いつも遅刻ギリギリだった久慈少年がやたらと早く登校するようになったのは、その翌日から。智がいつも早く登校して、係でも委員でもないのに自ら進んで花に水をやっているのを知っていたからだ。
「お、俺も手伝おか……?」
 偶然今日はたまたま早く来た、という体で智に話しかけ、おそるおそる手伝いを申し出ると、智は快諾した。校庭にはまだ人もおらず、静かな朝。二人でじょうろに水を汲み、花に水をやる。ただそれだけの地味な作業である。
「いつも水やりの後はこっちも見に来るんだ」
 水やりが済んで、ハルが智に案内されたのは飼育小屋。ウサギとニワトリとアヒルが飼育されている。
「この子たちのお世話はしてないけど、毎日こうやって様子を見てるんだ。かわいいなあ」
 花を愛でるときと同じ、慈愛に満ちた眼差しでじっと動物たちを見つめる智を見ていると、ハルは動物たちが羨ましいような、憎らしいような気持ちになった。あんな温かい眼差しを自分にも向けてくれないだろうか、と本能的に思い、ずっとこうして智を見ていたいなあと願った瞬間、無情にも予鈴が鳴る。
「な、なあ、今日も一緒に帰れる?」
「うん、いいよー」
 智はにっこり笑って答えてくれたが、この微笑みではない、これは花や動物を慈しむ時のそれとは違って、表面的ないわゆる愛想笑いというやつだ、とハルは直感的に気(け)取(ど)った。
 放課後、ハルが智の教室にすっ飛んでいって、二人で下校することに相成るわけだが、昨日一通り自己紹介的な話題が出尽くしてしまっており、話題に困ることに。家の場所や家族構成、入っているクラブなどの話はした。あとは何を。沈黙が怖くて焦るハルが隣の智をちらりと見ると、智は特に困りも焦りもしていない様子で歩いている。伏し目がちの大きな瞳と、僅かに上がった口角が育ちの良さを感じさせた。黒目が小さくつり上がった目、大きな口に薄い唇を持つハルとは正反対の顔立ち。それゆえに惹かれてしまうのかもしれない。
「永倉っていっつも何して遊んでんの?」
「遊ぶ?」
「ん、友達とかと」
「うーん、あんまり友達とは遊ばないかなあ」
 天を仰いで考え込むその姿すら、ハルにはとても尊いもののように見えてしまい、鼓動が速まった。
「なんで?」
「なんでだろ、特に理由はないけど……」
「ほ、ほな、俺と遊ぼ?」
「え?」
「一旦家にランドセル置いて、また集まろ」
「う、うん……?」
 小学五年生、相手の様子を見ながら時間をかけて距離を詰め、徐々に懐に入るなどという高等テクニックは持ち合わせていない。近づきたいと思ったら猪突猛進である。ハルはぐいぐい智との距離を詰めた。
 約束通り一旦帰宅してまたすぐ集まった二人だが、さて何をして遊ぶのか。
「久慈くんはいつもどんな遊びをしてるの?」
「俺はおにご(鬼ごっこのこと)とかケイドロとか……」
 ハルは主にひたすら外で走り回る遊びを好んだ。特に約束もしていないがなんとなく公園に集まった子どもたちと、なんとなく始まるのが常だった。中には全く知らない子もいたが、気にせず遊んだ。そして帰りたくなったらそれぞれ適当に帰って行く。ほぼ毎日そんな感じだった。
「そう……」
 だがその答えを聞いた智は俯いてしまった。
「永倉はあんまりせえへん? そういうの」
「うん、僕はだいたい一人で本を読んでることが多いかな。あとは草とか花とか川とかぼーっと見てる。いろんな発見があって面白いんだよ!」
 瞳をキラキラさせて智がプレゼンしてくるが、ハルはじっとしていることが嫌いな子どもだったので、智との遊びが全く合わないじゃないか、と焦ってしまう。だがここで引き下がるわけにはいかない。一年ただ眺めることしか出来なかった相手とようやくこうして言葉を交わし合える仲になったのだ、これを弾みにもっともっとお近づきにならなければ。
「そ、そう? ほな俺もやってみよかな」
 その後ずっと、その辺に生えている草やただただ流れる水を見て過ごした。正直なところ、ハルにとっては非常に退屈な時間だったが、その間智を見て、智と話すことが出来たので、不満はなかった。熱っぽくプレゼンしただけあって智はとてもいきいきとしていたし、自然にまつわる豆知識なんかも得意げに披露してくれた。普段は少しおどおどしたような控えめな印象を受ける振る舞いの彼が、そんな風にのびのびと饒舌に話している様子はとても斬新で、智の新たな一面を見ることが出来たハルはとても満足だった。
 やがてあたりがうすぼんやりと暮れなずみ、別れの時を知らせる。
「あ、明日も遊べる?」
「明日は塾なんだ、ごめんね」
「ふうん……塾、か」
 智がとても成績優秀なことはハルも知っている。そりゃ塾ぐらい行っていても不思議ではないよな、と納得する一方、勉強系の習い事などひとつもしていないハルにとって、智が別の世界の人間だとまたも思い知らされる場面であった。

