四月。二人は別々の制服を着て、同じ電車に乗っていた。智は念願の国内屈指の超難関中学に無事合格、ハルは生まれたときから決まっていた進学先へと進むことになった。少しだけハルが時間を早めて同じ電車に乗り、少しだけ智が回り道をして一緒に登校した。
「じゃあ久慈くんは部活何も入らないんだ?」
「ん~、特に入りたいクラブないねんなあ。永倉は?」
「実は僕も……園芸部に入りたかったんだけど、なくって。入るとしたら自然科学とかかなぁ……。久慈くんは何に入りたかったの?」
「俺は別に何に入りたかったとかはないねんけど……」
 本音の理由は、智との時間が減るのがいやだった、ただそれだけだ。
「そっか。じゃあずっと一緒に帰れるね」
 智のハルに向ける微笑みが、出会った当初よりも随分と柔らかくなったな、とハルは思う。事実、あじさいの出会いから二年を経て、ふたりはとても大人びた。紺の詰襟を纏う智はさらに身長が伸び、電車の乗降時などは頭上に細心の注意を払わなければならないし、黒の詰襟に身を包んだハルは幼い頃からずっと水泳を続けており、身長こそ伸び悩んでいるものの、出会ったときのような貧相な体格とは見違えるように逞しい体つきに成長していた。
 電車の揺れで、ハルの肩が隣り合う智の肩と密着する。ぎゅうぎゅうに混み合う車内では、当たり前に起こることなのだが、がさつく硬い制服の生地越しにも伝わってくる智の体温に、ハルは心乱されてしまうのだった。

 毎週土日のどちらかは共に時間を過ごすようになったふたり。相変わらず何かを創ってみたり、ぼーっと景色を眺めてみたり、そんな風に過ごしながら、学校であったことや家族との出来事など、他愛のない話をしたりしなかったりした。沈黙が訪れてもハルが怯えることはもうなくなった。智と一緒の空間は緊張する場所ではなく、安らぎの場へと変化していたからだ。
 だがそんな居心地の良さが一転する出来事が起きる。
 その日のふたりは木材で椅子を創っていた。ノコギリを引き、カンナで削って、電動ドライバーでビスを打っていく。大きさの割に作業は単純である上に、素材そのものの味を活かすべく塗装をしないことにしたので、一日で出来上がった。工具の後片付けと部屋の掃除を終えて、電灯を消し、鍵を閉める時に、背後にいたハルは智の肩に木くずが付いているのを発見した。
「待って、ゴミつい――」
 智の肩に手を乗せた瞬間、智が恐ろしい速さで後ずさりした。肩で息をしながら振り返る智の形相はかっと目を見開き何か恐ろしい物を見たような形相で、ハルの方が驚いてしまう。
「……えっ……?」
「……! っ、ごめん、ゴミがどうかしたんだっけ」
「いや、それよりどないしたん?」
「な、何でもないよ、早く帰ろう?」
 一瞬でいつもの智に戻ったが、心なしかいつもより一歩距離があるような気がしてしまう。ハルはその後いつも通りに接したけれど、智の態度はなんとなくよそよそしく感じられ、ふたりの間に隙間風が吹いているような孤独がハルの胸に押し寄せた。

 何があったのか。
 何がいけなかったのか。
 ハルは智と別れた後、ずっと考えた。家路につく道すがらも、夕食時も、入浴時も。
「……はぁ~~~~~……」
 風呂から上がってもまだ深いため息をつくハルに、見かねた母が水の入ったコップを手渡しながら声を掛ける。
「なんやのんなもう辛気くっさいなあ。今日帰ってきてからずっとやろ」
 ハルは友人に触れたらものすごい拒絶を受けた、というような話を簡単に母に伝えた。母は素っ気なく、「傷つけてしまったと思うなら謝って、この先も仲良くしたいなら話し合ったら?」とだけ答えた。
 寝床についても眠れなくて、脳があの時のことを何度も何度も再現してしまう。あんなふうに拒絶しなくても、とモヤモヤする気持ちもなくはない。けれどもまた同じことを起こさないためにも、やはり話し合うべきなのだろう。
 それとはまた別のモヤモヤも、ハルの胸中には生まれていた。何気なく手を置いた智の肩から伝わってきた温もりや匂いを思い出すと、どうしようもなくドキドキと鼓動が速まった。もっと触れたい、別の所にも触れてみたい、という欲が後から後から湧き出てきてしまう。もう触れてはいけないという気持ちともっと触れたいという気持ち、ふたつの相反する感情に、ハルは頭を抱えた。

「おはよう」
 翌朝の智は全くいつも通りで、朗らかに挨拶をしてきた。人の気も知らないで、とほとんど眠れなかったハルは少しだけ憎らしく思う。
「あのな、昨日のことやねんけど……」
「う、ん」
 話題を持ち出すと、智にもぴりっとした空気が生まれた。
「いきなり触ってびっくりさせてしもたんやんな、ごめんな。これから気ぃつける」
 眠れなかった昨夜、ハルなりにネットで調べたところ、接触恐怖症というものがあると知り、智ももしかしたらこれなのかもしれないと思った。もしそうならひどいことをした、謝らなければ、という考えに至ったのだった。
「あ、うん、僕の方こそ、ごめん……嫌な気持ちになったよね」
「ん、いや」
 嫌な気持ち、というより、傷ついた、ショックを受けた、という言葉のほうがハルの心境を表わすに相応しい。好意を寄せる相手から激しく拒絶されたのだから。だがもう、いい。互いに謝ったし、この関係を崩さないこと・この先も仲良くし続けることが最優先事項だ。
 そんな一件があってから、皮肉なことにハルの『智に触れたい欲』は日増しにスピードを上げて成長していく。ここらへんでもうハルは自覚していた。智のことを恋愛対象として見ているのだと。そしてその想いは墓場まで持って行くとも決めていた。こんな気持ちを智に知られてしまったら、あの時の拒絶程度では済まないだろう、きっと絶交されてしまう、と恐れ怯えていたから。ただただ智にとって一番近くの、いつも一緒にいられる、そんな相手でありたい。それでじゅうぶんだ、と自分に言い聞かせるハルだった。
「久慈くん! 降りるよ」
 悶々と考え込んでいたらいつの間にか降車駅に着いていて、智がハルの袖を引っ張り扉へ向かおうとしている。
「あああもう……!」
 決意したばかりなのに、そんなことをされたら。思わず苦悩の声が漏れてしまった。
「あ、引っ張っちゃってごめんね!」
 ハッとして智が袖を離した。誤解を与えてしまったようだ。
「いや、ちゃう、ぼーっとしてて……ごめん」
 意識し始めてしまったが最後、智と一緒にいるときのハルは調子が狂いっぱなしになってしまった。いや、いないときでもだ。家にいても智のことばかり考えてしまって、明日の通学時には何を話そうか、授業の予習はしないくせに通学時の話題だけは入念に準備してみたり、やり場のない想いに押しつぶされそうになってため息ばかりが増えた。そして精通を迎えた後は、夜な夜な智で抜いた。抜いた後は、純真無垢な智を脳内で汚したことを激しく後悔するのはわかっているのに、やめられないのだった。きらきらと輝く澄んだ瞳には、綺麗なものしか映さないでいて欲しいし、生涯一点の汚れもないままでいて欲しい、そんな自分勝手で滅茶苦茶な願望を、智に対して抱くハルだった。
 そんな複雑な想いを抱えながらも、ハルは智と毎日の登下校を続けるのだった。