当なんだね。じっと見てるときらきら点滅してるみたいになるんだ」
 景色よりも、星のように瞬き、星のように煌めく智の瞳を見てしまうハルだった。
「こんな景色を見たら、昼間の疲れも吹き飛んじゃった」
「そうか。よかった」
「ありがとうね、久慈くん」
「ん?」
「連れてきてくれて。今日一日、はじめてのことばかりだったけど、すっごく楽しい!」
「……あぁ」
 暗闇の中、月に照らされる智の笑顔が眩しすぎて、こんな風に言ってくれたことが嬉しすぎて、ハルには呆けた返事をするのが精一杯だった。涙が出そうになるほど、嬉しくて。
「でも久慈くんにとっては足手まといだったよね、ごめんね」
「全然そんなことないて! 永倉と来れて、俺も、めっちゃ、……楽しいし」
 ひんやりとした夜なのに、大量の汗が滲み、カンカン照りだった昼間のように熱くなってきた。きっと真っ赤な顔をしているだろうが、幸い夜の帳が隠してくれる。
「ならよかった。また来たいね」
「ん、せやな。……ちょっと冷えてきたし、テント入り。俺シャワーまだやったわ。先寝ててええからな」
「うん、いってらっしゃい」

 ハルがシャワーから戻ると、智は横になってはいたが目を開けていた。
「まだ起きとったん」
「うん、なんだか寝付けなくって」
「枕が変わったら寝られへん、てやつか? デリケートやな」
「ねえ、久慈くんってさ」
「ん?」
「女の子と付き合ったことある?」
 修学旅行よろしく、夜の恋バナが始まるようだ。智がこの手の話題を振ってくるのは非常に珍しかった。
「あっ、あるわけないやろ?! こんなずっと一緒におるのに」
「だよねえ」
「どないしたん……付き合うん?」
「ち、違うよ! ただ周りでそういう話、よく聞くようになったからさ……久慈くんのところ、共学だし、久慈くんモテそうだし」
 確かに高校に上がって、周囲で彼女が出来たという話や、告白しただされただという話題はよく耳にするようになった。だが残念ながらハルには無縁の世界だったし、興味もなかった。
「は? どこがやねん」
「だってすっごい優しいし! なんでも出来るし、それに、……」
「何やねん」
「…………かっこいいし」
「はぁ?」
「カッコいいじゃん! 腕とか脚とかさあ、僕のと同じものとは思えないよ! 僕のふくらはぎこんな子持ちししゃもみたいになってないし、ほら」
 そう言ってハルの短パンから丸出しのふくらはぎを指さすと、智は次に自分のスエットの長ズボンをまくってふくらはぎを出した。たしかに智の脚は起伏がなく、テーブルの脚のように細くてつるんとまっすぐだった。
「こんなもんちょっと筋トレしたらすぐなるわ」
 無愛想に言いながらも、ハルの目は小学生の時以来に見る智の生足に釘付けだ。
「もし久慈くんが誰かと付き合うことになったら、すぐ教えてね」
「んなことならへんて。なるとしたら永倉の方が先やろ」
「ええっ、そんなことないよ! 男子校だし」
「こないだ告られとったやないか。俺はまだ一回も告られたことなんかないっちゅうねん」
 もしどちらかに恋人が出来れば、当然一緒に行き帰りはしなくなるのだろうし、休みの日には恋人と過ごすようになり、会えなくなるのだろう。そのうち疎遠になってしまうのかもしれない。ハルは急に現実を突きつけられた、否、頭ではうすうすわかっていたが目を背けてきた事実だ。それも致し方なし、と懸命に自分に言い聞かせる。だって男同士だから。ハルが智の恋人になれるという未来はないのだから。
「もう寝るわ……早よ脚しまえよ、冷えるで」
 ハルはまだ片方だけまくり上げたままの智の脚を指差して言うと、くるりと智に背を向けた。

 翌日も、早起きして山頂からの日の出を見て、玉子やソーセージを焼いて持ってきた食パンで挟んで食べて、とキャンプを満喫していたが、この楽しい時間が刻一刻と終わりに近づいていくのを次第に強く感じ、ハルは少しずつ気分が沈んでいった。
「ぼちぼち帰りだそか。また長い道のりやしな」
「行きほどは休憩しないよう頑張るよ」
 智が言った通り、帰りはそれほど休憩を挟まず順調に進み、あっという間に家の近くまで来てしまった。とても早く感じるのは、本当にかかった時間の長さ以上に、ハルの心にある名残惜しい気持ちのせいかもしれない。
「どっか寄って冷たいもんでも飲まへん?」
 離れがたくて、最後の悪あがきにそんな提案をしてみる。智はもちろん快諾、近くのファストフード店に入った。
「あっという間だったね」
「せやなあ」
「楽しかったなあ」
「そらよかった。これから毎年行こうや」
「う、ん……あの、実はね」
 持っていたオレンジジュースを置いて智がやけに改まって切り出すものだから、ハルも自然とストローから口を離して聴く姿勢に向き直った。
「久慈くんは、高校を卒業したら、どうするの?」
 話の流れが急展開でハルは面食らうが、訊かれている質問には答えなければ。
「働くか専門ガッコかなあ~って。まだ全然ちゃんと考えてへんけど」
「じゃあさ、あの、これはあくまでひとつの提案なんだけど、」
「うん」
「高校を卒業したら、その……い、一緒の部屋に住まない?」
「ファッ?!」
 すっ頓狂な声が店内いっぱいに響き、一斉の注目を浴びることとなってしまった。
「ご、ごめん、急に変なこと言って」
「い、いや」
 ハルの顔が真っ赤だが、注目されて恥ずかしいのとは別に原因がありそうだ。
「僕ね、たぶん大学は一人暮らしになると思うんだよ。受かればの話だけど」
 智の次なる目標は国内有数の超難関私大だそうで、なんでも父親が出た大学と同じところへいくようにと、またも親のレールが敷かれているらしい。そこは到底自宅から通える距離ではなく、必然的に一人暮らしを余儀なくされるというのだ。そこの大学はどんな校風で、とか、どんな学部があって、とか智は話しているが、ハルは卒業後離ればなれになるという事実にしか気持ちを向けられず、智の話に全く集中できなくなってしまった。
「でも僕、昨日今日と久慈くんと一緒にいて、っていうか、ずっと一緒だったじゃない? これからも一緒にいたいなあって思ったんだ。離れたくないなあって」
 これは告白なのであろうか? いやいや自分の脳みそがバグっているのか? 思いも寄らぬ展開に、ハルの脳は処理が追いつかない。
「だからもし久慈くんさえ良かったら、まだ何も進路が決まってないんだったら、って思わず言っちゃったけど、無茶だよねえ」
 ごめんね、と頭をかきかき謝る智はまたも愛らしく、ハルはぽんこつと化した脳で考える。こんな可愛い男を一人暮らしさせていいのか。どんな悪い虫が付くかわからない、どこの馬の骨ともわからんぽっと出のヤツが、横から智をかっさらっていくかもしれないのだ、と。
「……ええよ」
「えっ?」
「しよ、ふたり暮らし」
「ほんとに?」
「永倉みたいなどんくさいの、心配で一人にできひんし」
「ひど! でもそうだよね、久慈くんには昔っからずっとお世話になりっぱなしで」
 えへへと笑う智を今すぐ抱きしめたい衝動を必死で抑えつけながら、「ほんまやで」と口を尖らせわざと冷たく言い放った。