「もう五年やし、俺も塾ぐらい行ったほうがええんかなあ」
 夕食時、ハルがそんなことを言い出すと、母は神妙な面持ちでハルの額に手を当てた。
「ご飯に何か変なモン入ってたか?」
 家族がそんな反応を示してしまうぐらいに、普段ハルは勉強をしなかった。体育をはじめ副教科はずば抜けて優秀だが、主となる教科の成績はさんざんなものだった。
「友達が塾行き始めたん?」
「ん、なんか住む世界の違う子と友達になったっていうか」
「そう。刺激受けるんはええけど、背伸びしてまで無理に付き合うんはやめときや」
「うん……」
「母ちゃん、ハルはハルらしいまんまでおってほしいなあ」
 そう言って母がハルを羽交い締めにして頬擦りしてきたので、ハルは必死にもがいて母の腕からすり抜けた。

 ハルは一週間のうち、智が塾に通う二日だけは今まで通り外で駆けずり回り、塾がない日は智と遊んだ。
 そんな日々が三月ほど続き、たまたま夏休みの宿題で作った貯金箱を持ち帰る際、智に作品を見られ、大絶賛を受けることとなる。紙粘土で作ったその貯金箱は海中の世界に海の生きものがぎゅっと詰め込まれたようなもので、コインを入れると簡単な仕掛けが発生するつくりになっており、学校からコンクールに出品されグランプリを獲得した作品でもある。
「すっ……ごいねえ……! これ全部久慈くん一人で作ったの?」
「う、ん、まあな」
「へええ……すっごくステキだねえ! 触ってもいい?」
「ん、ええよ」
 智の瞳は道ばたに咲いている綺麗な花を発見したり、水面の煌めきを見つめたりするときと同じ輝きを放っていた。自然が好きだというわけではなく、綺麗なもの、美しいもの、可愛いもの、全般が好きなのだな、とハルは新たに智データを更新した。
「色の塗り方もとっても丁寧だし、ほんとすごいなあ。僕なんかお菓子の空き箱に折り紙貼っただけで出したよ」
 貯金箱は夏休みの宿題として全員に提出が課されている。智はこういうのは苦手なようだ。
「な、なんか一緒に作ってみぃひん……?」
 遊びの共通点が見つからなくて焦り困るハルが、藁にも縋る思いで出した提案だった。
「ほんと? 教えてくれる?」
 智は引くぐらいに食いついてきて、二人はすぐに図書館へ向かった。簡単な粘土細工の本を借りて、自由に使える工作スペースで、二人して粘土を捏ねた。
 一日では完成に至らず、二人はその後何度も何度も図書館へ通い詰めては作業を進めた。

「できた!」
 前回のニス塗りから三日、作り始めてからは一か月ほどかかっただろうか。ついに二人の作品が完成した。それぞれ二頭身ぐらいのおすわりしたくまの貯金箱を作ったが、仕上がりは雲泥の差だった。智のが塗り方も雑でかたちもややいびつであるのに対し、ハルのものは形が整っていて塗り方がきれいなのはもちろんのこと、ヘラで毛の質感まで再現していたし、目玉にはビー玉を使ってそれはそれはリアルなものになっていた。リアルすぎてあまり可愛げが無く、可愛さ・とっつきやすさで言うと智の作品の方が優っているかもしれない。
「下手くそだけど、嬉しいね」
「下手ちゃうよ、可愛いし」
「ふふ、ありがとう」
 智は一人で一から作り上げた作品が愛おしくて仕方がないようで、上から下から斜めから、自分の作品を眺めまくっている。
「お、俺、昔からけっこうこんなん作ってんねんやん……」
「ほんと? もっといっぱいあるの?」
「家にいっぱいあるで」
「わあ……見たいなあ……」
「…………うち……来る?」
「いいの?」
 ものは試しで釣り糸を垂らしてみたら、見事に食いついてくれた。

「ただいまあ! 友達連れてきた!」
 ハルの家は古くからある大きな寺だった。智も存在ぐらいは知っている。はちゃめちゃに靴を脱ぎ散らかして板張りの廊下をどんどん進んでいくハル、のうしろから、靴を揃えて慌てて智がついて行く。
「お邪魔します、永倉智です、こんにちは」
 ぺこりと頭を下げる智を見て、母はすぐにハルの言う『住む世界の違う友達』が彼であることを悟った。
「こんにちは! いらっしゃい、ゆっくりしてってな。あとでおやつ持って行くわな」
 母が答えると、智は柔らかく微笑んで一礼した。栗色の真っ直ぐな髪に肌は白く、長く濃い睫毛が大きな黒目を覆っている。見るからに利発そうで育ちの良さそうな立ち居振る舞いに、そりゃ子どもでも住む世界が違うと感じるのも無理はない、と母は妙に納得した。
 ハルの部屋にはハルが言ったとおり、たくさんの工作が壁一面に飾られていた。ほんの幼い頃に作ったものから全部取ってあるのだろう、完成度にかなりのばらつきがある。
「わあ……! ほんとにすごいね、こんなにたくさんあるんだ」
「雨の日は外で遊ばれへんから、こんなん作っててん」
 粘土だけではなく、ボール紙、木材、あらゆる素材で創られた作品の数々に、智はひとつひとつ見入っていき、口を開けたまま二十分ほど無言で作品を鑑賞していた。
「おやつどうぞ」
 母がトレイにお菓子やジュースを乗せて部屋に入ってきたときも、智は部屋の真ん中に突っ立って壁面を見つめており、母は何をしているのかとぎょっとした。
「ありがとうございます」
 母の登場で我に返り、智はハルとローテーブルを挟んで向かいに腰を下ろした。
「今日は久慈くんの作品を見せてもらいに来たんです。すごいですね、カッコいいなあ」
 興奮気味に話しかけてくる智は、さきほど初対面の挨拶を交わしたときの礼儀正しい少年とは違う、年相応の幼い印象を与えた。
「そうお? よかったなあハル」
 母がにっこにこでハルの頭をぐしゃぐしゃと撫でくり回すと、ハルはぎゃあぎゃあわめきながらその手から逃れた。それを見て母はさらに声を上げて笑った。
「お母さんと仲いいんだね」
「ええことあるかい! 嫌がらせやろこんなもん」
 ぜえはあと息を切らしながら憎らしげにハルは答えたが、隣の母は満面の笑みでうんうんと頷いている。
 その日はなんと夕食まで共にすることになり、ハルの母が智の家に連絡を入れ、最終的に自宅まで送っていくという事態になった。智の母は初対面のハル親子に、あからさまに品定めをするような不躾な視線をぶつけてきたが、「然嶽寺の久慈です」と告げるやいなや、態度が豹変した。
「はあ、然嶽寺って、あの……?」
 わかりやすい智の母をビビらせるに充分なだけのネームバリューや威厳が、ハルの実家・然嶽寺にはあった。あ、あらそうなの~、これからもよろしくね、だなんて急に声色が変わった母を、隣の智は半ば呆れたように見ていた。

 六年生の二学期になると通塾の日数はさらに増え、七日のうち五日塾に通うことになった智。夏休みにはほぼ毎日夏期講習があり、さらに合宿も。目の回る忙しさで、当然ハルと過ごす時間は減る。
「最近めちゃくちゃ頑張ってるけど、なんでなん?」
 この時期になってハルがのんきな質問を投げかけると、
「僕ね、中学は公立に上がらないんだ。私立の遠い中学に入るために今受験勉強してて」
 そう答えた智は疲れているように見えたし、本意ではないようにも見えた。
「ああ! そうなんや~頑張ってな! 応援してるで」
 あけすけなハルの返答に、智の表情は歪んだ。
「でも、本当にそれでいいのか、わかんなくなってきちゃった。なんで受験しないといけないんだろうって考え始めちゃって」
 ただ母から、中学はあそこに行くのよ、と言われて、何の疑いもなくその目標に向かって勉強に励んできたが、ほとんどの子はそのまま近所の公立中学に上がる。どうして僕はそうじゃないんだろう、と今になって疑問が頭をもたげてきたのだという。
「ずっとお母さんから言われるとおりに受験勉強頑張ってきたけど、今更、公立に行きたいなって思うようになって」
「そうなん? 俺も私立行くから仲間やーって思ったんやけど」
「そうなの?」
「うん、俺ん家はもう代々、中学からはここに入る、っていう仏教系の学校があってな、生まれたときから決まってるねん」
 学校の名前を聞くと、なるほど偏差値はそれほど高くなく、さらに代々の太いパイプがあるから、偏差値がいくつであれ入学は約束されているようなものなのだ。
「そっか……久慈くんも私立行っちゃうのか。じゃあ僕もこのまま頑張ろうかなあ」
「ん、頑張るんやったら全力で応援するで!」
「うん、久慈くんに打ち明けた以上、絶対に落ちるわけにはいかないしね」
 ハルが入る予定の中学と智が目指す中学とは、近い場所にあった。うまくいけば、登下校を共にできるかもしれない。